BloodChaserPeriod 〜Reunited〜

「ちっ!誰かの勇み足だな…。始まってるぜ…?」

俺達が乗り込むワゴンの後部、横窓から、行く手のビルを見上げた山猫…、ソウスケが、苛立たしげに呟いた。

目的地であり、標的となるビルは、灯りが落ちて窓が黒く染まっている。

非常灯の灯りが生きているらしく、所々薄灯りが灯っているのが微かに見えた。

「物陰で降り、そこからは各々跳んだ方が速いかもしれん。どうする、ヤチ?」

漆黒のマスタング…、クラマルが、屈んだまま巨躯をゆっくりと移動させ、後部ハッチに手をかけた。

「異存はない。それで行こう。兎川君!人目につかない位置へ向かってくれ!」

「はい!飛ばしますよっ!」

俺の呼びかけに、ドライバーの為、人間の姿をしている同志が大声で応じた。

「停めなくていいぜトガワ!全員勝手に跳ぶからなぁ!」

ソウスケの言葉に「ラジャー!」と威勢の良い返事を返すと、トガワ君は立体駐車場の陰、街灯が距離を開けてポツポツ並

ぶ、人通りのない道へとワゴンを走り込ませた。

「先に行くぜ?」

ソウスケの声に応じ、クラマルがその太い腕で後部ハッチを開ける。

上に跳ね上がったハッチの下から、山猫は素早く飛び降りる。

そしてアスファルトの路面を蹴って高く跳躍し、立体駐車場の壁、雨樋にしがみついてスルスルと登り始め、あっというま

に見えなくなった。

「では、行って来る」

「ああ。…これで最後だ。気を抜かずにな」

「うむ。そちらもな」

続いて飛び出したクラマルは、後ろ足の蹄でガンッと路面に着地すると、漆黒の突風となって目指すビルの方向へと走り去る。

「俺も行ってくる。回収は予定通りのポイントで頼むよ」

「はい!お気を付けて、ヤチさん!」

トガワ君の声を背に受けて、上に跳ね上がったハッチに手をかけて横へと体を振り、一回転してワゴンの天井に着地する。

ハッチを下に押しやって締めた俺は、疾走するワゴンの上に四つん這いで屈んだ。

銀の被毛を荒々しく撫でる風を全身で受けながら、素早く首を巡らせ、進行ルートを確認する。

俺達が飛び乗ってもビクともしない、特注ワゴンの分厚い天井を蹴り、宙へ身を躍らせる。

疾走するワゴンの上から電柱の上へと飛び移った俺は、即座に狭い足場を蹴り、手近にあった立体駐車場の壁面へ、その僅

かな溝に指をかけて張り付く。

次いで、指の力だけで支えた体を、上下逆さに反転させ、駐車場の三階部分に当たる空間へと、素早く体を滑り込ませた。

暗がりに入り込んだまま目を光らせ、駐車場の内外、そして見えている数キロの範囲内に、俺に注意を注いでいる視線がな

いか確認する。

…よし…、人間には気付かれていないようだな…。

尾を一振りして立ち上がった俺は数歩後退して加速をつけ、二車線道路の向こう側、五階建てのビルの屋上めがけて跳躍した。

耳元で風が唸り、熱帯夜のまとわりつくような空気が、その不快さを一瞬だけ弱める。

街灯の灯りを眼下に、ビルの屋上へ飛び移った俺は、着地した勢いを殺さず、そのままビルの向こう側へと駆ける。

脚力を瞬間的に強化し、加速をつけ、さらに高い隣接するビルへと跳躍。

宙を走る、銀の被毛に覆われた獣のシルエットを、薄い雲越しに僅かに射した柔らかな月光が照らす。

目指すは相麻本社ビル。先に移動を開始した同志達の元へと、夜闇を裂いて、銀狼は宙を駆けた。

俺の名は字伏夜血(あざふせやち)。とある街で私立探偵をしている。…表向きは、だが…。

簡潔に言えば、俺達は人間ではない。ライカンスロープと呼ばれる人ならざる存在だ。

普段は人間の姿に擬態して過ごす俺達の、夜の住人としての本性は、半人半獣…、直立する獣の姿という事になる。

今現在、蒸すような夜気に晒している俺の姿は、そのライカンスロープとしての本来の姿…、銀色の人狼の姿だ。

今夜、縄張りを遠く離れたこの地で、俺と同志達はあるビルに襲撃をかける事になっていた。

そこは、人間の社会の裏に潜む俺達のような存在を狩り出し、利用している、人間の組織の本拠地。

名を相麻という、国内大手の薬剤メーカーでもあるそこは、越えてはならない一線を越えた。

己の同族達…、つまり普通の人間を実験材料とし、人造のライカンスロープを生み出すという、俺が知る限り、前例のない

実験をおこなっていたのだ。

古来より一部の人間は、一般人には存在すら知られていない、俺達ライカンスロープを研究してきた。

