ケージブレイカー(前編)

高い塀に広大な敷地ごと囲まれた立派な洋館の三階で、少年は小さくため息をついた。

窓辺に寄せた肘掛け付きの椅子に座って、双眼鏡を覗きながら。

ぽってりと肉厚で指が太い手に支えられた、大きくて黒くてごつい造りの双眼鏡は高級な物で、ずっしりと重い。

あまり腕力が無い少年は、出窓の縁に肘をついてそれを支え、黒い縁取りがある目に当てて、遙か遠くの景色を眺めている。

やがて少年はまたため息をつく。遙か遠くの眺めを、じっと目に焼き付けながら。

その少年は狸である。

今年15歳になる中学三年生で、身長は154センチ。背丈はもう殆ど伸びなくなっているので、成長期は終わりつつある

のだろうと本人は考えている。

だが、その体は身長に比してやけにボリュームがある。でっぷり肥えてボールのように真ん丸い肥満体だった。

ずんぐりとした体を覆う被毛は暗灰色。関節の位置が判り辛いぷっくりした指に、二の腕は筋肉以外の物で太い。むっちり

した臀部や太腿、丸みを帯びた背中は、指でつつけば深くへこむほどの贅肉に覆われている。

前にせり出した胸は脂肪が付き過ぎてやや垂れ気味。腹は真ん丸で横にまで張っている。

頬はぷっくりと膨れており、顎にもたっぷりと肉がついて、首に至っては無いようにすら見えた。

目を覆う狸らしい黒い縁取りと丸顔という組み合わせが、顔立ちに愛嬌を与えている。

だが、その顔に浮かんだ表情は寂しげで、切なそうで、元気が無く、先程からため息ばかりついていた。

少年が眺めているのは、遠くに見える公園。

少し前まで満開の桜に囲まれていたのだが、今では時期も終わりかけて散り始めており、徐々に殺風景になりつつあった。

コンビニの傍にあるそこには、年がら年中頻繁に小さな子供達や学生などが集まって、ふざけあったり、何やら話し込んだ

りしている。

彼らの姿に、双眼鏡越しに羨望の眼差しを注ぎながらため息をつくのが、この少年の日課になっていた。

鼓谷絹太(つづみやきぬた)。それが少年の名。

国内屈指の大富豪。北街道の雄、鼓谷家の三男坊である。

キヌタが住むこの豪邸すらも本家邸宅ではなく、彼に与えられた別宅であった。

上流階級、かつ成績の良い生徒しか通えない私立中学に在籍する彼は、学校と自宅を高級外車で送り迎えされ、習い事に時

間を縛られた生活を送っていた。

自由が少ない生活ではあったが、幼少時からこのサイクルだったため、今では本人も不自由さや疑問を感じていない。

だが、この双眼鏡で外の景色を眺めるようになって以来、少しずつ寂しさを覚え初めていた。

どうやら自分が、同年代の他の少年達とはだいぶ違う生活を送っているらしいと察して。

「あ…。金色君だ…」

やがて、キヌタは小さな声を漏らし、少し腰を浮かせて身を乗り出した。

双眼鏡に切り取られた遠い景色が動き、中心にその人物を据える。

それは、黒い学生服と金色の被毛が鮮烈なコントラストをなした、背が高い一人の少年だった。

犬族…ゴールデンレトリーバーの少年である。

友人と思われる周りの学生達の中でも最も背が高く、被毛の色もあって目立っている。

彼がいつでも輪の中心に居て、友人達からも好かれているらしい事が、遠目に観察している内にキヌタにも判って来た。

双眼鏡越しの景色は手を伸ばせば触れられそうに近く見えるが、音は聞こえない。

だがキヌタは、声の無い彼らのやり取りをじっと見つめ、自分もその輪に加わっているかのように夢想した。

彼らにはキヌタの存在は認識できず、一方的に顔ぶれを覚えているだけである。だがキヌタは自分と歳が近いだろう彼ら一

人一人にあだ名を付け、彼らを架空の友人として、くつろぎの一時を一方的に共有した気になっていた。

何かつまらないジョークでも飛ばしたのか、がっしりしたブルドッグが仲間達に小突かれると、ふざけあう彼らを眺めなが

らキヌタは微笑む。

「ブルタ君ったら、また何か変な事言ったの?」

クスクスと笑ったキヌタは笑いあう彼らを眺めていたが、

「…!?」

急にぴたりと笑いを止め、目を丸くした。

切り取られた視界の中…、手が届きそうに近く見えるその景色の中…、無音の公園の中…、一人の少年が、真っ直ぐキヌタ

の方を見ていた。

キヌタは息を飲む。ゴールデンレトリーバーと目があったような気がして。

だが、距離的に見えている訳がない。しかもキヌタの部屋からは、窓のすぐ外にある庭木の隙間を縫ってしか公園が見えな

いので、この窓自体が向こう側からは見えないはずである。

キヌタがそう考えた途端に、ゴールデンレトリーバーの顔は横を向いてしまった。

やはりたまたまこっちの方を見ただけだったのだとキヌタは考える。ゴールデンレトリーバーと目があったように感じたの

も、ほんの一瞬だったので。

一瞬驚いたものの、すぐまた観察に戻ったキヌタは、しかしノックの音にビクッと反応して立ち上がった。

「坊ちゃん。おられますか?」

インターフォンで使用人の声が聞こえると、残念そうに双眼鏡を下ろしてドアの方を向いたキヌタは、「はい。居ます」と

応じた。

「先生がお見えになりました。お通ししております」

家庭教師の来訪を告げる声に、キヌタは時計を見遣る。

自由な時間は、ほんの十数分で終わってしまった。

「すぐに行きます」

ドアを挟んで使用人に告げ、キヌタは立派な木造の机に双眼鏡を仕舞い込んだ。

そして見回す。自分に与えられた広い部屋を。

毛足の長いふかふかした絨毯。重厚な勉強机。黒檀仕立てのクローゼット。高級なローテーブルとソファーのセット。小型

の冷蔵庫…。

まるで高級ホテルのVIPルームを思わせる大きな部屋には、派手さこそ無いが高級な調度類が揃えられていた。

瀟洒ながらも大きな出窓は採光も工夫されており、充分な陽光を取り入れつつも、西日を防ぐために窓の外には背の高い木

が植えられている。

大型テレビやパソコンまで揃ったその部屋にはドアが三つあり、先に使用人がノックした一つは廊下に、もう一つは専用の

トイレに、最後の一つは天蓋付きのベッドが備え付けられた寝室に、それぞれ繋がっている。

広過ぎるが故に、どことなく少し寂しさを感じさせる部屋でもあった。

教科書と問題集を手に部屋を出るキヌタの表情は、一度は残念そうに曇ったものの、今は少し明るい。

今日来訪している家庭教師との一時は、勉強がメインとはいっても、彼には楽しい物だった。



程なくキヌタが入った、勉強部屋にもなっている書斎では、犬獣人が彼を待っていた。

「こんにちは坊ちゃん。お疲れ様でさぁ」

「こんにちは、シオンさん」

丁寧に会釈した家庭教師に、キヌタは嬉しそうに表情を和らげて頭を下げ返す。

シオンと呼ばれたアラスカンマラミュートは、名を毬跳紫苑(まりばねしおん)という。

キヌタの父親である鼓谷財閥総帥のSPでもあるのだが、こうして週に一度だけ、英語の家庭教師としてキヌタの勉強を見

てくれている。

被毛は白とメタリックグレーのツートンカラーで、相当鍛え込んであるらしく、肩幅が広いがっしりした体付きをしており、

SPだと言われれば納得してしまう見てくれであった。

顔つきそのものは精悍だが、風貌に反して穏やかで優しげな藍色の目と、絶えず口元を微かに緩ませている表情が、鋭さよ

りも愛嬌と余裕を強く感じさせる。

各科目の家庭教師の中では新参者の部類に入るのだが、キヌタは彼を最も気に入っていた。家庭教師や屋敷の使用人も含め

た中で、キヌタが下の名で呼ぶのは彼だけである事からもその事が窺える。

挨拶もそこそこに、二人はテーブルを挟んで座り、勉強を開始した。

今では帰化しているものの、元々英語圏出身だというシオンの発音はネイティブのそれであり、キヌタの学校の教師よりも

教え方が上手い。

キヌタは熱心に発音を練習し、英文を書き取り、密度の濃い時間が過ぎて行く。

勉強自体はかなり急ピッチなのだが、キヌタは音を上げる事もなくそれに食いついてゆく。そして…。

「今日の所はここまでにしやしょう」

シオンが笑みを浮かべて終わりを告げると、キヌタは「有り難うございました」と頭を下げた。

「さて、今日は何の話をしやしょうか?」

ペースを上げて確保した、勉強のご褒美とも言えるお待ちかねの雑談タイムがやって来ると、キヌタは顔を輝かせた。

「台湾の話が聞きたいです!この間途中だった、海辺の…」

「ああ、あそこの話でやすか。おやすいご用で」

せがまれたシオンは、海の向こうの島国の話を聞かせ始めた。

こうして見知らぬ土地の話を聞くのが、キヌタは好きだった。

北街道どころか、この街を出た事すらろくに無い…、いや、屋敷と学校の往復ばかりで、街中の景色すら殆ど知らないキヌ

タにとって、シオンが語る他の街や異国の話は、刺激的で面白い。

また、この話も勉強の一環になっており、シオンは説明の殆どを英語で行う。

キヌタが熱心に英語を勉強するのは、この飴を充分に味わいたいからでもあった。

途中で使用人が菓子と茶を運んで来るが、二人が用いているのが英語であるため、会話の内容を察する事ができる者でも、

勉強しているようにしか思えない。

堂々と雑談しながら、二人はゆったりとお茶を楽しんだ。

「さて、今日はそろそろお終いでやす」

時計を見遣ってシオンが告げると、キヌタは名残惜しそうな顔をしながらも「有り難うございました」と頭を下げた。

楽しい時間は終わり。続きは一週間後となる。

そして、シオンを玄関まで見送ったキヌタは、そのまま使用人に誘われて食堂へ向かい、広いその部屋で一人きりの夕食を

済ませた。

豪勢ではあるが寂しい食事は、キヌタにとってあまり楽しい物ではない。

テレビなどで見る、狭いテーブルを家族で囲む食事が何故自分にはできないのか?

