黒白の脅威

病室を出てドアを閉めると、ヘイシンは女性とは思えないほど厚みのある広い肩を力無く落とした。

病床に伏せる弟は、日に日に痩せ細ってゆく。

病の原因どころか正体すら判らず、有効な治療方法も見つかっていない。

治療に当たっている組織お抱えの医者の話では、進行は食い止められているとの事だったが、彼女の目には弟が日々衰えて

ゆくようにしか見えなかった。

一時の間現況を忘れ、弟の事で頭をいっぱいにしていたヘイシンは、

「どんな具合だ?弟さんは」

例の軽薄な男にそう声をかけられ、瞬時にいつもの厳しい表情に戻る。

男は病室のドアの脇で、清潔な、そして無機質な白い壁に押しつけられたベンチに腰掛け、紙コップに入ったコーヒーを啜っ

ていた。

ヘイシンに鋭い視線を向けられた男は、紙コップの中身を飲み干すと、くしゃっと握り潰してベンチの脇にあるくずかごに

放り込む。

仄かに香りが漂い、鼻先を撫でられたヘイシンは顔を顰める。

ザクロココアなる甘くてくどくてねっとりとした謎の飲み物を愛飲する男の味覚が、ヘイシンには理解できない。

「おいおい睨むなよ。心配してやってるんじゃないか?」

肩を竦めて見せたその男が、しかし言葉の通りに心配しているかどうかは疑わしい。そう、ヘイシンは思っている。

だがそれははずれていた。男はきちんと心配している。

ヘイシンを繋ぎ止める鎖でもある少年に死なれてしまっては困る。

だが逆に、あまり元気になられてしまっても少々困る。稼ぎを期待できるヘイシンは、なるべくなら長く手元に置いておき

たい。

(まったく、良い具合に半死状態で居てくれて助かってるぜ。ま、元気になるのはまだまだ先、たっぷり儲けてからにしてく

れよなぁ坊ちゃん)

