第十話

ヤスキの携帯を検め、アトラのメールを確認したコバヤシは、素早く頭を巡らせた。

そして、ある事を思い付く。

思い付いたそれの成功率がそこそこ高そうだと踏むと、コバヤシは脇から覗き込んだタカスギに「メール、何だって?」と

問われ、

「いいや、電話だった。もう切れたけれどな」

そう、ヤスキの方を意識しながら、少し声を大きくして応じた。

携帯の小窓にアトラの名とメールのマークが表示されていたのを確認していたタカスギは、一瞬怪訝そうな顔をしたが、コ

バヤシにウインクされると、何か企んでいる事を察して口元をニヤリと歪める。

「おお本当だ、着信だな。で、どーする?」

期待しながら芝居につきあったタカスギに、コバヤシは答えなかった。

答えないまま、ヤスキに見えるようにゆっくりと携帯を操作し、耳に当てる。

何をしているのか理解しかねたヤスキは、

「…ああ、マガキ?オレオレ、コバヤシ。同じクラスの、うん」

コバヤシが発した言葉を聞き、事態を察した。

「や、やめ、げぎゅぅっ!?」

上げかけた制止の声は、途中で蛙の鳴き声のようになり、途切れた。

いつの間に歩み寄っていたのか、ナカモリは水道とヤスキを繋ぐホースをくるっと輪にして、白豚の首に回して締め上げて

いた。

「黙ってろよ、出荷すんぞブタぁ?」

ナカモリに親指を立てたコバヤシは、電話に向かって喋り続ける。

「あのさ、今シラトが電話に出られんねーから、代わりにかけてんだけどぉ。…その、なんつーの?シラトさぁ、今オナニー

中で出られねーわけ。笑えるっしょ?」

(や、やめて…!何を…、アトラ君に何を言うつもりなんです…!?)

ホースで圧迫された喉がひゅうひゅうと音を立てて苦しくなるが、ヤスキは必死になって体を前に傾け、届くはずがないほ

ど距離があるにもかかわらず、震える手を携帯に向けて精一杯伸ばす。

「気付いてた?あー、気付いてねーよなーやっぱ。うん?シラトの事だよ、シラトの事。うん。あいつさぁ、実はマガキに…」

(やめて!言わないで!その事だけは…!アトラ君にだけは…!)

ホースで首が絞まり、視界にチラチラ星が舞う。それでもヤスキは必死になってその言葉を止めようとしたが、

(お願いです!お願いします!何でも言うこと聞きますから!だから、だからその事は言わな…)

「惚れてんの。シラト。マガキの事が好きで好きでしかたねーって、お前の事おかずにせんずりこいてんの!あのホモブタ!」

無情に響いたその言葉と、三人が揃って上げる下卑た笑い声で、ヤスキの思考が停止した。

(…え…?)

