黒白の絶望

「ヤチから連絡だ」

携帯を取り出してメールを確認したフータイは、目を細めて文章を追いつつ、車に揺られる奇襲部隊に短く説明する。

「「ビルを特定した。これから侵入するので、いざとなれば陽動も可能。こちらのタイミングで開始して構わない」…との事

だ。場所は…」

フータイが口にしたビルの位置と、その会社名を耳にした一同は、軽く驚いた。

「そのメーカーのサプリ、母さんも飲んでる!種類が多くて、しかも安いって!」

「私もそうだが、ヨウコ女史も調子が悪い時にはあそこの葛根湯を…」

ヨルヒコとフォウが口々に言うと、フータイもまた頷く。

「広告を目にしたり名を耳にしたりするようになったのは、確か昨年からだが…、件のチャイニーズマフィアの勢力拡大はこ

こ最近になってからだな。時期的には一致しないと、これまでならば見ていただろうが…」

「表の顔で動きつつ、下準備を進めていた…と?」

言葉を切ったフータイの後を、彼以上に大柄なマスタングが沈黙を破って続けた。

「おそらくはそうなのだろう。扱う品が「薬」という点で共通するというのは、いささか安直な結び付けにも思えなくもない

が…」

「だが、毒も薬も使いよう…。実際、優れた毒師は優れた薬師だ。逆もまたあるしな。あの新顔薬品メーカーが、親分さん達

が嫌がるようなヤバい粉作ってばら撒いてたって、不思議じゃねぇってかい」

今度は山猫が後を引き取り、フータイは無言で深く頷く。

「きな臭ぇきな臭ぇ。でもって気に食わねぇ!」

「まったくだ」

ボヤく山猫と頷くマスタングから視線を外すと、フータイはヨルヒコとフォウを見遣る。

「ソーマを、思い出しちゃうよな…」

目を伏せてそう呟いたヨルヒコは、かつて大手薬品メーカーの野望に引きずり込まれる形で平穏な生活を失った。

静かに頷いたフォウに至っては、幼い頃に買い取られ、人間である事すらやめさせられ、自由無き隷属の日々を送っていた。

思うところがあるのだろう、急に神妙な面持ちになった二人の心情を察するフータイだが、彼自身も薬剤を商う会社や人物

にはどうしようもない警戒感を持つようになってしまっている。

彼もまた、今は存在しないある製薬会社と、深い因縁があったせいで…。



フータイは過去、不治の病に倒れた妹を救う為に、製薬会社の暗部に殺し屋として飼われていた。

彼らに従っていれば妹が元気になると信じ、当時の彼は磨き上げた拳を暗殺の技に貶める事も厭わず、企業の命じるままに

ライカンスロープを狩り続けた。

その際タマモ率いるこのトライブと全面抗争を繰り広げる事になり、一度は当時少年だったヤチを捕縛もしたのだが、様々

な事情と状況の変化があり、今はこうして食客の身分でここに加わっている。

結果的に、フータイの妹の病はその製薬会社でも治せず、データだけを取られ続け、衰弱死した。そして彼自身は妹が死ん

だ事もしばらく伏せられたまま、暗殺者としての仕事を疑い無くこなして行った。

少し後にその企業が壊滅した際、フータイは生まれて初めて敗北を喫し、同時に妹の死を知る事になり、一度は自ら命を絶

つ事すら考えたのだが、結局、彼を下した巨犬の言葉に従い、命ある限り妹を弔い続ける道を選んだ。

しかしその数年後、その際に負った喪失感と、深く刻み込まれた復讐心が、しばしの隠遁生活から彼を再び闇夜へ駆り立て

る事になる。

一度は潰れたその企業が、新たな総帥をトップに頂き、再始動したせいで。

今度こそ妹の無念を我が手で晴らす。

ただその一念で再び悪鬼羅刹と化し、総帥を欺く為に傀儡として舞い戻ったふりをし、巻き添えや犠牲者が出る事も厭わず、

手段すら選ばず、確実なる復讐の機会を虎視眈々と窺っていたフータイだったが、ある男と再会した事で転機が訪れる。

彼の前に立ちはだかった銀狼…、かつての未熟な少年の面影が消え、精悍で荒々しく、そして鋭く、見違えるほど逞しく成

長したヤチとの再会で…。

最初こそ恩義のある巨犬の弟という事もあり、忠告するに留めて退けたフータイだったが、その後も組織に食らい付いてく

るヤチを陰から眺めるうちに、徐々に評価を変えて行った。

抗争の最中、後に義弟となるユウを守ろうと奮戦するヤチの姿を見ている内に、フータイは彼からある物を見出す。

それは、かつて己が求め、そして結局は得られなかった、「守る為の牙」…。

あるいはこの男ならば、自分が思い描いていた決着の形を、別の物に書き換えられるかもしれない。

そう思うようになったフータイは、危険を承知でヤチにコンタクトを取り、協力を持ちかけた。

そして、結果的にそれは正解だった。

一人で復讐を果たそうとしていたフータイが思い描いていたよりも、ずっと早い時期に、組織を壊滅させる事ができたので

ある。



(何がどう転ぶか判らぬ物だ…。まさかこの俺が、かつて同胞を殺しまくったトライブに客として迎えられ、以前殺しかけた

ヤチと盟友になり、その義弟であるユウから師と仰がれるようになるとは…)

束の間の物思いと感傷を軽く頭を振って払拭し、虎人は改めてヨルヒコとフォウを見遣る。

彼らもまた人間の欲の犠牲者である。フォウに至ってはフータイと近い立場に置かれていたとも言える。

(かつて俺がビャクヤやヤチによって救われたように、この二人もまたビャクヤに救われた。…今回の闘争、もしも先々の件

と似たような犠牲者が居るのであれば…)

フータイは静かに目を閉じ、胸の内で呟く。

(我らは今夜また、誰かを救う事ができるだろうか…)

