LASTFILE
ヤチさんに運ばれ、一緒に乗り込んだワゴン車で、俺は賑やかな街中まで運ばれた。
煌びやかなネオンに、色とりどりの派手な看板…。
中学の修学旅行で東京には来ていたけれど、こういう夜の顔を見るのは今回が初めてだ。
…改めて思い返せば色々あったけれど、フェリーから降りて、まだ半日程度しか経っていないんだよな…。
俺達を運んでいるのは、運転席と後部座席が仕切られた大型ワゴン。
獣の姿のままの俺達が乗っているのは、当然ながら後部座席で、今は椅子が畳まれて荷台のようになっている。
後部席の窓は全部黒いフィルターで覆われていて、外からは中の様子が見えないようにしてある。
ワゴンに乗り込んでいるのは、俺とヤチさんだけじゃない。
運転している若い男の人は、人間の姿はしていたけど、匂いはライカンスロープだった。
その他にもさらに二人が、獣の姿のまま後部座席に乗り込んでいる。
猫のような、でも少しゴツイ感じのライカンスロープと、黒くて大きな馬のライカンスロープの二人だ。
二人ともヤチさんの仲間で、さっきまで俺達を追ってきていた相麻の追っ手を迎撃して回っていたらしい。
佇まいというか、雰囲気というか、上手く説明できないけれど、相当強そうに感じられる…。
「あ、あの…」
今日の戦いの内容や、撃退の状況についてだろうか、難しい話をしていたヤチさんと二人の話が途切れるのを待って、俺は
少し控えめに声をかけた。
「俺の連れとアザフセさんは…、あ〜、えぇと…、貴方の奥さんは、どうなったんですか?」
俺と良く似た色の銀狼は、目と両腕の修復を終え、他の傷もだいぶ塞がった俺の姿を眺め回しながら、口の端を少しだけ上
げた。
「心配ない。すでに俺達の元締めの所でくつろいで貰っている。君の保護が、とりあえず最後の仕事だった。あまりにも早く
移動するもので、車の方が振り回されて、見つけるのに時間がかかってしまったがな」
「あ、う…!す、済みませんでした…!」
ヤチさんは可笑しそうに含み笑いを漏らし、俺は耳を伏せながら詫びる…。
「…それで、その…、皆、怪我とかは?していませんか?」
「全員無事だ。君の機転が功を奏したな。敵からの接触を受けるよりも早く、俺達の同志が保護する事に成功した。かすり傷
一つ負ってはいない」
ほっとして壁に寄り掛かった俺に、猫のライカンスロープが話しかけてきた。
「見たところ随分若いが…、良い度胸してんじゃねえか。おまけに足の方も大したもんだ。三十以上の追っ手を引っかき回し
て仲間を逃がしてのけるなんて、そうそうできる事じゃあないぜ?」
フォウとは違う、野性的で少しガッチリめのフォルムをした猫は、口の中にズラッと並ぶ、細く鋭い牙を見せて笑った。
後部ドアに背を預けて座っていた黒馬も、腕組みをしたまま重々しく頷いている。
「ユウ君といい、お嬢様といい、この子といい…、今回は若い連中のおかげで、随分と楽に片付いた。我等もうかうかしては
いられないな、ヤチよ」
黒馬の言葉に、アザフセさんは眉根を寄せて目を細め、微妙な表情を浮かべた。
「しつこいようだが、俺の目が黒い内は、ユウに狩人をさせるつもりは無いぞ?」
「いい加減に弟離れしろよ、このブラコン狼…」
呆れたように言った猫から不機嫌そうに視線を外して、ヤチさんは車外へと目を向けた。
…たぶん…、歓楽街って、呼ぶんだと思う…。
俺達を乗せたワゴンは、一層煌びやか…というより、むしろけばけばしいネオンに彩られた区画に入り込み、その最奥に聳
える巨大なホテルの裏手に回り込んだ。
ちらっと見えただけだけれど、ホテルの正面玄関の上には、「シルバーフォックス」と、銀色の文字で記されていた。
ワゴンはホテルの地下駐車場へと降り、ハッチ付きの車用エレベーターに乗り入れて、さらに地下深くに向かった。
地下五階か六階だろうか?随分深くまで潜った後に、やっとエレベーターの扉が開いた。
エレベーターからゆっくりと走り出たワゴンは、同じタイプのワゴンやバンや、黒塗りの高級車が並ぶ駐車場に出て、手近
