コミュニケート

 幼い頃と比べ、商店街は様変わりした。

 以前は数軒あったレコードショップと電気屋と玩具屋、書店が全て無くなった。

 喫茶店と定食屋に下りたシャッターは、十年近く開けられない内に錆だらけになった。

 以前は多かった野良猫たちも、シャッターが目立つ商店街近辺から姿を消してしばらく経つ。

 買い物をするなら全国チェーンの大型量販店で揃うから。食事をするなら大型ショッピングモールのフードコートで事足り

るから。品揃えもよくて纏めて用を足せるから。

 開拓精神と鬩ぎ合った地元の意地は、結局利便性の元に敗北し、かつての商業の中心地は昔を思い出すのが難しいほど寂れ

てしまった。

 全国チェーンの薬局名が入った袋を片手に、カサカサと風に鳴らしながら歩道を歩く老婦人。その少し曲がって疲れたよう

に感じられる背中を遠く眺め、同じ方向に歩く青年はため息を漏らした。その背中が老婦人と同じように曲がり、視線が下を

向く。

 あまり背が高くない、狸の青年である。身長は低めだが厚みと幅は人並み以上。とはいえ運動で逞しくなった体型ではなく、

腹が丸く出たぽっちゃり脂肪太り。フワフワした毛が視覚的ボリュームを加えるので、見た目の上では実際の体重以上に丸っ

こい。

 田沼巧(たぬまたくみ)、二十歳の大学生。

 近所の本屋が店を畳んでしまい、遠くなってしまった最寄の書店へ足を運び、漫画の新刊を買い込んだ彼は、駅から家まで

の帰路をトボトボと歩いていた。

 交互に進める自分の爪先を眺める狸は、見るからに元気がない。俯いているので目元が暗く、目の周囲を覆う黒の中に瞳が

埋まってしまっている。

 本来なら元気が無いどころか、浮かれていてもおかしくない状況のはずだった。何せ念願叶って意中の相手と友達付き合い

から始める事になったし、月刊誌と週刊誌双方のお気に入り漫画の最新刊が発売されたのだから。

 だが、タクミはすっかり落ち込んでいた。

 幾度目かのお出かけとなった昨夜、しでかしてしまった失敗のせいで。



 交差点の手前で信号に止められ、二人乗りのバイクは速度を落とし、ゆるゆると停まる。

 丸みを帯びたシルエットがユーモラスなビッグスクーターのハンドルを握るのは、分厚くて幅があるジャイアントパンダ。

ハーフメットを被りゴーグルを嵌めた丸顔は若々しさと愛嬌がある。

 被毛はくっきり白黒分かれたジャイアントパンダらしいツートンカラー。コロコロ太った肥満体だが、ラグビーで鍛え込ん

だ腕や腿は尋常ではない太さで、筋肉の上に分厚く脂肪がついてるのでシルエットがコミカルなほど真ん丸い。グリップを握

る手もグローブがパツパツに張るほど厚く、手の甲まで丸みを帯びている。

 笹木幸太(ささきこうた)。学業の合間を縫って大手運送会社でバイトする二十歳の大学生。跨ったビッグスクーターのず

んぐり加減に負けない、ユーモラスな体格のパンダである。

 コータが駆るビッグスクーターの後部に跨るのは、同じくハーフメットとゴーグルを着用したコリー。スラリと背の高い男

で、コータより少し身長があり、しかし幅は半分程度。なので傍にいるとコータがなおさら丸く見えた。

 フサフサした被毛は赤みが強い茶色と柔らかな白のツートンカラー。首周りの被毛が豊かで、マフラーを巻いたようなシル

エットになっている。
コリー特有のシャープな顔立ちに、優しくも聡明な瞳。先が折れた耳が雰囲気を和らげており、ハンサ

ムではあるが近寄り難さはなく、むしろとっつき易そうな顔をしていた。

 永沢義則(ながさわよしのり)。大手運送会社に勤める三十一歳の事務方。コータとは少し年齢差があるカップルで、交際

中ではあるが半分保護者のようなものである。

「今日外食しないっすか?」

 アイドリングするビッグスクーターの上で、ハンドルを握ったジャイアントパンダが、エンジン音に負けないように声を大

きくして同乗者に告げた。

「それもいいか…。帰って準備するのも疲れるし、米も炊いていないから適当なおかずを買って帰るのも…」

「やた!じゃあ晩飯はラーメン!一週間ぶりの味噌チャーシューとチャーハン餃子セット!」

「その食欲は尊敬するな…」

 苦笑するヨシノリはややげんなりしている。

 予定を合わせて二連休にした昨日と今日、ふたりは半島まで足を伸ばし一泊コースでツーリング旅行してきた帰り道である。

コータがかねてから希望していたので、半島食べ歩きツーリングにトライしたのだが…。

 一応、ヨシノリも頑張った。頑張ったのだが、大食漢のコータのペースに付き合うのは流石にしんどかった。海老天丼カツ

丼親子丼ハモ丼海鮮丼ポーク丼天津丼エトセトラエトセトラ…。コータは看板が目に付く度に即入店して名物丼を注文し、ヨ

シノリとシェアした。八割がたはコータの胃袋に収まったが、付き合ったヨシノリは胃がもたれてしまっている。

(サッパリした魚介出汁のつけ麺にしよう…)

 いまひとつ食欲が湧かないヨシノリは、何気なく歩道を見遣り…。

(ん?)

 商店街の機能をほぼ失った元商業中枢の通りから、とぼとぼと出てきて歩道の前で信号待ちに入った青年に目をとめる。

 コリーから見えるのは横顔で、今一つ確証が得られなかったが…。

「コータ」

 トントン、と後ろから肩を叩かれたコータは、ゴーグルで保護した目を肩越しに巡らせ、コリーが指で示した方向に視線を

動かし、「あ」と声を漏らす。

「あれは…、タヌマ君か?」

「あ!そっすね!…ん~…?」

 大学の友人だと気付いたコータは、しかしすぐさま眉根を寄せた。

 小太りな狸は顔を正面から見なくとも元気がないのが判った。ションボリ項垂れているその姿と周辺は、気のせいか周囲よ

り若干薄暗く見える。

「…元気がなさそうだ…」

「あ。ヨシノリさんもそう思うっすか?」

 コリーとパンダは顔を見合わせ、信号が変わると予定を変更して左折し、狸が渡って来る歩道側の路肩にバイクを寄せた。

「おーい!タヌマくーん!」

 太い腕を振り上げ、手を広げて振るジャイアントパンダ。

 項垂れたまま横断歩道の縞模様を見下ろし、信号が変わった事にも気付いていなかったタクミは、声に気付いて顔を上げ…。

「…ササキ君?」





 三十分後、ヨシノリの住まいであるマンションのリビングに、タクミはチョコンと正座していた。

 予定を変更して取ったピザとパスタが並んだテーブルを挟み、隣り合って座るコリーとパンダは、耳をぺったり倒し、目を

涙で潤ませている狸を前に困惑顔。

 目に余る元気の無さが気になり、夕食に誘ったのだが…。

 シンスケに誘われて飲みに出かけて大失敗した。

 元気が無い理由を尋ねられるなり、そう一言発して黙り込んでしまった狸は、小刻みに肩を震わせて泣くのを堪えている。

(な…、何やらかしたんだろタクミ君…!?)

 平時はテンションも高めで口数も多いコータだが、タクミのただならない様子に軽口が叩けない。

(ここまでの落ち込みよう…、いったいどんな失敗をしたんだ?)