胸の内でほくそ笑みながら、男は「行くぞ」と声をかけ、ヘイシンを促して歩き出す。が、数歩も行かぬ内に足を止めると

「ああそうそう」と呟きながら上着の胸ポケットに手を突っ込み、振り返った。

「ほらよ」

ぞんざいに掴んで突き出されたその封筒を一度見遣ったヘイシンは、男の顔に鋭い目を向け直す。

その目に僅かな戸惑いが浮かんでいる事を見て取り、男はニヤリと嫌らしく笑った。

「一日早いクリスマスプレゼントだ。今冬話題の映画…は流石に無理でも、新作DVDなら病室暮らしでも見られるだろうよ」

そう言ってヘイシンの手を取り、デパートのデザイン封筒に入った商品券を強引に握らせると、男は踵を返して歩き出した。

その後ろで、ヘイシンは顔を俯け、

「……………」

僅かに口を動かした後、男に従って歩き出した。

ありがとう、ハンイー。

少し癪だったが、それでもヘイシンがぼそぼそと口にした、ほとんど声になっていない礼の言葉は、しかしきちんと男の耳

に届いていた。

「さて、急かして悪いが雇い主様がお呼びだ。このまま最上階に行くぜ?」

本当はすぐ来るようにと五分以上前に連絡を受けていたのだが、ハンイーは病室内のヘイシンには告げなかった。

急かさなくともそろそろ出て来るだろうと察し、少しばかり融通を利かせてやったのである。

関係者以外が立ち入り出来ないビルの地下施設において各階唯一の出入り口…すなわちエレベーターの前に立ち、ハンイー

は懐からカードキーを取り出す。

新参の雇われ者である彼らには、このキーが一枚しか渡されていない。これをハンイーが管理しているため、ヘイシンは彼

の同行が無ければ弟にも会いに行けないのである。

エレベーターに乗り込み、右壁手前側に背を預けたヘイシンは、ハンイーが階数と暗唱コードを入力している間に軽く目を

閉じた。

そうしていたら、疲れているせいか、珍しく昔の事を思い出した。



ハンイー。それが男の本名なのかどうかは、実はヘイシンにも判っていない。

いくつもの偽名を使っているので、自分に名乗ったその名前もまた偽名である可能性は高い。

とにかく、彼女達姉弟がハンイーと名乗るその男と出会ってから、もう五年になる。

その一ヶ月前までは、彼女と弟は大陸の内陸部、山深い奥地で暮らしていた。

生まれ育った集落…、住民全てがライカンスロープで、同時に親戚のような物でもある、文明の光はまばらでも、のどかで、

水も空気も綺麗な土地で。

かつては幾度もあったそうだが、彼女が生まれてからは他のトライブとの抗争も無かった。そんな穏やかに風と時間が流れ

て行くその集落で、彼女たち姉弟は早くに両親を亡くしながらも、周囲の仲間達に支えられてすくすくと育った。

体格にも恵まれ、天性の闘争センスと極めて希少な力に恵まれたヘイシンは、15の時にトライブの狩人となり、その力を

振るって時折起こる流れ者などとの小競り合いを片付けて来た。

十も歳が離れた弟…ウーシンは、その頃ようやく五歳になったばかりだったが、彼を養って行く事に不自由は無かったし、

危険な仕事も無かった。

しかし、安全で満ち足りた生活は、それからたったの三年で崩れてしまう。

予兆は微かな物だった。育ち盛りのウーシンが少しばかり食欲を無くしたのである。

だが、初めはただの体調不良だと思っていた本人やヘイシン、仲間達も、これは悪い病ではないかと疑うようになる。ウー

シンはどんどん食欲が無くなてゆき、日に日に痩せて行った。

しかしウーシンはライカンスロープ、人間の病院になど連れては行けない。

そのため、集落に伝わる練丹術による治療が試みられたが、ウーシンは一向に回復する兆しを見せなかった。

このままではウーシンが骨と皮だけになって死んでしまう…。焦ったヘイシンは、この集落の事情を知る行商が、哀れみ混

じりに漏らした言葉に縋り付く。

裕福な湾岸部には、獣混じりを用心棒などとして雇う者も居る。そういった者達が抱える医師にならば、ライカンスロープ

を看て貰う事もできるだろうし、そういった所で働けば、請求されるであろう莫大な治療費も何とかなるだろう…。

ヘイシンは藁にも縋る思いで荷物を纏め、弱ったウーシンを背負い、反対を押し切って集落を飛び出した。

だが、現地に行きさえすればどうにかなるという彼女の淡い期待は、間もなく粉々に打ち砕かれる。

山間部育ちの彼女は、都会の人の多さを知らなかった。雇って貰おうにも、そもそもどんな所がライカンスロープの秘密を

知る所なのかが、全く知識のない彼女には判らない。

間違って暴露してしまえば大騒ぎになるし、下手をすれば自分もウーシンも捕まってしまうため、大胆な行動に出る事もで

きなかった。

困り果てながらも打つ手が無いヘイシンは、弟を安ホテルに寝かせたまま、幾日も幾日も街を彷徨い、「それらしい人物」

が居ないか探して回った。

そんな時、彼女の前に現れたのがハンイーであった。

雑踏の中で視線を感じ、足を止めて振り向いたヘイシンは、ハンイーの興味深そうな視線を真っ直ぐに受け止めた。

人混みを慣れた様子で足早に抜け、彼女の前に立ったハンイーは、出し抜けにヘイシンへ囁きかける。

「仕事先でも探してんのかい?獣混じりの姉ちゃん」

ヘイシンも後で知った事だが、ハンイーはライカンスロープを見分けられる特殊な感覚の持ち主であった。

数日前からヘイシンの様子を窺っていた彼は、仕事探しに来たお上りさんと確信し、彼女に声をかけたのである。

その筋の人間に、ライカンスロープの殺し屋や用心棒をマネジメントしている。

ハンイーはヘイシンに自分の事をそう説明した。これまで何十人も仕事を斡旋して来た敏腕なのだ、とも。

胡散臭さはあったが、背に腹は代えられない。弱ってゆくウーシンの事で頭がいっぱいだったヘイシンは、「殺し屋と用心

棒、どっちがお望みだ?」とのハンイーの問いに、

「金になるなら、弟が治るなら、何だってやる」

そう、ぎらつく目をしながら答えた。

この時ヘイシンは18歳。

平穏な未来を捨てる覚悟は、この時にできあがった。



(あれから…、もう五年になるのか…)

ビルの最上階。このビルの支配者が身を置くフロアの広い廊下で、ハンイーの後につき、表面がつるつるに磨き上げられた

石造りの床を踏みながら、ヘイシンは束の間の回想に浸り続ける。

香港に上海、それにマカオ…。金が入る仕事ならば内容を選ばず、雇い主の居る魔都を転々と移って来た。

他に手が無かったのかと問われれば、答えに窮する。あまりにも安易な判断を下したのではないかと思わないでもない。

だが、手っ取り早く金を稼ぎ、ウーシンの命を長らえさせる為にこの選択をした事は、決して後悔していない。

より正確にいうならば、後悔などする余裕も無く、傷を負い、返り血にまみれる日々を送っている内に、もうウーシン以外

の何もかもがどうでも良くなって来たとも言える。

やがて二人は長い廊下の突き当たりにあるドアの前で、四名の黒服達に止められてボディチェックを受け、ハンイーは自前

の拳銃を預けた上で、ヘイシンとともに室内へ通された。

毛足の長い絨毯が一面に敷かれた広大なその部屋は、ビルの最上階約半分を占めている。

天蓋付きのベッドや黒革張りのソファーセットなど、調度品も一流の品のみで固められていた。

床を覆う絨毯の赤に、数々の調度品に施された金細工が眩しい。

赤い天井には金色の龍が彫り込まれており、室内の色彩はとにかく目にうるさい。

ヘイシンが好きになれないこの贅沢な部屋は、社長である壮年男性のプライベートな居室である。

部屋の中央にある応接セットにかけるその男性は、肉まんのような風貌をしていた。

色白で禿頭。背はさほど高くないが、ボールのようにまん丸い。

糸のように細い目は笑っているようにも見えるが、しかし頬の張ったその顔に、ヘイシンは柔和さなど見ていない。

小狡そうな奸計の光が、その細い目にはいつも宿っているから。

どうして悪人と金持ちは高いところが好きなのだろうか?そんな事を考えながら、ヘイシンは胸の内で苦笑した。

自分は悪人だが、高い所はそれほど好きではない。むしろ地べたの方が安心できる、と。

「遅くなってしまい申し訳ありません。大人」

内心はどうあれ、ハンイーが恭しく頭を下げると、ヘイシンもそれに倣った。

「随分と遅いご到着じゃないか」

そう声を発したのは、雇い主の傍に立つ、中背で痩身の優男。

人形のように整った顔立ちに、ヘイシン達を見下すような冷たい光が宿っている。

纏ったスーツは社長のSP達と同じ黒服だが、その上に一枚重ねて纏う空気は、他の黒服達よりよほど物騒であった。

ヘイシンと同じくライカンスロープ。さらに言うなら彼女と同じく殺し屋である。

ただしあちらは欧米系であるため、業界の噂に耳が早いハンイーですら以前は名前しか知らず、実際に顔を見るのは仕事が

被った今回が初めて。

自分達より少し早く、数ヶ月前に雇われたとだけ聞いているが、どうもその短期間で専属のボディーガードに近い立場まで

のし上がったらしい。

先輩風を吹かしている訳ではないだろうが、彼が自分達の事を良く思っていないのは、ヘイシンにも感じ取れている。

一流の殺し屋としての自負があるのだろう。自分を雇いながらも他のライカンスロープ…それも、食うに困っているような

大陸の田舎から出てきた者が追加で雇われるのは、あまり面白くないらしい。ヘイシンはそう思っている。

だが、それだけである。

向こうが自分達をどう思っていようと彼女には興味がない。何度か見たが、大口を叩くだけの事はあって腕は確か。邪魔に

さえならなければそれで構わない。

「先ほどから、おかしなヤツがこの周りを嗅ぎ回っているらしい。若い男だ」

香港出身だという太った雇い主は、甲高い声でハンイーとヘイシンに告げる。

「調べて、問題があるようなら始末して欲しい」

単刀直入に物騒な事を言われても、ヘイシンは眉一つ動かさない。

一応ハンイーが、無関係なようならどうするかと尋ね、その場合は無視して構わない旨返答を貰う。

その後も他にいくつかハンイーが問い、その都度雇い主が答えるのを聞きながら、ヘイシンは考える。

人間、ライカンスロープ、正体がどちらでも始末しろと言われる方が厄介だった。

何せこの国は神経質な程に治安が良い。下手な殺しは自分と雇い主の首を絞める。人間であるかどうかに関わらず、死体は

慎重に処分しなければならない。

指示を聞き終え、了解した旨を雇い主の男に告げて、ヘイシンは踵を返す。

ユウに砕かれた右拳がまだ痛むが、彼女にとっては金とウーシンの待遇の方が大事であった。



塀の上に赤外線式の警報設備が施されている事を見抜き、ヨルヒコは目を細める。

場所を絞り込んで再び人の姿を取り、ぶらぶら無目的にうろついている風を装いながら、青年はオフィス街を捜索していた。

数十分前、手がかりは無いかと近くのコンビニに入った事で、ヨルヒコは予測が正しかった事を確信した。

期待通り、僅かながらあの残り香が感じられたのである。

(絶対…、絶対この近くに潜伏してるはずなんだ…!必ず見つけ出してやる!)

