ケージブレイカー(後編)
しずしずとした秋の空気がすっかり満ち、涼やかな音色で虫達が語り合うようになった、九月も末のある日の夜、
「え…?それって…、どういう事…?」
ソファーに座ってキンジに寄りかかり、肩を抱かれていたキヌタは、目を丸くして彼の顔を見遣った。
「…だから…、遠くの高校に進学するって言ってんの」
頭の良いキヌタが理解できないはずはない。そう思いながらも、キンジは視線を合わせようとしないまま繰り返した。
「遠くって…、帰りが遅くなるの…?」
「そんなんじゃねぇよ。遠くの街の学校だ。寮に入る事になる…」
「…嘘…?」
呆然とした面持ちで呟くキヌタ。
キンジが居ない生活など考えられなかった。キヌタにとって、彼は既に何にも換えられない存在になっている。
「嘘ついてどうすんだよ?…空手がな、結構盛んな学校なんだ。特待生って扱いで、試験も簡単なもんになるし、何より学費
が安くなる。…おれは勉強も嫌いだし家も貧乏だからな…、願ってもねーチャンスだ」
淡々と話すキンジは、その間一度もキヌタの方を見ようとしなかった。
「特待生って制度も、無くそうって動きがあるらしいからな。手遅れにならなくて良かったぜ。へへっ…」
笑いはしたが、元気がない。そんなキンジの笑みを間近で見て、キヌタは思う。
(キンちゃん…。本当はその学校に行きたくないんじゃ…?)
「あ、あのねキンちゃん…。あの…、あのぉ…、もしもお金の事で進学が厳しいなら、ぼく、お父さんに頼んでみ…」
「止めろ!」
キンジが怒鳴るような声を発して言葉を遮ると、キヌタはビクッと身を震わせた。
「…止めろ…!そんな真似、絶対に許さねーからな…!」
キンジが本気で怒っている事を察し、キヌタはショックを受けながら黙り込む。
実は、キンジが怒ったのを見るのは初めてだった。
プレイの一環として臍を曲げてみたり、辛く当たったりはするものの、キンジは決して怒ったりはしなかった。だが、今彼
はキヌタの提案に激怒していた。
しかしキヌタは彼が何故怒っているのかが判らない。謝って怒りを鎮めたいが、どう詫びれば良いのかが判らない。
ビクビクオドオドと様子を窺う狸に、ゴールデンレトリーバーは押し殺した声で告げる。
「飯を食わして貰うのはいい…。風呂を馳走になるのもセーフだろう…。けどな、学費や生活の事まで面倒見て貰ったら、そ
りゃあもう「友達同士」って関係じゃねーよ。おれとおめぇの間に、金の問題なんぞ挟みたくねーんだよ…!」
キヌタはその発言を聞いて、良かれと思って発した自分の言葉を恥じた。
「ご…、ごめんなさい…、キンちゃん…。ぼく、そこまで考えられなかった…」
「…ん…」
ぶっきらぼうに応じたキンジは、キヌタの肩に回した腕に力を込める。
抱き寄せられたキヌタは、逞しい彼の胸にしなだれかかりながら、「ごめんなさい…」と繰り返した。
「ごめんなさい…。ごめんなさい…!でも、寂しいよキンちゃん…!ごめんなさい…!」
行って欲しくない。寂しい。そんな気持ちがキンジを辛くさせると判っているのに、それを伝えずにはいられないことが申
し訳なくて、キヌタは謝る。
「おれもだ」と応じかけたキンジだったが、しかし意地を張ってその言葉を飲み込んだ。
「他の連中は、皆地元に残るからよ。変わらず仲良くしてやってくれ…」
「…うん…」
「長い休みとか連休の時は帰って来るから。そしたら必ず顔出すからよ…」
「…うん…」
「おれが居ねーからって、へこたれんじゃねーぞ?」
「…う…ん…」
「…泣くなよ馬鹿野郎…!春までこっちに居るんだからよ…!」
「…う…んっ…!」
鼻を啜るキヌタの頭を乱暴にガシガシ掻き乱し、キンジは天井を見上げた。
寂しいなどと、泣き言を口にする事はできない。そんな事を言えばキヌタの依存性がますます上がる。
自分に責任が取れる範囲でだけやんちゃして来たつもりだったが、今回ばかりは匙加減を誤ったらしいと、つくづく思った。
そしてキンジは、自分への匙加減も誤っていた事に、今になって気付いた。
彼もまた、すっかりキヌタにのめり込んでしまっていたのだ。
ベッドの上に脚を投げ出して座ったキンジは、彼の胸板を背もたれにする格好でキヌタを座らせ、背中から抱いた。
シャツとズボン、下着を脱がせて裸にしたキヌタの柔らかい体を、軽い痛みを覚える程度の乱暴さで愛撫しながら、丸い耳
をくわえて少し強めに歯を立てる。
「んっ…う…!」
身震いしたキヌタの脇の下から手を入れて、手の中で形を変える柔らかな胸を揉むキンジ。早くも硬くなった乳首が自己主
張するように、彼の手の平に感触を伝えた。
左手を胸から離し、腹肉の下についた段に滑り込ませ、タプタプした下っ腹を揺すると、キヌタは恥ずかしげに身悶えした。
敏感な位置の近くに触れられたせいか、下腹部が疼き出す。
だが、キヌタは違和感を覚えていた。キンジの手つきはいつも通りだが、どこか気が入っていないようにも思える。さらに
言葉責めも無く、口数自体が少ない。
弄られる体は自然と反応するのだが、キヌタがキンジの態度を訝っている事もあり、感度はあまり良くなかった。
やがてキンジは、キヌタの戸惑いに気付いて愛撫を一度止める。
そして、終わってから話そうと思っていた事を口にし始めた。
「あのな、キヌタ…」
「ふ…ん…?」
快感の残滓で目をウルウルさせながら応じたキヌタに、キンジは続ける。
「おれ達さ、これまで一回も一緒に外行った事ねーんだよな。考えてみりゃーさ」
外出が少ないキヌタはそれが普通だったが、キンジにしてみれば妙な事だった。
「…そう…だね…?前にも話したけど、あまり外出しないようにお父さんから言われてるし…」
そろそろ付き合いも長くなり、これだけ長い時間を共に過ごして来たのに、一緒にコンビニに入った事も無い。それどころ
か外で会った事すら無い。不満という訳ではないのだが、キンジはそこが気になっている。
だが、不満こそ無いが興味はある。キヌタと外で会いたい。外に出たキヌタの様子を見てみたい。もしかしたら少し雰囲気
が違っているのかもしれないとすら思えて。
「来週さ、秋祭りあるじゃん」
「え?う…うん…」
毎年この時期に祭りがある事は知っているが、それがどのような物なのか実際に見たことがないキヌタは曖昧に頷いた。祭
りの日も毎年屋敷に居て外に出なかったため、祭り囃子を遠く聞いた記憶しかないので。
「一緒に行かねーか?祭り」
キンジはキヌタの耳元に息を吹き込みつつ囁いた。
戸惑いが浮かんだ顔でしばらく考えた後、キヌタは頷く。
「うん。お父さんにお願いしてみる」
「おし決まりな!んじゃ連中にも予定開けとくように言っとくからな。朝から晩までガッチリ遊ぶぞ!途中でへばんなよ!?」
先程までの進学に関する話題で帯びた空気の重さを吹き飛ばそうとするように、キンジは努めて明るく宣言する。
実際に街を出るのはまだ先だが、次第に進学の準備で時間が取れなくなっていく。そうなる前に何か派手なイベントで思い
出作りをしておきたいと、キンジは考えたのだ。
「お祭りかぁ…」
しばらくの間はなかなか実感が沸いて来なかったキヌタだが、キンジと一緒ならどんな物も楽しめそうな気がして、次第に
期待を膨らませてゆく。
「お祭りって、屋台が出るんだよね?」
「ああ。無茶苦茶沢山並ぶぞ」
「金魚すくいっていうの、やってみたい!」
「…子供かおめぇは?まぁ良いけど…。他にも射的とか、ヨーヨーすくいとかもあるぜ?それに食い物の店も山ほど出る!焼
き鳥、たこ焼き、お好み焼きにやきもろこし!リンゴ飴に綿菓子にチョコバナナ!」
「うわ〜…!うわ〜…!リンゴ飴って、どういうの?チョコバナナって?」
「ああ。ありゃあリンゴになー…」
言いかけたキンジは、言葉を切ってニヤリと笑った。
「いや、こーゆーのはあんまり教えねー方が楽しみに待てるだろ。実物を見てのお楽しみって事で、期待しとけよ」
「えー…?ん〜…、判った、そうする…」
キヌタは教えて欲しそうだったが、キンジの言う事ももっともに感じられたので、しぶしぶながらも引き下がった。
屋台が作り出す独特な雰囲気で染まった大通り…。
御輿行列に、各学校の鼓笛隊と消防隊の楽団が織りなすパレード…。
キンジがかいつまんで語った祭りの簡単な説明は、キヌタの胸をときめかせる。
「うわ〜…!どうしよう?ぼくドキドキしてきちゃった…!」
小学校以降、父の許しが出なくて遠足にすら参加していなかったキヌタは、友人達との外出が楽しみになって来た。
だがしかし…。
「…え…?」
絶句したキヌタに、英語の勉強を教えに来つつ伝言を持ってきたマラミュートは、申し訳なさそうに耳を倒しながら繰り返
した。
「「慎め」と…、ただそれだけおっしゃってやした…」
呆然とする狸を、シオンは気の毒そうに見つめる。
「そう…ですか…。済みません、伝言有り難うございます…」
応じるキヌタは、しかし気持ちがこの場に無い。
気の毒に思いながら、こればかりはシオンにもどうしようもなかった。
総帥の意向には絶対服従。格別の信頼を寄せられているとはいえ、所詮は雇われの身であるシオンは勿論、キヌタも逆らえ
ない。
その日のキヌタは、珍しく勉強に身が入っていなかった。
いや、シオンが知る限り、キヌタが集中力と意欲を欠いて勉強に臨むのは初めての事だった。
それだけ楽しみにしていたのだろうと同情したシオンは、勉強そのものは早めに切り上げ、キヌタが楽しみにしていた異国
の話をしてやったが、それでも御曹司は上の空で、ろくに反応もしなかった。
(こいつは重症だ…。あっしの言葉で意見を変えるような御仁じゃねぇが、駄目元で総帥にお願いしてみるか…)
そのように考えたシオンだったが、その夜赴いた彼の提言にも総帥は首を縦に振らず、キヌタは祭りへの参加を禁じられて
しまった。
「そうか」
翌日の夜、キヌタから事情を聞いたキンジは、しょげている狸の後ろに回って脇の下に手を通し、手に余る程豊満な胸を揉
みしだいた。
「ちょ、ちょっ…!?キンちゃん!?」
「元気出せー!こうなる事も考えてなかった訳じゃねーよ!
キンジは不敵な笑みを浮かべながら、身悶えするキヌタを愛撫してやった。
「遠足すら参加禁止なんだろ?駄目って言われる事も当然考えてたぜ、おれぁな」
「え?」
この件に関しては、キヌタよりもキンジの方がよほど見通しを利かせている。
許可が下りればそれでよし、でなければ…。そのように腹を決めて、ゴールデンレトリーバーはもしもの時に備えて対策を
練っていたのだ。
「おめぇにやる気があるんなら、まだ手はあるぜ?」
キンジはキヌタの丸耳に囁きかける。息でくすぐられた耳をパタつかせながら首を巡らせた狸に、ゴールデンレトリーバー
は悪戯っ子のような笑みを浮かべて頷きかけた。
「脱走だ!こそーっと抜け出して、祭り見に行くんだよ!」
「だ、脱走!?」
仰天するキヌタにニヤニヤ笑いかけ、たぷついた顎下に手を入れて贅肉を揺すりつつ、キンジは続ける。
「日中はいろいろあるから難しいだろ?屋敷の皆も声かけてくるし、様子見に来るもんな。けど風呂に入った後はフリーだろ?
もう声を掛けられる事もねー。違うか?」
「そ、そうだけど…」
「だから、飯の後は速攻で風呂に入るようにするんだよ!怪しまれないように明日からでもな!できるか?」
「できると思う。けど…」
キヌタは迷った。
これまでに父の言いつけに背いた事は無い。
だが、他でもないキンジ達との祭り見物は、抗い難い魅力があった。
「そーっと抜けて、そーっと戻る…。気付かれねーように上手くやればお咎め無し!どうする?」
いつでも強引なキンジは、今回ばかりはキヌタに強要しなかった。
やれ。と言えば頷くだろうが、この件ではそうしたくなかったのだ。
離ればなれになってしまう前に、キヌタの自主性を少しでも上げておきたい…。自分が居なくとも頑張れるように、少しは
精神面を鍛えておきたい…。そんな考えが今のキンジにはある。
しばらくの間俯いて黙った後、キヌタは顔を上げてキンジの目を覗く。
「…具体的には、どうやれば気付かれないで抜け出せるかな…?」
「へへ!そう来なくっちゃ!」
その後二人は細かな手順を打ち合わせ、決行の夜に備え始めた。
それが、とんでもない事件に発展してゆく事になろうとは予想もしないまま…。
そして、祭りの日がやって来た。
出かけたいと申し出た事で警備を増やされるのではないかと懸念していたキヌタだったが、幸いにもそうはならなかった。
常に父の指示に従って来たキヌタが言いつけに背こうとは、誰も思わなかったのである。
キヌタは日中から落ち着き無く、部屋の中をうろうろと歩き回っていた。
遠くに聞こえる祭り囃子が、開け放った窓から秋風と一緒に入り込む。
時折双眼鏡を取り上げて様子を窺おうとしたが、大通りの路面は建物が邪魔で見えず、そこを行く御輿の姿を確認する事は
できなかった。
それでも祭りに赴くのだろう家族連れやカップル、友人らしきグループなどの姿はそこかしこで見られたので、キヌタの期
待は弥が上にも高まって行く。
不安は確かにある。父の言い付けに背くにあたり罪悪感も抱いている。だがそれでもキヌタは、今夜だけはどうあっても屋
敷を抜け出すつもりだった。
祭りに誘ったキンジの気持ちが、少しずつ判って来たおかげで。
(キンちゃんはきっと、居なくなる前に思い出を作ろうとしているんだ…。ぼくに思い出を残してくれようとしているんだ…)
自分勝手で我が儘で図々しくてサディストで、そのくせ世渡り上手なゴールデンレトリーバーが、今は自分に気を遣ってく
れている…。その事が嬉しかった。
キヌタは鼓谷家に迎え入れられて以来初めて、言い付けに背く。
祭りを見てみたいという事も勿論あるのだが、何よりも、今では確かな物としてはっきり感じられている友人達との繋がり
に応えたかった。
やがて日は暮れ、夕食の時間がやって来る。
キンジに言われた通り、夕食後あまり間を置かず風呂に入るようにしていたキヌタは、今夜も手早く入浴を終え、使用人達
にも怪しまれる事無く自室に戻った。すると…、
「よ。思ったより早かったな」
既に部屋に忍び込んでいたキンジが、寝室のドアをそろっと開けてキヌタに笑いかけた。
初期にそうしていたように窓から入り込み、使用人達が入って来た時の為に寝室に隠れていたのである。
「大丈夫か?」
「うん!」
キンジの最終確認に、キヌタははっきり頷いた。
使用人達の見回りがどの程度なのかは正確には判らないが、少なくとも入浴後にキヌタの部屋に来る事は無い。
それでも念のために、キンジが持ち込んだ紙紐でクッションを縛ってベッドの上に転がし、上から布団をかけ、キヌタが寝
ているように偽装する。
さらに、靴が無い事に気付かれて調べられても面倒なので、履物はキヌタの物を使わずに、キンジが用意したシューズを使
う事にした。
偽装が済んで出発準備が整うと、キンジは窓に寄ってキヌタを振り返る。
「良いか?しつこく言うが、こっからはスピード勝負だぜ?もたもたしてたら見つかる確率が高くなっちまう」
「うん!迅速に、隠密に、だったよね?」
「そーだ!んじゃ行くぞ?途中でビビんなよーっ!」
言うなり、ゴールデンレトリーバーはひらりと窓から木へ飛び移る。
そして、予め木にかけていたロープをキヌタに投げ渡して頷いた。
キンジは細い枝に手足をかけて巧みに体重を分散させ、ノックできるほど窓枠近くに身を乗り出す事も可能だが、キヌタに
そんな真似が出来るはずもない。体重の問題もあり、そこまで器用な芸当に挑むのは無謀過ぎる。
よって、キヌタの体重を支えても大丈夫な太い枝まで、1メートルほど跳ばなければならないのだ。
頷き返したキヌタは、反射的に下を見ようとしてから考え直す。「下は見るな、おれだけ見てろ」と、キンジから言い聞か
せられていたので。
それでもやはり怖い。脚を滑らせたら大怪我間違いなし、下手をすれば…、というレベルの高さなのだから、外で遊んだ経
験すらろくにない、安全な位置にしか身を置いた事がないキヌタには、怖がるなという方が無理である。
それでもキヌタはロープを体にぐるぐると巻き付け、しっかり結んでから窓枠を蹴った。その目はもう、キンジしか見てい
ない。
萎縮していた事もあり、キヌタの跳躍は際どい距離だったが、手を伸ばしたキンジは彼の手首をしっかり掴み、ぐいっと引
き寄せる。
太い枝の上に右足を乗せたキヌタは、キンジに引っ張られる格好で木の幹へ寄せられ、ガクガク震えながらしがみついた。
(よーし!よく跳んだ!)
