黒白の慟哭

「言い残すべき事はあるか?」

うつ伏せに倒れたヘイシンの首に足裏をあてがいながら、フータイは訊ねる。

フータイから見ても歯応えのある相手ではあったが、それでも彼には及ばなかった。

勝敗は決した。

並のライカンスロープであれば即死するほどの重打を連続して叩きこまれ、頑丈なヘイシンといえども、もう腕一本動かせ

ない。

フータイが彼女の首に乗せたその足に力を込め、頚骨を砕いてやればそれで決着がつく。

うつ伏せに倒れたまま、微かに呻くヘイシンの声に反応し、フータイの耳がピクリと動いた。

直後、虎人の顔に落胆の色が浮かぶ。

「…助けて…くれ…。殺さないでくれ…!」

広東語で囁かれたその言葉で、フータイは酷く失望した。

(女だてらにこれほどの猛者…。敵とはいえ賛美したい程の使い手の口から漏れた最後の言葉が、この情け無い命乞いとは…)

もはや言葉は交わすまい。そう決めて足に体重と力を込めかけたフータイは、

「…頼む…!弟は…助けてくれ…!あの子は…何も知らない…。重い病気なんだ…。あの子の…命だけは…!後生だから…、

頼む…!」

そう続いた言葉を聞き取り、動きを止めた。

出し抜けに、過去の自分と妹の事が思い出された。

辺境から出て殺し屋に身を落とす。そんな境遇は自分とも似ていると、来るまでの道中で考えたフータイだったが、よもや

それ以上に似通った部分があるとは想像もしていなかった。

そしてその時こうも考えていた。囚われているライカンスロープが居るならば、救ってやらなければならない、とも…。

心情的に迷いが生まれたフータイが、しかしとどめを刺さない訳にも行かずに逡巡したその時、携帯が震動する。

作戦用に用意したこの携帯は、奇襲参加者とタマモしか番号を知らない。

しかも作戦行動中はよほどの事が無い限りかけないと言ってあったにも関わらず、こうして着信している。

ただ事では無いと察したフータイは、ヘイシンを押さえる足はそのままに、携帯に出た。

「…俺だ。…ん?ジャイアントパンダか?」

一時も視線を外さずに見下ろし続けている相手を映したフータイの瞳が、その瞳孔を僅かに大きくする。

「…弟…。そうか…。嘘ではないのだな…」

そう呟いたフータイは、今その相手を押さえつけていると、電波越しにヤチへ伝えた。

『ここまで連れて来い。位置は地下五階の…』

ヤチが場所を告げると、フータイは僅かに眉根を寄せる。

「もはや立てぬような状態だが?」

『こっちはもっと状態が悪い。引きずってでも連れて来い。大急ぎで頼む』

そう一方的に告げると、ヤチは通話を切った。

(よほどのっぴきならない状況なのだろうと察しはつくが…)

胸中で呟きフータイは顔を顰めた。足元に横たわっている、弟子にも匹敵する体重のジャイアントパンダを見下ろしたまま。

「「引きずってでも」だと?簡単に言ってくれる…」



「出ないな、パンダ…」

獰猛に牙を剥き出しにしながら、ヨルヒコは唸った。

「別の二箇所での騒ぎに向かったかもしれないな。さすがに三人は居ないだろうから」

極めて機嫌が悪い同行者に背中合わせで寄り添い、フォウは鈴を転がすような声音で冗談めかす。

身体的には普通のライカンスロープに劣るというのに、戦場に身を置く雌猫は軽口を叩くだけの平常心を保っている。

その事を頼もしく感じながらも、ヨルヒコは常にないほど気が立っていた。

(まぁ、不機嫌になるのも無理はないか…)

