黒白の衝撃

ゴッ…、と、硬く、重い物がぶつかり合う音が、夜闇に響いた。

盛り場の喧噪がやや遠い、一時はそれなりに賑わっていたかつての繁華街コース。

小さな飲み屋や雑居ビルが並ぶその界隈は、区画整理に伴って一斉にオープンしたチェーン店の新店舗の並びが人気を博し

た事をきっかけに客の足が遠のき、まず酔っぱらいが、次いでタクシーが、そして店の看板の灯が、ゆっくりと順番に消えて

いった。

今では酔客も殆ど見られず、営業している店も僅かとなったその界隈の、今やすっかり空っぽになったそのビルの屋上で、

白い巨体が後ろ向きに床を滑っていた。

四つんばいでコンクリートの床を掻き、制動をかけて止まったその大男は、人間ではない。

純白の被毛を全身に纏う、半人半獣の異形の存在であった。

緊張を浮かべるその瞳は赤く輝き、丸い耳はやや後ろに引かれて強い警戒を現している。

それは、白い熊であった。しかし頭部の形状は北極熊とは異なる。

かつてマタギ達にミナシロと呼ばれた、全身が白いツキノワグマ…、アルビノ個体であった。

ライカンスロープ。

古来より人の営みに紛れ、あるいは人の営みから距離を置き、正体を隠して生きてきた彼らの種は、そう呼ばれている。

歳若い白熊は、緊張を全身に漲らせたまま、ゆっくりと身を起こし、二本の足で床を踏みしめた。

右足をやや後ろに引いて半身に構え、左腕の肘を曲げて脇腹につけ、右腕は肩の高さに上げ、弓に矢をつがえて引き絞って

いるような形で静止する。

その構えが、何とも堂に入っている。

例えば歴戦の空手家のような…。あるいは老練なる拳法家のような…。いかにもそのスタイルが自然体であるかのように、

僅かにも不格好さを感じさせない。

佐久間優。仲間内では字伏優とも呼ばれるが、それが白熊の名である。

厳しい師の元で鍛えられたこの若熊は、若輩ながらも熟練のライカンスロープと遜色ない戦闘技能を有する。

2メートルを超える背丈に、やや脂肪がついて太り肉ではあるが骨太で頑強、搭載された筋肉の量も多い恵まれた体躯。

中学生の頃は比較的小柄だったものの、今では立派な巨漢となった彼の目には、己とほぼ同サイズの巨体が映っていた。

体の脇にだらりと両腕を下げ、音も無く、緩慢に足を踏み出すその相手の動きを、ユウは神経を張りつめながら子細に観察

する。

ユウが刹那も目を離そうとしないその相手は、フォルムがユウに酷似していた。

分厚くて幅のある太い胴。そこから生える同じく太い四肢は、まるで電柱のよう。

肩が盛り上がって首は短く、筋肉が発達して膨れた肩は丸みを帯びている。

だが、ユウの体が白一色なのに対し、ソレの体躯は白と黒が混在している。

それは、ユウにも匹敵する巨体を誇る、一頭のジャイアントパンダであった。

目尻の釣り上がった細い双眸が、丸く縁取る黒い円の中で冷たい光を放っている。

体型から背丈からユウと似ているが、大きく異なっているのはその胸であった。

肥満体なせいもあり、いささか豊満と呼べる範疇を越してはいるが、黒いキャミソールのような形状の、伸縮性の高いアン

ダーウェアに覆われた豊かな双丘は、紛れもなく女性のソレである。

ゆっくりと無造作に間を詰める相手を凝視しながら、ユウは集中力を高めてゆく。

無意識に早まりそうになる呼吸を意図的に落ち着け、全身を駆け巡る血流をコントロール下に置きながら、床を踏みしめる

脚のテンションを調節する。硬すぎず、柔らかすぎず、いかなる動きにも対応できる理想の割合に。

ジャイアントパンダの無造作な歩みが、ユウの間合いギリギリで止まった。

一歩一撃。あと数センチで白熊の腕の制空圏という位置で、腰を落として身構えるユウを、ジャイアントパンダは見下ろし

ている。

(もう間合いを見切られた…。おまけに、こっちの得意なスタイルも読まれている…)

顔には出さないものの、ユウは目前の強敵の底知れなさに慄然とした。

ユウが得意とするのは、制空圏に飛び込んだ相手の迎撃である。

多少のダメージを物ともしないタフさと、一撃必殺の豪腕を併せ持つ彼は、しかし速力という点では一流のライカンスロー

プには及ばない。

故に、己から攻め入るのではなく、攻め入って来た相手をねじ伏せる戦い方を磨き上げて来た。

だが、遭遇、及び闘争開始から僅か二分ほど拳を交わしただけで、このジャイアントパンダにそれを看破されてしまった。

おまけに、ここまで相手には有効打を与えていないにも関わらず、ユウは力が底をつく寸前まで修復能力を酷使している。

さらには、ライカンスロープが持つ固有能力の類を、ジャイアントパンダはまだ使用していない。

その歴然たる実力差は、ユウに厳つい師を思い出させずにはおかなかった。

(女性なのに、こんなにも手強いなんて…!ん?)

構えたまま動くに動けないユウは、パンダがゆっくりと姿勢を変えた事で、より表情を険しくする。

(まただ…。また僕と同じ構え…)