キヌタは長くて大きいテーブルを見ながらため息をついた。



食事を終えた後は、胃を休ませてから入浴するのがキヌタの習慣だった。

キヌタはその間いつものように自室でくつろぐべく、長くて広い廊下を歩き、自室のドアノブに手を掛けた。

ふかふかの絨毯を踏み締め、勉強机に寄ったキヌタは、椅子に腰を下ろしつつ引き出しを開け、双眼鏡を取り出す。

キヌタの宝物であるその双眼鏡は、去年の誕生日にシオンから贈られた物だった。

ろくに屋敷から出して貰えない三男坊の事情を知り、不憫に思ったマラミュートは、せめて少しでも遠い景色を眺められる

ようにとプレゼントを選んだのである。

外に持ち出した事もない双眼鏡はぴかぴかなのだが、キヌタはソレを柔らかい清潔な布で丁寧に磨き、レンズを覗く。

そうして憩いの一時を過ごし始めたキヌタだったが、程なく違和感に気付いた。

不慣れな感覚だが、落ち着かない。誰かに見られているような気がして。

部屋の中を見回すが、当然誰も居ない。

そもそもこの部屋にキヌタ以外の誰かが入るのは掃除の時程度である。トイレに誰かが潜んでいる事も考えられないし、寝

室で使用人が掃除をしている訳でもない。

腰を上げ、キョロキョロと部屋の中を見回したキヌタは、首を傾げながら違和感の正体について考えたが、やがて諦めて勉

強机に戻りかけ、

「ひっ!?」

ようやくソレに気付いて、口を両手で押さえつつ悲鳴を漏らした。

窓の外、暗い闇の中に金色が浮かんでいた。

最初は何だか判らず、ただビックリしていたキヌタは、その金色がニタァっと笑みを浮かべた所で数歩後退った。

しかし金色は気を悪くした様子も無く、身を乗り出し、腕を伸ばし、窓を軽くノックする。

地上十数メートルの高さで木の枝に足をかけたまま、臆する様子もなく…。

「き…、金色君…?」

キヌタは呟く。いつも窓から眺めていたゴールデンレトリーバーの顔を、初めて、双眼鏡を介さずに見つめながら。



「いやー、まさかこの豪邸からだったとは思わなかったぜ。びっくらこいたなー」

ソファーにふんぞり返ったゴールデンレトリーバーは、キヌタの部屋を眺め回しながらそんな事を口にした。

黒いジャージの上下を身に付けており、学生服姿の時と同様に、金色の被毛との対比が鮮烈だった。

部屋の主であるキヌタは突っ立ったままおどおどしており、どちらが部屋主か判らない有様である。

ゴールデンレトリーバーの背丈は175センチほど。キヌタより20センチ近く高い。

「広いなー部屋。教室ぐれーあるじゃん。あ、その双眼鏡でおれらを見てたのか?」

勉強机の上に置かれた双眼鏡を見遣ってから、ゴールデンレトリーバーはキヌタに訊ねた。

「あ、う、うん…。あの…、ごめんなさい…」

謝ったキヌタは、どうした物かと考える。

警戒心が極めて薄いキヌタは、突然現れたこの少年を怖がりながらも催促されるまま部屋に入れてしまったが、まるっきり

不法侵入であり、そして不審者である。

だが、キヌタは強く出られなかった。帰ってくれとも言えず、屋敷の者に言う事もできなかった。

ずっと覗き見していたという負い目があった…という事もあるのだが、何より、初めて言葉を交わしたこの少年は、学校で

見る裕福層の少年達とは雰囲気がまるで違っており、どう接するべきか戸惑ってもいたのである。

より正確に言うなら、窓からずけずけと図々しく部屋に上がり込んだ非常識なこの少年に、驚かされながらも興味を持った

のだ。

「良いって。覗き見の事は」

良い。と言いながらも念を押すように応じたゴールデンレトリーバーは、「喉乾いたなー。何かねーの?」と、冷蔵庫を見

遣る。

「あ…、な、何か飲む?」

「おう!飲む飲む!どんなのがある?」

おずおず聞き返したキヌタに頷き、少年は腰を上げた。

そして、冷蔵庫を開けたキヌタの脇に立つと、初対面とは思えない馴れ馴れしさで肩に腕を回しつつ、ぶしつけな視線で冷

蔵庫の中身を品定めする。

「お!コーラあるじゃん!もーらいっ!」

肩に腕を回されるなど初めての経験で、キヌタは戸惑いながら固まってしまう。が、少年はお構いなしに手を伸ばし、勝手

にコーラの缶を掴んだ。そして、

「…なぁ、そいつは何だ?瓶のヤツ。ジャム?いやクリームか?」

冷蔵庫の中にある、クリーム色の何かが入った瓶に目を止め、キヌタに訊ねた。

「あ、プリンだけど…」

「プリン?瓶入り?へぇー、高そうだなー」

少年はいかにも物欲しそうな声を漏らし、キヌタは恐る恐る訊いてみた。

「あの…、良かったら食べる?」

「お?良いの?悪いなー!何か催促したみたいでっ!」

少年は機嫌良さそうにからから笑い、キヌタは自分の分も含めてプリンを取り出した。

ソファーに腰を下ろすなり早速コーラをグビッとやり、瓶の封を取り払ったゴールデンレトリーバーは、スプーンを突っ込

んでプリンを掬い、ぱくっと一口食べて、

「美味いじゃんこれ。お上品な味っつーの?うん。いけるぜ!」

少し驚いたように目を丸くしながらも、カチャカチャとプリンをかきこんでいく。

そして、所在なさそうに突っ立ったままのキヌタを、「座れば?」と、まるで自分が部屋主であるかのように促した。

「あ、うん…。あの…、失礼します…」

そろそろと隣に座ったキヌタに、

「あ。おれキンジってんだ。羽取金示(はとりきんじ)。中三」

ゴールデンレトリーバーは、ようやくそう名乗った。

「鼓谷絹太です…。ぼくも三年生…」

応じたキヌタに、キンジと名乗った少年は「あー、やっぱり」と頷いた。

「やっぱり?」

「この豪邸、やっぱ鼓谷の家だったんだな?どんな金持ちかと思ったら、なるほどなるほど…」

「知ってるの?うちの事…」

訊ねたキヌタに、キンジはチッチッチッと指を振って見せた。

「鼓谷財閥を知らないヤツなんて、この辺にはいねーよ。…ま、鼓谷のヤツとこうして会うのは初めてだけどな」

キンジはそう言うと、首を巡らせて勉強机を見遣った。

「高そうな双眼鏡だなー。後で見せてくれよ?おれああいうの弄った事ねーんだわ。興味津々!」

「良いけど…、夜はあまり見る物が無いかも…」

「あ。それもそうか…。くそーっ!日が沈む前に来れば良かったぜ!」

心底残念そうに呻いたキンジの横で、キヌタはくすっと笑った。

すると、キンジはぐいっと首を戻してキヌタを見遣り、歯を剥いてニタニタ笑う。

「へへっ!やっと笑いやがったな!」

それがキヌタとキンジの、お互いの人生を一変させる出会いであった。



「ところで、何でぼくが覗いているって判ったの?」

不思議そうに訊ねるキヌタに、キンジは貸して貰った双眼鏡をためすつがめつ子細に見ながら応じる。

「反射。ここ最近こっちの方でたまーにキラッて光るから、何だろうなー?って思ってた訳よ。で、昨日やっとこの屋敷を探

り当てたから、今日は侵入してみた」

キンジの説明に、キヌタは首を傾げた。

「最近?前は気付かなかったの?」

「ああ。ってかお前、いつから覗いてたんだ?」

「え!?えっと…、ちょっと前くらいから…」

「ふーん。気付いたのは四〜五日前だな。それまでは判らなかったぜ?一回もキラッてしなかったし。何で急に光るようになっ

たんだろなー?」

「…太陽の角度かな…」

ぼそっと呟いたキヌタを、キンジが見遣る。

「いつも夕方に覗いてたけど、太陽の角度が季節で変わって、たまたま反射があの公園の方に向くようになったのかも…」

「おおなるほど!」

キンジは納得した顔で大きく頷き、「何お前頭良いの?」と、キヌタをしげしげ見つめる。

「え?どうだろう?普通?」

「いやいや、謙遜すんなって。育ち良いから…教養ってヤツ?あんだろうなぁ」

「…季節での太陽の角度の変化は、普通に学校で習うと思うけど…」

「…だっけ?まぁいいじゃん。少なくともおれよっか頭はいーな。うん!」

キンジは双眼鏡を覗いて天井を眺め、「おお…!近ぇ…!」と声を漏らした。

その様子を横目でチラッと見遣り、キヌタは、「あの、金色君は…」と声をかけ、

「あ!ハトリ君は!」

と、慌てた様子で言い直したが、キンジは「ん?」と眉を顰める。

「何だよ金色君って?」

「いやその…、双眼鏡で覗いてるだけじゃ名前判らなかったから、勝手にそう呼んでたの…。ご免なさい…」

謝ったキヌタに「ふーん」と応じたキンジは、「で、何?」と先を促す。

「えっと…。プリン…、好きなの?」

「まぁまぁかな。甘過ぎるのは好きじゃねぇけど、こういう味は大歓迎かな。ってか初めて食った。こういう味のプリン。甘

さが押しつけがましくねーのが良いな。ちなみにコーラは大好物だ」

キヌタはそれを聞いて何やら考え込むように首を傾げていたが、やがて「確かに、甘さは抑えてあるかな…」と頷いた。

「もう一個くれよ?」

「え?う、うん」

キンジの催促に応えてまた二つプリンを取り出したキヌタは、「…卵の量が…。そうか…」などとブツブツ呟いた。

「何?卵がどうした?」

「いや、何でもないの…。味の違いは卵の量のせいかなぁ…って」

キヌタはそう言いながらもう一度、今度は慎重に味を確かめながらプリンを食べて、キンジはせわしなくかきこんであっと

言う間に胃に収める。

そのすぐ後にドアがノックされ、キヌタは飛び上がった。

「坊ちゃん。お風呂の支度が整いました」

「あ!は、はい!有り難うございます!」

キヌタがドキドキしながら若い女の使用人の声に応じると、不法侵入者であるキンジは慌てる様子もなく腰を上げた。

「さて、そろそろ帰るわ。ごちそーさん」

「あ、うん」

少し残念そうに頷いたキヌタは、思い出したように冷蔵庫を見た。

「プリンあと二つあるから、良かったら持って行く?」

「お?いいのっ?」

キンジが嬉しそうに聞き返すと、キヌタは「もう充分だから」と頷いた。

「さっすが金持ち!ふとっぱらー!」

キンジはそう言いながらキヌタの肩に左腕を回して肩を組み、空いた右手でキヌタの丸い腹に触れた。

「はひっ!」

こそばゆくて妙な声を上げたキヌタに、キンジは可笑しそうに笑いかける。

「何だよ、感じたような声上げて?うりうりうりっ!」

「あっ!ま、待って、ちょっ!くすぐった…!」

出っ腹の贅肉を軽く掴まれてタプタプ揺すられたキヌタは、身悶えしながら逃げて冷蔵庫に向かい、残っていたプリンをキ

ンジに手渡した。

「有り難く貰っとく!んじゃ!」

キンジはズボンのポケットにプリンの瓶を押し込むと、出窓に向かって歩き出した。

そして、キヌタが止める間もなく窓を開け放ち、置いていた靴を掴んでパッと飛び出す。

慌てたキヌタが「わーっ!?」と声を上げながら窓際に駆け寄ると、キンジは木にしがみついた状態でニヤッと笑いかけた。

それを見てキヌタがホッとしたのも束の間、今度はドアが激しくノックされた。

「坊ちゃん!どうなさいました!?」

驚いて振り向いたキヌタに、キンジは「んじゃ、またな!」と告げて、するする木を伝い降りて行く。

直後、使用人数名が「失礼します!」と断りを入れつつ部屋になだれ込んだ。

入ってきた中には黒服の姿まであり、焦ったキヌタは素早く頭を巡らせて、

「す、済みません!綺麗な流れ星が見えて、思わず…」

と、嘘をついた。

キヌタの声を聞いて何事かと駆け込んで来た面々は、ホッとしたように表情を弛ませた。

「あ、お風呂行きますね」

「はい坊ちゃん。おや…?」

応じた女中はテーブルに乗ったプリンの空瓶四つを見遣り、不思議そうな顔をした。

「お気に召しましたか?このプリン」

まずいと思ったキヌタだったが、平静を装って頷いた。

「とても美味しかったです。あの…、卵の量が違うんでしょうか?甘さが押しつけがましくなくて、上品な味でした」

それを聞いた女中は大喜びで、コーラの空き缶と容器を片付け、他の面々と一緒に下がって行った。

そして、階下に降りてから電話を取る。

「…はい。そうです。坊ちゃんがそのように…」

キヌタが使った品や口にした食べ物について何か感想を言ったなら、逐一報告せよ。この屋敷の使用人達は、全員がそのよ

うに総帥から厳命されている。

彼らは理由を知らないが、経営陣にとってキヌタの感想は無視できるほど他愛のない物ではなかった。

何故ならば、キヌタが好意的な評価をつけた品や、改良の余地について口にした品は、問題の点などをクリアしてから売り

出せば、まず間違いなくヒット商品になるからである。

どういう理屈でそうなっているのかは彼らにも判らず、一部の者しか知らされていないが、キヌタにはそんな才能があった。

無自覚に、無意識に、曖昧ながらも物事の本質を、問題の中心点を、物事の臍を捉える才能が…。

その生まれ持った特殊な才能も原因の一つとなって、彼は今、家族からも隔離される形で半ば閉ざされた環境に置かれてい

るのだが、その事は、本人も使用人達も知らなかった。



広い浴槽に一人で浸かりながら、キヌタはぼんやりしていた。

その手が、キンジに掴まれた腹の辺りに添えられている。

彼に肩を組まれた感触も、まだはっきりと覚えていた。

(ああいう風に触られたの、随分久しぶり…)

キヌタは顔を僅かに弛ませ、目を閉じる。

誰かとああして触れ合うなど、母親に抱かれていたあの頃以来かも知れないと、キヌタは暖かな感触を思い出す。

キヌタは、総帥と使用人…つまり愛人との間にできた子供である。

鼓谷の現総帥が使用人だった母を見初め、妻の目を盗んで逢瀬を重ねた結果、キヌタは生まれた。

その事が判明するなり、大財閥の現総帥によるスキャンダルはこじれにこじれた。

そして騒ぎがようやく沈静化した五歳の時、キヌタはようやく総帥の子として認知されたものの、正妻の逆鱗に触れた彼の

母は生活を保障されながらも放逐される事となった。

その数ヶ月後、キヌタの母は交通事故で帰らぬひととなった。離ればなれになって以降、一度も会う事なく…。

事故原因は飲酒運転。自損事故だったと聞かされたが、損傷が激しかった事もあり、遺体に別れを告げも、葬儀などへの参

列は許されなかった。

そんな出生だからこそ、自分が義母と兄二人に疎まれている事は理解している。

半分しか血の繋がっていない自分は心情的に受け入れ難いだけでなく、相続の邪魔になる。目障りで仕方ないのだろう、と。

末の弟はまだ自分を疎まず、むしろ良くなついてくれているが、それもいつまで続くかは判らないと考えている。まだ小学

生なので、キヌタがどういう立場にあるか理解できていないだけなのだと…。

浴槽の中で、自分の腹を揉んでいる事に気付いたキヌタは、微苦笑して立ち上がる。

丸っこい体と太い尻尾から湯が滴り、派手な水音を立てた。

(覗き見の事、怒られるかと思ったんだけど…、ちょっと変わってて面白いひとだったなぁ、金色君…)