意図的に雰囲気を和らげようとしたフォウだったが、若き人狼の苛立ちの原因を認識しており、そう簡単には拭えないだろ

うと察してもいた。

それぞれの曲がり角と分岐路からほぼ等距離の、逃げ場のない通路の中程で、寄り添う二人を挟み込んでいるのは、拳銃で

武装した男達。

いかに武器を手にしているとはいえ、ヨルヒコは基本的に人間を…自分より圧倒的に弱い生き物を殺す事を嫌う。

ユウとは違って少しは割り切れているため、必要であれば容赦はしないが、当然気分は良くない。

こんな生き方をして来なければ、殺さないでいてやったのに…。そんな思いが何処かにあるからこそ、ヨルヒコは苛立って

いる。

その心根を、ヤチは弱さと見て、フータイは脆さと見る。

故に、敵であれば人間だろうと女であろうと非情に徹するヤチのようにはなれず、フータイのような敵への冷酷さもまた身

に付けられない。

だが、周囲や本人がどう思っているかはともかく、フォウはその性質を好ましく感じていた。

そしてきっと、彼の義兄であるおおらかで穏やかな巨犬もまた、自分と同じ考えだろうと思っている。

「パンダはともかく、あの豹と出くわしても何とかできると思う」

憤りの矛先を別の方向へ向けながら、ヨルヒコは銃口の群れを眺めて呟いた。

「君にしては珍しく、大きく出たものだな?」

自信がある…というより淡々と述べたヨルヒコに、フォウは小声で囁き返した。

「勘だけどさ。確かにアイツは殺し屋だろうし、腕利きかもしれないけど、良いトコ俺と五分五分だ。前に会った連中ほどの

怖さを感じない」

応じながらヨルヒコが思い浮かべているのは、かつて人狼として目覚めたばかりの頃に争った殺し屋達の事である。

「ミストみたいな闘争や血への飢えを感じないし、マンイーターになった後のカグラみたいな、世の中全部を焼き尽くすよう

な熱さも感じない…。同じ殺し屋でも、連中ほどヤバい感じがしないんだ。上手く言えないけど、アイツは殺しを楽な仕事と

して選んだんじゃないかな?それ以上の何かを求めていないし、それ以外の何かを目的にしてもいない」

洞察していたのだなぁと、少し感心したフォウが無言でいると、ヨルヒコは続ける。

「そこから言えば、あのパンダはミストやカグラに近いかもしれない。そりゃあ金の為に殺し屋やってるんだろうけど、もっ

と他に求める物があるような…。何なのかは判らないし、そんな匂いがしたような気がするってだけなんだけどさ」

フォウは思う。ヨルヒコの伸びしろは計り知れない。まるでヤチのような分析を、この青年はそうと意図せぬままおこなっ

ていた。それも、たった一度会っただけの相手に。

「色々な意味で闘いたくない、と?」

「闘いたくないってか、敵わなかったんだけどさ…」

少し気まずそうに応じるヨルヒコの声が、苛立ちを薄れさせて徐々に落ち着きを取り戻している事を察しながら、フォウは

黙って言葉の先を待つ。

依然として包囲されたままではあるが、彼女との会話でいくらか気が紛れたらしいヨルヒコは、「けれど」と先を続けた。

「ヤチやフータイさんなら負けない」

「あの中和能力は厄介だが…」

「それだけどさ…、たぶんアレって、そうそう何度も使えるもんじゃないと思う」

ヨルヒコは一度言葉を切ると、目だけ動かして天井を確認した。

「俺のブラッドバーンにフォウのフロストメモリー…、続けて二回無効化したけど、あの手のトンデモ能力はほいほい使えな

いんじゃないのか?ちょっと似てるビャクヤの力も日に数回の制限があるし」

「…一理あるな…」

ヨルヒコの推測は、フォウも納得が行く物だった。

「とにかくだ、まずこの場を切り抜けよう」

銀狼はそう良いながら尻尾をふさっと揺らし、僅かに前傾姿勢になる。

相手は人狼。その危険性も希少さも知っている黒服達は、ヨルヒコに発砲する事を躊躇って、電話で上に指示を仰いでいる

最中だったが、ヨルヒコ自身にとってはそれもどうでも良い事。そもそも今回の奇襲目的は関係者の徹底的な抹殺なのだから、

かかって来ないなら自分達から攻めるだけである。

「行くぞ…!」

「ああ」

ヨルヒコの声にフォウが短く応じるなり、銀の体が弾けるように跳んだ。

狙いは天井のスプリンクラー。男達が発砲する決心もできないでいる間に、硬質化させた爪を揃えて天井へ突き込んだヨル

ヒコは、そこに繋がる水管を破壊する。

盛大に水が噴き出す中、ヨルヒコは壊した鉄製の水管を掴み、天井を破壊しながら引っ張り出した。

相手の意図が分からぬまま、しかし銀狼が突如大きな動きを見せた事から、男達は攻撃に踏み切った。

鳴り響く銃声は、しかし間もなく止まる。

空気よりも効率的に自分の力を伝導してくれる味方…つまり水を得たフォウにより、通路一面が白く凍り付かされたせいで。

座り込んだまま、あるいは横倒しになり、致命的な冷却を受けて全身霜だらけになっている男達は、一人残らず低体温で死

にかけていた。

自らも水を被りながら、フォウは自身とヨルヒコを除いて凍結させている。

真性のライカンスロープに地力では大きく劣る彼女は、ソーマとの戦いの後もたゆまぬ研鑽を重ね、自己最大の武器…冷却

能力を、ミリ単位で凍結範囲を制御できる程になった。

フォウは床から離した手から霜をまき散らし、氷の上に足を踏み出す。

「往こう、ヨルヒコ」

「おうよ!」

氷付けの監視カメラがかろうじて捉えた、通路を足早に進んで行く二人の映像は、警備室に届けられていた。

にわかに慌ただしくなった男達は、位置が確認できた二人の進路へ人員を大幅に割いて差し向け、結果的に二人は防衛人員

を一手に引き受け、陽動に近い形で仲間達の動きを助ける事になる。

この時はまだ誰も気付いていなかったが、この映像こそが、後々玉藻御前の密使として名を馳せる「銀の焔」と、その伴侶

「雪の女王」の、最初の記録となった。



ドアの前で腕を組んでいた人狼は、まずはひたひたと通路を踏み締めて向かって来る盟友の姿を確認し、次いでその後ろ、

足を引きずるようにして歩いて来るジャイアントパンダに視線を向ける。

(この女か。…この女がユウを…)