 訝るヨシノリは、「よければ、少し詳しく聞かせてくれないかな?」と、優しい声音で説明を促した。

 タクミはなおも口を閉ざしていたが、ややあって、ポツリポツリと昨夜の出来事を語り始めた。



 静かで長閑な夜だった。半月を少し過ぎた月が黄色く光り、ゆるく流れる薄雲が時折それを朧月に変えている。

 時刻も遅いので車の往来は少ない。電車は本日最後の仕事に勤しんでいるのだろう、踏切の音がカンカンカンと、遠くから

聞こえる。

 その静寂を、嘔吐する派手な音が打ち破った。

「おげろろろろろっ!」

 えづいた勢いで搾り出されたように、吐しゃ物がビチャビチャッとぶち撒けられた。

 …とはいえ、内訳はほぼウーロン茶。食べたものはバーで襲われた第一次大逆流で残らず吐き出され、胃の中に残っていた

のは酔い覚まし兼アルコール薄めで摂取した水分と、再分泌された胃液だけ。

 食事所と飲み屋が集まる界隈の、薄暗い裏通り。閑散とした夜の駐車場の端っこで、側溝のグレーチングめがけて水っぽい

吐しゃ物をエレエレ吐き出す狸の背中を、長身の黒馬が身を屈めて撫でてやっていた。

 仕立ての良いスーツに包まれた長身は、均整が取れていながら筋肉質で逞しい。一流のアスリートと遜色ない立派な体だが、

職業は医師。
名は台馬伸介(だいばしんすけ)。タクミにとっては、結石が出来るたびにお世話になってきた古馴染みの医師

でもある。

 光沢が美しい黒い毛並みの馬獣人で、顔の中心に浮かんだ細く長い白十字は下向きにした剣のよう。くっきりした白い十字

はまるでエンブレムのように見栄えが良い。高校まではショートトラックで鍛えた陸上の名選手で、今も大学時代の後輩達と

テニスに興じるスポーツマン。三十を過ぎてなお肉体には衰えも弛みも一切見られず、引き締まったスマートな体つきをして

いる。

 ひとしきりゲェゲェやった狸が少し落ち着いたと見ると、黒馬は口を開く。

「少しは楽になりましたか?タクミ君」

「は、はい…。ごめんなさいシンスケさん…」

 アルコールと胃酸で喉をやられ、軽く咳き込むタクミは、どうしてこうなったんだろうかと落ち込んだ。

 楽しい会食、楽しい語らい、楽し過ぎて酒の分量を見誤ったのだろう。そもそもあまり酒に強くないタクミは、飲酒する機

会もあまり無い。アルコール臭が薄いカクテル系のチャンポンで舌までおかしくなっていたようで、調子に乗って摂取したア

ルコールが一気に回り、バーに移動してすぐこの有様になってしまった。

「気にしなくて良いんです。若い内はノックアウトされながらお酒との付き合い方を学んで行くものですから。…あ。これは

経験した本人の感想ですからね?」

 いつでも誰に対しても紳士的な黒馬は、いつもそうして来たように茶目っ気を覗かせてウインクする。

「落ち着いたならタクシーを拾いますよ?」

「はい…。すいません…」

 すっかりしょげているタクミは、これ以上迷惑はかけられないと、吐き気を堪えて頷いた。

 表通りに戻り、路肩に停まっているタクシーに歩み寄って合図したシンスケは、開いたドアへ先に体を捻じ込み、内側から

タクミの手を取ってエスコートする。

 黒馬に行き先を告げられた運転手がウインカーを出し、タクシーがゆっくり動き出す。

 滲んで見える街路灯と信号機。歩道でたむろする酔客。夜の景色をぼんやり眺めていた狸は…。

「…うぷ…!」

 丸い腹が、胃の辺りで大きく脈打った。

「タクミ君?」

 黒馬が声をかけたが、狸は答えられない。両手で口を塞ぎ、こみ上げてくるものを必死になって抑えている。

「済みません。連れの具合が悪いようで…、ちょっと止めてください」

 少し焦りが滲んだ口調でシンスケが告げると、運転手は慌てて減速し、タクシーを路肩へ寄せてくれたが…。

「うぶっ!」

 逆流を堪えられなくなった狸の頬が膨らんだ。

 タクシーの中に吐しゃ物が飛び散っては大変だと判断し、シンスケは咄嗟にタクミの首に手を回し、素早く抱き込む。

「おぅえぇぇっ!」

 直後、黒馬の胸元から股間までを、黄色い泡が浮いた胃液のウーロン茶ミックスがビッシャリと濡らした…。



 タクミが失敗について話し終え、簡単にいくつか質問した後、

「なるほど、「スレて」いないのがあだになったのか…」

 狸が抱えていた失敗に至る原因を理解し、ヨシノリは形のよい眉を少しひそめた。

 タクミは昔から漫画やアニメ、ゲームが好きなインドア派。話題豊富で性格も良いので学校での友人は多い方だったが、一

緒に遊ぶ親しい友人達は皆タクミと似たタイプで、外へ遊びに出るとしてもカラオケでアニメソングを熱唱する程度。

 ある意味非常に健全で、大学に入っても遊び歩くようにはならなかったので、飲み歩きにも不慣れ。つまり…、経験不足で

場慣れしていないが故に、自分に適した酒のペースもよく判っていない。

 一口に「酒に弱い」と言っても個人差がある。コータのように体調不良にはならないが酔うとコロッと寝てしまうタイプも

いる。タクミはコータより多少は眠気に強いらしいが、アルコールに弱いのは同じ。頑張って起きて飲み続ける事で気持ち悪

くなってしまったらしい。大人の交際を始めたばかりとはいえ…。

(ここまでスレていない大学生というのも、今時珍しいタイプじゃあないか…?)

 諸事情により、一時ひと嫌いに陥っていたコータはともかくとして、普通にキャンパスライフを楽しんでいたタクミの現状

に眉を顰めたヨシノリは…。

「ん?」

 ふと気になってコータに目を向けた。

「タクミ君とは友人付き合いは結構長いのか?」

「へ?なんすか急に?」

「いや…、以前は大学でも「あんな態度」なんだろうと思っていたんだが…」

 接点が薄かった頃のつっけんどんな態度の事に言及されると、コータは「あ、あの頃はっ…!」と慌てた様子で目を剥き、

耳を倒す。考えてみれば、当時はヨシノリにも他の社員にも随分失礼な態度を取っていたなぁ、と…。

「あー、前はちゃんと話した事もなかったですね。顔見知りっていうか…、ちょっととっつき辛そうな印象があって…」

 タクミは記憶を辿りながら、考えてみれば親しく話をするようになったのは数ヶ月前だったと述べる。

(やっぱり大学でもあんな感じだったのか…)

 顔を使い分けられる器用さは無いしなぁ、と納得したコリーは、

「仲良くなったきっかけとか、あるのかい?つっけんどんな態度だったら話しかけ難かっただろう?」

 と、弟のような可愛い恋人のキャンパスライフが少し気になり、話のついでに訊いてみる。これに割り込み、「ちょ!?今

はその話どうでもいいじゃないっすか!」と話題の変更を求めるパンダ。

「それもそうだな。それじゃあ今度改めて話を聞くとして、本題に戻ろうか」

 ずんっ…とまた暗い顔になるタクミ。

「一回や二回、失敗ぐらいあるさ。それにシンスケさんは「その程度」で怒ったりはしないよ。何せ…」

 微笑しながら語るヨシノリは、後輩達もよくへべれけになってはシンスケに迷惑をかけていた事をタクミへ教える。

「酷い時は、おんぶした相手に首筋からもんじゃ焼きの如きゲロを注ぎ込まれた事もあった」

 タクミはピザを見る。なかなかに食欲が失せる話である。…が、「ふ~ん…」と相槌を打ちながらチーズたっぷりのピザに

かぶりつくコータには一切の躊躇が見られない。

「でも…。せっかくのデートだったのに…」

 失敗談を聞いてほんの少しだけ気が楽になったものの、それでもしょんぼりしている狸は太い尾を床の上でくねらせる。何

せ友達付き合いから交際へ至るまでの大事な過渡期なので、失敗でナイーブになるのも無理はない。

「…不釣合い…なのかな…」

 ポツンと、俯いた狸は自分の足にその言葉を落とした。

「相応しくないのかも…。身の丈にあってないのかも…。だって先生はステキな大人で…、オレはチンチクリンな子供で…。

付き合うべきじゃないのかも…」

「タヌマ君」

 鬱々と零された言葉を断ったのは、ジャイアントパンダの少し怒ったような声。

「ちょっと失敗したぐらいで何だよ?嫌いだって言われた訳でもないのに、拒絶された訳でもないのに何だよソレ?諦めのセ

リフとか気が早過ぎ!」

 少し語気がきつくなっているコータを、タクミは戸惑いがちに見遣った。

 タクミは知る由も無いが、コータはかつて初恋の相手…古馴染みでチームメイトでもあった友人から厳しい言葉と共に拒絶

された。ノーと言われた訳でもないのに、ましてや同意の上で交流を始めたばかりの相手なのに、自分が至らないからといっ

て簡単に軽々しく諦めを口にするのは、ジャイアントパンダからすればとんだ甘ったれに映る。

「タヌマ君。コータの言う通り、下手に口にしてはいけないよ?軽く言ったつもりでも、それを自分が信じてしまうと本当に

そうなりかねないからな。何せ言っているのが他人じゃなく自分だから、うっかり口癖にでもなってしまうと、常々自己暗示

をかける格好になる」

「はい…」

 ヨシノリからも忠告され、しょぼんと項垂れたタクミは、

「だから、どうせ口にするならポジティブな事の方がいいんだよ」

 そう笑いかけられて顔を上げ、一度尾を立てて「は、はい…!」と頷き、しかし…、

「…やっぱり、大人ってこういう風に喋れなきゃ…。なのにオレは…」

 それからまた視線を下げる。

 気分を持ち直せない狸を前に、コータとヨシノリは顔を見合わせる。

「大人の会話テクニック的な物に、何かあるのかい?」

 コリーの問いに、狸はフルフルと首を横に振る。

「会話とかだけじゃなく、お酒も、振る舞いとかそういうのも…、全部足りてないなぁって…。オレがもっと大人だったら…」

 妙に「大人」に拘るなぁと、コータは気になって黒い耳をピクつかせた。元々そういった口癖があるわけでもないし、大人

びた振る舞いを心掛けている青年でもないのに、何故だか今日は変にそこへ固執しているようにも思えた。

「大人だと何か…、あ~…、良い事?とかがあんの?」

 コータの問いに応じて…、

「大人だったら失敗しないから」

 タクミは子供のようなセリフを大真面目に発した。

「いや、失敗するよ?」

 涼しい顔でさらりと応じつつ、冷めちゃうから、とピザを勧めるヨシノリ。

「大人も子供も失敗する。するけれど、立ち直りや持ち直しが小ずるく上手いから、大人は失敗しないように見えているんだ

ろう。…とはいえ、「失敗しない事」や「失敗のリカバリー」がタヌマ君の気になる点…という事でいいのかな?」

 あ、それだ、と言いたげに目を丸くし、コクコク頷く狸。

「失敗の埋め合わせとなると…」

 ヨシノリは小首を傾げて考える。

 何せタクミの交際相手であるシンスケは医師。夜勤もあるし急患もある。連絡はメールや電話でこまめに取り合うが、デー

トは十日から二週間に一度程度。タクミからすれば大切な一晩だった。

「…確かに、こっちとは状況が少々異なるかもな…」

 パンダを見遣るコリー。ん?と首を傾げてヨシノリを見返すコータ。

 同居人が頻繁にやらかす失敗の山を寛容に赦し、挽回が上手く行かなくとも褒めてやるヨシノリだが、それは毎日の生活の

中での事。タクミの場合はそもそも一緒に居る時間が短く、失敗した分を取り返そうにもチャンスが限られて来る上に…。

(シンスケさんからしても、気にしないようにと伝えて示せるのはその場でだけ、か…)