衝撃的な来客の事を思い起こしながら、キヌタは泡で濡れたタイルを踏み、

「はっ?はにゃわーっ!?」

注意が散漫になっていたせいで足を滑らせ、湯船にザボォンと背中から逆戻りし、悲鳴を耳にした使用人達が大挙して駆け

つける事態となった。



明くる日の夕刻、双眼鏡を覗いたキヌタは目を真ん丸にした。

仲間達と公園に現れたキンジが、こっちを指さして何か言ったかと思えば、彼らは揃って手を振ったのである。

双眼鏡の中の切り取られた景色の中、学生達が明らかにこちらを意識しながら手を振っているのは、予想もしなかった光景

だった。

とは言っても、キヌタが見ているかどうかまでは良く判っていないらしく、急に何か話し込んだり、キンジも首を傾げたり

している。

おそらくは、見ているかどうかは判らないが手を振ってやれ、という事だったのだろうと、キヌタは察した。

面白くなって手を振ってみるが、やはり見えはしないらしく、あちらに反応らしい反応は見られない。

それでもキヌタは嬉しかった。かまって貰えている気がして。

「坊ちゃん。先生がお見えになりましたよ」

「はい!今行きます!」

双眼鏡を下ろし、キヌタは太い尻尾をモサモサ揺らしながら、嬉しさが尾を引いた明るい声で返事をする。

弾んだ声を聞いた使用人はドアの向こうで、何か良い事でもあったのだろうか?と首を傾げていた。



ピアノのレッスンを終えて夕食を済ませ、部屋に戻ったキヌタは、

「あっ!」

窓の外に金色を認め、足早に歩み寄った。

「今日も来てくれたんだ?」

窓を開けるなり聞いたその第一声で、キンジは「お?」と首を傾げた。

「何か歓迎されてるっぽい?」

「うん!あ、入って!」

嬉しそうなキヌタに迎えられ、キンジはしばらく不思議そうな顔をしていたが、気を取り直したように笑みを浮かべて靴を

脱ぎ、枝を蹴って部屋に飛び込む。

「玄関から来れば良いのに…」

「怖そうなおっちゃん達が見張ってるぜ?突然入れてくれって言っても大丈夫か?」

窓を閉めたキヌタとキンジはそうやりとりしたが、ゴールデンレトリーバーは突然顔を顰めて首を捻る。

「しっかし、何なのお前んち?親とかが悪いヤツにでも狙われてんのか?怖そうな警備がすげー居んのなー」

「どうなんだろう?悪いひとには狙われてないと思うよ?だってお父さんもお義母さんも、お兄さん達も弟も、ここには住ん

でないし…」

「え?何で?」

「ここ、本宅じゃないから」

顔中疑問符だらけにしたキンジに応じ、キヌタは冷蔵庫を開ける。

「プリン食べる?昨日と同じのがあるから」

「食う。…てか何で?お前だけ離れて住んでんのここに?こんな豪邸に?ガキなのに?」

キヌタは「本宅はもっと立派だよ」と応じて、話題を変えようと色々考えたが、キンジの興味は他に移ってくれなかった。

どうしてだ?何故だ?と、キヌタだけが別宅で暮らしている理由をしつこく尋ねる。

気まずくなりそうなので避けたい話題だったのだが、キンジが持ち合わせた強引さはキヌタにとっては不慣れな類の物で、

彼は結局折れてしまった。

「ぼくは…、愛人の子供だから…」

言いにくそうに呟いたキヌタを、キンジはきょとんと見つめた後、

「マジ?マジなのかそれ?…うわ、かっけー…!」

などと、珍妙な事を言い出した。

「金持ちで愛人の子供とか、うっわ!ドラマみてー!かっけーな何か!」

「そ、そうなの?」

「うんうん!何か良く判んねーけど、ちょっとすげーんじゃねー!?本当にあるんだなそーゆーのって!」

キンジは感心してキヌタをまじまじと見つめる。

「ドラマなんかだと、可愛い男の子とか女の子とか、美人な若いおねーさんとか線の細いハンサムだったりするけど…、ま、

現実はこんなもんか…。しっかしすっげーなー!」

「そ、そう?凄いのかな?」

内容的には褒められている訳ではない。むしろ容姿を貶されているとも言えるのだが、キンジには悪意が無く、気付いてい

ないキヌタも気を悪くしない。

むしろ、その感想の中心にある尊敬にも似た感情を捉えており、何だかくすぐったい気分になっていた。

「大変なんだろ?虐められたり、嫌がらせされたり、んでそれに負けねーで幸せになるんだよな!ドラマとかだと!」

盛り上がるキンジは若過ぎて、物事の本質を正確には捉えておらず、エンターテイメントの延長のような受け止め方をして

無責任にはしゃぐ。

しかしキヌタは、彼のそんな態度で救われたような気さえした。

「あ、あんまり虐めとかは無いよ?でも、やっぱり好かれてないから、こうして別宅をあてがわれてるけど…」

「へー!へー!すっげー!」

まだ十四歳のゴールデンレトリーバーには、キヌタが語る家の事情は刺激的で、大人の香りが感じられた。

そしてキンジは根掘り葉掘りキヌタの生活について訊ね、キヌタもまた乞われるままに説明していく。

楽しかった。

学校の級友達は友人と呼べるほど親しくはないし、他に同年代の親しい相手も居なかったキヌタにとって、キンジは新鮮さ

を感じる相手であった。

彼の雑な言葉遣いや図々しい態度まで、キヌタにとっては新鮮で刺激的で興味深い。

キヌタが母親との別れについてまで話すと、感極まったキンジは肉付きの良い肩に馴れ馴れしく腕を回して抱き寄せ、「大

変だったなー!お前すげーなー!」と、慰めにかかった。

ドキドキしながらも「大した事ないよ…。ぼく何もしないで流されてただけだし…」と応じたキヌタは、奇妙な感覚を抱く。

それは、彼が初めて感じた、友情というものの片鱗であった。

シオンと接する時とも違う、同年代の赤の他人との間でのみ発生し得る、一種の気楽さや気安さを伴ったその心情を、キヌ

タは戸惑いながらも噛み締めた。

「あの…、ハトリ君は友達多いんだよね?今日、手を振ってくれてた人達とか…」

「ん?あー、まぁ多い方かな?付き合いだけは無駄に多いし」

応じたキンジに肩を抱かれたまま、キヌタは羨望の眼差しを彼に注いだ。

「羨ましいなぁ…。ぼく、友達とか居ないから…」

「へ?」

キンジは少し驚いたように目を大きくし、それからキヌタの説明を聞いて、妙な顔つきになる。

「マジ?大変なんだな金持ちの子供って?ちょっとその辺まで…とか、気楽に遊びにも行けねーのかよ?」

「お父さんのお許しが出ないと、勝手には…」

「過保護なんじゃねーの?ここの警備もそーだけど…」

キンジは途中で言葉を切った。頭の隅で何かが不快に引っかかって。

異様なまでに厳重な警備。

厳し過ぎる外出についての制限。

家族から除け者にされて使用人達と一緒に住んでいるキヌタ。

(何かこれって、幽閉されてるっぽくねーか?あの警備って侵入者に対してじゃなく…、コイツを外に出さねー為のもんだっ

たりして…)

その厳重な警備をさして苦労するでもなく突破してここに居座っているキンジは、苦虫を噛み潰したような顔になった。

根っからの自由人であるキンジは、キヌタが閉じこめられているという自分の想像だけで不快になったのである。

「あのさ…、お前まさか閉じこめられてるって訳じゃねーよな?」

「え?違うと思うけど…」

「嫌な目にあったりとか、してねーのか?」

「ううん。皆優しいし、親切だし…」

「…そっか…」

キヌタには嘘をついている様子も、誤魔化している様子もない。素直にそう感じているのだろうと考え、キンジはそれ以上

何も言わずに引き下がる。

だが、狸から話を聞いている内に抱いた違和感は、一度自覚したら無視できないほど膨れあがってしまった。

大金持ちだから…。自分達とは家柄が違うから…。そんな説明だけでは納得できないこの屋敷の異様さを、キンジは感じ取

りつつあった。

「あの…、もしまた来てくれるなら…」

キンジの懸念には気付かず、キヌタはおずおずと話しかける。

「警備の人に言っておくから、玄関から入ってね?木を登って来るのは危ないよ」

「ヘーキヘーキ、ヘーキだってそんなの。でもそっちのが楽だなっ!」

キンジが笑い、キヌタが微笑む。

「でも、いーのかよ?おれみたいなの上げても?」

「今上がってるじゃない?」

「そりゃそーだけど、おおっぴらに上げちまっても良いのか?って訊いてんのおれは」

「どうかなぁ?」

キヌタは首を傾げた。「友達居ないから、誰かが訪ねて来た事ないし…」と、困ったような顔で。

「マジで?んじゃおれがお前の友達第一号か?やったぜ!一番乗り!」

キンジはそう言ってニヤッとし、キヌタはぽかんとした。

「友…達…?」

「だろ?…え?違うのか?いや、おれってもうプリンとか食わせて貰ったし、友達だろ?」

不思議そうなキヌタに、少々焦れったそうな様子でキンジは念を押す。

「そ、そう?友達?友達なんだ?ぼくら?」

キヌタは次第に顔を弛ませ、「えへへ!」と、恥ずかしげに笑った。

「ぼく…、友達できちゃったの、初めてかも…」



キヌタの習い事が無い日を教えて貰い、正面からの来訪を約束したものの、昨夜と今夜の不法侵入がバレると後々問題にな

りそうなので、キンジは今回も窓から木を伝って帰る事にした。

風呂の時間も近付いているため、ドアを気にしながらも見送ろうとしていたキヌタは、「あ。ちょっと待って!」と、何か

思いついた様子で、出窓を開けようとしていた彼を止める。そして小走りに冷蔵庫に寄ると、プリンが詰まった小瓶をいくつ

もせっせと取り出し、小さなポーチに詰め込み始めた。

「何だよ?夜の散歩でもする気か?」

冗談めかして言ったキンジだったが、キヌタが何を考えているのかは判っている。狸は初めて出来た友達に土産を持たせよ

うとしているのだ。

「はい、これ…」

「サンキュー!」

礼を言いながらポーチを受け取ったキンジに、

「良かったら皆と食べて」

キヌタはそう言って、彼を少し驚かせた。

「…プリン食わせたら、アイツらもお前の友達だなっ」

キンジはニヤッと笑い、外を確認してから窓を押し開けた。

「じゃ、またな…!」

「うん。また…!」

声を押し殺して挨拶を交わし、キンジは木に飛び移って再び庭を見渡すと、するすると降りてゆく。

すぐに木の枝葉と夜闇に紛れて金色は見えなくなり、キヌタはそっと窓を閉めた。

ドアがノックされて風呂の支度ができたと告げられた時には、それから数十秒も経っていなかった。



その夜。ふかふかのベッドの上に横臥しながら、キヌタはいつまでも寝付く事ができず、ずっと口元を緩めていた。

ごろっと寝返りを打って反対向きになり、キヌタは呟く。

「友達…だって…。ふふっ…!」

キンジに「友達」と言って貰えた事が嬉しかった。

楽しげな様子を遠目に眺めるだけだった存在が、本当に友達になってくれた事が嬉しかった。



翌日の夕刻、キヌタは双眼鏡を覗いて満面の笑みを浮かべた。

例の公園に現れたキンジとその友人達は、見えていないキヌタの方を向いてプリンの瓶を翳し、乾杯の真似事をして見せた

のだ。

頭を下げたり手を振ったりしている彼らがプリンを食べ始めると、キヌタは嬉しくなってモサッと太い尻尾を揺らした。

「坊ちゃん。先生がお見えになりましたよ」

「はい!すぐ行きます!」

呼びかけた使用人に弾む声を返すと、キヌタは双眼鏡の向こう側の学生達に一生懸命手を振った。

そしてキヌタが窓際から離れ、支度をして経済の勉強に向かった後、

「ふぅむ…」

庭木の陰に立ってその様子を観察していたマラミュートは、顎に手を当てて目を細めた。

黒服に身を包んだシオンは、家庭教師としてキヌタに接する時とは違って、顔は鋭さを帯びており、目つきも明らかに違っ

ている。

警戒している番犬のような、あるいは獲物を捜索している猟犬のような、静かで猛々しい表情をしながら、シオンは考える。

(坊ちゃん…、一体誰に手を振ってらっしゃるんで?)