「マジだってマジマジ。ホントもホント。まぁ忠告なんだけどさ、関わんねー方が良いーって。マガキがどう思ってたか知ら

ねーけど、シラトはお前の事をハナっからズリネタとして見てんだから」

携帯に向かって伸ばされていたヤスキの手から、ゆっくりと力が抜ける。

くたっと落ちたその先に見えるコバヤシの姿が、ちらつく星の向こうで滲んで見えた。

何を話しているのか、もう聞こえなくなっていた。

音も、痛みも、暑さも寒さも感じない。感覚も感情もすっぽりと抜け落ちて、ヤスキは一瞬にして抜け殻の様になっていた。

それは、強過ぎる心理的衝撃に対する、反射的な防衛であった。

だが、ヴェールを一枚隔てた向こうから、防ぎたいソレは空っぽのヤスキの中へ入って来る。携帯に向かって告げられてい

る自分の秘密が、三人の笑い声が、悪意と嘲笑が。

呆然と座り込んだまま、ヤスキは感じる。

大切な物も、そうでない物も、失われる時には信じられないほどあっさりと失われてしまうという事を。

あまりにもあっけない。だから信じられない。喪失を受け入れられない。そういう物なのだという事を。

惚けて全身から力が抜けているヤスキは、コバヤシが携帯をズボンのポケットに戻している事にも、自分の首からホースが

外された事にも気付かなかった。

そしてへたり込んだまま、三人が何か告げるのにも無反応で、焦点の合わない目を宙に固定している。

しばしヤスキに様々な事を言っては笑い声を上げていた三人だが、しかし惚けたままの白豚から反応が全くなかったので、

つまらなくなってさっさと帰ってしまう。

一人きりになってからも十数分ほど、ヤスキはそのままへたり込んでいた。

尻に突っ込んだままのホースの異物感も、水こそ止まったものの依然として腸の中に溜まった水と空気も、今は全く気にな

らない。

ズボンもパンツも身につけていない下半身がすーすー冷えるが、自分がそんな格好をしている事すらも意識の外にある。

後々沸いてくるのだろうが、アトラに秘密を知られてしまったという恐怖すら、今は抱けない。

ヤスキの胸の中を埋めているのは、喪失感であった。

やっとできた、焦がれ続けていた、普通に接してくれる友人…。

ヤスキの中でアトラの存在が大きくなり始めていた矢先、それを失う事になった。

「…は…、はひゅっ…!はひゅひゅっ…!」

妙な音がしていると、呆然としながら感じていたヤスキは、徐々に現実に引き戻されて行くにつれ、その音が自分の口から

漏れているらしいと気付き始める。

ヤスキは口を半開きにし、よだれを零しながら、喘ぐような呼吸を繰り返していた。

口内に溜まったよだれが溢れて、顎下から腹へ、そして股間へと伝ってゆく。

心理的な衝撃が原因なのか、ヤスキは過呼吸に近い症状に陥っていた。

だが、その苦しさすらもヤスキの意識を引きつけはしない。

呼吸の苦しさを、胸の痛みが上回っていた。

喪失感と絶望感からなる心の痛みがあまりにも強すぎて、肉体的な苦痛すらも気にならなくなっている。

浅く繰り返されていた呼吸は次第に落ち着いてゆき、程なく吐息に唸るような声が混じり始めた。

「あ…、あうふっ…!あふふっ…!うぐぅ…!うぇ…!うえぇっ…!」

双眸から滂沱となって流れ落ちる涙が、震える口元へと伝ってゆき、よだれと混じってぽたぽた垂れてゆく。

「うえっ!うえぇっ!うえぇええええええええええええええええええええええっ!」

やがて、喉を震わせていた呻き声は、叫ぶような泣き声に変わった。

失いたくなかった。大事にしていたかった。ようやく手に入れた大切な友達を失ったヤスキは、へたり込んだまま顔を上に

向け、聞く者の心を締め付ける、子供のような声を上げて泣いた。

「ああああああああああああああああんっ!うあああああああああああああんっ!」

きつく閉じた目から、涙は止めどなく溢れてゆく。

それでも胸の中に居座る苦しさは全く流れ出ては行かない。

かなり長い事、声を上げて泣き続けたヤスキは、喉が涸れて噎せ返るようになった事で、ようやく声を収めた。

それでも苦しさは少しも薄れず、床に這い蹲って嗚咽を漏らし続けた。

その嗚咽が止まったのは、三人が倉庫から出て行ってから一時間近くも経った後。

しゃっくりが止まらないまま、ようやくのろのろと身を起こし、立ち上がろうとしたヤスキは、尻の穴に入ったままのホー