憤怒で漏れそうになる唸りを堪え、ヤチは口を開く。

「フータイ。詳しい事情は俺から話す。…そしてお前」

鋭い、心や魂まで貫くような視線を受け、ヘイシンはヤチを見返した。

弟が彼らの手の内にあるらしい事は察しており、反抗的な真似はできない。全身に緊張を漲らせながらも、静かに、大人し

くしている。

「中で仲間が待っている。会って話を聞いてこい」

ヤチが話す日本語はヘイシンには理解できなかったが、しかし言わんとしている事は察せられ、彼女の目に疑問が浮かんだ。

てっきり、人質を確認させられ、その後は言いなりにさせられるとばかり思っていたのだが、どうにも様子がおかしい。

「さっさと行け。時間がない」

苛立っているように鼻面に皺を寄せたヤチに、そしてフータイに、顎をしゃくって促され、ヘイシンはドアに歩み寄る。

途端に、隙間から漏れる血臭に気が付いた。

「ウーシン!?」

声を上げてドアを開けたヘイシンは、噎せ返るような血の臭いの中、ベッドに横たわって眠り続けている弟の姿を目にする。

ウーシンの血の臭いではない。遅れてそう悟ったヘイシンは、傍らから上がった「よぅ…」という弱々しい声に耳を動かし、

素早く首を回した。

「ハンイー。よく殺されずに…、ハンイー!?」

壁際で椅子に座っているハンイーを見遣ったヘイシンは、その身から漂う濃厚な血の臭いと、衣類を赤黒く染めた血痕に気

付き、目を見開いた。

「ハンイー!お前あいつらに…!」

ヤチの手で止血などの応急処置はされ、痛み止めも打たれたが、ヘイシンには一目で分かった。

ハンイーが深傷を、それも、致命傷を受けている事を…。

「違う…、外の狼じゃねぇよ…。ハメられたぜ…。ウーシンの病気…、対処法がはっきりしてるって言ってたけどな…」

「喋るな!じっとしていろ!」

言葉を遮りにかかったヘイシンに、ハンイーは「いいから聞けよ…」と先を続ける。

「はっきりは…してた…。治せないから、放置しとくって…そんな対処法しかねぇって事が…はっきりしてたんだ…」

虚を突かれて黙り込んだヘイシンの前で、ハンイーは「畜生…」と唸る。

「上手く誤魔化された…。「治療法が」はっきりしてるとは、言わなかったもんなぁ…。治せるなんて一言も…。まんまと一

杯…食わされたぜ…」

「…嘘だ…」

ぽつりと呟いたヘイシンの膝が折れ、ずしっと床に落ちる。

「嘘じゃ…ねぇ…。そこで会ったろ、銀の狼に…。あいつが教えてくれたんだが、医師だって言ってた連中…、ウーシンの血

を…、こっそり抜いてやがった…」

「…嘘…」

「嘘じゃねぇって言ってんだろが…。この傷、誰にやられたと思う…?」

ハンイーは上着をはだけ、血に染まった包帯に覆われた腹部を見せる。

「レパードだ…。野郎も知ってやがった…。畜生…、してやられたなぁ…」

悔しげに唸るハンイーの口から、つつっと血の筋が顎へ伸びる。

「もう良い、喋るな!出よう。こんな所は出て、新しい雇い主を捜す」

「喋らせろよ…、今しかねぇんだからよ…」

「後にしろ!」

「いいから聞け。ウーシンの病気は、治し方が確立されてねーんだ…。判るか?新しい雇い主なんて…、病気を治せるヤツな

んて…」

「黙れ!マネジメントはお前の仕事だ。ウーシンとあたしの面倒を見るとお前は言った!約束は守れ!」

叫ぶように言葉を叩き付けたヘイシンの目から、涙がこぼれ落ちた。

誰かを殺すのはあんなに簡単だったのに、何故自分は誰も救うことができないのだろう?

