FILE14

素早く、かなり慌て気味に首を捻ったすぐ横で、木の幹が粉々に爆ぜ割れた。

半ばから抉れた木がメキメキと倒れて行く傍で、俺は振り返り、身構える。

音に近い速さで駆け抜け、拳の一発で太い木を粉砕した白犬は、地面に四肢を踏ん張って減速していた。

深い溝を長々と土に残して急制動をかけたビャクヤは、再度高速移動に移る。

舌打ちをしているひまもない!

反応速度を限界まで引き上げている俺は、白い砲弾となって迫るビャクヤから、かろうじて身を捌く。

振り抜かれる拳から、一瞬遅れてガゥンッと音が迸る。

肩を狙った拳が、銀の被毛を吹き散らしながら通り過ぎただけで、巻き起こった衝撃波で体勢を崩される。

急所こそ避けて狙ってくるものの、食らえばただじゃ済まない…!

長い毛髪をたなびかせ、高速で駆けるビャクヤはまるで雪崩だ。

真っ白い、力そのものの奔流となって走るビャクヤの行く手に立てば、飲み込まれ、蹂躙され、跡形も無く砕かれる!

グラついた俺は、勢いに逆らわず四つん這いの姿勢で倒れ込みつつ、爪を地面に食い込ませた。

行くぞ、インパルス・ドライブっ!

駆け抜けたビャクヤの後を追うように、俺は爪をスパイク代わりにして高速突進を敢行した。

足を踏ん張って減速に入ったビャクヤの背が、視界の中で瞬時に大きくなる。

手加減は抜きだ。骨格強化で固めた拳を、その後頭部めがけて本気で繰り出す。

今度こそ!そう確信したその瞬間、ビャクヤの体が大きく沈み込んだ。

姿勢を低くして両手を地面につき、振り返りもせずに下から跳ね上げられた右足、その足裏の肉球が、俺のソリディファイ・

インパクトを下から叩いた。

「のわぁぁぁぁあああああああっ!?」

強制的に軌道を修正された俺は、ビャクヤの蹴りをカタパルト代わりに打ち上げられ、針葉樹の枝をバキバキへし折りなが

ら吹き飛ぶ。

吹き飛ばされながらも首を捻った俺の目に、ぐっと身を縮めるビャクヤの姿が見えた。

…やばい…。本家インパルス・ドライブだ…!

「るぉぉぉおおおおおおおっ!」

動きを封じる為に、先んじて放った呪縛の咆吼は、

「ウォンッ!」

しかし、鐘を突いたようなビャクヤの一吼えによって、あっさりかき消される。

これは能力じゃない。単に共鳴現象を利用して俺の咆吼をかき消したんだ。

音波に乗せて力を送る呪縛の咆吼は、吼え声自体がかき消されてしまえば呪いが霧散して、効果を発揮しない。

…って、わざわざ丁寧にかき消されたけれど、ビャクヤの体は呪いを弾くんだったな。「人狼混じり」だから…。

俺は両腕を交差させ、骨格と筋力を最大強化、ガードに徹する。

ビャクヤが蹴った地面がべっこり陥没し、盛大に土煙が巻き起こる。

離陸に伴って巻き起こった衝撃波が土埃を押しやり、綺麗な円になって周囲に広がる。

その全ては、瞬時に接近したビャクヤの向こう側に見えた事だ。

接触、そして衝撃。それに少し遅れて、ビャクヤが地を蹴った時のドォンという音が耳に届く。

長距離跳躍で威力は減衰しているものの、骨が砕け、肉が千切れ飛ぶかと思うような激しい衝撃が、ビャクヤのタックルを

受け止めた俺の両腕に走る。

鉄分をかき集めて最大限強化したにも関わらず、右腕の尺骨が折れたっぽい…!

…こ、こなくそぉおっ!

ビャクヤの肩を交差させた腕で受け止めた状態で、俺は右足を腹めがけて蹴り込む。

これはヒット。が、柔らかい毛と脂肪の感触を覚えたのは、刹那に満たない短い間の事だった。

不安定な姿勢から放った俺の蹴りは、オーバーオールをむっちり押し上げるビャクヤの太鼓腹に、バインっと、あっさり跳

ね返される。

たぶん、瞬間的に腹筋が強化されたんだと思うが…、何だよ今の妙な弾力…!?