なスペースに停まる。
「こっちだ」
ワゴンが停まるなり、後部ドアを開けて外に出た黒馬が先頭に立って、運転手と並んで歩き出す。
俺はキョロキョロ周りを見回しながら、その後に続いたアザフセさんと猫の後ろについていく。
重々しい鉄扉を抜け、駐車場からホテル内に入り、廊下が十字に交差した所に差し掛かると、ヤチさんが足を止めた。
「俺は彼をタマモさんの元へ連れて行く。ついでに処理の報告も纏めてしておこう。三人とも休んでおいてくれ」
銀狼は俺をちらりと見ながら、そう、他の三人に告げた。
「判った。んじゃあ任したぜ」
「済まん。先に休憩を取らせて貰おう」
「お疲れ様でした、アザフセさん」
頷いた猫がくるりと向きを変えると、運転手と黒馬もそれに倣って向きを変え、右手の通路に進んでいった。
「では、行こうか」
ヤチさんは俺を促し、通路をそのまま真っ直ぐ進み始めた。
すぐ後ろに続いた俺は、思いがけずにまた二人きりになれた幸運に感謝する。
…車の中では言い出せなかったけれど、今なら…。
声をかけようとした瞬間、ヤチさんが急に立ち止まり、俺は開きかけていた口を閉じた。
ヤチさんの前の廊下の角。そこを曲がってのっそりと現れたのは、白い大きな生き物だった。
一瞬俺にビャクヤを思い出させた、その真っ白で大きなライカンスロープは、俺を見て訝しげに目を細めた後、ペコリとお
辞儀してきた。
それは、ヤチさんよりもさらに背が高い、大きな熊だった。
全身が雪のように白くて目だけが赤い熊は、縦も横もビャクヤなみにでかい…。
会釈を返した俺と、何故か少し顔を顰めているヤチさんを、赤い瞳で交互に、不思議そうな顔をしながら見た後、白熊はヤ
チさんに話しかけた。
「おかえりなさい。怪我とかしてませんか?」
「問題ない。それよりも、早く休めと言ったはずだぞ?ユウ…」
ヤチさんは少し不機嫌そうに、なんだか責めるような口調で白熊に応じた。
「あ、えぇと…。ごめんなさい…。数も多いって聞きましたし、今夜はフータイさんまで出たらしいし…、ちょっと心配だっ
たから…」
白熊は耳を倒して、困ったような顔で笑いながら、カシカシと頭を掻いた。
この熊、体はでかいけれど、その声や仕草から感じるに、かなり若いみたいだ。
俺と同じか、それともちょっと下ってところだろうか?
「フータイには撤収前に直接連絡した。「潰走中の狼藉者共を始末し次第引き上げる」…、だそうだ。あいつの追撃なら、そ
う時間はかからない。すぐにでも戻って来るだろう」
「そうですか…」
「俺達よりも、休まなければならないのはお前の方だ。さっきショウコちゃんに力を譲渡しただろう?無理せずに休め。…で
ないと、フータイも不機嫌になるぞ?」
「うっ!?そ、そう…ですね…!大人しくします…」
白熊は耳をペタンと伏せて、少し慌てたように返事をした。
「今夜はもう大丈夫だ。だから休め…。お前は十分に働いた」
ヤチさんは穏やかに微笑むと、自分よりも頭一つは大きな白熊の胸を、拳で軽く叩く。
何となく解った。ヤチさんが不機嫌そうだったのは、どうやら一働きしたらしいこの白い熊が、言い付け通りに休まなかっ
たからなんだろう。
きっと、この若いライカンスロープを気遣っているんだ。
…うんまぁ、解ったのは他でも無い…、俺がよくビャクヤを、同じように困らせていたからだけれど…。
「はい…。それじゃあ、失礼します。お休みなさい。お客さんも、また明日…」
「あ、うん…。また明日…」
「ああ、お休み。ユウ」
礼儀正しい白熊がペコッとお辞儀し、俺達が来た方向へ歩き去って行くのを見送った後、ヤチさんと俺は再び歩き出す。
「今のはユウと言ってな…。体こそでかいが、歳は君と変らない。仲良くしてやってくれ」
「は、はい…」
頷きながら、俺は白熊の顔を思い出す。
歳の近い同族と会うのは初めてだ。できればこっちこそ、仲良くして貰いたいトコだ…。
それにしても、何処かで会っただろうか?匂いに何となく覚えがあるような…?
