FILE13
「この間はご馳走様でした。あ、これ、つまらない物だけどお土産です…」
アパートの居間でテーブルを挟み、俺の母と正座して向かい合ったビャクヤは、紙袋に詰め込んだ自家製ハーブを母に差し
出した。
「あらあら。ごめんなさいねぇ、気を遣わせちゃって。ありがたく頂くわね」
紙袋を受け取った母に、ビャクヤは神妙な顔で切り出す。
「ケイコさん。実は、あなた方今後の事について、僕から提案があります」
「…ビャクヤさんが昔住んでいた街…?」
目を丸くして聞き返した母に、ビャクヤは静かに頷いた。
「ええ。偶然にもヨルヒコ君の進学先は、彼らの縄張り内です。あの辺りなら僕の昔の仲間達の保護を受けられる…。あなた
方が望むなら、僕があちらと交渉してみます」
ビャクヤの提案とは、つまり俺達親子の身の安全についての事だった。
彼が昔住んでいた街で、彼のかつての仲間達…、つまり他のライカンスロープ達と共に暮らさないかという提案。
彼が示したのは、表向きの生活で人間社会に溶け込んで暮らすにも、裏側の生活でライカンスロープとして過ごすにも、そ
の仲間達と助け合い、協力しあってゆくという生き方だった…。
「そうねえ…。ヨルヒコの今後の為にも、できるならその方が良いのかもしれないわね…」
「俺としても、母さんの身の安全が確保できるなら、それに越した事はない。…でもビャクヤ、良いのか?」
「うん?」
首を傾げたビャクヤに、俺は言いよどみながら尋ねる。
「その…、理由があって仲間達と離れたんだろう?それこそ、十三年もたった一人で山に隠れ住んでいたのに、なのに…、ま
た仲間達と接触するなんて…」
「う〜ん。離れた理由はまぁこの姿なんだけどね…。僕なんかをかくまってちゃ、人間社会に溶け込むのには不利だ。だから
仲間達から離れて身を隠したわけ。…接触したら、お節介な彼らのことだ、たぶん連れ戻されちゃうだろうねえ…」
そう言って、ビャクヤは耳をぱたぱた動かしながら苦笑いした。
…何となく落ち着きがない様子だけど…。…当り前か…。
「でも、仕方ないさ。気楽な生活も十分満喫したし…」
一瞬黙り込んだビャクヤの目に、微かに寂しげな光がよぎったのを、俺は見逃さなかった。
ビャクヤがこの時に何を思ったのかは、すぐに判った。
カワムラだ。
ビャクヤを婚約者と呼んで慕う、俺の学友…。
この町を離れるという事は、ビャクヤとカワムラは、そうそう会えなくなってしまう…。
「…アサヒちゃんの説得には、手こずるだろうなあ…」
小さく呟くと、ビャクヤは俺と母の顔を順番に見回した。
「どうかな?時間的にはあまり余裕がないから、早めに決断して欲しい。…というのも、他にも頼みたい件もあるし、向こう
にも受け入れの準備があるからね」
母はしばらくの間、黙って考え込んでいた。
そして、小さく一度頷いてから深々と頭を下げ、それからビャクヤの顔を見つめる。
「…ビャクヤさん。ご迷惑になるでしょうけど、お願いしてもいいかしら?」
「承知しました」
ビャクヤは母に微笑みかけながら、頷いてそう応じた。
「さて…。フォウから何も報告が無いって事は…、どうやら、今のところは異常はないらしいね」
ビャクヤはカーテンの閉まった窓に視線を向けながら言った。
今フォウは、アパートの周囲を見張り、怪しい何者かが潜んでいないか確認してくれている。
「電話、借りていいかな?」
「ええ。どうぞ…」
ビャクヤは母から子機を受け取ると、少し楽しげな笑みを浮かべた。
「実はちょっと使ってみたかったんだよね…。てぶらボタンって、先に押すのかな?」
「押した途端に切り替わるから、かける前でも、話している最中でも大丈夫よ」
「なるほどなるほど…」
ビャクヤは母の言葉に頷くと、てぶら機能をオンにし、番号を打ち込んだ。
「少しの間、僕が言うまで静かにしていて貰えるかな?」
俺と母が頷くと、ビャクヤは「ありがとう」と小さく呟いた。…何だか少し、緊張しているようにも見える…。
呼び出し音二回の後、電話は繋がった。
『お電話有り難う御座います。ホテルシルバーフォックス、フロントのサカイです」
ビャクヤの前、畳の上に置かれた子機から流れ出たのは、若い女性の声。…ホテル?