ウーシンの病は治らず、ハンイーは今こうして目の前で死にかけているのに、何もできない。

悔しくて、哀しかった。己の無力さが憎かった。

自分が本当に欲しかったのは敵を殺す拳などではなかったのだと、彼女は今、改めて思い知った。

俯き、肩を震わせ、ポタポタと床に涙を落とすヘイシンを、ハンイーは意外そうな目つきで凝視する。

「泣いてんのかよ…?ヘイシン…。もしかして、おれのため…?」

「泣いてない!」

叫ぶように言い放ったヘイシンの鼻先から、涙と鼻水が混じって床へ滴ってゆく。

そこには、ハンイーの知る殺し屋ヘイシンの姿は無かった。

親しい者の死を前に、絶望し、哀しみ、そしてそれらを堪えて身を震わせる、極々普通の若い女の姿しか、ハンイーの目に

は映っていない。

「ひっでぇ面ぁしやがって…。ただでさえデブで不細工なんだからよ、そんな面見られたら…、嫁の貰い手、無くなるぜ…?」

「うるさい!」

声を詰まらせ、それでも叫び返すヘイシンに、ハンイーは、

「ついでに…、今の内に言っておかねーとなぁ…」

と、少々決まり悪そうに先を続ける。

「何十人もマネジメントしてきた…なんてなぁ…、ありゃ…ウソだ…。…お前さんが三人目…」

「そんな事だろうと…思っていた…」

ヘイシンがすぐさま言い返すと、ハンイーは苦笑いする。

前の二人は付き合いは短かった。危ないヤマを踏んだ際に使い捨てにし、それっきりであった。

ヘイシンとの付き合いが長くなったのは、彼女が常識外れに強かったという事もあるが、それだけではない。

実のところ何度か使い捨てにする事も考えたのだが、その都度打算以外の思いがあって踏み留まっている。

「驚か…ねーんだな…?」

「驚くもんか。お前の言葉の大半は信用してなかった。どうせ名前だって偽名なんだろう?」

「ところが、だ…。お前さん達に教えたこいつは、本名なんだよなぁこれが…。マジで…」

ハンイーが口の端を歪めると、ヘイシンは戸惑いの表情を浮かべる。

「何故…、あたしには本名を…?」

ハンイーは「ひひひっ…!」と笑い、痛みに顔を歪める。だが、その顰め面は浅い。痛みがもう深刻な信号として機能して

いない。痛みのみならず語感の全てが遠く、鈍く、どんどん現実味が失われている。

「うっかり…だ…。幼馴染みに、お前みたいな…太った大女が居て…な…。図体でかくて、気が強くて…、でも本当は泣き虫

だった…。しょっちゅうからかって、泣かして…よ…。最初に見た時に…、そいつを思い出して…、初めて会った気、しなかっ

たんだわこれが…」

そこで言葉を切り、深くため息をつくと、ハンイーは少し疲れたように、そして寂しそうに、静かに呟いた。

「ホントは…、もっともっと沢山嘘ついてたんだけどな…、全部暴露してる時間は…、さすがに残ってねぇや…」

「聞かせろ!全部言え!途中で止めるな!」

顔を上げたヘイシンの、涙と鼻水でぐしょぐしょに濡れた顔を眺めるハンイー。その視線はどこか茫洋としており、遠くを

見るようなものに変わりつつあるが、寂しげで、穏やかで、悟ったような色が浮かんでいる。

「無茶言うなって…。結構キツいんだぜ…?こうしてんの…。それにお前、さっきは「喋るな」って言ってたろうが…」

「喋っている間は死ねないだろう!だから喋れ!」

「無茶苦茶言いやがる…。ま、お前のそういう…、理屈が通らねぇトコ…、おれは好きだったぜ…?」

「あたしは…!」

ヘイシンは床に着いた手をぐっと握り込み、涙をぼろぼろ零しながらハンイーを見つめた。

「あたしは…、お前なんか嫌いだ!」

その、ビジネスパートナーが初めて見せた、縋り付くような弱々しい表情に、ハンイーは胸を突かれた気分になる。

「大っ嫌いだ!ずっとずっと嫌いだった!会ったときから今まで、ずっと…!」

声を詰まらせたヘイシンは、堪えかねたように体を起こし、恐る恐るハンイーの手を握る。

「だから死ぬな…!居なくなったら、嫌えないだろう…!」

大きな手でぐったりと力が抜けた手を掴まれ、ハンイーは「無茶苦茶言いやがる…」と繰り返し、笑う。

その笑みはどこか清々しく、すっきりしたような表情で、ヘイシンの心を揺さぶり、不安にさせた。

「きっと…、ろくな死に方は…できねぇだろうって、思ってたんだが…、こういうの、まんざらでもねぇなぁ…。ひひっ…!」

もう時間がない。

ハンイー自身も、ヘイシンも、そう悟った。

どうすれば良い?ヘイシンはそう自問する。

自分とハンイーを欺き、ウーシンを弱らせ、そして今ハンイーを死なせようとしている雇い主に復讐したい。そんな思いが

ある。

それが何の解決にもならない事は判っているが、大事な身内を傷つけられたままでは、彼女自身の気が済まない。

その感情は、ユウを傷つけられたヤチ達と同質の、極めて激しい物であった。

だが、今の彼女はまともに動くのも辛いほど弱っている。

内蔵の損傷は修復したものの、力が足りずに骨折はまだ数カ所そのまま放置しており、筋肉や腱も何カ所か断裂したままで、

闘う事もできない有様である。

しばし考えた彼女の目は、ハンイーから流れ出て床を染めた、赤い血溜まりを捉えた。

禁忌の業。

忌むべき最後の手段に考えが至ったヘイシンは、躊躇せずにその手を血溜まりに浸した。

マンイーター化。

人間の血肉を摂取する事で、ライカンスロープはその能力を著しく増加させる事ができる。もはや力が尽きかけたヘイシン

でも、ハンイーの血肉を口にすれば、今一度闘えるようになる。

ただし、人間の血肉は彼らにとって麻薬にも等しい。一度口にすれば依存してしまい、摂取し続けるようになる。そして摂

取を続ける内に、理性すら失った真の怪物と化す。

ライカンスロープ達は、その依存性と発狂の事をこう述べる。

天敵であり、近しい存在でもある人間を食うと、身と魂が穢れ、呪われるのだと…。

「…止めろ…!」

ハンイーの口から思いのほか力強い、はっきりした声が出た。

「もし血なんか飲んだり…しやがったら…、絶交だぜ…?」

その言葉で、血まみれの手を胸元まで上げていたヘイシンの動きが止まる。

「お前がマンイーターになっちまったら…、誰が…、ウーシンを見送って…やるんだよ…」

その言葉でヘイシンはハッとなり、ベッドに横たわる弟を見遣った。

一時とはいえウーシンの事を忘れたのは、初めての事だった。自覚は全くなかったが、ハンイーは今やヘイシンにとって、

弟と同様に大切な、かけがえの無い相棒になっていたのである。

ハンイーは、人間の血肉を口にしたライカンスロープの末路をよく知っていた。だからこそヘイシンを止めた。

後が無いならまだしも、今の彼女にはまだ守らねばならない物がある。

せめてウーシンの残り少ない命が尽きるまでは、傍に居てやらなければならない。

今彼女が一時の復讐心に任せてマンイーターになってしまったなら、ウーシンは肉親に看取って貰う事すらできなくなる。

ふぅっと息をつき、ハンイーは震えが酷くなった手で拳銃を握り、差し出した。

「違約金代わりだ…、持ってけ…」

拳銃と顔を見比べるヘイシンに、ハンイーは笑う。