ユウの事で腹は立っていたが、犠牲者が捕らえられているのならば、当然そちらもおろそかにはできない。

ヤチ同様、フータイもまた以前の彼では無い。重ね続けた過ちの上に今の自分を築き、仲間や同種を気遣う心も持つように

なっていた。

「さて…、頃合か」

フータイはおもむろに呟くと、ワゴンの後部で膝を寄せ合う仲間達を見遣り、彼らが無言で頷くのを確認してから携帯を握っ

た。

内部に侵入したヤチへ、陽動を乞うワンコールが発信される…。



「来たか」

呟いた人狼は、その瞬間には血風を傍らに吹き散らせていた。

いかにもこの下に何かあると言わんばかりの、大袈裟なチェック体制が敷かれたエレベーター前。

天井裏から板を踏み抜いて降下した彼の動きは、拳銃で武装した黒服達に反応できるような速度ではない。

中国人とおぼしき黒服五名を、声すら立てさせず、喉笛を鋭い爪で掻っ捌いたヤチは、一様に喉を押さえた彼らが倒れ伏す

前に、その内一人の胸に爪を突き入れ、内ポケットに入っていたケース入りのカードキーを奪い取っている。

あまりにも鮮やかで、微塵も容赦の無い、完璧過ぎる奇襲であった。

何が起こったか判らぬまま死に、人狼の呪いに蝕まれている男達は、しかし一瞬後に呪いが解除され、永遠の眠りに突き落

とされる。

伊達に玉藻御前の懐刀と呼ばれている訳ではない。その気になって強行突破を図るヤチを止められる者など、彼の身内やフー

タイを除けば、国内に数名と存在しない。

名立たるライカンスロープの殺し屋ですらも、その名を聞けば身構える…。そんな雄狼が懐に飛び込んでいるとは、この時

点ではまだ、ビル内の誰も気付いてはいなかった。



「ウーシン…」

ヤチが静かに、しかし苛烈な行動を開始したその頃、ヘイシンはライカンスロープの姿のまま、弟の病室に入り込んでいた。

眠っている弟の痩せ細った手を握り、

「病気の事が、判った…。やっと…、やっと治して貰えるんだぞ、ウーシン…!」

低く抑えた声を震わせ、彼女は涙を零した。

長年病魔と戦ってきた弟が、やっと苦しみから解放される。

それは同時に、彼女自身もこの仕事から解放される事を意味していた。

(あんな勝手な飛び出し方をして来てしまった以上、もう故郷には帰れないが…、ウーシンが過ごし易い所なら住むのはどこ

でも良い。どこか環境の良い所へ移って…。そうだ、どれぐらい稼げば二人で暮らしていけるか考えてみないと…)

何年も暗闇を彷徨った末に形を為した希望は、彼女の目にはとても目映かった。明るい未来をはっきりと思い描けたのは数

年ぶりの事である。

ふとある事を思いついて時計に目を遣れば、日付は既に変わっていた。

(今日は24日…。目が覚めたら教えてやろう。きっと、ウーシンには何よりのクリスマスプレゼントになる…)

