第一話
話をさせて欲しい。
少し長くなると思うが、きっと、ここで話しておかなければいけない事だ。
おれの事…。
ヤスキの事…。
話すべき事は沢山あって、どこから始めれば良いのか正直迷うが…。
…そうだな…、やっぱり最初から話して行かなくちゃダメなんだろう…。
最初にヤスキの事に意識が向いたのは…、そう…、あれは確か、持久走があった日…。
眠くて仕方がなかった、午後の授業の最中での事だった…。
その生徒は、教室最後尾、廊下側に近い席から遠い窓を望み、星陵の校庭隅を彩る桃色を物憂げに眺めていた。
教科書を広げながらも授業に集中できず、繰り返し込み上げて来る欠伸を噛み殺しているのは、黄土色の被毛に黒い縞模様
がくっきりと浮かぶ、虎獣人の男子である。
真垣亜虎(まがきあとら)。それが少年の名。
この春から星陵高校に進学し、親元を離れ、たった一人しか知り合いが居ないこの街で寮生活を始めたばかりの15歳。
背丈はクラスで最も高く、173センチ。特にスポーツに打ち込んでいる訳でもないが、筋肉質で手足は太く、胸はぶ厚く、
実に虎獣人らしい筋骨逞しい体をしていた。
体格に恵まれたこの虎は、実際のところ腕力も体力も獣人の平均を上回っている。
襟章から一年生である事が窺える彼の制服は、色濃く煌めく真新しい黒。制服のみならず上履きも新品で、廊下を歩けば靴
底のゴムが軽快な音を立てる。
彼だけでなく、教室にひしめく高校生達は全員新品。昼休みを終えた後の、午後一番の授業で眠気と戦っている。
高校進学で抱いた緊張感など、三日保てば良い方である。
学校と教室と教師が変わったところで、若者達はすぐに順応してしまう。
その慣れが、途切れた緊張感が、最初の週の後半にもなれば誰の顔を見ても窺える。
春のうららかな日差しと心地よい気温に、昼飯で膨れた腹を抱えて立ち向かうのは至難の業。そうでなくとも男子は午前最
後の体育で持久走をしているのだから、体が休眠を欲している。
おまけに、ぼそぼそと低い声でお経のように文章を読み上げる老いた教師の声が、生徒全員に取り付いている睡魔に活力を
与えていた。
眺めていた桜の木がぼやけて二重に見え始めると、虎はぷくっと鼻穴を大きくしつつ、目を大きく開く。
が、再び瞼はとろんと落ちて来て、しばらく経ってから覚醒してまた上がる。
延々と繰り返している睡魔との戦いによって、授業の内容はさっぱり頭に入って来ない。
窓から室内に視線を戻した虎は、手元に転がっている消しゴムを見る。
そしておもむろにシャープペンから出ている芯の長さを調節すると、プスプスと刺して入れ墨を彫り始めた。
点から成る「ガーリック味」という文字を消しゴムに描くものの、別にこの消しゴムがニンニク味な訳ではない。消しゴム
からニンニク臭でも立ち昇れば、確かに目は醒めるかもしれないが。
虎は刺青が完成すると同時に飽きたのか、消しゴムを放り出して今度はシャープペンの先端を自分の眉間に向けて寄り目の
練習を始めるが、これにも何の意味も無い。
半分眠った脳で授業を理解する事は諦め、典型的な授業中暇で仕方無いぜ少年になっている虎は、無意味にシャープペンの
芯の本数を数えた後、欠伸を噛み殺しつつ斜め前の席を見遣る。