自分と全く同じ構えを取った相手を前に、ユウは緊張を限界まで高める。

これは先にも一度あった。

どういう訳かこの相手は、ユウと、ひいては彼の師である虎人と同じ構えを取る。

ただの猿真似ではない。その構えが動揺を誘うハッタリならば、本家本元の使い手に仕込まれたユウが看破できないはずは

ない。

ユウは身をもって理解している。

この相手もまた、大陸に伝わるライカンスロープの武術を体得している。それも、自分以上のレベルで…。

だが、構えは似ているものの、そこから繰り出される相手の技は、ユウが知る物と微妙に異なる。先ほどはそのせいで攻撃

を捌きかね、吹き飛ばされてしまった。

両者とも構えて身じろぎもせず、凍り付いたように静止したまま、圧縮された時間が過ぎる。

先に動いたのは、ジャイアントパンダであった。

前に出ていた左手が握り込まれ、裏拳気味に、ジャブにも似た鋭い拳撃が飛ぶ。

その一撃を捌くべく、左手を跳ね上げて受けに行ったユウは、そこで失敗に気付いた。

繰り出された嚆矢の一撃は途中で引き戻され、拳を引きながらパンダの体が反時計回りに回転し始めていた。

フェイントだと悟ったユウが腕を下ろすより早く、軸足で足場を抉って回転したジャイアントパンダの太い脚が、白熊の背

に叩き込まれていた。

弓なりに身を反らしながらも踏み堪えた白熊は、蹴り込まれた相手の右脚を左腕で捕らえる。

片足立ちの姿勢では行動も制限される。相手の脚の抑えに左腕を使っているとはいえ、ユウに分がある体勢。…の、はずで

あった。

相手の片足を左脇に抱える格好で、引いていた右拳を繰り出したユウは、直後、嫌な音を耳にした。

相手の顔面を捉えるはずの右拳は、やや上に逸れて空を切った。

右脚を取られたまま跳ね上げられたパンダの左脚が、ユウの右腕、肘のやや上に、膝からめり込んでいる。

相手の右脚を取っているユウは、逆にその体勢が災いし、軽業師のような動きで繰り出されたパンダの左の蹴りを、挟み込

まれるような格好で受けてしまった。

不十分なはずのパンダの体勢は、ユウに脚を固定された事で逆に安定している。

逆にユウは衝撃が逃げない形で致命的な一撃を受けてしまった。

(二起脚の一種…!?うかつだった!本命だと思った蹴りまで布石だったなんて…!)

先ほどから続く攻防で、全て一枚ずつ上を行かれている。

腕の骨が粉々に砕けたユウの巨体を両脚で挟んだ格好のまま、パンダは自重と引力を使って上体を後ろに反らし、バック転

にも似たその動作の反動で持ち上げた。

後方へ勢いよく体を反らして逆立ちしたパンダに、太い両脚でホールドされたまま、ユウの巨体が宙を舞う。

綺麗な放物線を描いて床に叩き付けられた白熊は、両腕が塞がっている為にまともな受け身も取れず、身を捻って肩から落

ちるのが精一杯であった。

「っぐ!」

床への激突と同時にホールドが解けたユウは、無事な左腕で身を跳ね上げ、その場から離れつつ首を左へ振る。

追撃を察しての事であったが、しかしジャイアントパンダのスピードはユウの反応を上回っていた。

顔の右半分に衝撃を受け、ユウは顔面から土下座するように床に突っ伏す。

痛みを堪えてすぐさま横へ身を投げ、転がった白熊の横で、立て続けに上から振り下ろされた拳が床に大穴を空けた。

身を起こした白熊の顔は、右半分が無惨に抉れていた。

反応できたのが奇跡とも言える程の高速で振り下ろされた相手の右手に、右の目の上からマズルの横までが、ごっそりと、

眼球ごと掻きむしられている。

掻き取った白熊の顔面の一部を無造作に足下に投げ、パンダは「るるるっ…」と低く唸って足を踏み出した。

右腕や眼球を修復している時間は無い。

そう判断したユウは、右腕をだらりと下げ、顔面から血を滴らせながら、左拳を握り込んだ。

パンダの歩調は先ほどまでより早く、仕留めにかかるつもりだという事を隠そうともしていない。

ユウは覚悟を決め、一発逆転を試みる。

勝算はある。体重と膂力、そして身体強化能力を最大限に活かした切り札、一撃必殺のカウンターパンチが、まだ彼には残

されていた。

(ホワイトミーティアなら、このダメージ差も一撃でチャラにできる。失敗はできないけれど…)

タイミングを計るユウの目前で、ジャイアントパンダは鋭く踏み込み、急加速した。

半身になりつつ素早く繰り出される中段突き…。崩拳と見て取ったユウは、それに合わせて急激な運動を開始する。

踏みしめた足、膝、太腿、腰、胴、胸、そして肩へと、高速で力が伝播し、カウンターで繰り出した左拳に集約される。

ユウが義兄の技から名を貰い、ホワイトミーティアと名付けたそれは、全身の連動で強打を繰り出し、命中と同時に全身の

関節を固定して完全に静止する事で、衝撃のリバウンドを拳先で止め、相手の肉体へ残すという妙技である。

文字通り一撃必殺の破壊力を持つソレは、しかし結果から言えば不発に終わった。

ユウは目を見張る。

繰り出した左拳は、相手の右手に柔らかく掴まれ、じわっと減速されている。

激しい衝突が生まれなければホワイトミーティアは完成しない。だが、まさかこんな対処が可能とは思ってもみなかった。

神業とも言える相手の技量に一瞬感服したユウは、腹に走った灼熱感で息を詰まらせた。

パンダの握り拳が途中で抜き手に変化し、揃えて突き込まれた四本の指が、白熊の腹部、臍の少し横に突き刺さっている。

分厚い脂肪と筋肉を、事もなく貫いて。

臓物に達する致命的な一撃を受けながら、ユウは意識を繋ぎ止め、咆吼を発した。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