キンジは無言のまま目で褒めると、細い枝を掴み、踏み、体重を散らして身を乗り出し、音を立てないように窓を閉める。
(さて…、ここからも難関だぜ?へこたれんなよ!)
軽く肩を叩いて励ましたキンジに、硬い表情でコクコクと頷くキヌタ。
その目と表情から恐怖と同量の好奇心のような物を感じ取り、キンジはニヤッと笑う。良い具合だ、と。
キヌタの肥った体は、運動もろくにして来なかったために自分の体を支えるだけで精一杯で、器用に伝い降りて行くのは難
しい。
そこでキンジは一計を案じ、ロープを用意したのである。
充分な強度を持つ枝を予め選んでおいた彼は、キヌタの体に巻き付けさせたロープの結び目を入念に確かめてから、太い枝
の上を渡してそこにかけ、長く余ったロープの端を握る。
そしてするすると木を降りて行き、地面に立つと、ロープをピンと張って合図を送った。
直後、おっかなびっくり木の枝から宙へ身を出したキヌタの体は、ロープに支えられ、ややゆっくりした速度で降下を開始
する。
同時に、ロープを手首に巻き付けてしっかり握ったキンジの体が、地上から樹上へすーっと引っ張り上げられて行った。
滑車を利用しない事で生じる摩擦が、二人の速度を制限する。キヌタの方がだいぶ重いからこそ可能な芸当だった。
アイディア自体はキンジの思いつきだったが、本当に可能かどうかの試算をおこなったのはキヌタである。よって、少しは
怖いが落ち着いており、宙ですれ違うキンジが親指を立てると、応じてサインを返す余裕も見せた。
最初は少々心配だったのだが、なんだかんだでやる気を見せて一生懸命なキヌタが、少し頼もしくて少しいじらしい。
無事地面に降りたキヌタが体に巻き付けていたロープをわたわたと解き、合図に二度引っ張ると、キンジはロープを引き上
げ、丸める手間も惜しんでザックに詰めて背負い、あっと言う間に木を降りる。
(よし、行くぞ!)
(うん!)
声には出さず、視線とジェスチャーで意思疎通し、二人は巡回中の警備の目を盗んで壁を目指した。
キンジに手を掴まれて引っ張られてゆくキヌタは、緩急のついた移動で時々脚をもつれさせていたが、幸いにも見つからず
に目標地点まで辿り着けた。
(さて、最終関門だ…)
キンジの手を掴んで壁を見上げたキヌタは、ゴクリと唾を飲み込む。
上部に赤外線センサーが取り付けられている外壁は、高さが2メートル50センチほどもあり、今のキヌタにはいつにも増
して高く見えている。
キンジはキヌタを壁に向かって立たせ、壁面に手をつかせると、後ろに回って股の間に頭を入れた。
(よいしょおおおおおおおおっ!)
心の中で気合いの声を上げ、キンジはキヌタを肩車する。
肩車されたキヌタは壁の縁に向かって手を伸ばしたが、少し足りない。壁は彼らの目測よりも高かった。
計算違いが生じて焦るキヌタだったが、股ぐらに首を入れたままのキンジはなかなかそれに気付けない。
むちっとした尻肉が肩と首に密着し、息苦しさと共に少々心地よさを覚え、今度プレイに活かしてみようか?などと場違い
な計算を巡らせていたゴールデンレトリーバーは、背中をトントンと太い尻尾で叩かれてからやっち上を見る。
(うっわ嘘だろマジかよ届かねーのか!?)
ようやく事態を飲み込んだキンジは、しかしすぐさま打開策を考えた。
キヌタの脚を掴んでいた手を離し、肩に乗っている幅広のぼってりした尻との間にねじ込むキンジ。尻の下でもぞもぞ動く
手の感触に、何かしようとしている事を察したキヌタは、
(根性振り絞って…やってやんぜーっ!)
歯を食いしばったキンジの両腕が自分の体をぐぐっと持ち上げると、目を真ん丸にした。
キヌタは壁面に手をついているものの、キンジの腕にはほぼ丸々その重みが掛かっている。いかに頑強な獣人とはいえ、キ
ヌタの体を腕で押し上げるその筋力は、並の少年の物ではない。
(熱を出して救急病院に運ばれた時だって、担架が無ければ三人がかりだったのに…。キンちゃん、凄い力だ…!)
キンジが発揮した馬鹿力に、キヌタは心底驚いた。が、ただ驚いてばかりもいられない。ここからキヌタも一頑張りしなけ
ればいけないのだから。
キヌタは壁の上部に手を掛け、体重を支えに入った。
直後、尻からキンジの手がすっと離れ、キヌタの両腕に自らの全体重がかかる。
「ふ…ぎっ…!」
キヌタの口からついに声が漏れ、腕がブルブル震え出す。非力なキヌタは自分の体重すら持てあましており、懸垂はもちろ
ん、鉄棒に短時間ぶら下がっている事も難しい。
だが、我慢するのはその短時だけで充分だった。
キヌタの下から素早く離れたキンジは、その横で地を蹴り、壁の上に手を掛け、淀みない動作で軽々と上に登る。
壁面の上にはセンサーがあるのだが、それが反応しない状況もある事は、最初に屋敷へ侵入する際に確認済みだった。
鳥が止まっただけでの誤作動を避ける為なのだろう、全面を遮ったりせずに一瞬横切るだけならば無反応らしい事が判って
いる。
そして、現在取り付いている位置…、キンジが最初に侵入場所として選んでいたそこは、センサーが背中合わせに設置され
ている起点箇所。
背中合わせの二つのセンサー付近は死角になっており、キヌタの手にも反応を示さない。この死角の真上を跨ぎ越せば反応
されずに脱出できる。
キンジはセンサーを跨いでキヌタの手首を掴む。が、自力で這い上がらせ、しかもセンサーを越えさせる事は不可能だと、
キヌタの必死な形相を見て悟った。
そこで作戦変更し、キヌタの体を無理矢理引っ張り上げつつ、背負い投げでもしかけるように自らの背に密着させた。
そしてその体を背負い、狭い壁面上でセンサーを跨いだままくるりと旋回、通り側へキヌタをおぶった背を向ける。
「落とすぞ…!歯ぁ食いしばって縁を掴め…!せってーに声出すなよ…!」
小声で囁きながらも返事を待たずに屈んだキンジは、肩の上で担ぐように捕まえていたキヌタの手を離した。
直後、キンジの背からずりっと滑り落ちたキヌタは声もなく壁の向こうに消え、キンジもすぐさま飛び降りる。
反射的に縁を掴んだキヌタだったが、かかった体重を支え切れずにあっさり指が開いてしまい、足からアスファルトに落下
して、尻餅をつきながら後ろ向きに転げた。
声は出さなかった。言われたとおりに歯を食いしばっていたキヌタは、仰向けに転がったまま手足を引き付け、赤子のよう
な格好で痛みに耐えている。
その傍らにひらりと着地したキンジは、
「よーし、良く頑張った…!」
ニヤリと笑って小声で褒め、キヌタの手を取って立ち上がらせた。
「い…痛い…!足の裏が痛い…!お尻も痛ぁい…!」
泣きそうになっているキヌタの手を引いて、大急ぎで道路を横切り、脇道に滑り込んだキンジは、敷地内が騒がしくなって
いない事を確認すると、
「…見ろよ。おめぇ、あれを乗り越えたんだぜ?」
楽しげにニヤニヤしながら、涙目のキヌタに壁を見るよう促した。
キヌタはしばらく尻をさすっていたが、やがてキンジを見遣る。
その顔には、達成感のある笑みが浮かんでいた。
「おれ達、結構良いコンビかもなっ!」
「だねっ!」
上げた腕を軽くぶつけ合い、二人は笑いあう。
「走れ!急いで離れるぞ!」
キンジに手を引かれて走り出しながら、キヌタは満面の笑みを浮かべていた。
初めての夜の外出に、言い付け破りに、ドキドキしていた。
「…出て来た。屋敷の者は気付いていないようだ」
屋敷の前の通りが見える位置に建つ民家の二階で、男は小型無線機を通じて仲間に連絡した。
「二人だ。レトリーバーのガキが一緒だ。警備も気付いていないらしい」
『こちらでも確認した。撤収しろ。以後は追跡に移る』
「今の内に確保してしまえば良いのではないか?」
『警備が動かないとは言い切れない。密かに監視している可能性はまだ残っている。確信が得られるまで気取られないよう追
跡し、機会を見定める』
「了解…」
男は通信を切ると、同室の仲間達に目配せした。
この民家の住民は、睡眠剤を混ぜた夕食のおかげで眠り込んでいる。
男は引っ越し蕎麦と称して一服盛ったそれを渡し、監視し易いこの環境を確保していた。
男達は無言のまま痕跡を消し、誰にも見咎められずに民家を出た。
そして、今頃は少年達を追跡しているはずの仲間と連絡を取るべく、離れた場所に待機させていたワンボックスに向かう。
絶好の機会を逃さず、鼓谷の三男坊を拉致する為に…。
変装の意味も込め、キヌタは物陰で着替える事になった。
キンジが用意したのは、仲間のブルドッグの父親が着ていた浴衣である。キヌタの体型が極端な肥満体であるため、仲間内
で提供できる普段着は合わなかったのだ。
ブルドッグの上着はそれなりの大きさなのだが、大きな腹が生地をパツパツにしてしまい、ズボンなどは尻が収まらない上
に丈が余り過ぎる。
一度試しに持ち込んで着せてみたのだが、ボディラインがすっかり見えるほどピチピチになったシャツは裾からはプヨプヨ
した下っ腹がみっともなくはみ出し、ズボンは尻の縫い目が裂けて下着が顔を覗かせるという散々な結果となった。
そもそも窮屈な服を無理矢理着せて目立ってしまったら擬態にならない事もあり、普段着での参加は取りやめにした。
「おめぇ、金持ちの家に生まれて良かったなー?この体型だと着る物がいちいちオーダーメイドじゃん」
紺色に花柄という祭り用の浴衣を着せてやりながら、キンジはそんな事を言い、キヌタを恥ずかしがらせた。
やがて着用を終えたキヌタは、初めて袖を通した浴衣を興味深そうに観察する。やや胸元が開き過ぎ、裾丈も上に寄ってい
るが、まあまあ見られる格好には仕上がっていた。
「えへへ…!」
「何だよ?」
嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうに笑うキヌタに応じたキンジは、しかし本気で訊ねてはいない。キヌタが嬉しがって
いる事が、訊かずとも判ったので。
ついでに脱出用のシューズからサンダルに履き替えさせると、キンジはザックにシューズを仕舞い込み、友人達が待つ場所
へとキヌタを導いて行った。
一方その頃、屋敷では…。
(お可哀相に、坊ちゃん…。日中は窓を開けて祭りの喧噪を聞いてらっしゃったようだが…)
閉じられた窓の内から零れる灯りを見上げ、シオンは嘆息した。
(切なくなられたのかねぇ、もう外を覗こうともなさらねぇや…)
今日一日、総帥直々に屋敷の警備を命じられていたシオンは、キヌタにも知らせずに敷地内を見回っていた。
(しかし意外だぜ。あの方にも心配性な所があるとはねぇ…。いくら行ってみたいからって、他でもないキヌタ坊ちゃんが言
い付けをお破りになる訳はねぇでしょうに…)
マラミュートは胸の内で呟きながら、キヌタの部屋の真下へやって来ると、窓を見上げた。
(無茶をしようって気がねぇんだもんなぁ、キヌタ坊ちゃんには…。大人しいトコとお優しい気性は美徳なんだが、それがか
えって兄君達に虐げられる要素になっちまってる。例えば、言い付けに背いて屋敷を抜け出す程度の気概と我が儘さを持ち合
わせてらっしゃれば…。いや、あっしが思ったトコでどうしようもねぇし、実際そんな事になっちまったら大いに困るが…)
シオンは小さくかぶりを振り、視線を落とした。
そして眉を顰めた。
「…!?こいつは…!」
素早く屈んだシオンが見たのは、キヌタの部屋の真下に植えてある木の根本付近だった。
取り出したペンライトを向けて目を凝らす彼の瞳に、土に残った微かな足跡が映り込む。
それは、ロープで滑走着地したキヌタがその体重故に残してしまった、それでも普通なら気付かないほど僅かな痕跡だった。
シオンは窓を見上げて「まさか…!?」と漏らすと、襟元に仕込んだ通信機に触れた。
「おい!誰かキヌタ坊ちゃんのお部屋を確認しろ!お休みになってらっしゃっても構わねぇ!とにかくご本人のお姿とお声を
確認して来いっ!」
その四十五秒後、シオンはキヌタが部屋に居ない事を知った。
そしてその二分後、木の枝に残った皮の擦れ跡から、キヌタが窓から抜け出した事を確信する。
(坊ちゃんお一人じゃこんな真似はなされねぇだろう。となると…)
正門に回させた車に向かって走りながら、シオンは歯噛みした。
(あのガキ共…!おそらくはゴールデンレトリーバーの仕業か!)
助手席のドアを開けて飛び込むなり、シオンは車内無線を掴んで怒鳴った。
「非常事態だ!手が空いてるヤツぁ全員街に出ろ!キヌタ坊ちゃんを捜索する!」
ハンドルを握るシオンの部下は、車を急発進させつつ口を開いた。
「御頭、総帥にはご連絡を?」
「当然入れる。が、連絡は総帥お一人にだけだ」
短く応じたシオンは、ヘッドライトで切り取られた前方の闇を憤怒の形相で睨みながら無線に続ける。
「良いか!?間違っても兄君達と奥様には気取られるなよ!万が一にも護衛無しで外に居るって知られちまったら…、坊ちゃ
んの身が危ねぇ!」
切羽詰まった声で怒鳴りながらも、シオンは予期していた。おそらくキヌタの捜索が、穏便には済まないだろう事を。
(あの方はこの可能性を見越してらっしゃった…。となれば、ぼんくらの長男はともかく、あの方の性質を濃く継いでる二番
目はやべぇ…!キヌタ坊ちゃんが祭りに行きたがってた話を掴んでやがったら…、いや、間違いなく掴んで、下手すりゃとっ
くに手ぇ回してやがる!)