険しい表情を浮かべているヨルヒコは、セキュリティが厳重なビル等をいくつも見て回り、僅かにでも手がかりになる物は

無いかと探している。

そんな青年に、闇の中から鋭い眼差しを向ける一対の瞳があった。

(まだ若いな…)

ヨルヒコから見て風下、街路灯の光が作る陰影の縁に気配無く佇みながら、ヘイシンは体に力を漲らせた。

(だが間違いなく同種。しかもそこそこ出来るようだ。おそらくあの白い熊の仲間か…)

この時間帯は人通りがあまり無い。痕跡さえ残さなければこの場で始末しても良いと、呼び出しをかけた雇い主から告げら

れている。

先ほどからずっと嗅ぎ回っているヨルヒコは、不審人物として彼女の雇い主にマークされてしまった。

いかにライカンスロープ相手に敏感な嗅覚でも、カメラ越しの観察者を嗅ぎ付ける事はできないし、人間の監視者になれば

匂いだけでは感知し辛い。

後方の暗がりで起こっている変化に気付かず、行く手の地面に探索の目を走らせ続けていたヨルヒコは、五感以外の感覚…

虫の知らせとでもいうべき物を受け取り、咄嗟に前へ身を投げ出した。

その後頭部を、強風を伴って左から右へ通り過ぎた何かが掠め、髪の毛を吹き散らす。

「っく!?」

硬い路面に手をつき、前転しつつ跳ね起き、体を捻って反転したヨルヒコは、人狼への変貌を半ば終わらせている。

つっかけているだけになったスニーカーを破って伸びた両脚の鋭い爪が、アスファルトを抉って銀の体を急激に横へ移動さ

せた。

その銀色の残像を、振り下ろされた黒い豪腕が切り裂く。

完全に人狼の姿となって、アスファルトに掻き傷を残しながら四つんばいで急制動をかけたヨルヒコは、低く唸って首周り

の毛を逆立て、銀の瞳に襲撃者の姿を映す。

ヨルヒコが良く知る白熊と似たシルエットが、腕を振り抜いた前屈みの姿勢から、ゆっくり直立に戻る。

不意打ちと追撃を避けた若き狼を、ヘイシンは強烈な殺気が籠もる目で見返した。

白と黒に彩られた巨躯をまじまじと見つめ、ヨルヒコは呟く。

「パンダかよ…。まぁ、中国っていやパンダとか虎とか龍ってイメージはあるけど…、殺し屋までパンダなのか…」

ユウにも匹敵する体躯を誇るジャイアントパンダを見据えるヨルヒコは、しかし余裕があるような言葉とは裏腹に、僅かに

も油断していない。

ジャイアントパンダは、つまり熊である。彼らが特化している単純な膂力とタフさ勝負ならば、いかに人狼といえども分が

悪い。

おまけにこの相手には、ユウをあそこまで痛めつけたという実績もある。無意識にも油断できるはずがない。

「一応確認しとく。お前今夜、白くて太ってる熊を半殺しにしたか?」

単刀直入なヨルヒコの問いかけ。この青年には、タマモのお得意様関連で殺し屋をどうこうしようという意識は無い。義兄

弟を酷い目に遭わせた相手をただで済ませられないという、個人的な怒りで動いている。

その義務感が皆無で、絆と情だけで動いているヨルヒコから発散される怒気は、ヘイシンに疑問を抱かせた。

弟の為と覚悟を決め、初めて暗殺をおこなった時の18歳の自分の姿が、仲間のために義憤に駆られる若い狼に被さって見

えて。

その僅かな回顧の間に、返事が無い事を肯定と取ったヨルヒコが突っ込む。

静止状態から、銀の尾を引く流星へ。

ライカンスロープの中でも突出したスピードを誇る人狼ならではの、並の相手には反応すら許さない急加速攻撃。

目に映る若い狼が瞬時に拡大する中、幻を振り払ったヘイシンが素早く腰を沈めた。

その構えを見て、若き人狼は嫌な予感を抱いた。

十分に加速が乗り、トップスピードから攻撃を仕掛けられる状態にありながら、ヨルヒコは身構えたヘイシンの姿に警戒心

をあおられた。

それは、ヨルヒコ自身その瞬間には頭で理解していなかったものの、経験から来る警戒である。

一瞬遅れて気付いたが、ヨルヒコは身構えたヘイシンに、己の師である虎人の姿をうっすらと重ねていた。それほどまでに、

ヘイシンの身ごなしと構えは、フータイの物に酷似していたのである。

結果的に、その予感がもたらした躊躇いが、ヨルヒコの命を救った。

路面を強く一蹴りし、ヨルヒコは強引に進行角度を変える。突進が一変し、相手の手が届く範囲ギリギリを掠める回避コー

スとなった。

刹那、若き人狼は右肩に衝撃を受け、きりもみ状態となる。

「つぅっ!」

呻きながらも足を広げて爪を路面に食い込ませ、独楽のようにスピンする体を落ち着けたヨルヒコは、相手の背中を見る形

で静止した。

ゆっくり振り向いたヘイシンの目に、銀狼の険しい顔が映り込む。

(ヤバかった!もう一歩でも横へ踏み出すのが遅れてたら…!)

被毛が散り、肌が裂け、筋組織が剥き出しになった四本の爪痕を押さえ、ヨルヒコは牙を剥き出しにする。

左肩のすぐ内側、胸よりの部分から外側にかけて、20センチ近く残った爪跡は、鋭利な刃物で切り裂かれたようにパック

リと口をあけている。もう一歩ヘイシン寄りの位置でこれを受けていたら、肩ではなく胸が裂かれていたところである。おま

けに…。

(腕が動いたのは判ったけれど、手先はろくに見えなかった…!受容体のキャンセル速度はかなり上げてるのに…)