それからしばらく歩いた後、今度こそ周りに他の気配が無い事を確認してから、俺は意を決して口を開いた。
「あの、ヤチさん…」
「ん?」
「貴方に…話しておきたい事が、あるんです…」
振り返る事無く、歩きながら返事をした銀狼の背に、俺は足を止めてそう告げた。
訝しげに振り向き、歩みを止めた銀狼の目を見つめ、
「ビャクヤの事です」
俺はゆっくりと、その言葉を口にした。
ヤチさんの変化は劇的だった。
一瞬戸惑ったように瞬きして、それから大きく目を見開き、しばらくの間食い入るように俺の目を見つめてから、銀狼はやっ
と口を開いた。
「…どこで、その名を聞いた…?」
「俺が生まれ育った町で、本人の口から」
「本…人…?」
俺の返答の内容を吟味しているのか、ヤチさんは突っ立ったまま俺を見つめ続けた。そして…。
「…ビャクヤと…、君はビャクヤと会ったのか!?白い大犬のライカンスロープ、字伏白夜と!?」
ヤチさんは俺の肩を掴み、強く揺さぶりながら問いを重ねた。
俺は前後にガックンガックン揺さぶられながら、なんとか頷いて見せる。
「ちょっ…と…!お、落ち着い…て、下さい!きちん、と話し、ますか、らっ!」
我に返ったのか、ヤチさんはハッとしたように俺の肩から手を離す。
「す、済まない…!あまりの事に、つい…!」
あんまり激しくガックンガックンやられたもんだから、脳が揺さぶられてちょっと目眩がする…。
俺は軽く頭を振ってから、ヤチさんに笑いかけた。
「俺にライカンスロープとしての力や戦い方を教えてくれたのは、ビャクヤなんです。貴方の事も聞いていました。自慢の弟
だって…!」
ヤチさんに連れられて行った広い和室では、四人の女性が立派な木机を囲み、俺達を待っていた。
母とフォウ、そしてアザフセヨウコさん、それと初めて会う和服の女性。
「ヨルヒコ!」
俺の姿を見るなり立ち上がった母は、畳の上を小走りに駆けてきて、戦いで汚れ、乾いた血がこびりついた、小汚い狼の体
を抱き締めてくれた。
「お待たせ母さん…。有り難うフォウ、ちゃんと護ってくれて」
美しい薄桃色の猫は、俺の礼に微苦笑を浮かべた。
「当然だ。…と言っても、戦闘すら起きなかったのだがな。こちらの方々のおかげで、安全にここまで辿り着けた」
フォウが視線を向けた、正座している和服の女性とヨウコさんに、俺は身を離した母と一緒に頭を下げた。
母と同じくらいに見える和服の女性は、俺の姿をしげしげと見つめ、それから微笑んだ。
「貴方がヨルヒコ君ね?驚いたわ…。その姿…、本当にヤチ君とそっくり…」
改めて俺と、横に立つヤチさんの姿を見比べると、フォウと母は驚いたように頷く。
ここまで黙り込んでいたヤチさんは、二人の視線を受け、軽く会釈した。
「字伏夜血です。遠路遥々、ようこそお越し下さいました」
そして着物の女性に視線を向けると、
「タマモさん…」
「うん?」
「ビャクヤの事は聞いた」
銀狼は無表情に、でもジト目で睨んだ。
責めるような目で見られた女性は、口元を袖で隠して、やや引き攣った笑みを浮かべる。
…このひとが…タマモさんだったのか…!?
ビャクヤの話では結構年齢がいっているはずなのに、声も若いし、外見だって母と変わらないくらいに見える…。
「相麻の内情を告発して来た、強襲作戦の協力者…。何度聞いても教えてくれなかったのは、それがビャクヤだったからだな?」
「え、えぇと…」
困ったように、やや引き攣った微苦笑を浮かべているタマモさんを、しばらくじっと見据えた後、
「…まぁ、漏らせば俺がビャクヤの元へすっ飛んで行くとでも思ったんだろう…。否定はし切れないから、黙っていた事に関
しては、うるさく言うまい…」
ヤチさんは小さくため息をついて、首を左右に振りながらそう言った。