ジャイアントパンダの手を振り払った白い豪腕が、最後の力を込めて夜気を裂いた。



「チャイニーズマフィアの一種…ですか?」

「ああ」

銀色の人狼は、手にした缶を煽ってグビッとビールを飲み下す。

そしてコトンと空の缶をテーブルに置くと、傍らに寄り添う妻と、その胸で眠る我が子を見遣った。

「親分さんの傘下でも、いくつかの組が衝突したそうだ。どうにもやり口が強引で、断りも無しにしのぎをする連中らしい」

「えぇと…?」

「つまり、断りもなく我が物顔でずけずけとその土地に入り込んでは、勝手に商売をする…、という事だ」

「何となく判りました」

頷いたヨウコは、すやすやと眠っている小さな黒毛の人狼を見下ろす。

「最近、いつも以上にユウちゃんやヨルヒコ君を仕事から遠ざけると思っていましたけれど、そんな事情が…」

「ある意味、相手はライカンスロープよりタチが悪い。いつでも人間という相手は厄介だ。獣一匹消えた所で街は素知らぬ顔

をしているが…、それが複数の人間となれば話が違って来る。明るみに出さずに対応しなければならない。何せ…」

ヤチは一度言葉を切り、銀の眼光を鋭くする。

「基本的に、こちらが人間でない事を悟られたなら、消すしかないのだからな…」

だからこそ、無駄な殺しを嫌うユウや、丸腰の人間に牙を剥く事を良しとしないヨルヒコは、人間社会が発端となっている

この件に関わらせる事ができない。

ヤチが彼らの成長を認めながらも、しかし狩人としては認めない理由がここにある。

「ビャクヤのような手練…、常軌を逸した怪物であれば、手心を加える事も、人間に存在を悟らせずに「仕事」をする事もで

きる。実際、俺やフータイは殆どのケースで人間に悟られずに物事を済ませている。だが、ユウやヨルヒコはそうは行かない」

ヤチは義弟達の事を思う。

白い熊のユウは性格が優し過ぎ、殺しを忌避する傾向が強い。実際、これまでも殆どの場合で相手を殺していない。

若き人狼ヨルヒコは、牙を剥く相手には容赦しないが、命乞いをする相手や無力な敵に爪牙をかける事を躊躇する。

実力はそろそろ他のトライブの狩人にも引けを取らない程になって来たが、いかんせん考え方とメンタル面に問題がある。

人に寄り添い紛れて生きる獣…。つまり彼らライカンスロープが置かれている状況を鑑みれば、生き残るためにはなりふり

構っていられない。

だが、あの二人は長らく自分を人間だと思い込んで生きてきたせいか、敵であっても相手の命を尊重しようとしてしまう。

人道的と言えばそうなのだが、ヤチ自身も彼らの美徳と思わないでもないソレは、同時に彼ら自身の危うさにもなっている。

だからこそ、ヤチは義弟達を「仕事」から遠ざける。

彼らに変わって欲しくないという気持ちも何処かにあっての措置だが、それ以上に、彼らの甘さが彼ら自身の寿命を縮める

事になると確信しているが故に、首を突っ込む事を厳しく制限している。

「まぁ、三十路を越えたとはいえ、俺もまだまだ現役で頑張れる。あいつらが狩人になる必要などしばらくは無いだろうし…」

「でも…、これから二十年、三十年経って、ヤチやフータイさんが衰え始めたら?その時は誰が狩人になるんです?」

眼鏡の奥で思慮深く目を細める妻を見遣り、ヤチは「そこだ…」と呟いた。

そして、ヨウコに抱かれた黒い人狼の寝顔を見遣る。

丸っこくて小さな幼い狼を見つめる銀の瞳が、普段のこの男からは意外な程に優しく細められた。

「困った物だ…。役目の引き継ぎは必ず来ると判っているし、俺自身もかつてはそう望んで狩人になった…。だが、反対して

いたビャクヤの気持ちが、今になって骨身に染みて理解できる…。今の俺はたぶん、あの頃のビャクヤと同じ心境だ。義弟達

を狩人にしたくない…。そして…」

ヤチは幾多の敵を屠って来たその右手を、これ以上無いほど優しく、黒い子狼の頭に乗せた。

「統夜(とうや)にも、狩人などやって欲しくはない…」

兄に名付け親になって貰った我が子を見つめ、「勝手な言い分だな、我ながら…」と、ヤチは苦笑した。

同じライカンスロープでも、狩人に向くかどうかは種で決まる。捕食者である狼や犬、熊、そして猫科の大型肉食獣などは、

狩人としての役割を要求される事が多い。

実際に彼らのトライブでは、一時期は狩人にふさわしい者が少なかったが故に、大柄な野生馬までがその役目を請け負って

いる。自分の身内をその役目に付けたくないという主張が自分勝手でわがままだという事は、ヤチも重々承知していた。

「とにかく…、そういった訳で、これからも遅くなる日が多い。トウヤの世話を任せきりになって済まないが、よろしく頼む」

「それは構いませんよ。パパはお仕事なんですから、ねー?」

ヨウコは眠っている我が子の背をそっと撫でてやると、思い出したように壁時計を見遣った。

「それにしても…、ずいぶんかかりますね?ユウちゃん…」

「そうだな…」

ヨウコに続いて人狼も時計を見遣って胡乱げに目を細める。

午後九時半。「今から大学を出る」と、大柄で太っている義弟から電話があったのは午後八時。あれから既に一時間半が経

過していた。

一歳と少しになった第一子トウヤは、先ほどまでお気に入りのユウが帰ってくるのを待っていたのだが、待ちくたびれて眠っ

てしまった。

生まれたその時から自我がしっかりしている人狼の子でも、言語の発達は人間と同程度。最初に覚えた言葉は「ママ」で、

次に発したのは「パパ」を差し置いて「ユー」だったのだから、ユウへのなつき具合が良く判る。

珍しく遅いので、ブラコンの気があるヤチはソワソワして落ち着かないのだが、しかしもう子供でもないユウに頻繁に電話

で現況報告を求めるのは気が引けている。

「途中でヨルヒコとでもばったり会ったかな?」

「あら?今夜はお母さんとフォウさんと三人で映画を見に行くと言っていたような…」

(…また母親同伴を求められたのか…)

微妙にテンションが上がり切らない若い狼と、彼そっちのけで盛り上がるその母親と恋人の図を思い浮かべながら、ヤチは

気の毒そうな顔になる。

「でなければ、フータイの所にでも顔を出しているのか…」

「お邪魔しているなら、フータイさんが電話を入れるように言いそうな気もするんですけれど…」

ヨウコの言葉に「それもそうだな」と納得し、ヤチの表情が冴えなくなる。

「もしかしたら、ショウコちゃんと会って…」

「それでも、予定が変わったなら連絡をよこしそうですけれどね」

またも言葉を遮られたヤチは、にわかに不安になってきた。

中学生だったユウを引き取って以来、しっかり者の彼が予定の変更を告げ忘れた事など殆ど無い。

携帯のバッテリーが上がってしまい、公衆電話すら見つからないなどの理由で連絡を取れなかった事もあったが、それすら

たったの二度。

しばし黙考したヤチが、電話をかけてみようかと卓上子機に手を伸ばしたその時、出し抜けに呼び出し音が鳴る。

「ユウかな?やはり遅くなるのかもしれない」

ほっとしたように呟いたヤチの口調に、ヨウコは小さく笑う。

玉藻御前の懐刀と恐れられる狼も、義弟の前では形無しだなぁ…、などと、呑気に考えながら。

「もしもし」

子機を持ち上げて電話に出たヤチは、しかし受話器の向こうから義弟の物ではない声が聞こえて来ると、意外そうに眉根を

寄せた。

「タマモさん?「仕事」か?」

問いかけたヤチの表情が、タマモが発した言葉を受け、一瞬の間を置いて凍り付く。

「ユウが!?」

突然上がった狼狽混じりの大声に、ヨウコに抱かれていたトウヤが驚いて目を覚まし、泣き始めた。



時刻は、ほんの少し遡る。

「酷い有様だ」

厳つい顔の大男は、惨憺たる路地裏の状況を見回して呟いた。

十二月も末、聖夜も間近となった寒空の下、吐いた息はたちまち白く濁り、そして霧散する。

大男と、玉藻御前の同士である数名の人間達が立ち尽くすそこには、およそ五人分の死体が転がっていた。

およそというのには理由がある。

何せそれらの死体は損傷が極めて激しく、五体満足に揃っている物は皆無。胴体から離れて転がっている四肢を数えても、

パーツが全て揃っていない。

大男…フータイは、最も近い位置にある首無し死体の傍に屈み、その状態を子細に眺め始めた。

「マグナムか何かで頭を吹っ飛ばしたんですかね?」

傍らに歩み寄った男が顔を顰めながら呟くと、フータイは首を横に振った。

「打撃…だな」

「は?」

素っ頓狂な声を上げて聞き返した男には構わず、フータイは仰向けに倒れたその死体と、その向こうの路面に飛び散る血や

脳漿、そして骨片を見遣る。

(おそらくは、超高速での一撃が頭部を粉々に…文字通り粉砕したのだろうな。膂力と瞬発力を兼ね備えていなければこうは

行かん。これだけで相当な使い手と判る。…だが…)