ヨルヒコは相手の力量を肌身で感じて驚愕した。が、ここで引き下がるようなら初めから突っ走っていない。

退く気は皆無。驚きこそすれ萎縮などしていない。そもそもユウが倒される相手、生半可な腕でないだろう事は最初から理

解していた。

ヨルヒコは傷を高速修復し、とりあえず出血だけ止めると、向き直って構えたヘイシンを見据えたまま、ゆっくりと腰を落

として極端な低姿勢になる。

ヨルヒコは基本的に出し惜しみをしない。手の内がバレる事を怖れない。倒してさえしまえば問題ないという考え方から、

その行動方針が固まっている。

そして今夜も、ヨルヒコはただ一度交錯しただけの相手に対し、自分の最大戦力を叩き込む事に決めた。

強敵に対し、下手に策を弄するより全力の攻撃でねじ伏せにかかる事を好むのは、彼ら義兄弟の中でもこの若狼だけである。

「俺版ドライブモード…!プラス、インパルスドライブだっ!」

呟きつつ、ヨルヒコは高速戦闘用に脳を活性化させ、現在持ち得る最大の強化技二つを同時に発動させる。

義兄ビャクヤに教わった瞬間加速に加え、かつて知り合った腕利きの用心棒にアドバイスを貰った、瞬間的な肉体強化法を、

若き人狼は一年以上かけて半ば体得している。

闘争向きでない狸ですら人狼に肉薄する戦速を発揮できるこの強化術は、脳と肉体に極端な負担がかかるために数秒しか保

たない。それでも、もともと身体能力に恵まれている上に、初速だけでも亜音速に達する技を身につけているヨルヒコが使用

すれば、瞬間的ではあるが義兄達に迫る速度を得る事ができる。

全身の筋肉を普段の限界を超えて強化。可能な限り受容体のキャンセル速度を上げ、視覚を鋭敏化。さらに体内の鉄分を両

手にかき集める。

ぎぎぎっと、音すら立てて伸びたヨルヒコの両手の爪は、鉄の如き重い輝きを宿した。

ぞわっと銀色の被毛が逆立ち、一回り膨れあがったように見える敵が発散させる強烈なプレッシャーを肌に受け、ただ者で

はないと察したヘイシンは、さらに腰を深く落とす。

百戦錬磨と言って差し支えない彼女から見ても、多少荒削りではあったが、ヨルヒコの完成度は極めて高い。

(一晩に二頭も手練と出くわすとは…。まったく、なんて夜だ今夜は…)

胸の内で呟いたヘイシンの視界で、ヨルヒコの体が銀の尾を引いて霞む。

そう見えた時には、人狼はヘイシンの間合いに入っていた。

(「無音の領域」だと!?)

驚愕するヘイシンの眼前で、音を追い越し瞬時にゼロ距離に潜り込んだヨルヒコの、斜め下から突き上げるような手刀が煌

めいた。

銀と黒が雪崩打つ刹那の一撃は、ヘイシンの顎の下、首と頭部の境目を狙っている。

のど笛を貫き、動脈と静脈を断ち、頸骨を粉砕する必殺の一撃であった。

が、ヘイシンの反応は、ヨルヒコの予測を上回った。

首を逸らしつつ、突き上げられた腕に追いつく形で、ハンマーのような拳を下から叩き込む。

その神業と言える攻防一体の妙技で、骨格から強化していたヨルヒコの右腕は、叩かれた肘の辺りで嫌な音を発し、粉砕骨

折する。

(かもなぁ…とは、思ってたさ!)

腕を破壊されながらも、若き狼の目がギラリと光る。

その直後、捻るようにして右腕を突き上げていた銀の体の後ろから、ひねりを戻す形で左腕が引っ張り出された。

その指先にも、鉄の輝きが宿っている。

ヨルヒコが試みたのは、一撃目をかわされても、あるいは仕留め損なっても、その後即座に追撃を加えられる二段構えの攻

めであった。

「ソリディファイ・ピアッシング!」

ヨルヒコの雄叫びが発し終えられる前に、その声の先が耳に届くよりも早く、人狼の左腕はジャイアントパンダのどてっ腹

に突き刺さり、背中へ突き抜けた。

一瞬遅れて追いついた、未完成の「無音の領域」によって撒き散らされた衝撃波が、路面を叩き、壁を打ち、両者の被毛を

吹き散らす。

懐に飛び込まれる格好で串刺しにされたヘイシンの口から、ごぼっと、大量に血があふれ、ヨルヒコの顔面を赤く染めた。

(勝った!)

人狼の固有能力…相手を呪う力、カースオブウルブスの発動を感じたヨルヒコは、勝利を確信し、会心の笑みを浮かべる。

人狼に破壊された者は、その呪いによって死に切れなくなる。それが人狼の呪いなのだが、同時にこれはライカンスロープ

の天敵とも言える能力である。

ライカンスロープが持つ強力な修復能力が、この呪いによって阻害されてしまう。

この呪いは傷さえ負わせれば発動するが、しかしヨルヒコの呪いはヤチの物と比べて浸透スピードが遅い。人狼としての単

純な力量差故か、それとも個体差なのか、瞬時に全身に浸透して修復を封じるヤチの呪いとは異なり、ヨルヒコの呪いは傷口

から徐々に範囲を広げ、進行してゆく。

それでも、この場合は傷自体が致命的。これで修復能力が働かないとなれば死は免れない。

ヘイシンを串刺しにし、腕の付け根までその腹に埋めたヨルヒコは、しかし急に怪訝そうな顔になり、視線を上げた。

ゆっくりと上がったジャイアントパンダの腕が、愛しい者を抱き締めるように、銀狼の体に回っている。

それを疑問に思って目を上げたのだが、ヨルヒコは間近で見たヘイシンの眼光で、背中に氷塊を突っ込まれたような気分に

なる。

爛々と輝くヘイシンの双眸は、闘志が全く衰えておらず、強烈な殺気を間近から投げ落としていた。

寒気を覚えたその直後、ヨルヒコは急激に体を締め付けられ、喉をひゅっと鳴らして目を見開く。

べきごきぼりごりっ。

そんな、幾多の音が混じり合ったような物が、ヨルヒコの体の中から響いた。

強烈な締め付けにより、一瞬で背骨が粉砕され、肩胛骨が割れ、肋骨が折れ、内臓に突き刺さる。

「…う…ぶ…!」

体内の空気と共に絞り出された血液が、狼の呻き声を遮って口から噴出し、今度は先とは逆に、ヘイシンの顔や首、胸部を

真っ赤に染め上げる。

ベアハッグにも似ているが、締め上げよりも打撃の要素が強い技であった。

組んだ手、腕の内側、そして胸。満遍なく胸部を囲んだそれらで瞬時に圧迫されたヨルヒコは、全方位から打撃を受けたに

等しい状況で骨も内臓も破壊されている。

ゆっくり腕を解いたヘイシンの前で、ヨルヒコの体が崩れ落ちる。

体に引きずられるようにして、腹から銀の腕が抜けて行く感触に顔を顰め、歯を食い縛ったヘイシンは、路面に倒れ伏した

ヨルヒコを見下ろしながら腹に空いた穴を手で押さえると、その大きな足をゆっくりと上げた。

億劫そうに、緩慢な動作で上がった足の下、今正に頭部を踏み砕かれようとしているヨルヒコは、

「…運が…、無かったな…」

息も絶え絶えに言葉を絞り出し、口を開け、弱々しく喉を震わせた。

るおぉっ…。

誰の耳にも届かないようなか細い遠吠えに、しかし従う物もある。

「!?」

声も無く仰け反ったヘイシンの胸から上が、突如燃え上がった。

それは、黒い炎であった。

人狼の呪いが血液を媒介に具現化した呪いの炎は、血液に至るまで己の体をコントロールできるブラッドグラスパーたるヨ

ルヒコの、できれば使いたくない隠し球である。

仰け反ってよろめき、数歩後退したヘイシンは火を払おうと体を叩いたが、即座にそれがただの炎ではない事を悟った。

被毛の下で、呪いに蝕まれた肌があちこちで激痛と共に裂け、勢い良く血が吹き出す。

よもやこんな形で呪いをかける事ができるとは、夢にも思ってもいなかった。

(この消えない炎に加えて、腹の傷も深い。おまけに人狼の呪いのせいか、修復も進まない。こうなるともう…)