あるいは不死身の身体を手に入れる為に。あるいは人間以上の存在を目指す為に…。

だが、今回は規模が桁外れだ。

ここまで深く研究し、なおかつ数百件という人体実験まで繰り返して来た相麻…。これまでに事が露見しなかったのは奇跡

と言える。

これが明るみに出れば、人間に紛れ込んで暮らしている、俺達や同種の存在が、人間達に知られる事になる。

相麻は危険。その考えで一致した俺達や他の集団、この国で静かに暮らす比較的常識有るトライブは、相麻をその研究ごと

闇に葬り去るべく決起した。

多くの同胞を犠牲にし、我々の在り方すら脅かしかねないその愚行…、決して見逃す事はできない。



八階建ての雑居ビルの屋上から、加速をつけて大きく跳躍する。

銀の被毛をなびかせ、高さ5メートルの壁を越えて、俺は目当てのビルの敷地内に降り立った。

俺が侵入ポイントとして選んだのは、荷物搬入用とおぼしき大型シャッターが壁面にしつらえてある、ビルの横手側だ。

周囲からは争うような物音は聞こえて来ない。

が、未だに近辺の停電が続いている事と、ビル外に人影が全く無い事から、作戦が継続中である事は確実だ。

ビルの間取りは頭の中に入れてきている。俺は迷う事などなくシャッターに歩み寄り、その下側に手をかけた。

腕を覆う銀色の被毛が、瞬間的に強化された筋肉で隆起する。

本来ならば電動で上げるはずのシャッターは、強引に持ち上げられ、抗議するように微かな軋みを上げた。

下側に十分なスペースだけ確保した後、内側に体を滑り込ませた俺は、音を立てないよう慎重にシャッターを下ろしつつ、

中の気配を探る。

元々機密保持のために、密閉された造りになっているのだろう。

俺が忍び込んだ、床も壁もコンクリートで塗り固められた、物資搬入用と思われるだだっ広いスペースには、闘争の気配は

微塵も伝わって来ない。

行動は迅速に、そして隠密に…。

頭の中の見取り図と現在地を照合しつつ、広い空間を音もなく駆け抜け、貨物用エレベーターの扉に張り付いた俺は、頭頂

部でピンと立つ耳で、扉の向こうの音を探る。

どうやら、非常電源で動くタイプではないようだ。完全に沈黙している。

ビルの下には地下十階までの空間が広がっている。

だが、実際にはその下に、無許可で建造された五階分の研究施設が存在する。

このエレベーターは地下10階までしか通じていないが、利用しない手はない。

鉄製の扉の中央の合わせ目へ、強引に指を突っ込んでこじ開けた俺は、暗闇の中のワイヤーを掴み、降下を開始した。

地上部分の制圧は俺の役目ではない。

予定と異なり、時間を前倒しにした奇襲が始まっていたが、俺は俺で、なるべく予定を崩さず行動すべきだろう。

上の制圧にはクラマルとソウスケも加わっている。連中を信じ、与えられた役割を全力で果たすとしようか。



幸い、エレベーターは一番下…、地下10階で停止していた。

地下九階のドアをこじ開けて侵入しても良かったが、一階分とはいえ、ショートカットを見過ごすのは惜しい。

結局俺は、メンテナンス用に設けられた、天井の狭い出入り口を使ってエレベーター内に入り、内側から扉をこじ開け、地

下十階からの侵入を試みる事にした。

人間には重労働だろうが、ライカンスロープの筋力を持ってすれば、鉄扉の突破など容易い作業だ。

僅かな抵抗の後、あっさりと侵入者を通した扉を抜け、地下施設内に足を踏み入れると、濃密に漂う血臭が、俺の鼻孔に忍

び込んだ。

そこかしこに人間やライカンスロープの死体が横たわっているが、近くでは争う物音は聞こえない。

すっかり出遅れたな…。既にあらかた殲滅が済んだらしいフロアを、俺は死体を跨ぎ越しながら駆け抜ける。

耳に神経を集中すれば、遠くから物音が聞こえる。反響して捉え辛いが、まだ闘争中のようだ。

音の出所と思われる位置は、方向も下への階段に近いので、とりあえずはそちらへ向かう事にする。

俺は足音を殺しつつ、なるべく速く通路を駆け抜ける。

壁のあちこちには銃弾が穿った穴が空き、床にはそこかしこに血溜まりに倒れ伏す死体がある。

衣類が統一されている事から、死体の殆どが相麻側の物だと解った。

屍の中を駆ける事十数秒、俺は音源の近くまで到達した。

行く手で通路が右に折れている。その曲がり角の向こうから、荒い息遣いと、肉と骨がぶつかり合う音が響いていた。

あの先は階段だ。どのみち、闘争の場を通る事になっていたようだな。

加勢すべく、足を速めようとした俺は、しかし曲がり角から飛び出したソレを目にして急制動をかけた。

