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木々の間を歩き、山を登っていた俺は、妙な気配を感じて近くの茂みに身を潜めた。

微かな気配だ…。聴覚を鋭敏化させていなければ気付けなかっただろう。

…あの日の遭遇以来ここ三日間、麓でも山中でも相麻のヤツらに会う事は無かったのに…。

全身を緊張させ、視覚、聴覚、嗅覚を可能な限り鋭敏化させ、気配を窺う。

人の姿での部分的な能力解放の仕方は、つい一昨日なんとか形になったばかりだ。さすがに人狼の姿の時ほどの鋭敏さはな

いけれど、それでも普通の人間の感覚を遙かに超える探査能力を得られる。

気配は…、三つか?下の方から近付いて来る。日没間際のこの時間、鹿撃ちの猟師とも思えない…。

風向きが変わり、その匂いを嗅ぎ取った俺は、息を殺して目を細める。…あの馬と似たような匂いだ…。つまりライカンス

ロープ、…おそらくは相麻だ…!

うかつに動くのはまずい。茂みにじっと身を潜めていると、やがて、夕暮れの薄闇の中に、三頭の獣が姿を現した。

「…おかしいな…」

「確かに見たのだが…」

犬と熊が、それぞれ周囲を見回し、鼻を鳴らして匂いを探りながら呟く。

消気水…、ビャクヤに貰ったあの香水の効果で、俺の気配を匂いで捉える事は不可能だ。

「気のせいだったのだろう」

そう二人に声をかけたのは、薄い桃色の猫だ。

あの時見逃してくれた猫は、他の二人と違い、肩までの短い袖がついたジャケットを身につけていた。

暗い紫のジャケットは、硬い素材がインナーにでも使われているのか、まるでプロテクターのように形が整っている。

…あいつは確か、ゼロヨンと呼ばれていたよな…。

「ぐずぐずしている時間が惜しい、散開し、探索に戻るぞ」

猫の言葉に犬と熊とが不満げに唸りを漏らし、思い思いの方向へ散って行った。

一人その場に残った04は、ゆっくりと首を巡らせ、俺の潜んでいる茂みに視線を向けた。

「…出て来い。そこに居るのは判っている」

………!!!

「先日もこの近辺に居たな…。何をしているのだ、少年?」

前に見られたのも俺だという事がバレている…!?

観念して立ち上がり、姿を見せると、04は俺の目を真っ直ぐに見据えた。

「…見逃すのは今回限りだ。悪いことは言わない。この山には二度と近付くな。これは警告だ」

…?…また、見逃してくれると言うのか?

「…あんたは何者だ?何をしているんだ?」

俺の問いに、04は目を細めた。

「…なかなか肝がすわっているな…。私の姿を見ても怯えている様子がない…」

猫は踵を返し、俺に背を向けた。

「その質問には答えられない。知れば君を殺さなければならなくなる」

「…何で俺を見逃してくれる?」

「ただの気紛れだ。だが、我等のことは誰にも話さない事だ。…もっとも、話した所で誰も信じはしないだろうがな」

そのまま歩き去ろうとした04は、耳をピクリと動かし、早口に呟いた。

「…隠れていろ…。君は匂いが希薄だ。身を潜めてじっとしていれば、彼らには気付かれない」

言われるまでもなく、何者かの接近を察した俺は、再び茂みに身を隠していた。

俺が茂みの中に戻ってからほんの数秒後、木立の向こうから犬が姿を見せた。

「…誰と話していた?」

「…ただの独り言だ」

少し遅れてやってきた熊が、二人の顔を交互に見つめる。

「男の声が聞こえたような気がしたが…?」

「気のせいだろう」

熊の問いに肩を竦めると、猫は俺が潜んでいる茂みから距離を離すように、静かに歩き出す。

その後ろ姿を見つめていた犬が、不意に足下の枯れ枝をつま先で蹴り上げた。

気配を察した04が振り向く。その顔には、僅かに焦りの表情が張り付いていた。

宙に浮いた枯れ木を犬の足が蹴り飛ばし、粉々に粉砕する。

飛び散った破片は、俺が居た茂み目掛けて…!?