「こんばんは。ススキノオーナーに電話を繋いで欲しいんだけれど…」
『申し訳ございませんが、オーナーへの電話は直通となりますので、基本的にはお取り次ぎしておりません』
「そうなんだ?色々変わったんだねえ…。それにしても困ったなあ…。直通の番号なんて知らないし…。とりあえず、電話が
あった事を伝言して貰えないかな?たぶん受けて貰えると思うんだけれど…」
『そう言われましても…。失礼ですが、どちら様でしょうか?』
「ビャクヤから電話が入っている。そう伝えて貰えるかな?」
『…かしこまりました。少々お待ち下さい…』
保留音なのだろう、オルゴールバージョンのイマジンが流れ始めると、ビャクヤは困ったように頬を掻いた。
「電話交換手も替わってたなあ…。まあ、十三年経ってるんだから、色々変わってて当り前か…」
待つことしばし、唐突に保留音が途切れると、ビャクヤは目を細め、子機を見つめた。
『…もしもし?』
子機から流れ出たのは、さっきとは別の女性の声。
『ビャクヤ君…なの…?』
少し掠れたその声を聞いたビャクヤの顔が、泣き出しそうに歪んだ。
「…うん…。…久しぶり…、タマモさん…」
少しの間の後、ビャクヤが声を発すると、受話器の向こうから、女性が息を呑んだのがはっきりと聞こえた。
「今更だけれど、何も言わずに居なくなって、ごめんなさい…」
少し震えたビャクヤの声に、女性の声もまた、震えながら応じた。
『本当よ…!私が、皆が、何よりヤチ君が…、どれだけ心配したか…!』
「…うん…。ごめんなさい…」
大きな体を縮こめて、子機に向かって深く頭を垂れたビャクヤは、まるで、母親に謝る子供のようにも見えた。
『元気にしているの?ちゃんと暮らせている?』
「うん。あまり不自由も無く、気楽にやっているよ」
『そう…。良かった…』
子機の向こうから女性が啜り泣く声が聞こえると、ビャクヤは腕でぐいっと目の辺りを拭った。
俺も母さんも視線を畳に向け、ビャクヤの顔を見ないようにした。
ビャクヤも、きっと泣いている顔など見られたくないと思ったから…。
少しの間を開けて、ビャクヤは再び口を開いた。
「…タマモさん…。僕が今更何かを頼める立場じゃない事は判っているけれど、どうしてもお願いしたいことがあるんだ…」
『…何かしら?何の遠慮もする事はないのよ?…姿を消したあの日、貴方が私達にもたらしたのは、同士全員の私財全てを投
げ打っても等価には至らないほどの物なのだから…』
「…ありがとう…。なら、是非ともお願いしたい…」
ビャクヤは言葉を切ると、俺に視線を向けた。
「今ここに、若い人狼とその母親が居る…。僕らの話を聞いて貰っているんだ」
『えっ!?』
子機の向こうから、女性が上げた驚きの声が聞こえた。
『人狼…ですって!?間違いないの!?』
「うん。生まれてから十八年、ずっと人間として生きてきて、ついこの間、自分がライカンスロープだと知ったばかりの少年
なんだ」
『十八年も…!ご両親は?』
「お母さんが人間で、亡くなったお父さんが人狼なんだ。…まだ出会って間もないけれど、僕の大切な仲間だ…」
ビャクヤは子機に向かい、懇願するように言った。
「お願いだ…。彼らをかくまってあげて欲しい…!彼らと、そしてある組織の傀儡となっている仲間達を…!」
『…ある組織?…何が起こっているの、ビャクヤ君?』
そしてビャクヤは、俺と出会った夜の事から、今直面している状況まで、電話の向こうのタマモさんという女性に、全てを
話した…。
「…重要な所だけかいつまんで説明したけれど、大丈夫?」
『え、えぇ…。驚いたけれど、理解はできたわ…』
説明を終えたビャクヤの問いに、タマモさんはそう応じた。
『ネクタールの次はソーマ…。次から次へ…、そういった組織は無くならない物ね…』
「まったくだね…。それで、僕はとりあえずこちらに来ている分…、相麻に従属させられている同種を解放するつもりだ。も
ちろんそれだけじゃ事は収められない。…ゆくゆくは全ての関連施設を潰し、完全に消滅させる…」
ビャクヤは決意を固めた様子で、はっきりとその事を口にした。