それは、一塊になった猪と馬だった。

頭から突っ込む形の猪に、懐に飛び込まれ、鳩尾に頭突きを食らった馬が、もつれあった状態で角の向こうから現れたのだ。

馬を引っかけた猪は、いささかも勢いを緩めず、そのまま壁にぶち当たる。

猪の頑丈な頭骨と牙で胸部を潰された馬は、鉄筋入りのコンクリート壁にめり込み、血反吐を吐く。

あれでは肺や肋骨どころか、心臓までペシャンコだろう。

半ば壁に埋没し、絶命した馬から身を離した猪は、そこでようやく俺に気付き、素早く首を巡らせた。

どちらが敵でどちらが味方か判断し兼ね、探るように見つめている俺の姿を見るなり、猪は驚愕の表情を浮かべる。

「イミナ君!?」

猪の発した言葉は、それだけで彼がこちら側だと判断できる物だった。

「残念だがヨルヒコではない。が、貴方の味方である事は間違いない」

俺は口の端を僅かに上げ、猪に告げた。

ヨルヒコとフォウから聞いている。以前は相麻のエージェントであり、今は同志となった猪、人造ライカンスロープの事を。

…名は確か…。

「03…、と呼べば良いのだったかな?俺は字伏夜血。玉藻御前の使いだ」

俺の言葉に、猪は少なからず驚いている様子で頷いた。

「…あぁ!貴方が!話は聞いていましたよ。…しかし驚いた…。イミナ君と良く似ている…!」

確かに、俺とヨルヒコは良く似ている。

亜種が異なる俺の方が体はでかいが、同じく希少な人狼、おまけに被毛まで全く同色だ。見間違えたのも頷ける。

「状況は?予定よりも随分と早くに始まったようだが…」

俺の問いに、03はでかい鼻から荒い息を吹き出させ、不機嫌そうに頷いた。

「どこかの援軍が、不用心に接近し過ぎて傭兵共に見つかったのです。結局、時間を待たずに開始せざるをえなくなりました…!」

まぁ、目的を一にしたとはいえ、所詮は寄せ集めだ。どこかで足並みが揃わなくなる事もあるかもしれないとは思っていた

が…、まさか最後の最後が、ミスでなし崩しに作戦開始とは…、なんとも締まらない話だ…。

「私は逃亡しようとしたこいつを追って戻ってきましたが、前衛はかなり先行しています」

「解った。では、急ぎ先を目指すとしよう。悪いが、先に行かせて貰う」

「はい。お気を付けて…!」

やけに人間くさい敬礼で見送ってくれた03に先行し、俺は地下深部を目指す事にした。

濃密な血の香りは、どんどん深みを帯びて行く…。



加速を維持したまま突っ込む俺の頬、その数センチ脇を、鉛玉が通り過ぎた。

散発的に飛んでくる銃弾を、銃口の向きから軌道を読んで避けつつ、防弾チョッキとヘルメットで身を固めた六名に肉薄する。

床を蹴って身を捻り、足を上に、頭を下に、上下反転した姿勢で連中の頭の上を飛び越した俺は、そのまま180度体を回

転させ、いささかも勢いを緩めず着地し、走り出す。

その後方では、頭上を飛び越えた俺に、頭部を、首を、顔面を刻まれた男達が、足止めにもならずに絶命している。

俺に殺された事で呪いに蝕まれ、魂を死せる体に縛り付けられた彼らだが、いちいち解放してやる義理も暇もない。

そう間を置かずにこの施設は爆破される。苦しむ時間はそう長くはないさ。

地下15階。最下層に当たるここは、この相麻本部内でも、最も苛烈な闘争の場となっていた。

激しい抵抗にあい、攻めあぐねいている味方を追い越した俺は、敵が待ち構える真っ只中に飛び込んだ。

人狼の持ち味である機動力を活かすには、足並みを揃えて進撃するより、単独で突っ込み、掻き回す方が適している。

俺は一陣の風と化し、敵を切り刻みつつ最奥を目指した。目標は、地下施設の全動力をまかなっている発電設備。

そこを狙って単身で切り込んだヤツが居る事を、俺は先程出会った03の仲間だという豹から聞かされた。

…近い…。行く手から漂う血臭が濃くなっている。その中に混じる匂いもまた、徐々に強くなっている。

十数年経っても、忘れようがない匂い…。

勢いを殺さず曲がり角に駆け込み、そこに後ろ向きに後退してきたインパラの首を、腕の一振りで斬り飛ばす。

恐らくは絶命した事も気付いていない、呪いに囚われたインパラの首が床に落下する。

俺はそれを尻目に、曲がった勢いのまま真横になって壁面を駆け抜けながら、通路にひしめく多数のライカンスロープ達を

視界に捉える。

向こう側から雪崩を打ったように後退して来ていた連中、一体その中の何人が、自分の命を刈り獲った者を認識しただろうか?