ヘイシンは急に腕を振り回すのをやめ、だらりと両腕を垂らす。

倒れ伏しながらその様子を見つめていたヨルヒコが、観念したのかと思ったその瞬間、ヘイシンはやにわに片足を上げ、ド

シンと踏み下ろした。

相撲の四股。一瞬それを連想したヨルヒコは、その動作はむしろ四股よりも、師や義兄弟がたまに見せる物に似ている事に

気付く。

そして人狼は目を見張った。

地面を震わせる力強い震脚をおこなったヘイシンの両足、その路面と接している部分から、黒と白の何かが滲み出ている。

言うなればそれは円形の、ぼんやりとした白い光と、じわりと滲む黒い影。

右足に光を、左足に影を纏わせたヘイシンの真下で、さらに黒と白がその周囲に生まれて、ある紋様をアスファルトに描き

出す。

それは、黒と白の曲玉が組み合わされて円陣を為したような、陰陽のエンブレム。ヘイシンの両足は、ちょうどその曲玉の

穴に当たる黒と白の位置を踏んでいた。

(何だ…?これが、こいつの能力…!?)

ぼーっと見ていた訳ではない。痛みはともかく動けるように背骨から修復したヨルヒコは、血反吐を吐きながらも上体を起

こし、警戒を強める。

差し違えるつもりで能力を使って来るのかもしれない。だとすれば、勝利が確実となっても油断はできない。

なんとか四つんばいで身を起こしたヨルヒコは、どんな攻撃が来るのかと身構えたが、完成した陣の上に立つヘイシンは攻

めては来なかった。

だが、ヨルヒコは異常を見て取る。

(呪いの炎が…?)

ヘイシンの胸から上、頭部までを覆い尽くす黒い炎が、細かな火花を散らしていた。

徐々に激しくなるそのスパークが目映いほどになった瞬間、パキィンと澄んだ音が響き渡り、燃えさかっていた黒い炎が静

止、ガラスか氷のように結晶化して砕け散る。

「な…!?何だソレ…!」

砕けて飛び散り、大気に溶けるようにして瞬く間に消え去った炎を眺め、ヨルヒコは呆気にとられて呟いた。

見えていた黒い炎だけではない。先に直接打ち込んだカースオブウルブスもまた、炎の消失と同時に消えてしまった事が、

仕掛けた術者である彼には察せられている。

(呪いを打ち消す能力!?そんなのアリか!?…いや待てよ?前にビャクヤからこんなのについて何か言われた事が…)

目の前で起こった現象と、過去に義兄から聞いた話を結びつけながら、大急ぎで傷を修復するヨルヒコ。

その眼前で、足下の陰陽陣を消したヘイシンが、腹の傷を止血しながら足を踏み出す。

(まずい!まずいぞ!コイツはたぶん、俺達と同じ…!俺じゃダメだ!肉弾戦で上を行かれる俺じゃあ、コイツに勝てない!)

相手の能力の正体を悟り、ヨルヒコは低く唸りながら後退する。

屈辱の余り歯ぎしりすらしてしまうが、逃走を試みる決心がついた。

この若い人狼は、無鉄砲ではあるが虚け者ではない。

勝ち目の無い戦いを続行して犬死にするよりは、情報を持ち帰る方がよほど大事だという事ぐらいは判っている。

(何とかしてヤチ…いや、ヤチもダメか!?俺と同じで相性が悪過ぎる!ならフータイさんだ!フータイさんにコイツの事を

伝えないと…!)