「人間だ!」

破片を避けて茂みから転がり出た俺を目にし、熊が声を上げた。

「…どうも先日から様子がおかしいと思っていたが…。04、どういうつもりだ…?」

犬の冷ややかな声に、04は無表情のまま沈黙する。

「目撃者は始末しろと言われているだろう!反逆行為だぞ!?」

犬とは対照的に、熊は露骨に焦りの表情を浮かべ、04に言い募る。

「子供の一人に見られた所で、任務に支障はない。見逃してやろう」

04の言葉に、犬は苛立たしげに唇をめくり上げ、牙を剥き出しにした。

「馬鹿が…!上にバレたら始末されるぞ!?」

「少年。我々のことは他言しないと、約束できるな?」

俺に向けられた04の言葉に、犬はギリリと牙を噛みしめた。

「冗談じゃない!お前の酔狂に付き合って、こっちまで処分されてたまるか!」

犬はそう叫ぶと、俺に向き直り、ぐっと身を縮めた。

「逃げろ少年!」

04はそう叫びつつ、飛びかかろうとした犬と俺の間に割り込む。

「気でも狂ったか04!?」

「見逃しても問題はないはずだ。頼む。責は私一人が負う」

「この馬鹿が…!そんな戯れ言が通ると思うか!?07!04を抑えておけ!」

熊は犬と猫、そして俺の顔を見回しながら、

「し、しかし…!」

と、戸惑う素振りを見せた。

釈然としないが、この隙を逃すのはまずい!俺はくるりと身を翻し、走り出す。

04は何故か俺を逃がそうとしてくれている。まずはとにかくこの場を離れなければ!

「早くしろ!お前も連帯責任で処分されたいのか!?」

犬の怒声が飛ぶと、熊は叫び声を上げた。

激しく入り乱れる足音、熊が04と犬の間に割って入り、犬は斜面を駆け登る俺を追って駆け出した。

止めようと動く04の行く手を、唸り声を発しながら熊が遮る。

逃げ切れるはずがない。人間の姿では。

駆けながらも、俺はすでに変身準備を勧めている。

大きく窪んでいる、水の枯れた小さな沢跡に飛び込み、岩壁に身を寄せて上を向く。

俺の変身所要時間は13秒。すでに獣毛が生え出し、骨格の変形が始まっている。完了まであと5秒程度だ!

追ってきた犬が沢の縁に立った。俺の逃げた方向を探っているのだろう、真上で左右を見回す。

どうやら、一か八かで崖下に留まった判断は功を奏したらしい。

思った通りだ…、俺と同じ犬型のあいつには、突き出たマズルが邪魔になって真下が見えにくい!

変身を終えた俺は、鋭い爪を収め、きつく握り締めた右拳と腕の骨を硬質化し、両脚の筋力を増強する。

音を立てて足場を抉り、俺の両脚は地面を離れた。

犬は気配を察知して自分の足下に視線を向けたが、…遅いっ!

真下から飛び上がった俺の拳は、犬の顎をまともに捉え、その体を高々と宙へ跳ね上げる。

拳に残る確かな手応えが、犬の下顎が割れた事を教えてくれた。

ソリディファイ・インパクト。ビャクヤから教わった技の一つだ。

拳から肘までの骨格を補強し、激突の瞬間に手首から指先までの関節を固定、肘から先を一塊の杭に見立てて相手に打ち込

む肉弾攻撃。

操作するのは骨格強化と、突進の一瞬のみの筋力強化と、打撃の瞬間の関節固定。

滑らかに、滞りなく三種の操作をおこなう必要があって、コツを掴むまではかなり苦労した。

だが、人狼の持ち味である、全ライカンスロープ中でも屈指の瞬間最大速度を乗せたこの一撃、命中さえすれば威力はご覧

の通りだ。

犬は一発で意識を飛ばされ、回転しながら地面に落ち、ぴくりとも動かなくなっている。

…さてと…。立ち去りたいのはやまやまだが、このままじゃあこの山を確実にマークされる…。

俺は素早く頭を回転させる。…あの、ゼロヨンと呼ばれていた猫の方は話が分かりそうだし、俺を助けてくれようともして

いた…。

…なんとか、話し合いで上手く収められないだろうか…?