一瞬気を取られ、体勢が大きく崩れたその瞬間、左の肩を俺に押し付けたままの姿勢で、ビャクヤの右拳が真下から唸りを

上げた。

避けられる速度でも、状態でもない!

痺れの感覚が抜けきらない腕を、死に物狂いで強引に動かし、右腕の肘で脇腹を庇う。

直後、ガードした位置へ合わせるように飛び込んできた白い剛拳が、俺の体をさらに宙高くへ打ち上げた。

平衡感覚を失い、青い空の中できりきりと回転しながら、急激に集中力が失せていくのを感じつつ、思う。

脳の処理速度上昇がここまで保ったのは、自己新記録かもしれない、と。

ビャクヤにはまったく歯が立たないが、高速戦闘への対応力は随分上がったな…。

地上50メートル程、錐もみ状態の俺の体はやっと上昇を止め、下降が始まる。

俺が木立のすぐ上辺りまで落下すると、ふわっと、暖かいものが下から抱き止めた。

木の上から再度跳んで受け止めてくれたんだろうビャクヤは、

「お疲れ様」

まだぐるぐる回っている俺の視界の中で、右の眉を上げ、口の左端を微かに吊り上げて笑って見せた。

耳元で風が唸り、鼓動が騒々しく響く中、訓練の終わりを告げるその言葉が、心地良く耳に届いた…。



「34秒か…。かなり凌げるようになったのではないか?」

ビャクヤに肩を借りて小屋の前まで戻った俺が、崩れるように地面にへたり込むと、薄桃色の猫が手に持ったストップウォッ

チを覗き込みながら言った。

「まだ…、それしか…、経って…、無かった…、のか…!?」

全身を酷使し過ぎ、激しい消耗で息も絶え絶えになっている俺に、ビャクヤは片方の眉を上げ、面白がっているような笑み

を見せた。

「誇って良いよ?自慢じゃないけれど、まともに正面から戦ってくれる相手なら、捕まえるまで30秒もかけない自信がある。

ヨルヒコの場合、ほんの一ヶ月前に覚醒した事を鑑みれば、驚嘆すべき成長スピードだよ」

ビャクヤとの訓練は日ごとに激しさを増し、三日前からはこんな感じの実戦形式のものになっていた。

ビャクヤは短期間で習得出来る物に絞り込んで、俺に様々な技術を叩き込んでくれた。

義兄弟の契りを結ぶ以前とは違い、変な遠慮のない厳しい訓練メニューになったが、それは俺にとって嬉しい事だ。

ビャクヤが俺を認めてくれているという、強い実感が伴っているから。

義兄弟の契りを結んだ事は、俺の内面に大きな変化をもたらした。

ビャクヤの義弟となった以上、無様な真似はできない。となれば自ずと背筋も伸びる。

彼が義弟と認めてくれた事が、少しくすぐったく、嬉しく、そして誇らしい。

ビャクヤが誇れる弟でありたい。

そう強く思い、願うようになった事で、覚醒以来、時に迷い、揺らぎ、不安定になっていた俺の心は、はっきりと自覚でき

るほどに安定した。

全く疲労の色が伺えないビャクヤは、座り込んで荒い息をついていた俺の頭を、大きな手でグシグシッと撫でた。

「こんな片田舎にこれほどの逸材が埋もれていたなんて知ったら、どこのトライブも羨ましがるだろうなぁ」

羨ましがる?俺の疑問の視線を受け、ビャクヤは「ふむ」と頷いた。

「僕らのような人為らざる者の内、人間社会に溶け込んで暮らす者はね、協力しあって生きる為に共同体を作るんだ。いわゆ

る群だね。そういった共同体は、それこそ会社規模の大きなものから、二、三人の小さな物まで、大小様々、ピンからキリま

で存在する」

「ビャクヤが前に住んでいた街の、仲間達みたいに?」

ビャクヤは俺の頭をクシクシと撫でながら頷く。…あの、そろそろ手、退けてくんない?