目を細めたヘイシンは、弟の手をそっと持ち上げ、愛おしそうに頬をすりつける。

「遊園地に行こうな、ウーシン…。水族館にも、動物園にも…!花火だって見せてやる…!今までずっと良い子で我慢してき

たお前に、姉ちゃんが何でもくれてやるからな…!」

元気になったウーシンを様々な場所へ遊びに連れて行ってやる。そんな長年の夢にもうじき手が届く…。

感極まったヘイシンの目からは、止めどなく喜びの涙が零れ、弟の手を濡らした。

が、しばしそうしていたヘイシンは、不意に動きを止めると、ウーシンの手をベッドに戻して立ち上がった。

足早にドアへ向かい、最後に弟を一瞥した彼女は、静かに病室を出る。

「…勘でも働いたか?」

病室前の廊下で待っていたハンイーが顰め面で口を開くと、ヘイシンは返事もせずに「電話は誰からだ?」と尋ねた。

「耳が良いな」

「「侵入者」と聞こえた。どんな状況だ?」

ヘイシンにとってこのビルは、雇い主そのものであると同時に、弟を守る城塞でもある。そこへ敵が侵入したのなら、ウー

シンの為、何を置いても排除しなければならない。

「地下設備内で数人の警備員が死んでるんだと。しかも殺され具合が…」

「ライカンスロープ…」

呟いたヘイシンの脳裏を、先に相対した人狼と猫の姿が過ぎる。

「その通りだ。殺し方が、人間にゃあまず真似できねぇとさ。おまけに一人か二人…、少なくとも大人数じゃねぇと来てる」

頷いたハンイーは、懐に手を入れて拳銃を探り、装弾を確認して安全装置をかけ直す。

ハンイーが護身用に持ち歩いているグリップに黒い星のある拳銃は、奇しくもジャイアントパンダと同じ名を持つ中国製の

銃である。

「行け。ヘイシン」

ハンイーの呟きに、ヘイシンは眉根を寄せる。

「ウーシンが居るこの部屋は引き受けるっつってんだよ。判んねぇのか?こんなトコまで少人数で切り込んで来る相手…、イ

カレてる上に間違いなく凄腕だぜ?後手に回ってちゃ被害がでかくなる」

ヘイシンはそう言われてもなお、しばし逡巡した。

「判れよヘイシン。今この設備が滅茶苦茶にされたら、金払いに影響するのは勿論、ウーシンの治療だってままならねぇ。こ

こは本社なんだぜ?万が一にも騒ぎが表に出るような事になれば…」

この不慣れな島国で、ウーシンをかくまえる場所も失われてしまう。

皆まで言われずに察したヘイシンは、一度ドアを振り返り、低く呟いた。

「…ウーシン…。姉ちゃんが必ず守ってやるからな…!」



「確認できた…。人狼だ」

リーダー格の精悍な顔つきの男が無線機から顔を離して告げると、その場に居合わせた黒服達が色めき立った。

「今は貨物エレベーターでこの階へ下っているようだが、監視カメラに映像が映っている。行くぞ」

ライカンスロープと幾度か接してきている黒服達は、直接遭遇したことが無いとはいえ、伝説的なその種の事は知っている。

数あるライカンスロープの中でも、特に怖れられる疾風の獣…。他のライカンスロープにとっても天敵である彼らは、希少

ではあるが、危険性も極めて高い。

リーダーに率いられて駆けだした黒服の一人が、手にしたベレッタを不安げに見下ろして呟く。

「殺せるのでしょうか?」

「生け捕りにできるとでも?」

「いいえ、殺す事自体が可能かどうかと…」

「殺せるさ」

 リーダーは緊張を押し殺して吐き捨てた。

「エレベーター内の人狼は籠の中の鳥…、いいや袋のネズミだ。ドアが開くと同時に一斉射撃する」

貨物エレベーター前に急行した男達は、整列しながらランプ表示を確認し、銃を構えた。

到着まで秒読みし、全員が扉に銃口を向け、リーダーの合図に備えて固唾を飲む。

そして、ドアは開いた。

薄く開いた扉を目に、しかし一同は一瞬困惑する。開いて行くドアの向こうに、狼の姿は無い。

リーダーが号令をかけ損ねたその一瞬で、待ち伏せは失敗に終わった。

最初に感じたのは、体を揺する僅かな衝撃と浮遊感。そしてキンッ…と、微かに鳴った奇妙な音。

次の瞬間リーダーが見たのは、床と、そこに膝をついて銃を構える頭部の無い体。

それが自分の体である事は、彼には永久に理解できなかった。

床にごとんと落ちて困惑しているリーダーの頭を熟れた果実のようにグシャッと踏み砕き、ヤチは周囲を睥睨する。

人狼はエレベーター内で横の壁際に身を寄せ、ギリギリ自分が通れる程にドアが開くまで待った。そしてスペースが確保さ

れると同時に、即座に音速で飛び出し、待ち伏せしていた黒服達に死をばらまいたのである。

胸に風穴を開けられた者、背中を裂かれて背骨まで縦に両断されている者、首が折れて肩に乗っている者、その破壊のされ

方は、凄惨の一言に尽きる。

そのくせ銀の体には返り血一つ付かず、磨き抜かれた刀剣の刃のように相変わらず美しい光を湛えているのだから、その姿

はどこか現実味が無い。そう、たった一人だけ生き残った男には思えた。

腰を抜かしてへたり込んでいる男に視線を止め、ヤチは口を開いた。

「お前が生き残った理由が、判るか?」

口の端を吊り上げ、底意地の悪そうな、そしていかにも残忍そうな表情を作り、ヤチは続けた。

「あっさり殺すだけじゃつまらない。だからゲームをしようと思ったのさ。これから俺は二十秒だけ待つ。その後お前を殺し

にかかる。狩られたくなければ…、せいぜい必死に逃げるんだな」

ヤチを良く知る者がこの様子を見れば、彼の芝居の下手さに失笑する所だが、男の目にはそうは映っていない。

情けない悲鳴を上げて命からがら駆け出した男の背を見送り、ヤチは胸の内で「よしよし」と満足げに呟く。

(これでこのフロアにも混乱が広まる。ここまでで三階分…、そろそろ地上部分にも混乱が伝わり始めているはずだ。もう奇

襲部隊も動けるだろう)