俺は犬をその場に残し、猫と熊が居るはずの場所へと駆け出した。



熊と猫は間近で睨み合い、唸り声を上げていた。

「そこを退け07!あの少年はただの民間人だ!」

自分の倍近いボリュームを持つ熊を睨み、04は声を荒げる。

「目を覚ませ04!反逆がばれれば処分されてしまうぞ!」

「我々が処分されたくないように、あの少年とて同じ、死にたくはないだろう!何故今回限り目を瞑ってやれないのだ!」

猫の言葉に、熊は苛立たしげに吠える。

「ああそうとも!俺も死にたくはない!他人に情けをかけて処分されるなど御免だ!我等にはそんな余裕など無いだろう!?」

「07…!判ってはくれないのか!?」

「判っていないのはお前の方だ!冷静になれ!」

「…もめているところ、横から悪いんだけれど…」

木立の間を縫うように移動し、二人に接近した俺は、太い木の陰から姿を現し、声をかけた。

ハッとして振り向いた二人の瞳に、銀色の狼の姿が映り込む。

「…人狼…!?」

熊が全身を緊張させて身構える。

「08の通信にあったのは…、こいつか…!」

猫も腰を落として尻尾を立てた。

「待ってくれ!争いたくはない!」

慌てて言った俺に、07と呼ばれていた熊がごくりと喉を鳴らした。

「考えようによってはついているぞ…。本物の人狼だ、生きたまま捕らえられれば大手柄になる…!」

「待て07!」

04は熊を制して声を上げた。そして油断無い視線で俺を見つめる。

「その声…、君はまさか…、先程の少年か…?」

頷いた俺に、猫と熊は驚いたように目を見開く。

「馬鹿な…、匂いはしなかったぞ?」

「今もそう…、気配が実に希薄だ…。実物をこの目で見るのは初めてだが、これも人狼の力なのか…?」

熊と猫は口々に呟く。

「貴様、05は…、犬のライカンスロープはどうした?」

熊が緊張を孕んだ口調で俺に問う。

…しばらくの間で良い、せめて交渉が纏まるまで、いくらかでもビビッたままで居てくれれば助かるんだが…。

「あっちでおねんねしているよ」

人狼の呪いは死者を呪縛するだけじゃない、生きているライカンスロープにも効果を発揮する。あの犬はしばらく目覚めら

れないだろう。

攻撃と共に傷口に呪いを送り込む事で、ライカンスロープが持つ強力な再生能力の発現を阻害する事ができるのだ。

一度擦り込んだ呪いは数時間に及び効果を発揮し続けるから、人狼に傷つけられた者は、戦闘中の高速回復ができなくなる。

これも人狼が恐れられる理由の一つだ。

「取引したい」

「…取引…?」

訝しげに目を細めた猫に、俺は頷いて見せた。

「俺はなるべくそちらと争いたくは無い。この山を荒らさず、放っておいてくれるならば、そちらの邪魔はしない」

猫は黙って俺の話を聞いている。

「あんた達は今日、ここでは、誰とも出会わなかった。俺も誰とも会っていない。無かった事にして、これからはお互いに不

干渉、という事にはできないだろうか?」

「…そちらに先制攻撃の意志が無い事は解った。…だが…」

猫は静かにそう言い、一歩進み出た熊がその言葉の後を引き取る。

「06と08を殺した人狼を捕らえるまで、俺達に下された追跡命令は撤回されない。そっちの意志など関係ない!」

「…そういう事だ…。悪いな少年…。君が人狼だと…、相麻に仇為す者だと知った以上、見逃してやる事はできない…」

くそっ…!説得は無理なのか…?

…いや、さっきこいつらは処分がどうとか言っていたな?…もしかして、好きで相麻の下に居る訳じゃないんじゃないのか?

必死に別の説得方法を考える俺めがけ、熊がいきなり地を蹴った。

まずい!不意を突かれた俺は、鼻先を熊の爪に掠られながらも、咄嗟に後方へ跳ぶ。

着地して四つん這いになった俺は、追い縋り、続けざまに振り下ろされた熊の腕を、地面を転がるようにして避けた。

身を起こそうとした俺は、ぞくりと背筋を走る物を感じ、素早く横へと身を投げ出した。

本能の警告は正しかった。薄い桃色の長毛をなびかせ、上空から落下してきた猫の蹴りが、地面を大きく抉る。

あまり大きくはない、細身とも言える体付きだが、跳び蹴りの破壊力はかなりのものだ。

もしもだが、まともに食らったなら…、馬に蹴られるのとさほど変わらないんじゃないだろうか…!?