自分達が出し抜かれたらキヌタが危ない。シオンは危機感すら抱きながら、各方面の部下に指示を出し、早速捜索指揮を執
り始めた。
そんな事になっているとも知らないまま、キヌタとキンジは友人達と合流し、夜店で賑わう通りを闊歩していた。
「でもそれって帰りはどうするんだ?」
脱出劇の子細を聞き終えてからブルドッグが訊ねると、キンジは軽く肩を竦めた。
「普通に帰るさ。警備のおっさんに話しかけて」
『はぁ!?』
キヌタを除く全員の目がキンジに注がれた。
「簡単な理屈だよ。キヌタは屋敷の人達に好かれてるから、警備のおっさん達もコイツが叱られるような報告はしたくねーだ
ろ?おまけに仕事の不備でおっさん達も怒られちまう。内緒にしてくれって持ちかければ、上手い方に転がるさ」
「なら出てくる時もそうすれば良かったのに…」
「そいつは無理だって。今から悪い事しますーって言って、見逃して貰えるかよ?やっちまった後だから仕方なく許して貰え
るかもしれねーってだけ」
「それって、駄目な可能性もあるよな?キヌタが怒られる可能性も…」
色黒の男子が見遣ると、キヌタは笑みすら浮かべて頷いた。
「それはもう覚悟してるから平気。「上手く行ったら怒られないで済む」ぐらいの気持ちだから」
キヌタが応じると、ブルドッグは顔を顰めて唸った。
「キヌタ変わったよなぁ…。会ったばっかの頃はもっとおどおどしてたのに、肝っ玉がでかくなった」
「知らなかったか?コイツぁ元々でっけぇ玉ぁぶら下げてんだぜ?」
ニヤニヤしながら言ったキンジを、キヌタは慌てた様子で見遣る。
「ま、とにかくだ。早速楽しもーぜっ!あんまり遅くなったら許して貰える確率も悪くなるだろーしよ」
キンジが先頭を切る形で、少年達は夜店巡りを始めた。
早速見つけた金魚すくいの屋台に皆を誘ったキンジは、店主の顔を見て少し驚いたように目を丸くする。
「三宅のおっちゃん!帰ってたのか!」
「ようキンジぃ。まーだ悪童共引き連れてやんちゃしてやがんのかぁ?」
相好を崩して応じた店主は、珍しい三毛猫の雄だった。
丸々肥った骨太の中年で、背はあまり高くないが、その反面ボリュームはかなりある。キヌタを少し逞しくして、高さを足
したような体付きだった。
「珍しーじゃん。…ってか、祭りの時期になると帰って来てたか、毎年」
「そういうこった。ハレ売ってガキどもを楽しませんのが仕事だからな!だから割安だしサービスもしてる」
「ただにしろよ、ただに」
「馬鹿野郎。無料だったら楽しくねぇだろうがこういうのは」
ゲラゲラ笑った三毛猫は、他の少年達とも顔見知りなのか、「でかくなったなぁ」「勉強ちゃんとしてんのか?ん?」など
と気安い調子で話しかけている。
が、キヌタの顔に目を止めると、不思議そうに首を傾げた。
「そっちの子は見ねぇツラだなぁ…」
「ああ、新しいダチさ。キヌタってんだ」
ブルドッグがそう紹介すると、三毛猫は「そうかそうか」と頷いて笑いかけてから、キンジに視線を向ける。
「勿論やってくんだろ?」
「もうそーゆー歳でもねーの、おれらは。…あ、でも…」
ゴールデンレトリーバーは金魚の群れに見とれている狸に視線を向け「せっかくだからな、やってみるか?」と訊ねてみた。
喜々として頷き、早速遊戯に興じたキヌタは、しかし見事に失敗を繰り返し、ぽいを10個破った所で断念した。
三毛猫は金魚をサービスすると言ってくれたが、お忍び外出なので連れて帰っても扱いに困ると思ったキヌタは、礼を言っ
てこれを断った。
それから遊んだ射的もまた散々で、続いてトライした輪投げなど掠りもしない。
上手く行かない事だらけの遊戯を、しかしキヌタは友人達と共に心の底から楽しんだ。
さらにキヌタはそれら遊戯店の他にも、売られている食べ物に興味を示した。
通りを渡る涼しい秋風に乗って、様々な食べ物の匂いが鼻をくすぐる。
濃い味付けのヤキソバや、じとついたたこ焼きに、焦げの多い焼き鳥。そしてフランクフルトやお好み焼きなど、キヌタは
見慣れない食べ物に夢中になった。が、やがて…。
「ぐ…、ぐるぢぃ…!」
腹をパンパンに膨らませたキヌタは、ベンチに座って目を白黒させた。
「馬鹿かおめぇは?」
その正面に立ち、脂汗を垂らしながら腹をさすっているキヌタを見下ろすキンジは、完全に呆れ顔だった。
「もっと美味いモン毎日食ってるじゃないかキヌタは」
「だよなー。何だってそんなに夢中になるんだか…」
苦笑いしている友人達に囲まれ、膨れた腹を抱えて唸っていたキヌタは、耳を伏せてぼそぼそと呟く。
「だ、だって…、こういう食べ物ってあまり口に出来ないし…、凄く美味しかったし…、次はいつ食べられるか判らないし…」
それを聞いた少年達は納得顔になり、「それじゃあ仕方がないかぁ」などと理解を示した。
「ヤキソバ程度なら、今度遊びに行く時に持って行くか?」
「いいなそれ」
「まさかキヌタが美味いと思うなんて考えてもなかったからな…」
「舌は案外庶民派なのかも?」
キヌタの腹が落ち着くまでと、しばらくその場でたむろしていた少年達は、やがてキンジに「おれが見てるから」と促され
て夜店巡りに戻る。
「う〜っぷ…!お腹が苦しぃよぉ〜…!」
繰り返すキヌタの横に座ってニヤニヤ笑うキンジは、
「食い意地張ってんなー。ま、そんなんだからそんな体になったのか」
などと、軽い言葉責めをおこない、キヌタを恥ずかしがらせて楽しんだ。
が、しばらくすると何か見つけた様子で急に立ち上がり、何も告げずにある夜店へ向かう。
そして帰って来た時には、その手に水風船のヨーヨーをぶら下げていた。
「思いつきで試してみたけど、逃げねー分だけ金魚すくいより簡単かもなー。次あれやってみたらどうだ?フックで引っかけ
んだよ」
キンジが隣に座るなり放って寄越したそれを、キヌタは慌てて両手で捕まえる。
そして、白地に青い縞模様が入った水風船を見つめ、「あれ?」と声を漏らした。
「どうした?」
「え?ん…。う〜んと…?何だか…、前にこういう事…、あったような…」
キヌタはじっと水風船を凝視し、必死に記憶を手繰る。
祭りに来た事などない。水風船を手に取るのも初めてのはずだった。
だが、その手が訴える。軽くて少し水が入ったそれの感触を、確かに覚えている、と…。
「…あ…!」
しばらく黙り込んでいたキヌタは、小さく声を漏らした。
「思い出した…。ぼく…、ぼくお祭りに来たの、初めてじゃない…!」
「あん?」
胡乱げな視線を向けたキンジは、キヌタの顔を見て目を大きくした。
「…ぼく…。小さい頃に来たんだ…!」
目に溜まった涙が、ポタリと水風船に落ちた。
「あまり思い出せないけど…、お母さんと…、本当のお母さんと一緒に来た事があった…!そして…、こういうのを持って…、
ぼく…!」
キヌタはふるふると体を震わせながら、水風船をそっと胸に抱く。
「…どうして…、忘れていたんだろう…?」
五歳の時に迎え入れられて始まった鼓谷家での生活は、最初の驚きとその後の単調さによって、キヌタから幼少時の記憶を
薄れさせていた。
多感な時期にも友人を作れず、孤独に過ごして来たキヌタの中で、外界の記憶は思い出される機会も無いまま、日々の勉学
に埋もれて沈んでいった。
四つになる前に母に連れられて楽しんだ祭りの事もまた、鼓谷家での生活記憶に埋没したまま、テレビで見た映像などと混
同され、実際に体験した物だという事など忘れてしまっていた。
だが今、キヌタは懐かしい感触をきっかけに、それらを纏めて掘り起こす。
「お母…さん…!」
長らく思い出す事もなかった、自分を愛してくれた保護者の温もりが、キヌタの中で蘇る。
懐かしみ、喜び、嬉しさに啜り泣くキヌタから、キンジは視線を逸らして夜空に向ける。
声をかけず、ただ黙っていてやった。思い出の反芻に水をささないために。
やがてキヌタは水風船を抱えたまま顔を上げ、涙に濡れた顔でキンジに微笑んだ。
「ありがと…、キンちゃん…!ぼく、お祭りに来て良かった…!」
「そっか…」
静かに頷いたキンジは、横目でキヌタを見てニヤリと笑って見せた。
「やるよ、ソイツ」
「え?…いいの…?」
戸惑うキヌタに、キンジは笑ったまま頷いた。
「祭りの記念にプレゼントだ。…ま、すぐ壊れちまうだろーけどさ」
「う、ううん!ぼく大切にする!ずっと大切にするよ!」
「…おめぇ良く判ってねーだろ?あのなー、水風船ってのはゴムだから…」
説明しようとしたキンジは言葉を切り、キヌタを通り越した向こうへ視線を向ける。
遅れて振り向いたキヌタの目に、夜闇に溶け込むような黒が飛び込んで来た。
黒ずくめの男を、狸はきょとんと見つめる。
「お探し致しましたよ、キヌタ様」
黒服を纏った男は丁寧に腰を折ってお辞儀する。
「…え?え、えぇと…」
戸惑うキヌタに、黒服は続けた。
「お父様も心配しておられます。すぐ屋敷へお戻りになられて下さい」
「え?あ…。う、うちの警備のひとですか?で、でも…。あの…、も、もう少しだけ…」
キヌタは口ごもり、キンジを振り返ろうとした。だが、いつの間にか立ち上がっていたキンジは横手に移動しており、半眼
でキヌタを見ている。
「さあ、行きましょう」
急かす黒服をキヌタが見遣り、キンジもまた一瞥した。
その直後、ゴールデンレトリーバーが口を開く。
「なあキヌタ。おめぇ、このひとに見覚えがねぇのか?」
「え?」
何を言われているか判らなかったキヌタは、答える前に強引に腕を引かれ、立たされた。
キンジは鋭さを帯びた目で黒服を見つめながら、微かな違和感は勘違いの産物ではないと確信した。
「知らねー顔…、なんだろ?」
「ん?う、うん…」
曖昧に頷いたキヌタの前で、黒服は慇懃な態度を崩さないまま、「私は側近として普段はお父様のお傍におりますので…」
と言いかけたが、
「どうした?」
「うお?屋敷のひと!?」
戻って来た少年達が口々に声を上げ、言葉を切った。
歩み寄る少年達と自分達の距離が狭まったのを見計らい、キンジは声を上げた。
「おめぇら!塞げ!」
直後、キンジはキヌタの腕を引っ張って下がり、彼らと黒服との間には、近付いていた少年達二名…ブルドッグと太り気味
の人間男子が割り込む。
「おい!お前達…!」
黒服が上げかけた声を、キンジの怒鳴り声が遮った。
「偽物だ!ソイツ、キヌタんちのヤツじゃねーぞ!」
黒服が動揺した隙に、キンジはキヌタの手を引いて駆け出す。
追おうとした男は、しかし壁となった少年達に行く手を阻まれた。
中学生とはいえ、大人顔負けに体格が良い二人を含む少年達は、いずれも空手で心身を鍛えた強者揃い。おまけに、大人し
いキヌタの前ではそんな素振りなど見せないが、キンジとつるんで散々荒事や悪戯を繰り返して来た、生粋のやんちゃ坊主共
である。強面の大人だろうがSPだろうが、その気にならない以上は頑として抵抗するだけの気骨を備えており、黒服に道
を譲ろうとはしなかった。
「ど、どうしたのキンちゃん!な、何!?偽物ってどういう事!?」
「黙って走れ!舌噛むぞ!」
キンジはキヌタを引っ張って走りながら、人混みの中に駆け込んだ。
仲間達が阻んだ男と同じ格好の黒服が、そこかしこから数名姿を現した事を、彼は視界の隅でめざとく確認している。
キンジは以前、屋敷の使用人から聞いていた。キヌタは様付けで呼ばれる事を極端に嫌がるという事を。
いずれキヌタが成長し、鼓谷の一員として振る舞うようになればそうも言っていられないだろうが、今は皆が「坊ちゃん」
と呼んでいる。
そしてそれはシオンを通じて警備担当者全員に知らされており、順番で入る警備の者や、総帥直属のSP達も弁え、呼び方
は徹底されている。総帥直属だったとしても、彼らが「キヌタ様」と呼ぶ事はない。
そして、何よりもキンジに違和感をもたらしたのは、キヌタの表情だった。
記憶力が優れている彼は、本来あの屋敷の警備担当ではない者や、本邸の使用人達の顔まで殆ど全て覚えている。にもかか
わらず、あの黒服を見たキヌタの顔は「どちら様でしょう?」とでも言いたげに不思議そうで、途中までSPだと思っていな
かった。
そしてあの黒服が言い訳するようにキヌタの父親のSPを名乗った瞬間に、キンジは確信した。
キヌタは総帥の息子であるため、警備に携わる可能性がある者は必ず挨拶をしに来る。一介の警備担当どころか、総帥のS
Pという要職にある者の顔をキヌタが覚えていない訳がないのだ。
人が良いせいで丸め込まれそうになったキヌタは、客観的に観察していたキンジの注意力に救われた事になる。
ぶつかる事も厭わず、「済んません通ります!」と繰り返しながら人混みをかき分けて進むキンジは、やがて突き当たった
夜店で、金魚たちがひしめく水槽の脇を駆け抜けた。
驚いた客がお椀をひっくり返して立ち上がるのにも構わず、キンジは店のテントに手を掛けて裏側へ逃れようとする。
「お、おいこらキンジぃっ!オメェ何しやがる!」
恰幅の良い三毛猫が腕捲りして怒鳴ったが、ゴールデンレトリーバーは謝る余裕も無く、
「誘拐犯に追われてんだ!力ぁ貸してくれよ!」
と叫び返し、後ろを指さした。
そちらを見遣った三毛猫は、人混みの中で、通行人を押しのけ、あるいは突き飛ばし、こちらへ駆けて来る数名の姿に目を
止める。
「…誘拐犯だぁ?」
「金持ちなんだよコイツんち!」
キンジに叫ばれた三毛猫はキヌタを見遣り「ふんむ?」と唸ったが、すぐさまジャリッと歩道を踏み締めて体を旋回させる。
直後、水槽を飛び越えてキンジ達に迫ろうとした先頭の黒服の顔面が、ベグシャッ!と、凄まじい音を立てた。
頭部を支点に、顔を残して体だけが一瞬前に泳いだ黒服は、そのまま後方へ一回転しながら水槽の向こうへ逆戻りし、俯せ
に路面へ叩き付けられる。
地面を踏み締め、腰を入れて繰り出した三毛猫の張り手は、信じ難い事に腕一本で大人一人を簡単に一回転させた上で、3
メートル以上も吹き飛ばしていた。
その光景を目の当たりにしたキヌタはポカンと口を開けて目を丸くし、キンジは面白がっているようにニヤリと笑う。
「さっすが元高校横綱っ!くわばらくわばら!」
流石にたじろいだ他の黒服達を睨み付けると、三毛猫は「けっ!」と吐き捨てるなり法被の片袖をまくり上げ、もう一方の
腕を襟元から引き抜いて片肌脱ぐ。
男盛りも過ぎ、体の弛みは年相応。脂肪がついて腹もだいぶ出ている。とはいえ、体躯は依然として分厚く、腕の太さも肩
の逞しさも尋常ではない。三毛猫の鋭い眼光と、只者ではないと察せられる佇まい、肌にねっとり纏わりつく濃密な怒気に気
圧されて、黒服達は鼻白んだ。
「誘拐犯ときたか…。ひと様の商売と客の楽しみを邪魔するってのかぁ…?めでてぇ祭りに水さすってんなら、叩き伏せんぞ
ゴルァアッ!」
怒声を上げて猛る三毛猫は、先程までの陽気で太い笑みを消している。鼻面に小皺を寄せて鋭い牙を剥き出しにしたその顔
は、一転して猛獣の如き迫力を有していた。
「おし!行くぞキヌタ!」
「え?で、でも…」
戸惑うキヌタの手を力任せに引きながら、キンジはニヤリと不敵に笑う。
「大丈夫だ…!あのおっさんは物凄ぇ腕っ節が強ぇんだよ。…前にな、おれら全員、纏めて叩きのめされた事がある…!うー
おっかねぇ!」
そのままキンジは天幕の向こうへキヌタを引っ張り込んだ。店の裏手、夜店と建物の間にある狭い空間に。
三毛猫の啖呵で気付いたのか、血気盛んな他の夜店の店主達も、誘拐犯呼ばわりされている黒服の妨害に加わり、通りには
にわかに剣呑な怒声と空気が立ちこめた。
そして程なく、黒服達が強引にキヌタを追おうとした事をきっかけにして、夜店の店主達と黒服集団の大乱闘が始まった。
悲鳴を上げつつ巻き込まれないよう騒ぎから逃げる客達は、しかし祭りの空気にのぼせていたせいか、怖さ半分興味半分で
乱闘を見物する。
三毛猫の「どすこぉい!」という気合いの入った掛け声に続いて「ぐぇっ!」とカエルが潰れたような声が聞こえ、野次馬
から歓声が上がると、夜店と建物の隙間を駆けて逃げるキンジは、「相手が悪かったな偽物共!」と楽しげに笑った。
「夜店の通りで騒ぎだってぇ!?位置は!?…くそっ!反対側か!」
移動中の車内で部下から連絡を受けたシオンは、騒ぎが起こったその場所が、自分達が居る位置からかなり離れている事を
知り、舌打ちをした。
「あっしはここで降りる!連絡して、野郎共全部こっちに回せ!」
「了解!」
返事をしながら部下が急ブレーキをかけると、止まりきっていない車のドアを開け、シオンは飛び出した。
大通りは祭りのために交通規制が敷かれており、歩行者天国になっている。裏道も客でごった返している事は容易に想像で
きたので、シオンは車で大回りするより人混みを突っ切った方が早いという判断を下したのだ。
「坊ちゃん…!どうかご無事で…!」
シオンは珍しく焦りの表情を浮かべているが、それも無理のない事だった。
騒ぎの詳細は判らず、原因にキヌタが関係している確信もないが、巻き込まれて怪我でもしたら一大事である。
(しかし厄介だぜこいつは…。万が一にも坊ちゃんが「あの才能」を発揮なさってりゃ探し出すのは一苦労だ…。こっちの行
動まで俯瞰推測の計算材料に組み込まれちまったら、あっしらが何人で探そうと簡単に抜けられちまう!)
