第十一話
びくびくおどおどと部屋から出た三人は、カラオケルームのドアを振り向きもせずに廊下を歩き去った。
白豚を置き去りにして先に帰る事に、罪悪感など当然抱かない。
これまでに、あの美貌の少年の機嫌を損ねた不良が何人も酷い目に遭わされており、場合によっては重傷を負って病院に担
ぎ込まれた事を、三人は知っている。
だからといって、ヤスキがシュウジの機嫌を損ねても同情などしないし、心配もしていない。とばっちりを受けてはかなわ
ないとばかりにさっさと退散を決め込んでいる。
一方、部屋に残ったヤスキは、いかつい七人の不良に取り囲まれ、完全に硬直していた。
萎縮している白豚をじっと見つめる美貌の少年…シュウジは、しばしあってから取り巻きに声をかけた。
「久しぶりにボーリングに行こうか?皆は先に行って番を取っていてくれるかな?」
「先にって…、シュウジ先輩はどうするんです?」
ドアの付近に立っていた縞柄のいかつい猫が、ヤスキをじろりと睨みながら尋ねると、シュウジはにっこりと笑う。
「後から行くよ。この子と少し話がしたいんだ」
全員の視線が白豚に集まる。
不審げな眼差しをヤスキに注ぐ彼らは、しかし少々困惑していた。
コバヤシ達三名は知らなかったが、残されたヤスキはシュウジの機嫌を損ねていた訳ではない。それどころか…。
「何ゲームで取っておく?」
シュウジの右横に居たごつい大猪は、リーダーの意図を汲んでそう尋ね、のっそりと腰を上げた。
星陵の大牛にも匹敵するこの大男は、他のメンバーとも少々立ち位置が異なるのか、シュウジに対する態度が、いくらか親
しい者のソレになっている。
「2ゲームで。ほらボク非力だから、それ以上は腕がガクブルしちゃうしね」
ニコニコしながらそう言い、大猪に先導させて取り巻きを送り出したシュウジは、
「おいでよ。立ったままでいないで、こっちに来て座ったらどうだい?」
二人きりになるなり、突っ立ったまま硬直しているヤスキを見遣ると、にっこり笑って自分の横をポンポンと叩いた。
「え?え、えぇと…」
「遠慮しないで。…そうだ。何か飲むかい?」
シュウジがメニューの入ったシートを手に取ると、ヤスキはぶんぶんと首を振る。
「い、いいえ!良いです!の、のの喉乾いてないですから!」
「ふぅん。いらないんだ?」
シュウジは残念そうな口調で言いながら、少し目を細めてヤスキを見遣る。
その眼差しでカチコチに固まってしまったヤスキは、断ったせいで気分を害してしまったのかと恐怖に駆られた。
「まぁいいや。じゃあ、その代わりにこっちに来て座って」
再びにっこりと笑い、自分の横を示すシュウジ。
本心を言えばなるべく近寄りたくなかったヤスキは、今度も断って機嫌を損ねるのはまずいと考え、おっかなびっくり足を
進め、シュウジの隣に少し間を開けて座る。
シュウジは自分の言動が相手に与える影響を把握している。臆病なヤスキに言う事をきかせるためにはどうすれば良いのか
が、彼には手に取るように判っていた。
「何か歌う?」
「い、いいえ!ぼ、ぼく歌も得意じゃないですからっ!」
慌てて首を振ったヤスキの横で、シュウジは「ふぅん。歌「も」ねぇ」と呟き、ジンジャーエールを啜った。
当時中学生だったヤスキを含む四人と関係を持つようになってから、シュウジは白豚の事も観察していた。
あの三人に対し、この白豚だけが対等な関係ではなく、下位にみなされ服従している事も察している。
自分に自信が無く、何か負い目のような物でもあるのか常におどおどしている、臆病な白豚…。シュウジはこれまでそう認
識していた。
それ以上は重要そうな事も無く、興味も無かったのだが、今日は違った。
あの取り巻き達が訝しく思っていたのは、この点についてである。
彼らのリーダーたるシュウジは、ヤスキに危害を加えるつもりで残らせたのではない。興味があって話がしたかったからこ
そ残らせたのである。
何故この白豚にシュウジが興味を示すのか?取巻き達にはそれが判らなかった。
「最近何かあったのかな?君に」
シュウジはグラスをテーブルに戻しつつ、ヤスキの方へ顔を向けた。
太い脚を窮屈そうに寄せて揃え、縮こまって俯き、硬くなっていたヤスキは、ビクッと身を震わせる。
自分はこれから不良達のリーダーに何をされるのだろう?