「何処だ…!」

黒服達が右往左往している通路を足早に抜けながら、ヘイシンは牙を剥いて鼻面に皺を寄せ、苛立たしげに呟いた。

殺しに出向く事はあっても、ウーシンの身近で騒動が起きるのは今回が初めて。普段とは勝手が違う上に、こまめに動き回

る敵が居るフロアが判明せず、落ち着かなくてイライラしている。

ハンイーはああ言ったが、実際に敵がそこまで到達したなら、彼に防ぎ止める事などできはしない。ウーシンとハンイーが

居るフロアに侵入される前に、敵を見つけ出して仕留めなければならないのである。

「上だ!一階裏口付近で交戦中!」

「何!?さっきまでレベル3に…、まさか逃げる気なのか!?」

そんな黒服達の言葉は日本語で、ヘイシンには意味が判らなかったが、慌ただしく移動を始めた数名の口から「ジンロウ」

という言葉が漏れた事は聞き逃さなかった。

手近に居た黒服を文字通り捕まえ、胸ぐらを掴んで吊し上げたその男に、ヘイシンは獰猛な表情を浮かべた顔を近付けた。

「敵は何処だ!?殺すべき相手の所まで、あたしを連れて行け!」

彼女が声をかけた男は幸いにも大陸出身者であり、ヘイシンの言葉が理解できたので、怯えながらも頷き、位置を教える。

ようやく床に下ろされた男に、ヘイシンは顎をしゃくった。

行け。自分をそこまで連れて行け。

動作に込められたそんな意図を察した黒服は、彼女を案内する格好で先に立って走り出し、ジャイアントパンダは巨体を揺

すって後に続く。

…これが、殺し屋ヘイシンの、最後の仕事となる。



「ソーマやネクタールと比べると、ぬるい相手だな」

爪に付着した血を振り払い、山猫は不敵に吐き捨てる。

「油断するな。まだ人間しか現れていないぞ」

傍らで諫める大柄なマスタングは、踏み砕いた男の胴から足を退け、行く手を見遣った。

二人が通った後には、銃で武装した黒服達の死体が点々と残っている。

深夜の物資搬入口、そこから伸びる三つの通路を、奇襲部隊は手分けして蹂躙してゆく。

他の二路はヨルヒコ、フォウのペアと、単独のフータイがそれぞれ受け持っている。

「それでもライカンスロープは二頭だけだろう?軽いもんだ」

「両方殺し屋だが?」

マスタングの言葉に、山猫は「はん!」と鼻で笑った。

「殺し屋なんてそう大層なもんでもないっての。救う方がよっぽど大変だぜ」

一理ある。そう思って小さく頷いたマスタングは、血臭漂う通路の向こうから、風に乗ってやって来る僅かな匂いを嗅ぎ取っ

た。

「…居るぜ?」

「そのようだ」

山猫の言葉にマスタングが頷いた途端、交差する通路の横手から、のっそりと大きな影が踏み出して来る。

非常灯のぼんやりとした灯りの中に浮かび上がるのは、黒白の巨躯。

背丈ではマスタングが上回っているものの、肥えてずんぐりしている事もあり、ジャイアントパンダは実際の体格以上に大

きく見えた。

「…前言撤回したいんだけど?」

「無理もない」

山猫の言葉を、マスタングは笑えなかった。

狩人として幾多の修羅場を潜り抜けてきた二人には、相対しただけで判った。目の前の相手が、かつてない強敵であるとい

う事が。

「フータイの時以来か?こんなレベルのが敵に混じってるのは…」

「かもな」

短く応じたマスタングはアマレス選手のような格好で腰を落とし、傍らの山猫は獣じみた前傾姿勢を取る。

るるるるっ…、と低く喉で唸り、ヘイシンは足を踏み出す。

骨の折れる相手だとは感じた。が、傲りでも過信でもなく、叩き伏せる事が可能だと確信していた。

あの白熊や人狼同様、数分と要さずに…。



一方その頃、騒ぎを煽るのももう十分だと踏んだヤチは探索に移っており、

「ライカンスロープの研究…、か…」

地下施設の最下層フロアにある一室で、厳重にロックされた電子金庫の中を覗き、険しい表情で呟いていた。

その足下には、最前までそこにサンプル類を収めていた白衣の男が倒れ伏している。

左胸に穴が空き、心臓が潰れ、息はしていない。が、まだ意識はあった。

ヤチの入室と同時に命を絶たれた研究者達の中で、彼一人だけがカースオブウルブスで呪縛されている。

「血液サンプルが多いな。しかも同じ名前の物がやたらと多い」

そう言って銀狼が手に取ったボトルのラベルには、陽武星と記されている。

「この陽武星というのは何者だ?協力者…とは考えにくいな、これだけ血を採られたら、いくらライカンスロープでも体がお

かしくなる。犠牲者か?知っている限り、この街や付近のライカンスロープにこんな名前のヤツは居ないが…」

推理を巡らせたヤチは、ボトルについている採血の日付を確認すると、死に切れていない研究者の脇に屈み込んだ。

「苦しいか?もっとも、心臓が潰れた苦痛だ。苦しくない訳はないが…」

人狼に破壊され、呪われた者は、死体に意識を繋ぎ止められ、死因となったその傷の苦痛を味わい続ける事になる。朽ち果

てるか、呪いをかけた人狼が解呪しない限りは。

拷問にも利用できるその呪いの事を知っているのだろう、気が狂いそうな苦痛を味わい、しかし狂う事すら許されない呪縛

の中で、白衣の研究者は眼球だけを動かしてヤチを見上げる。まるで、懇願するように。

死なせてくれ。もう楽にさせてくれ。

そんな無音の言葉を視線から聞き取り、ヤチは頷いた。

「質問に答えろ。そうすれば逝かせてやる」



壁にもたれかかって座る山猫の眼前で、太い両腕がぶつかってがっしりと掴み合い、指を絡ませて力比べの体勢に入った。

「うそ…だろ…!?」

呻く山猫の口からは、夥しい量の血が溢れ、胸元から腹までを真っ赤に染め上げている。

その右胸は大きく陥没し、肋骨と胸骨が砕け、肺が片方潰れていた。

さらにその両腕は、肘と手首のちょうど中間で、あり得ない位置に関節が生まれたように折れ曲がっている。

ガードの上から受けたヘイシンの拳。そのたった一撃で、歴戦の狩人は瀕死に追い込まれてしまった。

冗談のような強さ。それが、山猫が抱いた感想である。

おそらくヤチやフータイにも匹敵する。山猫の目には、ヘイシンの力はそう映った。

「うそ…だろ…、ちくしょう…!」

再び呻いた山猫の眼前で、絡ませた両手を握り砕かれたマスタングが声も無く仰け反った。

(力比べで…、クラマルが手もなく捻られるってのかよ…!)

驚愕する仲間の前で、マスタングの巨躯が宙を舞う。

握り砕いた手を強引に引き上げ、ヘイシンは巨漢を天井へ叩き付けた。

さらに、背中から天井に激突したマスタングの腹へ、残像すら残し垂直に跳ねたヘイシンが繰り出した前蹴りがめり込む。

天井を粉砕し、めり込んだ巨馬の口から、絞り出されるようにして大量の血液が吹き出し、黒白の巨躯と廊下を赤く染め上

げる。

邂逅から僅か73秒。技巧派の山猫も、強靱なマスタングも、二人がかりでもなお、ヘイシンの絶技と剛力の前にはひとた

まりもなかった。

着地し、二歩後退したヘイシンの目前に、天井の残骸と共にマスタングが落下し、床に這い蹲る。

いかに強力な修復能力を持つライカンスロープといえども、動けない程の傷を負い、そこへ畳み掛けるように攻撃されては

為す術もない。すぐには動けない深手を受けてしまった山猫とマスタングは、もはや止めが刺されるのを待つばかりの状況で

ある。

まずは目前の馬から。そう決めて、頭部を踏み砕いて即死させるべくゆっくりと足を振り上げたヘイシンは、

「!?」

声にならない呼気をと唸りを発し、素早く片足を退いて半身になり、首を逸らした。

その出っ張った腹の表面と膝先から、切り飛ばされた被毛が舞い散る。

目に見えない、しかし鋭利な刃物のような何かが通路を駆け抜けて行き、ヘイシンの脇を抜けた遙か向こうでガツンと音を

立て、壁に深々と、刃で斬り付けたような傷跡を刻んでいた。

一瞬音の方向に目を遣ったヘイシンは、そちらから空気が急激に流れて来るのを感じ取る。

見えない刃が飛来する一瞬前に気圧の変化を感じ取っていた耳を、ぴくくっと小刻みに振るわせつつ、鋭く振り向いて視線

を飛ばすヘイシンの瞳に、黒い縞模様に彩られた筋肉の塊のような巨躯が映った。

一時は何が起こったのか判らなかったが、這い蹲ったマスタングと、壁にもたれかかって動けない山猫の目が、長い通路の

先に現れた仲間の姿を捉える。

『フータイ!』

重なった仲間の声を聞きながらも、半身になって腰を落とし、右の手刀を振り下ろした姿勢で腕を突き出している虎人は、

細めた目を一時も外さずにヘイシンを見つめている。

距離を置いて睨みあう二頭の大型ライカンスロープの間で、緊張が高まってゆく。

背丈は同じ。だが、身に纏う分厚い脂肪の分だけヘイシンの方が大きく、そして重い。

「不意を突いたつもりだったが…、良い勘をしている」

低く呟いたフータイとヘイシン達の距離はおよそ30メートル。仲間を巻き添えにしないよう、精密な操作で力を扱える限

界ギリギリの距離であった。

相手の力の正体を先の一瞬の現象から探りつつ、ヘイシンは瀕死の二人から離れ、慎重に、ゆっくりとフータイに向き直る。

その足がじりっと動き、虎人に向かって進み始めると、密かに修復を進めていた山猫がこっそりマスタングの足を掴む。

ヘイシンを間に挟んでの虎人とのアイコンタクトで、この場から離れるよう伝えられている。

(悪いが頼む…!情けない事に、たぶんお前かヤチでもないと手に負えないぜ、その大女…!)

山猫たちが離脱準備を整えた事を見て取ると、フータイは腰を落としたまま両手を前に突き出した。

その逞しい腕が空手の回し受けのような動作で宙に円を描くと、再び通路内の大気が急激に動く。

後方から自分を追い抜き、巌のような大男の方へ移動して行く空気に体を撫でられながら、ヘイシンはまたも気圧の変化を

感じ取った。

(大気に干渉する能力…。虎人の多くが覚醒する力のはずだが、ここまで殺傷力を高められる物なのか?)