ぐっと膝をたわめたヨルヒコが跳躍する前に、ヘイシンはぐんと前に出た。

それまで見せなかった急加速で意表を突かれたヨルヒコは、舌打ちしながら跳躍するが、深手を負っている事もあり動きに

生彩が無い。

振り上げられたヘイシンの両腕がバツの字を描いて交差し、その範疇に残っていたヨルヒコの左脚がくるぶしの位置で切断

される。

「ぐっ!?」

血をまき散らしながら跳んだヨルヒコが傍らの街路灯の上に片足で着地すると、一瞬でもぎ取った足首をぽいっと投げ捨て、

ヘイシンは敵を見上げる。

足を丸々修復するにも余力はギリギリ。しかも修復が終わるまでジャイアントパンダが黙って見ているとも思えない。

いかにして切り抜けるか思案するヨルヒコは、

「苦戦しているようだな。ヨルヒコ」

聞き馴染んだ、しかしこの情けない状況では聞きたくなかった声を耳にし、弾かれたように視線を動かす。

素早く巨体を翻したヘイシンの視線の先には、カーキ色の軍用コートを纏う、凛々しい顔立ちの女性が立っていた。

「フォウ!」

逃げろ。そうヨルヒコが続ける前に、ヘイシンは動いた。

黒白の巨体が信じられない速度で夜気をかき分け、猛然とフォウに迫る。

一瞬驚嘆の表情を浮かべたフォウは、しかしすぐさま凛々しい顔を闘志で染め上げ、ロングコートの胸元を掴んだ。

布が破れる音と、裂かれる音。

強引に破って脱がれ、カーテンのように翻ったコートが、ヘイシンの爪にかかって無惨に切り裂かれる。

そのボロ布となったコートの向こうで薄桃色が翻るのを、ジャイアントパンダは見た。

「凍れっ!」

長毛種の猫科ライカンスロープの姿を取り戻したフォウが、その右手に強烈な冷気を纏わせながら、裂かれたコートの隙間

越しにヘイシンへ平手を打ち込む。

パンダの右の乳房にフォウの右掌打が打ち込まれ、交差するように繰り出されたヘイシンの右手が、猫の左頬からごっそり

と被毛を吹き散らす。

フォウの回避は際どかったが、彼女には仲間の白熊が味方していた。一度ユウに砕かれたヘイシンの右手は、修復が殆ど済

んだ今も本調子ではない。

打たれてたぷんと揺れたヘイシンの右乳房が、纏った黒いキャミソールごと、瞬時に霜に覆われた。

瞬間凍結。それがフォウの能力である。

人造ライカンスロープである彼女は、身体能力では生粋のライカンスロープ達に及ばないが、彼女にはそれを補うこの強烈

な能力と、柔軟で機敏な身のこなし、そして臨機応変な思考能力がある。

奇襲をコートの目くらましでやり過ごし、満足のいく一撃を入れたフォウは、ヘイシンが怯まずに追撃に出る事も予測して

いた。

ボロ切れとなったコートが舞う中、横殴りに振るわれた黒い豪腕を潜ったフォウは、飛び込み前転の要領で地面に転がり、

ヘイシンの股下を潜り抜けつつ、その両太腿の内側を素早く両手で撫でる。

内股が急激に冷却され、凍結させられた事に驚きながらも、ヘイシンはフォウを踏み潰しにかかった。しかしダメージに加

えて筋組織が凍結させられており、その動きは鈍い。あわやという所で転がって逃れるフォウ。

街路灯の上に居るヨルヒコは気が気でない。

フォウは弱くはないのだが、身体能力そのものは平均的なライカンスロープに劣る。自分やユウを退けるジャイアントパン

ダとまともにやり合えばどうなるか…、結果は見えている。

その心配そうな視線に気付いたフォウは、猛撃をかいくぐる隙に一瞬ヨルヒコを見遣り、その顔に浮かんでいる物を見て取

ると、意外そうな顔をしながらも頷いた。

「さて、そこまでにして貰おう!」

場違いに楽しげな声が響いたのは、その一瞬後、上空からであった。

フォウの頭上、ほぼ真上から飛来した黄土色の何かが、薄桃色の猫に覆い被さる。

だがフォウは接触の一瞬前に、地面に付いた右手を支点に熟練者のマット運動の如く素早く身を翻し、奇襲から逃れていた。

「レパード…!」

苦々しい呟きがヘイシンの口から漏れる。フォウを奇襲した豹に、商売敵である優男の面影を重ねて。

邪魔だと言わんばかりに不快げな表情をしているヘイシンを見遣り、豹は膝で砕いたアスファルトの上ですっくと身を起こ

した。

「雑魚相手に手こずり過ぎだ。こんな腕でも雇われるとは…」

卑下するような目でヘイシンを見ながら言うと、レパードは四つんばいで身構えたフォウを見遣る。

「妙な気配だな?お前、本当にライカンスロープか?」

「生粋ではないが、な」

応じるフォウは、相手が自分を舐めてかかっている事を察した。なんとかギリギリで避けた今の奇襲で、豹に身体能力の差

を見抜かれたのだろう。

だが、相手が油断してくれるなら、それはフォウの望むところであった。

「ヨルヒコ!」

「おうよ!」

唐突に上がったフォウの声に、銀狼が反応した。

注意が逸れている隙に失った足を無理矢理再生し、何とか形にしたヨルヒコが街灯の上から跳ぶ。

レパードの目がそちらへ向いた一瞬を突き、フォウは地面に当てていた手から急激に熱を吸収した。

「む!?」

異常を察してレパードが視線を下へ向けた時には、もう遅い。

自分に可能な限度となる強烈な冷却をおこなったフォウの下から、アスファルトがばきばきと音を立てて凍り付き、レパー

ドの足を封じている。

フォウを中心に直径20メートルにも及ぶ瞬間凍結のフィールドは、ヘイシンの足をも凍り付かせていた。

冷却力が駆け抜けた直後のタイミングで、凍り付いた地面に降り立ったヨルヒコは、冷たく光る路面の上を駆け、地面に手

をついているフォウを、脇腹に手を入れる格好でかっさらう。

「逃げる気か!?」

「癪だけどな!」

レパードの声に顔を顰めて応じつつ、ヨルヒコは大きく跳躍して傍らの高い塀の上に着地した。

ちらりと振り返った銀の瞳は、再び陰陽陣を展開しているヘイシンの姿を捉える。

その足下からフォウの冷却で生まれた氷が徐々に砕けて行き、蒸気を上げて気化していた。

「何だ…アレは…!?」

ヨルヒコに抱えられたフォウは、ぐったりしながら呻いた。

フォウの能力は瞬間冷却だが、より正確に言えば熱を奪う能力である。故に処理しきれないだけ冷却してしまうと、冷やし

た分だけ、奪った分だけ、彼女の体にも熱がフィードバックされる。

力の過剰使用で熱暴走を起こし、汗を白い蒸気に変えて発散しているフォウを抱えたまま、ヨルヒコは跳び、悔しさを滲ま

せて口を開く。

「あのパンダは俺達人狼と同じ、アンチライカンスロープ能力の所持者だ!たぶん能力の正体はライカンスロープの固有能力

の作用の無効化…!そんなのもあるって、前にビャクヤから聞いた事がある!だから俺の呪いもフォウのフロストメモリーも、

ああやって消される!」

「なん…だって…?無効…化…!?それでは…まるで…!」

「ああ…!ビャクヤのアンタッチャブルにも似てる…、とびっきり胡散臭い能力だよ!」

高い塀で路地から隔てられた敷地内に着地するなり抱えていたフォウをしっかり背負い、ヨルヒコは脱兎の如く駆け出した。

