FILE15

卒業式が終わり、俺は愛用のマウンテンバイクを駆って家路を急いでいた。

俺にとっては高校からの卒業であると同時に、普通の人間としての生活の卒業でもある。

でも、三年間の想い出を振り返り、戻らぬ日々を思い返し、しんみりした気分に浸るのは後回しだ。

今の俺には成し遂げなくちゃいけない事がある。

ゆっくり感傷に浸るのは、この町からの脱出準備を整えて、無事に向こうに着けてからで良い。

自転車を飛ばし、商店街を駆け抜けていた俺は、ある匂いに気付いてブレーキを握り込んだ。

ライカンスロープの匂い…。それも複数…!

普通なら無視する所だ。出発を控えたこの大事な時期に、自分から厄介事になんか近付けない。

おまけに、消気水で匂いを消している俺は、あっちからは察知できないんだから。

だが、俺はそのまま立ち去る事はできなかった。

複数の匂いの内の一つに、覚えがあったから…。

俺は自転車を歩道の柵にチェーンで固定し、何気なく視線を動かす。

…匂いの出所は、三つだ。

二つは知らない匂いだけど、残る一つは…やっぱり、覚えがある。

初めて人狼になったあの夜、一度出会ったライカンスロープの匂いだ…!

フォウの同僚であるはずのその男は、すぐに判った。

エラの張った角刈りでゴツい顔の、猪首でずんぐりとした体型の男。

背は俺と同じぐらいだが、筋肉質でガッチリとしてる。

前に会った相麻のライカンスロープ達と同様、スーツ姿だ。

歳は…、たぶん恐らく二十代後半か…三十代前半ぐらいだろうか?