ヘイシンはフータイの能力の正体を推測し、驚嘆した。

おそらく先の一撃は、圧縮した大気の刃を放ったのだと理解できた。だが、その威力は空気からできているとは思えぬほど

の物で、尋常ではない。

それもそのはず、フータイのその一撃の為に、ビル内の空調以上の強制力で通路の気流が乱され、周囲の気圧が変化してい

るのだから。

両腕をゆっくりと一周させたフータイが、腰を落としたまま構えを変える。

その構えが、自分の物に酷似し、そして先に拳を交えた白熊の物と全く同じであると気付き、ヘイシンは確信した。

この大男こそが、あの若熊をあれだけの強者に鍛え上げた師なのだろう、と。

先の白熊以上の強者を前に、ヘイシンの脳裏を過ぎったのは、ベッドに伏せる弟の姿であった。

(負けられない…!例えどんな相手でも、負けられない…!)

覚悟を決めたヘイシンは、足を踏ん張り、両腕を前へ突き出した。

同時に山猫がマスタングを引きずって最寄りのドアにタックルし、突き破って室内へ退避する。

鋭い眼光を飛ばすフータイは見た。

ヘイシンの両手に、それぞれ白い燐光と黒い影がまとわりつく様を。

そこから円形の陰陽陣が盾のように展開されるのと、大きく引いていた右拳をフータイが突き出すのは、ほぼ同時であった。

フータイの眼前にかき集められ、圧縮された空気の塊が、虎の拳を受けて砲弾と化し、音速で通路を駆け抜ける。

貫空。先に放った刃状の技…断空とは異なり、対象の切断ではなく、遠距離からの一点集中破壊を目的とする技であった。

コンクリートの壁も打ち抜き、鋼鉄のシャッターをひしゃげさせるソレは、フータイの直接打撃をも上回る破壊力を持つ。

しかもその射程距離は30メートル強にも及び、音速である上に無色、目で見る事は不可能。大気をかき集めるのに少々時

間がかかるものの、このように相手に逃げ場のない状況で仕掛けるならば、極めて強力な一手である。

案の定今度も全く見えない。ヘイシンは放たれた瞬間にそう感じたが、しかし焦りは無かった。

甲高い激突音。次いでパキィンと、何かが砕けるような音。最後に耳元でごうっと風が唸る音が、フータイとヘイシンに、

ほぼ同時に感じられる。

(ヨルヒコから聞いてはいたが、どうやらあの陣は腕でも、そして空中にも、自由に描き出せるらしいな)