マラミュートは祭りの客で混み合った大通りを、隙間を縫うように凄まじい速度で駆けて行った。
間近を通り過ぎた彼が獣人だと気付けなかった者も多いほどの、尋常ならざる疾走を見せて。
雑居ビルとカラオケ店の隙間にある細い空間に駆け込んだキンジは、奥に入り込んだ所にあった四角いゴミ箱の陰にキヌタ
を引っ張り込み、身を隠した。
完全に姿を隠せはしないが、暗がりでゴミ箱の陰に蹲れば、丸見えになっているよりは幾分マシな状態になった。
「おい、大丈夫かキヌタ?」
地べたにへたり込んで肩で息をするキヌタは、口元を押さえていた。
普段から殆ど運動もしていないキヌタは、キンジに引っ張り回されて体力の限界を迎えている。
おまけに、満腹の状態からいきなり全力疾走させられたおかげで腹の調子がおかしくなり、脇腹が痛んで嘔吐しそうになっ
ていた。
「気分悪いなら吐いても良いんだぞ?」
「ん…。だ、大丈夫…」
ちっとも大丈夫そうに見えないキヌタを見下ろしていたキンジは、彼がまだ水風船を掴んでいる事に気付いて苦笑する。
持っている程度の余裕はあったのか、それとも捨てる余裕すらなかったのか、どっちなのかは判らなかった。
辺りの様子を窺いながらキヌタの呼吸が落ち着くのを待ったキンジは、やがて口を開いて彼に尋ねる。
「さっきのヤツらがおめぇを誘拐しようとしてたってのは、間違いねぇかな?」
「ど、どうなんだろう?心当たり無いんだけど…」
心当たりが無いのは問題だろう?と思ったキンジは、呆れて物も言えなくなった。
リスクが大きい上に成功する確率は低いだろうが、もしもキヌタを拉致できれば、天下の鼓谷から多額の身代金を得られる
かもしれないのだ。その程度の事すら思いつけないキヌタは、もはや「人が良い」を通り越して「謎の生物」である。
(警戒心とか、誰かを疑うとか、そういうモンが欠けてんだよなーコイツ…。自分の立場をいまひとつ理解できてねー節もあ
るし…)
胸中でぼやいたキンジは、キヌタから黒服の正体に関する情報を得るのは無理そうだと判断し、渋い顔になる。
「こうなったら、即座に脱走したのがバレちまうから気は向かねーけど、屋敷のひととか警察を頼るのが一番だろーな。どっ
かで電話を…。くそっ!だから携帯買ってくれってあれほど言ったんだよお袋!こういう時こそ役立つのによー…!」
頭を掻きむしったキンジは、自分達が入ってきた細い通路の先…通りが覗ける切れ目を黒い物が横切り、慌てて屈む。
が、一度通り過ぎた黒服は、すぐに戻って来てキヌタとキンジを確認し、仲間を呼んだ。
「くそっ!走るぞキヌタ!」
キンジはゴミ箱を蹴ってひっくり返し、気持ちばかりの足止めにして駆け出した。
細い空間に殺到してきた黒服達との距離は30メートル程。キヌタの足を考えれば余裕はあまり無い。
苦しげに喘ぐキヌタは気丈にも弱音を口にしようとしなかったが、体は誤魔化しがきかず、足がもつれ始めている。
キンジは舌打ちした。自分一人ならどうとでも逃げられる自信はあるが、連中の狙いは鈍いキヌタの方。キンジが囮になる
という作戦は使えない。
しかもキヌタが既にへばっているので、いつまでも走っている訳にもいかない。そもそも速度が違い過ぎるので、ただ走っ
て逃げ切るのは無理があった。
何処かに隠れるか、キヌタを隠すかしてやり過ごすしかない。そう判断したキンジだったが、いくつかの角を曲がった後、
どん詰まりに行き当たってしまう。
「嘘だろ!?ここは向こう通りまで繋がってたはず…」
学校の教室の半分も無い建物の隙間で、キンジは面食らった。
つい数ヶ月前までそこから向こう側へ自由に行き来できていたのだが、彼が知らぬ間に出現していた高い壁が、二人の行く
手を阻んでいる。
元々が公道ではないそこは、新しくできたスポーツジムの背中で塞がれてしまっていたのだ。
ここまでに分岐点はいくつかあったが、黒服がここに到達するのは時間の問題。迷う時間すら殆ど無い。
キンジは唇を捲りあげて牙を噛み締めると、弾かれたようにその空間の隅に目を向けた。
廃材なのか、それとも作業用機械なのか、もはや元が何だったのか判らないほど朽ち果てて錆にまみれた鉄の塊が、色褪せ
て端から破れて穴だらけになったブルーシートを被せられたまま、その空間の隅に放置されている。キンジが小さかった頃か
らずっと…。
そしてキンジが「その事」を思い出すまで、一秒もかからなかった。
キンジはキヌタを引っ張ってそこまで連れて行くと、シートを捲って乱暴に中へ押し込む。
腐食した鉄屑の集合体には、中央に土管が通っているような穴が空いている。地元の子供達は秘密基地として利用していた
事もあったので、キンジはその空間の事を知っていた。
その穴は貫通しておらず、中が覗けるのは出入り口である丸穴一箇所だけ。そこにキヌタを押し込んで封をしてしまえば、
見た目はただの鉄屑の塊になる。
キヌタの肥えた体には穴が窮屈だったが、キンジは痛がる彼を無理矢理ギュウギュウ押し込んだ。
「き…、キンちゃ…」
「しっ!声出すなよ!良いって言うまで絶対出て来んじゃねーぞ!」
キヌタに小声でそう告げると、キンジは手近な位置にあった錆びた鉄板を被せて穴を隠す。
少し調べられれば簡単にバレてしまうが、キンジにとって重要なのは、僅かな間でも目を誤魔化す事であった。
ゴールデンレトリーバーはブルーシートの陰に身を隠し、近付いてくる足音を待ち受ける。
「…行き止まりか?」
「いや待て、あそこを…」
黒服達はブルーシートがかけられた塊に目を止めた。
相手は子供二人という事もあり、慎重さすら無い無造作な足取りで駆け寄る。
(…三人か…)
キンジは目を閉じて足音と声を確認し、スーハーと一度深く呼吸すると、
「おらぁっ!」
「げぅっ!」
最初の一人がブルーシートを回り込むなり、屈めていた体を伸ばしつつ前蹴りを放った。
足の甲と臑が描くカーブラインに、柔らかい物が当たったかと思えばグシャリと潰れるその感触を、キンジははっきり確認
する。
出会い頭に急所を蹴り潰された男は、股間を手で押さえた格好で俯せに倒れ、ビクビクと痙攣し始めた。
不意打ちだったとはいえ、仲間の一人が一発で子供にのされると、他の二名は警戒の色を濃くした。
ブルーシートと建物の隙間という狭い空間に居るキンジを、前後からじりっと挟む二人。しかし…、
「動くなよ?それ以上動いたら…」
キンジは俯せに倒れて痙攣している男の頭部に足をあてがい、獰猛な笑みを浮かべる。
「コイツの頭、思い切り踏むぜ?」
一瞬躊躇した男達だったが、しかし仲間を見捨てて目的を取った。
「上等っ!」
動き出した男達に対し、牙を剥き出しにして凶暴な顔つきになったキンジは、宣言通りに男の後頭部を踏みつけて見せた。
ゴヅッと、グチャッ、が混じった嫌な音が響く。
鼻が潰れて頬骨を骨折した仲間を見て、残る黒服二名の一方…キンジの正面側から迫っていた男が一瞬怯んだ。
男達は暴力のプロである。だからこそ感じ取った。目の前に居る若いゴールデンレトリーバーが持つ、彼らでさえ薄ら寒く
なる程の冷徹さの一端を。
無駄な手間をかけた訳ではない。キンジは牽制の意味を込め、また、自分の本気を示す材料として、男の頭を踏みつけたの
である。そしてそこには、相手への配慮など全く無い。この程度で死ぬなら死んでしまえとさえ思っている。
キヌタには見せた事のない凶暴な光が、「敵」を見据えるキンジの両目に宿っている。
凶暴にして獰猛、そして冷徹…。内に秘めた獣性と冷酷さを顕わにしたキンジの肢体が闇に伸び、黒服を迎え撃つ。
ボクシングの構えにも似たスタイルで腕を上げ、突っ込んで来る黒服に対し、キンジは右腕を繰り出した。
ブロックしようとした黒服は、しかしそれが拳で無い事をすぐさま悟り、そして…、
「せぇっ!」
「ごっ!?」
気付いた時には、もう手遅れだった。
手を開いて指を揃え、相手を制止するかのように手を突き出したキンジは、それを目隠しにして左の正拳を放っていた。
手の陰から飛び出す格好になった拳は、ガードを上げた男の腕の隙間を通って胸に命中し、胸骨を割っている。しかし、キ
ンジの攻撃はそれだけに留まらなかった。
「りゃあっ!」
腕を引きつつ入れ替わりに繰り出した右の横蹴りが、男の鳩尾に飛び込んだ。すると、大の大人が軽々蹴り飛ばされて宙を
舞う。
胸骨粉砕に加えて内蔵破裂、一瞬で瀕死に追い込まれて吹っ飛んだ男は、後頭部を硬い地面にぶつけて動かなくなる。
そしてキンジは素早く体を回転させ、後ろ回し蹴りを放った。
顔の高さを横切った靴が、背後から駆け寄っていた男の眼前を通り過ぎる。
反応が良い。他の二人より手強い。そう判断したキンジの顔に、暗い歓喜の笑みが浮かぶ。相手を壊す爽快感と力を奮う開
放感に彩られた、獰猛な笑みが。
逆に男は顔を強ばらせ、恐怖すらしていた。
中学生を相手に、心の底から恐れを抱いていた。
懐に汗ばんだ手を突っ込み、得物を抜き出す。黒く塗装された伸縮式の警棒を。
武器を手にしながらも不用意に攻め込まず、間合いと機を伺う男に対し、キンジは笑みの形に口を歪めながら、ジャリッと
一歩踏み出した。
男は詰められた距離と同じ分だけ、怯んだように後退る。
おかしい、と感じている。一瞬見ただけだが、キンジのパワーとスピードは明らかに常軌を逸していた。鍛えに鍛え、場数
も踏んで来た男達が、キンジの前では子供同然に無力だった。
男は漠然と感じた。このゴールデンレトリーバーは、タガが外れている、と…。
根拠も推察する材料も無かったが、それでも男が感じた印象は間違っていなかった。
キンジは確かに、タガが外れている。
より正確に言うならば、タガが壊れている。
自分の体が壊れてしまわないよう、発揮できる力が無意識にセーブされている一般人とは異なり、キンジは生まれつき、負
荷が自分の体を壊してしまう程の剛力を発揮できた。
大人二人をいとも簡単に破壊する芸当も、110キロもあるキヌタを腕の力だけで持ち上げる真似も、この剛力による物で
ある。
その症状は「先天性禁圧障害」と呼ばれる物だったが、キンジ自身もそこまでは知らない。
しかし、漠然とだが「力を出し過ぎると体が傷む」と感じているため、平常時は意図的にセーブしている。
それでも時折力の適量を見誤り、怪我をしてしまうのだが…、それが、友人達に「故障が多い」と称されるキンジの真実で
あった。
そして、脳に原因があるこの症状は、もしかしたらキンジの性格にも幾ばくかの影響を与えているのかもしれない。
今の彼が見せている、常軌を逸した底抜けの凶暴性と、暴力に歓喜する獰猛さ、それでいて計算高い冷徹さの発露などがそ
れである。
キンジはキヌタを隠したが、それは連中からキヌタを隠すというより、キヌタが外を見られなくなる事を狙った行動だった。
二人や三人に纏めてかかって来られた所で、ねじ伏せる事は容易いと踏んでいたが、キヌタにこの情景を見せたいとは思わ
なかったのである。
「らぁっ!」
凶暴で獰猛で冷徹な黄金色の稲妻が、黒服めがけて突進する。
信じ難い瞬発力を発揮し、瞬き一つの間に間合いを詰めたキンジの視界で、怖れに強ばった男の顔が拡大する。
反射的に警棒を振るった男は、直後に手の甲へ衝撃を感じ、得物を手放してしまった。
下から跳ね上げた左手の手首上部で男の手を下から叩き、避けるまでもなく攻撃を防いだキンジは、左手を引きつつ右拳を
繰り出した。
男の鼻が折れ、唇が潰れて裂け、前歯が内側に向かって折れる。
手加減無し、渾身の一撃で顔の下半分を破壊された男は、声も無く仰け反り、
「しっ!」
次いで繰り出された左正拳で顎を砕かれ、一瞬宙に浮いた後、大の字になって地面に倒れる。
キンジは素早く構えを戻して残心したが、三人とも動く気配がないと悟ると、
「ふん!」
忌々しげに自分の左脚を見下ろした。
相手が反応し辛い程の速度を発揮した代償に、ふくらはぎで筋肉が断裂している。
キヌタを守る為にも絶対に負けられない喧嘩だったが故に、出し惜しみせず全力を発揮した結果がこの有様であった。
激痛で脂汗を流し始めながらも、キンジはキヌタに声をかけようとして、止めた。
「…どういう事だこれは…?」
新たに駆けつけた黒服八名が、倒れた仲間とキンジの姿を確認する。
(くそっ…。思ったより多く来やがった…。三宅のおっさん達がやられたとは思えねーし、予想以上に多く居たって事か…)
痛みを堪えながら、キンジは獰猛に笑う。
「かかって来いよ。キヌタの所には行かせねーぞ?」
キンジはあえてスポーツジムの壁を背に庇うような姿勢を見せ、言葉で男達を惑わす作戦に出た。
(足一本か…。結構痛ぇ出費しちまったなー。こんなに増えるならもうちょっと慎重にやるべきだったか?…まぁ、今更ぼや
いても仕方ねーし、何とかするか…)
男達は無言で扇状に散開し、キンジを遠巻きに囲んだ。
そして各人の手が懐から棒状の物を取り出す。
一瞬警棒だと思ったキンジだったが、しかしすぐさま気付いた。見せつけるように先端からスパークを散らしたそれがロッ
ド型スタンガンである事に。
(電気ショックぐれー何でもねーや。…と言いたいトコだが…、この怪しい連中の事だし…)
キンジは確信した。男達のスタンガンが出力を弄った改造物だと。
触れただけで動けなくなるレベルの感電を味わわされるかもしれない。そう考えたキンジだったが、不敵で獰猛な笑みは消
えていない。
「鼓谷絹太は何処だ?」
「うるせぇ!行くぞおらぁっ!」
男達の一人が発した質問には答えず、囲まれては面白くないので端の男を狙って動き出すキンジ。
しかし左脚を庇うようなその疾走は、先程の物と比べて段違いに遅かった。
男達は易々と間合いを保ってキンジを包囲し、攻め切れないキンジは一転して窮地に立たされる。
だが、男達が手足の届く範囲に入れば勝算はある。
一発も受けられないが、キンジのリミットが壊れた筋力ならば、一撃で一人ずつ仕留めて行く事は充分可能だった。
一人に狙いを定めて挑み掛かるふりをしたキンジは、わざと作った隙に引っかかった男が後ろから間合いを詰めると、体に
無理な急旋回を強いる回し蹴りで踵をお見舞いし、頬骨を粉砕骨折させる。
怯まずスタンガンを押しつけに来たもう一人には、身を捌きつつ肘を殴り、関節を逆向きに折ってやった。
続けて来られた攻撃はかろうじて回避した。鼻先を通り過ぎるスパークにも怯まず、瞬きすらせずに男達の動きに集中する。
しかし、分が悪過ぎた。
触れられる事すら許されない上、多勢に無勢。左脚を痛めて機動力を欠いたキンジは、包囲から抜け出して優位なポジショ
ンを取る事すらできない。
せめて壁を背にできれば攻撃される方向が限定されるのだが、息が合った男達の巧みな包囲と慎重な攻めは、それを許して
くれなかった。
「ちっ!」
舌打ちしながら身を捻り、襟元を掠めるような一撃を際どく避けたキンジは、闇に残像すらはっきり刻むその動きの代償に、
決定的な消耗を強いられる結果となった。