フータイは静かに周囲を窺いながら、抱いた疑問について思考する。

腕と言わず足と言わず爆砕され、あるいは胴を鋭い爪で掻き裂かれ、あるいは顔面をむしり取られた数々の死体…。その激

しい損傷の跡に、虎人は違和感を覚えていた。

(腕はともかく、このお粗末な痕跡はどうだ?人間共が騒ぐ事を怖れていないのか?それとも…、一種の挑発なのか?)

急遽入ったタマモの依頼でこの惨状を検分に来たフータイは、話に聞くチャイニーズマフィアの事を思い浮かべた。

(大陸でもライカンスロープを雇っている組織は希に存在する。件の組織の手駒に我らの同種が居るのではないかと、あの雌

狐も怪しんでいたが…、これで確実になったな)

身を起こしたフータイは、周囲の男達へ手短に推測を伝えると、後始末に取りかかるよう促した。

誰も路地に入って来ないよう工事関係者を装った同士が道を封鎖しているが、あまり長引けば怪しまれる。

作業の邪魔にならないよう、路地の隅に退きかけたフータイは、

「…?」

鼻をひくつかせ、眉根を寄せた。

人間に化けている状態では大きく制限されるが、それでもその五感の鋭さは常人とは比べものにならない。

覚えのある匂いを嗅ぎ取り、その嗅覚を瞬時に鋭敏化させたフータイは、弾かれたように頭上を見遣った。

路地の片側の壁を為すビルの屋上、その縁から、夜目にも鮮やかな白い物が空中へ突き出していた。

その白くて太い何かに血の斑化粧が施されている事まで見て取ると、フータイはハッと顔色を変える。

その体が素早く前傾姿勢を取り、背中が丸められると、大男の体躯は一気に膨張した。

骨格の変形と筋肉の膨張、そして肉体を構成する成分の変質により、メキメキザワザワと音が鳴る。

複雑な形態変形は、しかしほんの三秒程度で完了していた。

衣類を内側から弾けさせて露わになった、黄色に黒の縞模様が鮮やかな、巌のような逞しい体躯が、アスファルトを蹴って

舞い上がる。

周囲で片付けに当たっていた男達は、何故フータイがライカンスロープとしての本性を現したのかが判らず、呆気にとられ

てその跳躍を見送った。

その巨躯の重量を鑑みれば驚嘆すべき跳躍力であった。フータイは助走もなく、垂直に10メートル以上も舞い上がると、

ビルの壁面から張り出した雨樋に指をかけつつ、鋭く伸ばした足の爪で壁面を掻き、そこから再度、今度は反対側のビルの壁

面めがけて跳躍する。

今度は角度があるせいでしっかりと壁に体重をかけられた虎人は、そこから最初のビルの屋上めがけ、ゴムボールが反射す

るように折り返し跳躍した。

屋上の縁の高さに目が上がったその瞬間、フータイは牙を剥いて唸っていた。

雨染みでねずみ色に変色した、人も頻繁には上がらない屋上の床。

その手前端に、白い巨体が仰向けに転がっていた。

白い体躯は血にまみれて大部分が赤に染まり、至る所に深い裂傷が見られる。

「ユウ!」

吠えるような声を発して床を踏んだフータイは、夜闇に縞模様の残像を残して弟子の傍に寄る。

意識を失って目を閉じている白い熊の顔面は、右半分がざっくりと抉れていた。まるでこそげ取られたように、被毛と肉と

眼球がなくなっている。

額の上からマズルの横まで及ぶ縦長の傷からは、未だにこんこんと血液が流れ出ており、熊の頭部の下で血溜まりを広げて

いた。

傍らに跪いたフータイは、ユウが呼吸していない事に気付く。

そればかりか、胸に触れても鼓動が感じられない。

鋭く目を細めたフータイは、両手を重ねてユウの胸の中央に当て、肋骨が陥没するほどの力を込め、鋭く、重く、素早く、

一度だけ押し込んだ。

押すというよりも、ゼロ距離から殴られたに等しい衝撃を胸の中央に送り込まれ、瞬時に内臓を圧迫された白熊の口から、

喉に詰まっていた血液がゴバッと吐き出される。

二度目のショック蘇生を試みるべきか、手を押し当てたまま窺ったフータイは、太った白熊の膨れた腹が上下し始めた事を

確認し、僅かに緊張を緩めた。

だが、決して安心できる状態ではない。ユウは依然として意識が戻らず、尋常ではない傷の深さと出血量である。

むわっと立ちこめた血臭は噎せ返るほど濃く、冷えた夜気に白く蒸気を上げている。

おそらくは爪で抉られたのだろう、顔面と同様の深い掻き傷は、右肩や左の腿の外側、左腕から手首にもあり、胸にも横一

文字に走っていた。

臍の右脇十センチほどの位置には大きな穴が穿たれており、傷は内臓に達しているのだろう、そこから異臭が漂って来る。

武器でもあり盾でもある右腕に付着した血液が少ない事を見て取り、フータイは一瞬疑問に思ったが、すぐさま理解し、そ

して驚愕した。

白熊の右腕…肘の少し上が、ぱんぱんに膨らんでいた。

(粉砕骨折…。この様子では骨はバラバラに砕けている。極めて強靱なユウの体をここまで破壊するとは…)

ユウの負傷の具合を確認しつつ、肉体の変形に伴って爆ぜ裂けてしまい、腰巻きのようになっているスラックスのズボンを

まさぐると、フータイは携帯に登録してあった緊急用の番号をコールした。

強靱な生命力を誇るライカンスロープだが、その再生力は無限ではない。

事実、他の者と比べても優れた再生力を持ち合わせているユウの傷は、一向に出血が止まらない。力が尽きてしまい、傷が

修復されなくなっている。

回線が繋がると同時に、手短に場所と状況を伝えたフータイは、瀕死の白熊をゆっくりと背負った。

下の惨状がそのままになっているお粗末さにも、ようやく合点が行った。

おそらく相手は、ユウという予想外の強敵が偶然現場を嗅ぎつけたせいで、予定外の撤退を強いられたのだろう、と。

「…未熟者が…!」

吐き捨てたフータイの顔は、しかし辛さと怒りで歪んでいた。



「容態は!?」

掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出してきた銀狼に、ベンチにかけた虎人は首を横に振って応じつつ、手術中のランプ