ヘイシンの陰陽陣に接触した途端に貫空が分解され、圧縮が解かれて強風になった事で、フータイは体感し、理解した。

弟子から聞いていた通り、どうやら相手は本当にライカンスロープの固有能力を打ち消す事ができるらしい、と。

だが一方で、ヘイシンももうこれ以上この力に頼る事はできない。

彼女の陰陽陣は極めて強力なアンチライカンスロープ能力ではあるものの、使用回数に制限がある。

おおよその目安で日に三度。それがこの能力の使用限界。

既にヨルヒコ相手に一度、フォウの凍結無効化に一度使用している。

そして今、回避困難なフータイの一撃を打ち消す事で最後の一回を使い切ってしまった。

だがヘイシンには確信があった。間合いを詰めてしまえば、相手はおそらく肉弾戦に応じて来るだろうという確信が。

陰陽陣での無効化を一度見せれば、相手はおいそれと力を使えない。その上この虎人の技は、威力はともかく直前の隙が大

きい。相当な使い手である事は身ごなしで判る以上、相手も自分が望むレンジでの戦いに応じるだろう。そんな推測から得た

確信である。

風が荒れ狂う通路を、ヘイシンは床を蹴って猛然と突き進んだ。

ユウと同じく、腰を据えて待ち受け、叩き伏せるのが得意な彼女ではあるが、ぼやぼやしていてまたアレを撃たれたのでは

堪らない。距離を詰めるチャンスを逃せば、これ以上陰陽陣が使えない事もばれてしまう。

その体重に見合わぬ速度で距離を詰めながら、ジャイアントパンダの巨体が跳んだ。

鈍重そうな外見に似合わぬその俊敏な動きを、しかしフータイは冷静に見極めにかかる。

まずは跳び蹴り。射抜くような右脚の蹴りが、首を斜めに傾げたフータイの頬を掠める。

回避と同時に半歩踏み込んだフータイは、ヘイシンの股下めがけて拳を突き上げた。

男であれば睾丸と肛門の中間に当たる位置に打ち込み、恥骨を粉砕しつつ臓物を突き破る為の一撃だが、しかしヘイシンは

開脚していた足のもう一方、曲げて畳んでいた左脚を、身を捻りつつ繰り出す。

右脚を追うように打ち出された左の蹴りが、フータイの拳と衝突し、その軌道を逸らして空を切らせる。

両脚を揃えて前へ出した姿勢のヘイシンめがけ、右拳を弾かれたフータイは、素早く体を捻って左の肩口で突き上げにかかっ

た。

しかし、踏み込みの勢いと体重が申し分なく乗ったこれも、宙にあるヘイシンが添えた右手の支点とされ、回避の機会を与

えてしまう。

半身になって前傾姿勢を取り、体当たりの姿勢になっているフータイの上で、片手一本で軽業師のように乗り越えにかかっ

たジャイアントパンダが、その豪腕を振り下ろした。

飛び越えつつ、後頭部を狙った下段突き。命中すれば、昏倒するどころか頭蓋を粉砕されるであろうその攻撃に対し、フー

タイは前傾姿勢から、さらに前へと上体を倒す。

必殺の一撃が空を切り、ヘイシンの被毛が全身でぶわっと逆立つ。前転したフータイを追いかけるように、彼の左脚が飛ん

で来ていた。

弧を描いて飛来する踵を、ヘイシンは慌てて左手で受ける。が、その直後に視界がぶれた。

ヘイシンには何が起こったか判らなかったが、跳ね上がったフータイの足は、左だけで終わりでは無かった。

丁度フータイの左脚とヘイシンの目が結ばれる直線軌道を、次いで振り上げられた右脚が、先を行く相方の陰に隠れて追い

かけていたのである。

前転しながらの浴びせ蹴り。その二段目の蹴りが頬に飛び込み、ヘイシンの太い首がゴキッと嫌な音を立てる。

強靱な骨格でも耐えきれない強烈な槌打が頚骨を痛めつけ、ヘイシンの巨体をきりもみさせた。

受け身すら取れず、飛び込んだ勢いをまるっきり反対方向に跳ね返されたように、ジャイアントパンダは床へ墜落する。

大きくバウンドしたヘイシンは、しかし持ち前のタフさもあり、すぐさま我に返って四つんばいになり、少し床を滑ってか

ら静止した。

だが、風車の如く回転したフータイは、その時にはもう床を蹴ってヘイシンに肉薄している。

知らずに顔を歪めるヘイシンの眼前で、繰り出された虎人の拳を不安定な姿勢で伸ばした右手が掴んだ。

が、次の瞬間ヘイシンの手は弾かれ、突破した虎人の拳がまともに顔面を捉える。

宵の口、ユウに一度砕かれた右手からはまだ鈍痛が引いておらず、力が入りきらなかったのである。

威力が減じたとはいえ、それでもフータイの巌のような体躯から繰り出される拳は、体重と膂力が十二分に乗っていた。

その威力で弾かれたように上向きにされたヘイシンの鼻がひしゃげ、首が再び嫌な音を立てる。

鼻血を吹き出しつつ、もんどり打って背後へ倒れ込んだジャイアントパンダは、しかし転げた勢いそのままに両手を床に突っ

張り、後方へ伸び上がるようにして間合いを離す。

その眼前で、踏み下ろされたフータイの足が、床を粉々に砕いていた。

着地するなり爪を床に食い込ませ、両足を踏ん張ったヘイシンは、すぐさま素早く身を起こし、半身になる形で左拳を突き

出した。

対するフータイも、砕いた床をそのまま踏み締める形で半身になり、左拳を突き出す。

掠めあって交差した剛拳が、両者の間で空気を弾けさせる。

ヘイシンの拳が、フータイの胸の前を掠めて、色の薄い被毛を吹き散らす。

一方フータイの拳はヘイシンの乳房を斜めに捕らえ、その柔らかな脂肪と筋肉に守られた肋骨を砕き、そのさらに奥にある

臓器に衝撃を加える。

かふっと息を吐くと同時に、ヘイシンは目を見開いた。

強打の衝撃を受け、心臓が停止している。

黒白の巨体から急激に力が抜けたその瞬間、フータイは拳を引く動作に連動させて体を捻り、右の前蹴りを放った。

突き出されたままだらりと力が抜けた太い腕を跳ね上げ、虎人の足がパンダの顎を下から打ち上げる。

必殺の一撃に加え、ダメ押しの一発。この瞬間に闘争の趨勢は決した。

「おおぉっ!」

虎人の口が咆哮を上げ、前蹴りから引き戻された右足が床を踏み砕くほど力強い震脚をおこなう。

腰を落とした刹那の溜めから、縞模様の巨躯は無音の領域に突入した。

ヤチと違い、全身ごとの移動で無音の領域に踏み込むのは難しいが、動作一つ一つであれば、フータイもまた音を追い抜く

事が可能。

音の壁を突き破って繰り出されたのは、踏み締めた右足を前へ滑らせつつ放つ、突くような肘撃ち。

低い姿勢から体重をかけて押し出された肘が、伸び上がっていたヘイシンの鳩尾に深々と突き刺さり、胃袋を破裂させる。

しかし、フータイの動きは止まらない。

音の壁を破砕し、相手の折れた体を肘で前へ押し出しながら、左足で踏み込みつつ体を逆向きにし、中段突きをヘイシンの

下腹部、臍の付近へ打ち込む。

手首と肘のほぼ中間までが、そのふくよかな腹部に突き刺さった。

虎人はその拳を素早く引くと同時に、今度は再び体の右側を前に出す。

その動作の途中で、またも右足が跳ね上げられていた。

くの字に折れ、低い位置に下りてきていたヘイシンの顎を、伸び上がるような全身運動から生み出された破壊力を伴った蹴

りが粉砕し、彼女の体を後方回転させつつ吹き飛ばす。

弟子の仇への、過度なまでに容赦の無い連続攻撃は、並のライカンスロープならば一撃ごとに一部分が破壊され、その都度

死んでいるほどの壮絶な威力を伴っていた。

蹴り足を下ろし、ずしんと再び震脚したフータイの前から、意識が飛びかけているヘイシンの巨体が、まるで重みが無くなっ

たかのように、仰け反ったまま回転し、宙を舞って離れてゆく。

(ウー…シン…)

天井と床とフータイが何度も目まぐるしく入れ替わる視界がみるみる暗転して行く中で、ヘイシンは弟の顔を思い浮かべて

いた。



その数分前。

ドアノブを掴んだヤチは、中の気配を察知しながらも躊躇い無く押し開けていた。

素早く室内を探った目が、自分に向けられた銃口に止まる。

「おっと、動くなよ…」

ベッドサイドに立ち、拳銃を両手でしっかり握ったハンイーが、ヤチを睨んで告げる。

(イントネーションが少しおかしい…、中国人か?)

ヤチは落ち着き払ってハンイーの素性を推測した。ハンイーとはあまり距離は無いが、発砲されても驚異となるような拳銃

ではない。そう判断したヤチは、さっと巡らせた際に捉えていた、ベッドの上のパンダに目を戻す。布団を被っていても、痩

せ細っているのは顔を見れば判った。

その瞬間、銀の人狼が垣間見せた痛々しげな眼差しに、ハンイーは僅かに違和感を覚えた。

ハンイーが一目見ても判る、最高水準の完成度に至っている、まるで名刀のような鋭さと美しさを兼ね備える危険な狼に、

その表情は何処か似つかわしくない。

「そいつに手ぇ出すんじゃねぇぞ?額に穴が空くぜ?」

視線がウーシンに向いている事に気付いたハンイーが牽制するが、人狼は銃口を向けられている事など意にも介さず、静か

に口を開いた。

「お前は、この子を捕らえている側か?」

念の為に訊ねたヤチから一時も視線を外さないまま、ハンイーは鼻を鳴らした。

「まぁ、捕らえてるってか、縛り付けてる側ではあるな…。それが?」

「この子の病気の事も、知っている訳だな?」

「まぁな。…何だお前さん?何しに来た?侵入者ってのお前さんだろ?」

襲撃をしかけて来た相手が見せた奇妙な態度に、ハンイーは疑念を抱いた。

また、ヤチも同様に僅かな疑念を抱く。自分に銃を向けている男が、ベッド上のパンダを気にしているらしい事を察して。

(監視役…にしては妙だ。監視するならドアの前にも居なければならないだろうに、何故病室内に一人だけ?…そうか、この

男はこの子の側の人間なのか…)