脳の処理速度を上げ、骨格、筋肉、神経系を強化し、瞬時に肉体を高速戦闘に対応させた俺は、音速で壁を、天井を、縦横

無尽に跳ね回りながら、獣達の真っ只中を駆け抜けた。

仲間を巻き込む恐れがないここでは、気を使う必要はない。

自身の移動で巻き起こされる衝撃波を無制御に撒き散らしながら、俺は最大速度で跳び回る。

硬質化させた爪で刻まれ、噴き上がった傍から、鮮血は俺が巻き起こした衝撃波に散らされて霧となる。

猿が、犬が、猫が、猪が、熊が、羊が、馬が、自分の命が尽きた事にも気付かないまま、首を、胸を、顔面を裂かれ、貫か

れ、狭い通路を荒れ狂う衝撃波に薙ぎ倒される。

もっとも、俺はその様子をいちいち確認などしていない。

命を奪っておきながら真に申し訳ないのだが、俺の注意は前方…、通路を抜けた先に向いていた。

音速の動きの中でも物を捉える、透明な瞬膜で表面を覆った強化済みの眼球が、行く手で通路が繋がるホールの中央に立つ、

でかくて白い獣の姿を映している。

頭を鷲掴みにした狐を右手にぶら下げ、牛を左足で床に踏みつけ、自分を遠巻きに取り囲む獣達を、臆すでもなく、長い前

髪の奥の目で見回すそいつは、犬族とは思えない程の巨躯の持ち主だった。

あの頃と…、全く変わっていない…。

音速で突進する俺に、その瞳が据えられた。顔にかかっている髪の中で、その目が僅かに見開かれる。

包囲の一角を形成する獣達を薙ぎ倒し、銀の砲弾となって白い巨犬の脇に着地した俺は、リノリウムの床を両手両脚の爪で

抉りながら滑走し、四つん這いで静止する。

自分の脇をすり抜けた俺を、白い犬がゆっくりと振り向いた。

「…やあ。しばらく…」

首を折られて絶命している狐を放りだし、軽く手を上げると、そいつは微苦笑を浮かべた。

それは、悪戯がバレた少年のような、少しばかり気まずそうな笑み…。

囲みの中に突然割って入った人狼を目にし、周囲の連中が戸惑い、ざわめく。

そんな中でゆっくりと身を起こした俺は、白犬を真っ直ぐ見据え、歩み寄った。

「…久し振りだな…。ビャクヤ…」

目前で足を止めて笑みを浮かべた俺を、腹違いの兄、ビャクヤは、意外そうに目を見開いて見つめた。

それから、気まずそうに頭を掻きながら笑みを返して来る。

その、懐かしい兄の顔に、

「ぷがふっ!?」

俺は腰の入った渾身の右ストレートを叩き込んだ。

不意打ちの一発をまともに食らい、さすがのビャクヤも鼻を押さえて尻餅をつく。

辺りの連中も呆気に取られて固まっている中、鼻をさすりながらキョトンとした顔で見上げて来るビャクヤを見下ろし、

「この馬鹿兄貴が!この十三年、俺達が一体どんな気持ちで…、っつぅ…!」

溜め込んでいた文句を並べ立てようとした俺は、拳を抱え込んで呻いた。

…相変わらず…無駄に頑丈な骨格だ…!

鉄骨でも殴ったように、俺の拳がジンジンと痛む。全力で骨格強化して殴るべきだったか?