 黒馬の方も、タクミに四六時中フォローを入れられる訳ではない。こうしてタクミがひとり落ち込んでいても様子が判らな

いのだから。

「となるとやはり、失敗を減らす方向か…」

 失敗そのものについては、ヨシノリは大して問題視していない。シンスケは自分以上に寛容な男なので、それで嫌われるよ

うな心配は要らないと確信している。

 問題なのは、失敗をしでかしたタクミのメンタルケアである。厳しく怒られた訳でもないのに自罰的に思いつめてしまう性

格のようなので、失敗そのものを減らすように努めるのは精神衛生上効果が高そうだった。

「よし。コータ」

「うっす!」

「タヌマ君と酒を飲む機会を作って、許容量を知って貰おう」

「がってん!」

「え?え?」

 即断即決のふたりを前に目をパチパチさせるタクミ。涼しい顔のヨシノリは、立てた人差し指で空中にクルクル円を描く。

「とりあえず酒の失敗だけは、自分の体と相談する事で避けられる。アルコールの回り方を知るのが第一歩だろうな。酒の飲

み方は自分の体との対話だ。体調が良いとき悪いとき、体温が高いとき低いとき、アルコールの回りも変わってくるが、飲み

慣れてくると、指針になる「あ、ヤバそう」が判ってくる。そうなったら無茶をしなくなるから、外で酒を飲むのも怖くはな

くなるさ」

 要は、「気持ち良い」が「具合悪い」に変わるラインを慣れで見切れ、という話だった。その上で、早く酔いをさましたり、

二日酔いになり難くなる対策を教えよう、と具体的な方針と目標を判り易く提示したヨシノリに、

「よ、よろしくお願いします!是非!」

 タクミは迷わず指導をお願いした。

(…さて、あとはシンスケさんにちょっと話をしておきたいな。どうもタヌマ君は気持ちが落ち込みやすいようだから…

 もう一つ、コリーは考える。

 タクミはデートでどうしても浮かれてしまうだろうし、慣れるまではペースを見誤る事もあるだろう。そこはシンスケ側か

らそれとなく気を配ってやって貰えたら…。

(そうだ。せっかくだからアイツも呼ぶか…。年頃の少年少女の心理には、こっちよりずっと詳しいからな)

 ヨシノリは真ん丸い虎の顔を思い浮かべ、大人だけで飲みに出る計画を立て始めた。




 それから平日を挟んだ、次の週末…。

「ヨシノリさん曰く、「チャンポンは避ける」」

 太い人差し指を立てて、ジャイアントパンダは狸に告げた。

 ふたりが挟んだテーブルには、ヨシノリが知人の酒屋に掛け合って調達した、多数の日本酒、ビール、カクテル、焼酎など

の瓶が並んでいる。

 これは全て今日から始まるタクミの特訓用で、好きな酒と、特に酔い易い酒を、実際に飲んで確かめるためのもの。余った

分はヨシノリとコータで消費するので、残す事を気にせず何でも試してよいとの話である。

「チャンポンするとアルコールが回りやすいんだっけ?」

「そうっぽい。正確にはちょっと違うってヨシノリさんは言ってたけど。…取り替えて色々飲むと飲んだ量が判らなくなるか

ら?だったっけ?」

 マンションの部屋にはコータとタクミのみ。今日が飲酒練習の第一回となる。

「で、よく飲む酒とか、なんかある?」

 ヨシノリが作った記入用紙にペンを寄せたコータに、しかしタクミはフルフルと首を振る。

「「よく飲む」のはないよ?家じゃお酒飲まないし、友達と遊ぶ時もだいたいコーラだから」

「ああそっか。えぇと?んじゃ次は…好きな酒とかは?」

「好きかどうかよく判んないんだけど…」

 狸は言う。黒馬はカクテルが好きだと言っていたので、一緒の時は自分もカクテルを飲む、と。

「他は?」

「他は無いかも?お酒詳しくないし…」

 コータは少し考えた。カクテルはアルコール度数が高い物が多い。特に口当たりが良い物は進み易いので、ついつい飲み過

ぎる事もある、と。

(原因その一、見っけ)

 ササッとメモを取ったコータは、「じゃあ、苦手な物は?」と質問を変えた。何だか検査官か何かになったみたいでちょっ

と楽しいぞ?と、短い尻尾をピコピコ振りながら。



(あっちでも、そろそろ始まった頃だな…)

 腕時計をチラリと見たコリーは、個室を予約しておいた居酒屋前で左右を見遣る。計ったように待ち合わせ時刻の十分前、

通りの向こうに馴染みの姿が見えた。

 縦横比の関係でずんぐり短身に見えるが、かなりの大男である。

 幅広い尻から垂らした縞々の尻尾を揺らし、少し横揺れしながらのっそのっそと歩いて来るのは中年の虎獣人。

 柔軟かつ筋肉質な体躯と雄々しさが印象深い…そんな虎種のステレオタイプなイメージを粉微塵に破壊する、でっぷり肥え

て緩んだ体つきと、たっぷりした顎も手伝って真ん丸くなった顔つき。太い鼻梁に乗せた眼鏡の向こうには、眠たげかつ優し

げな細い目。デンと突き出た太鼓腹は、深い臍の窪みがトレーナーの表面に薄くシルエットを浮かべている。

「よう、お待たせヨシノリさん」

 フランクフルトのような太い指を広げた手を肩まで上げて、柔和な笑みを浮かべながら挨拶した大虎に、コリーも目を細め

て「ああ、しばらく」と挨拶を返す。

 肥満虎の名は寅大(とらひろし)。教師である。

 ヨシノリから見れば大学の後輩で、コータから見れば高校時代の恩師。

 シンスケとは年も少し離れており、本来ならば同じ大学の出とはいっても直接の関わりは薄くなるはずだったが、中間に居

るヨシノリ繋がりで一緒に飲んだり出かけたりといった交流が昔から絶えなかったので、学生時の繋がりよりもむしろ社会人

になってからの付き合いの方が濃い友人関係である。

「ヒロ、また太ったか?」

「変わらないはずだがなぁ。恋人と比べていないか?」

「それはあるかもな。ただしコータはもうちょっと張りがある体だが」

「歳を取ったモンだなぁ。お互いに」

「おっと、そこから巻き込みに来るか?」

 軽口を叩きあうヨシノリとヒロは、「で…」「ん」と、黒馬がまだ来ないのを見計らって頷きあった。

「状況は電話で簡単に説明した通りだが、質問は?」

「特に無いがなぁ、ただビックリはしてる」

 ヒロはただでさえ細い目をさらに細くして、柔和な顔を笑み崩した。

「あのシンスケさんが、どんな相手とくっついたのかと思えば…、ササキと同学年の子とはねぇ…」

「いや、俺も驚きはしたが、考えてみたら納得できる部分もあった」

「と言うと?」

「あのひとは世話を焼くのが好きだろう?舟形(ふながた)に対してもそうだったが、父性愛が強いというか…」

「ああ、かなり年下の子でもオーケーしたのは、そういう事か…」

 一度言葉を切ったヒロは…、

「…なるほど。そしてお相手の子は頼りない感じ、という訳なんだな?」

 ぼんやりした顔で鋭く言い当てる虎に、コリーは微苦笑を浮かべて頷いた。

 昔はあまりそう感じなかったのだが、伴侶に先立たれて以降、穏やかになったヒロを見ていると時々思う。コイツはひとの

感情の機微を察したり、間接的な情報からでも相手がどんな人物なのか目星をつける能力が抜群に高い、と。
あるいは元々そ

うだったのかもしれないが、厳しい顔つきや態度だった以前の虎からは、そういった印象はあまり受けなかった。穏やかに柔

らかに変化した今だから、はっきりと感じ取れるようになったのかもしれない。

「普段は明るいし、気持ちのいい子ではあるんだがな…。思いつめ易いのか、少し気持ちが打たれ弱いのか…。まぁ、今回は

少し驚いた」

「気持ちが強くない事を自覚している子ほど、明るく振舞おうと頑張っている事もあるからなぁ」

 ヒロが何気ない相槌のように返した言葉で、ヨシノリはハッとする。

「年頃の子は大人以上に色々な仮面を被るモンだ。仲の良い友達用、そこそこの仲の友達用、顔見知り程度の相手用、ご近所

さん用、学校用、場合によっては家族用…。素直に見える子ですら、友達や教師に素顔を見せていない事も多い」

(…コータもそうだった訳だが…)

 ヨシノリは思い返す。別人と言えるほど素の性格とは違っていた、ぶっきらぼうでつっけんどんで排他的だった以前のコー

タを。あの頃のコータは、甘えん坊で懐っこくてよく笑う今のジャイアントパンダとは、顔つきも目つきも声の調子も完全に

違っていて…。

(ヒロもそうだ…)

 この後輩も、恋人との死別を経て変わった。男として、教師として、「かくあるべし」と定めていた固定観念から抜け出し、

恋人が望んだように、溢れんばかりの優しさと愛情を表に出すようになった。だが、過去のヒロが仮面を被っていたのと同様

に、今のヒロもまた仮面を被っている。違うのは、判り易い優しさを隠すか、荒々しい面を隠すかの差でしかない。

「仮面、か…」

 呟いたヨシノリへ「悪い事ではないがなぁ」とヒロが首を縮める。

「人付き合いというのは素を晒すのが正解な訳ではないからなぁ。むしろ、付き合い方を弁えず、自分と相手の距離を測らず、

仲を慮らず、妙な接し方をしてしまう子も居る。ケータイサイトが普及してきてからはなおの事、横から見てくれている者も

居ない個人的な連絡手段だから、距離も礼儀も客観的に見られず、相手を一方的に親しいと誤認してしまう子や、逆に一方的

に敵だと決め付けてしまう子が妙に多い。他人の顔を見ないせいで気が大きくなるのか…、相手の仮面を見ないせいで、本当

は親しく無い間柄にも、家族や親友に向けるようにぞんざいな素顔を向けてしまうのか…」

「そういう意味では、タヌマ君は距離を詰め過ぎたりしない逆のケースだな。それに、…素顔、か…」

 ぞんざいな素顔。

 そのキーワードにヨシノリは引っかかりを覚えた。

(何だろうな?これは何か…、大切な事のような気がする…)