昨日もそうだったと監視していた部下から報告を受けていたが、キヌタが手を振っている方向を探っても、庭はおろか壁の

向こうの道路にさえ、相手でありそうな存在は認められなかった。

本来は総帥の近辺に在り、護衛を務めているシオンだったが、この屋敷の敷地内で何者かが侵入したような形跡が見つかっ

たと聞き、こうして直々に出向いて指揮を執っている。

不必要に怯えさせないよう、緊張させないよう、キヌタには秘密にして。

SPとして雇用されてまだ数年しか経っていないシオンは、本来なら新参の部類に入る。

だが、彼は以前就いていた仕事で何度か鼓谷財閥と関わった事があり、総帥から腕の良さを評価され、個人的な信用も得て

いた。さらには以前の経歴も加味されて、今では引退した前警備主任の後を引き継ぎ、SPの長として警備部門の総責任者と

なっている。

(もっと遠く…か?双眼鏡を覗いてらっしゃった事だし、探らなきゃいけねぇ範囲は随分と広くなっちまうな…)

シオンは顔を顰めながら襟元に触れ、押し殺した声を発する。

「マリバネだ。誰かキヌタ坊ちゃんの部屋にお邪魔して、窓から見える範囲の写真を撮りな」

そう小型通信機に囁きかけると、耳の根本に着けたイヤリング型の受信機が振動し、音を漏らさずシオンに声を伝える。

『…シナガワです。屋上に居りますので私が向かいますか?御頭』

「よし、任せたぜぃ。使用人には一応話を通しときな。くれぐれも警備上の機密としての口止めを忘れんじゃねぇぜ?」

『了解致しました』

部下との通信を終えると、シオンは苦虫を噛み潰したような顔になり、ガリガリと頭を掻いた。

(…総帥からのお達しでやすからねぇ…。済みやせんが、害になりそうなモンかどうか、ちょいと調べさせて貰いやすぜ?坊

ちゃん…)

正直な所、シオンはキヌタに同情していた。不自由がないはずの、しかしその実、少年らしい自由が殆ど無い生活に。

少しでもおかしな所があれば徹底的に調べ、害がありそうなら排除する。それが警備に当てられている者が言い付かった使

命であった。

(侵入の形跡…、これまで坊ちゃんに見られなかった行動…、これらが繋がってるんじゃねぇかって、あっしの勘がざわつい

てやがる…。何でもねぇならそれに越した事はねぇんだが…)



それから日は流れ、キヌタが楽しみにしていたキンジの正式来訪予定日がやってきた。

朝からずっとソワソワしていたキヌタは、部屋の中をウロウロと落ち着き無く歩き回りつつある事を思い出し、微苦笑する。

友達が遊びに来るからと告げた時の使用人達の顔は、鳩が豆鉄砲を食らったようだった。

キヌタに部外者が会いに来るのは、初めての事だったのである。

何処で知り合ったどんな友達なのかと訝る面々には、学校の交流行事で知り合って縁が出来た、他校の友達なのだと嘘の説

明をした。

キヌタは知らなかったが、この来訪予定は警備担当へも通達され、屋敷内には目立たないように潜みながらも普段の五割り

増しで人員が配備され、庭ではシオン率いる総帥の信頼が特に厚いSP達が監視カメラを増設して待ち構えている。

ピリピリした空気が、しかしキヌタには悟られないよう警備関係者内でのみ流れてゆく中で、キヌタの昼食が終わり、時計

の針は約束の午後一時を指し示した。

「坊ちゃん」

ノックの音に続いて使用人の声がインターフォンを通って響くと、キヌタは「はいっ!」と、少し上ずった声を上げた。

「ハトリと名乗る学生さん達がおいでですが…。お友達で間違いございませんか?」

「そ、そうです!」

「では、応接室へご案内致します」

「はい!」

キヌタはいそいそと鏡の前に立ち、毛が変な所で跳ねていないか確認してから部屋を出た。

そして、足早に応接室へ向かうと、ドアを開けようとした使用人を慌てて制止し、一度深呼吸してから自らの手でドアを引

き開けた。

「…!」

キヌタは目を大きくする。

豪華な応接室の中、やけに堂々としている一人を除いて落ち着きなくキョロキョロしていた総勢六名の学生達は、その全員

が、彼がいつも双眼鏡越しに見ていた顔ぶれだった。

キンジとブルドッグだけが獣人で、他の四名は人間である。

「よう」

ニヤリと笑って軽く手を上げたキンジに、キヌタは緊張気味のやや強ばった笑みを返す。

他の面々もキヌタ同様やや緊張しており、「どうも…」「ちわっす…」などと、小声で挨拶を返して来た。

彼らが緊張を強いられているのも当然で、応接室には屈強な黒服が四名、直立不動で四隅に待機していた。

キヌタは慣れているので警備の黒服達も気にならない。むしろ、警備の全員が嫌味にならない程度の丁寧さをもって接して

くれ、手が空いているようならちょっとした雑談にも応じてくれるので、味方という意識しかない。

それでも、来訪者達は彼らがいるせいで緊張しているのだと察する事はできたので、申し訳なさそうに警備の面々に声をか

けた。

「あの…、できればぼくらだけにして欲しいんですが…」

警備の四人は無言で視線を交わしたが、やがて誰からともなく頷き合うと、キヌタに断りを入れ、若い客人達には「ごゆっ

くり」と口々に挨拶し、退室して行った。

本当はキヌタの頼みを拒否し、有事に備えて部屋に居座る事もできた。安全上必要であれば、キヌタの言葉を無視して任務

を遂行する権限が、彼の父である鼓谷総帥から与えられているのだから。

実際にその方が彼ら自身も楽で、安心もできるのだが、今回はあえてキヌタとその客人達に便宜を図って部屋の外で待機す

るという方針を選んだ。

腰が低い三男坊は、使用人達だけでなく、警備の者達にも好かれている。

二人の兄達が傲慢で横暴な事もあり、見た目も性格も大きく違うキヌタだけは、その出生と立場に対して同情されている事

もあって、仕事の域を超えて好意的に接して貰えていた。

もっとも、使用人に対しても警備の者に対しても、我が儘を言うどころか遠慮してしまう大人しいキヌタは、基本的に甘や

かし甲斐が無いのだが。

外に出たSP達の一人は、襟元の通信機にそっと触れ、小声で囁く。

「ヤナギダです。坊ちゃんの意向を汲んで室外待機としたいのですが、構わないでしょうか?」

『調べはしたが、全員普通の学生みてぇだからなぁ、それで良いだろう。ただしそこを離れるなよ?ホールで休んでるふりで

もして、客人達には無用な警戒心を与えないようにしつつ待機だぜ?坊ちゃんにとっては貴重なお時間なんだから、出来る限

りの便宜は図ってやんな』

「了解です」

屋敷の何処かに潜んでいるシオンから事後承諾を得ると、黒服達は階段脇や玄関前、ホールの隅などに散らばり、思い思い

に休憩しているふりを始めた。

シオンはこの数日で、キヌタが眺めていたあの公園の事を突き止め、キンジ達の素性まで調べ上げていた。

臨時でこの屋敷の警備主任となっているシオンが害にはならないと判断したからこそ、客への対応も寛容な物となる。

一方で、部屋の外でそんな事になっているとは知らないキヌタとその客人達は、『初めまして…』と、少し緊張気味に挨拶

を交わしていた。

キンジはその様子を腕組みしてニヤニヤしながら見守っている。キヌタの反応を観察するのが楽しくて仕方がないのだった。

キヌタは臆病で、小心である。その事は、初対面の際に間近で見た彼のオドオドした態度などから、キンジにも良く判って

いる。

にも関わらず、この狸には警戒心という物が希薄だった。

いや、元からそんな物が殆ど無いのではないか?とすら、ゴールデンレトリーバーは感じている。

驚いて怯えはしたものの、キンジをあっさり部屋に上げてしまい、しかも催促されると冷蔵庫の中身まで見せてしまった。

そこに何の疑問も反発も差し挟まず、従順に…。

この事から、キヌタには警戒心や防衛本能のような物が欠けているような気がしている。

それは、度胸があるとか、肝が据わっているとか、そういう類の物とは明らかに違っていた。

臆病でありながら身を守ろうとする意識が働かない…。そんな生物が果たして存在するのか?