を見遣った。

「まだ執刀中だ。俺にも判らん。…が、良くはない」

手術室の扉を睨み、ヤチは「何故…!」と呻いて歯がみする。

「ユウは帰ってくる途中だったはずだ。何故誰かと交戦している!?まさかフータイ、俺に黙って仕事に付き合わせていた訳

じゃなかろうな!」

「落ち着け」

剣呑な光を双眸に宿したヤチを静かに制すると、フータイは顎をしゃくって座るように促した。

「俺も急遽別件で仕事をさせられた所だった。ユウを見つけたのはその現場…、申し合わせもしていない。念のため雌狐にも

確認したが、ユウが何らかの仕事に首を突っ込んでいた事実は無い」

ようやく少し頭が冷えたヤチは、厳しくも甘いフータイがユウに危険な事をさせるはずもないと思い直し、「…済まん、取

り乱した…」と、軽く頭を下げて詫びた。

横に腰を下ろした人狼を横目で見遣ると、フータイは静かに告げる。

「運び込んだ際に居合わせたショウコ嬢は、ユウの状態を見て卒倒してしまった」

「そこまで酷い有様だったのか…」

項垂れたヤチに頷くと、フータイはおもむろに首を巡らせた。

騒々しい足音を立てながら地下通路を走って来るのは、ヤチのもう一人の義弟、ヨルヒコであった。

出かけた先から大急ぎで引き返し、人間の姿のまま駆けてきたヨルヒコは、しかしそうとう気が焦っているらしく、瞳の色

が茶色から鈍色へと変色し、正体を現しかけている。

「ヤチ!フータイさん!ゆ、ユウはっ!?」

『手術中だ』

二人が声をそろえて顎をしゃくると、ヨルヒコは手術室の扉に顔を向け、「何があったんだよ一体…!」と、驚きと困惑が

滲んだ声音で呟いた。

「瀕死だ。外科手術に頼らなければ命も危ない程」

静かに言ったフータイの言葉で、ヨルヒコは「それおかしいだろ!」と振り返る。

「ユウの自己修復能力は、そこらの同種よりずっと上だろ!?傷なんてすぐ…」

「力が尽きていた。自力での修復は見込めぬ」

淡々と応じたフータイの前で、ヨルヒコは絶句した。

他者に生命力を譲渡するという、持ち前の希有な能力に由来するのか、ユウの修復能力とスタミナは桁外れである。にもか

かわらず、自己修復ができないほど疲弊しているというその事実で、ユウと相対した何者かのただならぬ実力はヨルヒコにも

察せられた。

歯ぎしりした若き人狼は、もう一度ドアを一瞥すると、素早く踵を返す。

「ヨルヒコ、何処へ行く?」

ヤチの問いで足を止めたヨルヒコは、肩を震わせながら応じた。

「義兄弟がこんな目に遭わされたんだ…。落とし前、つけて貰わなきゃならないだろ…!?」

「よせ。相手の正体も所在も判らない」

「だからそこから調べるんだろうっ!どうしたんだよヤチ!ユウがこんな目に遭わされて、何でそんな落ち着いていられるん

だよ!フータイさんだって!なんでそんな平気な顔してるんだよ!」

振り向くなりまくし立てたヨルヒコは、再び二人に背を向けると、今度はヤチが呼び止めようとしても振り向かずに駆け去っ

て行った。

「良いのか?行かせても」

問いかけたフータイに、ヤチは静かに頷いた。

「まだ動けないからな。もうじきヨウコが来る。そうしたら俺も行くさ」

感情が昂ぶっているヨルヒコは、大きく見誤っていた。

一見すると今は落ち着いている二人だが、実は胸中穏やかではない。

口にこそ出さないが、フータイにしてみればユウは慕ってくれる可愛い弟子であり、ヤチにとっては本物の弟となんら変わ

らぬ愛情を注いで来た義弟である。

「落とし前…、か…」

「うむ。つけてやらねばならん」

静かに呟く二頭の獣は、しかしその胸に、激しい怒りを湛えていた。



薄桃色の柔らかな被毛を揺らし、長毛の猫は地下通路を足早に歩んでいた。

タマモからの緊急連絡を受け、出先からヨルヒコの母を住まいに送り届け、若き人狼に遅れてホテル地下の同士専用スペー

スに足を運んだフォウは、道中携帯で事の次第を聞いていた。

(ユウ君が危篤に追い込まれるほどの相手…。御前が懸念していた通り、件の連中は大陸の用心棒を抱えているのか?)

狭い海を隔てた大国は、広大であるが故に文明の光は行き届いておらず、特に内陸部には未だにライカンスロープの集落が

多数残っていると聞く。

この狭い日本とは、生き残っているライカンスロープの数は桁が違う。しかもその全体数から言って、強力な個体も多く存

在する。

隔絶された環境の中、ライカンスロープ同士の争いは都市圏のソレとは違い、人間に遠慮する必要があまり無い。そんな淘

汰の中で現在まで血を繋げられているのは、いかなる形にせよ「強さ」を持つ者達だけである。

これについては大陸の懐深くで暮らしていたフータイが良い例と言える。彼の闘争能力は、このトライブで最も鋭い牙…玉

藻御前の懐刀、字伏夜血すらも凌駕するのだから。

初めはタマモのお得意様への力添えだったはずが、いつの間にやらこちら側の世界の話になってきている。気を引き締め直

すフォウは、行く手から足早に駆けてくる青年を目にし、声をかけた。

「ヨルヒコ!ユウ君の容態は?」

「悪い。かなり。…そして悪い、ちょっと急ぐ」

いつになくそっけない態度で脇を駆け抜けたヨルヒコを振り向いて見送ったフォウは、微かな異臭を嗅ぎ取り、鼻をひくつ

かせた。

(何だ?血臭?ヨルヒコ、何処か怪我を?…いや、これはヨルヒコの血の臭いではない…?一体…)