そこには、教科書を真っ直ぐ縦にして立てて盾にして、築いたバリケードの内側で机に突っ伏している犬の姿。
ありふれた混血種の、それ故に馴染み深い外見。どこにでも居る犬獣人の姿をしているその茶色くてかなり小柄な生徒は、
しかし食べた菓子のあんこが口元にべったりと付着したように、鼻の下が黒くなっているという目立つ特徴がある。
泥棒髭のような模様があるその生徒がお手製塹壕の中で果敢に熟睡しているその様子を、アトラはぼんやりと眺める。
(うらやましい…)
開き直って寝るだけの気持ちにもなれないアトラは、知り合ったばかりの友人の背中が上下している様をとろんとした目で
見つめつつ、そんな事を考える。
多門保仁(たもんやすひと)という名の、小柄ながらも均整の取れた体付きの犬は、活発で少々マイペース、適度な強引さ
と積極性を併せ持ち、それでいて協調性が無いわけでは決してないという、いわゆる「ほどほどに付き合いやすい」性格の少
年であった。
元々そう饒舌でもないアトラだが、彼と話をすればつられて口を開く。
生来のムードメーカーとでも言うべきか、どうもヤスヒトは仲間作りが得意な性質らしいと、アトラは考えている。
そんな犬の、欲求に逆らわずに熟睡モードに入っている姿勢は、一応眠気に耐えている虎からは、いっそ清々しく感じられ
た。最初から睡魔に立ち向かおうともしない辺り、ある意味実に潔い。
そしてアトラはそのまま視線を外しかけ、
「…?」
不意に眉をひそめ、ある生徒を凝視する。
でかい。一言で表すなら、そんな印象を受ける後姿である。
別に背が高い訳ではない。背丈であればアトラの方が大幅に上回る。
だが、横幅やボリュームという点では、その生徒の方が遥かに上であった。
椅子に据えられた尻は幅広く、肉付きが良すぎて左右からはみ出している。
脇腹や胸横は、むっちりとついた肉のせいで肩幅と同等に横へせり出しており、猫背に見えるほどに背中にも丸みを帯びて
いる。
ボディカラーは学ランの黒と対照的な白で、アトラの寝ぼけ眼にはコントラストが鮮烈であった。
幅のある体のせいでアトラからは良く見えないが、どうやら熱心にノートを取っているらしく、丸みを帯びた背や肩が小刻
みに揺れている。
垂れた耳をしきりに動かし、お経のような教師の声をきちんと聞きながら授業を受けているその男子は、柔らかな白色の体
をした豚であった。
立って歩けばたぷんと揺れる、どこもかしこも贅肉が付いた体は、身長が160センチ弱という事もあって、肥満の度合い
が際立って見える。
気弱そうな垂れ目にか細い声、そして大人しい性格。アトラの印象からすれば、「外見は特徴的なのに目立たないやつ」で
ある。
(ふぅん…。感心だな…)
まともに授業を受けているように見える生徒は、この教室内ではほんの数名。やはり根っから真面目な男なのだろうかと考
えながら、アトラは胸の内で呟く。
(あと十分も無いが、ちょっと見習うか…)
そしてシャープペンをつまみ上げると、途中参加で訳が判らないが、とりあえずノートを取り始めた。
さらさらとペンを走らせながら、アトラは思う。
(えぇと、何だったかなアイツの名前…。タモンが自分と似てるとか何とか名前について言っていたような気も…。ヤス…?
ヤス…、何だっけ…?ヤス何?)