無理な運動を続けた結果、負荷に耐えきれなくなった右足で、バツッと音を立てて筋が切れ、ゴールデンレトリーバーは体
勢を崩す。
隙を逃さず振り下ろされるスタンガン。尻餅をつく格好で倒れ込みながらも、敵意剥き出しの目で拳を繰り出すキンジ。
男の顔面を陥没させた一撃と引き替えに、キンジはついに、高電圧をその身に浴びた。
「!!!!!!!」
声すら出せずに全身を突っ張らせたキンジの体が、硬いアスファルトの上で跳ねる。
痺れは感じていない。だが、衝撃が全身を駆け巡ったと思った次の瞬間には、体が動かなくなっていた。
横倒しになったキンジは徐々に感覚を取り戻して行く。その時点で全身の筋肉が痙攣している事や、絞られるような痛みを
自覚したが、体はもう言う事をきかなかった。
「お前は何者だ?鼓谷絹太は何処だ?」
男の一人が低い声で囁くが、キンジは獰猛な笑みを顔に張り付かせたまま、挑むような目で睨み返す。
「へっ!もう手出しできねートコまで逃げてるだろーよ。ちなみにおれはただの中坊」
キンジの言葉を挑発と受け取り、男は無言でスタンガンを押しつけた。
またも声は出なかった。無言のまま、キンジの体は突っ張って跳ねる。
恐怖は無いが、危機感はあった。
自分に構っている間は大丈夫だろうが、男達が動き出せばブルーシートの下も確認される。
上手く行けば気付かれずに済むだろうが、臆病なキヌタが音を立てずに隠れていられる保証は無い。
(頼むから静かにしてろよキヌタ?もう、だんまりでやり過ごす以外に手はねーんだから…)
心の中で祈るように呟いたキンジは、しかしその直後、自分の耳を疑った。
ガランッ、と響いた金属音に反応し、男達が一斉にそちらを見遣る。
次いで聞こえたのは、バサッとブルーシートが捲れる音。
「馬鹿…野郎…!」
悪態をついたキンジが首を捻り、そして見た物は…、
「キンちゃんに…、酷い事…しないで下さい…!」
隠れ場所から這い出して、太った体を恐怖でブルブル震わせながら立っているキヌタの姿だった。
「…鼓谷絹太…だな?」
暗がりのキヌタをフラッシュハイダーで照らし、眩しさに目を細めた狸の顔を確認した男達は、キンジの周りに四人残り、
二人がキヌタに歩み寄る。
駆けつけた八名の内、二名は昏倒しており、一名は腕を折られている。もはやまともに動けるのは五人だけだった。
「キンちゃんはただの友達です。鼓谷とは関係ありません!」
二人の黒服が前に立っても、キヌタは逃げようとしなかった。
だが、怯えていない訳ではない。キンジに貰った水風船を両手で胸に抱き、小刻みに震えている。
怖くて怖くて仕方がないのだが、キンジを見逃して貰おうと、必死になって踏み止まり、震える言葉を吐き出している。
その姿を見つめながら、キンジは歯軋りした。
情けなかった。悔しかった。そして腹が立った。
動けない自分が情けなかった。
多勢に無勢とはいえ負けた事が悔しかった。
自分を見捨ててくれなかったキヌタに腹が立った。
「大人しく従え。命までは取らない」
黒服の言葉を間近で浴びながら、キヌタはその顔を真っ直ぐ見返す。
「キンちゃんを逃がしてくれるなら、ついて行きます」
キヌタに話しかけていた黒服は、一度ゴールデンレトリーバーを振り返ったが、「それは駄目だ」と言い放つ。
「アレが何者なのか判らん以上、放置はできない。始末するかどうかは別として、一緒に連れて行く」
「キンちゃんは普通の中学生です!」
「ふん…、見え見えの嘘を…。所詮子供か」
キヌタの訴えは、しかし信用されなかった。
それが事実であっても、キンジの身体能力と獰猛さを目の当たりにした男達は、鼓谷が雇っているSPか何かなのだろうと
思い込んでおり、聞く耳を持たない
どうすればキンジを逃がせるのか?恐怖を押し殺して必死に頭を回転させていたキヌタは、ふと、妙な感覚を覚えた。
それは曖昧で、頼りなくて、今ひとつ捉えきれなくて、あまりにも漠然としていた。
だがしかし、キヌタは直感した。自分がどうするべきなのかを。
口を引き結ぶと、キヌタは背を丸めて前傾し、駆けだした。二人の黒服達の間を抜ける格好で。
咄嗟の事だったが男達も反応する。行く手を阻むように伸びた二人の腕が、キヌタの浴衣を掴んだ。
が、110キロの体重はそれだけで引き留められるほど軽くは無かった。
「キンちゃん!」
バランスを崩しながらも男達の手から逃れたキヌタは、キンジに駆け寄る。
「こっち来んな馬鹿…!」
呻くキンジの前に出た黒服が、キヌタと彼の間を塞いだ。
「わぁああああっ!」
目を瞑って体当たりをしかけたキヌタは、しかし横に退いた男に足を払われて派手に転び、顔を地面に擦る。
しかしめげずに身を起こし、再びキンジに寄り添おうとした。
「大人しくしろ!」
苛立った男が肩を掴むが、キヌタは滅茶苦茶に暴れた。
浴衣の袖が破れ、着崩れて、弛んだ上半身が半面だけあらわになる。
取り押さえようとする男の手に、キヌタは必死の形相で噛み付いた。
「つっ!このガキっ!」
「ぎゃうっ!」
噛まれた男は、力任せにキヌタの頬を殴る。
頬に硬い拳がめり込み、くぐもった悲鳴を上げて横倒しになったキヌタの腕から、大事に抱えていた水風船が飛んだ。
そして地面に落ちるなり、薄く張ったゴムが傷ついて、パンと割れ爆ぜる。
「…あっ…!」
目を見開いたキヌタの瞳に、無惨に裂けた水風船の残骸と、霧のように散った水が映り込んだ。
実母との思い出を蘇らせてくれた品…。
祭りの記念にキンジがくれたプレゼント…。
つい先程、大切にすると言ったばかりの水風船は、転ぶ時も大事に抱えていたのに、あっけなく壊れてしまった。
『…ま、すぐ壊れちまうだろーけどさ』
キンジの言葉が耳に蘇り、キヌタの目から涙が溢れた。
一瞬驚いたように見開かれたゴールデンレトリーバーの目が、狸の泣き顔を映し、
「…殺す…」
直後、そんな呻きと共に嚇怒に染まった。
「殺す…。殺す…!殺す!殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!ぶっ殺す!てめぇら全員ぶっ殺す!!!」
憤怒と憎悪を滾らせたゴールデンレトリーバーが、ぐぐっと身を起こした。
それを目の当たりにした黒服達が、ぎょっとしたように少年を見つめる。
改造スタンガンで触れられてもなお動ける事がまず驚異だったが、何よりも、そのただならぬ気迫に当てられてしまい、体
が強ばっている。
壊れた両脚をガクガク震わせながら立ち上がるゴールデンレトリーバーからは、暴力のプロでもなお怯むほどの、禍々しい
殺意が発散されていた。
殺すというのは比喩ではない。言葉通り、キンジは可能であれば間違いなく全員を殺すつもりになっている。
先程までとは違い、死んでも良い。などとは思っていない。死ね。と思っている。
自分が泣かせるのは構わない。むしろ泣かせたい。快楽でだらしなく泣き叫ばせたい。悦びに泣くキヌタの顔が見たい。
だが、今の泣き顔は気にくわなかった。
男達の泣かせ方は決して許せなかった。
キヌタにこんな泣き顔をさせた男達が、憎くて憎くて仕方なかった。
依存性と独占欲が一緒くたになった強い執着心が、大切なキヌタを泣かされた事で強烈な殺意を生み出している。
まともに動けないキンジに、しかし男達は警戒を強いられる。
先程までの驚異的な動きもあり、もしもまだ動けるならば油断できない。
キヌタは身を起こしてキンジを見る。
初めて見る鬼のような形相にショックを受けたものの、しかしキンジを想う気持ちに変わりはない。
「キンちゃん!」
身を起こしたキヌタが駆ける。キンジの傍に寄ろうとする。
「キンちゃん!キンちゃん!キンちゃぁん!」
自分を求めるその声を、キンジは足を無理矢理動かして摺り足で進みながら受け止める。
「キヌタ…!絶対渡さねぇ…!誰にもやらねぇ!」
二人の行く手を阻もうと、我に返った男達が動き出した。
しかしその瞬間…、
「鼓谷の者だ。全員動くんじゃねぇ」
静かな、しかし良く通る声が、四角い空間に響いた。
一同の目に映ったのは、闇に紛れる黒い服と、注ぐ月光を帯びて金属的に輝く被毛。
冷たい眼差しを男達に注ぎ、マラミュートはその空間へ足を踏み入れた。
シオンの出現で男達は動きを止め、
「シオン…さん…?」
一度立ち止まったキヌタはマラミュートを見遣ったが、小さく頷きかけられると、そのままキンジに駆け寄る。
「キンちゃん!」
泣きながら抱きついたキヌタを、痛む足を叱咤しながらしっかり受け止め、キンジは鋭い視線をシオンへ送る。
もしかして…、という感覚が確信に変わりつつあった。
キヌタが慕う飄々としたSPの雰囲気が、今はまるっきり変質して別物になっている。
(…やっぱりこの野郎、普通じゃなかった…)
キヌタがとりあえず守れる範囲に入った事で冷静さを取り戻しつつあるキンジは、男達の異常にも気付いた。
怯えている。
顔まで見ずともはっきり判るほど、男達は怯えていた。
「…シオン・マーベリック…?」
男達の一人が、ぽそりと小声で呟いた。
直後、男達の間を細波のように恐怖が広がって行く。
「マーベラスソルジャー、シオン…!?」
「馬鹿な…、聞いていないぞ…?」
「確か数年前に首都で…、生き残っていたのか?」
「それが何故鼓谷に…!」
浮き足立つ男達をしばし眺めていたシオンは、キンジに抱かれているキヌタに視線を向けた。
ゴールデンレトリーバーに縋り付いて泣いているキヌタ。その鼻から血の筋が伝い、口の端から滲んだ血が被毛を黒く染め
ている事を見て取ると、首周りの毛を微かに逆立てる。
シオンは激怒していた。
だがその怒りは、稲光の如きキンジの物とは具合が違う。
流されずに状況に適応できるよう感情を押し殺した、激しくも静かな、焦げ付くような憤怒であった。
だがシオンは、こちらを見たキヌタと目が合うなりすぐさま表情を緩め、ニカッと、普段の顔で笑いかける。
「坊ちゃん。お手間ぁ取らせて恐縮でやすが、お目々をちょいと瞑って頂いて、そのままゆっくり十五、数えて下さいやし」
戸惑うキヌタに、シオンは困ったような笑みを浮かべて「お願いしやすよ」と重ねて頼んだ。
「キヌタ。言うとおりにしろ」
少し硬くなった声でキンジが言うと、彼を見上げて頷いたキヌタは、逞しい胸に顔を埋めて目を閉じた。
直後、シオンの雰囲気が再び急変し、物騒な空気が漂い始める。
(しかしこいつぁどうした事だ?何でこの連中、「あっしが始末し易い形」に散らばってやがる?)
怒りのボルテージを高めて行きながら、シオンはふとそんな事を考えた。
キヌタが直感に従って動いたせいで、連携が取り難い形にばらけてしまった男達の配置を確認しながら。
連中がキヌタを人質にしようにも、今はキンジの腕の中。おいそれと近付く事はできない。
先程キヌタが抱いた曖昧な感覚は、シオン到着というこの決定的な状況で、彼らに優位性をもたらしていた。
(坊ちゃんの「あの才能」が発揮されたのかねぇ?…っとまぁ、とりあえず…)
既に自分でも三つ数えたシオンは、ぐっと身を屈めるなり地を蹴った。
キンジは目を見張る。
彼が自分と同等の速度で動ける男を見たのは、これが初めての事だった。
金属的な光沢で微かな灯りを照り返し、弱い光の帯を目と耳先から後ろに引いたシオンの疾走は、ろくな反応もできなかっ
た最も近い男との距離を瞬時に詰める。
半ば反射動作でスタンロッドを突き出した男の腕に、僅かに上体を傾けて避けたシオンの左腕が絡みつく。
直後、ボギャッと、湿った枯れ枝が折れるような音が響いた。
「ぎゃ…」
しかし、男が上げかけた悲鳴すらも頭だけで途切れる。
左手で手首を掴まれ、腕を捻って伸ばされた上で真下から肘関節に拳を叩き込まれ、あっさり逆向きに肘を折られた男は、
そこから折り返した右のエルボーが鼻に飛び込んだせいで、苦痛を噛み締める間もなく昏倒していた。
仰向けに倒れる男の脇を、曲線を描いてすり抜けたシオンは、次に近い二人目の男に突進する。
今度は相手も身構えていたが、しかしレベルが違い過ぎた。
横殴りの一撃を急停止からのスウェーでやり過ごし、空ぶった男の襟を掴むなり、左脚めがけて、踏み付けるように靴裏を
当てる。
膝の皿を踏み割り、関節を逆向きに曲げて破壊したシオンは、そのまま襟首を掴んだ腕を担ぐように持ち直して体を反転さ
せ、背負い投げの要領で投げ飛ばす。
投げた方向には三人目の黒服。慌てて避けるが、それを追うように駆け込んだシオンの跳び蹴りが、その顔面を陥没させる。
さらに、仰け反った男の上で両脚を引き込み、崩れ落ちるその男の胸を踏み台にして跳躍。惚けたように立ちすくんでいる
四人目に宙から肉薄したシオンは、その膝を顔面に落として粉砕。さらに男が崩れる前に肩口に手を当てて逆立ちの格好にな
ると、勢いを付けて反転し、胸部に両膝を入れて蹴り飛ばす。
顔と胸を破壊された男が後頭部から倒れつつ地面を滑走する。
そちらに一瞬目を奪われた五人目は、間合いを詰めたシオンに眼前までの接近を容易く許してしまっていた。
「くっ!」
振るわれたスタンロッドが空を切る。撫でるように添えた手で軌道を逸らされて。
次いでパンッと音がしたかと思えば、その手から得物が飛んで宙を舞っていた。
素手になった男の顎下を、アッパーカットが痛打する。
仰け反った男は、消えゆく意識の中で遠く聞いた。
だめ押しに、自分の足首が外側から斜めに踏み砕かれた音を。
シオンに言われた通りに十五数えて目を開けたキヌタは、驚愕で固まっているキンジの胸の中から周囲を見遣る。
「もう大丈夫ですぜぃ、坊ちゃん」
残るはキンジに腕を折られた男一人だけ、どうとでもなる相手である。
若い主が怪我をさせられたお返しに過剰な報復を込めた制圧を、シオンは予告通りの時間で終了させていた。
「そこの、下手に動くんじゃねぇぜ?もしも動いたら…、まだ気も晴れねぇ事だし、お仲間よりもっともっと酷い目を見せて
やるかなぁ…」
腕が折れた男がすっかり戦意喪失している事を悟りながらも、シオンは改めて恫喝で釘を刺した。そして襟元に触れ、通信
機に囁きかける。
「坊ちゃんを保護した。ついでに11人の身柄を確保済みだから、連行できるような人数をこっちに回しな。それと、鼓谷の
息がかかった病院を手配しろ。急げよ?坊ちゃんとご友人がお怪我をなさってる。場所は…」
その声を聞きながら、キンジは、自分がシオンに見とれていた事に気が付いた。
恐ろしく無駄がないと共に容赦もない、徹底的な人体破壊に特化した、彼の格闘術に…。
キンジが知るどの格闘技とも違うそれは、ひとが猛獣に魅せられるように、キンジの心を鷲掴みにしてしまった。
やがて、通信で部下に指示を出すシオンから視線を離し、キンジは胸の中のキヌタを見下ろす。
「終わったみてーだ」
「…うん…!」
鼻に掛かった涙声で返事をしたキヌタは、キンジの胸に顔を埋める。
「キンちゃん…!ごめんね…。ごめんねぇ…!」
無言でその頭を撫でてやったキンジは、安堵すると共に面倒くささも感じていた。