「ビャクヤさんって…、どういう事ですかヤチ?それにさっき、ヨルヒコさんもビャクヤさんがどうのって…。…まさか…?」
ヨウコさんは分厚い眼鏡の奥の目を、皿のように大きく、真ん丸くした。
「お義兄さんが…、見つかったんですかっ!?」
えらく驚いた様子で尋ねるヨウコさんに、
「ああ。やっと、な…」
ヤチさんは微かな、穏やかな笑みを浮かべながら頷いていた。
「…ヨルヒコ…?」
「良いんだ、フォウ…」
訝しげにこっちを見つめ、何か問いたそうに口を開いたフォウに、俺は大きく頷きながら応じた。
…先に打ち明けてしまったけれど、本当は、ビャクヤの事は時が来るまで、秘密にしておくっていう話になっていた。
でも、ビャクヤとタマモさんの間で交わされたその決め事は、俺の計画にとっては邪魔になる。
俺が受けた、返し切れない程の恩にはまだまだ足りないけれど、ビャクヤの為に…、そしてカワムラの為に…、俺は…。
失礼に当たらないように、俺は静かにタマモさんの前に進み出た。
そして、三歩程の間を開けて立ち止まり、人狼の格好ではちょっとしっくり来ないものの、正座して姿勢を正した。
「玉藻御前様。この度助けて頂いた事、言葉では言い表せない程感謝しています」
慣れない丁寧な言葉遣いに、思わず舌を噛みそうになりながら、俺はタマモさんに深々と頭を下げた。
「気にしないで頂戴な、ヨルヒコ君」
顔を上げた俺は、微笑んだタマモさんの目を真っ直ぐに見つめた。
「ご恩を受けておきながら、こんな事を言うのは心苦しいんですが…、どうしても聞いて欲しいお願いがあります」
「一体、何を言い出すんだろうこの子は?」そんな目で俺を見つめていた母は、続いて俺が口にした言葉を耳にすると、口
元に手を当てた。
「どうか…、どうかビャクヤを連れ戻さないで下さい!」
ヤチさんが、タマモさんが、ヨウコさんが、そしてフォウと母が驚いている中、俺は深く頭を下げて、畳に鼻先をつける。
「ビャクヤには今、大切にしているヤツが居ます…。そいつは俺の同級生で、ビャクヤに助けられたヤツで、ビャクヤに惚れ
ています…!」
丁寧に、丁寧にと思っていたのに、もう、言葉が上手く纏められなくなった。
「そいつは、普通の人間です。それでも、ビャクヤの事が好きで好きで、ずっと想い続けてて…!ビャクヤは、そいつを危険
な目に遭わせたくないから、本当に…、本当に大切にしているから…!だから…、全部終わってこっちに戻ったら、あいつと
は二度と会わないって、そう決めてます!」
静まりかえった部屋の中、俺は土下座したまま叫ぶように続けた。
「俺が、ビャクヤの代わりに狩人になります!何だってやります!だから…、だから!どうかビャクヤを連れ戻さないで下さ
い!あの二人を引き離さないでやって下さい!お願いします…!お願いしますっ!」
しばらくの沈黙の後、俺の耳に、冷ややかな声が届いた。
「…勝手な事を…」
思わず顔を上げると、いつの間にかタマモさんの横に立ち、腕組みをしたヤチさんが、俺の顔を見下ろしていた。
「思い上がるなよ?狩人になるなどと…、軽々しく口にすべき事ではない…」
その鋭い眼光に射竦められ、俺の体はピクリとも動かなくなった。
体の底から震えが来る…、俺とは格が違う、幾多の夜を駆け抜けて来た人狼の眼光…。
「しかも…、言うに事欠いて「ビャクヤの代わりに」だと…?…自惚れるなよ小童!!!」
一喝された俺の体が、雷にでも打たれたように、ビクリと震えた。
情け無い事に、俺は完全に飲まれて、体が竦んで、一言も言い返せなかった。
尻尾が勝手に股の間に入りそうになる。
逃げ出したいほどに体の底から震えが来る。
…でも…!
俺は、ヤチさんの鋭い眼光に射竦められながら、大切な…、大切な義兄と、元級友の顔を思い浮かべた。
退くな!逃げるな!臆するな!
ここまで辿り着いておきながら、こんな事で膝を折るつもりか?忌名夜彦っ!
