FILE19
消火剤の乱舞が落ち着き始め、白い空気が透明さを増してゆく中、赤い虎は、ゆっくりと足を踏み出した。
フォウの能力で凍結させられていた足は、自己発熱で完全に解凍され、踏み締められた氷が湯気を上げる。
「では、報酬分働くとしましょうか…」
ミストはきゅうっと口の端を吊り上げ、冷たい笑みを虎顔に浮かべた。
俺とフォウは全身に緊張を漲らせ、ミストの一挙手一投足を凝視する。
おもむろに、赤虎の右手が袈裟懸けに振るわれた。
大きく振った腕から、白い空気を切り裂いて、真空の刃が放たれる。
狙いはフォウ。一撃必殺のフロストメモリーは、やはりミストにとっても早々に潰しておきたい能力らしい。
高速で飛来した真空刃を、フォウは体を捻って大きく傾け、なんとか避ける。
真空刃で吹き散らされた薄桃色の被毛が、フワリと宙に舞った。
攻撃を回避するフォウを視界の隅で捉えながら、俺はミストに突進する。
俺とミストの戦闘能力には歴然とした差がある。
近接戦闘でもヤツの有利は変わらないが、離れていればあの真空刃で一方的に攻められる。これ以外に選択肢は無い!
「ルオォォォォオオオオッ!!!」
呪縛の咆哮を放って突進した俺は、僅かに動きを鈍らせたミストに肉薄した。
先手は俺。寄ってしまえば咆哮を放つ隙も無くなる。アドバンテージを得て打てるこの一手は、貴重な一撃だ。
突進しながら大きく引いていた左腕を、加速と体重を乗せて突き出す。
俺の手で傷さえ負わせれば、人狼の呪いで修復不能にできる。
動きを鈍らせない事には勝負にならないが、少しずつでも傷を負わせて行ければ…!
硬化させて、鉄分で黒ずんだ鋭い爪が、空気を貫いてミストの胸へと真っ直ぐに迫る。
黒爪の切っ先がヤツの被毛に触れるか触れないか、そんなタイミングでミストは呪縛を振り解いた。
僅かに身を傾けつつ、左手で俺の腕を内側からいなす。
肩口の被毛を吹き散らし、俺の左腕は空を切った。
俺の左手の内側を叩いていなしたミストの平手が、その鋭い爪をギシリと硬質化させた。
背筋を駆け上る戦慄を捻じ伏せ、右拳を固める。
踏み締めた右足、伸ばす膝、捻る腰、背筋、肩、肘、力を一瞬で伝播させて、拳を振り上げる。
顎を目掛けて真下から捻じ込んだソリディファイ・インパクトは、しかし両側から挟み込むように動いたミストの両手で、
がっしりと掴まれた。
勢いを殺す爪が腕に食い込み、皮膚を切り裂き、筋肉を突き抜け、骨を擦る。
「チェックメイトです」
ミシリと音をたてて、俺の右腕が圧迫される。っく…!抜けられないっ…!?
耳の奥が不快な気圧の変化を察知して、大気の変調を訴える。
…まずい…!真空刃!?
脇腹目掛けて蹴り込んだ右膝が、素早く上がったミストの左足で防がれる。
絶体絶命のその状況で、助けは、頭上から入った。
ミストは唐突に俺の腕を放し、首を横に傾けつつ真後ろに下がった。
一瞬前までミストの頭部があった空間を撫で過ぎて行ったのは、薄桃色の長い毛に覆われた右手。
その手が発散する冷気が、俺の鼻先をくすぐった。
俺の目前、ミストが立っていた位置に、頭上から急降下して来たフォウが、柔軟な体をバネにしてたわめ、音も無く着地する。
後を追って突っ込んで来ていたんだろうフォウは、上へ跳び、天井を蹴り、俺の上を飛び越える形で、ミストを頭上から強
襲していた。
下がったミストは、右肩を押さえながら虎の唸り声を発し、ゆっくりと立ち上がったフォウは、その獰猛な眼光を真っ直ぐ
に受け止める。
フォウの左手が掠めたのか、ミストの肩は凍りついている!