直感していた。本当はこれで全部が終わった訳ではないのだろう、と。これからゴタゴタした事が山ほど待っているのだろ
う、と…。
「…やれやれ…」
呟いたキンジは地面の一角へ視線を向ける。
割れた水風船から零れた水が、路面に小さな水たまりを作っていた。
そして、三日が過ぎた。
暇を持てあまし、二度も読み終えた雑誌をまた眺め始めながら、キンジはつまらなそうにため息をついた。
ゴールデンレトリーバーはあの晩から、鼓谷が手配したこの病院で個室に押し込まれ、治療を受けさせられている。
治療費入院費その他諸々は全てあちら持ちという事で、金銭的な負担はゼロだった。
キンジの両脚は本人が思っていた以上に酷い状態で、今後一週間の入院治療の後、松葉杖生活が予定されている。
それでも驚異的な快復力なのだと医師に驚かれたが、キンジにしてみれば有り難くも何ともない。
外の情報が入って来ない。彼の仲間達はあの後黒服に逃げられ、事件とは関わっておらず、逆にキンジが質問責めにあった。
三毛猫をはじめとする黒服達と乱闘を繰り広げた夜店の店主達は、相手がキヌタ誘拐を企てていたと判明した事と、鼓谷が
裏から手を回した事もあって、警察から軽い注意を受けただけで済んだらしい。
むしろ、埋め合わせにか、それとも口止めにか、気味が悪くなる程の謝礼金が鼓谷から下りて、逆に戸惑っているそうだ。
元々放任主義で朝晩しか顔を見せない親も、キンジがキヌタを助けてくれた礼にと赴いた鼓谷の者から一通りの説明は受け
たそうだが、キンジが知り得た程度の事しか話されていない。
そして何より、あの夜病院で引き離されて以来、キヌタの顔を見ていない。
(どうしてんのかな、アイツ…)
おそらくこってり絞られた事だろう。仲間達が遊びに行っても体調不良を理由に会わせて貰えない事から、接触禁止を告げ
られた可能性も高い。
キヌタの状況を確かめようにも動きようがない。自己判断で無茶をやったとはいえ、今は動けぬ自分の身が恨めしかった。
雑誌を閉じて枕元に放り出し、苛々しながら吊られている脚をちらりと一瞥したキンジは、次いで秋晴れの青空が広がる窓
を睨んだ。
(飛び出して行けたらいいのにな…)
そんな事を考えた瞬間にノックが鳴り、音に反応したキンジは顔と耳をそちらに向ける。
「失礼しますよ」
断りを入れて入ってきたのは、やや背が低い、しかしずんぐり丸い体躯の狸。
白衣を着ている事から医師だと思うが、見慣れない顔だった。
年齢はおそらく五十前後と思われる。でっぷり肥えたその見た目は、キンジの脳内辞書から医者の不養生という言葉を引っ
張り出した。
狸という事ですぐさま鼓谷の血縁かと考えたキンジは、しかしネームプレートを見て名字がまるっきり違っている事を確認
し、おそらく違う…少なくともキヌタと近縁では無さそうだと判断する。
「具合は如何ですか?」
丁寧な口調の低い声に、キンジは頷きながら応じる。
「だいぶ良いですよ。だからちゃちゃっと退院しちまいたいぐらいで」
「元気が出て何よりです」
狸はキンジに繋がれたバイタルサインや点滴を確認すると、改めて彼を見遣った。
「大変でしたね。お友達のせいで」
「…「せい」…てのは、どうなんだろ…。おれが無理言って連れ出したんだし…」
キンジは応じつつ考える。どうやらこの医師はある程度事情を知っているようだが、キヌタと親しい間柄では無さそうだと。
キヌタと親しい者ならば彼を庇うような発言があるはずだが、狸の物言いはキヌタに対して否定的に感じられた。
(あるいは、おれが庇った相手が鼓谷の御曹司だって事までは知らねーのかな…)
そう思い直したキンジに、狸は静かに訊ねた。
「無理を言って連れ出した?」
「うん。…まぁ、おっちゃん…ああいや、先生に言っても仕方ねーけど、そもそもおれが誘ったりしなきゃこんな事にはなら
なかったんだよなー…。悪ぃ事しちまったなーって、今は思ってる」
「ほうほう…」
「あれっきり顔も見てねーから、どうしてんだかサッパリなんだけど、おれのせいで怒られたろうし、相当落ち込んでんじゃ
ねーかなー…、ってさ、気になってんだよ」
暇を持てあましているキンジは、半ば愚痴に近い事を狸に話して聞かせた。
狸は控えめに相槌を打ったり、声を漏らしたりしながらキンジの話につきあい始めたが、長くなりそうだと感じたのか、椅
子を引いてベッドサイドに寄り、腰を下ろした。
背もたれのない丸椅子からは幅広の尻がはみ出している上に、微かに軋んで抗議していたが、本人は気にする様子もない。
キンジの話は、主にキヌタの事になった。
「友達のせいで」という狸の発言に反発を抱いた事もあって、フォローするように人柄や性質について語り、その身を案じ
ているのだと告げる。
狸は聞き上手で、キンジはついつい口を動かしてしまい、気付けばだいぶ時間が経っていた。
「あ…。わりーね先生、長話に付き合わせちまって。暇持てあましてたからついつい…」
長くなった事に気が付いたキンジは、話を打ち切り苦笑いした。
「いいえ。精神的ケアも医師の仕事ですから」
狸は口の端をほんの少しだけ緩めて、あるかなしかの微笑を浮かべる。
「では、お大事に」
狸はそう言って部屋を出て行き、一人きりになったキンジはしみじみとため息をついた。
「あ〜あ…。今のおっさん見てたら思い出しちまったじゃねーか…。キヌタの胸、揉みてーなー…」
リノリウムの床を踏み締め、白い通路を歩いていたシオンは、前方から来る人物を見て、驚いたように足を止めた。
でっぷり肥えたまん丸い狸は、目を真ん丸にしているシオンに対し、鷹揚に片手を上げて見せる。
人通りの邪魔にならないよう通路の隅に寄った狸へ足早に近付くと、シオンは眉根を寄せた。
「…こんな所で何してらっしゃったんで?」
「見舞い…かな?手ぶらだがね」
「その格好は一体なんでやすか?」
「コスプレというヤツだよ。昨日思い付いて早速作らせた。似合うかね?」
狸は白衣の襟元を摘んで見せ、シオンはため息をつく。
「お願いでやすから、SPもつけずにフラフラ出歩くのはお止め下さいやし…、総帥…」
でっぷり肥えた狸…、鼓谷財閥現総帥にしてキヌタの父、鼓谷錦(つづみやにしき)は、シオンの苦言に微苦笑を浮かべた。
「そういう茶目っ気はあっし個人としちゃあ嫌いじゃありやせんが、万が一にも御身に何かあったら警備の首が纏めて飛んじ
まいやす。そもそも予定じゃ今頃は本社でお取引先とご会談中のはずでやしょうに…、すっぽかしちまったんでやすか?」
「すっぽかすとは人聞きの悪い。きちんと影武者を立てたとも」
「…それを普通はすっぽかすって言いやすぜぃ…」
「覚えておこう」
悪びれた風もなく頷いたニシキは、思い出したようにシオンに訊ねる。
「あの若者には、まだ詳しい事情を説明してはおらんようだね?これからだったかな」
「ええ、今から邪魔するトコでやした。キヌタ坊ちゃんからも伝言をお預かり致しておりやすしね…。後手に回っちまいやし
たかね?」
「いいや結構。わしも彼の話を聞くばかりで、こちらからは殆ど何も話しておらんからね。正体がばれんようにと」
頷いたシオンは、表情を改めて確認する。
「本当に、昨夜おっしゃった通りに振る舞って構わねぇんでやすね?あの事まで話しちまって、良いんでやすね?」
「うむ」
鷹揚に頷いたニシキは、シオンと見つめ合った後、「さてと…」と足を踏み出した。
「わしは本社に帰るよ。あとはよろしく」
「心得やした」
深々とお辞儀したシオンは、ニシキの背中が遠ざかってから顔を上げ、苦虫を噛み潰したような顔で襟元に触れ、駐車場で
待機している部下に呼びかけた。
「…あっしだ。総帥がまたおふざけしてらっしゃる。あっしの足は手前で用意するから、全員で本社まで護衛しろ…」
『えええぇ、またですかー!?』
読むでもなくページを捲って雑誌を眺めていたキンジは、ノックの音でドアを見遣る。
そして、入って来た人物を確認するなり表情を硬くした。
「邪魔するぜぃ」
断りを入れて入室したシオンが、これまでとは違う雰囲気を纏っている事に気付き、キンジは緊張を深めている。
明らかに違っていた。客人としてキンジを扱っていた今までとは、彼を見る眼差しからして違っている。
シオンはツカツカとベッドサイドに歩み寄ると、先程ニシキが使っていた椅子を引き、腰を下ろす。
そして前置きもなく切り出した。
「坊ちゃんから伝言だぜぃ」
これまでとは違うシオンの口調に、キンジの目が鋭くなる。その耳に、
「「ありがとう。ごめんなさい」…との事だ」
マラミュートの静かな声が、やけに大きく聞こえた。
「…キヌタは今、どうしてんだ?」
「登校を除いて自宅謹慎。まぁこいつはいつもの事だが、風呂と食事、習い事の時間を除けば半ば自室に軟禁されてらっしゃ
る。総帥命令でな」
「そんな事だろーと思ったぜ」
キンジが応じると、シオンは鋭く細めた目で若者の顔をじっと見つめる。
「てめぇのせいなんだぜ?こいつはよ…」
シオンの声は低くなり、暴力的な匂いがする口調に切り替わった。
「坊ちゃんは自分で計画したっておっしゃってるが…、ありゃあ嘘だ。誰も信じちゃいねぇ。てめぇが妙な事吹き込みやがっ
たんだろう?坊ちゃんを焚きつけて、連れ出して、危険な目に遭わせやがったんだ」
「否定はしねーよ。この間の晩の事は、全部おれのせいだ」
シオンの目を間近から真っ直ぐに睨み返して認め、キンジは続ける。
「けどな、キヌタの扱いは間違ってるぜ。籠の中の鳥みてーに屋敷に押し込んで、ろくに外で遊ばせねーで、何だってあんな
真似してんだ?可哀相だろうが!」
「黙れ馬鹿野郎が!」
食ってかかったキンジを、堪忍袋の緒が切れたシオンが一喝する。
それでも怯む様子さえ見せないゴールデンレトリーバーに、常の飄々とした雰囲気をかなぐり捨てたシオンは、怒鳴り散ら
すように言葉を叩き付けた。
「何も知らねぇで勝手な事をほざきやがって!見ろ!てめぇの安っぽい正義感が作ったこの状況を!」
「ああ何も知らねーよ、おれは!でも間違ってるぜおめぇらは!」
「間違ってようと何だろうと、そんな事はどうでもいい!坊ちゃんのお命が最優先だ!」
シオンの怒声に、キンジは眉根を寄せた。
「…まるで、キヌタを外に出したら命が狙われるみてーな口ぶりじゃねーか?」
「「まるで」なんてもんじゃねぇ。ほぼ確実に、だ!」
吐き捨てたシオンは、激情を堪えて口調を静かな物に変える。
「坊ちゃんの母君が亡くなってる事は、知ってやがんのか?」
「ああ、キヌタから聞いた…。交通事故だったか」
思い出しながら応じたキンジに、シオンは頷く。
「ああ。ガードレールを突き破って崖下へ転落…。検死の結果、アルコールが検出された」
「酒飲んでの事故かよ…」
顔を顰めたキンジは気付く。シオンが浮かべた、せせら笑っているような表情に。
「不思議なモンだ。体質的にアルコールを受け付けねぇおひとが、深酒かっくらって山ん中…地元民もあまり足を運ばねぇ、
見付かり難い事この上ねぇ場所で、自損事故起こして亡くなってんだからよ」
「…どういう事だそりゃあ?…まさか…」
キンジはふと思い付き、口をつぐんだ。
(殺された…、とでも言うのかよ?)
その推測がおそらくは正しいという事を、キンジはシオンの表情から悟る。
「…警察には言ったのか?調べてんのか?殺人って事で…」
「言わねぇよ。それで犯人が逮捕されちまったら困るんだ。法で裁かれちまうからなぁ。だから表向きは事故のまま、こっち
だけで調べてる」
「…自分達で調べて、犯人捕まえて、どうするつもりなんだ…?」
キンジの問いに、しかしシオンは答えず、それ以上説明もせず、先を続けた。
「今回の連中なぁ、雇い主がまだはっきりしねぇが、身代金目当ての誘拐じゃねぇ」
マラミュートの瞳が浮かべた暗い色に、キンジは見入る。
「…身代金じゃなけりゃ…、何だよ…?」
「拉致した上で坊ちゃんのお命を奪うつもりだったのさ、連中は。きっちり本人と確認して殺してから、死体を目立つ所に放
置するように依頼を受けたらしい」
絶句したキンジを前に、シオンは考える。
(間違いなく、跡目相続に関わってるヤツが一枚噛んでやがる…。行方不明じゃ収まるまで時間がかかっちまうが、死体があ
りゃあそれまで…。後継者からはすぐに外れるからな…)
小さくかぶりを振ったシオンは、「これで解ったろう?」とキンジに告げた。
「世の中ってのはな、てめぇらガキが考えつくほど単純な事ばっかで回っちゃいねぇんだよ。坊ちゃんを亡き者にしようとす
る輩は掃いて捨てるほど居やがる。おいそれと外にお出しする訳には行かねぇんだ」
「………」
キンジは黙り込み、視線を下に落とした。が、
「先の連中はまだ良い。プロはプロでも粗末な部類だ。手際は良いが詰めが甘い…、一流には及ばねぇ。…けどな、坊ちゃん
は以前何度か「あっしみてぇなヤツ」にお命を狙われた」
シオンのその言葉で、弾かれたように顔を上げた。
この化け物じみたマラミュートのような刺客がキヌタを狙う…。想像するだけで背筋が寒くなった。
「屋敷に籠もってらっしゃれば比較的安全だ。騒ぎも起きるし簡単には手が出せねぇからな。だが、外に出りゃあそうは行か
ねぇ。学校と屋敷の往復路だけでも、チャンスと見た連中が時々手ぇ出して来やがる。ましてや、あんな人混みにSPも連れ
ねぇで入るなんぞ自殺行為だ」
「…なら…」
キンジはぼそりと呟くと、挑むような目でシオンを睨んだ。
「おれが傍に居てやる!この間の晩みてーに守ってやる!高校なんて行かねぇ!ずっと傍に居て守ってやる!」
「守る?てめぇが?」
シオンは鼻で笑うと、「冗談は顔だけにしやがれ」と肩を竦めた。
「あの程度の連中も一人でのせねぇガキが何言ってやがる。身の程を知れ、馬鹿野郎が」
こう言われてはぐうの音も出ない。シオンとの実力差を目の当たりにしたキンジは、強く出る事もできずに黙り込んだ。
「…さて、そろそろ行く。邪魔したな」
打ちのめされ、プライドがズタズタになっているキンジに背を向けたシオンは、「ああ、そうそう…」と、思い出したよう
なふりをしながら、独り言を装って喋りだした。
「坊ちゃんが命じられた謹慎もあと二日…。お友達が来た時の為に菓子でも用意しとかねぇといけねぇって、料理長が言って
たなぁ…。おこぼれに預かりてぇもんだ」
顔を上げたキンジは、ドアを開けて出て行こうとするシオンの背中を睨み、
「…連中に連絡しろってのかよ?」
と呟いたが、マラミュートは返事をしないまま部屋を出て行った。
「…「従順なようでもわしの息子。押さえ付けたままではいずれ反発もする」…か…」
通路に出るなり総帥の言葉を口にしたシオンは、頭をガリガリと掻きながら顔を顰めた。
「総帥に似て、SP振り回すようにはなって欲しくねぇもんだなぁ…、坊ちゃんには…」
それから日が沈み、昇り、日付は進んで十数日後…。
出入り禁止を覚悟しながら屋敷を訪ねたキンジは、以前と変わらない様子で迎え入れられ、拍子抜けした。
(連中から聞いてたけど、本当に前と同じように遊びに来て良いのかよ?)