「身の程知らずな申し出なのは、百も承知でのお願いです…!」
俺はヤチさんの眼光を受け止めながら、勇気と声を振り絞った。
「この身を粉にしても、塵にしても構いません!いくつもの命を奪って、そして皆に助けられて、ここまで繋げて貰ったこの
命…、ビャクヤや仲間の為に投げ出せないなら、他に使うべき道なんて無い!」
無言のままのヤチさんの目を真っ直ぐに見つめ返しながら、俺は思いの丈を吐き出して吼える。
「もう覚悟は決めて来た!俺は仲間の為に生きて、仲間の為に死ぬ!囮にされても、捨て石にされても、文句も言わないし構
わない!だからビャクヤを呼び戻さないで、代わりに俺を使ってくれ!」
ヤチさんの銀色の瞳が、じっと俺の目を見つめている。
空気が張り詰め、静まり返った部屋の中を、時間がゆっくりと流れて行く。
その、ひどく長い沈黙を破ったのは、ヤチさんの発した問いだった。
「言葉では何とでも言える…。その覚悟を証明するものはあるか?」
俺はヤチさんの鋭い眼光を真正面から受け止め、口を開き、はっきりと、気持ちを言葉に変えた。
「証明できるものは何もない。でも、この覚悟が本物だっていう事は、この命と誇りに賭けて誓う!」
俺とヤチさんの視線は、一瞬たりとも逸れる事無く、繋がったままだった。
部屋を満たす、再びの静寂。そして…。
「…どうやら、覚悟だけは本物のようだな…」
ヤチさんがそう、静かに呟くと同時に、息が詰まるような鋭く重い圧力が、不意に掻き消えた。
俺の目を真っ直ぐに見据えたまま、銀狼が続ける。
「だが、君が言ったような「ビャクヤの代わり」など、誰にも勤まりはしない。…例え俺でもな…」
ヤチさんの目から、いつのまにか、鋭い光が消えていた。
代わりに、どこかで見たような、馴染みのあるような光が、その銀の両目に灯っている。
何故、馴染みのあるような錯覚を覚えたのか、すぐに気付いた。
今、俺を見ているヤチさんの眼差しは…、ビャクヤが時折俺に向けていた眼差しに、良く似ているんだ…。
聞き分けの無い弟でもみるような…、そんな、慈しみと優しさを宿した、温かい目…。
ヤチさんは目を閉じて、軽く肩を竦めた。
「それに、今のところ狩人は足りている」
そう言った銀狼は、薄く目を開け、口の端を僅かに吊り上げながら続けた。
「子供連中や、隠居中の馬鹿兄を駆り出さなければならないほどには、俺達はまだ老いぼれてはいないぞ?」
少しの間、呆然としながらその言葉の意味を考えていた俺に、ヤチさんは微笑みかけた。
…精悍な銀狼が浮かべる、優しげな笑み…。
「心意気やよし!だが、身も心もまだまだ未熟…。何度も言うが、君の腕では狩人はまだ無理だ」
そしてヤチさんはタマモさんに向き直り、困ったように肩を竦めた。
「この子といいユウといい、何故最近の若い連中には、狩人希望者が多いのだろうな…?」
「あら?ヤチ君なんてもっと若い頃に狩人になったじゃない?」
「あの頃は人手不足だった。それに…、ビャクヤを狩人から外してやりたかったからな…」
軽く目を閉じ、懐かしそうに言った後、ヤチさんは静かな口調で、タマモさんに話しかけた。
「どうだろうか?ビャクヤを無理に連れ戻さなくても良いと、俺は思うのだが」
タマモさんは目を丸くして、まじまじとヤチさんの顔を見つめた。
…なんだか、すごく意外そうな…?そんな表情だった…。
「どういう心境の変化?まさか、ヤチ君の方からそんな事を言うなんて…」
銀狼は微苦笑を浮かべ、驚いているようなタマモさんに静かに応じる。
「前にタマモさんが言っていたとおり、帰って来たところで、ビャクヤは不自由な生活を強いられる…」
一度言葉を切ったヤチさんは、ヨウコさんの顔をちらりと見た後、苦笑を深くした。
「…そのうえ、大切な相手が見つかったというのなら…、無理に連れ戻すのも…、な…」
それから俺に視線を戻し、銀狼は口の端を吊り上げて笑った。
「交換条件だ。君は俺達にビャクヤの事を、居場所や連絡方法を含めて全て教える。代わりに、俺達はビャクヤの意思を尊重
する。つまり、あいつが望まない限りは、無理に連れ戻しはしない。…どうだ?」
俺は、微笑んでいるヤチさんとタマモさんの顔を交互に見つめ、それから深々と頭を下げた。
「はい…!ありがとうございます…!」