 しかし、「それはそうと…」とヒロが思い出したように口を開いて、コリーは思考を一度中断し、頭の隅に追いやった。

「フナガタとは、どうして別れたんだろうなぁ?最近なのか?」

「…実は、結構前に別れていたらしい」

 ヨシノリは首を少し縮める。仕事の都合でなかなか時間を共有できないと、シンスケも相手もかねてから言っていた。シン

スケ自身、それが破局の原因となって、別れ話を切り出されたと語ったが…。

「変だなぁ?そういったのも織り込み済みで、お互いラブラブだったと思ってたんだが…」

 ヒロが口にしたのはヨシノリと同じ疑問。

 シンスケと交際していた垂れ耳の黒犬は、身長こそ差があったが、体の色も締まった体型も黒馬とお似合いの好漢だった。

私生活では整理整頓にややだらしなく、不精な部分もあってよくシンスケに身の回りの世話をされていたが、警官としては真

面目で優秀だった。

 医師と警官という職業上、時間の共有がままならなかったのはあるだろうが、それでふたりが別れてしまうという結末には、

傍から見ていたふたりにはどうにも違和感がある。

「…外野にはどう見えても、当人達でないと判らない、か…」

「そういう事かもしれないなぁ」

 ふたりの会話はそこで一旦切られた。

 居酒屋の前で停まったタクシーの中に、見知った黒馬が乗っている。

「やあ、済みませんね。遅くなってしまいました」

 タクシーから降り立ち、耳を水平に倒して挨拶したシンスケへ、「まだ時間前ですよ」とヨシノリが、「ご無沙汰です」と

ヒロが、それぞれ返す。

「ヒロシ君、少し肥りましたか?」

「皆に似たような事を言われるなぁ」

 苦笑いするヒロは、ヨシノリに言ったように「恋人と比べちゃあいませんかね?」と応じて…。

「…ふ~む…。恋人と、ですか…」

 黒馬が何やら思案する素振りを見せ、コリーと虎は顔を見合わせる。

「何か問題でも?」

 様子が気になったヨシノリに、シンスケは「いや」と軽くかぶりを振って見せた。

「中に入りましょうか。風が強いですから」



「そろそろ…、キツいかも…」

 ゲップを漏らした狸が、丸い腹に円を描くようにしてさする。

「顔はポカポカだけど…胃がちょっとグルグル…」

「じゃあ今日は終わりー」

 シートにメモしてコータが宣言する。まずは素のアルコールから、という事で肴も無しに酒だけ飲んだタクミは、初めて自

分が純粋に飲んだアルコールの量を確認した。

「…思ってたより少ない…」

「オレよりちょっと少ないぐらいっぽい」

 缶ビール1本と少し。どうやらそれがタクミの適量らしい。

「このぐらいじゃ、全然付き合えないよ…」

 狸は耳を倒して項垂れた。黒馬はかなりキツい酒をパカパカ飲んでケロッとしている。限度がこの程度では酒に付き合えな

い、と。

「う~ん…」

 コータは腕を組んで考えた。自分もすぐ酔っ払うし、ヨシノリはなかなか酔わない。家でも外食でも大体の場合はソフトド

リンクで付き合う。酒の飲み合いで言うならてんで吊り合っていないのだが、上手く行っていないわけでもない。

(無理、しなくて良いんじゃないのかな…?)

 改めて思い返してみると、ヨシノリは「適量を見極めるように」と言っただけ。悪酔い対策を教えるとは言ったが、たくさ

ん飲めるようになれとは言っていないのである。

「頑張って鍛えなきゃ…」

 深刻な顔をしているタクミの呟きに、コータは「あのさ」と眉根を寄せながら声を被せた。

「う~ん。ヨシノリさんが考えてる解決は、「鍛える」んじゃないのかも…。お酒の事は二番手って言うか、一番の対策じゃ

ないのかも…」

「え?」



「タクミ君が?」

 居酒屋の個室。お通しを前に旧友達と乾杯を交わした黒馬は、驚いた様子で目を少し大きくした。

「そう。落ち込んでいる様子でして…」

 酒との付き合い方レクチャーをコータに任せた事も含め、ヨシノリはシンスケに打ち明けた。元から秘密特訓にするつもり

などない。そういった頑張りもしているのだという事は知っておいて欲しかったので。

「…気にしていないんですが…」

「でしょう?そうだろうとは思ってましたが…」

 そんなやり取りを交わすシンスケとヨシノリのグラスにビールを注ぎ足してやりながら、「しかし…」とヒロが口を挟む。

「「気にしていない」を信用させるのは、これはなかなかホネです。気の優しい子に限って、「気を遣ってそう言ってくれて

いる」と解釈しがちだ」

「なるほど。それは判る気がしますよ…」

 ではどうすればいいか、とシンスケは首を捻った。

「失敗なんか気にしないで欲しいんですが…。面倒を見るのも楽しいものです。それこそ、緊張して姿勢良くしながら付き合

うのではなく、気楽に、気さくに、時にだらしない所も見せながら接してくれれば良いんですが…」

「………」

 ヨシノリは思い当たる事があり、黙り込んだ。

 同居するようになってから知ったが、コータはいろいろ抜けているし、雑だったりだらしなかったりする。そういった所も

含めて愛おしいと感じるし、嫌いになる要素には成り得ない。むしろ、寝ぼけたり酔っ払ったりして無防備に見せる、それこ

そ「ぞんざいな素顔」は…。

(そう、「それを見せても良い」という無防備さが嬉しく感じられるんだが…、これはきっと特別な相手だからなんだろう)

 例えば初対面の相手にいきなりだらしなく素顔を見せられても反応に困るが、愛しい相手となれば話は別。世話好きのシン

スケは、むしろ行き届かない事ばかりのタクミが見せる、至らなさや間抜けな所、失敗する所まで含めて可愛いのではないだ

ろうか?

「ところがです。タクミ君はまだ緊張が抜けないのか、態度も硬いですし、自分の事もあまり話してくれません。タクミ君が

何をしたいのか、どういう物を好むのか、全く判らないんですよ」

 タクミはシンスケの話ばかり聞きたがり、自分の事はあまり喋らない。空気を読まずに自分の話ばかりする手合いも問題だ

が、自分の事を全く語らないのもなかなかに困る。シンスケが聞き上手で話し上手だから間が持っているものの、共通の話題

が時事ネタ中心なので、下手な話者では退屈極まりないデートになっているところである。

「それはまたどうして…」

 コリーは耳を伏せる。好きになった相手に自分の事を知って欲しいとは思わないのか?と。

「判りませんね…。話すのが嫌いという訳でもなさそうなんですが。…そういえば昔から、こちらの話を聞き出そうとする割

に、自分の事はあまり話さない子でした。付き合い始めてからもあまり変わらなくて…、喜ばせてあげたいと思うのに、趣味

などを聞いても「特に無い」とはぐらかされる始末です」

「は?」

「えぇ?」

 ヨシノリとヒロが同時に声を漏らした。

 タクミ側に遠慮があるのだろうが、「趣味が無い」は話題の拡張を阻む、一種の禁句に近いワードである。相手をあしらう

際には効果的な回答になる程度に。

 本当に趣味が無い者はそうそう居ない。しかも「趣味は?」という問い自体が趣味そのものだけでなく、単に「好きな事」

「好きな物」を教えて欲しいというサインでもあるのだが…。

「それは…」

 言葉を切ったヨシノリは少し考え、「失礼」と前置きして携帯を取り出した。

「直接訊くのかヨシノリさん?」

「いや、愛しの丸いのが丁度良く一緒に居るからな」

 ヒロに応えつつ、ヨシノリはコータにメールを入れた。

―シンスケさんがタヌマ君の趣味を教えて貰えないと嘆いている―

 ほどなくコータが返してきたメールには、

―マジすか!?何でヒミツ!?ちょっと訊いてみます!―

 との文。

―それとなく、頼む―

―それとなく一丁!―

 そして数分後…。

「…ちょっと済みません。電話を…」

 ヨシノリは一度席を立ち、店の玄関口に移動して電話に出た。

「悪いなコータ。話して貰えたかい?」

『うっす!理由訊けたっす!簡単な事!』

 狸に聞かれないように部屋を出て電話をかけてきたジャイアントパンダの声は、はっきり簡潔にヨシノリへ伝える。

『「ゲームとか好きだって言ったら子供っぽいしシンスケさんと吊り合う大人になれないでしょ?」とのことー!』

「…判り易い。というか、それこそ問題にならない所じゃないか…。そんなの気にしないだろうなシンスケさんは…」

 並びたくて背伸びする狸と、ありのままを可愛がりたい黒馬。微笑ましいすれ違いである。

「そもそも、もしシンスケさんにも同じゲームで遊んで貰えれば…」

『別に酒飲みじゃなくたって、長く一緒に遊べるわけっすよね?』

 電話の向こうでコータが『だよね?ね?』と念を押してきて、「よし判った」とコリーは呆れ半分に笑う。

「こっちは任せろ。タヌマ君が好きなゲームの名前だけ、後でメールしてくれ」



「なんでなんでなんでなんでなんでー!?何で教えちゃったのー!?」

 クッションを被り、床に突っ伏し、狸は呻くように声を漏らし続けた。

「子供っぽいと思われるー!愛想つかされるー!嫌われるー!あああああー…!」

「そうはなんないってば!」

 事情を話したコータは、伏せる狸の背中を乱暴に揺する。

「だから何か好きなゲーム言って!」

「やだぁ~!やだぁ~!せっかく頑張ってこれまで頑張って大人な自分を頑張って演出してキャラ作り頑張ってきたのにぃ~!