キンジは理論立ててそう考えている訳ではないが、漠然とキヌタの妙な点を感じ取り、そこに興味を持っていた。

最初は、「覗かれているようなので、逆に出向いてちょいと脅かしてやろう」と、そんな心積もりしか無かった彼だったが、

キヌタの第一印象ですっかり興味を惹かれてしまい、翌晩にまた訪ねてみたのである。

すると今度は警戒心を見せないどころの話ではなく、歓迎までされてしまった。

それでますます興味を刺激されたキンジは、ここ最近ずっとキヌタの事ばかり考えている。

大富豪で愛人の子という彼の立場もそれなりに気になり、ドラマのようだと盛り上がっているのは嘘ではない。だが、根底

には先述のような興味があっての行動だった。

徐々にうち解けて来たのか、キヌタは相変わらず低姿勢で腰が引け気味だが、それでもキンジの友人達と距離を狭めようと

苦心している。

キンジの悪友達については、警備の男達が去って気楽になった事もあり、普段の調子を取り戻しつつあった。

「すげーのな!あの怖そうなおっさん達、お前の言いなりなんだー!」

「メイドとか…SPっての?ああいうの本当に居るんだな。漫画とテレビの中だけだと思ってた」

「風呂とか台所とかどうなってんの!?やっぱここみたいに高級ホテルな感じ!?」

「え、えっと…!」

質問責めにあって戸惑うキヌタに、黒革張りのソファーにどすっと腰を下ろしたキンジが呼びかける。

「なぁ、コーラとかねーの?」

その堂々とした…というより図々しい催促で、キヌタはホッとしたように首を巡らせた。

「あ、ごめん!好みが判らなかったから、こっちからお願いする事にしてたんだ。すぐに飲み物とお菓子出して貰うね!」

「プリンあるか?あれすげーな、すっかり病みつきになっちまった」

「うん。訊いてみる」

不躾にズケズケと物を言うキンジに、キヌタは気を悪くする様子も無く、むしろ従順に応じて内線電話を取った。

「…あ、済みません。ジュースとお菓子を…」

言いかけたキヌタは、受話器を手の平で塞ぎ、客を振り返る。

「ハトリ君はコーラだよね?他の皆は何がいいの?一通りあると思うけど…」

「オレンジジュース!」

「サイダー!」

「アイスコーヒー」

「カフェオレある?」

「俺もオレンジ。…ってか一斉に言ったら訳分かんなくなんだろ?順番に言おうぜ」

がっしりした体付きのブルドッグがキヌタを気遣うように口を挟んだが、

「コーラとオレンジジュースを二つずつ、サイダーとアイスコーヒー、カフェオレを一つずつお願いします」

狸がすらすらと受話器に告げると、彼はポカンと口を開けた。

「かなり頭良いらしーぜ?ソイツ」

友人の反応を面白がっているように、キンジがニヤつきながら言う。

「…あのぉ…」

内線でのやりとりを中断したキヌタは、一同を振り返った。

「この間のプリン、もう無いんだって…。だから料理長さんが希望に添うような代わりの物を作ってくれるそうだけど、それ

でもいい?」

「お!お抱えシェフとか居るんだやっぱ!?」

キンジが楽しげに言い、他のメンバーは仰天した。

「すげー!」

「どんだけ金持ちなんだ!?」

素直に驚き感心する面々とキンジに確認を取ると、キヌタは内線電話に「お願いします」と告げ、受話器を置いた。

一方、その部屋の外では…。

『坊ちゃんと客の様子は?』

「問題ありません。楽しんでおられるようです」

ドアに寄って耳を澄ませた黒服の一名は、少年達の明るい声を聞きながら、シオンの通信に笑みすら浮かべて応じていた。

『そいつは結構。警護はその調子でゆる〜く続行しろ。水をささねぇようにな』

「了解です」

そんなやりとりには相変わらず気付かぬまま、飲み物が到着して思い思いにソファーに腰を下ろしてくつろぎ始めた少年達

は、キヌタへの質問責めをようやく緩めようとしていた。

「本物のお坊ちゃんなんだなぁ」

細身で背が低く色黒の人間男子が感心したように言い、対照的にやや大柄で色が白い太り気味の少年が頷く。

「でもさ、金持ちって威張り腐ってるイメージあるけど…」

「ああ。何かあんまり偉そうじゃないのな」

しげしげと珍しげな眼差しを注いで来る客人達に、キヌタはコーラを啜りながら首を傾げて見せる。

「そうなの?お金持ちって威張るイメージ?」

「だいたいそんな感じするって。お前さ、金持ちの学校に通ってるだろ?周りのヤツらってどーだよ?威張り腐ってねーか?」

キンジのこの言葉に、キヌタは眉根を寄せて考え込んだ。

「…どう…かな…?派閥みたいなのはあるけど…、ぼくは良く判らない」

「判らないって何で?」

「超大金持ちの鼓谷の子供なんだし、一番偉ぶれんじゃねーの?」

キンジの友人達からそう問われると、キヌタは少し顔を曇らせた。

「ぼく…、学校に友達は居ないから…」

キンジは先に聞いていたので驚かなかったが、他の面々はそうは行かなかった。

「学校に友達居ない!?」

「何で?虐められてんのか!?」

「え?いや、そ、そういう訳じゃないんだけど…」

言葉に詰まるキヌタ。これは彼もどうしてそうなってしまったのか理解していないので、説明のしようが無い。

同じように裕福な家庭の子が通うキヌタの学校では、家の規模ごとに派閥にも似たような物ができる傾向があった。

一部の社会人が、自分に相応しい、釣り合うと思われる階級の者と懇意になる現象にも似たそれは、そのまま親達の生き方

の縮図とも言えた。

その中でもキヌタ…つまり鼓谷家の子だけは、彼ら裕福層の子供達から見ても完全に別次元の存在だった。

他の生徒達は子供ながらに、財力権力影響力と桁外れな鼓谷の存在感を敏感に察しており、キヌタにも萎縮に近い遠慮をし

てしまった。

そうして、入学からしばらく声をかけられない内に、キヌタは本人の気持ちとは無関係に、周囲の遠慮によって孤高のポジ

ションを確立させられてしまったのである。

本当はキヌタと仲良くなりたい者も居る。単純な興味にせよ、打算があるにせよ。

しかし親達は「鼓谷の子と仲良くしろ」と命じるよりも、子供の至らない振る舞いで天下の大財閥の不興を買う事を怖れ、

距離を取らせる傾向にあった。これがキヌタの孤立に拍車をかけている。

つまりキヌタは、虐められているなどという事は全く無くて、むしろ怖れられて距離を取られてしまっているのだった。

だが、大人の事情や力関係を知らない少年達にそこまでの推測ができるはずもなく、キンジの友人達は一様にキヌタに同情

した。

「じゃあ休み時間とかいつも一人?」

「テレビの事を話したりしないの?」

「うっわー!最悪だな金持ち共!」

「むしろ威張ってないから仲間はずれにされてたり…」

「有り得る!ぶるじょわんじー共め、性格が良いヤツは嫌いなんだ!」

「間違えてるぞ?ぷろじゃーじーだろ?」

「ブルジョワジーな。訂正で正解から離れさるって、どんな高等トラップだよ…」

憤懣やるかたない様子の少年達は、一斉にキヌタの学校の生徒達への文句を並べ立て、聞くに堪えない罵倒をしばし繰り返

した後、今度はキヌタに優しげな言葉をかけ始めた。

慰められるほど辛いとも不幸だとも思っていなかったキヌタは、むしろそれに戸惑ってしまうが、その態度がいじらしいと

感じられたのか、少年達はますますキヌタに同情を寄せるようになる。

強く生きろ。頑張れ。負けるな。俺達がついてる。

力強いが今ひとつピンと来ない励ましを受けながら、キヌタは助けを求めるようにキンジを見遣った。

「ま、だいたい判ったと思うけど、こーゆー単純単細胞の馬鹿共ばっかなんだわ。おれの周りのヤツらって。嫌んなるぜまっ

たく」

そう言ってニヤニヤしているゴールデンレトリーバーは、言葉とは裏腹に、むしろ誇らしげですらあった。



それから程なく、料理長渾身のチョコレートパフェと高級クラッカー、チョコやバニラのクリームを、使用人達がしずしず

と運んできた。

友達の来訪でキヌタがいつになく喜んでいる事を察しているらしく、皆が気合いを入れて少年達をもてなしにかかっている。

子供だろうと若い主の大事な客…。キヌタへの奉仕精神はそのまま彼らに対しても発揮された。

欲しがれば何でも買い与えられるのだが、興味を示さなかったのでゲーム機なども持っていないキヌタは、少年達をもてな

すために応接室の大画面テレビで映画を流した。

使用人達も話題作について話すためキヌタも興味を持ち易く、DVDについては品揃えが豊富…というよりも、かなり異常

な量を所有している。

映画館に赴くような外出要素が絡む行為を取る事が許されないため、キヌタは映画のほぼ全てをテレビ画面でしか見た事が

ない。

一度だけの例外は、母が存命だった頃…、まだキヌタが鼓谷姓ではなかった頃…、夏休み時期のアニメ映画祭りで、話題の

長編アニメを観た事だけ。

そのアニメのDVDも持ってはいるのだが、母を思い出して泣きそうになってしまうため、パッケージを手に取る事すら殆

ど無い。

少し前に話題になった映画をかけたまま他愛のない雑談を続ける少年達の中で、あまり話題に入り込めなくとも、キヌタは

嬉しかったし楽しかった。

学校に友達がいないなら、自分達が友達になってやろうじゃないか?

少年達がそう言い出してくれたので、恥ずかしいやら嬉しいやら、ひっきりなしに太い尻尾をモソモソ動かしては位置を変

えている。

その様子を面白がって、隣に座ったキンジはクッションのような尻尾にちょくちょくちょっかいを出す。

楽しい一時を静かに噛み締めるキヌタは、日がだいぶ傾いた頃にノックの音を耳にした。

「失礼しやす、坊ちゃん」

それまでに姿を見せていた使用人とは一線を画す、がっしりした体躯を黒服で覆ったマラミュートを目にして、少年達はお

喋りを中断し、一様に黙り込んだ。

が、マラミュートは目を細くして口元を緩め、少年達に丁寧にお辞儀してみせる。

「失礼しやすね、ご友人の方々」

緊張した少年達は、しかしシオンが思いの外低姿勢かつ砕けた口調だったので、警戒を緩めた。

「シオンさん!どうしたんですか?勉強の日でもないのに珍しい…」

キヌタの弾んだ声を聞き、少年達…特にキンジは「おや?」と眉を上げた。

シオンに対する彼の態度が他の使用人に対する物とは少し異なり、より親しみと気安さを感じさせる物だったので。

「たまたま近くまで来やしたんで、ちょいと顔を出しに…。ついでに言伝を頼まれまして、こうしてお邪魔させて頂きやした」

シオンはキヌタに親しみを込めて語りかけ、本題を切り出す。

「料理長がお伺いしたいそうでやす。ご友人達の都合について」

「都合?」

聞き返したキヌタはキンジ達をちらっと見遣る。一体何の話だろうか?と。

「ご友人達を夕食にお誘いしてはいかがでやしょうか?との事でやした。上等な牛が入ったそうで、坊ちゃんのお許しが頂け

て、ご友人達のお時間に余裕があるんなら、是非とも自信作のビーフシチューでお持て成ししたいと…」

「食う!」

シオンの言葉を遮ったその返事は、キヌタではなくキンジの口から上がっていた。

振り返ったキヌタは、キンジ以外の皆も食べたそうな顔をしている事を見て取ると、満面の笑みを浮かべてシオンに頷いた。

「では、早速そのように伝えやす。お帰りが遅くなっても良いよう、ご友人達をお送りする車も手配しやしょう」

「有り難うございます。…あの、良かったらシオンさんも…」

キヌタがおずおずとそう言ったが、シオンは微苦笑して首を横に振る。

「いや、あっしは仕事がありやすんで…。お気持ちだけ有り難く頂戴しときやすよ」

キヌタの言葉は嬉しかったが、自分が同席しては邪魔になると踏んで、シオンは遠慮する事にした。

表向きの用事が済んで、キヌタと接触した面子をしっかり覚えたシオンは踵を返したが、一瞬…、ほんの一瞬だけ、その動

きを僅かに遅くした。

が、何事もなかったようにドアへ向かうと、挨拶して部屋を後にする。

そして、ドアのすぐ外で立ち止まったシオンは、顎に手を当てて考え込む。

(普通の子供達だと思ってたが…、一匹、毛色がおかしいのが混じってやがる…か?)

去り際に自分に注がれた視線に、ただならぬ物を感じていた。

それは、決して穏やかとは言えない人生を歩んできた、いわゆる暴力のプロであるシオンだからこそ感じ取れた、ささくれ

立った不快な感触…。

(敵意…。いや、ちょいと違うな…。むしろありゃあ「試してみた」って感じの…)

一方部屋の中では、ご馳走に預かれるとなって浮かれる少年達の中で、キンジだけが何やら考え込むような顔になっていた。

席に戻ったキヌタはその事に気付くと、

「どうかしたの?やっぱり都合が悪い?」

と、心配そうにゴールデンレトリーバーの顔を覗き込む。

「いや。そーゆーんじゃねーから。…ところで、今の黒服さぁ…」

キンジはキヌタを横目で見遣りながら訊ねる。

「そーとー強ぇんじゃねーのか?腕っ節」

これにキヌタは満面の笑みを浮かべ、大きく頷いた。

「うん!シオンさんはお父さんのボディーガードなんだ!武道の達人だって!英語も上手で、ぼくに教えてくれてるんだよ?」

「ふーん…」

気のない風を装って応じるキンジは、胸の内で呟いていた。

(ボディーガード?それでか?親しそうな態度でいながら、おれらをそれとなく観察してたように思えたけど…)

野性的な勘による物だったが、他の誰もが気付いていない事を、キンジだけは察していた。おそらくあの男は、キヌタに近

付いた連中が害になるかどうかを、直接見定めに来たのだろう、と…。

(おまけに、睨み付けてやった事にも背中を向けたまんまで気付いてたっぽい。武道の達人ってのは本当かもな…)