「有り金全部、あの銀の狼にくれてやった…。おかげで退職金は…これしかねーんだわ…」

「金…?何故…」

時折ウーシンには配慮する姿勢を見せていたが、ハンイーは守銭奴と言えるほどケチでがめつい。折につけ、そんなに貯め

てどうするのだとヘイシンに問われた際には、墓の中まで持っていくとうそぶいていた程である。

そんな彼が有り金全てを差し出す…。その事がヘイシンに疑問を抱かせた。

「そいつで、お前らの事は見逃してくれるように、頼んでおいてやったぜ…。恩に着ろよ…?」

「あたしはそんな事頼んでない!」

言い返すヘイシンから目を背け、ハンイーは自分の手を掴んでいる大きな黒い手を見つめ、その甲に手を重ねる格好で拳銃

を押しつける。

「持ってけ…。契約不履行の…お詫びだ…。結局…、ウーシン…治して…やれな…」

言葉を途中で切ると、ハンイーはごぼっと吐血する。

レパードの貫手で穿たれて負った内臓の損傷は極めて激しく、何とか堪えていたが、こみ上げて来る血を飲み下し続けるの

も限界であった。

「…ヘイシン…。お前とウーシンと…一緒に居る生活…な…。実はメチャメチャ…しんどかった…」

光を失いつつある瞳を上に向け、ハンイーはこぽこぽと血が溢れる口を億劫そうに動かす。

「儲けはでかかった…が…、毎回…毎回…、お前さんの態度は悪ぃわ…、他の雇われ人と…衝突するわで…、こちとら…寿命

が縮む思いだった…。ストレスで…胃潰瘍になったんだぜ…?知ってた…?」

「…食あたりだと…言っていただろうが…!」

我慢も限界に達し、ひっくひっくと喉の奥を痙攣させ始めたヘイシンに、「ああ、そういや…そう言ったっけ…」と、ハン

イーは笑みすら浮かべて言う。

そして「そいつも…、嘘の一つ…」と付け加えると、彼はゆっくり目を閉じた。

「しんどかった…。キツかった…。けど…、悪く…無かった…」

「嘘なんだろ?それも…」

「ひひっ!どうかなぁ…。嘘の暴露ついでに…、もう一個…だけ…」

ハンイーは口元を緩め、夢見るような穏やかな顔になる。

「散々…言ってきた…けど…。お前が不細工っての…、あれも、嘘…」

こぽっと喉を鳴らしたハンイーの顔を見つめ、ヘイシンは大きくしゃくり上げる。

「十分…可愛いと…思うぜ…?そんな風に…不機嫌そうな膨れっ面さえ…してなきゃ…よ…」

「嘘なんだろう?それだって…!」

怒ったように言ったヘイシンに、ハンイーは答えない。

「ハンイー?おい!答えろハンイー!何とか言え!」

ヘイシンの手に重ねられていたハンイーの手が力無くずり落ち、間にあった拳銃が、ゴトンと、重々しい音を立てて床に落

ち、持ち主の血に染まる。

「ハンイー!?ハンイー!」

ヘイシンはその手でハンイーの肩を掴み、しかし傷に響く事を恐れ、おっかなびっくり揺さぶってみる。

しかしハンイーは返事をせず、目も開けない。

「嘘…。あたしも、嘘をついた…!」

目を瞑ったままの相棒の顔を見つめ、ヘイシンは止めどなく涙を零す。

「大嫌いだなんて嘘だ!本当は、本当はそんなに嫌いじゃなかった…!ちょっとは信用してた!気に入ってた!お前はウーシ

ンには優しかったから…!だから…!時々だけど優しかったから…!」

ヘイシンが何度呼びかけても、何と呼びかけても、ハンイーは二度と言葉を発さず、動くことも無かった。

「…感謝…してる…!有り難うって、言ってない…!寝るなハンイー!あたしはまだまだ言い足りない…!ウーシンだってちっ

とも喋ってない…!お別れを言ってない…!勝手に寝るな…!ハンイー…!」

ヘイシンに揺さぶられるハンイーの死に顔には、生前の彼が浮かべていた物と全く同じ、軽薄そうな、人を食ったような笑

みが浮かんでいた。



しばしあって、すすり泣きが収まってから部屋に入ったフータイは、

「事情は、理解した」

敷いた毛布の上にハンイーの遺体を寝かせ直したヘイシンが、静かな祈りを捧げ終えるのを待ち、口を開いた。

「個人的には思うところもあるが…、お前の処遇は我が盟友に任せる。弟と共にここから退去しろ」

朋友であるヤチの顔に泥を塗る訳に行かないフータイは、銀狼がハンイーと交わした約束を無下にはできない。また、フー

タイ自身もかつての己の境遇とヘイシンの現状を重ねてしまい、彼女の処分をひとまず思いとどまった。

この勝手な判断についてタマモが何と言うかは判らなかったが、とにかくまだ作戦は終わっていない。

再び血風を巻き起こすべく部屋を出ようとしたフータイは、

「頼みが…、ある…」

掠れきったヘイシンの声を背中に受け、足を止めた。

大きな物が立ち上がる気配に続き、涙を拭っているのか、少し湿った音が響く。

「時間を…くれ…。ハンイーを殺したヤツと、あたし達を騙したヤツに、思い知らせたい…」

ヘイシンはベルトに差し込んで腹の横に保持した拳銃に手を当てた。

ハンイーから受け取った彼の形見…。己と同じ名を持つ中国製のコピートカレフ、黒星(ヘイシン)を。

振り向いたフータイを真っ直ぐに見つめ、彼女は言葉を重ねた。

「立場を弁えない願いだと判っている。だが…頼む…!」

ヘイシンの真剣なその目に、頼みに、フータイは…。



「妹と弟のような物…。アイツはあの姉弟についてそう言っていた。…情が移ったそうだ…。酔狂な人間というのは、ヨウコ

に限らず居るものだな…」

数分前、ハンイーとヘイシンが最後の会話を交わしていた頃、ヤチはフータイに事情を説明し、話をそう締めくくった。

「話は判った。が、あの雌狐が納得するか?親しくしている親分の手下を何人か殺しているのだろう?」

ヤチは困ったような顔で「そこだ…」と唸る。

「そこで他でも無いお前に相談なんだが…。フータイ、もしも俺かお前が…………」



回想を打ち切り、フータイは小さく息を吐く。

ヤチはパンダ姉弟を助けてやりたいと思っている。だが、姉の方は満身創痍のこの状態でも噛みつく気満々。

いかにして思いとどまらせようかと考えたフータイは、

「このままじゃ…、ハンイーに何も手向けられない…」

ヘイシンのそんな呟きを耳にし、結局折れた。

「もとより夜明けまでに頭まで噛み潰してやるつもりだった。…その気があるならば案内として同行しろ。連れて行ってやる」

そう言い放って踵を返したフータイは、ドアの外で待っていたヤチに頷きかけた。

「聞いていた。お前に任せる。弟の方は俺が外に連れ出し、トガワ君に一足早くホテルへ届けて貰おう」

「…話が早くて助かるが、珍しく敵に寛容だな?ヤチよ」

訝しげなフータイに、銀狼はふっと微苦笑する。

「融通をきかせてやりたくもなるさ。久々に見た骨のある雄に、頼み事をされたんだからな…」

ユウを殺されかけた事はひとまず飲み下し、狼と虎はそれぞれ別のルートで移動を開始する。

姉と弟を、それぞれ預かって。



「あ?予定変更?」

携帯を握った山猫は、素っ頓狂な声を上げる。

よほどの事が無い限りは作戦行動中に連絡のやりとりは無いはずなのだが、珍しくヤチからコールされたのである。

「どういう事だ?先に離脱する?え?フータイが攻め上る?親玉は上?待て待て待て!例のパンダの殺し屋はどうなった!?