「やった!右肩を…!」
「僥倖と言って良いな」
右腕を修復しながら横に並ぶと、フォウは緊張を解かないまま、ミストの右肩を注視した。
「だが…浅い…。ヤツならさほど時間をおかずに解凍できるだろう…」
実際、ミストはまた体温を上げているらしく、すでに右肩から湯気が上がっている。
ぼやぼやしてたらすぐ元通りだ…。片腕が封じられている今を逃す手は無い!
「フォウ…。もう一度つっかかってみる。詰めを頼む」
「判った。私のスピードではミストの隙を突くのが精一杯…。近接戦闘を挑んだところで、昨日と同じ轍を踏みかねない…。
少々情けないが、君に頼るしかないな…」
突撃のために身を屈めた俺に、フォウの声が届く。
後詰めはフォウに任せた。俺は切っ先としてヤツに挑むだけだ!
足の爪を床に食い込ませて足がかりにし、一足目で出来る限りの初速を得る。
飛び出した俺の後ろで、床のコンクリートがひび割れ、砕けて散る。
高速移動で急激に狭まった視界の中、ミストの姿が拡大される。
初手は、今度はミストの方だ。
右肩から押さえていた手を離し、バックハンドで振るうと、広げられた五指から、これまでのものより小型の、五つの真空
刃が飛ぶ。
全部は避けきれない!左腕を上げて目を庇い、後は刻まれるに任せる!
左腕を、右肩を、左脚を抉られながら、それでも速度を落とさず、俺はミストに突っ込んだ。
引いていた右拳を、横っ面めがけてフック気味に打ち込む。ミストの左手が上がり、その拳を掴み止めに来る。
かかった!
肘を深く折って引き戻した俺の右拳は、ミストの手に捕まる事無く空を切る。
ミストの目が見開かれて、フックを放った勢いそのままに回転する俺の姿が映った。
反時計回りに身を捻った俺は、突進と回転の勢いを乗せたソバットで、ガードに上がった左腕ごと、ミストを蹴り飛ばす。
「っぐ…!」
人狼の持ち味の一つは、機動力。
亜音速にも至る高速移動を支えるこの脚は、体格から言えば破格のスペックだ。
未成熟とはいえ人狼の蹴り、さしものミストも左腕一本で止める事はできなかった。
踏ん張った足が床を抉り、大きく後退したミストは、俺を睨みながら身構える。
どうやら一矢報いられて、その気になったらしい。
ソバットから間髪入れず、四つん這いで着地すると同時に、そのまま滑るように低姿勢で動き出した俺は、やや弧を描く格
好で、ヤツを左側から急襲した。
背中側まで大きく振り被った右手を、頭上を通して垂直に振り下ろす。
薪でも割るようなモーションで振り下ろすそれは、手刀の形で爪まで硬化させたソリディファイ・インパクトだ。
空気を断ち割って振り下ろされた銀の刀を、ミストは素早く身を捌いて避ける。
横に軽くステップしたミストの左手で、湾曲した五本の爪が、黒々と輝いた。
振り下ろした腕を、逆袈裟に振るって追撃する俺。
広げた五指の爪を、袈裟懸けに振り下ろして迎撃するミスト。
ミストの左腕と俺の右腕が交差し、ギンッという音と共に、折れた爪が宙に飛んだ。
しまった!こうも簡単に折られるとは思ってなかった!