子供だと思われるぅ~!思われちゃうぅ~!」

 コイツ既に多少酔ってるな。と半分呆れながら、説得が面倒くさくなったコータは亀になっているタクミの腹の下に腕を入

れ、馬鹿力に物を言わせて「でいや」とひっくり返す。

「わ~!」

 簡単に転げた狸の横にドスンと腰を下ろし、「さあ観念しろ!」と携帯を開いて突きつけるコータ。

「ただの趣味の共有だって考えればなんて事ないって!情報交換!」

「ううううう…!」

 なおも躊躇っているタクミに、「もしも」とコータは告げた。

「自分の好きな事で一緒に遊べたら…、楽しいって思わない?」

「そ…れは…、まぁ…」

「だろ?」

 弱々しい返事を聞き、我が意を得たりと頷くパンダ。

「おれもそう!ヨシノリさんとツーリングできてムッチャクチャ楽しいし幸せだ!判ってる?タヌマ君にもな、先生とラブラ

ブで楽しく一緒にやれるゲームとかがあるかもなんだってば!」

 言葉に詰まるタクミ。

 コータは説得上手ではない。言葉で伝えるのが上手な方ではない。それでも、気持ちは友人に伝わった。

 自分もそうやって幸せだから、楽しくやってるから、タヌマ君もそうなったらいいな…。

 そんな純粋で真っ直ぐな気持ちは、足りない言葉を補って余りあった。

「………」

 タクミはしばし躊躇していたが、やがて、今やりこんでいるゲームのタイトルをポツリと漏らした。



「グッジョブだコータ…!」

「え?」

「ん?」

 居酒屋の個室、メールを確認するなり唐突に呟いたヨシノリに、黒馬と虎の目が向いた。

「シンスケさん。このゲームをやってみて下さい」

 ヨシノリはコータからのメールを見せ、ゲームタイトルを告げる。

「タヌマ君は酒を飲めるようになって、シンスケさんと吊り合えるように大人っぽく振舞おうとしていますが、彼の趣味は…」

 ヨシノリの説明を受け、黒馬の目が丸くなり、やがて柔和に細められた。

「…そうですか…。背伸びさせてしまっていたんですね…。悪い事をしてしまった…」

 本心を見抜けなかったと反省するシンスケに、ヒロは「いや」と頭を振った。

「背伸びさせてやるのも甲斐性です。爪先立ちでちょっと覗く世界は、若い連中には格別ですから。ブラックのコーヒーの香

りや、美味そうに飲む泡だらけのビール…、私らにだってそんな物に憧れた時分があったでしょう?社会を目の前に、そこへ

漕ぎ出す時を待つ学生ならなおの事です。私らにできるのは、無理した背伸びで爪先を怪我しないように、程ほどの高さに目

線を合わせてやる事です。勿論ルールの中で、ね。趣味や考えや見方を合わせるのは言うほど簡単じゃあないが、できないわ

けじゃあない。何せ童心なんて物は私ら皆がかつて持っていたものですから。危なくないなら背伸びを咎めないで、時には膝

でも曲げてあっちの目線に合わせてやって…、それぐらいで丁度いいんですよ。若者と中年の接し方なんてのは」

 黒馬は肥満虎の丸顔をじっと見る。視線に気付いたヒロは、「何か変な事いいましたかねぇ?」と耳を倒す。

「いえ…。見た目もそうですが、ヒロ君も印象が随分変わったなぁ、と…」

「前はどんな印象だったんでしょうねぇ?」

 苦笑いしたヒロに、

「「杓子定規」、ですね」

 シンスケも微苦笑を浮かべながら、一言で印象を説明する。

「それは…、あぁ~…、何も言い返せないなぁ…」

 苦笑いが困り笑いに変わる虎。話が通じない訳ではないが、昔のヒロは極端にお堅いというか変に頑固というか、とにかく

融通があまり利かない男だったのは確かなので、反論できなかった。

「けれど、良いと思いますよ。見た目も印象も、今の方がずっと柔らかくて」

「………」

 先輩の言葉が照れくさかったヒロは、ポリッと、困り笑いの顔で頬を掻いていた。

 その顔を窺い、ヨシノリは思う。

 先立った恋人の願いを、その生き方に反映させているヒロ。だが変化は単にそれだけではない。

 ヒロは以前、自分を「俺」と呼んでいたが、今は「私」と呼ぶ。昔よりも他者に対して柔軟に接する態度も、変わった一人

称も、きっと…。

(自分の中に、アイツの名残を取って置いているんだろう。今でも大事に…)



 久々に旧交を温め、遅めの帰宅になったヨシノリは、「ただいまー」と玄関を潜ったところで、見慣れないシューズ…つま

りタクミの靴がある事に気付く。

「コータ。タヌマ君まだ居るのか?」

 声をかけながらリビングに入ったコリーは…。

(…何がどうなったんだこれは?)

 床の上で折り重なっているジャイアントパンダと狸の姿を目にし、酔っているのかな?と軽く眉間を揉んだ。

 フローリングの床へ仰向け大の字になっているコータ。その緩やかな寝息で上下する豊満な腹に、横からうつ伏せに顎を乗

せて眠っているのは、酔っ払っているタヌマ。どうやら最初に枕にしていたクッションとコータの腹を寝ぼけたまま勘違いし

てしまったようである。

 テーブルを見れば、空の缶三本と手付かずの酒類。

 あの後、コータ自らも一本飲み、タクミが封を開けた分までは気が抜けてしまって勿体無いので、と二匹でシェアして片付

けた結果がこれである。

(コータもそうだが、タヌマ君も大学の飲み会とかにはノンアルコールで参加した方がいいタイプだな…)

 くひゅ~、くひゅ~、と寝息を漏らすタクミが、顎下が熱くなってきたのかフシュンフシュンと鼻を鳴らし、モゾモゾと顔

の位置をずらす。その動きが腹に伝わったコータは、こそばゆいのか心地良いのか、不意に表情を緩ませ…。

「えへぇ~…、今日のヨシノリさん、積極的ぃ~…」

 デレデレ顔のパンダが吐いた寝言に、

「いや、ヨシノリさん今日もいつも通りだから。それヨシノリさんがやってるんじゃないから」

 と応じたコリーは一度寝室に入ると、ブランケットを取って来て折り重なっている二匹にそっとかけてやった。

 そして自らはポロシャツの襟元を緩めてソファーに腰掛け、テーブルの上に出しっぱなしになっていたビールを一本取り、

もう冷えていないそれを迎え酒にする。

 酒の肴は、大人になりきれていない青年達の、子供そのものの無邪気な寝姿。

(タヌマ君。シンスケさんが見たいのは、きっとそういう、素の君の姿なんだよ)