「どうしたの?ハトリ君…」

黙り込んだキンジは、キヌタが気遣うように訊ねると、

「いや、何でもねーよ。武道の達人って聞いて、ちょっとな」

「武道?それがどうかしたの?あ、もしかしてハトリ君も何かやってるの?」

「空手」

キンジはシュッと拳を繰り出して見せて、周りの少年達も得意げに頷く。

「え?皆も?」

「俺達全員、ガキの頃から同じ空手教室に通ってるんだ」

ブルドッグが代表して言い、キヌタは「へぇ〜!」と耳をピクつかせた。

「皆、空手教室の仲間だったんだ?」

「そういう事」

「ま、腐れ縁だよなぁ」

「でもって、間違いなくこん中で一番はおれだな」

キンジが当然のように言うと、仲間達は不満げに唸る。

「良く言うぜ。一番休むくせに」

「故障多いじゃんお前」

「うるせーなー、おれはデリケートなんだよ!」

いつも仲が良さそうに見えていた彼らの、親密さの中身が少しだけ窺えて、キヌタは羨ましくなった。

学校でも孤立し、習い事は家でのみマンツーマンで行われる彼には、共通した何かに打ち込む仲間という関係が眩しい物に

思えて…。



豪勢な夕食を振る舞われた少年達は、それを機会に部屋を移動し、キヌタの私室にやって来た。

教室ほどもある。と、以前キンジが漏らした物と同じ感想を口にした少年達は、広過ぎて片付き過ぎていて寂しさすらあっ

たキヌタの部屋を、居るだけで賑やかにしてしまった。

短いくつろぎの一時をキヌタの部屋で過ごした後は、いよいよ別れの時間。

土産にと自家製ジャムクッキーを持たせられた上でシオンが手配した車に乗せられ、少年達は家路につく。

「牛づくし美味かった!ご馳走さん!」

「今度はゲーム機持って来るから!」

「土産どうもなー!」

開けた窓からやかましく挨拶するできたばかりの友人達に、キヌタは満面の笑みで応じている。

その様子を整列して見守る使用人達も、若い主の楽しそうな様子を見て顔を綻ばせていた。

「じゃ」

「うん!お休みなさい皆!」

キンジが軽く手を上げ、キヌタが応じると、車はゆっくり走り出す。

門を出て走り去った車のテールランプが見えなくなるまで立っていたキヌタは、弛んだ胸に手を当てて、幸せそうにため息

をついていた。



その日をきっかけに、キヌタの生活は少し変わった。

キンジ達はキヌタの予定に合わせて週に一度のペースで遊びに来るようになり、キヌタはニコニコと笑みを浮かべている事

が多くなった。

使用人達も警護の者も、若い主の変化を嬉しく思い、キヌタが彼らとの雑談で困らないようにと、何かと話題を提供するよ

うになった。

特に変わったのは、二日に一度ほど、夜にキンジが訊ねて来るようになった事である。正式に、門と玄関を潜って。

親が放任主義のキンジは夜に出歩いても咎められないらしく、キヌタの習い事が終わる頃を見計らったようにふらっとやっ

て来ては、一緒に夕食を食べ、長話をしてから帰って行く。キヌタはこれを心の底から歓迎した。

「しかしアレだよなー。金持ちならゲーム機もソフトも買い放題だろ?何でいっこもねーのよ?」

「だってぼく、ゲームとか良く判らないし…。あ、でも将棋とかオセロなら結構得意だよ?」

「ボードゲームかよ…。何つーか、そーゆーすれてねートコはお前らしーけどさ」

「スレテネー?って、何?」

「ん〜…。上手く言えねーけど、汚れてねーっつーか、世間から浮いてるっつーか、とにかくまぁ変わってるトコがあるだろ

お前?普通と違う感じのトコがさ」

「変わってるの?ぼく?…体型は確かに普通よりやや太めだけど…」

「…「やや」と来やがったか、この真ん丸狸め…」

首を傾げるキヌタと、ニヤニヤ笑うキンジ。

ソファーに並んで座る二人の前では、コップに注がれたばかりのコーラが、微かにシュウシュウと音を上げている。

「ぼくから見ると、ハトリ君達も変わっているように見えるんだけど…」

「おれらは普通だよ」

「そうなのかなぁ…?」

眉根を寄せるキヌタは、学校の同級生達とキンジ達を比べてみる。

親しげに、品良く接しながらも、打算やしがらみで心から打ち解ける事はまずない上流階級の子供達…。

言動にはがさつな所もあるが、開けっぴろげで懐っこく、誰でも受け入れてくれるキンジ達…。

キヌタがこれまで接した事のないタイプのキンジ達は、彼にとっては新鮮さと驚きを与えてくれる存在だった。

「ところで…」

キンジはコーラを一口飲むと、キヌタの肩に腕を回し、しなだれかかる格好で体重をかけた。

キンジの匂いを傍で嗅ぐだけでなく、感触と体温を肌で捉え、キヌタはドキっとする。

「いつまで「ハトリ君」なんて呼ぶ気だ?下の名前で呼べって」

「え?えっと…、キンジ…君?」

身を固くしてドギマギしながら応じる狸に、ゴールデンレトリーバーは「おいおい…」と苦笑いした。

「呼び捨てにしろって。な?キヌタ!」

そう言われても、誰かを呼び捨てにした事のないキヌタは、今回ばかりはキンジに言われた通りにする事に抵抗を感じた。

そして…、

「あ…、それじゃあ…」

少年達の中で数名が口にしていたキンジの呼び名を思い出し、おずおずと呟いてみる。

「…キンちゃん…とか…」

少しの間黙っていたキンジは、やがて「ま、それでも良いか」と妥協した。

 そしてキンジが帰って行くと、風呂に入ったキヌタは、

「…キンちゃん…。…えへへ…!」

でれっと弛んだ顔をして、何度も何度も、友達の呼び名を繰り返し口にしていた。



同じ歳の少年達との交流を経て、キヌタは徐々に、しかし確実に明るくなっていった。

そして、その状態が一ヶ月、二ヶ月と続き、七月に入ったある日の事。

少年達がキヌタの私室で、持ち込んだテレビゲームに興じていた時、事件は起こった。

『坊ちゃん!お兄様がおいでになられました!』

内線電話で使用人にそう告げられた時、キヌタは一瞬、何を言われているか判らなくて首を傾げていた。

毛嫌いされている自分が暮らすこの屋敷に、兄達が来る事自体がまず無かったので。

「お兄さん…が…?えっと、どっちの…」

『麻貴(あさたか)様です!』

長兄の顔を思い浮かべたキヌタは、さっと表情を硬い物に変え、友人達を見遣った。

「…お、お兄さんは何処に?応接室ですか?」

『いいえ!そちらに向かっておいでですので、急いで…』

内線の向こうで慌てている使用人の言葉が終わらないうちに、キヌタの部屋のドアが、ノックも無しにいきなり開けられた。

ゲームに熱中していたキンジ達は、あまり興味も無さそうにそちらをちらっと見遣ったが、スーツ姿のその男が使用人では

ないと気付くと、一斉にそちらへ視線を固定した。

来訪者は、厳つい顔とごつい体付きの、人間の男だった。

がっしりした体躯をしており、175センチのキンジより背が高く、体も大きい。

その男こそが、キヌタとは歳が一回りも離れており、当年で27歳になる鼓谷の長男だった。

「お、お兄さん…。ご無沙汰しております…」

キヌタの固い声を聞いてキンジは悟る。これが話に聞いていた正妻の子…、キヌタとは腹違いの兄なのだろうと。

弟の挨拶を無視し、長兄のアサタカは少年達を睥睨した。

その視線を、キンジは反感を持って受け止める。

下らない物を見るような…、否、むしろ汚らわしい物を見るような、侮蔑すら込められた不快げな視線を…。

「何だ?このガキ共は…」

アサタカはギロリとキヌタを睨む。それだけで、小心な狸は肥えた体をぶるるっと大きく震わせた。

「警護の者の噂を小耳に挟んで来てみれば、本当だったとはな…。マリバネの馬鹿め、一体何をしているのか…」

キンジは静かに、しかし明確な敵意を持って、友人の兄を観察した。

威厳がある…とは言い難い。粗暴で粗野な印象が強い。口調すらも威厳を出そうと背伸びしているように感じられた。まる

で、借り物の衣装で着飾り、虚勢で胸を張っているような印象がある。

上等そうな服は着ているものの、中身が伴わない安っぽい男…。そう、キンジは判断する。

そして少しばかり驚いてもいた。まさかキヌタと半分血が繋がっている男が、ここまで別物だとは思ってもみなかったので。

アサタカは不躾に値踏みするキンジの眼差しにも気付いておらず、蔑みの視線をキヌタに注いでいる。

「妾の子の分際で、許可もなく勝手に屋敷に上げたのか?曲がりなりにも鼓谷の敷地だぞ?ここは。判っているのか?ん?」

「は、はい…」

「勝手が通る身分だと思っているのか?少しは自分の立場を弁えたらどうだ?」

「済みません…」

すっかり小さくなってしまったキヌタを眺めるアサタカの目は、暗い嗜虐の光で濡れていた。

アサタカにとっては、キヌタが屋敷に招いているらしい友人の事など、本当はどうでも良かった。

だが、少々上手く行かない事があって苛々していたので、ちょっとしたはけ口として、キヌタを友人の目の前で罵倒してや

ろうと考えたのである。

突然の事に混乱している少年達をじろっと見遣ったアサタカは、身なりや顔つき、くつろいでいる姿勢などを見遣り、指摘

する事には困らなそうだと把握して、胸の内でほくそ笑む。

「まったく…。揃いも揃って品のない顔立ちだ。体中からあさましさが滲み出る。生まれも知れるという物だなぁキヌタ?」

「…!」

キヌタの体が震えた。

が、その震えがそれまでの恐れによるブルブルとした震えとは違う事に、アサタカは気付かない。

むしろ、そろそろ口を挟もうかと考えていたキンジの方が先に気付いた。

ピクッとした一度きりの震えをきっかけに、キヌタの雰囲気が変質し始めた事に…。

「貧乏人は貧乏人で群れていればいい。お前は一応鼓谷の末席に身を置く男なのだ。寄せる相手はきちんと選べ。あさましい

低級な輩にたかられてはかなわ…」

「撤回して下さい」

自分の言葉を遮る凛とした声がどこから聞こえて来たのか、アサタカは一度掴み損ねた。

キヌタの口が動くのを目の当たりにしていながら、である。

半眼にした双眸でじっと兄を見つめ、キヌタは静かに続ける。

「今の発言を撤回して下さい。ぼくの勝手は責められても仕方有りませんが、友達への侮辱は不当な物です」

そこには、おどおどした、腰の低い狸の姿は無かった。

背筋を伸ばし、胸を張り、しかしそれが自然体に思える姿勢で、キヌタは自分よりずっと背の高い兄を見つめている。

(へぇ…!こいつは面白ぇ…)

キンジは内心そう呟いた。彼の目には、居丈高なアサタカの中身がない虚勢より、背筋を伸ばしたキヌタの方がよほど自然

体に映り、しかも格上に感じられている。

いつでも肯定的で従順な態度を崩さなかったキヌタが初めて見せた、他者に正面から抗して譲らぬ態度は、ゴールデンレト

リーバーの興味を強く引いた。

一方、アサタカは戸惑っていた。怯んだとも言える。

キヌタがこれまでにこうして口答えした事など、一度も無かったのだから。

だが、次第にその胸の内で怒りの火が勢いを強め始める。

噛み付くはずのない小動物に抗われた。その事で脆い自尊心が傷付けられて。

「口を慎めよキヌタ?貴様は程度の低い貧乏人共を勝手に屋敷に上げた。それだけで糾弾される立場にある。父上にご報告し

たら、一体何とおっしゃるかな?」

尊大な口調を苦労して保ち、恫喝するような声音で語りかけるアサタカに、しかしキヌタは怯まずに応じた。

「結構です。お手間でなければどうぞご報告なさって下さい。もっとも、友人達の来訪については初回の来訪予定に際してお

父さんにご報告しております。その後、慎むようにとも言われてはおりませんので、その必要は無いかと思われますが」

すらすらと口にするキヌタは落ち着き払っていたが、アサタカの顔は真っ赤になる。

「調子に乗るなよキヌタ!貴様は父上が何も言わなかったのを都合良く解釈しているだけだ!程度の低い者共を屋敷に上げる

事など、認めるはずも無いだろうが!」

尊大な仮面をかなぐり捨て、憤怒の形相で怒鳴り声を上げたアサタカに対し、キヌタは静かに切り返す。

「お言葉ですが、お父さんは常々、止めるべき事についてははっきりとおっしゃいます。何もおっしゃられていないのは、ぼ

くの判断に委ねるという意味を込めてでしょう。勿論、自己責任において」

キンジが感心しつつ、それ以外の少年達がハラハラしつつ見守る中、キヌタは軽く息を吸い込んでから「それと…」と、少

し目を細めて先を続ける。

「繰り返しになりますが、友人達への侮辱的発言を撤回して下さい。生まれや裕福さで相手を卑下するような発言は如何な物

でしょうか?ぼくもお兄さんも「たまたま裕福な家に生まれただけ」です。努力して得た訳でもない「生まれ」を引き合いに

出して彼我の差に優位性を見出すのは間違っています」

一息に言い終えたキヌタの前で、アサタカの顔色は赤を通り越してどす黒く変色する。

キヌタにその気はなかったが、父親には到底叶わない自分の力量と、才覚の無さを指摘されたような気になって。

その上、頭に血が昇り過ぎてキヌタにまともな反論をする事すらできない。

「ただ…」

怒りのあまり言葉も出せないアサタカに対し、キヌタは静かに言葉を紡いだ。

「まだ家に貢献もせず、口出しも許されない、養われるだけの身のぼくが勝手な真似をした事は確かです」

唐突にキヌタが折れる姿勢を示した事で、噴火寸前だったアサタカは僅かに平静さを取り戻す。

「ここも元はお兄さんの勉強用の別宅だった訳ですから、お伺いを立てるべきでした。改めて考えれば、ぼくの勝手に対して

のお怒りもごもっともです。反省しています…」

無意識に、そして巧みに相手を立てるキヌタの弁術に、キンジは感心を通り越して舌を巻いた。

これまでこんな対処をする者を見た事が無かった。ただ論破して押さえつけるより、よほど難しく、よほど効果的である。

それも、自分より遙かに年上の大人を相手取っての事なのだから、見ている側は痛快ですらある。

(こりゃ兄貴よりキヌタの方が数段上手だなー。面白ぇー!)

キンジはニヤつき、他の少年達も面白がっているように目を光らせて兄弟のやり取りを見守っている。

「…ふん…!」

やがてアサタカは、不快そうに鼻を鳴らして踵を返した。そしてドスドスと足取りも荒くドアに向かうと、

「…この事は大目に見てやる…。だが、今後勝手な真似は慎め!いいな!」

そんな怒鳴り声を残して部屋を出て行った。

「有り難うございます。お兄さん」

乱暴に閉められたドアに向かって慇懃に一礼したキヌタは、

「うっはー!やりやがった!」

「すっげーかっけー!」

少年達に取り囲まれ、ビクッと顔を上げた。

「痛快だったぜー!あのクソ兄貴はキヌタに感謝しねーとな!」

キンジが馴れ馴れしくキヌタの肩に腕を回すと、少年達は一様に不思議そうな顔になる。

「わっかんねーかなー?コイツな、手加減?みてーなのしてやってたんだよ。言い負かして怒らせる事もできたんだろーに、

最後は自分も悪かったって言って顔立ててやってたろー?」

「…そう…なのか?」

ブルドッグはまじまじとキヌタを見遣る。そして気が付いた。

「お、おい…。どうした?」

おろおろするブルドッグの視線を追ったキンジは、ビックリして目を丸くした。

キヌタは、口を引き結んでギュッと目を瞑り、ポロポロと涙を零していた。

「ごめんなさい…。お兄さんが…酷い事言って…」

声を震わせるキヌタは、いつも通りの気弱で小心な少年に戻っていた。たった今見せた堂々とした振る舞いが幻だったよう

に…。

キンジは少しの間黙り込んでいたが、キヌタの体の向きを変えると、ガバッと、正面から抱き締めた。

「ありがとよ!おれらの為に怒ってくれて!」

キンジはぶっきらぼうに言った。自分の照れくささを隠すように、そしてキヌタの泣き顔を隠してやるように、頭を胸に抱

える格好で。

「だな!感謝感謝だ!」

「兄ちゃんと喧嘩させちまって、ごめんなー?」

キンジに抱き締められたまま、口々に言う少年達に背中や肩をポンポン叩かれ、キヌタは口を引き結んで嗚咽を堪える。

申し訳なく感じていた。自分が嫌われているからこそ、遊びに来てくれた友達にまで不快な思いをさせてしまった、と…。

なかなか泣きやまないキヌタを強引にソファーに連れて行き、その肩を抱きながらキンジはニヤリと笑う。

「おーっし!んじゃキヌタが元気出せるように、こっからは猥談タイムだなっ!おいフルタ、一番手で縦笛しゃぶりの話、行

けよっ!」

「馬鹿野郎!お前から行けよキンっ!」

…これでも、キンジは礼をしているつもりであった…。



突然の兄乱入というアクシデントは、キヌタの懸念に反して少年達の間に溝などを作らなかった。

それどころか、繋がりをより深める結果となった。

あの一件でキヌタが見せた態度と姿勢で、少年達は以前と変わらなく接しながらも、この気弱そうな御曹司に一目置くよう

になったのである。

キヌタにはキヌタの苦労がある。ただ羨ましいだけの存在ではないと知ったせいか、物珍しさと同情と、そして確かな友情

が、彼らの間をしっかりと繋いでいた。

「明後日から夏休みだ」

その晩、いつものようにふらっとやって来て夕食をご馳走になったキンジは、キヌタの部屋でくつろぎながら呟いた。

「うん。そうだね」

並んでソファーに座り、テレビを眺めながら頷いたキヌタは、不意に何か思い出した様子でキンジの顔を見遣った。

「あの、キンちゃん?」

「ん?」

横を向いたキンジに、キヌタは首を傾げたあどけない仕草で訊ねる。

「ズリネタって、何?」

「あぁん?」

唐突な質問に、キンジは面食らう。

「ほら、この間サワマっちゃんが言ってたじゃない?永久ズリネタがなんとか…」

「…あー…。ってか判んねーのかよ?」

キンジは面白がっている様子でニヤニヤする。

「ズリネタってのはだな、オナニーのオカズの事だよ」

「オナニー?って何?そう言えば時々言ってたねソレ?えっと…、オカズって?」

キヌタが重ねて訊ねると、キンジは胡乱げな顔つきになった。

「何って…、お前からかってんのか?」

「え?いや、からかってるつもりは無いけど…。え?聞いたらまずい事?」

キヌタにはふざけている様子も見られないので、キンジは「ほー…」と、むしろ感心してしまった。

「そっか。お坊ちゃん方はオナニーって呼ばねーのかな?えーと…、上品な言い方だと…。ん〜…。あ!そうそう!自慰って

言うのか!」

「じぃ?」

ますます訳が判らない様子のキヌタ。もはやキンジも笑ってはおらず、表現に困ってしまった。

「いや、あのな…。あー、何て言えば伝わるんだ?…センズリ?…これも駄目か?判んねー?そうか、困ったな…。あー…、

ほら…、ああもう!言葉探すのめんどくせー!アレだよアレ!ナニしごき!まったく、アレの事は何て呼んでるんだお前?」

「ナニシゴキ???」

不思議そうに呟いたキヌタの顔を見て、キンジはふと思った。

(まさか…。いや、そうなのか?こいつ言葉以前にオナニー自体を知らねーのかな?)