爪を半ばから断ち割られた俺の目に、ニヤリと笑みを浮かべるミストの顔が映り込む。
下から振るわれたミストの爪が、唸りを上げた。
灼熱感。衝撃。視線を妨げる赤い影。
グラッと後ろに倒れ掛かった体を、引いた右足でなんとか支える。
左の脇腹から、右の肩までが、ザックリと切り裂かれていた。
赤虎の爪は心臓や肺にまで達したのか、裂けた胸から勢い良く鮮血が吹き上がってる。
その向こうに、返り血に染まったミストの勝ち誇った顔が見えた。
足から、全身から力が抜け、体が揺れる。
背骨が抜き取られてしまったかのように、体勢が定まらない。
激痛が鈍痛に変わり、目の前が暗くなって…、意識が…遠のいて…。
「ヨルヒコぉっ!」
フォウの悲鳴に近い声が、遠のきかけた俺の意識を繋ぎ止めた。
…死にたくない…。
裂かれた胸の奥の奥、深い所で、銀色の炎がチラリと揺れた。
…まだ、死ねない…。
炎は輝きを増し、体の底から力が湧いて来る。
…帰るんだ…。フォウと一緒に…。
護りたい相手の顔が、暗くなりかけた視界を過ぎり、踏ん張った足に僅かながら力が戻る。
…ビャクヤと一緒に…。
義兄の顔が目の前に浮かび、五体の感覚が戻って来る。
03や、仲間達と一緒に…。
猪の顔が視界を過ぎり、霞んでいた視界が鮮明さを取り戻す。
皆で一緒に…!
俺の中で、銀色の炎が弾けた。
穴の空いた肺を修復し、切り裂かれた心臓をギュッと縮め、血を吐き出していた傷口を一瞬で塞ぐ。
何が必要なのか、どこの修復が最優先か、俺は頭じゃなく本能で悟った。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォッ!!!」
突き上げる衝動に身を任せ、俺は咆哮を上げる。
呪縛の咆哮じゃない。これは呼びかける遠吼え。
その叫びに、ミストに纏わり付いていた俺の一部が応えた。
ミストの表情が一変した。自分に起こった変化に気付いて。
赤虎の身を、なお赤く染め上げていた俺の血。それが、急激に黒く変色して、黒い煙を上げる。
…いや、煙じゃない?これは…炎…?
物理的な熱も、力も、実体も無い、黒い揺らめきが、ミストの体から立ち昇る。
「な!?これは…?痛ぅっ!」
ミストは苦痛に顔を顰め、黒い炎を振り払おうと腕を振り回す。
だが、炎はただ揺らめくばかりで、勢いを弱められたりはしない。
本能的に察した。これはきっと、人狼の呪いの一種だ。
ビャクヤは言った。俺達にとって血は力。血を支配する事が、生き延びるためには重要だと。
俺は、自分の体を離れた血を、無意識の内に支配したらしい。
ミストの体、俺の血を浴び、呪いの炎が上がっている箇所から、真っ赤な血がしぶいた。
これは…?呪いが皮膚を蝕んで、体に浸透して行ってるのか…?
苦痛に顔を歪めたミストの瞳が、驚愕の光を湛えて俺を見つめる。
「ま…まさか…!?貴様はブラッドグラスパー!?」
耳慣れない言葉を口にしたミストは、呪いの炎に焼かれた顔を押さえ、呻き声を上げて後ずさる。
千載一遇のチャンスだ!
痛みは無視して、動きに支障がある部分だけを高速修復する。
残された力は少ないが、もう少し、踏ん張れる…!
俺は大きく一歩踏み込み、呪いの炎に焼かれて悶え苦しむミストめがけ、渾身の前蹴りを放った。
右足が、無防備だったミストの胸部を捉える。
驚愕の色を浮かべるミストの目と、闘志を失わずに睨みつける俺の目が、ほんの一瞬だけ絡み合った。
突き詰めるなら、ミストの油断…。それが、俺が生き残れた理由だ。
ミストが最初から全力で潰しに来ていたなら、俺は数秒も保たなかった。
ミストは俺を舐めていた。一度圧勝しているし、力の差は歴然、油断するのも無理は無い。
ビャクヤは言った。殺し屋は相手を殺す事を目的とする、と。
そして、その仕事の性質上、大概が自分より格下の相手を標的とする。
「戦う事」じゃなく、「殺す事」に慣れているミストは、簡単に殺せる相手だと、俺を軽視した。それが、ヤツの敗因。
蹴り上げられたミストは、天井に叩きつけられ床へと落下する。俺の集中が切れたせいか、呪いの炎はすっと掻き消えた。
宙で身を捻り、体勢を整えて両足で着地したミストは、
「っぐぅ!?」
着地と同時に凍り付いた自分の足を見下ろし、苦鳴を漏らした。
ミストが着地した箇所は、白い冷気を発散する、氷の上だった。
「仕込みは十分…。どうだ?入念に熱を奪っておいた床の歩き心地は?」
少し離れた所で床に両手を押し当て、真っ白な霜を周囲に漂わせながら、フォウは口の端を吊り上げて艶然と微笑む。
フォウは、俺がミストと交戦している間にヤツの右側へ回りこんでいた。
それで意図を察した俺は、途中から、ヤツの左手側から攻めて注意を逸らさせる事にした。
時間にして約十秒にも満たない時間稼ぎと、フォウの張った罠にミストを押しやるのはなかなかに重労働だったが、結果的
にはなんとかやり遂げる事ができた…!