スに気付いた。

しばしぼうっとした眼差しをホースに注いだ後、ヤスキはのろのろと緑の管を掴み、ゆっくり引き抜く。

擦れる痛みはあったが、それを我慢してすぽんと引き抜くなり、意識して肛門に力を入れる。尻に力を込めなければ、中に

溜まった水が漏れてしまいそうだった。

ヤスキの手から落ちたホースから、中に溜まっていた水が漏れ、床共々そこに落ちていたズボンとブリーフも濡らす。

しゃくり上げ、鼻をぐずつかせ、ヤスキは石灰と水でべったり汚れたズボンを掴み、引き寄せる。

引きずった事でさらに汚くなるが、もはやそんな事が気になるような状態でもない。

拾ったブリーフも水と石灰で汚れ、無理矢理脱がされたせいですっかり伸びきっていたので、こちらは穿くのを諦める。

ノーパンでズボンを穿いていたら、また涙が溢れてきた。

「ひっ…。ひっく…。ひっ…」

しゃっくりで体を震わせながら衣類を身につけたヤスキは、片付けもしないまま倉庫を出た。

脳は殆ど動いていなかったが、それでも灯りを消すのと鍵をかけるのだけは、半ば無意識に、忘れずにおこなっている。

歩くたびに腸の中で水が揺れ、堪らない圧迫感と異物感が込み上げて来たが、ヤスキは尻から水を漏らさないよう、肛門に

力を入れつつゆっくりと夜道を歩く。

腹がごろごろ鳴り、一刻も早くトイレへ駆け込みたかったが、服が汚れているので道中のコンビニなどには入れなかった。

漏らしそうになるのを必死に我慢して家の前に辿り着いたヤスキは、倉庫を出てからずっと、自分を尾行していた者の存在

には気付いていなかった。

「……………」

自宅の門扉を押し開け、庭を横切って玄関の仲に消えてゆくヤスキの姿を、街灯が投げかける光の領域から外れた位置に立

つトドは無言で見送る。

一部始終を窺い、事情を把握した今も、ミギワの目にはヤスキに対する同情のような物は浮かんでいない。

その代わりに、深い思慮に沈んでいるような、思考のちらつきが瞳に宿っている。

ややあって、それまで真っ暗だった家の窓に明かりが灯ると、ミギワは踵を返して歩き去った。



夕食を終え、入浴を済ませ、点呼を待つばかりとなったアトラは、乾ききっていない頭をタオルでぐしぐしと拭いながら自

室に戻った。

キッチンに入って冷蔵庫からレモンティーのペットボトルを取り出し、それをがぶ飲みしながら居間に戻ると、課題が無い

せいですっきりと片づいている勉強机を満足げに見遣る。

が、その目が突然訝しげに細められた。机の上に置いていた携帯が、小さなランプを点灯させている事に気付いて。

ヤスキに予定を尋ねるメールを送っていた事を思い出した虎は、垂らした縞々の尻尾を期待を込めてゆっくり振りながら机

に歩み寄った。

「ヤスキからの返事か…」

ひとりごちたアトラの目には、小窓に表示された、メールの受信を知らせるマークと数字が映っている。

期待しながらいそいそと携帯をスライドさせ、メールを呼び出したアトラは、

「…!?」

表示された短い文を読むなり表情を消し、目を大きく見開いた。



せっかくですがお断りします。

これまで我慢して来ましたが、限界なのではっきり言わせて貰います。

阿虎君の事は生理的に好きになれません。

ぼくは正直迷惑しています。もう二度と声をかけないで下さい。



一瞬覚えた違和感は、しかし驚きに押し流されて何処かへ行ってしまう。

信じられない気分で何度見直しても、メールの文面はもちろん変わらない。

その内に、違和感の正体はメールに記された自分の名前が一文字間違っているせいだろうと思えて来る。

(何だ…?何だこれは…?)

肩にかけていたタオルがずるっと滑って床に落ちた事にも気付けないほど、魂が抜けてしまったように呆然としながら、ア

トラはどすっと椅子に腰を下ろした。

ショックだった。仲良くなれたと思っていたヤスキから、唐突に拒絶の言葉を送られた事が。

しばし呆然自失の状態となっていたアトラは、やがて口元を引き締め、思い切ってヤスキの携帯へ電話をかけてみた。

が、そっけない音声ガイドの声が、電話を繋げない旨を淡々と述べ、アトラは面食らう。

着信拒否。

携帯の扱いに不慣れな虎も、流石にその単語はテレビや漫画などで知っていた。

(…電話を拒否するほど、おれが嫌いか…)