 微笑して缶ビールを煽ったヨシノリは、数十秒してから「あ、そうだ」と思いつき、二頭の無防備で無邪気な寝姿をシンス

ケに写メールしてやった。



 それから十数日…。

 緊張気味の顔でドアの前に立ち、深呼吸してから、タクミはコンコンとドアをノックした。

 手伝って欲しい事がある、とシンスケに招かれた土曜日。マンションの綺麗なドアは妙に高く厚く重そうに見えた。

「いらっしゃいタクミ君。どうぞ」

 間をおかずに開いたドアの向こうには、私服姿で微笑む黒馬。

「お、おじゃまします!」

 ギクシャクと部屋に上がったタクミは、空間が広く確保された清潔なリビングに入るなり「あ」と声を漏らした。

 テーブルの上には横に箱が置いてある真新しいゲーム機と、まだ説明書しか触れていないオンラインゲームのソフト。

「こ、これ…」

 ゲーム機とソフトのパッケージ。それらとシンスケの顔を見比べたタクミは、黒馬が浮かべたはにかみ笑いに気付く。

「タクミ君が遊んでいるゲームと聞いて、やってみようかと思ったんですが、回線の接続まではできたものの、本体側の設定

がよく判らなくて…、レクチャーして欲しかったんです」

 こっそり繋いでから教えたかったのに、いや、格好悪い。と黒馬は苦笑い。

「………」

 ポカンとした顔で機材とシンスケを交互に見る狸は、困惑気味に「でも…」と声を漏らす。

「げ、ゲームとか…、子供っぽいし…、先生が楽しいと思うはずないです…」

「病院で会う時以外は、「先生」禁止です」

 ピッと指を立てて、シンスケは笑う。

「楽しいか楽しくないか、やってみなければ判りませんよ?それに…、買ってしまいましたから、楽しまなきゃ損です。タク

ミ君が好きな物で、一緒に遊んでくれますか?遣り方も面白さも、君に教えて貰いたいんです」

 黒馬から微笑みかけられたタクミは、やや逡巡を見せたものの、程なくコックリと頷いた。



「上手く行っているかな…」

 ツヤツヤと立派な塗り柱の上部に吊るされた壁掛け時計を確認し、コリーが呟く。

「先生、ビール注ぐっす!」

「ああ、どうもなぁ」

 ジャイアントパンダが膝立ちになってビール瓶の口を向けると、

「ササキにこうやって酌をして貰うなんて、十何年も経った後の同窓会になると思っていたんだがなぁ」

 肥えた虎が笑ってグラスを差し出し、糸のように目を細めて揺れる液体を見つめた。

 場所は変わって洒落た料亭。鮟鱇料理が絶品というクチコミのこの店に、ヨシノリは今日コータと共に、ヒロも交えて夕食

を楽しみに来ていた。

 名目は、相談に乗って貰ったヒロへの礼を兼ねての食事会だが、実際のところは、未だに独り身を貫いている虎の寂しさを

紛らわせようという部分もある。

 あまり酒が得意でないコータは、最初の一杯だけビールで付き合い、そこから先はウーロン茶に変える予定。前々から一度

連れて来たかったとヨシノリが言うだけあって、お通しから鮟肝の酢漬けやしめ鯖などが出て既にだいぶゴージャス。この後

のコースも豪勢なので、美味しさを存分に味わえるようにと、ヨシノリもコータに茶を勧め、コータも素直にその忠告を受け

ている。この辺りはもう変に背伸びしたり気兼ねしたりはしない関係である。

「これは…、肥りそうだなぁ…」

 熱々の鮟鱇唐揚げをハフハフしながら頬張ったヒロが漏らすと、

「…体型、意外と気にしているのか?」

 ヨシノリが眉根を寄せる。付き合いは長いが、痩せる努力をした話は聞いた事がないので。

「いやぁ、日頃から不摂生だからなぁ。肉がつくとそれが戻るまで結構かかる」

 ヒロがトレーナー越しに丸い腹を叩くと、たゆんっと全体が大きく揺れて、ヨシノリは視線を巡らしコータを見遣る。

「今はまだ若いからコータの腹は張りがあるが…、今はまだ中に結構腹筋が詰まっているが…、いずれ、こうなるのか…?」

「えー?」

 未来予想図を眼前に提示され、耳を伏せて困惑するジャイアントパンダ。

「いやぁ、ササキの場合は腰から胴からラグビーで鍛えた筋肉でみっしり覆われているからなぁ。私みたいな弛み方はしない

んじゃあないか?」

「ヒロも重量挙げで鍛えていた頃はそうだったろう?」

「…私はホラ、遺伝的な物もあるだろうから。兄貴もこんな体型だしなぁ」

 そんな事を言いながら、ヒロは気を取り直して唐揚げをつまむ。気にはするが改める気はない、という所である。もっとも、

プリプリの鮟鱇の身をサックリと衣が包んだ絶品の揚げ物の誘惑には抗えないという部分も大きいのだが。

「アンコーって魚、見た目グロいしもっとこう、エグい味を想像してたんすけど…」

 正直なところ少し警戒していたコータは、予想に反して淡白、かつ旨味はしっかりある鮟鱇の独特な味わいに首を傾げる。

他の魚とは一線を画す不思議な味と食感が癖になりそうだった。

「「顔が変な魚こそ意外なほど美味い」っていう名言があってなぁ」

 かつて毎日飯をあてがってくれていた狐の言葉を思い出しながらヒロが言うと、コータは「言われてみれば!」と納得する。

 大学時代の先輩と後輩。その先輩の恋人は後輩の教え子。奇妙で珍しいが三者は良好な関係である。数年前まで生徒だった

コータが担任だったヒロと同席してもギクシャクしないのは、ヨシノリを介した関係もあって恩師かつ年上の友人という間柄

に落ち着いたからでもあるが、肥った虎がすっかり様変わりして接し易くなった事も確かに影響している。

 ビール瓶があっというまに二本空くと、年長二名は冷酒に切り替え、コータが甲斐甲斐しく酌をする。口にのぼる話題は、

互いの近況からテレビ番組のネタ、そして連絡がない以上は上手くやれているのだろうシンスケの事。

「ネットゲームというものに馴染みが無い世代だが…。コータ、ああいうのってどうなんだ?」

「おれもあんまりゲームやった事ないすから…。でも、友達んちに集まって一緒にやるとかじゃなく、別々の部屋に居て一緒

にやれるのって便利っすよね?思いっきり夜更かしして遊べそうな気がするし…」

「確かにそういうのはあるだろうなぁ。意思疎通がどうなるかはよく判らないが…」

「ああいうのは、電話で話しながら一緒に遊ぶんだろうか?」

「ゲームの中で何かするんじゃないんすかね?」

「最近のゲームはテレビ電話みたいな事になっているのかなぁ…」

「電脳空間的な…」

「サイバーなヤツっす?」

「未来過ぎるなぁ…」

 話題がオンラインゲームの事に及んだが、何せ詳しくない三匹なので、かなりふんわりした話になっている。その頃…。



「上手いですダイバ先生…!」

「先生は…」

「あ!済みません、し、シンスケさん…」

 シンスケのマンションのリビングでは、ソファーに並んだ二名がモニターを見つめていた。

 画面に映し出されているのは、戦火に焼かれて廃墟となった街並み。瓦礫や壊れた車が点在する街路を、コンバットスーツ

に身を固めでアサルトライフルを構えた黒い馬が進んでゆく。

 突如、崩れて大穴が空いた家屋の中から、無数の触手を備えたクラゲのような生物が飛び出すと、馬のソルジャーは素早く

ライフルの照準を合わせ、詰め寄られる前にタタタタタンと連射を浴びせ、これを撃退する。

「8匹目!あと1匹です!良いタイムですよ!」

 画面上のレーダーに映る光点は残り一つ。初心者としてはかなり上手い部類に入るプレイなのだが、これはタクミの効果的

なレクチャーのおかげである。

 狸が長らく遊んでいるこのゲームは、荒廃した近未来を舞台にエイリアンと戦うSF物。自分が操作するキャラクターを後

方から眺める格好のシューティングゲーム…要するにサードパーソン・シューターである。

 プレイヤーキャラクターの外見を種族や性別を含めて自分好みにカスタマイズでき、戦績に応じて手に入るポイントで装備

を整えてゆく他、性能に関係なく外見を変えられる衣類やアクセサリーも入手できる仕様。細かく外見を弄れるキャラクター

に愛着が湧くらしく、長く遊んでいるプレイヤーが多い。

 手先が器用かつ反射神経がいいシンスケは、操作方法と握り慣れないコントローラーの感触にまだ戸惑っているものの、タ

クミの指導もあってシステムとゲーム進行には慣れ、時折操作でもたつく以外には問題のないプレイを見せている。

「距離が近くなった…かな?」

「です!障害物考えると、そこの丁字路辺りが…」

 タクミが言うが早いか、今度は銃火器を携えたタコ型のエイリアンがニョルリと街路に現れた。

 即座に交錯する銃火。黒馬も被弾しているが、ここまで殆どダメージを受けていなかったので耐久性には余裕がある。

「ゴリ圧しで行けます!タイムと逃がさないの優先で!」

 タクミのアドバイス通り、残りタイムでの戦績獲得を優先し、正面からの撃ち合いでエイリアンを仕留めたシンスケは、リ

ザルト画面が表示されるとホッと息をついた。

「緊張感がありますね…。これは楽しい」

「でしょう!?」

 身を乗り出して同意したタクミは…。

「…あ…」

 至近距離で見つめ合う黒馬の、嬉しそうな笑顔に気付いた。

 子供っぽい。大人っぽくない。そう考えていたゲームで、シンスケが楽しんでいる…。

 そして、これが好きだという反応を正直に表した自分を、嬉しそうに見ている…。

「素敵なゲームです。ありがとう」

 シンスケに礼を言われ、タクミは恥かしくなって視線を下げる。

 シンスケに吊り合う大人として振舞いたかった。けれど、シンスケが望んでいたのはきっと、素直に素の自分を見せること

だったのだと、何となく判って来た。

「タクミ君」

 黒馬は狸の肩にそっと手を置き、引き寄せた。恥かしくて顔を見せ辛いタクミを慮り、胸に頭を抱く格好で。

「君が好きな事を、君が好きな物を、もっともっとたくさん教えてください。私もそうします」

「は…、はい…」

「大人っぽく振舞うのもいいです。好きに振舞っていいです。けれど無理はしないで頼って下さい」

「…はい…」

「迷惑をかけるとか、至らないだとか、そんな事は気にしないで下さい。リードする喜びや誇らしさというものもあるんです

よ。君が今、ゲームを教えてくれたように…」

「…は、はいっ…!」

 それからシンスケはタクミを離し、その顔を見つめて笑いかける。

「ではそろそろ休憩して夕食にしましょうか。何が良…」

 クゥ~…。っと音が鳴り、赤面したタクミは慌てて太鼓腹を押さえた。