…あとは…。
俺は四つん這いになり、四肢の爪を床に食い込ませ、突撃体勢を整える。
さっきも言ったが、まともにやり合ったら勝ち目は無い。先の立会いを見ても明らかなように。
だが、動けない所に砲弾が撃ち込まれれば、いかにミストでも無事には済まない…!
感覚を高機動モードに切り替え、衝撃に耐えられるよう骨格を強化する。
さらに脚力を極限まで強化、筋肉が膨張し、一回り太くなった足を限界までたわめる。
両足で増大してゆくテンションを、床に突っ張った腕で押さえ込む。
しっかりと狙いを定め、床に食い込ませていた腕の爪を引き抜く。
次の瞬間、留め金が外れたスプリングが弾け跳ぶように、俺の体は銀の矢と化して宙を奔った。
瞬間的に亜音速に至った俺の視界の中で、ミストの姿が急激に拡大する。
最大攻撃で切り抜ける。
それは、圧倒的なまでに格上の相手に挑む際、非常に効果的な手段の一つだと、ビャクヤは言った。
まともにやり合えば結果は見えているが、人狼にはパワーバランスをひっくり返せる一撃がある。
不完全とはいえ、ビャクヤ直伝、インパルス・ドライブからのソリディファイ・インパクト。
当たればどんな相手だって無事では済まない上に、俺の攻撃で傷を負わせれば、人狼の呪いで高速修復が不可能になる。
握り込み、固めた拳がミストに迫る。…が、
「ふっ!」
ミストは両足を固定されたまま、体を後ろに投げ出し、ブリッジの姿勢で俺の突進を避けた。
ミストの上を飛び越えた俺は、そのまま貨物エレベーターに突っ込む。
その時、ブリッジして逆さまになったミストは、恐らくは驚愕しながら、その上下がひっくり返った視界で俺の姿を認めた
だろう。
貨物エレベーターの牢屋を思わせる鉄柵は、俺の体を受け止め、ぐにゃりと湾曲していた。
激突寸前に体を反転させていた俺は、飴細工のように引き延ばされ、限界まで伸びきった鉄柵に両足と左手で踏ん張り、真っ
直ぐに腕をミストへ向け、腰の後ろから引き抜いた銃を構えている。
二度の銃声。
不安定な姿勢だったため、避け損なったミストの左肩と右胸で血がしぶく。
二発で弾切れになり、奪った銃のスライドは、後ろに滑ったまま止まる。
三発目は、俺自身だ!
銃を手放した俺は、空薬莢が落ちる前に、既に再跳躍の姿勢に移っている。
さっき鉄柵に激突した時に、衝撃を逃がし切れなかった俺の体のあちこちで、骨が爆ぜ割れ、筋肉と腱がブチブチと千切れる。
体の耐久力は限界に近いが、俺のインパルス・ドライブは、まだ止まっていない!