俺が考えたこの方法が、このトライブにとって、そして、そこに加わる俺達や相麻脱退組、亡命者達にとって、正しい事なのかどうかは判らない。
…でもきっと…、ビャクヤとカワムラ、あの二人にとっては…。
「良いんですか?ヤチ…。あんなに会いたがっていたのに…」
おずおずと声をかけたヨウコさんに、ヤチさんはとぼけた様子で応じた。
「なぁに、こちらから会いに行けば良いだけの話だ。山ほどの文句と土産を持ってな。それと、もうじきあいつの甥っ子が生
まれる事くらい、知らせておいた方が良いだろう」
首を傾げた俺の後ろで、姿勢を正して立っていた母が、「まぁ!」と声を上げ、ついさっきまで被毛を逆立ててピリピリし
ていたフォウが「あ…!」と漏らした。
「実は…、妊娠、三ヶ月なんですよ…」
少し恥かしそうに、そして誇らしげに微笑みながら、ヨウコさんはまだ目立っていないお腹をなでた。
「まったく、冷や冷やしたぞ?ヨルヒコ…」
「んん…、悪かったよ…。でも、他に手も思い浮かばなくて…。でもほら!結果的には逃げ切れたろう?」
俺達に用意された、シルバーフォックスの地下、一般人が入れないスペースに設けられた、「その手の客」用の部屋。
かなり立派なそこのベッドにあぐらをかいている俺に、壁際のアームチェアに座ったフォウがため息をついた。
「追っ手をまく為に囮になった事を言っているのではない。先程の彼らへの提案の事だ」
フォウは猫になっても長いままの髪を、手で後ろにすきながら、呆れたように俺を見た。
「約束を違える申し出を、君の一存で玉藻御前へ嘆願した上に…、その懐刀、字伏夜血に一喝され、怒鳴り返すなど…。彼ら
の機嫌を損ねれば、協力の話もフイになるかもしれないとは思わなかったのか?」
「思わなかったさ」
俺は自信満々に即答する。
「ビャクヤの仲間なんだ。何があっても協力はしてくれるって信じていた。ビャクヤをそっとしておいてくれっていう願いを
聞いて貰えるかどうかは、また別だったけどな」
フォウはしばらくの間、黙って俺を見つめた後、
「やれやれ…。同行を申し出て正解だった…。無鉄砲な君一人に、母君の身は任せられないな…」
と、諦めたように言った。
「私も、ビャクヤの提案を受け入れるとしよう」
「ん?」
首を傾げた俺に、フォウは微かな笑みを浮かべて見せる。
「無事に到着した後も、君と母君だけにするのが不安と思われる時には、相麻襲撃に加わらず、二人の身辺警護を継続して欲
しい。それが、ビャクヤの提案だった」
「…へ?…そ、それって…?」
「勿論、彼らへの協力は惜しまないが、私はこれからしばらく、君達のボディーガードとして、身辺警護を継続させて貰おう」
不謹慎だとは思ったけど、俺の尻尾は意思に反して、激しく左右に踊った…。
「さて、私は母君の部屋に戻る。何かあれば遠慮なく呼んでくれ」
立ち上がり、さっさとドアに向かって歩き出したフォウを、
「あ、あのさ、フォウ!」
俺はベッドから立ち上がり、呼び止める。
振り返ったフォウに、俺は顔が熱くなるのを感じながら、ぼそぼそと礼を言った。
「あ、ありがとう。その、何から何まで…」
フォウは少し目を大きくして俺を見つめた後、ふっと、あでやかな笑みを浮かべた。
「礼を言われるほどの事でも無い。私が君とビャクヤから受けた恩は、こんな事では返せない程に大きい」
そう応じてドアに手をかけたフォウは、
「では、これからもまた改めて…、よろしくな、ヨルヒコ」
「…あ、ああ!よろしく、フォウ!」
上ずりそうになる声を抑え、俺はドアを閉めるフォウに、笑顔でそう応じた。
一人になった部屋で、俺はベッドサイドの小さな鏡を見遣った。
そこには、ヤチさんと比べればまだまだ頼りない、半人前の人狼の姿がある。
今はまだ、助けられてばっかりだけれど…、いつかは俺も、あの人やビャクヤのように、揺るぎ無い強さを持った男になっ
て見せる。
自分の手で大切な者を護れる…。そんな男になって見せる。
母も、フォウも、新しい仲間達も、皆纏めて護ってやれるような、そんな立派な男に…。
これまでビャクヤが、俺達を救い、護ってくれていたようにだ!
焼け付くようなジリジリとした熱気を放つ、真夏の太陽に熱せられた煉瓦型ブロックが敷き詰められた歩道を、俺は息を切
らせて駆ける。
…まずい。ちょっと遅れ気味だ…!