そんな疑問を感じながら松葉杖を突き、エントランスホールに入ったキンジは、
「キンちゃん!?」
しばらく耳にしていなかった、聞きたかった声を全身で受け止め、階段を見遣った。
階段の一番上で立ち止まり、両手で口元を覆ったキヌタは、目をウルウルさせながらキンジを見つめている。
「…よっ。しばらく」
ニヤッと笑って挨拶したキンジに、キヌタは階段を駆け下りて近付く。
「もう良いの!?大丈夫なの!?」
「んー…、ペンキで言うトコの生乾きってヤツ?まだちょっとかかりそうだが、この通りぴんぴんしてるぜ」
強がるキンジの顔を見上げ、キヌタは泣き笑いした。
「…キンちゃん…。ありがとう…!」
久しぶりに訪ねて来たキンジを、屋敷の者は精一杯もてなした。
キヌタが危険な目に遭った原因はキンジにあるのだが、体を張って彼を守った事で帳消しになっており、何より、皆が不憫
に思っていたキヌタに祭りを楽しませた事がプラスに働き、評価が上がっている。
キヌタの身にもしもの事があればこうは行かなかっただろうが、キンジは外でそうであると同様に、ここの大人達にも好か
れていた。
食べきれないのはいつもの事だが、この日は普段にも増して豪勢な食事が用意され、キンジは目を丸くしながら食事に取り
組んだ。
そして、食後に赴いたキヌタの部屋で…。
「おれ、考えたんだ」
キンジはソファーに背中を預け、天井を見上げながらポツリと切り出した。
「高校には行かねー。おれ、ここに残ってお前の傍に居てやる」
「え?」
嬉しさと戸惑いを同時に抱いたキヌタに、キンジは続けた。
「シオンって言ったよな?あのSPの偉いひと。話がしてーんだけど、間持ってくれねーか?」
「そ、それは構わないけど…、シオンさんに話?どんな?」
「ごちゃごちゃした話。できれば二人きりで話がしてーんだ」
投げやりな口調とは裏腹に、天井を睨むキンジの目は真剣だった。
「SPにしろ…だと?」
一時間ほど後、キヌタに呼ばれて屋敷にやって来たシオンは、キンジと二人きりで応接間に入ると、彼の言葉で眉を顰めた。
「ああ。おれ、キヌタのボディーガードになってやる」
「高校はどうするつもりでぇ?醒山に行くって、坊ちゃんが言ってらしたぜ?」
「行ってらんねーよ。キヌタの傍に居てやる方が大事だ」
キンジの決意に満ちた表情を見つめ、しばし黙っていたシオンは、「ふん!」と鼻を鳴らした。
「話にならねぇな。てめぇ程度じゃ役に立たねぇし、基準にも満たねぇ」
「何だと!?」
立ち上がって食ってかかろうとしたキンジを軽く手を上げて制し、シオンは続ける。
「腕っ節はともかくとして、ウチの基準は高卒程度の学力は必須だ。その点でもおめぇは駄目だよ」
「そこは何とかしろ!頼む!」
「頼んでんのか命令してんのか判んねぇ言い方だなぁおい」
顔を顰めたシオンは、「話はそれだけか?」と言うなり腰を上げた。
「待てよ!まだ話は終わってねーぞ!」
「礼儀もなってねぇようじゃSPは務まらねぇよ。そもそも腕っ節だけじゃ雇えねぇなぁ。第一そんな部下はあっしが欲しく
ねぇ」
シオンは構わずドアに向かって歩いて行くが、後ろで聞こえた物音に反応して足を止め、振り返る。
「頼む…!この通りだ…!」
キンジは床に這い蹲り、シオンの背中に向かって土下座していた。
屈辱で顔が歪むが、プライドは二の次とし、懸命に己を抑えた。
生まれて初めての土下座で懇願したキンジだったが、
「駄目だ。規則は規則だからな。曲げて入ろうったってそうは行かねぇ。規則も守れねぇ部下はそもそも要らねぇしな」
シオンはそう応じて前を向く。
「…だが…、もしもやる気があるんなら…」
含む物があるようなマラミュートの声に反応して、キンジは顔を上げた。
「醒山…、あそこの近くにもウチの訓練施設がある。もしもてめぇにその気があるんなら、学校に行きながら、三年間そこに
通ってみろ」
ドアノブを掴みながら、シオンはニヤリと笑った。
「あっしが行ってる間は、直々に仕込んでやる。それで使い物になるようだったら、今の話も改めて考えてやらぁ」
閉ざされたドアを見つめ、キンジは顔つきを厳しくした。
まだ迷っているが、道は見えて来た。
(三年間…。三年でアイツに認めさせれば…、おれは、キヌタを…)
床についた手をギュッと握り込み、キンジは口元を真一文字に引き結んだ。
「…やってやろうじゃねーか…!」
そして月日は流れ、長い冬がやって来た。
卒業式を間近に控えたこの日、キンジはキヌタの部屋から窓の外を…、舞い落ちる綿のような雪を眺めていた。
「どうかしたの?キンちゃん。ずっと外を見てるけど…」
ホットココアが入ったマグカップを手に、キヌタが歩み寄ると、
「あー…。醒山ってさ、ここより寒いらしーんだわ。で、ちょっとその事考えてた」
キンジは寄り添う狸にそう応じながら、自分のカップを持ち上げてココアを啜る。
あと少しでこの生活ともお別れ。二人ともその事を自覚しているが、表立って寂しがる様子は見せない。
キンジはあれからすぐ、SPになるという決心をキヌタに打ち明けた。
そしてキヌタもまた、それを受けてある決意を固めた。
自分がある程度偉くなれば、認めて貰えれば、キンジを指名して専属SPにする事ができるかもしれない…。そう考えたの
である。
今まで以上に勉学に励み、父の期待に添うように振る舞い、せめてキンジを傍に置いておく我が儘を許して貰う…。
それが、キンジの決心を受けてできた、キヌタの新しい目標であった。
「ずっと一緒に居られるように、頑張ろうね!」
「ばーか。おれは余裕なの。大変なのは皆を認めさせなきゃなんねーおめぇの方!頑張れよ?冗談抜きに!」
キンジに額を指で軽くつつかれ、はにかみ笑いを見せるキヌタ。
「さてと…。今日もそろそろ始めるか…。風呂場でやるぜ?」
キンジはぼそっと言うなり、キヌタの方にそっと腕を回した。
こくりと頷いたキヌタは恥ずかしげに顔を伏せ、促されるままカップをテーブルに置き、肩を抱かれて廊下へ向かった。
「んっ…!」
浴室のタイルに四つんばいになったキヌタは、眉を顰めて声を漏らした。
背中側に起こした太い尻尾…、その付け根の下に冷水をかけられて。
「どーだキヌタ?気持ちいいかー?んー?」
シャワーヘッドを握るキンジは、ニヤニヤしながら肛門と陰嚢へ冷水を浴びせ続けた。
玉袋は水の冷たさにキュッと縮み、肛門はすぼまる。
冬の最中では苦しさすら覚えるこのプレイに、しかしキヌタは責められる快感に溺れ、既に乳首を硬くしていた。
しっかり濡らして冷やした睾丸を、キンジは後ろからギュッと握る。
「あうぅっ!」
やや乱暴な愛撫で苦しさを、そして急所を鷲掴みにされた恐怖を、何よりも苛められる快感を覚えながら、キヌタは肥えた
体を震わせた。
その陰茎が、早くもひくひくと動いている。
「どーしたデブタヌ?もう感じてんのか?真面目で可愛い振りして、とんだ淫乱だよなー、おめぇはよー。屋敷の人達にこの
姿見せたらどんな反応するかなー?んー?」
ねちねちした口調で責めながら、キンジは再びキヌタの尻にシャワーを寄せる。
そしてヘッドを肛門に押し当て、腸内に水を入れ始めた。
「ひあっ!?つ、冷たっ…!」
尻から冷水を注ぎ込まれる感触に、キヌタの鼻に掛かった声が高くなる。
反応に気を良くしたキンジは喜悦に顔を歪ませ、シャワーヘッドをぐりぐりと、痛いほどに押しつけてやった。
「き、キンちゃん…!冷たい!あっ!あっ…!は、入って来るぅ…!水がお腹に…、お腹に入って来るよぉ…!」
きつく目を閉じたキヌタは、込み上げる排泄感と腸が膨れる感覚に耐えて喘ぐ。
「や、あ!やめてぇ!もう、もうお腹一杯…!漏らしちゃうぅ!」
懇願するキヌタの陰茎は半勃ちの状態でヒクヒク震え、シャワーの水に先走りを混ぜながら垂らしていた。
キヌタが懇願する事しばし、ようやくシャワーを離したキンジは、たっぷりした臀部を両手で鷲掴みにして、ぐぐっと左右
に引っ張った。
「あ!あ!広げちゃだめぇ!も、漏れちゃう!漏らしちゃうからぁっ!」
必死になって肛門を締めるキヌタだったが、キンジはニヤニヤしながら尻を左右に引き続ける。
「ほーれ頑張れキヌタ。我慢できたらたっぷり可愛がってやるぞー?でも漏らしたら…、無しだからな?」
「ひんっ!ひぃん!」
喘ぎながら耐えるキヌタだが、尋常ではない労力を必要とした。
締め付けようとする肛門が左右に引っ張られているため、腸内に満ちた水がすぐに出て行ってしまいそうになる。
尻を締めるのではなく、内側に吸引するイメージで水を留め、排泄感に抗うキヌタの体から脂汗が滲んだ。
ブルブル震えるキヌタの姿をしばらく眺め、満足したらしいキンジは、やっと尻から手を離した。
「漏らすなよー?漏らしたら終了だからな?」
「う、うぅっ!が、我慢する…!するから…!」
欲望に濡れた瞳は、それでも純真さを何処かに留めたままキンジを振り返る。
「よーし。んじゃ特別に手を使っても良いぞ?」
キンジがそう言うなり、キヌタはもぞもぞと身じろぎして背中側に手を回した。
太っているキヌタは贅肉が邪魔になって尻穴に触れ辛いのだが、それでも苦労して探り当て、「ん…」と声を漏らしつつ、
自らの肛門に指を突っ込み栓をする。
ほっとした表情になったキヌタは、しかしすぐに顔を上げさせられ、正座させられた。
「しゃぶれ」
前に立ったキンジの股間には、標準より少し大きめの肉棒がそそり立っている。
濡れた目でそれを眺めながら、キヌタは愛おしげに口を開き、空いている手を添え、舌を這わせ始めた。
排泄感に耐えるキヌタの腹の中で、冷水で刺激され動きが変化した腸が蠢き、ごろごろぎゅるぎゅると湿った音を立てる。
それにも耐えて一心に逸物を愛撫するキヌタの股ぐらに、キンジは足を差し入れた。
そして、その大きな睾丸を足の甲に乗せる形で弄ぶ。
たぷたぷ、たぷたぷと陰嚢を揺すられ、呻き声を漏らすキヌタは、それでも愛撫を中断しない。
熱を帯びた吐息でキンジの股をくすぐりながら、トロンと弛んだ表情で奉仕を続ける。
やがて、キンジは足を上げて、硬くなったキヌタの陰茎を足裏で擦った。
「みゃうっ!」
声を上げたキヌタは、しかしキンジの肉棒を離そうとしない。その様子に満足したキンジは、
「おーおー、この淫乱狸!そんなに俺のナニが恋しいかー?んー?」
と、言葉責めを始める。
キンジの股間への執着を引き合いに出されて刺激され、マゾっ気が反応したキヌタの陰茎が、量を増やした先走りで濡れる。
「きたねーもんケツから漏らして汚すなよ?そしたら中断だからな?」
空気と水が入って膨れた腸が、排泄を求めてギュルギュルと音を立てながらうねる。が、キヌタ自身の指が栓になっている
ため、それは叶わない。
不意にキヌタの股ぐらが、一層激しく濡れた。今度は白く。
「ひにぃ〜っ!」
足こきで絶頂を迎えたキヌタの股間は、白く濁った液体がどぶっと溢れ出た事でべたべたになる。
早漏だが速射できるキヌタは、数日ご無沙汰した後だと一度の射精では満足できない。一度抜いて、陰嚢を少し軽くしてか
らが本番となる。
そろそろ頃合いだと感じ始めたキンジは、腰を離してキヌタから肉棒を取り上げる。
「あっ!」
切なげな声を漏らしたキヌタは、しかしキンジの蔑みが混じったニヤニヤ笑いを目にし、羞恥で顔を熱くさせながら身震い
した。
「さて、我慢できてるよーだから…、今日はちょっと進んだ事やってみるか」
キンジの言葉に、キヌタは期待を膨らませた。
このゴールデンレトリーバーが発案し、キヌタに施す物は、大概が虐げられ、詰られ、苛められるプレイなのだが、そのど
れもが彼に快楽を約束してくれる。
「そのままあっち向きになって、四つんばいになって尻見せろ」
言われるままにいそいそと、従順に命令に従ったキヌタは、
「指抜け。でもって我慢続行」
そう言われて少し躊躇した後、尻から指を抜いた。
指を入れておいた事で拡がった肛門で便意を堪えるのは大変だったが、キヌタは浅い呼吸を繰り返しながら我慢を続ける。
すると、程なく唾液で湿らされたキンジの指が、キヌタの尻穴に潜り込んだ。
ぐちゅっ、ぐちゅっと愛撫を始めたその指で、肛門が歓喜に痙攣し、陰茎の先から涎がダラダラと垂れる。
「あ、あ、ああぁ…!あんまり激しく…、んぅっ!しないで、キンちゃん…!も、漏れちゃう!漏らしちゃうよぉ…!」
目尻に涙の玉を浮かべたキヌタが懇願するが、キンジはいつになく入念な愛撫をなかなか止めない。
腸内の水を漏らさないよう締め付ける肛門は、普段より強く指に吸い付くなかなか面白い感触で、そそる物があった。
その愛撫は、キヌタが脂汗で全身をじっとり濡らした頃にようやく落ち着いた。
「抜くぞ?我慢しとけよ?」
「う、うん…!」
キンジの指が抜き取られ、「んっふ…!」と呻いたキヌタはきつく目と肛門を閉じる。
そこへ、声がかけられた。
「入れるぞ?」
「え?何を?」
「「何を?」じゃねーよナニを入れるぜ?って言ってんの」
返答はあったものの意味を掴み損ねたキヌタは、少しの間言葉の意味を考えたが、しかしすぐさま正解を思い知らされた。
膨れあがったキンジの肉棒。その先端の露出した亀頭が、キヌタの肛門に添えられる。
「ま、まさか…?」
「そら、挿入開始だ!」
ぐぐっと圧迫感が強まったかと思えば、締め付けようとしながらも期待に震えてひくひく痙攣し、濡れそぼっている肛門に、
キンジの硬いソレが先端をズブッと埋め込む。
「いっ………」
キヌタの体が硬直し、次いで絶叫が口から漏れ、
「にゃあああああ!んぶっ!」
キンジの手で即座に口が塞がれた。
「声でけーよ!あんまでけー声出したら来んぞ?誰か!」
キヌタへの効果的な脅しではあるが、本心でもある。キンジはちらっと脱衣場を伺った。
「いいか?ちょっとずつ入れてくからな?」
宣言に次いでキンジの腰が前にせり出し、肉棒がずぶぶっと、キヌタの中へ入って行った。
「ん!んん〜っ!」
急速に高まる圧迫感と、肛門を無理矢理広げられる痛みに、キヌタの口からくぐもった声が漏れる。
指とは明らかに違う太さのソレを受け入れるのは、強烈な苦痛を伴っていた。
が、キヌタは涙を流しながらも、快楽で陰茎をひくつかせる。
腸壁を擦りながら侵入してくるキンジの逸物が、溜まっている水をさらに奥深くへ押し込み、下腹部が苦しくなる。
陰茎をゆっくり、時間を掛けて根本まで飲み込ませたキンジは、
「…あれ…?」
珍しく、年相応の少年のような、きょとんとした表情を浮かべた。
足を開いて四つんばいになっているキヌタの股下に、バタバタと大量の精液が落ちている。
「何だよおめぇ、入れられただけでイっちまったのか?早漏だなー本当に」
「ううっ!うううう…!」
苦痛と羞恥と快楽で呻くキヌタの口から手を離すと、キンジは後ろから背中に覆い被さる格好になり、肥えた体を片手で抱
いた。
「なぁキヌタぁ…。今日は記念日だなー…」
責め句を紡ぐ時とは違う、しみじみと優しいその口調に、キヌタは耳をピクピクさせた。
こうして時折優しい声を混ぜる事がキンジの責めの特徴である。その緩急がキヌタを落ち込ませ、喜ばせ、悲しませ、楽し
ませ、期待させる。
「記念日…って…?」
喘ぐ息の合間に訊ねたキヌタは、硬くなった乳首を摘まれて「ひんっ!」と声を漏らした。
「おれの童貞喪失記念日…。そして、おめぇの処女喪失記念日…」
キンジは耳元をくすぐる声でそう囁いた。
「記念日…」
「そうだ。お互い「初めての相手」になっちまったなー」
そんなキンジの言葉で、キヌタは身を震わせた。
「あっ!あああっ!」
「どうした?」
そう訊ねたキンジは、キヌタがまた射精している事に気付く。