ハンイーの立場を推測し、納得したヤチは、眠っているウーシンのやつれた顔を見下ろしながら、「知っているのか?」と

呟いた。

「この子は今、病を治療してもらっている…。お前はそう思っていないか?」

「…違うとでも言いたそうだな?」

「ああ。はっきり言うが、この子は今、命を吸われているような状態だ」

ヤチの言葉を鵜呑みにはせず、ハンイーは疑念を強くした視線で人狼の顔を撫で回す。

「撃ちたければ撃て、当たりはしないがな」

そう告げるなり、ヤチはずかずかとベッドを回り込み、病室の奥側に立っている点滴台の傍で屈んだ。

「おい!下手に動いたら…」

「これが何だか判るか?」

ヤチが片手で持ち上げたのは、高さ20センチ、直径20センチ程の、ずんぐりとした鉄製の缶。点滴台を経由して伸びた

二本の管が、その蓋に空いた小さな穴に消えている。

「…尿瓶の一種だろう?」

「違うな」

呟いたハンイーに応じるなり、ヤチは強引にその蓋を剥ぎ取り、中を見せた。血液が詰まったビニールパックと、代わりに

投与されている増血剤が入った缶の中身を…。

「何だ…そりゃあ…」

僅かに目を大きくしたハンイーの前で、ヤチは管を摘んだ。

「色つきの管で誤魔化し、血液を採取し続けていたのさ。実験サンプルになるライカンスロープの血を…」

「何だと…?待て、こいつは病気なんだぞ?血液なんか採ったって…」

「どうやら本当に知らないらしいな。先に研究者を見つけて問い詰めたが…、この子の病は遺伝子に起因して細胞の性質が変

化する物だ。血液をサンプルにしても殆ど問題無い。そもそもお前、この子の病を何だと思っている?」

ヤチの声が険を帯び、軽く混乱しているハンイーは戸惑いながら応じた。

「症例は少ないが…、対処方法ははっきりしてるって…」

「そうだな、はっきりしている。と言うよりも、「対処できない」という事がはっきりしている」

「…何だと?何言ってやがる…?」

今度は目で見て判るほど動揺したハンイーが、自分の言葉で嫌な予感を覚えた事を察しながら、ヤチは結論を口にした。

「獣因子限定発症型栄素枯渇症候群。ライカンスロープのみが発症する、栄養を吸収する事ができなくなり、最終的には枯死

する病…。今現在、その治療方法は確立されていない。その子は今、ただでさえ残り少ない命を、様々な検査やサンプル採取

によってさらに削られている状態だ」

「嘘だっ!」

ハンイーの口から、否定するような叫びが漏れた。

「嘘だ!対処できるとあいつらは言った!治してくれるんだ!治るんだよウーシンは!でなきゃ…、でなきゃヘイシンは何の

ために…!」

ハンイーの口から迸っているのは、もはや日本語ではなく、慣れ親しんだ母国の言葉。

「何のためにヘイシンは俺と契約したと思ってる!?ウーシンを治してや為だ!それが…、それが…!治らねぇ病気だと!?