「そういう事。そして、普通は互いに協力、あるいは不干渉を決めて、お互いの縄張りを侵さずに活動しているんだけれど…。

時には、敵対している共同体の間で、小競り合いが起こる事もある。主張の食い違いや、縄張り争い…、理由は色々あるけれ

どね」

意外だ。てっきり、普通のライカンスロープ達は助け合うか、でなければ不干渉に徹して生きていると思い込んでた。

…相麻の事は別にして、普通はそういう物だと…。

「人間と同じだな。主義主張、利害損得、価値観と立場の違いから争いは生じる…」

フォウがそう言い、俺の顔を見つめた。

「複数の意志が存在すれば、衝突は起こるものだ。それは人間やライカンスロープに限らず、ほとんどの生物に言える事かも

しれない」

言われてみればそうかもしれない。

人間ほど争いが好きじゃない生き物達だって、食うか食われるかの立場の違いはもちろん、生活圏…縄張りのことで争った

りもするよな、生きる為には…。

ビャクヤはやっと俺の頭から手を退け、先を続けた。

「そんな共同体の中で、特に闘争に長けた力を持つ者は、狩人という立場におかれるんだ」

「狩人?」

「他の共同体と、あるいはそれ以外の外敵との闘争において、率先して敵と戦う者の事さ」

「ビャクヤも、そうだったのか?」

「うん。僕も、そして弟もね」

それを聞いて、急に興味が沸き始めた。

「俺も、狩人になれるかな?」

勢い込んで尋ねた俺の顔を見下ろし、ビャクヤは複雑な表情を浮かべた。

「お勧めはできないなあ…。狩人というのはね、戦士であり、掃除屋であり、そして殺し屋でもある…。仲間を護るだけじゃ

ない。時には縄張りに入った余所者を排除し、時には自分達の正体を知った人間を、口封じの為に殺さなければならない…」

あ。そう…か…。普通は、そうなんだよな…。

ビャクヤは相手の記憶を消せるから良いけれど、普通はやっぱり…、正体を知られたら相手を殺さなくちゃいけないんだ…。

「自分の感情を押し殺し、時には主義に反する事もしなければならない…。辛い思いをする事になるから…」

そう言ったビャクヤは、少し哀しげだった。

何も知らなかったとはいえ、軽い調子で尋ねてしまった事を後悔する…。

「…それでも、誇りを持って狩人の役割を担えるとすれば、それは…」

ビャクヤは一度言葉を切ったが、俺とフォウに目で先を促されて、口を開いた。

「自分の主義より、感情より、心の痛みより、自分のトライブの方が大切な場合だろうね」

ふと思った。争い事を嫌うビャクヤが狩人の役に就いていたのは、きっと、かつて居たそのトライブが、仲間達の事が、と

ても大切だったからなんだろう…。

「…さて、次は私だな。宜しく頼む」

話が終わったのを見計らって口を開いたフォウに頷くと、ビャクヤは俺から離れ、木立の中に移動していく。

その後ろを、優雅な足取りで尻尾と長い被毛を揺らし、フォウが歩いてゆく。

今度は、フォウがビャクヤに稽古をつけて貰う番だ。

5メートルほどの距離を置いてビャクヤと向き合うフォウは、なおさら小柄に見えた。

しかし、体重にしたら三倍近いビャクヤと、彼女は俺以上に上手く戦える。

「ふっ!」

素早く前進したフォウは、鋭い呼気と共に、右腕を振るった。

鋭く伸ばされた抜き手は、身を捌いたビャクヤの眼前で、白い冷気を撒き散らす。

フォウの能力は瞬間凍結。手の平から超低温に冷気を発し、触れた物から瞬時に熱を奪い、凍らせてしまう。

相麻も、彼女自身も、能力に名前を付けてはいなかったが、ビャクヤはフォウの能力にフロストメモリーという名を与えた。

従来の熱を奪う能力と比較して、フォウの能力は際だった長所と短所を持っているらしい。

体中から周囲に冷気を発するものや、冷気を飛び道具として放つものなど、この手の能力には様々なタイプが存在するらし