組成レベルで改造された元人間…人造ライカンスロープであるフォウは、五感の鋭さが真性のライカンスロープほどではな

いため、僅かな血臭が誰の物なのか判らなかった。

疑問から眉根を寄せた雌猫は、尋常ではない様子のヨルヒコも気になりはしたものの、しかしユウの事も気掛かりだった為、

ひとまず彼が治療を受けている場所へ向かう。

が、いくらも進まない内に、行く手の通路の角の向こうから誰かが駆けて来る足音に気付き、再び眉根を寄せた。

もしやユウの容態が悪化したのか?そんな心配から曲がり角を見つめたフォウは、勢いよく飛び出してきた白衣を纏うその

女性が、同士の一人…シマウマのライカンスロープである事に気付く。

「バンバ女史。何事ですか?」

慌ただしい様子からただ事ではないと察したフォウが声をかけると、床を踏みならして止まった白衣の女性は、焦りが色濃

い顔を彼女に向ける。

「フォウさん!い、イミナ君を見ませんでしたか!?ああもうっ、どこに行ってしまったのかしらぁ…!」

「ヨルヒコなら今すれ違ったばかりですが…、彼がまた何かしでかしましたか?」

若い狼の真意や望みはともかく、姉代わりを自認しているフォウは、弟のようなヨルヒコが何かまずい事でもしたのかと、

少し表情をきつくする。

「じ、実は…。いえ!話している場合じゃないわ!とにかく追いかけないと!」

「同行します!」

シマウマは白衣を脱ぎ捨てると、即座に本性を顕わにし、白地に黒いストライプも鮮やかな、伸びやかな肢体を躍動させて

駆け出す。

その横について走りながら、フォウはヨルヒコが何をしたのか聞かされた。

「現場から回収された血液サンプルを?」

「ええ、資料として回収された物です。大半が人間の犠牲者とユウ君の血液なんですが…。彼、何を思ったのか試験管に入れ

ていたそれらを勝手に開封して、嗅いだり舐めたりしたようなんです」

「は!?舐めた!?人間の犠牲者の血も!?呪われてしまうではないかヨルヒコめ!」

「口にしたといってもマンイーター化する程ではないですよ、さすがに。量にして数滴舐めただけです」

声を大きくしたフォウに、シマウマは続けた。

「居合わせた子の話では、「血は力だ…」とか、「痕跡は必ず…」とか、「ユウが何もできなかったはずが無い…」とか、ブ

ツブツ呟いていたらしいですが…」

そこまで聞き、フォウは考える。

犬族…ことに人狼の嗅覚はライカンスロープの中でもずば抜けている。もしやあの青年は、機器を使用した精密な分析に頼

る事無く自力で血液成分を判別し、ユウと戦った者の手がかりを得たのではないか?と…。

(完成例とも言えるアザフセ氏を見れば察せられるが…、人狼という物はつくづく底が知れない。末恐ろしい子だ…)