「オオオオオオオオォォォッ!!!」
身体の奥底から突き上げる、激しい衝動のままに雄叫びを上げ、俺はミストを再強襲した。
逃れる事はもちろん、身を起こす間すらない、ミストは腹筋で体を支え、顔の前で右腕を構える。
先の銃撃で肩に穴を空けられた左腕は、俺の狙い通り、すぐには動かせないようだ。
そこへ、大気の壁を打ち砕きながら、固めた右拳が突き進む。
次の瞬間、ミストと接触する前に、バシュッという音と同時に俺の右腕がバラバラになった。
真空刃で俺の肘から先を輪切りにしてのけたミストが、血煙の向こうで残忍な笑みを浮かべる。
俺は激痛を堪え、獰猛な狼の笑みで、ミストに笑い返してやった。
バラバラに刻まれた右腕を引きつつ、体を捻り、右足を引き付ける。
右腕は囮だ。ソリディファイ・インパクトは、右膝に仕込んでる…!
加えて言うなら、真空刃は連射が利かないと聞いてる。…弾切れだよな、ミスト!
顔を庇うミストの右腕に、俺の右膝が接触する。
接触の瞬間に、感触の違和感に気付いたんだろう。
膝こそが本命だった事を悟り、ミストの顔色が変わった。
両腕ならいざ知らず、腕一本で人狼の蹴りを防ぐのは、さすがのミストでも不可能だ。
インパルス・ドライブを上乗せしたソリディファイ・インパクトが、ガードしている右腕を弾き除けて、ミストの顔面に飛
び込んだ。
俺の膝は赤虎の鼻を潰し、上顎を破砕し、顔面に埋没し、その体を激突の勢いそのままに弾き飛ばした。
ミストは弾丸のように吹き飛び、入り口の鉄扉をぶち破って外へ出て行く。
一方、一瞬で力を燃焼し尽くした俺は、激突の衝撃で斜め上に跳ね上がり、受身すら取れずにビタン!と天井に激突した。
顔面をしたたかに打ち、クラクラしながら落下する俺を、ふわりと、柔らかく優しい感触が受け止める。
激痛を堪えて目を開けると、駆け込んで跳躍したフォウが、俺の体を抱き止めてくれていた。
一瞬見交わした視線で、フォウは「よくやった」と、褒めてくれた…。
体格で勝る俺を支えたまま、霜の張った床へ着地し、かなり滑って停止したフォウは、シャッターが破れた部屋の入り口へ
と視線を向けた。
顔面が中心に向かって落ち窪んだミストは、よろよろと立ち上がり、ぼたぼたと血をたらす顔を俺達に向けている。
その全身の、呪いに蝕まれてできた傷からは、止め処なく血が滴り落ちている。
「ごぼろっ!ぼほっ!ぼのれっ…!よぐぼ…!よぐぼっ、わだぢに…ごんなばねをっ…!」
砕けた鼻と上顎、それと溢れ出す血のせいで恐ろしく不明瞭な声が、ミストの口から漏れる。
ヤツの両足は、足先が無くなっていた。
どれだけの低温になっていたのか、芯まで凍結していた両足は、激突の衝撃で甲の途中でもげ、支えるべき上の部分を失っ
た状態で、いまだにぽつんと床に張り付いている。
右腕は肘と手首の中間で折れており、血で斑に染まりながらも、僅かに白さを覗かせる骨が、肉と皮を突き破って飛び出てる。
左腕も無事ではないが、こっちはまだ動かせるようだ。
「ごろぢでやるっ!ぎざばらっ!ごろぢでやるぅっ!!!」
不明瞭に呪詛の声を上げるミストの左腕が、大きく後ろに引かれた。
真空波を放つつもりのようだ。
だが、俺の体は衝撃で麻痺し、おまけにインパルス・ドライブの使用で消耗し切って、全く動かない。
フォウも、俺を抱えたままでは避けきれないだろう。
だが、俺もフォウも、じっと入り口を見たまま動かない。
もう、動かなくてもいいんだ。
逃げようとしない俺達の様子に気付いたのか、いびつにひしゃげた顔の中で、ミストの目が怪訝そうな光を帯びる。
直後、ピクリと耳を動かし、赤虎の首が弾かれたように後ろへ巡った。
やっと気付いたんだろう。俺とフォウの視線が自分を見ていない事に。