深いため息を吐き出し、アトラは項垂れた。

そしてもう一度メールを開き、内容を読み返す。

やはり少し違和感があるが、内容そのものでがっかりしてしまっているアトラは、またしてもそれを捉え損なう。

アトラは今そこまで考える余裕が無かったが、違和感の正体は文体やタイトルにあった。

いつもタイトルにはきちんと挨拶を入力して来るのに、今回は返信を示す「Re:」が付いただけのノンタイトル。

おまけに、いつも顔文字やデコメをたくさん使い、賑やかにしてあった文面が、今回に限ってはかなり素っ気ない。

内容が内容だけに抑えるのも当然なのだが、それ以上におかしいのは「敬語の使い方がおかしくない」という点であった。

ヤスキのぎこちない、たどたどしい敬語は、メールになっても変わらない。

にもかかわらずアトラが今見ているそのメールは、敬語が普通に使われている。

それもそのはずで、そのメールはヤスキ本人が打ち込んだ物ではなかった。

ヤスキの携帯で電話をかけ直すふりをしたコバヤシは、一芝居打ってヤスキに精神的ダメージを加えた後、呆然としている

白豚を尻目に、アトラにこのメールを送った上で着信拒否設定までかけたのである。

ヤスキを懲らしめるための、ちょっとした悪戯のつもりであった。

ヤスキが自分達の事を誰かに漏らせない事は疑ってもいないので、悪さが明るみに出る事も心配してはいない。よしんば二

人が和解しようが一向に構わない…。そんな、単純な嫌がらせのつもりであった。

だが、この嫌がらせはコバヤシ本人が考えた以上に効果的であった。

(おれは、何かまずい真似でもしたんだろうか…?ここまで嫌われるのは、よっぽどの事をしたとしか思えないが…)

肩を落とし、項垂れながらも、アトラはただ落ち込むのではなく、自分に非があるのだという前提から拒絶の意味を探り始

めた。

その真面目さが災いし、アトラは真剣に、自分の方がまずいことをしたのだと思い込んでしまい、他の可能性について全く

考えようとしない。欠点でもある柔軟性の無さが、事態の本質を見抜けなくさせてしまっている。

(猫アレルギーの事で、愛想を尽かされた?…いや、どうだろう…。あの時はそう不快そうでもなかったはず…。いや待て、

もしもヤスキが、猫が大好きだったとしたら?それなら腹を立てる事もあるのか…?)

難しい顔で唸るアトラは、シゲが「ただいまー」とドアを開けて入って来ても、反応を示さなかった。

「ん?何だ何だ?深刻な顔して…」

眉根を寄せる狼の視線と呟きにも反応せず、アトラは考える。

考えに考え、そしてある事を思い出した。

「…もしかして、家の事か…?親の職業の事…」

呟いたアトラは、自分が送ったメールを読み返し、その行に目をとめた。

追伸で書き加えた、ヤスキの親の職業に関する一言…。その詮索するような一文が、ヤスキのしゃくに障ったのかもしれな

いと、アトラは考える。

(家にお邪魔して、飯を食わせて貰ったあの日…。親は何をしているんだと尋ねた時、ヤスキは口ごもっていなかったか?飲

食業だとだけ言って…。そうだ、あの時ヤスキは言い辛そうにしていなかったか?理由は解らないが、何らかの事情で親の職

業を知られたくなかった?)

「…くそっ…!」

アトラが突然悪態をつき、突っ立ったままルームメイトを眺めているシゲが眉根を寄せる。

「馴れ馴れしくし過ぎていたのか、おれは…!人並みに礼儀を弁えているつもりだったが、まだまだガキという事か…」

腹を立てている様子でぶつぶつと呟くアトラを、シゲは不審げに見つめている。

あの「目撃事件」からしばらくの間気まずさが続いているが、こうまで露骨に無視されるのは不自然に思えた。

実際、あれ以来会話は少なくなったものの、声をかければアトラは必要な受け答えをちゃんとしていたのである。

(取り込み中らしいな…。それもかなり深刻そうな感じの?う〜ん、話題を振れるような状態でもないっぽいな…)