ふざけんじゃねぇ!」

まるでヤチがウーシンの主治医であるかのように、言っても仕方のない事を感情の赴くままにぶちまけるハンイー。

簡単に元気になられては困る。確かにそう思ってはいたが、いつか治ってしまうのだろうと考えていた。

だが、ずっと治らなければ良いと思った事は一度もない。

ヘイシンが溺愛するこの少年の事を、ハンイーもまた、憎からず思っていた。

姉思いで、世間知らずで、そのくせ泣き言一つ言わない健気な病人を、彼は決して嫌ってはいなかった。

しかし、口ではそのように否定してみても、ヤチの言葉で彼は察してしまった。

この人狼は嘘を言っていない。ライカンスロープの擬態看破能力を持つ彼は、極めて勘が鋭い。だからこそ、ヤチがウーシ

ンについては敵対的なスタンスを取っていない事も、真実を述べている事も、おのずと理解できてしまう。

薬で眠らされているのか、ハンイーが叫んでもウーシンはこんこんと眠り続け、目覚める気配が全くない。

その事がハンイーに、死が目前に迫った末期の患者を連想させた。

「何て言やぁいいんだ…?ヘイシンに…、この事を何て伝えりゃ良いんだよ…!」

歯を食い縛り、顔を歪め、銃を降ろしてウーシンを見下ろしたハンイーは、

「そこまでだ侵入者」

背後の戸口で上がった、どこか勝ち誇ったような声に振り向く。

ドアを塞いで立つ豹が、銀の人狼を見据えて口を開いた。

「珍しい事もある。人狼と一晩に二頭も出会うとはな…。先に見たあの若い方は、お前の弟か?」

「ああ、自慢の弟だ」

ヨルヒコが聞いたなら口をあんぐり開けるであろう一言を当然の事のように口にすると、ヤチは豹を見据えて脳内のリスト

と照らし合わせる。

「ジャック・レパード…、だな?」

「イエス。お前は…、そうだな…、たぶん名前を知っている相手だ…。その落ち着いた態度、溢れる自信、そしてまとわりつ

くような濃厚な殺気…。エンプレスタマモの忠実なるナイト、ヤチ・アザフセ…。違うか?」

「煽り文句にはいささか疑問を感じるが、名前はあっている」

応じたヤチは、写真で見るよりも若いこの豹が「どちら側」であるのか見定めようとする。が、その手間は、結論から言え

ば省かれた。

「…おい…」

静かに震える声に、豹は視線だけを動かし、ハンイーを見遣った。

「お前は知ってたのか?俺達が騙されていた事も…、ウーシンの病が治らない事も…、知っていたのか…?」

ギラつく目で自分を睨むハンイーに、豹はニヤリと笑って見せる。

「英語か日本語で喋れ。何を言ってるんだか判らないぞ大陸の田舎者。…まぁ、その様子だと勘付いたらしいな」

レパードはハンイーの右手が見せる動きを興味深そうに目で追いつつ、見下し切った口調で告げる。

「助かる見込みも無いガキの為に奮闘する、憐れで無知な大女…。なかなかの道化師ぶりだと思わないか?」

「よせ!」

ヤチの制止は、例えもう少し早かったとしても、おそらくハンイーを止められなかっただろう。

ハンイーの口から、レパードへの答えは出なかった。代わりに返事をしたのは銃口である。

立て続けに二度の銃声が響き、そして止まる。

次いで、ゴトンと音を立て、黒い拳銃が床に落ちた。

「正直に言うと目障りだった。が、これで片付ける口実はできたな」

まるで久々の再会で恋人達が肩を抱き合うように、ハンイーの肩に左腕を回し、正面から抱き締めているような格好になっ

ているレパードが、ニヤリと口元をゆがめる。

その言葉に答えないハンイーは、それもそのはず、鳩尾のやや左側をレパードの右手で背中まで串刺しにされていた。

「ちく…しょう…」

顔を苦痛に歪ませたハンイーは、レパードが腕をずるりと引き抜くと同時に後方へよろめき、バイタルサインの表示器材な

どを騒々しく押し倒し、尻餅をついた。

そして、守人を失ったウーシンのすぐ傍で、豹は冷笑を浮べつつ右腕を振り上げる。

「このガキも用済みだな。もう殺しておいても構わな…」

「仲間ではないのか?」

レパードは、自分の言葉を遮ったヤチが首筋の毛をぶわっと逆立て、苛立ちと嫌悪をあらわにしているのを見て取る。敵で

ある人狼が何故怒っているのか、彼には理解できなかった。

「仲間?冗談キツいぜ」

「その子に手を出すな」

「は?何故お前が気にする?」

「二度言わせるな。手を出すならば、ただではおかん」

獰猛に唸る銀狼の前で、レパードは嗤う。妙な狼も居たものだ、と。

「ふふ…!いくら人狼でも、この俺のスピードにはついて来られないぜ?そもそも、腕を振り下ろすだけの俺をベッドのそっ

ち側から止められるのかね?…まぁ、どう言われようとこのガキはもう殺すが…」

レパードのその言葉が終わるか終わらぬかの内に、また銃声が響いた。

首を傾けて反らすレパードのこめかみから、銃弾で掠め取られた被毛が舞い散る。

撃ったのはハンイー。瀕死の有様で、彼は力を振り絞って銃を拾っていた。

そして、レパードの注意がヤチに向いているその間に、狙いをつけたのである。

「ちっ!まだ動け…」

舌打ちしたレパードは、振り上げていた右手に鋭い痛みを覚え、次いで腹部に衝撃を受け、ドアの向こうへ吹き飛ばされる。

そして、背中から壁に当たって噎せるなり、腕に負った深刻なダメージを見て取り、声を上げた。

「ぎゃあああああああああああああああああああああああああっ!腕っ…!俺の、俺の腕ぇええええええええっ!」

肘のすぐ先から、レパードの腕は切断されていた。今居る位置と直前まで居た位置の間には、輪切りになった三つの肉片と

手首が落ちている。

「俺を相手にスピードを語るなら、せめて無音の領域に爪先だけでも踏み込んでからにするんだな、若造」

一瞬の間に跳ね、天井に両手を当ててそこから跳ねて急降下しつつ、足に形成した鋭い爪で豹の腕を撫で蹴るようにして切

断、さらにもう片足で蹴り飛ばす…。そんな神速の動きを、そして絶対的な力の差をレパードにまざまざと見せ付けたヤチは、

再び拳銃を床に落としたハンイーを見遣る。

いかにヤチでも、あの状況からベッド越しにレパードを止める事は難しかった。

何せ間に横たわっているのが死に掛けているウーシンなのである。ヤチのスピードで下手に跳ね飛ばしたりでもしたら、そ

れだけで命に関わる。ハンイーの発砲は、そんな状況を好転させていた。

「…大した男だ。ライカンスロープの事を熟知しているだろうに、恐れず立ち向かうか…」

「こいつの姉貴…、俺の相棒が、何よりも…おっかねぇ女…なんでね…。そこらの殺し屋なんぞ、へでもねぇよ…」

喘ぎながら言葉を吐き出し、「ひひひっ」と笑うハンイーの顔には、既に死相が色濃く出ている。

ヨウコと契りを結んで夫婦になってからというもの、以前と比べて随分と人間にも情が湧いてきたヤチだが、人間という種

を警戒し、一線を引くそのスタイルはあまり変わっていない。それでも今、類稀な胆力を見せたこの軽薄そうな男を評価した。

「畜生…、畜生…!畜生っ!」

失った腕を抱え、人狼の呪いによって修復も出来なくなっているレパードが呻く。

スピードには多大な自信があった。だが、それが思い上がりであった事を、彼は思い知らされてしまった。

先に出会った手負いのヨルヒコはともかく、以前彼が出会った黒い人狼にはヤチほどのスピードは無かった。その為に人狼

という種自体を噂ほどでは無いと過小評価していた事もあり、初めて味わう真の人狼のスピードに驚愕し、打ちのめされた。

(あのナナシノとかいう黒狼には、こんなスピードは無かった…!こいつはまるっきり別物だぞ…)

記憶に焼きつく、逆さ十字のネックレスを首にかけた黒狼と目前の銀狼は、姿も異なれば性質もまるで違う。その極端な違

いに戸惑いながら、レパードは慎重に体勢を整え、隙を見て横へ跳ぶ。

「む…、逃がすか!」

ハンイーに目を向けていたヤチは、そのまま逃走に移ったレパードを追おうとしたが、

「ま、待てよ…」

瀕死の傷を負った男の弱々しい声に引き止められ、ドアの前で急停止する。

「頼みが…、ある…」

頷いたヤチは、ハンイーの意図を察して口を開いた。

「安心しろ。ここは壊滅させるが、この子には絶対に危害を加えない。俺達のトライブで保護し、決して粗末に扱わないと約

束しよう」

「…なら…いい…。…ついでにもう一つ、頼みたいんだが…」

ハンイーは懐に震える手を突っ込むと、財布を抜き出して差し出す。

「この中に…、貯め込んでた金がある…。日本円で…一億近くあるはずだ…。こいつをやるから…、俺の相棒の事は…、見逃

してやってくれ…」

「買収しようと言うのか?俺を。判っていないようだから言っておくが、今夜の襲撃はこれまでにこの街で起こった、お前達

の手による数々の殺しへの報復だ。この子の事には目を瞑るが、ジャイアントパンダは見逃せない」

「判ってるさ…。何となく、そうじゃねぇかなぁとは、思った…。だから、判った上で頼むんだよ…」

ハンイーは弱々しく笑うと、「金が、全てだった…」と、ため息をつくように呟く。

「何をするにも金、金、金…。金さえありゃ、大概のモンは手に入る…。俺にとってこの世で一番大切なのは、金なんだよ…」

何を言うのか?そんな疑問の眼差しを注ぐヤチに、ハンイーはニヤリと笑って見せた。

「そんな俺の…、一番大切な物をくれてやる…。だから…、汲んでくれよ、この気持ち…」

しばし黙り込んだヤチは、小さくため息を付く。

「確約はできないぞ。善処はするが、トライブ内において俺は一介の狩人に過ぎない」

「…ひひ…!それでも、いい…!恩に…着る…」

嬉しそうに笑った次の瞬間、ハンイーはごぼりと大量の血を吐き出した。

この男はもう保たないだろう。そう察したヤチは、携帯を取り出してコールし始めた。