そう不安がり、恐怖のあまりプルプルと震え出したヤスキに、シュウジはずいっと身を寄せた。
身長はシュウジの方がやや高いのだが、細身の彼はヤスキの三分の一程度しか体重が無い。しかし、体そのものは自分の方
が大きくとも、ヤスキはこの美少年に怯えていた。
身を寄せてきたシュウジと太腿が触れ合い、白豚は硬直する。が、シュウジはそんな様子にも頓着せず、女性のように細く
綺麗でしなやかな手をヤスキの顎の下に添え、自分の方に向かせた。
びくびくしながらも逆らわずに首を曲げてシュウジと顔を合わせたヤスキは、しかしその視線を受けきれずに、そっと目を
斜め下へ逃がした。
どういう訳か、ヤスキはこの美少年の目を見ていると、縛られたように瞳を凝視させられそうになる。覗き見てはいけない
物を無理矢理覗き込まされている気分になる。
だから必死になって視線を逸らす。
うっかり長時間見てしまったら、心がどこかへ連れて行かれてしまいそうな気がして。
怯えている白豚のぷっくりとした頬に、シュウジの両手が挟み込むようにして触れる。
大げさにビクッと身を震わせたヤスキに、美少年は至近距離から笑いかけた。
「本当に臆病だね、君は」
クスクスと笑いながら、シュウジは思う。
こんなにも弱い心の持ち主だからこそ、これまで興味は一切抱かなかった。
心を折るのが余りにも容易くて、屈服させた所でつまらないと、最初から思えていたからである。
だからあの三人とは違い、僅かにでも望んで配下に引き入れた訳ではない。セットになっていたからたまたま引き入れてし
まっただけである。
要するにヤスキは、元々あの三人のおまけ、あるいはとばっちりによって、彼らの下に組み込まれているに過ぎない。
だが今日、シュウジはそれまでどうとも思っていなかったヤスキに、少しばかり興味を覚えた。
「あ、ああああのっ…、あ、アガツマさん…?ぼっ、ぼく、何かまずい事しちゃったでしょうか…?」
カタカタと震えながら、勇気を振り絞って口を開き、尋ねたヤスキに、
「シュウジって呼んでくれるかな?名字で呼ばれるより、その方が好みなんだ。ほら、仲良くなれた気がするだろう?」
シュウジはにっこり笑って言う。
が、シュウジはヤスキの名前など覚えていない。だから名も呼ばない。これまでヤスキは、シュウジにとってそのくらいど
うでも良い存在だった。
一方、下の名前で呼ぶように促されたヤスキは、説明できない恐怖に囚われている。
アトラが下の名前で呼ぶように提案した時とは明らかに違う。
距離を詰められる事に、激しい嫌悪と恐怖を覚えてしまう。
ヤスキ自身もはっきりと理解できている訳ではないが、それは、距離を詰める程に、シュウジの中からじわっと滲み出る「
正視に耐え難い何か」の存在を、敏感で臆病で繊細な感性が捉えてしまいそうになるからであった。
「うん。怖がっているね。でも、これまでの君の恐がり方と、今日の君の恐がり方は、ほんの少しだけ違う」
両頬を挟まれたまま至近距離から目を覗き込まれ、ヤスキは怖がりながらも困惑しているが、シュウジはじっくりと確認し
ながら何度も頷いた。
「確かに怖がってはいるけれど、今日の君は「どうにでもなれ」と、どこかで思っているんじゃないかな?」
「…え?」
戸惑いの声を漏らしたヤスキに、シュウジは続ける。
「酷く落ち込んでいる…。いや、絶望しているのかな?だから、「これ以上酷い事なんて無い」。そう思っているね」
納得したようにふむふむと頷き、シュウジは挟み込んだ手を動かして、白豚の頬や顎肉をたぷたぷと揺らして弄ぶ。
「大事な何かを無くしたか、自分から手放したか、あるいは奪われたか…。喪失感を抱いているんじゃないかな?」
頬を触られくすぐったさを覚えながら、ヤスキは背筋をぞくぞくと登って来る何かを感じ取った。
悪寒や寒気にも近い感覚に身震いする。目を覗き込むシュウジが、自分の何もかもを見透かして来るような錯覚を覚えて。
実際、シュウジが口にする事は妙に当たっていた。それがまた怖くて、気味が悪くて、得体の知れないこの美少年のミステ
リアスさをさらに強調する。
(さてどうしよう?良い具合に歪み始めているみたいだけれど、しかしこの子は踏み込めるだろうか?)
シュウジはヤスキの顔で遊ぶように、ぷにぷにした頬を両側からきゅっと押す。
(もう一押しすれば転げ落ちるだろうけれど、心はあまり強くないようだし、負荷に耐えられないかな?)