「大丈夫かい?ヤチ」

「やかましいっ!」

僅かに垂れた鼻血を拭っている以外はまるで何事も無かったかのように、すっくと立ち上がって心配そうに眉根を寄せたビャ

クヤに、俺は噛み付いてやりたい気持ちを必死に堪えながら怒鳴り返す。

「まだまだ殴り足りないし、言いたい事も山ほどあるが…、全て済んでからにしてやる…!逃げられると思うなよ!?」

「わ、解ったってば…。ちょっと落ち着こうヤチ。ね?」

釘を刺す俺に、ビャクヤは少し顔を引き攣らせて頷いた。

「…さて…」

呆気に取られ、状況を捉えられないで居る相麻の者達を見回し、俺は口の端をつり上げ、笑いかけた。

「混乱させて済まなかったが、安心してくれ、俺は完全に諸君らの敵だ」

困惑と戸惑いが連中の間を駆け抜け、それらが次第に収まり、俺には馴染みのある感情に染まって行く。

すなわち、敵意だ。

「衰えていないだろうな?ビャクヤ」

「ヤチの方こそ、腕は上がったのかい?」

「愚問だな。隠居していたお前の鈍り具合の方が心配だ」

「それは頼もしいね。なんなら全部片付けてくれても良いよ?」

「やかましい。働け首謀者!」

背中合わせになり、取り囲む敵を見回しながら、俺達は軽口を叩き合った。

…変わっていないな、ビャクヤは…。

敵を前にしても無駄に猛らず、場違いな程にのほほんとしている。

今夜は無駄な手心を加えず、きちんと敵を仕留めているようだが、それでもなお、身に纏う空気は穏やかだ。

だが、あの頃とは確かに変わった事もある。

…ビャクヤが…、追いかけ続けた、遥か高みに居た兄が…、俺に背中を預けている…。

「ぬかるなよ!?」

「ヤチこそ!」

背中合わせのまま短く声をかけあった俺達は、殺到する敵を迎え撃ち、殲滅戦を開始した。



遠く響くサイレンの音は、終戦の報せ。

街中とあって、高らかに歓喜の声を上げる訳にも行かない俺達に代わり、パトカーや消防車達が代わりに雄叫びを上げてく

れている。

ついでに、それに反応した飼い犬達も…。

炎を上げるビルを、離れた山の高台から眺めながら、俺はちらりと横を見る。

人の居ない、深夜の展望台の手すりにもたれかかり、遠く燃え盛る炎を瞳に映す兄の横顔は、約十三年前、俺達が別れた夜

と、全く変わっていないように見えた。

気を利かせてくれたのか、俺の同志達とビャクヤの仲間達は、展望台には寄りつかず、俺達を二人きりにしてくれた。

俺はビャクヤの横顔から視線を外し、両手に一本ずつ持った缶ビールを見下ろす。

先程、ワゴンに乗って現場から離れた後、トガワ君から渡されたものだ。

…まったく…、気を遣わせてしまった…。

傍にあった、木材風にデザインされたコンクリートのベンチの上に、二本の缶をコトっと置いた俺を、ビャクヤはゆっくり

と振り返った。

気まずそうな苦笑いを浮かべているビャクヤに、俺はため息をついてから口を開く。

「大体の話は、ヨルヒコから聞いた」

「そ、そう…」

「文句は山ほどあるが…、とりあえず一発殴らせろ。それで勘弁してやる」

「さっき思い切り殴ったじゃないかっ!?」

抗議するビャクヤに、俺は人差し指を立てて左右に振って見せた。

「なら選べ。一昼夜、さしで、十三年分の文句を並べ立てられるのと、一発でチャラにされるのと、どっちが良い…?」

すぅっと目を細めて言った俺が本気である事を、どうやらビャクヤは察したらしい。

「…ほんとにこれで最後だね?」

「二言は無い。それで勘弁してやる」

俺の返答を聞き、神妙な顔で頷いたビャクヤは、「さぁ来い!」とばかりに手を腰の後ろで組んだ。

「目を瞑って、歯を食い縛れ…!」

拳をゴキゴキ鳴らしながら告げると、ビャクヤは馬鹿正直に目を固く閉じ、ギリッと歯を食い縛った。

ドフッ!