「タマモさんの名で、友好関係にある全国の同種に呼びかけて欲しい。求めるのは、僕が各地の縄張りに踏み入る許可。そし
て、できれば相麻潰しへの協力」
一度言葉を切ったビャクヤは、ちらりと、カーテンが閉められた窓を見遣った。
「それともう一つ。僕が解放した皆を、そちらで受け入れて欲しいんだ。相麻にライカンスロープ化させられた人達…、今改
造されている途中の人達…、彼らの衣食住、そして心身のケアをお願いしたい。状態によっては死に至る危険もあるらしい。
なんとか助けてあげたいんだ…」
子機はしばらくの間、何の音も発しなかった。
何かを考え込むような長い沈黙の後、タマモさんの声が、興味深そうな調子で流れ出す。
『純粋な好奇心で知りたいのだけれど、ビャクヤ君。貴方の目に、人造のライカンスロープ達はどう映っているの?』
ビャクヤは目を閉じて、少しの間考えた後、
「被害者であり隣人。違いなんて些細なものだ。彼らは、間違いなく僕らの同種だよ」
『…私と同じ見解のようね』
囁いたタマモさんの声は、どこか安心しているようにも、満足しているようにも、俺の耳には感じられた。
「これらの願いを聞き届けて貰えるのなら、僕はどんな条件でも飲むし、どんな対価でも支払う」
『…必要な条件も対価も無いわ…。他でもない、貴方の頼みですもの…』
「…ありがとう、タマモさん…」
タマモさんの言葉に、ビャクヤは深く頭を下げ、少し震える声で礼を言った。
『それはそうと、同席しているその子とお母様と、話せるかしら?』
「え?うん。…えぇと…、ヨルヒコ、これってどう話せば向こうに聞こえるのかな?」
「普通に話せば、こっちの話は向こうに聞こえるんだ」
困ったように呟いたビャクヤに俺が応じると、電話の向こうからタマモさんが話しかけてきた。
『今声が聞こえたけれど、貴方が人狼の少年かしら?』
「あ、は、はい!そうです!えっと…、忌名夜彦と言います!」
『お母様も、そこに?』
「はい。忌名圭子と申します」
『初めまして。私は芒野玉藻(すすきのたまも)と申します。他でもないビャクヤ君の紹介ですもの、もちろん、私達のトラ
イブは、あなた方を歓迎致します』
「…トライブ?」
聞き慣れない言葉だ。首を傾げた俺に、
「家族、血族、部族…、そんな意味さ」
と、ビャクヤは教えてくれた。
『準備が整うまでは少しかかると思いますが、いつおいでになって頂いても、当面のお部屋は用意致します。そちらの都合に
合わせて来て頂いて結構ですからね?』
「ありがとうございます。ススキノさん…」
母が子機に向かって深々と頭を下げたので、俺もそれに倣う。
『そうだ。ビャクヤ君?』
「うん?」
『ヤチ君とも話を…』
「今はダメだ」
タマモさんの言葉を、ビャクヤは即座に遮った。
「まだ、ヤチには話さないでおいて欲しい。全部終わるまで…」
ビャクヤはフッと笑みを浮かべる。慈愛に満ちた、なんとも優しい笑みを…。
「でないと、ヤチはたぶん、僕の所にすっとんで来てしまうから…」
『それもそうね…』
タマモさんの声は苦笑混じりだった。
「こっちの段取りがついたら、また改めて連絡するよ。そっちで確認したい事ができたら…、あ、僕、電話無いから…、どう
しようか…」
俺はビャクヤに自分の携帯を翳して見せた。
「携帯でも良いかな?それで良いなら俺のをビャクヤに預けておくけれど…」
「良いのかい?」
「ああ。でも、タマモさんからのとウチから以外のは取らないでくれよ?友達からのなんかに出られると、説明するのが面倒
だから」
「判った。それなら、悪いけれど借りておこうかな…」
「コンセント無いから充電できないだろうし…、携帯用の充電池を買っておこうか。…いつまで使う?少し多めに買った方が
良さそうかな?」
「そうだねぇ…」
ビャクヤは「ひの、ふの、みの…」と、指を折りながら少し考える。
「君とアサヒちゃんの卒業式まで貸しておいて貰えるかな?それまでには段取りを終えておくから」
頷いた俺が携帯を差し出すと、受け取ったビャクヤはしげしげと携帯を眺めた後、やけに慎重な手つきでオーバーオールの
胸ポケットに仕舞い込んだ。
目が細くなっていて、なんだかちょっと嬉しそうだ…。