いが、フォウの場合は手の平から、しかも極めて短い範囲にしか冷気を発する事ができないという欠点がある。

逆に、熱を奪う速度は他の物と比較しても段違いの速さらしい。

対象に手の平で接触する必要はあるものの、触りさえすれば瞬時に凍結させられる。

指先で掠られただけで毛と表皮は氷漬けになるし、手の平で接触されれば瞬時に筋肉細胞まで凍てつく事になる。

細胞自体を凍らされては高速修復も行えない。

対策としては周囲の無事な細胞から熱を発して解凍するしかないけれど、その方法での回復には時間が掛かる。

手足を凍らされただけならそんな対策もあるが、顔面でも鷲掴みにされようものなら一瞬でけりがつく。

いかに人間より遥かに強靭なライカンスロープと言っても、頭部を凍結させられればアウトだ。

ビャクヤとの模擬戦でフォウが磨いているのは、相手に対し、能力が有効になる接触を行う技術。

手の平で触れなければならないという制約があるから、手を打ち込む角度を急激に変えたり、スピードに緩急を付け、より

確実にヒットさせる技術を研鑽している。

素早い、そして柔軟な動きで、周囲に霜を振り撒く薄桃色のフォウの姿は、まるで、桃色のつむじ風だ。

長毛種の猫特有の、長くて柔らかい毛が、動きに合わせて揺れ、風になびく…。

旋風に巻かれた桜の花びらが渦を描いているように、舞い踊るように華麗で、優美で、とても、とても綺麗だった…。



「ちょっとぉ〜!ま〜だやってるの〜?夕飯できたわよ〜っ!」

斜陽に照らされる小屋のドアを開け、エプロン姿のカワムラが声を上げる。

二人がかりでビャクヤに挑んでいた俺とフォウは、それぞれ即頭部を狙った蹴りを右腕で弾かれ、掴みかかった右手首を左

手で掴み止められた体勢で動きを止めた。

「ありがとう。今行くよ〜」

ビャクヤは俺の蹴りを弾いた右手を上げて、カワムラに応じた。

息を乱している俺達とは対照的に、涼しい顔をしている。

「さあ、今日もずいぶん体力使ったし、夕飯にして休もうか」

さっさと小屋に向かって歩き始めたビャクヤ。その後をフォウと二人でついて行きながら、俺は思う。

ビャクヤとの実戦形式の訓練で、判った事がいくつもある。

その中の重要な事の一つは、ビャクヤは、俺が想像していた以上に強いという事。

 …いや、今でも力の底の想像がつかないんだけどな…。

もう一つ重要なのは、ビャクヤがその気になって動くと、山の地形が変わるという事…。

俺は首を巡らせ、庭から見える風景に目を馳せた。

木立の中のクレーターのような穴。側溝になりそうな深い溝。…また今日も、木が何本か減ったな…。



カワムラが腕を振るった夕食は、いつにも増して豪勢なものだった。

アサリと山菜のペペロンチーノに、コーンポタージュスープ。

塩こしょうで味付けした鶏もものグリルに、ツナとカニ、エビのサラダ。

特製ドレッシングに野菜スティック。デザートとしてお手製のプリン付きだ。

「明日はあたしとイミナの卒業式だからね、前祝いよ」

小屋に戻った俺達に、いつものどこか気取ったような笑みとは違う、少し柔らかい笑顔でカワムラは言った。

フォウは人間の姿に戻っているが、俺は人狼のままだ。

人間の女性二人と、半人半獣の野郎二人が、テーブルを囲んで席に着く。

珍妙ではあるものの、この小屋ではこれが普通の夕食風景だ。

…ビャクヤは、今朝方、事の次第をカワムラに話したそうだ。

…おそらく…、この山を離れ、かつての仲間達の元へ戻るという事まで…。

だが、カワムラにはあまり変わった様子は見えない。

…カワムラは、やっぱり強いな…。

思えば、最初に俺が人狼になっているところを見ても、ほとんど取り乱さなかった。

それどころか、ビャクヤ以外では初めて目にするライカンスロープだったのに、彼の同類と察して、俺をビャクヤに会わせ

てくれた。

最初に会ったのがカワムラじゃなかったら、俺は一体どうなっていただろう?