今は歩道の端に立って、携帯の画面を覗き込んでいる。

残る二つの匂いの元は?…居た…。

スーツを着ているものと思いこんでいたせいで、特定するのに少し時間がかかった。

あっちの二人はカジュアルな格好だ。

片方はジーンズの上下。若い男で、髪をオールバックにしてる。

もう片方は黒い革のライダースーツ姿。歳はたぶん三十くらい。

外国人かな…?顔立ちはアジア系じゃない。背の高い、均整の取れた体付きをしていて、真っ赤な髪をしてる。

二人は少し離れた所で、やはり携帯を弄っている。

猪首の男は確実にフォウの同僚、あの晩に出会った猪のライカンスロープだろう。

残る二人もそうだろうかと一瞬考えたが、俺は思い直した。

フォウが言っていた。相麻には、金で雇われているライカンスロープも居る、と…。

しばらく考えた後、俺は今日役目を終えたばかりの生徒手帳を取り出して、ページを一枚破った。

…ここでおおっぴらに声をかけるのはまずい…。

他の二人がフォウの同僚、つまり相麻の被害者かどうか特定できない今は、気付かれるのは避けたい。

千切ったページにボールペンでさらさらと記して、俺は猪首の男に近付いた。

傍らまで歩み寄って屈み込み、折り畳んでいた紙を、あたかも拾ったように見せかけつつ猪首の男に差し出す。

「落としましたよ?」

怪訝そうな顔をした男に、メモの一面を見せる。

『声を出すな!04から伝言がある!気付かれないように中身を読め!』

内容を読み取ったんだろう。男は目を見開き、僅かに息を吸い込んだ。

俺は男の目を見つめて、合図するように大きく瞬きし、紙を突き出す。

「…ああ、ありがとう…」

メモを受け取った男に背を向け、俺は騒々しいゲーセンの自動ドアを潜り、奥の方へ向かった。



プリクラの台の一つに入り、少し待つと、指示通りに男は一人でやって来た。

俺は生徒手帳を開き、記しておいた文を見せる。

『盗聴の怖れはない?』

男が頷いたのを確認し、俺は手帳を仕舞い込んだ。

「04の事を知っているのか!?お前は何者だ!?まさか、彼女は生きているのか!?無事なのか!?」

声を潜めながらも、勢い込んで尋ねる男を手を上げて制する。

「落ち着いてくれ!あんたはフォウ…、04の同僚だよな?」

頷いた男に、俺は頷き返す。

「やっぱり、首に爆弾を埋められてるのか?」

男の目が、驚愕で見開かれた。

警戒の色が濃くなった男の目を見ながら、俺はなるべく穏やかに、静かに話した。

「爆弾を無効にできるんだ。実際に04は爆弾を解除されて、今も無事でいる。そして彼女は、できればあんた達を説得して、

一緒に相麻から自由になりたいと言ってる」

「な…なんだと…!?」

男は目を丸くしたまま、俺の肩を掴んだ。

「そ、それは本当か!?いったいどうやって!?それに、04は今何処に居る!?本当に無事なんだろうな!?元気なのか!?」

「ちょっと!落ちつけって!ちゃんと会わせるから!…って、あんたの事は何て呼べば良い?」

「む…!私のナンバーは03だ…」

男、03の手を肩から剥がし、俺は彼に尋ねた。

「一緒に居た二人は、同僚じゃないのか?」

「違う。ヤツらは傭兵…、金で雇われた戦闘のプロのライカンスロープだ」

やっぱりか…。うかつに声をかけなくて良かった…。

「あいつらの目を誤魔化して、ここを離れよう。今から04の所に連れて行く」

「待て」

男は目を細め、じっと俺の顔を見つめた。

「会ったばかりの、得体もしれないお前のことを信じろと言うのか?04の事をだしにして、私達を罠にはめようとしている

のではないのか?」

俺は生徒手帳を取り出し、顔写真入りの身分証明となるそれを男に手渡した。

「そこに、俺の住所も電話番号も、全部記されている。保証としては心許ないだろうけれど、04に会うまで預けておくよ」

03は少しの間黙った後、ひとつ頷いて俺の生徒手帳をポケットにしまった。

「ここを少し離れた所に俺の家がある。そこから04の所に電話をかける。彼女の話を聞けば、俺があんたを騙してはいない

事が判ると思う」

「判った…。ひとまず信用しよう。だが、妙な真似はするなよ?おかしな様子を見せたら…」

「判ってるよ。また脇腹を刺されたんじゃ堪らないからな」

俺の言葉に、記憶を消されている03は怪訝そうな顔をする。

実はこれ、大博打だったんだが、どうやら上手く行ったようだ…。

もしもこの03がフォウとは違っていて、相麻のやり方に納得済みで従っていたとしたら、大変な事になっている所だ…。

この男が本気でフォウを案じているのは、ビャクヤのように感情の匂いを嗅ぎ分けられない俺でも解る。

だって、フォウが無事だと知った時の彼の顔には、驚きと同じぐらいに、喜びが浮かんでいたから。

「…あんたの携帯、相麻に位置を特定されるんだろう?ここに置いて行こう」

俺がそう提案すると、03は少し迷った後、筐体の上に携帯を置いた。



「04!?本当に04なのか!?生きていたんだな!?」

俺の家の電話からビャクヤに預けた俺の携帯にかけ、フォウの声を聞くと、03は驚きと困惑、そして嬉しさを滲ませた声

を上げた。

「そ、そうか!本当に、本当に自由になれるのか!」

少し先走ったかとも思ったが、俺の判断は、今回に限っては正解だったみたいだ。

でも、消気水を使ってここまで連れて来たとは言っても、まだ油断はできないな…。

03とフォウの話が終わった後、俺は電話を代わってもらい、ビャクヤと話した。

「軽率だったかな?母さんには、家には戻らないよう、話した方が良いかな?」