「悔しいけれど俺じゃ勝てない…!能力が無効化される以上、単純に肉弾戦で上回れなければ勝ち目がない…!」

悔しさの余り歯ぎしりすらしながら、ヨルヒコはフォウを背負って逃げる。

敵前逃亡。それは、本来であればこの若狼が最も避けたがる行為であった。



「この未熟者が!」

ワゴンの中に響き渡った声に、ヨルヒコはビクリと身を竦ませた。

きちんと正座し、耳をぺったり倒し、尻尾を尻と足の間に巻き込み、きつく目を瞑って首を縮めながら。

その真正面、後部ドアの前で正座しているヨルヒコと向き合い、あぐらを掻いている大男は、

「…と、普段ならば言うところだが…、今回は良くやったと言っておこう」

一度は荒らげた声を静かな物にしてそう続け、ヨルヒコを驚かせた。

びくびくと薄目を開けたヨルヒコに、フータイは続ける。

「勝てぬと悟ったその時点で、退くべき場合もある。今回はまさにそれだ。その見極めができただけでも、いくらか成長した

と言えるな」

自身は不甲斐ないと思いつつの逃亡だったのだが、それを厳しい師に珍しく褒められ、若き人狼は戸惑った。

「犬死にならばいつでもできる。大事なのは結果に繋げる事だ。下らん意地を張って玉砕するより、可能な者に託す方がよほ

ど良い。後が無いならまだしも、お前にはヤチを初めとする尻ぬぐいが幾らでも居るのだからな」

フータイはそこまでで一度言葉を切ると、「何より…」と僅かに目を細め、表情を和らげる。

「負けず嫌いのお前が、突っ走っておきながらおめおめと引き下がる…。これがどれほどの悔しさを堪えて決断した事か、こ

れまで傍で見てきた俺には判る。よく我慢したな、ヨルヒコ…」

師からの予想外に優しい言葉に、ヨルヒコは悔しさと嬉しさを噛みしめて項垂れた。

「それで、相手の事が判ったと言ったな?聞かせて貰おう」

フータイがそう促すと、ワゴンの助手席についてぐったりしているフォウが、億劫そうに首を捻って二人を見遣った。

「ホァン師父。それについては私からもお話できると思います。それと…」

人間の姿を取っているフォウは、汗ばんで額に張り付いた前髪を鬱陶しそうにかきあげながら述べる。

「敵は一人ではありません。途中で一頭増えました」

フータイが興味深そうに振り返ると、フォウは確信を込めて頷く。

「見覚えのある姿でした。確認しなければいけませんが、以前タマモ御前に見せて頂いたリストに載っていた者、ジャック・

レパードだと思います」

それを聞いたフータイの目が、やや険しさを帯び、ハンドルを握っていた若者が肩に力を入れる。

「…あのリストに載っていた…だと?」

「はい」

頷いたフォウは、一人判っていないヨルヒコの胡乱げな視線を浴びながら、嫌な味の物でも口にしたように口元を歪め、吐

き捨てた。

「欧州の殺し屋リストに…」



「アイツが割り込んで来なければ、逃げられずに済んだ」

不快さを隠そうともせずに勢いよく椅子に尻を落とし、ジャイアントパンダは低く呟いた。

びきびきぎしっと椅子が盛大な悲鳴を上げるが、意にも介さない。

「言い訳とはらしくねぇなぁヘイシン?」

向き合って座り肩を竦めたハンイーを、ヘイシンはギロリと睨んだ。

ハンイーに与えられたその部屋は、贅沢とは言えないまでもヘイシンの部屋とは段違い。壁はきちんと塗装され、照明も換

気設備も整っており、調度品一式も揃っている。

「事実だ。後から来た女は、レパードが来た事で明らかに旗色が悪いと察した。逃げの一手と心に決めたのはおそらくその時

だ。それまではつっかかって来る気でいた。レパードが来なければ、引きつけて仕留められた」

「はいはい。まぁそういう事にしとこうか」

ハンイーは不満げなヘイシンの言葉を無理矢理中断させ、「けどなぁ」と先を続ける。

「理由はどうあれ、逃げられたんだよお前さんは。こいつはヘマだ。それもかなりデカいヘマ。お前の尻ぐらいのデカさ。お

解り?」

責めるハンイーが軽口混じりとはいえ、自分が取り逃がしたのは事実。ヘイシンは不満げな顔をしながらも頷く。

「今頃レパードの旦那も言ってるだろうよ?お前さんがトロいおかげで逃がした。ってな?」

ハンイーは腰を浮かせると、冷蔵庫に歩み寄ってミネラルウォーターのボトルを二本掴み出し、片方をヘイシンに放った。

「判ってると思うが、雇い主様のご機嫌を損ねるんじゃねぇぞ?」

「判っている」

ボトルを掴んで即答したヘイシンに、「いいや判ってないね、たぶん」と、ハンイーは口を尖らせた。

「ヤバいんだよ。今回の雇い主は。今まで連中とはヤバさの桁が一つ違う。今回に限っては…」

一度言葉を切ったハンイーは、ヘイシンの目をじっと見ながら続けた。

「お前さんの弟、ただ預かられてるって訳じゃねぇ。人質って意味も込めて、カードキーが必要なトコに置いてんのさ」

「…判っている…。だが、もしも連中がウーシンに何かしたら…」

苦々しい声を発したヘイシンは、右手を一閃させ、ペットボトルの上部を撫でた。

「…連中の首も「こう」だ…」

すっぱりと、刃物で切断したように飲み口部分が無くなったボトルを見て、ハンイーは満足げに頷いた。

「お前さんのそういう怖い物知らずなトコ、嫌いじゃないぜ?」

「そうか。あたしはお前の事が大嫌いだがな」

「はぁ〜、つれないねぇ。ただでさえそんなに顔も良くないってのに、そんな無愛想じゃ嫁の貰い手が見つからないぜ?」

わざとらしくため息をついたハンイーからプイッと顔を逸らし、ジャイアントパンダは苛立たしげに水をがぶ飲みした。

いつも通り刺々しい態度のヘイシンを眺めながら、ミネラルウォーターをちびっと飲み、ハンイーは「まぁ、とにかくだ」

と口調を改めた。

「くれぐれも、これ以上は向こうの機嫌を損ねるなよ?今さっき告げられたが…、ウーシンの病気の正体が判ったそうなんだ

からな」

「何だと!?」

弾かれたように反応して腰を浮かせたヘイシンを、普段以上にニヤニヤしながら見つめ、「おほ、食いついた」とハンイー

は口元を曲げた。

「本当か!?どんな病気なんだ!?治るのか!?」

「獣因子限定発症型栄素枯渇症候群…って言ってたか確か?ボスはBLVD症とも言ってたな…。症例は少ないそうだが、正体

さえ判ればお茶の子さいさい、対処方法ははっきりしているそうだ」

「…本当に…、本当に判ったんだな…?病気の正体が…!」

ヘイシンはそう呟くと、胸に手を当てて頭を垂れる。

「長かった…!だが信じて耐えた甲斐があった…!ウーシンは…、ウーシンはこれで…!」

「ああ。だ・か・ら・だ・よ。くれぐれも今後は失敗するなよな?せっかくここまで来たってぇのに、水の泡にはしたくない

だろうが?」

黙って頷いたヘイシンは、目尻に溜まった涙をそっと拭った。

「鬼の目にも涙…って言葉が、この国にはあるそうだが…。まさにこれかねぇ」

ハンイーはニヤニヤしながら呟くと、背もたれに体重を預けてふんぞり返った。

(さて、ヘイシン達が田舎に帰った後のビジネスパートナーも、ぼちぼち探さにゃならんよなぁ…)