何がどうなってる!?」

混乱して声を上げた山猫は、電波越しのヤチの慌しい説明を受け、不承不承頷いた。

「…判った。じゃあこっちはフータイの援護…陽動だな?」

山猫が電話を切ると、それまで壁にもたれかかって腰を降ろしていた漆黒のマスタングが億劫そうに身を起こす。

「ソウスケ、ヤチは何と?」

「珍しく大慌てだったから良く判らねーんだが…、囚われてたライカンスロープを保護したんだと。酷く衰弱してるから急ぐ

んだってよ。で、親玉の位置が判ったから、フータイがそっちに向かうってさ。こっちは目下その援護だ」

肩を竦めた山猫は、相棒に「どうだ?」と訊ね、マスタングは「動きに支障は無い」と応じる。

ヘイシンによって重傷を負わされた二人は、リネン室に身を潜めて傷を修復していた。

ダメージは極めて重く、動けるようになるまでにはいささか時間が必要だったのである。

「随分サボっちまったからなぁ…、ヨルヒコ達に負担かけちまった」

「その分、ここから巻き返さなければな」

マスタングの言葉に頷くと、山猫は苦笑いを浮かべた。

「だなぁ。戦闘の腕前に関しちゃあ、たぶんアイツにはもう抜かれちまってる。きちんと働き見せねぇと、先輩として威張れ

ねぇや」

その笑みには、少しばかり口惜しそうな、しかし頼もしそうな、そして誇らしそうな、微妙な感情が混じっていた。



「トガワ君!済まないが大至急だ!」

けたたましいスリップ音を響かせて停車したワゴンの後部ドアに取り付き、開けて中へ飛び込むなり、ヤチは大声で運転手

に告げる。

「りょ、了解です!…犠牲者が出た訳じゃ…無いんですね?」

ヤチが抱えている病的に痩せ細ったパンダをバックミラーで確認した若者は、ワゴンを急発進させながら戸惑い顔になった。

「パンダ…?ユウ君を半殺しにした殺し屋もパンダって…」

ハンドルを巧みに操りながらも胡乱げに呟いている若者に、ヤチは何と説明した物か判らずに黙り込む。

衰弱している少年は仇敵の血縁者…。まだ処遇が決まらない内にあれこれ伝えてしまうのはどうだろうかという思いがある。

ヤチの意図を汲んでか、トガワ青年はあえて尋ねようとしなかった。

闘争力は無いが、勘のいい青年である。言い難い事を察してくれたのだろうと頭を下げるヤチ。

「飛ばします!しっかり押さえてあげていて下さいよっ!」

青年の言葉を頼もしく感じながら、ヤチはウーシンをしっかり抱きかかえた。



ブンッと腕を振ったフータイの指先から、鋭い爪に付着した血液が飛び、床に深紅の曲線を幾筋も描く。

硝煙漂う通路で、敵対者を残らず屠り、屍の中に立つ巌のような体躯の虎は、ヘイシンを振り返って顎をしゃくった。

(なんて使い手だ…)

進み始めた虎の背を、重い足を引きずって追うジャイアントパンダは、内心舌を巻いていた。

この五年間、殺し屋として過ごして来たヘイシンは、驕りでも過信でもなくただの事実として、自分の腕が優れている事を

自覚している。

だが、上には上が居る。

すぐ先を悠然と歩む虎が格闘の腕でも、殺傷の手際でも、自分を遥かに上回っている事を、ヘイシンは思い知った。

筋肉の上に過剰な脂肪が乗っている下腹部へ、ジャイアントパンダはそっと手を添える。

余力が無い事もあって修復は完全ではなく、フータイに突き込まれた拳のダメージは抜け切っておらず、腹の深い部分には

未だに鈍痛が残り、一歩踏み出す歩く度に響く。

強い。とことん、どこまでも、底が見えないほど強い。腕に自信を持っていた己を恥じたくなる程に…。

自覚は乏しかったが、それでも実は深く信頼していたハンイーを喪い、さらにウーシンの病を治す希望も失われた。

この上で闘争力でも負けてしまったヘイシンは、今や縋るべき物が何も無く、無力さを痛感している。

気を抜けば、消耗とダメージの為だけでなくその場でへたり込んでしまいそうな彼女を、それでも支え、前に向かわせてい

るのは、ウーシンを弱らせ、自分達を欺いていた者達への復讐心と、ハンイーの仇を討ちたいという強い衝動。

ヘイシンは歩きながら、下腹部に当てていた手を斜め下に動かし、ベルトに挟み込んで臍の右下に固定した拳銃に添える。

締めたベルトに乗る形でムッチリとせり出した腹肉に少し食い込むそれの冷たさと、軽い痛みが、ヘイシンを力付けていた。

決して性能が良いとは言えない、中国製のコピー拳銃…。貧乏でもないハンイーがこれを携帯し続けたのは、護身用の武器

に回す金をケチったからではない。

ビジネスパートナーであるジャイアントパンダの名と同じだからと、縁起を担いでの事であった。

軽薄な笑みを浮べながらそう説明してくれたハンイーに、自分はあの時何と応じただろう?

ヘイシンは記憶を手繰ったが、どうしても思い出せない。

きっと、どうでも良いというような態度で、そっけなく応じたに違いない…。そう考えたヘイシンの中で、寂しさが膨れ上

がる。

あの時何と答えたか訊ねようにも、訊ける相手はもうこの世に居ない…。

「ハンイーと言ったか?あの男…」

急に響いた太い声に、ヘイシンはハッと我に返る。

前を向き、足を止めず、唐突に口を開いたフータイは続けた。

「大した男だ。お前が満身創痍である事も、そして闘いを止めぬ事も、例え止めてもこうして仇討ちを試みる事すらも、おそ

らくは見抜いていた」

「え…?」

疑問の声を発するヘイシン。フータイは行く手に見えてきた扉を見据えたまま口を開く。

「だからこそ銃を渡したのだろう。ろくに動けぬお前の力になればと…。その牙、大切に使う事だ」

果たしてハンイーは本当にそう考えていたのだろうか?