白土安基(しらとやすき)。
ノートをとり続けた虎がその名前を思い出すのは、チャイムが鳴った後の事であった。
そうだな…。「おとなしくて真面目なヤツ」…というのが第一印象だった。
体型は目立つが、性格的には目立たないとでも言えば良いのか…。
まぁとにかく、注目を集めるような生徒でも無くて、仲の良さそうな数人を除けば他のクラスメートともそんなに
話もしていなかったと、最初から感じてはいた。
…思えば、あの頃はヤスキの事を本当に何も知らなかったし、理解してもいなかった訳で…。
その放課後、昇降口でスニーカーをつっかけ、トントンと爪先を床に打っているアトラの横で、
「…うっわ…」
下駄箱を開けた狼が、押し殺したような声を漏らした。
「どうした?」
振り返ったアトラは、ルームメイトの狼が精悍な顔を引きつらせているのを見て、心の中で「またか?」と呟く。
「あれか?」
「…うん…」
「何枚だ?」
「三通だよ…」
「モテモテじゃないか」
「他人事だと思って…」
口を尖らせた狼は、困り顔のまま下駄箱から三通の手紙を取り出した。
いずれも可愛らしい封筒に収まった、一目でラブレターと判る代物である。
「恋文など、大半の男子はそうそう貰う機会は無いと思うぞシゲ?得難い経験じゃあないか」
「コイブミって…、また古くさい言い方するなぁ…」
苦笑いした狼は手紙を鞄に収めて靴を履く。
周囲を覗ったアトラは、下駄箱の陰に誰かがさっと隠れたのを目にしたが、あえて指摘はしなかった。
おおかたラブレターがきちんと届いたかどうか、確認したかった送り主だろうと察して。
水上重善(みなかみしげよし)。この狼獣人もまた寮生で、アトラのルームメイトである。
美形。特徴を言い表すならば、とにかくその一言に尽きる。
整った顔は精悍で、しかし繊細さや脆さは感じられず、ハンサムと呼ぶよりは男前と呼んだ方がしっくり来る。
アトラよりやや背が低く、身長はもうじき170センチというところ。
均整の取れたボディラインは引き締まっており、ガタイの良いアトラとはまた違ったスマートな男らしさを感じさせる。
この狼はどこまでも開けっぴろげで、前々から友人だったと勘違いしそうになる程に他者と打ち解けるのが早い。持ち前の
打ち解けやすさはアトラ相手にも発揮されており、入寮したその日から下の名前で呼び合う仲になっていた。
気さくで付き合いやすい、気兼ねなく会話と生活ができるこの男と同室になったのは幸運だったと、アトラは考えている。
同じく今年の春から寮生になった仲間達がルームメイト同士でもまだぎくしゃくしていたりするのを見れば、なおさらそう
感じられる。
「アトラ、部活とか決まった?」
昇降口を潜りながら、ラブレターの事などすっかり忘れたような顔のシゲが問うと、
「いや。実は、帰宅部も良いかもしれんなぁ…、と思っていたりする」
「へぇ…。けどたぶんそんな状態だと、ウシオ先輩から延々と勧誘食らうぞ?」
シゲの言葉で、アトラは「む…」と唸った。
校内で最も背の高い男。同じ寮で暮らす二年生にして応援団所属の大牛は、事あるごとに入団を勧めて来る。
どうやら空気が読めないという噂は本当らしく、あからさまに迷惑している様子の相手にも、はっきり困っている顔付きが
判る相手にも、相手の心境を全く判ろうとしないままおかまいなしで熱烈なアタックを繰り返すのだから質が悪い。
おかげで、アトラ達が暮らす第二寮では、帰宅部の隠れ蓑にするためか、あまり活動していない文化部を選んで早々と入部
を決めてしまった一年生がやたらと多い。
「繰り返すけど、ボートとかどうだ?」