「ドルルルルルルッ…!」
手負いの赤虎の真後ろ、手を伸ばせば触れられる距離に、白い巨犬が立っていた。
ミストと遭遇した直後に、俺が放った呪縛の咆哮。あれは、ビャクヤを呼ぶ為の物でもあった。
効果範囲を狭めたあれは、ミストの背後の貨物エレベーターに飛び込み、空調等の配管を伝い、ビャクヤの元に届いていた。
唸り声を発してミストを威嚇するビャクヤは、全身を血で染めた凄まじい格好だった。
トレードマークのオーバーオールは、広範囲が返り血で赤黒く染まり、所々で裂けたり、すり切れて破れたりしている。
ここに至るまでの修羅場が、一体どれほどの物だったかが容易に窺える凄い有様だが、ビャクヤ自身には深手を負っている
様子は無い。
絶望的な状況…、のはずが、ミストは臆することもなく、傷ついた体でビャクヤに向き直った。
「げっぢゃぐを…、あざぶぜびゃぐやぁっ!!!」
赤虎は全身の被毛を逆立て、ビャクヤを威嚇して唸り声を上げた。
正直なところ、この点に関して、俺はミストを見直した。
どう足掻いても勝ち目のない、確実に自分を仕留めるであろう相手を前に、恐らくは死ぬ事を確信してもなお、臆する様子
も怯んだ様子も、ほんの僅かも覗かせない。
誇り高く、堂々と胸を張るその姿。
殺し屋というカテゴリーに入っていても、ミストはひとかどの戦士だった。
「ゴォッ!」
赤虎が猛り、左腕が斜め下から振り上げられる。
ビャクヤの右手がそれを上回る速度で下から叩き、ミストの左手は天を向く。
発射角を逸らされた真空刃が天井を切り裂き、血管のように張り巡らされた配管などを露出させる。
切れたケーブルから火花が降り注ぐ中、二人の両手が激しく交差し、空を切り裂いた。
足先をもがれて動けないミストに対し、ビャクヤは真っ向から、足を止めて殴り合いを挑んだ。
馬鹿だと思う。少なくとも利口な選択じゃないと思う。
ビャクヤのスピードがあれば、足を使って動き回りさえすれば、ミストは為す術も無く、一方的に打ち砕かれるはずだ。
でも、俺はビャクヤのやり方を支持したい気持ちで一杯だった。
おそらくは、決着を望むミストが悔いを残さないように、その求めに応じて、真正面から殴り合ってるんだ…。
馬鹿正直で、不器用で、お人好しな義兄の姿が、俺にはとても誇らしかった…。
素早く引き降ろされたミストの左手が、突き込まれたビャクヤの抜き手をいなす。
即座にビャクヤの左拳がボディへフックを叩き込むと、ミストは体を捌き、被毛を散らせて避けながら、折れた右腕を力任
せに振るう。
横から叩きつけられた赤虎の右拳に対し、ビャクヤは腕が二本に見える程の速度で左腕を引き戻し、肘から先を回転させ、
手首のスナップを利かせて、拳を内から外へとワイパーのように跳ね上げた。
「ふっ!」
鋭い呼気と共に、最小限の動きで繰り出されたソリディファイ・インパクトの裏拳は、赤虎の右腕の肘から先を砕き散らした。
肉片と霧のような血しぶきが飛び散る中、ビャクヤは裏拳と同時に右拳を引き、ぴたりと脇腹につけていた。
抉り込むような回転を乗せ、獣の顎を思わせる形に、グバッと大きく五指を開いた右手が、音の壁を食い破って突き出される。
俺の物とは似て非なる、予備動作無しの静止状態から発動が可能な、完成されたインパルス・ドライブ。
驚愕に値する反応速度で、ミストの左手が進路を阻み、ビャクヤの手を掴み止めようと大きく広げられる。
刹那、再び赤い霧が散った。
ミストの左手はビャクヤの手に触れた途端に、まるで砂山が突風で吹き散らされるように、粉々に分解された。
ビャクヤの右手はそのまま突き進み、その進路上にあるミストの胸の真ん中に、ぽっかりと、大きな風穴を開けた。