『今回はまぁ、お手柄だったと誉めるしかないなぁ』

怒られるかもしれないと思っていたが、意外にも、ビャクヤは苦笑交じりの声でそう言ってくれた。

『でも、そうだね…、念には念をだ。君は荷物を纏めて、すぐにでもこっちへ向かって。ケイコさんは、仕事が終わったら山

の麓に来るように伝えて欲しい。僕らで迎えに行こう』

「判った。…ビャクヤ、その…、大丈夫…だよな?爆弾…」

『そこは任せておいて。一人分だけだから、楽なものだよ』

ビャクヤの軽い調子の声を聞いてほっと安心しながら、俺は電話を切った。

「さて、夜逃げ準備だ。悪いけどちょっと手伝ってくれないか?」

「ああ。ああ!何だって手伝うとも!ありがとう!本当にありがとう!」

03はいたく感激している様子で、俺の手を握ってブンブンと上下に振り、何度も、何度も礼を言った。

…ちょっと…照れ臭いな…。



母に連絡を取り、最低限の荷物を手にして、俺と03はアパートを離れた。

「何処へ行くのだ?」

「山の上だ。相麻も周辺を探っていたみたいだけど、フォウが身を寄せている所はまだ見つかってない、安全な場所だ」

03の問いに答えた俺は、ふと思いついて彼に尋ねてみた。

「あんたも、やっぱり自分の名前は持ってないのか?」

「ああ。今与えられている番号ならば03だが…」

「何か名乗っちゃえよ。もう相麻と縁を切るんだ。あっちが勝手につけた番号なんかを名乗る必要は無いだろ?」

03は一瞬戸惑ったように、大きく瞬きした後、

「そ、そうか…。そうなのだな…!」

少し嬉しそうに笑みを浮かべた。

いかつい顔にごっつい体付きだけど、笑みを浮かべると案外人が良さそうな顔になる。

「だが、名前か…。これまで、自由になれる日が来ると考えた事なんて、一度も無かったからな…」

「ゆっくり決めれば良いよ。あんたはもう、自由なんだからさ!」

俺が笑いかけると、03は大きく頷き、笑みを返した。

予定はほんの少しだけ早まったけれど、計画の大筋はそのままだ。

俺は、明日にはこの町を離れて、ビャクヤの仲間達の所へ向かう事になる。

ビャクヤとカワムラの為に俺がしてやれる事…。

色々と考えた結果、この町ではもう、俺がやれる事は何も無いという結論に達した。

二人のために俺がしてやれる事…。それは、向こうへ無事に辿り着いてからの事だ。



山の麓に辿り着き、農道のガードレールを超え、俺と03は森に踏み入った。

「…そうか。アザフセ…な…。ネクタールと戦ったライカンスロープとして、その名は聞いていたが、二人居たのか…。しか

も、その一方がまさかこんな田舎の山奥に身を潜めていたとはな…。これでは誰も気付くまい…」

「俺だって、生まれてからずっと、十八年間もこの町で暮らしてきて、この山にまつわる妙な噂なんか、一度も聞いたことは

無かった。ビャクヤが徹底して周囲との関わりを断っていたからなんだろうな」

話しながら歩いていると、03がふと足を止めた。

「どうした?」

「…私は、このまま行って良いものだろうか…?」

振り返って尋ねた俺に、03は俯き、苦悩するような表情で呟いた。

「自由になれると知り、有頂天になっていたが…、まだ相麻には、私と同じような境遇の者達が…」

 …そうか…。同じような被害者の事を考えると、そう浮かれてもいられないのか…。

せっかく自由になれるっていうのに、やっぱり相麻を潰さないと、本当の開放を実感する事はできないんだろう。

この03も、そしてフォウも…。

「大丈夫だ。ビャクヤは相麻を潰して、全員助け出すつもりだ。きっと、あんたの仲間も皆…」

俺は言葉を切る。そして03と一緒に素早く振り返った。

「何処へ行くつもりなんだ?03」

からかうような、そしてどこか面白がっているような、声…。

その主は、俺達の視線の先、ほんの10メートルも離れていない所に立っていた。

ジージャンを着た若い男…。商店街で見た、03に同行していた内の一人だ…!

「そこのガキ…、何者だ?」

03はちらりと、「任せろ」と言うように俺に目配せしてから、平静を装って口を開いた。

「地元の学生だ。山を案内して貰おうと…」

「言い逃れは出来ませんよ?話は聞かせて頂きましたからね」

俺と03は全身に緊張を漲らせて振り向き、再び行く手に視線を戻す。

間違いなく、今まで誰も居なかったはずの俺達の進路に、一人の男が木に背を預けて立っていた。

さっき見たもう一人の方…、全身をレザーのライダースーツで覆った、赤い髪の男だ。

「離反を企てた代償、高くつきますよ?裏切り者に与えられる処罰は、知っていますね?」

腕組みした男の口から漏れる静かな、そして穏やかな声…。

そこに秘められているのは、恐ろしく冷徹な何か…。

胸の内でチロリと揺らめく銀色の炎…、つまり人狼の本能が教えてくれた。

この二人が、紛れもなく敵だという事を。

目の前に居ながら、二人からはライカンスロープの気配がしない。

消気術。ビャクヤが教えてくれた中にそんな技術がある。

俺がいつもお世話になっている、気配を消す水、消気水。それも無しに、ライカンスロープとしての独特の気配を消すって

いう技術だ。

でも、それは非常に難易度が高い高等技術で、ビャクヤに簡単な説明を受けたものの、俺もフォウも体得には至っていない。

ビャクヤの話では、天性の資質を持った一部のライカンスロープ以外にとっては、肉体操作を完全に極めてもなお、体得が

難しい技術だという事だ。

その消気術を、この二人は体得しているのか…!?