「繰り返すが、泳ぎが得意じゃないから水の上は嫌だ」
「繰り返すけど、落ちなきゃいいんだよ」
「繰り返すが、落ちない保証がないから嫌だ」
帰り道を並んで行く二人の間で飛び交うのは、不毛な勧誘とすげない拒否の応酬である。
早々とボート部への入部を表明したシゲは、仮入部期間が終わっていないにもかかわらず、既に活動日には正式な部員とし
て練習に参加するようになっている。
まだ見習いのような物だが、早くも先輩達からは可愛がられているらしい事は、本人が言わなくとも周りから聞こえて来て
いる。
女子のみならず、不思議と男にも好かれてしまうのは、一重にその飾らない気さくな性格の賜物と言えた。
どういう訳か敵ができない。そんな学校生活ではある意味最高の社交能力を、この狼は生まれつき持っている。
(部活なぁ…。時間は確かにあるものの…)
シゲの勧誘をスパスパと断りながらアトラは少し考えたが、何かに打ち込んでいる自分の姿は想像できなかった。
中学時代も部活はしていない。くじ引きで当たってしまったので一応図書委員をしていたが、それでも数週間に一度のロー
テーションで昼か放課後に貸し出しと返却の受付をするだけであった。
有り余る時間は何に費やしていたかというと、もっぱら地図と旅行本との睨めっこである。
物心が付いた頃には既に、国内国外を問わず古い街並みや建造物に興味をそそられるようになっていたアトラは、旅番組な
どが大好きである。
旅行ガイドや地図帳を開き、あれこれと夢想するのが日々の楽しみであった。
子供の頃からオモチャも漫画もゲームも小遣いも殆ど欲しがらなかったアトラは、その代わりのように、旅行へ連れて行っ
てくれる事を両親にせがんだ。
小旅行でも良い。日帰りでも良い。住み慣れた町や家を離れ、見知らぬ土地や建物を目にする事が、アトラには何よりの刺
激と楽しみとなっていた。
その趣向は徐々にエスカレートしたが、流石に頻繁に旅行など行ける訳もなく、その代償行為としてガイドブック集めを始
める。
本当に行くのでなくとも、列車のダイヤやバスの運行時間などを調べて本格的な旅行計画を練り、リアルに旅を思い描いて
過ごすのは、それなりに時間を使う趣味であった。
だが今は、寮の相部屋でルームメイトと生活している事もあり、それまでに集めてきた膨大な旅行ガイドを部屋に持ち込む
のは避けた。
よって今は地図を眺めて記憶にある街並みを思い出したり、旅番組を見たりする程度に留まっている。
こうなるとそれほど時間を費やすような趣味でもなくなっており、余裕はかなりある。
何かやってみるのも良いかもしれない。などという気にもなるが…、
(だが応援団はないな。うん、ない)
とアトラは断じる。この虎からすれば、熱烈な勧誘をして来る先輩には悪いが、堅苦しくてつまらなそうで楽しくなさそう
な部活の筆頭が応援団であった。
「あれ?」
部活についての言い合いをしていたシゲが急に首を捻り、反論していたアトラは狼の視線を辿って首を巡らせる。
「あれって、そっちのクラスのヤツらだよな?」
問いかけるシゲと無言で頷くアトラ。二人の視線の先には、四名の男子生徒の姿がある。
単に歩いているなら気にもしない。だが、その団体の歩みが何となくおかしくて、シゲは目を細めていた。
(…あれは…、シラトだな。他の三人もウチのクラスだ)
一際横幅のある男子の肩に横の生徒が腕を回している。他の二名も肩を組んでいる生徒の反対側と、恰幅の良い生徒の斜め
後ろにつき、やけに密集していて歩き辛そうに見えた。
(あまり気をつけてもいなかったが、昼休みはいつもあの四人でつるんでいたかな…?)