どうにも今のアトラには、伝えられる雰囲気でも無かった。

先ほど大牛から聞いた話…、万引きグループの一人は確実に星陵の生徒であるらしいという事は…。




おかしい…。

確かにそう思った。思ったはずなんだが、驚きが強過ぎて…、自分が違和感を抱いている事を確信できなかった。

今思い返せば、すぐにもヤスキに確認を取りに行った方が良かったんだ。

なのに…、おれは…。




長時間トイレにこもり、腸の中に注ぎ込まれていた水を全て絞り出したヤスキは、疲れ果てて布団に倒れ込んだ。

まだ腹がごろごろして落ち着かないが、肉体的にも、精神的にも、今日の出来事は堪えていた。

横になって壁を眺めるヤスキの目から、ぽろっと涙が落ちる。

涙でぼやけた部屋の風景を視界に収めながら、しかしヤスキの目には別の物が浮かんでいた。

「…アトラ君…」

軽蔑の眼差しを向ける虎の顔が、ヤスキの眼前に浮かんでいる。

最も知られたくなかった相手に知られてしまった。

失う事がこんなにも辛いとは思わなかった。

コバヤシが仕組んだタチの悪い悪戯には全く気付かないまま、ヤスキはぽろぽろと涙を零し続ける。

そして、おもむろに身を起こすと、勉強机ににじり寄った。

机の上には、帰って来た時に放り出した携帯。

つい数時間前まで、アトラからのメールを楽しみにして、事ある毎に開いて確認していた携帯は、今ではもう恐怖の対象と

なっていた。

いつアトラから電話がかかって来て、事の真偽を問い質されるか判らない。

そう考えたヤスキは、机の引き出しを開けて携帯を放り込み、勢い良く閉めた。

着替えもせずに布団に戻って倒れ込んだ白豚は、その夜、携帯が鳴る夢を何度も見て、何度も目を覚ました。

そしてその度、引き出しに収まった携帯を確認し、夢ではなかった事を思い知り、泣きながら布団に潜り込んだ。

もしもヤスキがもう少し冷静であったならば、発信履歴からコバヤシの芝居に気付けたはずである。

それどころか、アトラのナンバーが着信拒否になっている事も、自分の携帯から覚えの無いメールが発信された事にも…。

だが、携帯に触るのも嫌になってしまったヤスキは、その単純かつ悪質な嘘を見抜く事はできなかった。



結局、ヤスキはアトラからの誘いなど知らぬまま土日も部屋に籠もり続け、アトラは休日を一人での散策に費やした。

バスを利用しての名所巡りは、しかし気分が乗らずに途中で止め、予定の三分の一も回らずに寮へ帰って来る羽目になった。

そして二人は、沈んだ気分のまま月曜日を迎える。

いつもの月曜日以上に重い足取りで登校したアトラは、既に教室に入っていたヤスキに気付き、鞄を席に置くなり足を向けようとした。

が、白豚はアトラが自分の席へ行っている間に、教室の前のドアから出て行ってしまう。

(…避けられた…?)

ショックを受けたアトラは、ヤスキと自分の席の間で立ち尽くし、白豚が出て行ったドアを呆然と眺める。

(い、いや…。避けた訳じゃあないんじゃないのか?便所に行っただけかもしれないし…)

何とか理由を捻り出し、もう少し楽観視しようと自分に言い聞かせつつ、アトラは席に戻る。

が、自分でもそう信じている訳ではなかった。何せヤスキは、アトラと視線を合わせてから、ビクついているような表情を

はっきりと浮かべ、慌てた様子で教室を出て行ったのだから。

そしてアトラは数分後、やはり自分は避けられているのだと確信した。

ホームルームで担任がやって来るその直前まで、ヤスキは戻って来なかったのである。

それから、休み時間になる度に、ヤスキはアトラを避けて何処かへ行ってしまった。

こうまであからさまに避けられると、謝って和解しようと思っていたアトラも対処できなくなってしまう。

(謝ろうにも、声をかけるどころか、傍に寄る事すらあからさまに迷惑がられている…。こうなると、声をかけるとかえって

嫌われてしまうか?…むう…、ほとぼりが冷めるまで待つしかないのか…)