「き、キンちゃん!キンちゃん!な、何か…、ひっ!何か変っ!お、お腹が…!お腹の中が熱くて…!キンちゃんのおチンチ
ンが、んっ!…び、ビクビクしてて、こ、擦れてっ…!あ、あああ…!」
腸内をみっちり占拠したキンジの肉棒に、その鼓動だけで前立腺と腸壁を刺激され、繰り返し絶頂に上り詰めるキヌタ。
一体自分はどうなってしまったのだろう?快楽は当然として、キヌタにはそんな恐怖感すらあった。
その敏感さに呆れながらも感心し、キンジはニヤリと下卑た笑みを浮かべた。
そしてだらしなく垂れたキヌタの下腹部に手を這わせ、臍の下を押し込む。
「あ!あっ!駄目っ!駄目ぇ!漏らしちゃう!漏らしちゃうよぉっ!…あっ!」
腸内の圧力が高まったせいか、キヌタは声を途切れさせてブルブル震える。その陰茎から、ポタポタと精液が滴った。
「だ、駄目ぇ…!変…!ひにっ!…な、何か変なの、ぼくぅ…!ずっと…、ずっとイッてる感じが、してぇ…!ひんっ!」
絶え間ない快感と刺激で連続射精するキヌタの腹を揉んでやりながら、キンジはニヤニヤと笑みを深める。
「さっきからおめぇばっかイッてずるくねーか?そろそろおれもその気になるぜ?」
言うなり身を起こし、キンジは少し腰を引く。
抜き取られて行く感覚に嬌声を上げるキヌタは、腸内を擦られてまた射精している。
一方、亀頭だけを残して陰茎を露出させたキンジは、勢い良く腰を突き出した。
「あ…ああああっ…!」
再び強まる圧迫感と、摩擦による刺激。キヌタはあられもない声を上げる。
キンジが腰を動かし、陰茎を抜き挿しする度にキヌタは声を漏らし、やがて力尽きたように上体が潰れ、尻だけ上げた格好
になる。
その上がった尻に、キンジは何度も何度も、繰り返し熱い肉棒を突っ込んだ。
キンジが腰を出して深く突き入れるたび、動きに合わせてたるんだキヌタの体が揺れ、口から押し殺した嬌声が漏れる。
夢中になった。
締め付ける肛門が、痙攣する腸が、内側の柔らかな感覚が、キンジを虜にした。
何よりも、キヌタの声が、反応が、彼の深い部分を捕らえて離さない。
好きで好きで堪らない。口にはしたくないが、キンジはキヌタを愛している。
キヌタもまた、キンジにそんな事を言えば機嫌が悪くなるか、照れ隠しに帰ってしまうのでそうそう口にはできないが、キ
ンジの事が愛しくて愛しくて仕方がない。
どこか歪な二人は、心や性癖だけでなく、今は体までがぴったりとくっついていた。
キンジの荒々しい腰使いはしばらく続いたが、やがて動きが鈍り、絶頂を迎えた。
「んぐぅっ!」
食い縛った口の隙間から声を漏らし、背を反らせたキンジの逸物が、熱い精液をキヌタの中に注ぎ込む。
「ひみぃぃぃぃ…!」
射精の瞬間にぐぐっと一層怒張したキンジの肉棒が圧迫感をもたらし、か細い声を漏らしたキヌタもほぼ同時に、もはや初
めの半分ほども量が無い七度目の射精を果たした。
がっくりと脱力したキンジは、キヌタの上に覆い被さった。
が、二人がそのまま余韻に浸る事はできなかった。
『坊ちゃん!いかがなさいましたか!?』
長風呂が気になっていた使用人が、後半の喘ぎ声を耳にして脱衣場に踏み込んで来ると、キンジは慌てて声を上げる。
「なんでもねーっす!ちょっと悪ふざけしてただけ!」
「そ、そうれふ!ふじゃけてたらけっ!」
焦るキンジと呂律が怪しいキヌタが応じると、使用人は大人しく去って行き、二人を安堵させた。が、
「…キヌタ。おめぇ今ので勃ったろ?」
「…みたい…」
「こーの変態ドM…」
「…ご、ごめんなさい…。変態で…」
キンジの小声に、キヌタは顔を伏せながら詫びる。
不意打ちで訪れた危機にまで反応してしまった根っからのドM狸は、あれだけ射精したにもかかわらず、股間のモノを硬く
させていた…。
旅立ちの日は、あっと言う間にやって来た。
ボストンバッグ一つを荷物に、ゴールデンレトリーバーはホームを見回す。
電車に乗り込む客でごった返した中には、目当ての少年の姿は無かった。
(ま、仕方ねーよな…)
キンジは胸の中で呟く。
キヌタとの別れは前夜の内に済ませて来た。いつも通りの愛撫と、いつも通りの会話で。
それでもやはり、心のどこかには見送りを期待する気持ちもあったのだろう。キンジはほんの少しだけ感じた物足りなさを、
そう分析する。
「じゃ、行ってくんぜ!」
気を取り直すように小さくかぶりを振ると、両親と友人達に軽い調子で別れを告げ、キンジは電車に乗り込む。
やがて閉じたドアが隔たりを生むと、ゴールデンレトリーバーはようやく旅立ちを実感した。
時折は帰って来るだろうが、これからは多くの時間を向かう先の街で過ごす。
高校時代を地元で皆と一緒に過ごすか、新たな仲間と過ごすかは大きく異なる。
自分の選択が今後の人生や人間関係にも多大な影響を及ぼすだろう事は、キンジにもはっきり判っていた。
だが、後悔はしていないし、これからもきっとしない。
キヌタと一緒に過ごせる未来…。
それ以外の未来は、もはやキンジにとっては選択の対象外となっている。
窓の外の景色が滑り出し、友人が、両親が遠ざかる。
軽く手を上げて声を挟まない別れを終え、ホームを出た電車の中で席を確保したキンジは、そう混んでいない車両の中、外
の景色を眺めた。
が、いくらも経たない内に、買って貰ったばかりの携帯が振動を始め、ポケットに手を突っ込む。
『電車左側の窓』
そんなタイトルのメールは、本文が無かった。
だがキンジは送り主の意図を察し、立ち上がって足早にドアへ寄ると、窓に顔を押しつける。
そして見た。
線路と併走する車道を走る黒塗りの車を。
サングラスをかけた黒ずくめのSPが運転する黒い外車は、後部座席の窓を開ける。
「キンちゃん!」
吹き込む風に顔を叩かれながら、窓の縁に手を掛けたキヌタは叫んだ。
「ぼ、坊ちゃん落ち着いて!そんなに乗り出したら落っこっちまいやすぜぃっ!?」
大きく身を乗り出した狸を、慌てたマラミュートが後ろから肩を掴んで引き留める。
強風に目を細めながら電車の窓を見渡したキヌタは、程なく、黄金色の獣人の姿を見つけた。
「キヌタ…」
電車の窓に密着し、驚いたキンジが呆然と呟く。
「キンちゃん…!」
切なそうに顔を歪め、泣きそうな顔をしたキヌタが呟く。
併走する車道は、やがて線路と離れて行く。
間に建物が入って見えなくなる前に、キヌタは大きく息を吸い込んだ。
そして声を上げる。空意地と空元気で飾った、精一杯の声を。
「行ってらっしゃい!ぼく…!ぼく…!大丈夫だから!キンちゃんと離れても大丈夫だから!だから心配しないで…、行って
らっしゃい!キンちゃん!」
キンジに声は届かない。だが、言いたい事を何となく察してやれたゴールデンレトリーバーは、ニヤリと笑い、ぐっと親指
を立てて見せた。
キヌタも無理矢理笑い、シオンに制止されながらも腕を窓から突き出して親指を立てる。
「…行ってらっしゃい…」
「…ああ、行ってくる…」
互いの言葉は聞こえなかったが、二人は間に建物が入って姿が見えなくなるまで見つめ合った。
電車が視界から消えて少しすると、車は道に沿って折り返し、ようやくキヌタが引っ込んだ窓も閉まる。
「ごめんなさい…、我が儘言っちゃって…」
目尻の涙を気付かれないようにそっと拭い、キヌタはSP達に詫びた。
「構いやせん。坊ちゃんはもう少し我が儘を言ってもいいぐらいでさぁ。…ただし、護衛も抜きで祭りに繰り出すような真似
は勘弁して頂ければ幸いでやすがね」
ニヤリとしたシオンにチクリと釘を刺され、キヌタは体を縮める。
「さて、このまま屋敷に戻っても構いやせんか?それとも何処かにお寄りしやしょうか?」
「え?」
キヌタは思ってもいなかったシオンの言葉に目を丸くする。
「総帥の許可が下りてやす。外出ついでに少しなら外をうろついても構わねぇ、って」
これは、仲の良い友人と離ればなれになるキヌタの心情を思いやってか、珍しく総帥が言い出した事であった。
ニシキが駄目と判断すれば例えシオンの言葉でも受け入れられないのだが、今回ばかりは思うところがあったらしい。
キヌタを気遣って打診するつもりだったシオンは、言い出す前に先手を取られる形でそのように告げられており、肩すかし
を食らったような気分になっている。
突然外出が許可されたキヌタは、しばらく戸惑い、考え込んでいたが、やがておずおずと口を開いた。
「あの…、お母さんのお墓参りは…、できますか?」
てっきり何処かへ遊びに行くか、見物をしたいと言い出すとばかり思っていたSP達は、キヌタの発言を意外に思いながら
受け、そしてすぐさま納得した。実にこの御曹司らしい希望だと。
「報告したい事が…、たくさんあるんです…。今日は月命日だし…」
キヌタがぼそぼそと続けたその言葉で、SP達はハッとした。
特にシオンは軽く驚きながら、ニシキの顔を思い出している。
(まさか…、総帥は坊ちゃんがこう言い出す事を予見してらっしゃったのか?だから許可を…?)
掻かれた雪が端に残る、低い山の上にある共同墓地を訪れたキヌタは、SP三名に囲まれて雪を踏み、母の墓前を目指した。
学生は春休みでも今日は平日である。墓地には人影が無く、しんと静まり返っている。
油断無く周囲を警戒するシオンは、程なく目的の区画に入ると、キヌタの母が眠る墓の前に人影を見つけて目を細めた。
黒服を纏う屈強な男達に囲まれた、ダブルのスーツの上にコートを着込んだ狸は、やってきたキヌタ達の方へちらりと視線
を向ける。
「総帥…」
「お父さん…」
シオンとキヌタの口から、同時に声が漏れる。
向こうのSPも、シオン達も、お互いの行動を把握していなかった。ニシキが自分を守るSP達に、報告の要無しとして連
絡を禁じた為に。
不意打ちされる格好で先回りされたキヌタ達と、総帥に付き従って来たSP達は、誰一人としてこの場での遭遇を想定して
いなかった。
(坊ちゃんがここに来たがる事も、来る時間までも、総帥の俯瞰推測の範疇か…。自分のSPにすら行動の全部を知らせちゃ
くれねぇんだもんなぁこの方は…。この用心深さに洞察力が加わってるから、大概の襲撃も未然に回避できる訳だが…)
シオンは舌を巻く。自分が仕える男の底知れなさに。
おずおずと、緊張気味に足を進めたキヌタは、自分を見つめる父にペコリと頭を下げた。
「ご無沙汰しております…」
「うむ」
鷹揚に頷いたニシキは、息子から視線を外してシオンを見遣る。
「少し外して欲しいのだが、良いかね?」
「承知しやした」
慇懃にお辞儀したシオンは、合流した者も含めた部下達に指示を出して散開させ、会話が聞こえない程度の遠巻きにして、
二人を警護し始めた。
父が黙って立っている前で、来る途中で用意した花を墓前に手向けて線香をあげたキヌタは、手を合わせて目を閉じ、母に
語りかける。
大切な友達が遠くへ行ってしまった事…。
必ず戻って来ると約束してくれた事…。
自分もこの春から高校生になる事…。
報告したい事は切りがないほど沢山あったが、キヌタはしばし経ってから目を開けた。
父が傍に居るせいで緊張している。
父親とは言っても、キヌタからすれば血縁者であるという意識は希薄であった。
数ヶ月に一度顔を合わせる程度で、会話も殆どした事が無い。
一方的な伝言はいつもシオンや使用人が預かって来るので、用があってもニシキ自ら屋敷に来る事はまずない。
最後に会ったのは、正月の挨拶で本邸に出向いた時…。今日は二ヶ月半ぶりの面会であった。
何を話そう?いや、そもそも何か話すべきなのだろうか?それとも黙っているべきなのか?
キヌタは迷ったが、どうすれば良いのかが判らない。
気まずい沈黙が長く続いた後、
「いよいよ高校生か」
ニシキの言葉が、おもむろにそれを破った。
「あ、はい…。春から通わせて頂きます。あまり見て回れませんでしたが、本当に立派な学校でした。有り難う御座います…」
緊張しているキヌタの口から出たのは、親子の物とは思えない、距離を保ったよそよそしい言葉。
ニシキは「そうか」と小さく呟いた後、少し間を空けてから口を開いた。
「お前が通う学校は、今でこそ名も経営者も変わっているが、前身はわしが出た高校だ」
父の言葉を黙って聞きながら、キヌタはその真意を探る。
親子でありながら面識があまり無いこの父親には、いつでも試されているような気がしていた。だが…、
「つまりわしは、お前から見て一応の先輩になる訳だな…」
ニシキがそう言って眉根を寄せ、顎下をさすると、どうも今日は普段と様子が違うようだと、キヌタは感じ始める。
「本人達が海外留学を希望したという事もあるが、上の二人は別の学校に行かせた。…今回が初めてだが…、自分が巣立った
学舎に息子が入るという事は、つくづく奇妙な気分にさせられる物だ」
ニシキの言葉に、キヌタは少しだけ目を大きくしていた。
珍しく、父の言葉に戸惑いのような物を感じて。
偽る事が上手なニシキの本心は、キヌタの特殊な才能をもってしても察するのは難しかったが、父譲りの、しかし不完全な
俯瞰推測は、それでも全力で彼に教えようとしていた。
父もまた、キヌタ同様に接し方が判らず戸惑っているのだと…。
ニシキはキヌタを愛していない訳ではない。本気で愛した女に生ませた、愛すべき我が子なのだ。
愛し方こそ下手くそだが、大切にしたいと、守ってやりたいと思っている。
だからこそ、本人の自由を奪う結果になっても、あの屋敷に半ば閉じこめた生活を送らせて来たのだ。
一方でキヌタも、父のそんな気持ちに気付いてやる事はできず、警戒混じりの微妙な距離を保ってしまう。
打ち解けられれば甘やかせるのに、打ち解けられれば甘えられるのに、二人の距離は、近くに居ながら遠過ぎた。
そんな親子の、よそよそしく、そしてぎくしゃくしている後ろ姿を遠くに眺めながら、シオンは思う。
(中身はまるっきり違うってぇのに、なんともまぁ、後ろ姿の似てる事似てる事…)
並んで墓を見つめるキヌタとニシキは、背丈と体の大きさこそ違う物の、体付きもバランスも非常によく似ている。
キヌタを少し大きくすれば、後ろ姿ではニシキと区別が付けにくくなるだろう。
シオンの目には、二人の背中は確かに親子の物に見えていた。
そんなマラミュートの視線に気付きながら、ニシキは口調を改めた。
「「ツヅミヤ」の一員としての勉強をしたい…。マリバネ君にそう言ったそうだな?」
キヌタは一瞬返答に詰まり、結局無言のまま小さく頷いた。
鼓谷が、表向きにはできない、何か特殊な部門の研究や製品開発を行っている事は、キヌタも何となく察している。
SPになってくれるというキンジを自分専属にする為には、それなりの発言力と立場が必要…。そう感じたキヌタは、財閥
の裏も表も含めた経営に対し、積極的に学ぶ姿勢を示そうとしたのである。
キヌタはまだ子供で、いくら総帥の息子といえども経営に関われるようになるまでにはしばらくかかる。キンジを傍に置い
ておくだけの権限がいつになったら手にはいるのかは、まだ想像も付かない。
だからこそ、少しでも早く取りかかりたかった。一日でも早く認められ、キンジを迎えられるように…。
「勉強に費やす時間は、今以上になるぞ?」
「はい。それでも頑張ります。やります、ぼく…!」
キヌタの目に強い意志の光が宿っている事を認め、ニシキは奇妙な気分になった。
初めての事だった。気弱で引っ込み思案で小心な息子が、父にそんな顔を見せたのは…。
「…そうか…」
短く応じたニシキは、墓前に視線を戻す。
どうやらキヌタには、母親譲りの優しさ以外に、自分からも受け継いでいる何かがあるらしいと感じながら。
そして、キヌタとキンジにとっては長い長い三年の時が、ゆっくりと過ぎて行った。