「これは済みません。お腹が減っていたんですね?…ああ、もうこんな時間か…」

 時計を確認し、「時間を忘れる楽しいゲームです」と笑った黒馬が、何が好きなのか訊いてみると…。

「…か、カレーとか…、好きです…!」

 タクミはまた一つ、自分の好きな物を好きなひとへ伝えられた。



「すげぇオレンジ色…!」

 卓上にデンと乗せられた鍋を前に、コータがジュルッとヨダレをすすった。肝をたっぷり溶かした鮟鱇鍋は鮮やかな色合い

で、クツクツと音を立てながら芳醇な香りを漂わせ、鼻と胃袋をくすぐって来る。

「おれ取り分けるっす!…具ってこれ、どんなの入ってんだろ…!?」

 ジャイアントパンダがせっせと取り分け、一同は味が染みた鍋に舌鼓を打つ。身も豆腐も白菜も肝の旨味をたっぷり吸って

おり、三者三様に熱い一杯に夢中になったせいで、部屋の中はひたすら鍋を食す音や、息を吹いて冷ます音で埋まった。

 あっと言うまに具が減って、最後の一杯を年長者達から譲られたコータは、「スープ勿体無いっす…」と名残惜しそうに具

をかき集める。

「しめはそのスープで雑炊が出るぞ?」

「マジすか!?」

 ヨシノリの一言で惜別の表情から一転し、パァーッと顔が晴れ渡るパンダ。

「よほど気に入ったんだなコータ。…しかし家じゃこの味は真似できないからな。通販で鍋セットを頼んだ事があったが、肝

を溶いたスープの味も火の通し具合も、やはり店の物には敵わない」

「通販で…って…」

 コータは想像する。宅配のアルバイト中に荷物仕分けで見るクール便…。あの中に、こんな美味い物が入っている事もある

のか?と…。

「…作業に…集中できなくなりそう…」

「集中できなくなる?」

「何の話だササキ?」

「いやこっちの話っす!」

 コータが最後の一杯を味わっている間に店員を呼び、雑炊の仕込みをして貰ったヨシノリは、シンスケからのヘルプ要請が

入らない携帯を見遣って口を開いた。

「ヒロ。携帯サイトなんかでの距離の詰め方について、この間話をしたが…」

「ああ、距離感の事かなぁ?」

 出来上がるまでしばし時間がかかる、蓋をされた土鍋から目を離した虎は、眠そうな半眼をコリーに向ける。

「それだ。子供達が気軽に使える物として普及していく今、ネットというのは…、その…、コミュニケーション手段として、

子供には早過ぎる物だと思うか?」

 言葉を探して意見を求めたコリーに、虎はタップリした顎を引き、口を開いた。

「テレビも電話も、昔は個人宅に当たり前にあったわけじゃあなかったんだよなぁ」

「うん?」

「私達が子供の頃には当たり前にあったが、あれも昔は、子供がそうそう勝手に使える物でもなかっただろうなぁ」

「………」

 普及してゆく技術の産物は、生活を変える物は、その時代ごとに昔からあった。ヒロの指摘でそれを思い出しながら、ヨシ

ノリは後輩の言葉に耳を傾ける。

「タヌマ君とシンスケさんの仲を、ネットゲームが取り持つかもしれない。それにそもそも、良いも悪いもなく、もう規制し

ようにも止めようが無いだろうなぁ。昨今のツールは何だって進む一方で、エスカレートはしても後退はしない。ひとの方で

合わせて行く他ないんだろうなぁ」

「自らが造ったものに、ひとの方が合わせるのか…。新しいコミュニケーション手段に対応して…」

「マナーもモラルもエチケットも、そして良心も思い遣りも、「顔を合わせないから要らない」んじゃあなく、「直接会わな

いからこそ信頼関係の構築に必要」だ。…「アイツ」はパソ通やファンとのやり取りについてそんな事を言っていたっけなぁ。

もっとも、かなりおっかない手紙も貰っていたそうだが…」

「うん?おっかないって…、どんな手紙だ?」

「「今何してますか?」とか…」

「それだけか?」

「それだけだ」

「…それは怖いな…」

「まあ何にせよ、こういうのは若くて柔軟な頭の方が順応し易い。案外子供らの方が適応していくかもしれないぞぉ?」

「ヒロは肯定的に受け止めているんだな?子供達が触れる物として妥当だと…」

「どうかなぁ。大人子供関係なく、扱う個人によると思う。何せひとの精神はそうそう変わる物でもないからなぁ。技術の発

展は素晴らしいが、それを扱うのは…」

「扱う人類側の精神性が、まだ未熟だと?」

「どうだろうなぁ…。私は「人類」なんて括りには拘れない。大き過ぎて目が眩むからなぁ。私が見るのは生徒「個人個人」

だ。「生徒」や「大勢」と括ってしまうと、ひとりひとりの「顔」が見えなくなってしまいそうで…。ああ、そこもまぁ、チ

グハグになる要因だろうなぁ」

「チグハグ?」

「知識は積み重ねられて未来に受け継がれて行く。文明が滅ぶレベルの激動でもない限りは前進するだけで、損なわれる物は

古い技術などほんの一部だけだろう。ガラスの細工や刀の製法など、工業技術の発展や時代に求められなくなる事で失われる

手作業の技能はあるだろうが…、例えば「システム」については発展するばかりだろうなぁ。古い時代と違い、記録も資料も

データとして残し続けられるようになったから。しかし、ひとの精神性はそうは行かない」

 グラスを傾けてビールをチビリとやったヒロに、「なるほど」とヨシノリが頷く。

「文化として価値観や精神が受け継がれても、それは決して「そのもの」ではない。あれらは一種の指針であり教え、か」

「そういう事だなぁ。基本的に精神性は知識や文明と違って一代限り個人限りでほぼリセットされる。それを受け継ごうとす

る者があっても、手本を見習いながらも結局は自分で一から構築していくわけだからなぁ。…そこを考えると、後に残す物が

ある教師という職は、幸せなのかもしれない。繰り返し何度も幼い心へ肥料と水をやって行けるんだから。とはいえ、その内

に子供達が学校に通う必要もなくなって、教師という職が無くなる日が来るかもしれないなぁ。機械やプログラムがひとの子

を正しく導けるようになったらだが…。技術や知識は保存され、後退する事無く前へ進められる時代になった。いずれはツー

ルを扱う側のノウハウも完成度が高くなって、新しいコミュニケーションに順応していくんだろうなぁ」

 顎を引くヨシノリ。

 反論はしなかった。人類が誕生して以降現在に至るまで、完成していないノウハウや解決していない問題は山ほどある。世

代をここまで繋いで来ながら、子育ての完璧なマニュアルは存在しないし、男女のあるべき姿や性差、趣味趣向の問題などの

議論は決着を見ない。種族、価値観、環境の差、生まれの違い。様々な差異によって試し続けられてなお、人類は一つになり

切れない。

 反論する気にはなれなかった。ヒロは教師である。ひとの不完全さについては自分よりもよほど深く理解している。そんな

男があえて口にする「きれいごと」は、ひとへの期待であり願いであり祈りでもあるのだろうから。

「「技術や知識は、後退する事無く、正しく前へ進められる」、か…」

「そう思っているよ、私はな。…きっと今に、治らない病気なんか無いような…、正しく科学が進んだ時代が来る」

「…そうか。やはりカズの遺産は「そのため」に使ったのか…」

 手酌でビールを注ぎ足そうとしていたヒロの手が、ピタリと止まった。

 驚いたように見開かれた真ん丸な目に、コリーの微笑が映り込む。

「だろうとは思っていたよ。貯蓄だけじゃなく、印税や権利関係も含めてアイツが遺した莫大な物を、お前は一切使っている

様子が無いからな」

「………」

 虎の目がフッと細められた。良かろうと思ってやりながら、しかし見つかったら咎められる…、そんな事をしていた少年の

ような顔で。

「馬鹿な真似だと、思うかぁ?」

「思わないさ。ちょっと勿体無いなとは、小市民だから思うがね」

 肩を竦めたヨシノリは、「勿体無いかぁ」と笑ったヒロに、「ああそうだとも」と頷いた。

「それがあったら、鮟鱇フルコースぐらいさらっと奢ってくれたろう?」

「………」

 虎の目が静かに、斜め下へ伏せられた。

「…今月は…、やや…ピンチでなぁ…」

「はっはっはっ!冗談だよ、本気にするな!」

 笑ったヨシノリは、ふとコータを見遣った。

 きちんと背筋を伸ばし、耳を立て、コリーと虎の会話を傾聴していたジャイアントパンダは口数が少なかったが…。

「コータ?トイレ我慢してるんじゃないのか?」

 モゾモゾと小刻みに、落ち着きなく腰の位置を変えているパンダの様子に気付き、ヨシノリが確認する。どうやら大事な話

だと感じて席を立つのを我慢していたらしい。

「変に気を遣わなくていいから、行って来なさい」

「うっす!んじゃちょっと失礼して…!」

 コータがドタドタと部屋を出て行くと、

「世話焼きは相変わらず、だなぁ」

 肥った虎は丸顔を柔和に笑み崩す。

「うん?シンスケさんとタヌマ君の事か?」

「そうだ」

「肩入れし過ぎだと?」

「そうは言わない。昔と変わらなくていいと思っただけだ」

 コリーはいささか照れくさそうに耳を倒し、軽く顔を顰めてからお猪口を取り上げ、クイッと煽って一飲みにした。

「…コータには友人が必要だ。それはまぁ甘えてくれるのは嬉しいが、同年代の親しい友人達は持っておくべきだろう?」

「私達のように、かい?」

「その通りだ。それに、大学生活を楽しく送るには友人は必要不可欠だろう?そうでなくとも…」

「同性愛者…白い目で見られがちな存在だから、か」

「あまり言いたくは無いがその通りだよ。昔のお前みたいなヤツばかりじゃあない。同じ価値観を共有できる友人は、居るだ

けで心強い」

「…さっきの、ネットワークの話なんだが…」

 ヒロは冷酒の徳利をつまんで取り上げ、口をヨシノリに向けながら言った。

「世界中と繋がれるコミュニケーションの手段…。それがもしかしたら、自分の周囲には居ない同類と知り合える…、いつか

そんなツールになって行くのかもしれないなぁ」

「…なるほど…」

 酌をされたヨシノリは、改めて感じる。

 物は使い様。ヒロが述べるように便利に使えるその半面、手軽な騙しの手口にもなり得る。

 願わくは、この肥った虎が望むように、それを扱う者によって正しく用いられるよう…。



「ご馳走様でした!」

「ご馳走様でした」

 手を合わせた狸と黒馬の前には、空になったカツカレーの皿。

 シンスケが懇意にしているすぐ傍の小さな洋食屋が出前してくれたカレーライスは、タクミの要望に応じてオーダーした通