そう一度は疑問に感じたヘイシンだったが、しかし彼の用心深さを思い出し、そっと銃のグリップを撫でる。

(ハンイーの牙…。なら、預かったあたしは…)

「あそこだな?」

為すべき事が胸の内ではっきりと形になり始めたヘイシンに、扉まであと20メートルも無い位置で立ち止まったフータイ

が訊ねる。

「ああ。あそこだ」

頷いたヘジャイアントパンダは、扉を開けて出て来た十数名の黒服と、その後ろから歩み出た豹を瞳に映した。

ヤチによって片腕をバラバラにされたレパードは、呪いによって修復もできないまま、きつく縛って止血している。

呪いを解かせるためにもヤチを迎え撃ちたかったレパードは、しかし見知らぬ虎と共に居る知った顔を目にし、牙を剥き出

しにした。

「…ヘイシン、貴様…!敵の軍門に降ったか!」

レパードの怒声が通路に響く。

ヘイシンの力を軽んじていた彼だが、この状況では少しでも戦力が欲しい。それが見込めない上にわざわざ敵を案内して来

た今、豹は焦りと怒りを満面に湛えている。

「恥を知れ!裏切り者め!」

「裏切ったのはどっちだ!」

レパードの英語にヘイシンは言い返す。

この国に来てから日が浅い事もあって日本語は不自由だが、便利な英語は何とか形にしており、読み書きはともかくとして、

訛りは酷いものの会話はできる。

「あたしを騙した!ウーシンを弱らせた!ハンイーを殺した!それらは裏切りでないとでも言うのか!」

全身の被毛を憎悪と嚇怒でぶわっと逆立て、ただでさえ大きな体を一回り丸く膨れ上がらせ、ヘイシンは吼えた。

「贖わせてやる…!絶対に赦さない!」

フータイの横にどしっと足を踏み出したヘイシンの目には、もうレパードの顔しか映っていない。向けられる銃口すら半ば

意識の外にある。

「待…」

フータイから制止の声が上がりかけたが、それより早くヘイシンは動いた。

もはや動きに精細のない、緩慢な、しかし力強い一歩。

その一歩が踏み締められた途端、発砲が始まった。

避ける事も、防ぐ事もせず、銃弾の雨に身をさらすヘイシンは、あちこち被弾し、体を揺らしながらもその歩みを止めない。

一発が頭部…目の上に当たり、被毛を散らして皮膚に穴を穿つが、分厚い頭骨の表面を滑るようにして頭頂から抜けてゆき、

致命傷にはならなかった。

避ける余力もないが、避ける必要も無い。ヘイシンは驚くべきタフネスと頑丈さで、銃弾を食らいながら前進を続ける。

胸に、腹に、腕に、脚に、何発も命中しながら、しかし9ミリ弾は薄紙のように弱った彼女の命を脅かすには至らなかった。

鬼気迫るその歩みに気圧され、発砲を続けながらも黒服達に動揺が広がる。

尻ごみし始めた彼らの目には、ヘイシンが不死身の怪物に見えていた。

やがて、一時はその捨て鉢な行動に呆れたフータイが、見かねて大きく腕を引き、振りかぶる。

短い集中の後に振り抜かれた手刀は、ヘイシンの横を駆け抜ける真空の鎌で、黒服達の中に鮮血の風を巻き起こした。

弾丸の雨が止み、残響が耳を打つその通路で、ヘイシンは足を止めた。

その数メートル先には、憎悪と動揺を顔に貼り付けた豹。

「裏切り者め…!」

低く呻いたレパードは、3メートルを切った距離を詰めにかかる。

ヤチにかけられた呪いのおかげで腕は治らず、痛みも治まらない。それでも、満身創痍のヘイシンと比べればはるかに状態

はマシだった。

極端に低い姿勢から滑るように前進しつつ、レパードは全身を伸ばすようにして腕を突き出した。

ハンイーを串刺しにした時と同じように、揃えられた爪が微細な高速振動を起こしながら大気を貫き、ヘイシンに迫る。

が、彼女は避けようともしなかった。

鳩尾に突き刺さり、脂肪と筋肉を諸共に突き破り、内蔵を破壊し、背中まで突き抜けた腕の感触で、レパードは勝利を確信

する。

しかし、その直後に彼の表情が凍り付いた。

「…これが…、ハンイーが受けた痛みか…」

静かに呟くヘイシンは、先刻、ヨルヒコを相手取った時にもそうしたように、串刺しにされたまま相手を見下ろす。

ヘイシンはレパードの一撃を、あえて受けた。

今の状態では避けるのは難しかったが、例え万全の状態だったとしても、彼女は避けなかっただろう。

ハンイーが味わった痛みを理解し、その上で復讐してやりたかったから。

効いていない。そう判断して焦ったレパードは、下がろうとし、しかし果たせなかった。

ヘイシンの厚みがある腹に根本まで埋まった腕が抜けなかった。強靱な腹筋で締め付けられたせいで。

「…良く判った。これでもう、殺してもいいな…」

「なっ!?き、貴様…げうっ!?」

レパードの声が歪に裏返り、途切れた。

「ハンイー…。今、仇を討つぞ…!」

言葉と同時に、ヘイシンの太い両腕が豹の体を、肩を抱えるようにして抱き締める。

それは、先にヨルヒコに仕掛けたものと同じ、じりじりと締め付けるのではなく、回した腕で相手を急激に圧迫し、粉砕す

る…、全方位からの打撃に等しい、絞め技と呼ぶのが躊躇われる技。

豹の体内から、くぐもった、そして湿った、耳障りな破壊音が、刹那の間に連続した一つながりの音として零れ出た。

一瞬の内に胸骨を砕かれ、臓器を破裂させられたレパードは、天を仰ぐように首を逸らす。

その口から絞り出された血液が噴水のように吹き上がり、それが収まると、口の端からだらりと舌が垂れる。

絶技。あれはそう呼んでも差し支えないレベルの技だと、目にしたフータイですら思った。

(ヨルヒコからの子細な報告で、先程は組み付かれないよう警戒していたが…、確かに、これを浴びせられてはたまった物で

はない…)