人狼になれば余裕で間に合ったんだが、この人の往来の中、白昼堂々と姿をさらすのはもちろん無理。
スニーカーの底をすり減らして急制動、角を曲がった所で、俺の目は待たせていた相手の姿を捉えた。
「ごめんごめん!待ったかユウ!?」
「もう!遅いですヨルヒコさん!」
バス停のベンチ前に立っていた体格の良い…っていうより太め、そして大柄な色白少年は、俺の姿を見るなり眉を顰めて声
を上げた。
「あ…。もしかしてバス、もう行った?」
「…三分ほど前に…」
呆れたように、困ったように俺の顔を見下ろすこいつ、俺よりかなり背が高いし、幅も1.5倍はあるが、実は一つ下の、
高校三年生だ。
名前は字伏優(あざふせゆう)。まぁ、戸籍上は佐久間優(さくまゆう)になってるけど。
こいつもライカンスロープだ。本来の姿は真っ白い毛の熊。
俺がこの街にやって来た日、ヤチさんに連れられて歩いていたシルバーフォックスの地下通路で会った白熊がコイツ。
実はこのユウ、それ以前に、俺達がヨウコさんと待ち合わせるはずだった場所、水族館にも来ていたそうだ。
時間帯を聞くと、どうやらニアミスしかけていたようで…。
つまり、あの時に捉えた、順路の後ろからのライカンスロープの気配…、あれはデート中のユウ達のものだったらしい。
あっちもまた、消気水が薄くなって漏れていたらしい俺達の残り香を捉えて、かなり警戒したそうだけど…。
ヤチさんとユウは、俺とビャクヤがそうしたように、義兄弟の契りを交わしている。
つまり、俺から見たヤチさんは義兄で、ユウは義弟になる。
もっとも、ライカンスロープとしての実戦経験で言うなら、ユウの方が先輩なんだけどな…。
「知っているでしょうけど、フータイさんは凄く厳しいひとなんですからね?」
「わ、判ってるって…。悪かったよ…」
いっこ下のユウにたしなめられ、頭を掻いて詫びる俺は、端から見れば兄と弟が逆に見えているんじゃないだろうか?
ヤチさんは、ユウにも俺にも戦い方を教えてくれない。狩人になるのは反対だそうで…。
だから俺は、ユウが戦い方の指南を受けている人物に、教えを乞いたいとお願いしに行く事にした。
…んだけど…、こうして、のっけからいきなり遅刻してしまったわけで…。
あれから三ヶ月以上が経った。
各地の施設で相次いだ「事故」で壊滅的な被害を受けた相麻製薬では、不幸な事に、先月、トップが突然「事故死」した。
それにより、国内有数の製薬会社の一つが、事実上潰れて消えた。
ライカンスロープの研究に関わったと思われる関係者も、ことごとくが死者、あるいは行方不明者になり、組織としての相
麻も、もはや存在しない。
ビャクヤに率いられた相麻脱退組と、この街の狩人達、そして友好関係にある各地のトライブの共同作戦で、完膚無きまで
に叩き潰されたわけだ。
間を置かずに次々と襲撃を受けて破壊された相麻の各施設の様子は、世間では謎の連続出火、爆発事故として騒ぎになった。
何でも、相麻の各施設で研究されていた薬品の中に、揮発性が高く、発火し易い薬だか材料だかがあったとかどうとか…、
そういう報道がされていた。
マスコミの報道も警察の調査結果も、何とも俺達にとって都合良く纏まり過ぎ…。
そんな風に首を捻っていたら、タマモさんは悪戯っぽく笑いながら教えてくれた。
報道関係者や警察内にも、同志は存在するんだ、って…。
俺も襲撃への参加を希望したが、結局は居残り組だった。お目付役のフォウも一緒に。
「作戦中は俺やクラマル、ソウスケも出払って手薄になる。有事の際には護りを頼む」
ヤチさんにそう頼まれれば、世話になっている立場の俺が強く出られる訳もない。
口にこそしなかったが、母はほっとして、俺に留守番を命じたヤチさんに感謝しているようだった。
もっとも、ヤチさん達の留守中にあんな事件が起こった事を考えれば、俺達が居残りに回されたのも正解だったのかもしれ
ないとは思うけど…。
力不足は痛感してる。半人前扱いされるのは仕方がない。でも、いつまでもお客さんのような状況は嫌だ。
だから俺は、自分を鍛える。
垣間見た、兄達の居る高みに、いつか辿り着けるように…。
ベンチに座って次のバスを待ちながら、ユウは俺に話しかけてきた。
「でも、どうして急にフータイさんなんです?」
機嫌が直ったのか、それとも元々それほど怒ってもいなかったのか、ユウはいつもの柔らかい口調だった。
「う〜ん…。最初はコスケさんに戦い方を教わろうかとも思ったんだけどさ…」
ユウはちょっと寂しそうな顔をしてから、顎を引いて頷いた。
「もうそろそろ、行ってしまいますからね…」
「ああ…。ま、考えても見れば、仮に教わっても、俺に真似できそうな戦い方じゃないけど…」