人間の姿にも戻れず、家にも帰れず、行くあてもなく彷徨って、のたれ死んでいたかもしれない…。

いや、それどころか相麻に捕まって、実験動物にされていたかな…。

「ビャクヤの義理の弟になったなら、あたしの事は「お義姉さん」と呼びなさいよね?」

先日、俺から話を聞いたカワムラは、そう言って胸を張った。

威張っているように見せて、実は少し悔しく、羨ましいのだと気付いたら、俺は笑いの発作を堪える事ができなくなった。

だって、いつも偉そうにしているカワムラに、そんな可愛い所があっただなんて、思いも寄らなかったから。

彼女はこれからどうするつもりなのだろう?

カワムラはこの町から通える大学に進学する。

この山から離れられないビャクヤの傍を、自分から離れるつもりはなかったからだ。

だが、事態は変わった。

…いや、変わってしまった…。俺がきっかけになって…。

カワムラには、本当に申し訳なく思う…。

俺が覚醒さえしなければ、二人に関わらなければ、彼女はずっと、これまでと何一つ変わらず、ビャクヤと一緒に過ごせた

はずなんだ…。

俺への訓練や指導で、ビャクヤと二人、ゆっくり過ごす事もできなくなった。

それでも、その事で俺に文句を言った事は一度も無い。

いやみ一つ…、ほんの少しのグチすらも、こぼした事は無い…。

俺達の話から外される事も多々あった。時に彼女は気を利かせて、自分から席を外してすらくれた。

それは、それらの事が俺にとって、非常に重要な事だと察してくれていたからだ…。

「ほらイミナ〜!な〜に暗い顔してるのよ?」

「え?い、いや、暗い顔なんて…」

顔に出ていたのだろうか?身を乗り出して言ったカワムラに、俺は慌ててそう応じた。

「それとも何?私の手料理よりビャクヤの作るご飯の方が良いってワケ?」

「そんな事無いって!カワムラは料理上手いよ。うん!」

「ふ〜ん…、どうかしらねぇ〜?」

疑わしげな表情で、じ〜っと俺を見つめた後、

「ま、良いわ。本当の事を言ってるみたいだし」

カワムラはほんの少し笑って、気を取り直したように言った。

「え?」

首を傾げた俺に、カワムラは少し呆れているような苦笑いを浮かべた。

「気づいてないみたいね?あんた、嘘や隠し事があると、尻尾がピンッと立つのよ?」

「へっ!?」

俺は思わず自分の尻尾を振り返る。

…今は背もたれの隙間から、後ろにだらんと垂れ下がってるけど…。

ビャクヤとフォウは、驚いてカワムラを見つめた。

「…何?もしかして二人も気付いてなかったの?」

少し意外そうに言ったカワムラに、二人は口をぽかんと空けながら頷いた。

「あ、ああ…。出会って間もないからだろうか?全く気付かなかったな…」

「いや…、会ってしばらくになるけれど、僕も気付けなかった…。アサヒちゃん、良く見てるねえ?」

「まぁね。…人間の格好をしてる時は判らないけれど」

以前から時折、意志とはほとんど無関係に、気持ちに反応して動いたりする事には気付いていたけど、…この正直者っ!

…これからは尻尾の動きにも気を付けよう…。



その晩、俺は真夜中に、なんとなく目が覚めた。

何故目覚めたのかはすぐに気が付いた。空気の流れと、匂いだ。

小屋のドアが閉まる音が、微かに聞こえた。…誰か外に行ったのか?

横を見ると、ビャクヤの寝袋は空っぽになっている。…気付かなかった、いつ起きたんだろう?