「ミスト。オレにやらせてくれよ」

後方の、ジージャンの男が軽薄な笑みを浮かべて言った。

「体が鈍って仕方ないんだ…。たまには狩りをしないとな」

03は素早く二人の立ち位置を観察し、低く、小さい声でオレに告げた。

「逃げろ…!ここは私が食い止める…!」

「気遣いは有り難いが、却下だ」

俺はそう即答し、四肢から外れて弾け飛ぶ鎖をイメージした。

先手を取ってどちらかを行動不能にする。もう一方は二人がかりでなんとか片付ける。

恐らくどっちも俺より格上の相手だけど、人間の姿のままなら、人狼のスピードには対応できないはず…。

先手必勝、一撃必殺!勝機はソコにある!

変身が終わるのを待たず、俺は進行方向に居る、ライダースーツの男へと突進した。

行く手を遮るこいつを何とかすれば、小屋に向かって逃げながら、応援を待つ事ができる…!

間合いを詰めながら変身を行い、銀の被毛が生え始めた右拳を固め、男の顔面へと繰り出す。

が…、俺は、信じられない面持ちで、人狼の拳を簡単に受け止めた片腕を見つめた。

深紅の被毛に包まれた、鋭い爪を備えた手…。

「奇襲…。悪くない判断です。相手の変身所要時間が長ければ、有効だったでしょうね」

驚愕に目を見開いた俺の眼前で、赤い虎が、口の端を微かに吊り上げた。

一瞬。ほんの一瞬で、男は深紅の被毛に包まれた虎へと姿を変えていた。

先に変身を開始した俺よりも、遥かに短い時間で…!

戦慄に、背中の毛が逆立つ。

全身が鳥肌立ち、足に震えが来そうになる。

本能が、叫ぶように警告を発している。

消気術で気配が探り辛いからなんだろう、実際に正体を目にするまで、力を読み違えていた。

…まずい…!こいつ、俺の予想を遙かに上回るバケモノだ…!

奇襲で無力化する?二人がかりで仕留める?…冗談じゃない!

03と二人がかりでだって、間違いなく勝ち目は無い!

こいつから感じるプレッシャーは、訓練の時にビャクヤから感じるものに匹敵する!

がっしりと掴まれた俺の右拳が、ギリギリと握り込まれる。

悪寒が、俺の全身を貫いた。

理由は解らないが、すぐに離れなければ危険だと、胸の内の銀の炎が警告してる。

だが、掴まれた腕を振りほどけない!

「るおぉぉおおおおおおおっ!!!」

近距離から呪縛の咆吼を叩き付けた。

が、虎は微かに顔を顰めただけ。…今はそれでも十分だ!

一瞬の隙を突き、左手の爪を硬化させ、素早く振るう。

虎と俺の間で、真っ赤な鮮血が飛び散った。

「良い判断です」

飛び下がって間合いを離した俺を見つめ、虎は感心したように呟いた。

「い、イミナ君…!」

戦慄と緊張から荒い息を吐き、赤虎を睨みながら腕を押さえた俺の隣に、駆け寄った03が並んだ。

その視線は俺の右腕に注がれている。自ら肘の下で切断した、俺の腕に。

赤虎の腕には、ボロくずのようになった俺の右腕が握られている。

まるで鋭い刃物で切り刻まれたように、あちこちでパックリと、無数の傷口が開き、所々で骨が覗いている。

まるで、切れ目を深く入れ過ぎて焼き上げた、骨付きソーセージのように…。

赤虎の前、俺が立っていた場所を見れば、地面に螺旋型の切れ込みが無数に走っている。

腕を捨ててでも離脱しなければ、全身が同じ攻撃にさらされていたはずだ。

何らかの能力なんだろうが、正体は良く解らない…!