「…そういや、お前いつも猥談の時きょとんとしてたっけ…」

まじまじと見られたキヌタは、珍しがられている理由が解らず首を傾げっぱなしだった。

「お前、夢精は知ってるか?」

「うん。保体の授業で習ったから。ぼくはまだだけど。…あ…!」

ここまでの聞き慣れない単語群がようやくそっち方面に関係する事なのだと気付いたキヌタは、カーッと顔を熱くする。

「つまりだな、何つーかこう…、自分でナニ弄って精液を出す…とまぁ、簡単に言うとそういう事」

「ナニって何?」

「お前つくづく…!…はぁ…、まーいーや…。ナニってのはチンポの事。自分でチンポ弄って射精すんのがオナニー」

「え?え?えっと…、な、何でそんな事するの…?」

「何でってお前…、気持ち良いからだよ!」

面倒くさくなってきたキンジは、「何で頭良いのにこんな事は知らねーのかなー…」と天井を仰いで零した。

「気持ち…良いの…?」

「まーな。病みつきになるぜ?」

おずおずと訊ねたキヌタに応じながらも、キンジは説明に困って考え込んだ。

「お前さ、チンポ硬くなってムズムズした事、あるだろ?」

「え?えっとぉ…」

キヌタは考え、そして頷く。横になりながらキンジの事…、特に肩を抱かれたり、抱き締められた時の事を思い出すと、逸

物が大きくなって硬くなる事を思い出しながら。

(楽しい事や、嬉しい事を思い出すと硬くなるのかな?)

そのように考えたキヌタは、

「ソレだよ。エロい事考えて硬くなったナニをしごいて射精すんの」

キンジの言葉に「えっ!?」と大声を上げて驚いた。

(え、エロい事…?き、キンちゃんの事考えて硬くなって…、あれ?あれ?キンちゃんの事を考えるのはエッチな事???)

訳が判らなくなって混乱しているキヌタに、キンジは呆れ顔で続ける。

「お前さ、エロい写真の一枚も持ってねーんだろ?」

「な、何でそんな事…」

「そっち方面の事にあんま興味ねーんだろ?」

「そ、それは…、そうなのかも…」

もしかして自分は「遅れている」のだろうか?そんな考えが頭を過ぎり、キヌタは恥ずかしくなって顔を伏せる。

「そっかそっか。なるほどなるほど」

キンジはそう呟くと、目の奥に興味の光を湛えた。

「…じゃ、教えてやろうか?オナニーの仕方」

顔を上げたキヌタは声すら出さなかった。キンジの言葉がどういう意味を持っているのか、すぐには判らなかったのである。

「おし、ここだと何だし…寝床でやろーぜ」

廊下側のドアをちらっと見たキンジは、次いで首を巡らせ、寝室の出入り口を見遣る。

「え?そ、それって…、…おちんちん…、弄るっ…て…?」

困惑しているキヌタの顔が、どんどん温度を上げて行く。

他者に股間を晒す抵抗感と恥ずかしさは尋常な物ではない。だが、キンジが肩に腕を回すと、抗い難い興味と期待に囚われ

てしまう。

キヌタは無自覚だったが、彼はキンジに対して恋に近い感情を覚え始めていた。

だが、彼に抱く自分の気持ちを恋に似た感情と把握する事は、性的な事柄に関心を持たず、触れる機会すら無く、当然のよ

うに恋愛未経験のキヌタには難しかった。

初めて出会った、破天荒で野性的な彼のいかにも自由そうで飄々とした身ごなしに、言動に、雰囲気に、新鮮な魅力を感じ

ている。

そして、友達になってくれた事、友達を増やしてくれた事に対して深く感謝もしている。

彼の強烈な個性に惹かれたのは、キヌタが長らく籠の中の鳥のように自由が無い生活を送り、外界に触れて来なかった事が

原因となっている。

「特別サービスだからな?恩に着ろよ?」

耳元にそんな言葉と息を吹きかけられ、キヌタは首筋の毛を逆立てながら、丸い耳をピクピクと震わせた。

キンジはさっと立ち上がると、キヌタの手を取って立ち上がるよう促す。

ゴールデンレトリーバーは強引に腕を引き、まごついている狸を軽々と立ち上がらせると、ノリノリの様子で寝室へ向かう。

こちらも広々とした寝室には天蓋付きの大きなベッド。歩み寄ったキンジはシーツが整えられたその上にキヌタを座らせた。

縁に腰掛ける格好になったキヌタは、立ったままのキンジを不安げに見上げる。

「んじゃまずベルト外せよ。で、ズボンとパンツを膝まで下げろ」

恥ずかしさで抵抗感があるキヌタが、しかしやがて持ち前の従順さを発揮してベルトを外しにかかると、キンジは満足げに

頷いた。

そして、やがて顕わになったキヌタの股間を見つめ、「ふぅん」と声を漏らした。

太腿を寄せて足をきつく閉じているキヌタの股ぐらには、堆積した皮に埋もれた小さな陰茎がちょこんとついている。

「股、ちゃんと開け」

「え?で、でも…。恥ずか…しぃ…」

ぼそぼそと返したキヌタに、キンジは「おいおい。それじゃしてやんねーぞ?」と応じた。

その直後、キヌタの目に微かな怯えが走った事に、めざといキンジは気付く。

(…ふーん…。嫌よ嫌よも好きの内…ってか?…いや、ちょっと違うか…)

キンジは少し考えてから、殊更にぶっきらぼうな口調で喋り始めた。

「せっかくやってやるって言ってんのにさー!そーゆー非協力的な?反抗的な?態度とか取られるとさー。こっちも萎えるっ

てかなんてーか…」

「え?は、反抗だなんてそんなっ…!」

キヌタが少し狼狽した様子を見せると、キンジは確信しながら続けた。

「止めるかやっぱ?嫌なんだろーし?無理にする事ねーよ。あーあ、何かがっかり」

「ま、待って!待ってキンちゃん!」

キンジが踵を返しかけると、キヌタは恥ずかしさを堪えて足を開き、股ぐらを全て晒した。

キンジはそれを見て「良い子だ…」とニヤついた笑みを浮かべつつ、ソコを子細に観察した。

テプンと水袋のように柔らかく垂れた下腹部の贅肉。その下にムチッと張った三角のエリア。その下端付近で被毛と贅肉に

埋もれながらピコンと顔を覗かせている陰茎…。キンジの視線は、その下へと注がれる。

竿の短さと小ささに反して睾丸は標準の倍近くあり、キンジを感心させた。

「ナニちっちぇーなー…」

「そ、そうなの?」

「ああ。可哀相なぐれー」

キンジの言葉に、キヌタは少なからずショックを受けた。

大きさの基準については判らない。だが、小さいという事は子供っぽいという事なのだろうか?やはり自分は遅れているの

だろうか?そんな不安と恥ずかしさが、弛んだ胸の内側を満たす。

しょげているキヌタを慰める事もなく、キンジはニヤニヤと笑っていた。

彼自身も初めての経験だったが、驚きながらも楽しんでいる。

先日兄に叱られていた彼がビクついている時は、こんな事は無かった。

しかし今は、自分の言動でキヌタが恥ずかしがったり、哀しそうにしたり、落ち込んだりする度に、嗜虐心が心地よく刺激

されている。

(あー。おれってサドなのかなー?何かこう、キヌタをもっと虐めたくなって来る…!)

この時こそが、キンジが自分の性癖の傾向について自覚した瞬間であった。

元々相手を屈服させる事は嫌いではない。空手の試合で勝利した際に覚える快感は、生来冷めやすくて投げ出しやすい彼に

空手を続けさせる一因となっている。

だが、キヌタへの言葉責めと彼の反応は、それらとは比較にならない達成感と快感をキンジにもたらしていた。

「みっともねー小ささだなー?これじゃあ誰にも見せらんねーだろ?」

「う…、み、みっともない…の?ぼくの…」

「不幸なサイズ…とも言えるな」

「そう…なんだ…?」

キヌタはすっかり落ち込んで、視線を自分の股間に落としている。

「子供のチンポだよなー、完全に。こりゃひでーよ」

「う…。うう…!」

蔑まれたキヌタの目に、うっすらと涙が浮かぶ。

頭の中で「言い過ぎだろう」「慰めろ」などと良識が囁くが、キンジはそれを無視した。無視せざるを得なかった。

それほどまでにキヌタの反応が愛くるしく感じられ、得られる嗜虐快感も甘美過ぎて。

一方キヌタも、泣きそうになりながら戸惑っていた。

哀しいはずなのに、恥ずかしいはずなのに、辛いはずなのに、気持ちの奥深く、捉え切れない程本能に近い部分が、もっと

蔑まれたい、貶されたいと願っている事に…。

(ど、どうしちゃったんだろう?ぼく…。キンちゃんに、もっと、もっと虐めて欲しい…)