フータイすら戦慄させるその技を受ければ、いかに強靱なライカンスロープの肉体といえども一溜まりもない。例え人狼の呪

いによって修復が阻まれていなかったとしても、レパードが一撃で戦闘不能になったのは確実だった。

事切れる寸前の状態となったレパードを抱く腕を片方外し、ヘイシンはベルトに挟んでいた銃を掴む。

その銃口を相手のこめかみに突きつけ、ヘイシンは窮屈そうに、トリガーに太い指をかけた。

生き残っている黒服達は既に戦意を喪失しており、誰もレパードを助けようとはしない。仲間の血で汚れたまま、ただただ

震えているだけである。

「あの世で、ハンイーに詫びろ…」

怒っているような、しかし今にも泣き出しそうな、歪みに歪みきった表情を血まみれの顔に浮かべ、ヘイシンは呟いた。が、

「そこまでにしておけ」

背後からかかった声で、ぴくりと肩を震わせ、指を止める。

「その牙を突き立てるべき相手は他にも居るのではなかったか?放っておいても死ぬ相手に構っている余裕は無いだろう」

フータイはそう言いながらヘイシンを追い抜き、扉に向かって顎をしゃくる。

「大将首は譲ってやる。行け」

しばし動かなかったヘイシンは、やがて銃を下ろし、再びベルトに挟んだ。

同時にレパードを支えていた腕を放し、その首を掴んで乱暴に引き剥がす。

引っ張られたレパード本体に引き摺られて腹を貫通していた腕がずるりと抜け、両側の傷から夥しい出血が始まった。

程なく血は勢いを弱めたが、修復しようにも力をほぼ使い果たしており、傷口は殆ど塞がらない。

ヘイシンはのっそりと足を進め、へたり込んでいる黒服達の間を抜け、扉に手をかけた。

そこで一度動きを止め、振り返ってフータイを一瞥したヘイシンは、

「…恩に着る…」

小さくそう礼を言い、虎人が頷くなり扉を押し開けた。

億劫そうに入り口を潜り、後ろ手にドアを閉めたヘイシンは、扉に背を預けて大きく息をつく。

限界が近い。だが、もう少し保たせなければならない。

ベルトに挟んだハンイーの遺品を掴み、引っ張り出す。

自分で選んでまた一つ傷を負ったとはいえ、まさかこんな物に頼る時が来ようとは…。そう考えたら、状況が状況にも関わ

らず笑えてきた。

苦笑いを噛み殺し、呼吸を整え、ヘイシンは視線を上げる。

その瞳に、卵のような肥満体の男の姿が映った。

状況を察しているのだろう、握った銃をヘイシンに向けている男は、頬肉を波打たせてガタガタと震えている。

「…白黒…つけに来たぞ…」

笑みを収めたヘイシンは、瞳を冷たく輝かせ、銃口を雇い主に向ける。



散発的に鳴り響いた数回の銃声が収まると、フータイは黒い縁取りのある耳をぴくりと震わせた。

終わったのか、中からはもう何も聞こえて来ない。

ヘイシンが室内に入るなり爪を振るって始末した黒服達の中、フータイは気配を察して通路を振り返った。

「フータイさん!?」

エレベーターが開いて飛び出してきたヨルヒコと、それに続くフォウを見据えたフータイは、足下の豹を見下ろす。

「何とか間に合ったな」

「どうしたんだよ?すぐ来いって…」

駆け寄った弟子を一瞥し、フータイはレパードを指さした。

「こいつの首をはね、呪縛しろ。ヤチが必要としている」



それからしばし時間が経った後、フータイはドアを押し開けた。

すぐ足下で横倒しになっている黒白の巨体を見下ろし、次いで奥に目をやれば仰向けに倒れている太った男の血まみれ死体。

仇討ちは成った。確認を終えたフータイは、昏睡状態にある弟子に心の中で詫びる。

殺せなかったがさんざん痛めつけてやった。それで勘弁してくれ、と。

足を進め、ヘイシンの傍で屈み込んだフータイは、朦朧とした目で見上げて来るジャイアントパンダに囁く。

「もう動けぬか」

黙って頷いたヘイシンは、疲れ果てたような顔をしていた。

死相が濃い。そう見て取り、フータイは言葉を紡ぐ。

「勝手に逝くなよ。お前にはこれから、数々の行為に対する償いと…」

一度言葉を切った虎人は、僅かに口元を緩めた。

「弟に付き添ってやる日々が、待っている」

弱々しく動いたヘイシンの口元が、微かな笑みを形作った。

「そうだった…。あたしはまだ、死ねないな…」

声にならなかったその言葉に、フータイは頷いた。

そのまま目を閉じて意識を失ったヘイシンの体を仰向けにすると、フータイは立ち上がり、通路を振り返った。

ヨルヒコが持ち去ったせいで首がないレパードの死体の傍らで、薄桃色の猫が頷き、室内に入って来る。

「頼む」

「やってみよう。上手く行くといいのだが…」

フータイに促されて屈んだフォウは、こんもりと盛り上がったヘイシンの腹に手を当て、傷の周囲を凍結し始めた。



薄く開いた目の隙間から、赤い瞳が天井を映す。

しばしぼんやりと白い天井を見上げていたその瞳は、静かに横へ動き、ベッドサイドで項垂れている若い女性の姿を捉えた。

「ショウコ…さん…」

透明な酸素マスクに覆われたマズルから声が漏れると、ヨウコと代わって見張りにつき、そのまま病室に忍び込んでいたショ

ウコはハッと顔を上げた。

「ユウ!?」

状況が飲み込めていないらしく、ぼんやりと不思議そうに自分を眺めている白熊の顔を見つめ返しながら、ショウコの目か

ら涙が零れた。

「…そうだ、パンダが…!僕は負けたのか…。兄さん達に知らせないと…!」

呟いたユウの目に意志の光が戻り、各所の損傷が凄まじい速度で修復されてゆく。

時間経過での回復と点滴での栄養補給を受けて力を取り戻したユウは、その類い希な修復能力により、覚醒と同時に健康体

を取り戻した。

しっかりとした動作で身を起こしてマスクをはぎ取り、ベッドから降りようとしたユウは、

「生きてる…。動いてる…」

ショウコがそっと手を握ってきた事で動作を中断した。

片足を床に下ろし、半分ベッドから出かかった状態のユウは、手を握ったショウコがポロポロと大粒の涙を零し始めると、

「え?あれ?ショウコさん?どうしたんですか?」

「良かった…!生きてる…!良かったよぉ…!」

おろおろしながらその手を取り、こわごわと泣き顔を覗き込んだ。

「…えっとあの…、ご、ごめんなさい!ごめんなさい!泣かないでショウコさん!ね!?」

ユウは自分が死にかけていた事など知らないまま、かなり取り乱して恋人に謝り始めた。