そう考えたアトラが遠目に様子を窺うようになると、ヤスキはほっとすると同時に、やはり嫌われてしまったのだとの思い

込みを強くし、さらに落ち込んだ。

自分では落ち着いているつもりでも、その実、被害妄想が先走ってしまっているヤスキは、話しかけようとして来るアトラ

の態度を、例の電話についての詮索しようとしているのだと勘違いしていた。

さらに、アトラがほとぼりを冷ますつもりで遠目から様子を窺うようになると、今度はその行動を、自分をホモだと知った

が故に距離をとるようになったのだと解釈した。

お互いに勘違いを抱いたまま放課後が訪れ、アトラは意を決して席を立つ。

一言で良い、まず謝ってみるつもりであった。だが…。

「ガッキー!帰ろうぜー!ゲーセン行かね?ゲーセン!」

部活が休みだった泥棒髭の雑種犬がアトラの前に立って、そちらに気を奪われた隙に、ヤスキは例の三人と一緒に教室を出

て行ってしまう。

「な、何だよ?何かまずい事した?」

四人を見送って不機嫌そうに唸ったアトラの前で、ヤスヒトはちょっと引きながら困惑顔になった。

「いや…。だが悪い、ちょっと用事がある」

短く断りを入れたアトラは、ヤスヒトを押しのけて大急ぎで教室を出たが、四人の姿は廊下のどちら側にも見えなかった。

舌打ちしながら廊下を駆け出したアトラは、しかし階段に辿り着いた所で教師に見つかり、校舎内を走るなと、ちょっとし

た説教を貰ってしまう。

三分にも満たないその足止めからようやく解放されたアトラが、急ぎ足で昇降口に辿り着いたその時には、四人の姿は見渡

せる範囲に無かった。

念のためにヤスキの下駄箱を覗いてみたが、外履きは無くなっている。

(参ったな…。こうなったら家に直接行って…。…いや、まずいか?ああまで避けられていたら、訪ねて行ったところで不快

にさせるだけだろう)