記憶を手繰るアトラは、
「確か四人とも地元出身だ。もしかしたら中学も一緒なのか…、だから仲が良いんだろうな」
昼休みも大概の場合一緒に教室を出て行く旨、アトラが伝えると、
「へぇ…。仲が良いって?」
角を曲がってゆく四人の後ろ姿をじっと見ていたシゲは、何を思ったか訝るような顔付きになる。
「…ホントにそうかねぇ…」
「ん?」
ぼそりと懐疑的な呟きを口にしたシゲは、良く聞こえなかったアトラが首を傾げても、「いや何でも…」と言葉を濁してま
ともには応じず、さっさと歩き出した。
…たぶんそうだ。シゲはあの時には疑っていたんだろう。
けれどおれは全く気付いていなくて…。気付いて、やれなくて…。
この時の事を後から思い出して、初めて理解した。
今「そう」見えている事が、本当に「そう」だとは限らないという事に。
それからずっと、なにかにつけて考えるようになった。
「自分にそう見えているソレが本当だって保証はあるのか?」と…。
「…という訳で、どうだマガキ!ワシらと一緒に応援団で皆をサポートする熱い青春を送らんか!?」
図体も声もでかい大牛は、いつものように長々と応援団の活動について説明した後、テーブルの上にぐっと身を乗り出す。
寮食で夕食中のアトラは、あまり有り難くない先輩が同席しての勧誘に辟易していたが、それを露骨に態度に出せるでもな
く、「はぁ…」「いや…」と、曖昧な受け答えに終始していた。
寮内の新入生の殆どが部活を決めてしまった現在、フリーな身分のアトラへのアタックはますますしつこさをアップさせて
いる。
このやたらガタイが良い大牛は、気立ても良く気さくなのだが、いかんせん細やかな配慮ができない。
アトラが迷惑がってもその雰囲気を察してやる事ができず、失礼な断り方を避けようとして言葉を濁しているその態度を、
一方的に「脈有り」と捉えている始末。
その無神経さはある意味才能だと、アトラと同室の狼は笑いながら言う。
(おれからすれば笑い事じゃないんだが…。しかし何でアイツはウシオ先輩と面識があったんだ?お互い寮生で、地元もそれ
ぞれ違うらしいが…)
味噌汁を啜りながらそんな事を考えるアトラ。当然、現実逃避であった。
「自分に、応援団のような立派な物が務まるとは思えません…」
「がっはっは!そう遠慮するな!顔に似合わず照れ屋さんだなぁ君は!」
いや遠慮させてやれよ。
顔の事お前が言うなよ。
ってか声がうるさいよ。
食堂内のあちこちでそんな心の声が上がるが、しかし空気の読めないこの大牛に他者の心が読めるはずもなく、熱烈歓迎色
を前面に押し出した勧誘は続く。
そんな行き詰まった状態にあるアトラは、
「ウシオ、ちょっと」
横合いからかかった声に、ほっとして肩の力を抜いた。
スポーツマンらしく短く刈り込んだいがぐり頭の、少し背の低い人間男子が、大牛を見ながら手招きしていた。
「ちょっと手を借りたいんだけど、飯が終わったら部屋まで良いかな?」
「うむ!すぐ行こう!」
即座に大声で応じながら首を縦に振った大牛は、残る夕食をガツガツと貪り喰らい、飲み込むようにして片付けると、立ち
上がるなりアトラに向かってすちゃっと手を上げ、
「では、考えておいてくれいっ!」
そう言い残しつつ踵を返して足早に食器を返却口へ持ってゆき、どすどすと慌しく食堂を出て行った。
ここ数日タイミング良く声をかけてくれるあの二年生がシゲと同郷の幼馴染みだという事は、狼の口から聞かされている。
大牛と同室という事なので、もしかしたら彼の性格を理解しているが故に、気を回して自分を助けてくれているのかもしれ
ないとアトラは考えている。
心の中で感謝しつつ、アトラは食事を終えて腰を浮かせた。
急に疲れを覚え、さっさと風呂を済ませてのんびりしようと考えながら食器を下げると、筋肉で盛り上がった肩を回してほ
ぐしながらロビーに出る。
そして出し抜けに思い出した。クラスメートの四人を眺めてシゲが呟いた言葉の事を。
(あの時シゲは、何と言ったんだ?)