「えぼぉっ!?」

丸く突き出た腹に、右拳を手首の上まで埋没させてやったら、さすがのビャクヤも堪らず膝を折った。

鳩尾を両手で押さえたビャクヤは、顎からべしゃっと、尺取り虫のような格好で地面に倒れ込んだ。

「…ぼ…ボディ…!?うげっ…!…だ…騙した…なぁ…!…ヤチぃ…!」

「騙すなどと心外な。顔を殴るとは一言も言ってはいないぞ?」

肩を竦め、しれっと言ってやった俺を、ビャクヤは目尻に涙を溜め、恨みがましい目つきで見上げた。そもそも、顔を殴っ

たらこっちの手の方が痛い。

「正直まだまだ足りないが…、まぁ、勘弁してやる」

口元を緩め、手を差し出した俺を、ビャクヤは歯を食い縛ったまましばらく睨んでいたが、やがてノロノロと体を起こし、

手を握る。

引っ張り起こしてやった俺の前で、頭一つ分背の高い兄は、顔を顰めて腹をさすりながら呟く。

「しばらく会わない内に、性格が悪くなったね…」

「たぶん、兄がフラッと居なくなったせいで捻くれたんだろうな」

「…う…!」

何と言っても切り返されると思ったのか、ビャクヤはボディブローを貰った腹をさすりながら黙り込んだ。

「…悪かったよ…。でも、ああするしか手が思い浮かばなかったんだ…」

「それは、人間の姿を否定した事か?それとも、皆に黙って姿を消した事か?」

「…両方…」

叱られた子供のような表情で俯くビャクヤ。そんな顔を見たら、苦笑が込み上げてきた。

「…もう良い。一発殴れば勘弁すると約束したからな…、つつくのは止めだ」

俺はベンチに置いていた缶を両手に取り、一つをビャクヤに向かって突き出した。

「ほら。さっき貰った差し入れだ」

ビャクヤは差し出されているビールを、次いで俺の顔を見つめる。

「………」

無言のまま、じっと俺の顔を見つめるビャクヤは、垂れた耳を後ろに向け、目尻と口の両端を下げていた。

心底、済まないと思っている。その事が、言葉は無くとも判った。

「良いんだよ。もう…」

苦笑いを浮かべ、グイッとビャクヤに缶を突きつける。

耳の後ろを太い指でコリコリと掻きながら缶を受け取ったビャクヤの前で、俺はプルタブを引っ張り起こした。

プシッという音が公園に微かに響き、遠いサイレンの音や犬の遠吠えに混じって消える。

少し遅れてプルタブを起こしたビャクヤに、俺は自分の缶を突き出した。

ちらりと俺の手元に視線を向け、それから俺の顔を見たビャクヤは、右の眉を上げ、口の左端を微かに吊り上げ、妙な顔を

する。

少し驚いているような、面白がっているような、そして泣き笑いの顔にも見えるような…、そんな奇妙な表情…。

初めて見る兄の表情だったが、どっちつかずに感じられるその微妙で曖昧な表情は、力の化身でありながらも平和主義者の

ビャクヤに、なんとなく、似つかわしくも感じられた。

「では、再会を祝して…」

「うん。再会を祝って…」

俺達は持ち上げた缶を、コッと、軽くぶつけ合った。



缶ビールはすぐに無くなってしまったが、俺達はその後も、柵にもたれかかりながら、色々な事を話した。

降り積もったお互いの十三年間は、言葉で伝え切るには、あまりにも長く、重過ぎた。

それでも、笑いながら話す事ができるまで、そう時間はかからなかった。

何年経とうと、どれだけ離れて過ごそうと、やはり俺達は、兄弟だった…。

「…で、フータイが出張って事無きを得たらしい。つい先日の話だそうだ。そんな状態で、なかなかに手を焼いていると言う

のが正直な所だ」

「ははは!相変わらずなんだねぇヨルヒコ!」

「俺にしてみれば、そう笑い事でもないがな…。アイツが来てからというもの、影響を受けたのか、本来は大人しくて聞き分

けの良いユウまで、少々無茶が過ぎるようになってしまった。…まぁ、歳の近い義兄ができて喜んでいるようだが…」

「ヨルヒコも喜んでいるよ、きっとね」

屈託無く笑ったビャクヤに、俺は苦笑いを返す。

「だと良いがな…。上手く手綱を取るコツがあるなら教えてくれ。ああも無鉄砲ではいささか困る」

「ははっ!無いよそんなコツは、こっちでも鉄砲玉だったからねぇ。ま、その内落ち着いて、大人びて来るさ。可愛い盛りは

すぐに終わる。じきに独り立ちして、僕らの助けも要らなくなる…。ヤチがそうだったようにね」

「ふふふ…!ほっぽり出して姿を消して、独り立ちしなければならないような状況にした張本人が、よく言う…!」

「あははぁ〜…!」

苦笑いした俺に、ビャクヤは困り顔で半笑いになった。

「あっちに着いたら、僕が多少は面倒を見るよ。白昼堂々とは無理だけれど、夜の間や「僕が居られる場所」では、なるべくね」

 ………。

正直に告白すると、俺の心は、この瞬間まで、まだ微かに揺れていた。

ヨルヒコとの約束はあったものの、やっと再会できた事で、決心が揺らぎかけていた。

…だが…、目が覚めた…。