り、軽くピリッと食欲を煽る辛味が利かせてあった。揚げたての分厚いカツもサクサクでボリュームがあり、満足の一品…を

通り越して…。

「凄く美味しいです…!今まで食べた中でベストスリーに入る!」

 カレーを食べなれているタクミからしても、かなり上位にランクインする一皿だった。

「それは良かった。ハンバーグとパスタが名物のお店で、カレーはあまり有名ではないんですが、かなり美味しいと前々から

思っていたんですよ」

 微笑む黒馬が、「トッピングやアレンジは色々お願いできるんですが…」と説明すると、タクミは興味を顔に判り易く浮か

べながら熱心に聞き入る。

 ハンバーグカレーはチーズ入りの物も選択可能。カレーソースのパスタも作って貰える。実は裏メニューでカレー饂飩もあ

る…。
そんな話でコクンと唾を飲み込むタクミの顔は、大人っぽくなりたいと言う彼の気持ちからすれば皮肉にも、純真無垢

な幼い子供のようで…。

「…そうですね」

 黒馬が微笑する。

「外でのデートもいいですが、宅飲みデートもいいかもしれませんね」

「…へっ…?」

 狸の目が丸くなり、ボッと顔が熱をもった。

「酔い潰れたって問題ありませんし、喜んで貰える夕食も出前で取れます。それに…」

 黒馬の筋肉質で逞しい腕が、そっと狸の肩に回った。

「…周囲の目も耳も、気にしなくていいでしょう?」

 耳元に囁かれる声と吐息に、こそばゆさを覚えてタクミの耳が震えた。

「外を歩いていると、どうしても吊り合うようにと気を張ってしまうのかもしれませんが…、大人っぽく振舞おうと頑張り過

ぎないで下さいね?今は一時だけ子供の面を残しているでしょうが、タクミ君はきっとすぐに立派な大人になります。それま

での間、まだ大人になりきれていない面を遠慮せず見せてください。大人の恋はこれからいくらでもできますが、今は、今だ

けなんですから」

 顔をカッカと火照らせながら、タクミはコクコク頷いた。

「…という訳で、何か要望はないでしょうか?いまなら、ここなら、誰にも見咎められませんから」

「…え…」

 硬くなって背を丸めていたタクミはやがてそろそろと、恐る恐る、シンスケの顔を見遣り…。

「…ち…」

「はい?何でしょう?」

「…チュー…してみたい…です…!」

 完全に俯いた狸を、少し目を大きくして見つめた黒馬は、やがて優しげな双眸をゆっくりと細めて、狸の顎下へ手を入れる。

 軽く口を触れ合わせるソフトなキスは、カレーの匂いと味がした。





「おはようササキ君!」

 駐輪場にビッグスクーターを停め、シートトランクにハーフメットを突っ込んだジャイアントパンダは、張りのある声に黒

耳を立てて振り向いた。

 同じ講義に出席する狸は、ニコニコと満面の笑みを浮かべている。

「ん、おはよ。…うぇへっ…!」

 変な声を漏らして笑うコータ。どうやら週末デートは上手く行ったらしい事が、訊かなくとも笑顔を見れば判る。

「あ。ヨシノリさんが、ウチでも同じゲームするって」

「ホント?」

「気持ちを若く保つには若い世代の遊びを知るのがいい、とか何とか…。今度の飲み練習の時とか、コツなんかあったら教え

てよ」

「うん!」

 並んで歩いてゆく丸っこい二頭。

 少し前までは排他的で、友人も作ろうとせず、学校生活を楽しもうともしていなかったコータは、大学生活が前より少し楽

しくなって来ていた。







 その、二日後…。

「設定はこれでオーケーだろう」

「ヨシノリさん、こういうのも詳しいんすね…」

 接続設定と登録が終わったリビングには、一緒にプレイするために用意された新品のソフトや卓上テレビが設置されている。

「いきなり本格的…。もしかして元々興味あったんすか?」

「いや、そういう訳じゃないんだが…」

「けど、大盤振る舞いの大散財じゃないすか?」

「それは…。…シンスケさんからあれだけゲームの話とノロケ話をされたらな…」

「え?何すか?」

「いや何でもない。それより、説明書はちゃんと読んだか?中身は大丈夫か?」

「そりゃあもうバッチリ!…って言うか、ヨシノリさんこそゲームとか大丈夫なんすか?」

「舐めて貰っちゃあ困るなコータ」

 ニヤリと不敵に笑うコリー。

「要はこれもシューティングゲームなんだろう?これでもゼビウズは近所で一番上手かったんだぞ」

(ぜびうず?って何だろ?)

 ヨシノリが出した名詞は判らなかったが、とにかく自信はありそうだと感じるコータ。

「ヨシノリさん、ゲーム結構やってたんすか?ゲーセン行ったりとかして?」

「そうだな…。ゲーセンと言えば「侍スピッツ」なんかはよくやった。…ん?知らないって顔してるな?」

「そりゃ知らないっすから」

「格闘ゲームだよ。歴史上の剣豪や忍者に扮して刀や薙刀や鎖鎌を咥えた各種スピッツで対戦する…。本当に知らないのか?」

「おれあんまりゲーム詳しくないすから…」

 そんなやり取りをしながら、ふたりは仲良く並んで、それぞれ自分に似せたキャラクターのメイキングに勤しむ。

 デザインを似せるのは、自分に似ていると緊張感がある、とのシンスケのアドバイスを受けての事。不慣れなのでメイキン

グ操作にもかなり手間取り、ああでもないこうでもないと頭を捻りながら自分に似せてゆく。

「コータはそんなハリウッドマッチョじゃないだろう?もっとこう…、ムチーンと腹が出てるじゃないか?」

「あひゃん!?」

 さりげなくシックスパックに割れた腹筋デザインにしようとしていたコータは、脇腹の過剰な贅肉をミュニンと掴まれて変

な声を上げる。

「よ、ヨシノリさんこそ!何かソレ耳ピンと立ってるし、そんな切れ長アイズじゃないっす!」

 同じく、理想像への美化に対してチェックを入れられるヨシノリ。

 やんややんやとメイキングに打ち込んでいたふたりは、ふとした拍子に一時間ほど経っている事に気付く。

「…夢中になっていた…」

「まだゲームも本格的にスタートしてねぇっす…」

 侮り難い物だと唸ったふたりは、そこからまた二十分ほどかけてクリエイトを終了。体型体格は現実の物に近いが、両方と

も目元口元がやや美形なのはご愛嬌である。

「チュートリアルっていうのがあるっすけど…」

「練習モードだな。マニュアルは読んだから操作は大丈夫だろう。とりあえずこの稼ぎが良さそうなのを選んで、身の回りの

物を整えないとな」

「らじゃーっす!」

 知らないが故に大胆不敵。友軍登録なる機能を使ってプレイヤー検索し、同時プレイに入った両者は、現時点での最高難易

度のミッションを選択し…。

「おおお、歩いてる…!」

「こいつ…動くぞ!」

 不慣れなゲームの操作で自らがキャラクターを動かしている事に感動するコータと、ドット絵慣れした目には非常に立体的

で美麗なグラフィックのキャラクターが動いている事に感動するヨシノリ。

「レーダーに映るのが敵だ。全部探して撃破すれば勝ちになる」

「がってん!」

 相手はクラゲやタコのようなエイリアン。説明書のビジュアルでは強そうには見えなかった。気を大きく持ったふたりは颯

爽と無用心に前進を開始し、すぐさまエイリアンと接触する。タコ型の、銃器で武装しているタイプである。しかも八名の団

体様。

「よっしゃー!トライ決めるっす!」

 勇ましくアサルトライフルを構えて間合いを詰めにかかる、ヨシノリ監修が入って本人そっくりな後姿になっているジャイ

アントパンダは…。

「ちょっと待って」

 冷や汗をかくコータ。

「ちょっと待って」

 凄まじい勢いで景気よく減ってゆく耐久力。不用意に前に出たパンダは十字砲火を浴びてダイナミックな盆踊りよろしくよ

ろけまくる。

「ヨシノリさん!こっちもうヤバ…」

 横を向いたコータは、そこに、食い入るように画面を凝視しているヨシノリの切羽詰った横顔を見た。

「ちょっと待って」

 手に嫌な汗をかくヨシノリ。

「ちょっと待って」

 爽快なスピードで削られてゆく耐久力。うっかり見通しの良い長い通路に出たコリーは、大歓迎で集中砲火されて不恰好な

ダンスを踊っている。

 スタート時から選べる中では最上級難易度。今日初めてコントローラーを握り、説明書を斜め読みしただけで太刀打ちでき

る物ではない。瞬く間に制圧された二名は、しばし口をパクパクさせていたが…。

『………』

 絶句したままミッション失敗のリザルト画面を眺める二匹。無慈悲に獲得ポイント0を告げるメッセージを前に、ダラダラ

と背面全体を汗で湿らせる。

「なにこれムッズ!?激ムッズ!?」

「ゼビウズと全然違うじゃないか!?」

「もっかい!もっかい!」

「ああ!雪辱戦だ!」

 熱くなった両者は懲りずに突撃。同じ目に遭い、五十秒で返り討ち。

「もがー!?」

「馬鹿な!?侍スピッツと全く違うじゃないか!?」

 ビギナーには少々荷が重い。それでも諦めず同じステージに挑み続けた後で…。

「…タヌマ君。やられまくるんだけど、何かコツある?」

 パンダが電話で狸に救援要請。

『やられるって…、どういう風に?』

「トライ決めに行ったら潰された」

「見通しの良い車線を選んだら事故った」

 ラガー脳とライダー脳によるそれぞれの死因がよく判る回答。

『ちょっとずつ誘い出して対処した方が良いよ?決まったポイントを守るヤツとか徘徊するヤツとか、こっちを追いかけてく

るヤツとか居るから、分散させないと危ないトコ多いかも。密集地帯に入ると袋叩きにされちゃうから…』

「ヨシノリさん!誘い出して対処だって!」

「何だって!?そんな攻略方法が!?」

 報告するパンダと驚くコリー。実は説明書のミニヒントに書いてある基本的な情報である。

『あと、簡単な方からやっていって、コツコツと装備とか揃たら上の難易度をやった方がいいよ?結局その方が効率的だから』

「ヨシノリさん!コツコツ装備揃えるんだって!」

「何だって!?慎重に行くべきなのか!?」

 再度報告するパンダとまた驚くコリー。しかしやはり説明書のミニヒントに書いてある基本的な情報である。

『もうちょっとしたらこっちも入れるようになるから、少し一緒にやってみる?』

「お願いしますゼヒ!助太刀ぷりーづ!」

 土下座する勢いで頼んだパンダは…。

「コータ」

「うっす」

「合流するまで、特訓するぞ…!」

「うーっす!」

 コリーと共に、コントローラーを思い切り握り締める。

 こうして、ふたりの夜の生活には、新たにゲームという項目が加わった。