…もしかして、欲しいのかな?携帯…。
考えて見れば、ビャクヤじゃ欲しくても携帯の契約なんてできないだろうしなぁ…。
見張りをしてくれていたフォウと合流し、俺達は山への道を歩く。
コンビニで携帯用の充電池を買ったついでに、俺も一応見送りだ。
ロングコートを羽織り、フードを目深に被った、見た目はまるっきり不審者のビャクヤは、母から貰ったマヨネーズやらソ
ース、醤油やらの調味料類の入った箱を大事そうに抱えて歩きながら言った。
「明日からは、修練を少し厳しくするからね」
俺が視線を向けると、ビャクヤは横目で俺の瞳を見つめた。
「事を起こせば別行動になる。その時、僕は君の傍には居られない。ケイコさんの事も、君一人で護らなくちゃならなくなる」
…そうだ…。
向こうに着くまでの僅かな期間だけど、ビャクヤの助力は得られなくなる。
これまでだってべったり頼って来た訳じゃないつもりだけど、心の何処かであてにしていなかったかと問われれば、否定は
しきれない…。
これまでとは違う。ライカンスロープとして目覚めて以来初めて、ビャクヤの助けが完全に無い状態に、俺は置かれること
になるんだ…。
「時間は短いけれど、可能な限り伝えるよ…。僕の…」
ビャクヤはみなまで言わずに口を閉ざした。
判ってる。争い事が嫌いなビャクヤは、俺に戦い方を教える事が辛いんだ。
本当は、俺に誰かを傷つけて欲しくないと思っているんだ…。
…それでも…。
「ビャクヤ」
俺の声に、ビャクヤは視線だけを横に向けた。
「躊躇いは無い。後悔も無い。俺は、ライカンスロープとしての自分を…、生き方を…、受け入れる」
フォウが、ビャクヤが、足を止めて俺を見つめた。
俺も足を止め、二人の顔を交互に見る。
「生きる為に、そして、大切な物を護る為に、どうしても仕方がないなら、誰かを傷つける覚悟はできている」
そう…。例えまた誰かを殺めなければならなくなったとしても、業を背負う覚悟はもうできた。
俺はまっとうな人間じゃない。ライカンスロープの父と、人間の母の間に生まれた「人狼」だ。
心の奥に抱え込んで、大事に、女々しく抱き締めていた、人間そのものとしての生活に戻るという幻想…。
それにはもう未練は無い。俺は、人狼として生きる。
「ビャクヤが気に病む事は無いんだ。これは俺自身の決意。人狼として生きると決めた、俺の選んだ道だ」
伝えたい事は、上手く言葉にできなかった。
それでも、ビャクヤもフォウも俺の言いたい事を察してくれたんだろう。
しばらくの沈黙の後、二人はチラリと視線を交わした。
「やれやれ…。迷いを悟られるなんて、僕もまだまだだね…」
フードの下で苦笑いを浮かべ、ため息混じりに言ったビャクヤに、フォウは微笑みながら首を横に振る。
「そう言うな。躊躇いなく敵を屠れる事と、命を軽んじる事は違う。君もヨルヒコも、私から見れば前者…、強くも優しい獣だ」
ビャクヤは真っ直ぐに俺の瞳を見つめ、小さく頷いた。
「忌名夜彦…。君の覚悟、この字伏白夜が確かに聞き届けたよ…」
そう言って、握った拳を突き出したビャクヤの顔を、俺は見上げる。
拳を握り込み、ゆっくりと突き出し、ビャクヤの拳に合わせる。
何故かは判らないが、そうすべきだという事が、俺にはなんとなく判った。
ビャクヤは目を細め、穏やかに微笑みながら言った。
「…固めの杯は未成年だからはしょるけれど、これで僕らは義兄弟だ。例え離れ離れになって、会う事も、声を交わす事も叶
わなくなっても、同じ土の上、同じ月の下、心はいつも共にある」
「ビャクヤ…!」
俺は白犬の顔を見つめたまま、二の句が次げなくなった。
…嬉しかった。心の底から…!
庇護すべき存在ではなく、対等の相手だとビャクヤが見なしてくれた事が…!
「さぁ、そうと決まれば明日からは、手加減抜きにビシバシ行くよ」
ビャクヤはそう言ってニッと笑う。
「言っておくけれど、身内になった以上、遠慮はしないからね?」
「望む所だ!」
拳を合わせたまま、俺は笑みを浮かべてビャクヤに頷く。
「…なんとも古風な、だが趣のある契りの交わし方だな…」
俺達を見ながら、フォウは微笑を浮かべ、静かにそう呟いた。