俺と一緒に帰ったところで、ビャクヤに自由は無い。ビャクヤが帰るべき場所…、それは…。

「でも、こんな体だし、前と全く同じようにとは行かないなぁ…。タマモさんに頼んで、また地下のバーキーパーに復帰しよ

うかなぁ…。ま、着いてから相談して考えようか」

「いや。ビャクヤは好きにすればいい」

「うん…。でもまぁ、地下で皆の世話に当たるぐらいしか仕事は…」

「そうじゃない。本当に、好きにすればいいんだ」

言葉を遮った俺の顔を、白犬が見下ろす。

「…ヤチ?」

「タマモさんも、皆も、納得済みの事だ。無理にこちらへ来る必要は無い。帰るべき場所は、自分で決めて良い」

「ど、どういう事だい?」

驚き…、いや、動揺しているといって良い様子で聞き返したビャクヤに、

「お前の意思を尊重するというのが、会うなり玉藻御前に処遇を直訴した、小生意気なガキとの約束でな…」

俺は口の端を吊り上げ、笑ってやった。

事の仔細を俺の口から聞き、ビャクヤは口を引き結んで項垂れた。

「…ヨルヒコ…。君は…、本当に…」

小さな、掠れた声が、ビャクヤの口から漏れ、止まないサイレンに溶けて散る。

義弟の想いが、受けた恩に報いようと背伸びするいじらしさが、胸を締め付けているのだろう。

会いたい。懐かしい皆に、義弟と仲間達に。

帰りたい。故郷たる街に、過ごしたトライブに。

身じろぎ一つせずに黙り込んでいるビャクヤの葛藤が、傍の俺にひしひしと伝わって来た。

「…心配するな。あいつは俺にとっても義弟だ。面倒を見ると約束する」

「けれど…」

俺の言葉を受けてもなお、ビャクヤはまだ迷っているようだった。

「ビャクヤ…。お前が本当に帰るべき場所は何処だ?本当に傍に居てやらなければならないのは誰なんだ?」

そう問いかけると、白犬は驚いたように顔を上げ、俺の目を見つめた。

「な、何を…?」

「ヨルヒコから聞いている。お前を慕ってくれている、酔狂な娘さんの事はな…」

なかなか見ものだった。あのビャクヤが目を丸くして口を開け、驚愕している様子は。

「…大事な者を、置いて来たんだろう?」

仰け反っているビャクヤに、俺は笑いながら続けた。

「女性はあまり待たせるべきじゃない。待たされる分には良いがな」

「ヤチ…」

ビャクヤは丸くしていた目を細めて、笑い混じりに口を開いた。

「君、いつのまにそんなフェミニストになったんだい?」

「十三年経っているんだぞ?考え方から環境から、色々変わったさ」

俺の返答に、ビャクヤは意味が解らず首を傾げていた。

「…そういう訳だ。こっちの事は心配するな…」

俺は一向に弱まらない炎と煙を吐き出すビルを眺め、その向こうの空へと視線を向ける。ビャクヤの顔を見ないように。

その長い前髪の奥で、ビャクヤの目は、涙で潤んでいた。…久々に会った弟に、涙など見られたくはあるまい…。

ビャクヤは、俺の視線を追うように首を動かした。

じきに、大地と星空の間に夜明けが忍び込む。俺達の時間は終わり、人間達の時間がやって来るのだ。

「…行けば良い。俺達の事は気にするな…」

「ヤチ…」

小さな声で俺の名を呼んだビャクヤは、オレに寄り添い、後ろからそっと腕を回して抱きしめて来た。

あの頃と変わらない、太く、逞しく、柔らかな毛に被われた温かな腕。

それなのに、あの頃に感じていた程には、ビャクヤの腕は大きく無かった。

…俺が、でかくなったからかな…。

「有り難う…」

「ああ…」

「そして、ゴメン…」

「謝るな…」

短く言葉を交わした後、ビャクヤは俺から離れた。

「いずれこちらから会いに行く。まだまだ話し足りないからな。それに、会わせたいヤツが居る」

「僕に会わせたい?誰?」

俺はビャクヤを振り返り、口の端を吊り上げて見せた。

「お前の甥を身篭っている女性だ」

ビャクヤは口をカクンと開け、目を皿のようにして俺を見つめた。

「…それって…、つまり…?」

俺が頷くと、ビャクヤはぱぁっと顔を輝かせた。

「素晴らしい事だよ、ヤチ!おめでとう!」

「ありがとう。…その…、それで、だな…」

ヨウコと相談して決めて来たのだが、いざとなるとなかなかに照れ臭いもので、俺は少々口ごもった。

「…タマモさんの見立てでは男、それも人間じゃあないそうだ…。それで、産まれたら…、お前に名付け親になって欲しい…」

「へっ!?」

再び目を丸くしたビャクヤの声は、裏返っていた。

「ヨルヒコからお前が元気にしていると聞いて、妻がそう提案して来た…。俺も、悪くないアイディアだと…」

「な…、なんでまた僕なんかに?」

「…さぁな…」

聞き返すビャクヤをはぐらかしてはみたものの、ヨウコはこう言っていた。

「お義兄さんに名前を貰ったら、きっとヤチのように、賢く勇敢で、仲間思いの狼になります」

…と…。少々買いかぶり過ぎだとは思うが…、発想そのものには賛成ではある…。