赤虎の体を貫いたと思った瞬間には、ビャクヤの手はすでに引かれ、攻撃前の姿勢に戻っていた。
赤虎の分厚い胸は、左右に僅かに枠組みのように残っているだけで、肋骨も、背骨も、肺も、心臓も、その他の臓器も失い、
向こう側が覗けるようになっている。
ソリディファイ・イレイザー。
前にソレを一度だけ見せてくれた時、大木の真ん中に綺麗な風穴を作ったその一撃を、ビャクヤはそう呼んでいた。
超音速の運動エネルギーと、衝撃波を纏った一掴み。
鋭い捻りを伴うその手に握り込まれれば、軌道上に存在する物質は、塵のように細かく分解されて、砕け散る。
当たった箇所を破壊するどころか、跡形もなく消し飛ばす一撃。
とは言っても、俺には全てが見えていた訳じゃない。
俺の目が捉えたのは、接触の抵抗で僅かに速度が落ちた瞬間、かろうじてコマ落としで捉えられた数瞬だけだった。
胸をごっそりと抉られ、絶命して崩れ落ちる赤虎の前で、白犬はゆっくりと構えを解いた。
その顔には、因縁に決着をつけた達成感も、強敵を屠った高揚感も浮かんでいない。
ビャクヤは目を細め、生命の消失を悼んでいるように、握った右拳を自分の胸に当てて、しばらくの間ミストの亡骸を見下
ろしていた。
しばらくそうした後、ビャクヤは床に跪き、血溜まりの中で動かなくなったミストの亡骸を抱き上げる。
そして通路の壁際に寝かせ、遙か彼方を見ているような赤虎の目を、そっと指先で閉じた。
ブラッディミストと呼ばれ、恐れられた赤虎は、二度ともう、立ち上がる事は無い。
短い間、屈んだままミストを見つめていた白夜は、やがて立ち上がると、床に屈んで呼吸を乱している俺達に視線を向けた。
「ごめん。遅くなった…」
俺達のすぐ傍に歩み寄って屈み込み、まだ動けない俺の顔を心配そうに見つめ、大きな手で頭をクシャっと撫でる。
それから俺の上体を支えてくれているフォウに視線を移し、安堵の笑みを浮かべた。
「無事で良かった。酷い目に遭わされなかったかい?」
「助けが早かったおかげで幸いにもな。…私の失態のせいで、手間をかけさせた上に、準備が不十分なまま、事を起こさなけ
ればならなくなってしまった…。本当に済まない…」
深く頭を下げたフォウに、ビャクヤは微笑みながら首を横に振った。
「準備はあらかた終わってたし、問題は無いよ。それに、助けに来るのも当然の事さ。何と言っても君は僕の義弟が想いを…」
「ってちょっとビャクヤぁああっ!?」
「あっと…!」
俺が慌てて声を上げると、ビャクヤも慌てて口を押さえた。…カンベンしてくれよ本当にっ!
「義弟が…、何だ?」
俺達の顔を交互に見つめ、フォウは不思議そうに首を傾げた。
…わ…話題を変えないとっ…!
「それはそうと…」
焦っている俺とビャクヤの気持ちを察した訳でもないだろうけど、話題はフォウが変えてくれた。
「ヨルヒコ。君はさっき、何をしたのだ?」
フォウの尋ねている内容が解らず、俺は首を傾げた。
「あの、黒いものは…」
「…あ…」
やっと意味が判った。けど、俺自身、アレが何なのか頭では良く判ってない。…夢中だったし…。
「呪い…、だと思う。でも、俺にも良くは…」
俺達が何について話しているのか判らないので、不思議そうに首を傾げていたビャクヤが、おもむろに口を開いた。
「まぁ、話は後にして…。長居は無用だ。脱出しよう」
笑みを浮かべ、そう言って立ち上がると、
「…とりあえず…、別のエレベーターに行こうか…」
ビャクヤは、俺が激突したせいで大きくひしゃげた貨物エレベーターを見遣り、ポリッと頬を掻いた。
後になって、今夜の事を思い返すたびに、苦笑が込み上げた。
この作戦でビャクヤが想定していなかったのは、唯一、俺が貨物エレベーターを運行不能にしてしまった事だけだったんだ…。