少しの間、俺達の間に沈黙が落ちた…。
「ところでさ、ヤチさんは予定通りに?」
「はい。ヨウコ義姉さんと一緒に、今朝方出発しました」
気を取り直して話しかけると、ユウは微笑みながら頷いた。
「俺も、その内に会いに行きたいな…。ビャクヤ…」
俺は真夏の青空に浮かぶ、ふかふかと柔らかそうな、真っ白い入道雲を見上げながら呟く。
各地で奮戦し、相麻から皆を救い出したビャクヤの活躍は、タマモさんを通して逐一聞いていた。
そして事件終息後、ビャクヤは元通り、あの山に戻って自由に暮らして良い事になった。
この事は、ヤチさんが相麻襲撃の折に直接会って、ビャクヤに伝えてくれた。
…俺の一存で勝手な真似をしたけど…、願いは、ちゃんと聞き入れて貰えたんだ…。
ビャクヤはこっちに来ないで、直接山に戻る事になった。
人間の姿になれないから、訪ねようとしても、迷惑をかける事になりかねないから…。
本当は、一目でいいから皆に会いたかったはずだ。俺だって…、もちろん会いたかった…。
でも、俺達の英雄は、皆に労われる事も無く、ただ一人、あの山へと帰って行く…。
きっと、そろそろ帰りつく頃だろう。ビャクヤが大切にして、そしてビャクヤを大切に思っている、勝気な女の子が待つあ
の山に…。
そしてこれから先は、ちょくちょく尋ねてくるアイツの相手をしながら、俺と関わる以前のように、のんびりと暮らしてい
くに違いない。
ユウの話では、ヤチさんとヨウコさんは予定通り、今朝早くに家を出て、ビャクヤの住む山へ向かったそうだ。
「会ったらまず、妻を娶った事を思い切り自慢させて貰う」
と、ヤチさんは先日、冗談めかして言っていた。
…でも、口調はともかく、あの目は本気だった…。
「兄さんやフータイさんから名前は聞いてますけど、僕はビャクヤ兄さんと会った事が無いんですよ…」
物思いに耽っていた俺の横でそう呟いたユウは、興味深そうに尋ねて来た。
「どんな人なんですか?ビャクヤ兄さんって?」
俺は少し考え、笑みを浮かべて口を開く。
「そうだな…。強くて、優しい。…いや、優しくて強い人だ。とんでもなく。…初めて会ったのは…」
バスを待って並んで座りながら、俺は誇らしい気持ちで、ビャクヤの事をユウに話して聞かせた。
優しく、強く、そしてとても大きな、俺達の一番上の兄の事を…。
ビャクヤ…。
こっちでの新しい生活にも、ちょっとずつ慣れてきた。俺はちゃんと、元気にやってるよ?
ほとんど何事もなく、大学にも通い始める事ができた。
秘密を知っている人が周りに居てくれるっていうのは、安心できるものなんだな。
ビャクヤがずっと、たった一人で過ごしていた事を思うと、本当に頭が下がるよ…。
タマモさんが便宜を図ってくれて、母さんはホテルで事務の仕事をさせて貰ってる。
前よりも仕事は楽になったのに、収入状況は良くなっているらしい。もう、ありがた過ぎて、感謝の言葉も出て来ない…。
フォウもホテルで働いている。といっても、こっちは裏の仕事。
狩人じゃないけれど、調査員やメッセンジャーとしてタマモさんの依頼で動き、同志達に情報を与えて回る役目だ。
彼女も変わりないよ。硬くて少しズレた言動も相変わらずだ。
ん?俺との事?…まぁ、ちょっとは進展した…、かな…?
…誘えば、二つ返事で、一緒に映画見に行ってくれるし…。
ゴホン!えぇっと、ヤチさんもヨウコさんも、俺達にとても良くしてくれてるよ。
ユウっていう仲の良い弟もできたし、その恋人であり、タマモさんの娘でもあるショウコさんも、俺の事を気に入ってくれ
ている。
…そうそう!相麻脱退組の皆も、それぞれ元気にやってるんだった。
こっちじゃ猪上三郎(いのうえさぶろう)って名乗るようになった元03なんかは、土建屋をやってる同志の所で働き始めた。
相麻から助け出された、獣化因子活性剤を投与されていた皆も無事だ。
襲撃した施設から手に入れた資料を元にして、それ以上の進行や、拒絶反応を抑えるいくつかの薬を作る事が出来たらしい。
たまたま街にやってきた、計算外の心強い客が手伝ってくれたらしくて、薬の精製は予想以上に速く済んだそうだ。
治療が一段落したら、皆に住み処と仕事を斡旋しなくちゃって、タマモさんは大いに張り切ってるよ。
仲間が一気に増えた事、喜んでくれているみたいだ。
…そんな訳で、こっちは皆、順調に新しい生活に馴染み始めている。心配は要らない。
そっちはどうだい?変わりはないか?カワムラは元気に…、ははは!してるよな、当然!
…なぁ…?
…離れ離れになって、会う事が叶わなくなった今でも、同じ土の上、同じ月の下、俺達の心は共にある…。
義兄弟の契りを交わしたあの時、俺に言ってくれたように…。
…そうだよな?ビャクヤ…!