俺が体勢を整える前に突っ込んできた熊が、下から上へと腕を振るう。…まずい、避けられない!

咄嗟に両腕の骨を強化し、交差させて顔面を庇う。腕が千切れるかと思うような衝撃と共に、俺の体は高々と跳ね上げられた。

痺れて使い物にならない腕に代わり、両足の爪を伸ばして、吹き飛ばされた先にあった木の幹に横向きに着地、爪を立てて

静止する。

左腕が肘からおかしな方向へ曲がり、ぶらんと揺れた。…何て腕力だ…!硬化させたのに、一発で左腕が折れている!

木の幹に水平に立つ俺めがけ、04が跳躍した。

空を切って飛来する猫に対し、しかし俺は反撃の手段が無い。左腕の修復には時間がかかりそうだし、右腕はまだ痺れてい

て殆ど動かない!

幹を蹴って跳躍した俺の脇腹を、下から振り上げられた猫の腕が掠める。抜き手は被毛を掠めただけだったが、脇腹にゾク

リとする妙な感触が残った。

飛び移った先の枝で、ひりつく脇腹を見下ろすと、銀の毛が霜に被われていた。

…これはもしかして…、あの猫の能力なのか…!?

ライカンスロープは、各々何らかの能力を持っている。

俺の人狼の呪いや、ビャクヤの不思議な能力がそれだ。

…中には水に渦を巻かせるとか、洗濯機が壊れた時くらいしか出番がないような物もあるらしいが…。

ライカンスロープはそれぞれ、親のどちらかから個体固有の能力を受け継ぐ。大半はこのパターンだ。

別のパターンとしては、人狼には呪いの力、妖狐には発火能力というように、種族毎に獲得する能力が決まっている物もあ

る。俺も人狼なので、当然これに該当する。

それらと関係なく、突然変異的に特別な能力を獲得する個体もいる。ビャクヤがこのタイプらしい。

この猫の場合は恐らく個体固有の能力だ。物質の熱を奪う能力というものを、ビャクヤから聞いている。

少々の冷気ではどうと言うこともないけれど、傷とは違って修復がきかない…。かすってこれなら、直に触れられたら完全

に凍り付くんじゃないだろうか?

俺が宙で身を捻り、立っていた枝の上で身構えると、04は毛を逆立てて俺を見据えた。

美しい。そう思った。

野性的で荒々しく、かつ優雅で流麗…。敵となった猫は、それでも俺の目を奪う危険な美を有していた。

俺は思考を中断し、枝から跳躍して地面に降り立つ。

足場にしていた木は、熊の体当たりで根本から折れ、傾いて行く。

ゆっくりと傾く木の前から、熊が猛然とダッシュして来た。

左腕の修復は五割といった所、右腕はなんとか感覚が戻ってきたが、真っ向から組み合うのは無謀だ。

何せ馬力が違い過ぎる、例え万全の状態でも絶対に力比べはしたくない相手だ。

横薙ぎに振るわれた腕を身を低くしてかいくぐり、俺は熊の脇をスルリと抜ける。

吹き散らされた銀の被毛が舞う中、俺はしっかりと地面を踏み締め、右腕の骨を強化した。

振り向く熊の鳩尾めがけ、ソリディファイ・インパクトを放とうとしたその瞬間、俺は肩に軽い感触を覚えた。

攻撃を中断し、反射的に横に跳んだ俺は、静かにその場に立つ04の姿を見た。

そして、宙から降下してきた04が、俺の肩に触れていた事を悟る。

痛み。冷たいを遥かに通り越した、締め付けられるような鈍い痛みを、俺は右肩と肘に感じている。

「…しまった…!」

薄い氷に被われた俺の右腕は、肩口から肘までが、完全に凍結している。

凍り付いた箇所と接触している、僅かに感覚の残る部位が、ジンジンと、嫌な痛みを脳に伝えていた…。