この時こそが、キヌタが自分の性癖の傾向について自覚した瞬間であった。

兄や義母に貶されたり蔑まれたり怒鳴られたりしてもただただ辛いだけだった。

だが、キンジの言葉責めは彼の心の深い部分を揺さぶり、不思議にもそれに快感のような物すら覚えていた。

やがてキンジは堪えきれなくなったように屈み込み、キヌタの陰茎に手を伸ばす。

「…っ!」

反射的に脚を閉じたキヌタは、しかしキンジの視線を受けて怯んだ。

「んー?止めるかー?止めるんならそれでもいーけどー?」

「う、ううん…」

我慢して脚を開いたキヌタは、即座に「ひっ!」と甲高い声を漏らした。素早く動いたキンジの指が、分厚い皮に覆われた

亀頭を摘んだせいで。

ゴールデンレトリーバーの指は、巧みな力加減でクニクニ、コリコリとキヌタの陰茎を弄る。

初経験の刺激に、キヌタは堪らず脚を閉じて、「ひっ!ひんっ!ひ…!」と、鼻にかかった声を漏らした。

今度はキンジも脚を閉じたキヌタを咎めなかった。既に摘んでいる事もあるが、何よりも、その感触に神経を集中させてい

るせいで。

こうして他人のモノを取り扱うのは、実はキンジにとって初体験ではない。

キンジと共にこの屋敷に遊びに来る少年達は、性的快楽を求めてお互いのモノを弄り合うなどの実験を繰り返している。幼

い頃からの知り合いという事もあって性器を見せ合うのは勿論の事、触れ合う事にも初めから殆ど抵抗感を持っていなかった。

よって、今では全員が女性に興味を持ちつつも、そこはかとなくホモっ気も持ち合わせていた。

特にキンジは好奇心旺盛な事もあり、少年達の中では一際積極的で、知識もある。

今日こうしてキヌタにオナニーの指導を申し出ているのも、そんな土壌が彼の中には形成されていたからであった。

「き、キンちゃ…!キン…ちゃんっ!やめっ…!やめてぇ…!」

亀頭を指で挟まれ、圧迫されながら揉まれているキヌタはガチガチに身を固くしており、力が入り過ぎて全身を小刻みにプ

ルプルと震わせている。

「あーん?止めていーのか?」

ねっとりと、まとわりつくような口調で意地悪く訊ねるキンジが、嗜虐の光を帯びた目でキヌタを見上げる。

心の底では止めて欲しくないキヌタは、期待と困惑に濡れた瞳でキンジを見下ろす。

「や…、やめ…ないで…。ごめんなさい…」

小声で囁くキヌタに、キンジはニヤリと下卑た顔つきで笑って見せた。

「へへへ!好きもんだなーお前。良い子ちゃんぶってる割に、ココは淫ら…ってか?えぇおい?」

「ふぐぅっ!」

キンジの指がグッと強く亀頭を圧迫し、キヌタはきつく目を瞑り、呻き声を噛み殺す。

「どーした淫乱狸?声出ちまうか?んー?」

「ひ…、ひにぃ…!」

「どこまで我慢できるかねー…。ほれほれ、女みてーな声が漏れてるぜ?」

「はひ…!はっ…!ひんぎぃいいい…!」

キンジの言葉責めはまだ底が浅く、ボキャブラリーも少ない、たどたどしさが抜けていない物だった。

それでも恥辱と刺激に耐えるキヌタは、背筋にはゾクゾクと寒気にも似た、下っ腹にはモヤモヤと籠もるような、快感と快

楽を覚えている。

不慣れな亀頭刺激は心地よさより苦痛が強く、陰茎の付け根から下っ腹の内側へジンジンと響き、尿意すら催している。

すっかり硬くなって最大まで膨張したキヌタの陰茎は、それでも皮をすっぽり被っていた。

キンジの手はやがてソレを覆う形で筒を作り、やや乱暴にしごきはじめた。

「はっ!はひっひゅ!ひひゅひゅっ!」

それまでのジワジワした物は打って変わった、ピストン運動でもたらされる絶え間ない刺激に、キヌタは息を乱す。

吸い込む息と吐き出す息がどっち付かずのまま、浅く、速く、不規則に、口の隙間と鼻から出入りする。

連続動作を瞬時にも途切れさせる事なく、キンジはキヌタの陰茎をしごき立てる。

経験はあるが慣れてはいない手の動きは、ぎこちなさを残しながらも熱情をもって執拗にキヌタのそれを刺激する。

そしてキヌタは、不慣れな刺激に耐えかねて徐々に前のめりになっていった。

陰茎への刺激と下腹部の疼きを堪え、腹を抱えるように背を曲げたキヌタは、屈んでいるキンジの筋肉質な肩に両手を乗せ、

体を支えた。きつく目を瞑っており、歯を食いしばった口は唇を捲りあげている。

歯の隙間から「くふーっ!くふーっ!」と息を漏らすキヌタは、

「んくっ!?」

突然ブルッと身震いし、全身をこれまでにないほど硬くした。

キンジの手の中で最大まで怒張した陰茎が、脈動しながらググッと反りを強めたかと思えば、次いで白い奔流が迸る。

それはまさに、「溢れる」といった表現が適切だった。

放出でも、漏洩でもない。大きな玉袋で作られ、溜め込まれていた大量の精液は、包皮の先端から溢れ出し、キンジが作っ

た手筒の上端を乗り越える。

どぶっと溢れた精液は、キンジの手も、キヌタの股ぐらも、その下のシーツも、盛大に汚した。

「うっ!うううっ!んうぅっ!」

どぷっ、どぷっ、と溢れ出る精液。精通は込み上げる快感でキヌタの脳をとろけさせる。

「すっ…げぇ…」

流石のキンジも驚きの射精量を目の当たりにして、目を真ん丸にしていた。

じわりと被毛に染みるキヌタの精液は、陰茎をしごいて熱が籠もっていた手の平には生温い感触をもたらしたが、外気に触

れていた手の甲側にはかなり暖かく感じられる。

右手全体をすっかり汚した精液がポタポタと滴って行く様をしばし見つめた後、キンジは視線を上げた。

目に涙を溜めたキヌタは半ば放心状態で、自らの股間をぼーっと眺めている。

「…どうだ?」

言葉少なくキンジが訊ねる。

「…う…ん…」

言葉少なくキヌタが応じる。

強烈な快感の余韻と心地よい気怠さが、キヌタの顔をトロンと弛ませていた。

口の端から涎が垂れているが、今はその事すらどうでもいいのか、それとも気付いてすらいないのか、キヌタはキンジの肩

に置いた両手を動かそうともしない。

キンジはそっとキヌタの股間から手を放すと、ぬとぬとした精液にまみれた手を蠢かせ、「ティッシュくれ」とキヌタに突

き出して見せた。

億劫そうにのろのろと身を横たえて腕を伸ばし、ベッドサイドのティッシュボックスを掴んだキヌタは、まだ乱れている息

で弛んだ胸と腹を上下させていた。

その、伸びたせいで無防備に顕わになった鳩尾へ、キンジは何となく、汚れた手をなすりつけた。

身震いしたキヌタは、体を戻し、汚れた腹をぼんやりと見下ろす。

その手に掴まれたボックスからティッシュを抜き取り、キンジはべたつく手を手早く拭った。

とりあえず滴らない程度に拭い取った後、精液まみれのティッシュの滓で汚れた手を見て顔を顰めたキンジは、夢見心地の

キヌタに視線を戻す。

「本当はこいつを一人でやるんだ。それがオナニーな」

「…うん…」

理解しているのかいないのか、キヌタは上の空で鳩尾を見つめている。

「…変な匂い…」

「まぁ最初は確かにビビッたな。独特な匂いだから」

のろのろと顔を動かしたキヌタは、キンジの汚れた手を見て、「ごめんなさい…」と呟いた。

「キンちゃんの手、汚れちゃった…」

「ま、オナニーってのはそういうモンだからな。…まさかこんなに出るとは思わなかったけどよ…」

余韻に浸るキヌタと、行為を反芻するキンジは、それからしばし黙りこくった。

日が暮れており、冷房がきいているとはいえ、今は北街道も夏である。贅肉を分厚く纏ったキヌタの体はじっとり汗ばみ、

キンジも少し体を湿らせていた。

しばしの間黙り込んで、自分の胸の内を不思議がりながら見つめ直していた少年達は、やがてちらっと目を見交わせた。

「…あのさ…」

「…あの…」

同時に発した言葉をぶつけて、キヌタはキンジに先を譲る。

「キヌタ、さ…。もしかしてマゾっ気あるのか?」

「マゾ…マゾヒストって事?…ど、どうなんだろう?でも…」

キヌタは戸惑い、視線を落とす。その股間では、一度は萎えた小さな陰茎が、精液にまみれてひくひくしながら半勃ちになっ

ていた。

「…そうなのかも…」

「…そっか…」

キンジはムラムラした物を堪えながら、キヌタに告げた。

「おれはたぶん、サドだ。今そう思った」

「サディスト?」

「あくまでも、たぶんだけどな」

キンジは再び大きくなりつつあるキヌタの陰茎を、指先で少し強めにピンと弾く。

「ひゃわっ!」

「おめぇ絶倫だなぁ。ナニはちっちぇーのに、ザーメンの量がすげー事すげー事…」

キンジの口調は、行為の最中から微妙な変化を見せ、より砕けてがさつな物になっていた。

自覚が無いまま、ほんの少し距離を詰めずにいた大財閥の御曹司との隙間が、淫らな行為を通して埋まっている。

「…もう一回やるか?」

「…え?」

快感の良いんでまだトロンとしているキヌタの目が、ゴールデンレトリーバーの顔を映しながら大きくなった。

「今度はもっと上手く弄って…、いや」

キンジは言葉を切ってニヤリと笑い、

「もっと上手く苛めてやる…!」

「ひぎっ!?」

媚びと恐怖と期待を混ぜ合わせて目に浮かべているキヌタの胸を、乱暴に鷲掴みにした。



「風呂も広いのなー、おめぇんち」

初めて入る浴室を見回し、キンジは感心半ば、呆れが半ばの曖昧なため息をつく。

二度抜いたキヌタの精液は、盛大に彼自身の股間とキンジの手を汚した。

加えて、自らのモノをしごくよう強制したキンジも、たどたどしいキヌタの奉仕で射精しており、狸の顔を白の斑で染めて

しまっている。

これが初めてだったのだが、キンジはキヌタに頼んで、入浴も屋敷でさせて貰う事にした。でないと雄臭さが全く取れそう

になかったので…。

「キンちゃんの家のお風呂は違うの?」

堂々と股間を晒すキンジとは対照的に、肥えた体を丸めて恥ずかしそうに両手で股間を覆っているキヌタが、不思議そうに

訊ねる。

「おれの部屋と台所と便所と風呂を足してもここまで広くねーよ」

ぶっきらぼうに応じたキンジは、キヌタを振り返り、その体をじっと見つめた。

「な、何…?」

「…隠すなよ。二人きりだろ?」

「でも…、は、恥ずかしいよ…」

「いーから手、退けな。でねーとしてやんねーぞ?」

「う…!」

キヌタはしぶしぶ手を股間から除け、キンジはその弛んだ体を子細に眺めた。

不格好。そう言って良い弛んだ体付きだった。

身長に比べて肥り過ぎで、幅と高さの対比がおかしい。

脂肪が堆積した胸は垂れており、その下にはぷよぷよの贅肉が丸みを帯びさせた太鼓腹。

手足は短く太く、全体的に感じるずんぐりした印象をさらに強めている。

太くてムックリしている尻尾もまた、この体型には似付かわしく感じられた。

キヌタの体は基本色が黒と暗灰色なのだが、腕や脚の内側は白みを帯びて極々薄い灰色になっている。同様に、首下から腹、

股間にかけても白い被毛が密生していた。

先程弄った際にキンジも気付いたのだが、キヌタの被毛は体の外側…つまり頭部や背中、四肢の外側と白い腹側では感触が

違う。

栄養状態が極めて良いせいか、それともシャンプーのおかげなのか、はたまた綺麗好きなせいなのかは判らないが、キヌタ

の被毛は艶やかで柔らかい。

しかし腹や胸、首下や股間の毛は、それ以上に柔らかくてフワフワだった。

歩み寄ったキンジは、キヌタの胸にそっと触れる。

ビクッと身を震わせたものの、かろうじて踏み止まり逃げなかったキヌタに、キンジは「よしよし、良い子だ…」と囁きつ

つ、柔らかな胸を軽くもみしだいた。

何故こうまで気に入るのか判らなかったが、みっともない肥満体のキヌタの感触を、キンジは好ましく感じた。

脂肪と被毛の柔らかさは、鍛えられた自分の体とはまるで違う。

陽光を受ければ眩しい黄金色に輝くキンジの被毛も決して手触りは悪くないのだが、キヌタのような感触は無い。

それは種の違いというよりも、常々屋内に居て、日の光にも風にも長時間晒されていないキヌタと、屋外で活動する事が多

いキンジの、生活の違いが出た結果と言える。

温室育ちの狸と、自然の中を悪童達と駆け回っていたキンジは、こんな所まで違っていた。

一方、キヌタもまたキンジとの違いを、おどおどと、だがしっかり確認している。

筋肉質の体は男らしく、若々しく引き締まり、エネルギーを発散し続けているような印象がある。

胸は厚く、胴は締まってくびれており、豊かな被毛越しに触れれば、腹筋や胸筋の割れ目がはっきりと判る程。

覇気に欠けたキヌタとは違う活発な性格のせいもあるのだろうが、キンジは明らかに、外見的にも性格的にも目立つ少年で

ある。

ハンサムと言える顔立ちだが、一般的なゴールデンレトリーバーとは違い、思慮深そうで優しげな風貌とは言い難い。むし

ろそのふてぶてしい表情からは、野性的で粗野な印象を受ける。

そしてそれがキンジの魅力だった。

根っからの自由人で野性的で、媚びを知らず怯えを知らず、遠慮も慎みも無い。

それでいながら空気を読んで飄々と器用に立ち回るゴールデンレトリーバーは、問題児すれすれでありながら、友人の親や

教師達からも好かれている。

キンジは知っているのだ。自由である事は責任を伴うという事を。

自分の手に負える範囲で、自分が責任を取れる範囲で無茶をするからこそ、自分勝手でありながら皆から一目置かれ、好意

を寄せられ、時には羨望される。

同年代の少年との対人関係が希薄だったキヌタにとっては、そんな彼が太陽のように眩しい。

胸を揉まれながら浅い呼吸を繰り返すキヌタは、濡れた瞳でキンジを見遣る。ただの友達ではなくなりつつあるゴールデン

レトリーバーを…。

「そんな物欲しげな面しなくても判ってるって。でも先にシャワーな?お前の種汁臭くてかなわねーよ」

「ご、ごめっ…!」

謝ろうとしたキヌタの肩を乱暴に抱き、横に並んでシャワーに向かいながら、キンジはからから笑った。



生まれ育った環境も、その後の生活もまるで違っていた二人は、偶然出会って友達になった。

そして、外見的にも内面的にも似た所など殆ど無い二人は、惹かれ合う互いの気持ちを自覚した。

まるで形の違うパズルのピースが噛み合うように、二人は互いを必要とするようになった。

そして、雄のシンボルを弄り合った一夜から、キヌタとキンジはお互いの体に溺れるようになっていった…。

直後に夏休みを迎えて時間が余ったのでなおの事、キヌタは訪れるキンジに身を委ね、キンジはキヌタに奉仕させ、快楽を

追い求めた。

やがてキヌタは、キンジにとって他の友人達とは明らかに違う存在に変わってゆく。

独占欲すら働いて、キンジはキヌタとの関係を友人達にすら秘密にした。キヌタは男同士の性的接触など知らないのだと、

嘘をつき通した。

初々しさを留めながらも、恥ずかしさを堪えて従順に言いつけに従い、言葉で責められ、体を弄られ、泣きそうな顔をしな

がらも欲求に応える様は、他のどんな物にも代え難い物となっていった。

キヌタはキンジが来ない夜も、彼の事を思い浮かべながら自慰に耽るようになり、寝ても覚めても彼の事を考えて幸せを噛

み締めるようになった。

いつまで経っても刺激に耐性が付かず、あちこちが極めて敏感で、弄られればすぐに射精してしまうキヌタだが、異様な程

回復が早い。

日に何度でも間を空けずに射精するキヌタは、キンジも認めざるを得ない精力の持ち主だった。

脳みそを蕩かす快楽と、心地よく苛めてくれるキンジに、キヌタはすっかりのめり込み、依存するようになってしまった。

一ヶ月経つ頃にはキンジの性器に舌を這わせて奉仕するようになり、程なくキンジの性器を口に含むまでになった。

そして二ヶ月経った頃には虐げられるプレイが基本として定着し、その頃には尻穴を弄られるまでになった。

それでも他に悪影響を出してはいけないと、生来真面目なキヌタは過度に己を崩す事なく、勉学にはよく励み、成績も習い

事の成果も、以前と変わらない水準を…、否、以前よりも高い水準を維持できるようになっていた。

それはひとえに、生活に張り合いができたからである。

友人達との交流。キンジとの逢瀬。それらがキヌタの生活に彩りを与えるようになった。

だが、その暖かく甘美な生活がそう長くは続かない事を、程なくキヌタは知る事となる…。