俺が「どうだ?」と尋ねると、ビャクヤは照れ臭そうに、

「あはは…、自分でもそういうがらじゃないと思うけどなぁ…」

と、カシカシと頭を掻きながら笑った。

「…本当に、僕なんかが名付け親で、良いのかい?」

「是非頼みたい。出産祝いと思って、引き受けては貰えないか?」

俺の返答に、ビャクヤは目を細めて頷いた。

「解った。一生懸命考えておくよ」

「有り難い…」

笑みを浮かべた俺に、ビャクヤは肩を竦めて見せた。

「それにしても、先を越されちゃったなぁ…」

「自慢の妻だ。会って驚くなよ?」

「ははは!楽しみにしておく」

楽しげに笑ったビャクヤに、俺は拳を握った腕を差し上げて見せた。

「…夜明けが近い。今宵はここまでだな…」

頷いたビャクヤは、同じように拳を握り、太い腕を上げる。

「…うん…。引き上げ時だね…」

腕を交差させるようにして、手首の外側を軽くぶつけ合い、俺達は笑みを交わす。

「近い内に、会いにゆこう」

「何も無いけれど、精一杯のもてなしをするよ」

腕を離した俺達は、並んで歩き出す。

止まない遠いサイレンに混じり、低いエンジン音が聞こえる。トガワ君が展望台の入り口に車を回してくれていたようだ。

「途中まで乗っていけ。北へ向かうなら、人目につかないよう、那須辺りから山沿いに駆けた方が良いだろう?」

「良いのかい?それだと遠回りになるじゃないか?そっちも早く帰りたいだろうに…」

「構わないさ。半日程度、どうって事はない。もっとも、宮城まで送るのは流石に無理だが、山脈を伝えば、騒がしい街は避

けて行けるだろう」

「…悪いね。それじゃあ、お言葉に甘えようかな…」

ワゴンに歩み寄った俺達を、黒馬と山猫、そして若い男が迎えた。

俺達の話が終わるのを、じっと待って居てくれたのだろう仲間達の顔を、ビャクヤはゆっくりと見回した。

「…クラマル君に、ソウちゃんかな?二人とも見違えたよ…」

「お久しぶりです。ビャクヤさん」

「ソウちゃんはないだろビャクヤさん…」

微かな笑みを浮かべて会釈するクラマルと、気恥ずかしそうに苦笑いするソウスケ。

「あ、あれ?あははは!ごめんごめん、そうだよねぇ!二人とも、狩人になったんだ?」

ビャクヤは指先で頬をポリポリ掻き、懐かしそうに目を細めて笑う。

そして、ビシっと直立不動の姿勢になっているトガワ君に視線を向けた。

「君は…、初めまして、だね?」

「は、はい!兎川駆(とがわかける)です!ビャクヤさんのお話は、皆から常々聞かされておりました!」

初めて「英雄」と対面した青年は、かなり緊張しているようだった。…まぁ、無理も無い…。

トガワ君は、旧ネクタールのとある支部に、両親兄弟と共に監禁されていた被害者だった。

ビャクヤが本部を壊滅させなければ、数日の内に実験材料にされる運命だった彼らは、俺の他の当時の狩人達によって救出

され、以後はタマモさんの庇護を受けるようになった。

闘争向きでないにも関わらず、トガワ君が同志の足として、時には危険な任務も引き受けているのは、俺達への恩返しでも

あるのだろう。

そんな経験をしてきた彼だから、面識はないものの、自分達を生き延びさせてくれたビャクヤに対しては、崇敬に近い感情

を抱いていた。

救出された当時、少年だった彼は、昔話をせがむ子供のように、英雄…、ビャクヤの話を聞きたがった。

トガワ君だけじゃない。トライブにはまだまだ、ビャクヤに会いたがっている者が居る。

古馴染み。そしてまだ会った事のない、新たな仲間達。

ユウだって、話に聞く長兄に会ってみたいと常々言っていた。

フータイですらそうだ。ネクタールに騙され、罪を重ねていた自分を見逃し、生き直す機会を与えてくれたビャクヤに、恩

義に近い感情を抱いている。

だが、きっとこれで良い…。ビャクヤは、英雄として崇められる事など、望みはすまい。

彼を包むべきは、賞賛と羨望の歓声ではなく、穏やかで静かな日々のはずだ…。

「さぁ、そろそろ出発だ。話はまだ車内でできる。待っている皆の為にも、さっさと帰るとしよう」

俺の言葉に、四人は揃って頷いた。

「他の皆はどうしたのかな?僕と一緒に来ていた相麻脱出組とか…」

「は、はい!我々のトライブにいらっしゃる方は、別の車両群で搬送しています。既に二便は出たと、先に報告がありました!」

「トガワ〜、ど〜しちゃったのかなぁ?カッチンコチンに硬くなって…」

「そ、そんな事無いですよ?」

「そうからかってやるなソウスケ。憧れのビャクヤさんに会えて、緊張しているのだろう」

俄かに騒がしくなった一行が次々とワゴンに乗り込み、最後に乗り込んだ俺は、笑いながらハッチに手をかける。

音を立てて顎を閉じたワゴンは、鳴り止まないサイレンと犬達の声が響く、明るみ始めた空の下を、快調なエンジン音を響

かせて走り出した。