そう考えたものの、しかしさほど重要とも感じていなかったので、風呂を上がった頃にはすっかり忘れ、しばらく思い出す
ことはなかった。
じきに起こったあの事件…。
あの時になるまで、この日の帰りに「友達」とつるんだヤスキを見た事と、シゲが何か言っていた事を思い出す事
はなかった。
後悔…。ああ、後悔しているんだろうな、おれは…。
もっと早くに気付いていれば、そうすれば…。
翌朝、喉の奥まで覗けるような大欠伸をしながら、アトラは通学路を歩いていた。
低血圧という訳ではないが、アトラは朝が弱い。
より正確に述べるなら、朝というより布団の誘惑に弱い。
深夜番組などを見るために、後で起きようと思って仮眠しても、起きる事ができた試しは一度もない。
布団恋しさを余韻のように引きずりながら、がっしりした体を猫背気味に曲げ、しょぼしょぼと歩くその姿は、どこか寂し
げですらあった。
柔らかくて暖かい布団の感触を思い出し、そこに俯せになっている自分を妄想し、歩きながらも脳が睡眠時のそれに近い脳
波を発し始めたその時、アトラの目は半ば閉じられていた。
だから気付けなかった。
自分がふらふらっと道の端に寄り、前をのろのろと歩いている生徒に真後ろから迫っている事には。
最初に感じたのは、ぼふっと体の全面に当たった、恋い焦がれた柔らかな感触。
だが次いで感じたのは、「これは自分の布団と違うぞ?」という微細な違和感。
最後に感じたのは、「いや、これはそもそも布団じゃ無いんじゃないか?」という確かな疑問。
確かに柔らかくて暖かで、そのまま眠れてしまいそうなのだが、布団にしてはみっちりと身が詰まっている。
もしや話に聞くウォーターベッドはこんな感じなのか?寝ぼけた脳がそんな事を考えた直後、
「あ、あの…」
か細く、かつ弱々しい、そして困っているようなその声で、アトラは目を開ける。
「…は、放して…くれないです…?」
半分眠っていた脳が覚醒に向かうに従って、開いた目から飛び込んで来る情報が、自分の状態を知らせて来る。
アトラは、ある男子に後ろから抱きつき、その肩に顎を乗せてもたれかかっていた。
一瞬布団と錯覚したのも納得の、豊満で柔らかな体の白豚に、両腕ごとその寸胴をホールドする格好で。
妊婦のように突き出た、しかし水袋のようにぷにぷにの腹に回した手を、感触を確かめるようにワキワキと動かした後…、
「…あ!わわ悪いっ!」
一瞬で脳の芯まで目覚めたアトラは、抱き締められて棒立ちになっていた白豚からぱっと離れ、慌てて頭を下げる。
アトラとはクラスメートである白豚…ヤスキは、おどおどと虎を見つめる。
何せ彼にしてみれば急に後ろから抱きついて来られたのである。何事か?と警戒するのは当然であった。
「…悪い…。寝ぼけていて、ついふらふらっと…」
頭を掻き掻き、ぺこぺこぼそぼそと詫びながらアトラが説明すると、最初はどこか怖がっていたようなヤスキは、次いできょ
とんとし、それから小さく吹き出した。
「そうだったですかぁ…。布団と間違われるのは、まぁ仕方無いかもです…。ぼくこんなだし…」
言ったアトラ本人も首を傾げたくなるような事情を、聞かされただけですんなり信用したらしい白豚は、でっぷりした腹を
左右から両手で挟み、冗談めかしてゆさっと揺すって見せた。
「…悪い…」
恥と頭は掻きようという言葉を体現するように、アトラは頭を掻きながらただただ誤るしかない。
(小さい子供や酔っぱらいじゃあるまいし、寝ぼけて抱きつくとは…)
恥ずかしさのあまり顔中が熱くなっているアトラに背を向け、ヤスキは肩越しに振り返って微笑みながら軽く手を振って、
学校目指して歩き出す。
制服にスプレーでもしていたのか、それともシャンプーの残り香なのか、どこか人工的に感じられる柑橘系の香りが、仄か