二つしかないベッドを女性陣に譲ったので、俺とビャクヤは小屋の一室、主に物置にしている部屋で、寝袋を使って眠って

いた。

少し考えた後、俺は寝袋から這い出し、リビングへ向かった。

ドアは閉まっている。だが、ビャクヤが出て行ったのは確かだ。

意外だったのは、微かにカワムラの残り香がした事だった。

そっと窓から外を覗くと、テラスの長椅子に並んで座っている、二人の後ろ姿が目に入った。

ビャクヤは上を向き、空に浮かぶ月を眺め、カワムラは膝に視線を向け、俯いている。

「…済まないと、思っているよ…」

壁と窓を隔てていても、人狼の鋭い聴覚は、ビャクヤの声をはっきりと拾っていた。

「長く楽しんできた、この気楽な生活も…、もうじき終わる…」

「終わるとか…、言わないでよ…」

カワムラの声は…、微かに震えていた…。

「…実を言えばね…、この穏やかでゆったりとした日々が…、アサヒちゃんが週末に訪ねてくる日常が…、ずっと、ずっと続

いて行けばいいのにと思っていた…」

「…ずるいわよビャクヤ…。いまさら…、そんな…事っ…言われたら…!」

カワムラはがばっと顔を上げた。

月光を浴びて光る、頬を伝う透明な雫…。

…カワムラは…泣いていた…。

「我慢…できなくなるじゃないのよぉっ!」

声を上げて泣きながら、カワムラはビャクヤに抱き付いた。

…俺は…、何て…、何てっ…!

忌名夜彦!お前は何て大馬鹿野郎なんだっ…!

カワムラは強くなんかない。強く見せかけていただけだ。

気が強くて、頑固で、意地っ張りなカワムラの中身は、俺と同い年の、ごく普通の女の子なんだ…!

俺は…、今更ながらに、そんな当り前の事に気付かされた。

辛くないわけがない。好きな人が帰って行ってしまう。それも、普通の人間が暮らすのとは違う世界へ…。

もしかしたら、彼女がビャクヤと会うことは、もう叶わないのかもしれない。

普通の人間であるカワムラを、ライカンスロープの社会へ引き込む事なんて、ビャクヤは望まないだろうから…。

これまでの、奇跡のような二人の関係は、ビャクヤが世俗との関わりを断っていたからこそ成立していたんだ…。

自分の広い胸に顔を埋め、辺りをはばかる事も無く、悲痛な泣き声を上げるカワムラを、ビャクヤは逞しい両腕で優しく抱

き締めた。

「愛してる!この世の何より、誰よりもビャクヤが好き!だから、だから…!私を置いて行かないでよぉおっ!」

「アサヒ…ちゃん…」

ビャクヤは声の震えを押さえつけるように、低く掠れた声で言った。

哀しいのを、辛いのを、隠しきれないビャクヤの声を、俺は初めて耳にした。

「ごめんね…、アサヒちゃん…。僕も…」

ビャクヤは口を閉ざし、ギリリと歯を噛みしめた。

愛している。

恐らく、ビャクヤが飲み込んだ言葉は、カワムラへの想いを伝える言葉だったんだろう。

その言葉を、偽らざる本心を、ビャクヤはカワムラへの愛ゆえに、飲み下したんだ…。

愛していると言ってしまったなら、別れが辛くなるから。少女を苦しめるから。

こんな時まで相手を気遣い、自分の本心を押し殺す、実にビャクヤらしい優しさが、痛く、重く、哀しかった…。

「楽しかったよ…。生まれてこれまでの間…、君と過ごせた時間は、一番穏やかで、幸せだった…」

ビャクヤはカワムラを抱き締め、その耳元でそう言った。

「君と過ごせた幸せな日々は、いつか僕があの世に旅立っても、絶対に忘れはしない…!」

震えを押し殺したビャクヤの言葉に応えるように、カワムラの泣き叫ぶ声が大きくなった。

歯を食い縛って哀しみに耐えるビャクヤと、森の夜気を震わせる少女の慟哭から目と耳を背け、俺は静かに倉庫に戻って、

寝袋に潜り込んだ。

…そして、世話になった二人に対し、何かしてやれる事はないのかと、硬く目を閉じて、必死に考えた…。