頼もしく思いながら、しかしフォウは不安に駆られている。

肉体的には相当鍛えられているヨルヒコは、しかしメンタル面が未熟。

頭に血が昇りやすく、よく後先考えずに先走り、しかも引き際の見極めが下手くそである。

おまけに今回は相手の力が底知れないとなれば、ヨルヒコの無鉄砲さが、いつにも増してフォウには心配であった。



ソレは、真四角な部屋の隅で蹲っていた。

四面の壁の幅も、天井までの高さも等しく3メートル程の、狭苦しい正立方体のその部屋は、床も壁も天井もコンクリート

が剥き出しで、まるで作業場のように殺風景である。

置かれている物は、頑強な鉄製の骨組みを持つ、大人が二人並んで眠れる程の大型ベッドと、その横に置かれた腰の高さほ

どの木製タンスのみ。

天井の中央から裸電球がぶら下がっているが、明かりは灯されていない。光源はタンスの上に置かれた傘付きナイトランプ

の、ギリギリまで抑えられた弱々しい光だけである。

部屋の隅で冷たい床に跪き、太い右前腕を抱えるようにして蹲る大きな影は、低い唸り声を漏らしている。

しばし身じろぎもせずじっとそうしていた影は、やがて唸りをぴたりと止め、やにわに身を起こした。

2メートルはあろうかというそのシルエットが、僅かな光を浴びて蠢く。

幅広く、分厚く、重量感のあるずんぐりとしたシルエット。その輪郭がゆっくりと縮み、フォルムはほぼそのままで、サイ

ズだけが少し縮小する。

ふぅ…と、微かな吐息を漏らした影は、タンスに歩み寄ると、ボロ布のようになっていた衣類を脱ぎ捨て、引き出しを順番

に開けつつ新しい衣類を取り出し、身に付けてゆく。

静かな室内に衣擦れの音を響かせ、やがて着替えを終えた影は、唯一の出入り口であるドアに歩み寄り、ノブを掴んだ。

ドアを潜った影の足を覆う、軍用のごついブーツが踏みしめたのは、室内同様コンクリートが剥き出しになっている薄暗い

通路。

室内と比べていくらか増した明かりの中に姿を現したのは、一人の女性であった。

特徴を一つ上げるならば、大きい。

身の丈が180センチを越えている上に、幅も厚みも並の女性の三倍はある。

豊満過ぎるバストの下には、成人男性でも腕が回りきらない程太いウエスト。

分厚い肩は筋肉の盛り上がりによって女性らしいラインが消えており、太腿や二の腕はボディビルダーのソレより太い。

歳の頃なら二十代前半といった所か、相撲取りのような体躯の女性は、カーキ色の軍用パンツにごついアサルトブーツ、黒

いパーカーの上にパンツと同色のコートを身につけている。

女っ気のない兵士のような出で立ちだが、しかし首から背中に垂らされたパーカーのフードには、動物をモチーフにした可

愛らしい耳が付いていた。

やや癖のある跳ねた髪を無造作に切り落としてショートカットにしており、眉にかかる程度の前髪の下には、やや釣り上が

り気味の鋭い双眸。

膨れた頬にぽってりとした厚い唇が印象的だが、化粧気は全く無く、口紅すらつけていない。

そんな大きな女性は、ドアを抜けた正面の壁に背を預けている若い男を、険のある目で睨んでいた。

「着替え程度に随分かかったじゃないか。えぇ?黒星(ヘイシン)」

男の口から出たのは、この国の言葉では無く、大陸の物である。

顔はそこそこ整っているが、口調も態度も軽薄そうなせいで魅力が半減しているその男を、ヘイシンと呼ばれた女性は黙っ

て見つめている。

「それとも、怪我でもしてたのか?ん?」

心配しているというよりも、作業用具の傷の有無を確認するような目でぶしつけに巨体を睨め回す男に対し、ヘイシンは部

屋を出てから始めて口を開く。

「武星(ウーシン)に会わせろ」

ハスキーボイスでぞんざいに言い放ったヘイシンの顔を見上げ、男はニヤリと嫌な笑みを浮かべた。

「ふふん。飯よりも弟か。相変わらずのブラコンっぷりだなぁ」

「無駄口を叩く暇があるならさっさと連れて行け。舌を引っこ抜くぞ」

「へいへい。怖い怖い」

眉間に皺を刻み、唇を捲りあげて獣のような顔で凄むヘイシンに肩を竦めたが、言葉とは裏腹に、男の態度には余裕が満ち

ている。

いかに凄もうが反抗的な態度を取ろうが、ヘイシンは自分に逆らえない。その事を熟知しているが故の余裕であった。

通路を歩き出した男の後ろに従い、ヘイシンは疲労の残る体を重く感じながら歩を進める。

無理矢理力を振り絞って高速修復をおこなったが、白熊に砕かれた右拳は、形の上では正常に戻ったものの、まだ強い痛み

が残っている。

いつもの殺戮とは違う強敵との闘争で疲弊していたが、それでも力を振り絞って出来得る限りの修復を施した。

痩せ我慢してでも、間接的に自分を雇っている連中と、マネジメントを務めるこの男に虚勢を張る必要があった。

そして何よりも、これから会いに行く病に伏した弟にだけは、弱った姿など見せたくなかった。



青年は惨劇のあった路地と、そこそこ太い道が交わる丁字路に立ち、周囲を窺った。

午後十時半とはいえ、眠らぬこの街で人通りが完全に絶える時間帯など無い。

今は人気のないこの道も、いつ残業を終えた会社員やできあがった酔っぱらいが通るか判らない。

しばし耳を澄ませて接近する者が無い事を確認したヨルヒコは、街灯が投げかける明かりの領域から逃れ、暗がりに身を潜

める。

そして、瞬時に己の本性を解き放った。

すぐさま全身に力が漲り、音を立てて肉体が変貌する。

ぞわりと伸びた銀毛に全身が覆われ、足の甲が伸張して狼の足を形作り、尾てい骨が伸びて尾を形成する。

顔の下半分がメキメキと突き出してゆき、鋭い牙がずらりと並んだ口とシャープなマズルができあがり、頭頂付近に移動し

た耳が三角にピンと立つ。

数秒で本当の姿、人狼のフォルムとなったヨルヒコは、フサフサした銀毛を緩やかな、しかし喧噪混じりの街夜風に撫でさ

せつつ、その鋭い嗅覚の感度を最大まで引き上げ、四つんばいになって路面に顔を寄せてフンフンと嗅ぎ始める。

(思った通りだ。路面に微かに残ったあの匂いは、ここで完全に途切れてる…。ここから車に乗ったか何かしたんだな?)

胸中で呟きつつ、ヨルヒコは顔を上げた。

一方通行の道路である。道を辿るなら、繁華街に背を向け、オフィス街に向かう事になる。

(おかしいぞ?ヤクザの親分さんトコとモメ事起こしてるヤツらが、何でオフィス街に向かうんだ?港も遠くなるし、潜むに

は不似合いな気も…)