「ヤチからだが、吉報だ」

携帯をぱたんと畳んだフータイは、ホテルシルバーフォックスの地下駐車場で、居並ぶ一同の顔を見回した。

若い人狼、大柄なマスタングに山猫、そして人間の姿を取っているウサギにシマウマ、薄桃色の被毛を纏う長毛の猫と、皆

を一巡した所でその視線はヨルヒコに戻る。

「ヨルヒコの独断が、今回は良い結果をもたらした。始末は一応してあったそうだが、ヨルヒコ達と大熊猫達との闘争痕跡か

ら、ターゲットの匂いを特定できたらしい」

「よっしゃ!さっすが生粋のストーカー!伊達に普段からユウの事つけ回してねーな!」

ガッツポーズを取る山猫と、重々しく真顔で頷くマスタング。一方女性陣とウサギは微妙な顔つきである。

「現時点では、潜伏先を三つのビルに絞り込んだそうだ。雌狐からの攻撃許可は既に出ている。我らは現場付近まで出向き、

奇襲に備えて待機する」

この短期間で得られた浅い情報だけで攻撃に踏み切るのは、慎重な性格のタマモにしては珍しい判断だったが、それも無理

のない事かも知れないと、一同は思う。

タマモの跡継ぎである一人娘…ショウコとユウは、仲間内では広く知られる相思相愛の仲。タマモにしてみれば婿を殺され

かけたような物である上に、付き合いの長いお得意様の身内を何人も犠牲にしてきている相手である。周りから覗える態度は

どうあれ、おそらく胸中穏やかではない。

「出られるか?ヨルヒコ」

「勿論!」

先ほど大ダメージを受け、その修復をようやく終えたばかりのヨルヒコは、師の問いかけに力強く頷く。

この場に呼ばれ、頭数に入れられ、戦力と見なされている事が嬉しかった。これまでに一度もなかった扱いに、血湧き肉躍

る思いである。

「では、フォウ女史と一組になって行動しろ。両者とも万全ではない。フォローし合う必要がある。それに…」

フータイは一度言葉を切ると、意味ありげに二人の顔を交互に見遣った。

「それに何より、両者はこれまで何度も協力して難局を乗り越えた実績がある。コンビとしては悪くない」

フォウは少々驚きながら、厳つい虎人の顔を見つめ返した。

常にヨルヒコの動向に気を配っている事は察していたが、まさか自分の事まで見ていたとは思いもしなかった。

見つめているフォウにはそれっきり見向きもせず、元々の狩人である山猫とマスタングに簡単な確認と打ち合わせを求めな

がら、フータイは思う。

相手と接触したヨルヒコからその特徴を聞き、いささか気になっていた。

(金が欲しいのか、それとも単に人間の営みに惹かれたのか…、おそらくだが、その大女も以前の俺と似たような境遇だった

のだろうな…。大人しく田舎で暮らしている方が、どれだけ幸せだったか知らずに…)

いくらかは共感を覚えたフータイだったが、しかしそれで容赦する気にはなれない。

ヨルヒコを刺激しないよう、そしてヤチが暴発しないよう、冷静な言動を崩さぬよう努めてはいるが、愛弟子を殺されかけ

た彼の腹の底では、じりじりと熾火が燻っていた。



一方その頃、ヨルヒコ交戦との情報を得て、単独で痕跡を調べ、追跡に取りかかっていたヤチは、

(…ここで間違い無さそうだな…)

高く聳える無機質なビルの真下、駐車場と徒歩で歩ける敷地スペースを区切っているツツジの植え込みに身を潜め、瞳を光

らせながら裏手搬入口を見つめていた。

葉の落ちたツツジは身を隠す場所としてはいささか心許ないが、既に時間も遅く、鉄塔に掲げられた灯りの隙間を狙えば、

誰かに間近を通られない限りはそうそう気付かれない程度の暗がりはある。

狩人として類い希な技能を有するヤチは、潜伏、潜入の分野においても超一流の腕前を発揮する。最も得意とするのは奇襲

ではあるものの、その気にさえなればトライブ内の誰よりも着実な隠密行動が取れる。

(さて、このまま乗り込んで、ユウが味わった痛みを百倍にして返してやりたい所だが…、俺一人先走っては堪えているフー

タイに申し訳ないし、ヨルヒコにも良い手本にならない。到着を待つとする…ん?)

ヤチは思考を中断すると、耳をピンと立てて警戒する。

カードキー式のセキュリティーゲートの手前で、大型車両が停車した事が、人狼の鋭い耳で窺えた。

ヤチは僅かに眉根を寄せる。彼が敷地内に侵入してからというもの、深夜という事もあってか車の出入りは一つも無かった。

そこに現れた仰々しい黒塗りのワゴンは、後部の窓が全て黒くなっている事もあり、人狼の勘を刺激した。

(人目を忍んで深夜に出入りする…。ヤバい品の受け渡しなら、本拠地でやる愚を犯すとも思えないが…)

ワゴンが駐車場に滑り込んで来る間に考えを巡らせたヤチは、このビルが漢方薬やサプリメント、そして医薬品を主力商品

に扱う外資系企業の物である事と付き合わせ、不意に浮かんだある憶測について脳内で審議した。

(実際の所はともかく、見た目だけは怪しくない物ならどうだ?あるいは、怪しい品を普通に取り扱っている中でなら目立た

ないような物なら…)

漢方薬の材料は、見た目には怪しさが漂う物も多い。歪なキノコや乾燥させた植物に、昆虫の死骸。時には動物の内臓や爪、

角なども含まれる。

(もしかしたら、あのワゴンに取り付いて中まで入り込めるかもしれない…。攻撃を仕掛ける以上、先に潜伏しておけば陽動

やかく乱もできる)

別働隊となる同士達の動きやすさも考えた末に、ヤチは行動を起こした。

ワゴンから目を離さぬまま、取り出した携帯に手早くメールを打ち込み、送信するなり仕舞い込んで茂みから抜け出す。

そして、銀の体が光を反射しないよう気を付けて暗がりを移動すると、やけに厳重なハッチに向かって進むワゴンへ風のよ

うに迫った。

「…ん?」

「どうした?」

ハンドルを握るドライバーが首を傾げ、助手席の男が尋ねる。

「今、揺れなかったか?」

「そうか?いや気付かなかったが…。気のせいだろう?でなければ風だ」

「そうかな…」

不安げな運転主に笑いかけ、助手席の男は荷台を示すように顎をしゃくった。

「神経質になり過ぎなんだよ。いくら虫の死骸とか動物の骨とか薄気味悪い漢方薬の材料といったって、動いたりするもんか」

「いや、そういうのを怖がってる訳じゃなくてだな…。まぁ、気味が悪いのは確かだが…。気味悪いと言えば、こんな時間で

ばかり配送指定して来るこの会社もだよ」

「仕方ないだろう?日光に弱い品らしい。だから夜しか運べないし、念には念をって事で窓もシート張りのこの車をわざわざ

用意してくれてるんじゃないか?」

「本当は、変な物でも運ばされてるんじゃないだろうな?」

ドライバー達のやりとりを、ヤチは車高の高いワゴンの真下に取り付いたまま聞いている。

(なるほど。どうやらこの二人は何も知らない業者のようだ。しかも積み荷は何だか良くわからない物と来れば…)

ヤチは自分の勘が正しかった事を確信した。

(この車はビル内のそこそこ重要な部分か、あるいはその手前まで入り込むだろう。申し訳無いほどすんなり侵入できるな…)

大事な物事まで外部委託するから、いざという時にこうなる。

そう思ったヤチだが、当然同情はしていない。

こうして、この都市でも屈指の危険性を孕む人狼は、新参者の喉笛にその牙をあてがった。