「イミナ君、逃げろ!こいつらは…私よりも強い!」

警告を発しつつ、03は全身に力を込めた。

全身を剛毛が覆い、手足と胴体が膨れあがる。

ライカンスロープとしての姿、直立した猪へと姿を変えた03は、突き出た大きな鼻を「ぶるるっ!」と、荒々しく鳴らす。

「おいおい、オレを無視して貰っちゃ困るなぁ?」

背後から響いた声に、ちらりと視線を向ければ、そこには前をはだけたジージャンを羽織った狐の姿…。

俺達の後ろに居たもう一人は、狐のライカンスロープだったようだ。

…きつ…ね…?ビャクヤから、前に何か大事な事を言われていたような…?

その事を俺が思い出すと同時に、狐は右手を真っ直ぐに突き出し、ニヤリと口の端を上げながら、指を鳴らした。

瞬時に身を伏せた俺の頭上で、炎が爆ぜる。

狐火…!狐のライカンスロープは、遠隔発火能力を持つとビャクヤから聞いていた。

思い出すのがもう少し遅れていれば、上半身を丸焼きにされていた…!

背を焦がされて呻いた俺の横から、03が巨大な砲弾のように、狐めがけて突進した。

舞い踊る火の粉を吹き散らし、高速で突貫した筋肉の塊のような体躯を、しかし狐はひらりと飛び越える。

飛び越えられた03は、そのまま正面の木に突っ込んだ。

猪突猛進。止まれないのか!?

一瞬俺がそんな事を考えていたら、激突するように木に突っ込んだ03は、勢いそのままに、頭突き…、っていうか、顔?

それとも鼻でか?とにかく身体の正面でぶち当たった木をあっさりへし折る。

03を飛び越えた狐は、猪の背めがけて腕を突き出した。…まずい!

発火現象が引き起こされ、炎の花が咲く。肌を焦がす熱から、左腕を上げて目を庇った俺は、はっきりと見た。

思いの外素早く横に跳んで避けた03が、たった今、自分でへし折った木…、適当な所でさらに折られて丸太の形状になっ

たソレを担ぎ、投擲体勢に入っている姿を。

猪は左手を下に添え、下辺に右手を添え、胸につける形で丸太を構えると、宙の狐目掛けて力任せに投げ付けた。

折れた箇所がぎざぎざになっている丸太は、屈強な体躯の猪に放り投げられ、狐目掛けて宙を走る。

狐は忌々しげに顔を歪め、焼き払うつもりなのか、それとも爆発で軌道を逸らすつもりなのか、伸ばした両手の手の平を向

けた。

「火暗、それは下策ですよ?」

身を屈めた俺の背後で、虎の声が静かに響いた。その時には、俺は既に跳躍に移っている。

03が放った丸太めがけ、腕を突き出していた狐は、斜め後方から素早く跳びかかった俺に気付き、視線を移す。

「ちっ!」

赤虎にカグラと呼ばれていた狐は、舌打ちしながら腕をこちらに向けるが…、遅いっ!

自分に向けられた右腕を、残った左腕で掴んで射線を逸らしつつ、胴めがけて渾身の蹴りを叩き込む。

「げはっ!?」

固定された状態で腹に蹴りを入れられ、カグラは胃液を吐き出した。

接近し過ぎて十分な威力は乗せられなかったけど、腕を掴んでいるせいで、蹴っても間合いが開かずに、重い衝撃が残る。

せっかくのチャンスを逃す手は無い、もう一発だ!

足を引いて二発目に備えた俺は、03が身を屈め、突撃姿勢に移っているのを視界の隅の方で確認する。

よし、地面に蹴り落として、03に跳ね飛ばすか轢き潰すかして貰おう。

今度は顔面に叩き込むべく足に力を込め、蹴りを放つ直前の体勢になった俺の耳に、

「いかん!イミナ君、避けろ!」

03の、切羽詰った警告の声が届いた。

背筋を這い上がる寒気。全身の被毛が逆立つ。

咄嗟に身体を捻った俺は、背に衝撃を受け、カグラの腕を放していた。

前方へ吹き飛ばされ、木の幹に叩き付けられて落下した俺を、滑り込んだ03が受け止める。

っく…!背中に…撃!?身体がおかしい…!首のすぐ下辺りからが痺れて、手足が満足に動かない…!