虎は半眼になって耳を倒し、頭をがりがりと掻くと、下履きをつっかけて校舎を出る。

首を短くしてとぼとぼと歩くその後ろ姿は、尻尾が元気無く垂れて揺れており、寂しげですらあった。

先週から続く風は、今日も強かった。



音楽が鳴り響くカラオケボックスの室内で、ヤスキは太った体を極力小さくし、萎縮していた。

流行のJポップスのイントロが歌われもせずに流れている、そこそこ広いその室内。集まっているのはヤスキと三人組の他、

八名の男子であった。

いずれも黒い学ラン姿だが、襟についた校章はヤスキ達の物とは違っていた。

周囲に光の線を飛ばす太陽を象ったそのエンブレムは、星陵とは川を隔てた隣町にある、陽明商業高等学校の校章である。

入り口から三歩ほど入った位置で横一列に並んだヤスキ達は、その後ろを三名の生徒に固められている。まるで、逃げ出せ

ないよう阻まれているように。

そして彼らの前方には、ソファーに座ってくつろいでいる五人の生徒。

陽明の生徒達は人間と獣人が丁度半分ずつで、いずれも「それ」と判る刺々しい風貌をし、物騒で居心地の悪い雰囲気を放っ

ていた。

だが、その中で一人、ある人間男子だけは、髪も染めていなければ威圧感のある形にセットしてもいない。

さらさらの髪を少し長く伸ばしたその少年は、端正と言って良い、美しく整った顔立ちをしていた。

中性的な美貌の少年は、しかしこの中では支配者に当たる。

集まったいかつい不良の誰一人として、彼に逆らおうなどとは考えてもいない。

「悪いねー、こうも頻繁に」

テーブルの上に置かれた袋を前に、少年は美しい顔にニコニコと人好きのする笑みを浮かべながら口を開く。

その三つの袋の中身は、万引きして手に入れた品や、四人の小遣いを集めて購入した物である。もっとも、購入代金の大半

はヤスキの懐から出ているのだが…。

それらは、貢ぎ物であった。

ヤスキを含む四人の身の安全を保証し、かつ彼らの庇護を受ける為の税金のような物。

かつて三人が好き勝手に動き回っていた中学時代は、頻繁に隣町へも繰り出していた。

その目立つ動きが、隣町の大規模な不良グループの目に止まったのである。

そして彼らは、ヤスキがアトラと葉桜を見たあの公園に居た所を、彼らに取り囲まれ、軽く痛めつけられた。

難を逃れる為に服従を誓うか。

それとも、もっと痛い目に遭うか。

元々、痛めつける事は得意でも、痛いのは嫌いな三人である。一見優しげにも見える美少年の笑みにすっかり飲まれた彼ら

は、躊躇こそしたものの、結局服従の道を選んだ。

貢ぎ物の条件はゲーム感覚で遣っていた万引きとヤスキの小遣いで賄えるという打算もあった。強い後ろ楯を得られるとい

う考えも少なからずあったし、実際に彼らは服従を誓って以来、美少年の名を出せば大概のトラブルを回避できている。

「ああそうそう、この間貰った財布なんだけど、欲しがったから後輩にあげちゃった。悪かったかな?」

「いいえ!好きにして貰って良いんですから!」

身を乗り出し、揉み手すらしそうな勢いで腰を低くしながらコバヤシが言う。

媚びへつらうその態度には、もはやヤスキを虐めている時の居丈高な様子は見られない。

ヤスキが三人に逆らえないように、彼らもまた美少年に逆う事ができない。それだけの恐怖が、その身と心に刻みつけられ

ていた。

そんな中、ヤスキは萎縮しながら実感する。

進学と同時に親から貰った、気に入っていたあの財布は、もう自分の所に戻って来ないのだと…。

巻き上げられた財布は、ヤスキが知らない間に貢ぎ物として使われてしまっていたのだと…。

「ご苦労様。今日はもう良いよ。それとも、一曲歌って行く?」

「い、いいえっ!」

美少年の問いかけに、三人は慌てて首を横に振り、背後を固めていた一人、骨太な縞猫がドアに手をかける。

やっと解放される。

美少年の機嫌を損ねないよう振る舞いに気をつけ、極度の緊張下にあった彼らは、ようやくほっとしたが、

「ああ、そうそう」

踵を返しかけた所で美少年に呼び止められ、びくっと身を強ばらせる。

「高校生活はどうだい?もう慣れたかな?」

にこにこしている美少年の問いに、「は、はい!」と姿勢を正して応じるタカスギ。

「それは良かった。…慣れて来たなら、そろそろ名前を聞いた事があるかもしれないけれど…」

美少年は一度言葉を切ると、笑みを崩さずにある人物の名を口にした。

「潮芯一(うしおしんいち)。知っているかい?」

その名前に聞き覚えがなく、戸惑っている四人に、美少年は続けた。

「名前は知らないかな?でも、見た事はあるんじゃないかな?彼は目立つから。…凄く大きな牛なんだけれど」

『あ…』

名前までは知らなかったものの、校内で何度か大牛を見ていた四人は、揃って声を漏らした。

「見た事ぐらいは…。でも、どういうひとかは知りません…」

ナカモリがおずおずと応じると、美少年は軽く髪をかき上げて「そうかぁ、そうかもねぇ…」と、感慨深げに呟いた。

「川向こうじゃこっちよりもずっと有名なはずなんだけど、今はもうすっかり大人しくなっちゃったみたいだからねぇ。本当

は君達も知っているはずだよ?彼の事は」

戸惑う四人の顔を面白がっているように見比べ、美少年は微笑んだ。

「去年ここら一帯で噂になった「暴走特急」。彼がそうなんだよ?」

ヤスキの喉の奥で、風が行き場に詰まったようなヒュッという音が鳴った。

その名前は聞いた事があった。この付近に住んでいる学生達なら、まず間違いなく知っている。

明らかになっているだけでも二十数名を病院送りにしたという、とんでもない暴れ者の不良…。

耳にしていたのは大柄な獣人という事ぐらいで、どんな人物かまでは知らなかった。

当然、まさか自分達と同じ学校に通う生徒だったとは夢にも思っていなかった。

驚きのあまりしばし声が出なくなった三人だったが、やがてコバヤシが口を開いた。

「そ、その…、ウシオって先輩は、シュウジさんの知り合いなんですか…?」

この問いかけに、周囲の男子達からピリッとした空気が流れ出る。

あからさまに憎悪の視線を投げかけてくる者までおり、敏感にそれを察したコバヤシは、ひょっとして自分はまずい質問を

したのかと不安になったが、シュウジというらしい美少年は軽く手を挙げ、殺気立つ取り巻きを制した。

「彼はボクの「友達」なんだ。くれぐれも、迷惑をかけないようにね」

シュウジは戸惑う三人の顔を順番に見て、最後にヤスキの顔で視線を止める。

緊張のあまり背中から汗が吹きだして来たヤスキは、無意識に唾を飲み下した。

コバヤシら三人が怖がっている相手を、臆病なヤスキが怖がらないはずもない。

何を思ったか、シュウジはヤスキをしばし見つめた後、訝しげに眉根を寄せ、「君」と呼びかけた。

「は、はひぃっ!?」

恐怖と緊張から裏返った声を発したヤスキに、シュウジはにっこりと微笑みかけた。

「君だけ、ちょっと残って。引き留めて悪かったね、三人はもう帰ってもいいよ」

八人の他校生と三人のクラスメートの視線が注がれる中、

(え?えっ?えぇっ!?ぼぼ、ぼく、何かまずい事したです!?)

機嫌を損ねるような真似をした覚えは無かったが、ヤスキは恐怖のあまり強ばった体をぶるるっと震わせた。