に鼻の奥に残っていた。
何となく距離を取りたくてその場に留まったアトラは、一部始終を目撃していた周りの生徒の好奇の視線によって、とにか
く居心地の悪い思いをした。
「なーにやってんのー、ガッキー!」
聞き覚えのある声が笑い混じりに後ろからかけられたのは、ヤスキがだいぶ先に行き、丸みを帯びた広い背中が小さくなっ
てきた頃であった。
「ガッキー言うな。…見ていたのかタモン…」
気まずそうに聞き返したアトラの横に並んだのは、泥棒髭がチャームポイントの雑種犬。
もっとも本人は「雑種ではなくハイブリッドだ」と主張しているが、具体的にどんな血のハイブリッドなのかは本人の口か
らも明確な説明は無い。
「見てた見てた!熱烈なハグを!」
思い切り顔を顰めたアトラの前で、自分の手で自分を抱き、くねくねと身をくねらせながらヤスヒトは続ける。
「愛がこもった熱ぅ〜いハグ!ああ!そうかおれはこいつと出会うために生まれて来たんだ!ああ!そうだぼくはこのひとと
出会うために生きて来たんだ!運命に導かれて巡り会った二人は、禁断の恋に身も心も焦が…」
突如アトラが右手を振って、空を切るブンッという音が響く。
続いて「うひゃー!」と笑い混じりの悲鳴が上がり、ヤスヒトの一人芝居は幕を下ろした。
平手で軽く頭を叩こうとしたアトラだったが、しかしヤスヒトは軽快な動きでさらりと避けている。
ずっと卓球をやっているというこの泥棒髭は、反復横跳びなどでもその敏捷性を遺憾なく発揮しており、つっこみすら反射
的に避けてしまう。
「茶化すな!死ぬほど恥ずかしかったんだぞ!?」
「「だぞ!?」とか言われましてもね〜、自業自得って言いませんかね〜、ソレ?」
頭の後ろで腕を組み、ヘラヘラと笑いながらヤスヒトが言うと、アトラは反論を諦めたのか、それとも面倒くさくなったの
か、それ以上態度についてどうこう言おうとしなくなった。
(まぁ、迷惑をかけ、恥をかかせたのはおれの方だからな…、シラトには悪い事をした…)
白豚の後ろ姿を眺めたアトラは、その周囲に三人のクラスメートの姿がある事に気付く。
ヤスヒトとの掛け合いに意識が向いていたため、いつの間に合流したのか判らなかったが、いつも昼休みなどにつるんでい
る連中だという事は遠目にも判った。
「何何?また熱視線?もう君無しじゃ生きられないっ!その豊満なバデーはおれだけの物だぁっ!」
丸みを帯びた白豚の背中をぼんやり眺めるアトラを、またしても茶化すヤスヒト。
「そろそろ黙ってくれないと、その泥棒髭、むしって焼却炉に投げ込みたくなって来るような気がする」
「ぴたっ!」
口元…と泥棒髭を両手で覆ったヤスヒトが黙るのと、さりげなく酷い恫喝をしたアトラが「ん?」と眉根を寄せたのはほぼ
同時であった。
つるんでいる仲間の一人が白豚の脇腹を肘で突いたのだが、それがどうにも少し力が入り過ぎているような気がして。
力が入っているのは肘鉄そのものもだが、された白豚の体にも。
(…いや、力がというより…緊張?体が硬くなっているような…)
アトラのそんな思考を断ち切り、
「…へっ…!よくやるぜ…」
頭の後ろで腕を組んだまま歩きながら、ヤスヒトがぽつりと零す。
その顔を怪訝そうに見下ろし、「何がだ?」と問いかけたアトラは、
「仲イイネー!って事。妬ける?」
そう茶化されて口をへの字にする。
さりげなく注意を逸らされ、誤魔化されてしまった事には気付かずに。
たぶん、ヤスヒトもそうなんだろう。シゲと同じで、薄々感付いていたんだな…。
…まぁ、アイツはヤスキの態度が気に入らなかったようだから、気付いたところでどうこうしようという気にはな
らなかったのかもしれない。
…今?今は…、うーん…、どうだろうな…。
とにかく、一番鈍くて一番阿呆だったのは、他でもないおれだった…。