そこまで考えたヨルヒコは、思い当たる事があって口の端を物騒に歪めた。

かつて彼が狙われ、フォウが隷属させられていた組織も、表向きは大手製薬会社として知られていた。

見た目がまっとうな物が、裏側までまっとうとは限らない。大きければ大きいほど後ろ側は見え辛いし、その大きな死角で

何をしているか判った物ではない。

自分がライカンスロープである事を知ったあの事件で得た教訓が、ヨルヒコに閃きをもたらした。

「例の中華マフィアとかって連中…。案外、まともに見える会社の皮とか被ってるのかもな…」

それは予感ではあったが、確信に近い。

悪党共は皆似たような事を考える…。いつだか本か映画、あるいはテレビで見るか聞くかしたその言葉を、ヨルヒコは思い

出していた。

「手がかりは、ユウの血に混じっていた誰かの血…。人間達の血じゃなかった」

寒気がする程に甘美に感じた犠牲者…人間の血と、本能的な忌避からとんでもなく不味く感じられたユウの血の味と香りを

思い出し、ヨルヒコは呟く。

「ユウの血溜まりに混じっていた、僅かなライカンスロープの血…。やっぱりユウはただじゃやられなかった…!アイツが残

してくれた手がかり…、この匂い、この味、忘れるもんか…!必ず見つけ出してやる!」

若き人狼はぐっと身を屈めると、放たれた矢のように跳躍し、傍らのビルの壁面に取り付く。

そして僅かな凹凸を足がかりにして再度跳ね、銀色の残光を残して屋根の向こうへと消えて行った。



真っ白で清潔な大型寝台のすぐ脇で、ヘイシンは彼女からすればかなり小さい丸椅子に尻をはみ出させて座り、患者を見舞っ

ていた。

肉付きの良い大きな手がそっと握っているのは、黒い被毛に覆われた手。

寝台の主は、病的なまでに痩せ細って毛艶も悪いパンダであった。

本来骨太で肉付きの良い体躯をしている彼ら故に、そのジャイアントパンダの痩せこけ方は尋常では無いほど痛々しい。

リクライニングの寝台を少し上げ、上体を起こしているそのパンダは、本来であれば顔にまだ幼さが残っている。だが、長

年の病魔との戦いで憔悴し切った彼からは、もはや若々しいエネルギーは見えなくなっていた。

もはや人間に擬態する力も無く、点滴で栄養補給と投薬を受けながら、傍らのモニターで常にバイタルサインを確認されて

いる少年は、今年十三歳になったばかり。

遊びたい盛りで、体力を持てあます程元気なはずの年頃なのに、駆け回る事はおろか歩く事すらままならない弟を、ヘイシ

ンは目を細めて見つめている。

「姉ちゃん…、仕事だったんでしょ?疲れてるでしょ?」

 病室を訪れてからいくらか経った頃、急に弟がそう言い出して、ヘイシンはギクリとする。もしや怪我の事を勘付かれたの

か?と。

「いいよ、もう…。オレは良いから、姉ちゃんも休みなよ…」

つくづく勘の鋭い子だ。気遣って来る弟の目を見ながら、ヘイシンは思う。

偉い人を悪いヤツから守るボディーガードをしているのだと、ずっと嘘をつき通しているし、あの軽薄な男にも、自分の仕

事内容については決してウーシンに伝えないよう約束させている。

それでもウーシンからは、彼女のしている事を察しているような素振りが時折覗えた。

「子供が生意気に気ぃきかせてんじゃないよ。あんたが思ってるより、姉ちゃんはず〜っと強いんだからな?」

気を遣う弟…ウーシンの額を優しく指先で小突き、ヘイシンは優しく笑う。

言葉使いこそぞんざいなものの、彼女のハスキーな声音はそれでも十分に優しく、慈愛に満ちており、先ほど軽薄そうな男

と話していた時とはまるで別人のような、柔らかく、そして安らいだ表情をしていた。

「今度こそ良くなるからな。それもすぐにだ。この国の医者は優秀だって話だし、今回の雇い主は金払いも良い。見ろ。病室

だってこの通り上等だ。姉ちゃんだって物凄く贅沢な部屋をあてがわれてんだぞ?」

弟を安心させようと言葉を並べるヘイシンは、しかし嘘をついている。

今回の雇い主の金払いは確かに良いが、その殆ど全てがウーシンの治療費に回っており、彼女は先ほどの殺風景な部屋…空

き倉庫を利用した部屋を居室に使わせて貰っている。

それでも虚勢を張って、毎日のようにコンビニの美味しそうなケーキなどを買って来るが、ウーシンは今や食べ物を殆ど口

にできず、点滴で命を繋いでいる状況である。

近くに大きな遊園地があるだの、水族館があるだの、元気になったら連れて行ってやりたい場所の事を、さも自分が見てき

たように語るヘイシンは、しかし話に聞いただけで、実際にそれらを目にした事はない。

それでも、駅前のポスターなどの写真で見る遊園地や娯楽施設は、彼女の目には目映く見える。

来る日も来る日も病室の天井ばかり眺めて過ごすウーシンを、あんな所で遊ばせてやりたい…。元気になった弟を連れて、

思う存分贅沢をさせてやりたい…。

その夢が叶うのならば、ヘイシンはどんな苦労も厭わない。他者の命を奪う事さえ躊躇いはしない。

彼女にとっては、弟の存在こそが全てだから。

サイドボードに手を伸ばし、ヘイシンはパックに入ったティラミスを掴み、弟の顔先に近付けた。

「ケーキ食べな。美味そうだろ?」

「いい。姉ちゃんが食べてよ」

「姉ちゃんはさっき飯を食ったばっかで腹いっぱいなんだよ」

「…あまり…、お腹減ってない…」

ティラミスを目の前に差し出されても、胃が受け付けようとしないのか、ウーシンはそっと目を逸らす。

「…そうか…。冷蔵庫に入れておくからな?看護のひとが来たら食わせて貰え。それと、食いたい物があったら遠慮無く言え。

何でも用意するからな?」

故郷に居た頃はお目にかかる事さえ無かった、綺麗で美味しそうなケーキでさえ、ウーシンの食指は動かない。

その事が残念で、そして哀しかったが、ヘイシンは努めて明るい口調で言いながら、菓子類で一杯になった冷蔵庫のドアを

開けた。

彼女がいくら土産を持って来ても、中身は溜まる一方で、ちっとも減らなかった。



「絶対安静。そして面会謝絶だ」

横に立つ銀狼に告げられたヨウコは、眼鏡の奥で辛そうに目を細めた。

その瞳に映るのは、ガラスの向こうの無菌室で寝台に横たえられ、生命維持装置や様々な検知機器から伸びるコードに繋が

れた白熊の姿。

ガラスの向こうで眠り続けるユウの姿を不思議そうに見つめ、ヨウコに抱かれている幼い人狼は、「ユー?ユー?」としき

りに声を上げ、母の顔とユウの姿を交互に見ている。

ユウはどうしたのか?我が子がそんな疑問を抱いている事を察し、ヤチは小さな狼の頭をそっと撫でてやった。

「ユウは今、おねむなんだトウヤ…。起きるまで少し待っていてやろうな…」

その、落ち着いているとさえ取れるヤチの声から、しかし心と体で繋がった伴侶たるヨウコは、押し殺された憤りと口惜し

さを感じ取った。

「行って下さい。ヤチ」

そう言葉を発した妻に、ヤチは銀の目を細めて目で問いかける。

「ユウちゃんを一人にしたくないから、我慢していたんでしょう?後は私に任せて下さい」

「良いのか?ユウはまだどうなるか判らないんだぞ?」

「ヤチがここに居ても、私と同じで見守っているしかないでしょう?けれども、あなたには私と違って「他に出来る事」があ

ります」

「しかし…」

「私を誰の妻だと思っているんですか?ヤチ」

柔らかな、しかしはっきりとした口調で言ったヨウコは、夫の目を真っ直ぐに見つめて続けた。

「外に攻め出るのはあなたの仕事。そして、あなたが居ない間に家を守るのは私の仕事。家庭内分担は、今だって生きている

んですからね?」

背を押してくれる妻の言葉に、ヤチは頭が下がる思いだった。

「…済まない…」

本当はすぐにも飛び出したくて仕方がない。しかしこんな状態のユウを一人残して出る事はあまりにも可哀相に思える。

ヤチのそんな葛藤を見抜いたヨウコは、夫に力強く頷いた。

「行ってらっしゃい、ヤチ。気を付けて…」

「ああ。行ってくる」

妻に後を任せ、踵を返して集中治療室の隣接室から出たヤチは、廊下に立って壁に背を預けていた虎人に目を向けた。

「ヨウコが残ってくれる…。俺は出る」

「そうか。では俺も別方向から探ろう。…一つ、あまり良くない知らせがある」

フータイが一拍間を置いて告げたその言葉に、ヤチの顔が微苦笑を帯びた。

「ユウの負傷以上に良くない知らせはそうそう無いだろう。何だ?」

「お前の義弟のもう片方が、飛び出して行ったまま音信不通らしい」

「…ふん」

ヤチは鼻を鳴らした。が、その態度が虚勢である事を、フータイは見抜いている。

「…行こう」

「うむ」

並んで足早に歩き出した二頭の獣は、ヨルヒコが何をしているのか察しを付け、焦りを覚えていた。

ユウ同様、歳の割には腕が立つヨルヒコだが、単純な肉弾戦ではユウにやや劣る。そんな彼が、ユウがあそこまで叩きのめ

されてしまうような相手と遭遇して、無事で済むとは思えない。

「正直な意見を訊きたい。フータイ、お前は今回の相手の事をどう見る?」

それはあまりにも大雑把な質問だったが、意図を察した虎人は深く頷いて応じた。

「手強いな。おそらくは、俺やお前と同程度の力を持つ相手だろう」

指導においては厳しく当たっているが、ユウの腕前はフータイも認める所である。

その白熊があそこまで追い込まれるのなら、相手はもう一つか二つ上のステージに立つライカンスロープと考えるのが自然

であった。

「安心した。ビャクヤクラスと言われたらどうしようかと思っていた」

「安心しろ。もしもそうだったなら黙っている」

猛る心を静めるためか、意図的に軽口をたたき合い、男達は通路を歩き抜けた。