俺を吹き飛ばし、カグラを左腕に抱いて、木の幹に右手と両足の爪を食い込ませて止まった赤虎は、ゆっくりと、俺達に視

線を定めた。

噎せていたカグラは、虎の片腕一本で、太めの木の枝の上に軽く放り投げられると、少しふらつきながらも枝の上に着地する。

俺が思っていたより、ダメージは与えられていなかったらしい…。

両腕が自由になった赤虎は、木の幹を抉って跳躍した。

「来る…!」

頭上からの急襲に対して警告すると、03は衝撃で動きが鈍った俺を抱えたまま、地面を転がって回避行動に移る。

赤虎の腕が地面に突き立てられ、周囲でつむじ風が巻き起こる。

またあの能力だ。たぶん、衝撃とか、真空波とか、そんな感じの能力…!

攻撃を避け切れなかった03の背に、何ヶ所もの深い裂傷が刻まれる。

「左後ろ!右手側に回った、また来る…!」

吹き上がる土くれの向こうで、赤い身体が横へ回り込んで来るのが見えた。

03は俺の言葉を信じてくれたのか、大きく左前に跳んで、横合いから飛び込みつつ振るわれた赤虎の爪から逃れる。

「見えるのか!?ミストの動きが!?」

赤虎の動きを少し遅れて目で追いつつ、03は驚愕している様子で俺に声をかける。

「目で追う…だけなら…!上、いや右斜め上から左!」

…まずい…!反射を上げた脳と目でも、動きを捉えるのがギリギリだ!やっぱりこの虎、格が違う…!

なんとか首を捻って確認してみたら、身体が動かない訳が解った。

ヤツから受けた攻撃、おそらく爪による一撃だったんだろうが、俺の背中はそれだけで、背骨の一部と肋骨を露出させるほ

どに抉られている。

修復にはかなり時間がかかる深傷だ。失った右手の再生に力を回す余裕は無い。

速く、そして重く、正確な攻撃…。

もしも03の警告が無かったら、気付くのが一瞬遅れていたら、真後ろから心臓を掴み取られていた…。

一方カグラは、呼吸が落ち着くと同時に、憎々しげに俺達を睨んだ。

あっちには運良く一発入れられた。

アバラに少しヒビが入った程度のダメージでしかないが、呪いが効いて修復はできない。

あいつだけなら何とかできるかもしれないが…、ここは闘争よりも逃走を選ぶべきだろう。…だが…。

03は満足に動けない俺を地面に降ろして背後に庇い、虎を睨み付けた。

「時間を稼ぐ…!逃げろ!」

その囁くような警告にも、従えるような状況じゃない。

…うかつだった…!先手を打てば何とかなると思ったが、甘過ぎた…!

「…俺は…、ほとんど動けない…!…03、あんたが逃げてくれ…!」

右腕と背中の激痛に耐え、最大速で傷を修復しながら、俺は03に告げる。

彼だけの方が、逃げ切れる可能性はまだ高い…!

「どっちも逃がすかよ…!」

カグラが、両手を俺達に向けた。…まずい…!この体じゃ、発火能力を避けられは…!

「シャッ!」

その時だった。唐突に、頭上で鋭い呼気が聞こえたのは。

見上げた視線の先で、桃色の獣が木の幹を蹴り、高所から高速落下して来る。

「なっ!?貴様はっ!」

宙から急降下して襲い掛かる桃色の猫に対し、カグラが両手を向ける。

赤い花が咲いたその空間から、寸前に枝を蹴って角度を変えて逃れた猫は、再度木の幹を蹴って角度を変え、水平に跳躍し

て狐に肉薄する。

ガッという接触音と共に、猫と狐が弾き合うように離れた。

目を見開いて乱入者を見つめる狐の右手は、肘から指先までが白く凍り付いている。

「ゼ…」

俺達の前に立ち、狐と虎に相対した美しい獣。

その背に、03の声が浴びせられる。

「ゼロヨン!」

04…フォウは、尻尾をくゆらせ、両の手の平から白い冷気を発散させている。

油断無く虎と狐を見据えながら、彼女は囁くように言った。

「まだ無事か?03、ヨルヒコ…!」

全身に緊張を漲らせ、被毛を逆立てた薄桃色の猫は、普段にも増して凛々しかった。