しばし何事か考えているような面持ちになり、ヤスキの頬をたぷたぷと揺すったり、挟んで潰したりしていたシュウジは、
唐突に手の動きを止めた。
この瞬間、シュウジは判断を下した。
だが、ただただ怖くて一刻も早く帰りたいヤスキは、自分の命運を左右する重要な判断がたった今下された事など、露程に
も思っていない。
(…見込みは無いようだね、この子には)
シュウジはそう考えた。そして諦めた。
苦痛にひび割れ、絶望で歪み始めていたヤスキの心を一押しし、奈落に突き落とす事を。
「さて、もう一つだけ話をしようか」
シュウジはにっこり微笑むと、がらりと話題を変える。
「ところで…。小耳に挟んだんだけれど、君はもう知っているかな?星陵の応援団が、頻発する万引きを同一グループの犯行
と考えて、対策に乗り出しているって事を」
間近から覗き込んでいるヤスキの目に、ゆっくりと驚愕と動揺が広がるのを確認すると、シュウジはやっと手を放した。
「僕の用事は終わり。もう行っても良いよ」
呪縛が解かれたようにハッと身を退いたヤスキは、少しの間戸惑っていたが、やがて慌ただしく立ち上がった。
そしてペコッと一礼し、ドアに向かってそそくさと歩き出したところで、
「ああ、そうだ…」
シュウジはおもむろに口を開き、ビクッと首を縮めて立ち止まった白豚の背に言葉をなげかけた。
「君は次からもう来なくて良いよ。来るのはあの三人だけで良い。君からそう伝えておいて」
立ち去りたいのは山々だったが、言っている意味が判らず、ヤスキは振り向いた。
だが、シュウジは何か考え事をしているのか、手に取ったジンジャーエールのグラスにじっと視線を注ぎ、ヤスキの方を見
ようともせず、口を開こうともしない。
まるで、すっかり興味が失せてしまったかのように。
やがてヤスキはシュウジの黙考を妨げる事を怖れるように、足を忍ばせてそろそろと部屋を出ると、急ぎ足でカラオケボッ
クスを後にした。
通りに出るなり足早になったヤスキは、やがて駆け足になり、必死になって太い足を交互に蹴り出し、全力で走り出した。
緊張が幾分解けるなり強い尿意を覚え、膨れた膀胱が地面を踏む度疼いたが、ヤスキは立ち止まる事無く、息切れして喉を
ぜぇぜぇひゅうひゅう鳴らしながら、全身の肉をたぷたぷと揺らして走り続ける。
疾走だけが原因ではない異常な発汗と動悸、息の乱れが、白豚を消耗させてゆく。
得体の知れない生き物。
ついさっきまで向き合っていたシュウジの事を、ヤスキはそう捉えていた。
臆病だからこそ、怯えながら顔色を窺う事に長けているからこそ、あの美少年の本質の一端を感じ取れた。否、感じ取って
しまった。
その眉目秀麗な顔と明るく優しげな笑みの裏側、薄皮一枚捲った所にぎっしり詰まった、とんでもなく異質でとんでもなく
凶悪でとんでもなく邪悪でとんでもなく哀しい何か…。ヤスキはソレに心底恐怖した。
動転している白豚は、彼のソレを表現する言葉を探り当てる事ができなかったが、未だかつて出合った事のない、未知の存
在への激しい恐怖が、彼を半ば恐慌状態に陥れていた。
川向こうに帰りたかった。川一本隔てたこの隣町が、遠い異国のように感じられ、怖くて心細かった。
一刻も早く家に戻り、布団に潜り込んで丸まってしまいたかった。
はひはひと、声が漏れるほど息を荒らげて走るヤスキは、しかし気付いていない。
自分の目尻から涙がとうとうと零れ、我慢していたはずが既に失禁しており、ズボンの股間を濡らしている事には。
見逃してやる。これからは関わらなくていい。
シュウジの言葉がそういう意味を持っていたとヤスキが気付くのは、汗びっしょりになって橋を渡り、自分の住まう領域へ
戻った後の事であった。
ヤスキがどてどてと逃げているその頃、シュウジはまだカラオケボックスの一室に、一人で残っていた。
グラスを見つめたまま、彫像のように身じろぎ一つせず座っていた彼は、長い長い沈黙の後、ぼそぼそと呟いた。
「つまらないな…。ひとがつまらなくなって行くのを見るのは、何よりつまらない…」
自分と同じ側に踏み込み、近しい存在になるかもしれない。
そう、僅かな期待を込めてヤスキを間近で観察したが、しかしシュウジの思惑は外れた。
あの白豚は、自分のようには成り得ない。その事が重々理解できた。
僅かにも期待したが故に、望みがないと判った今、シュウジにとってヤスキはつまらない存在となった。
その事がどれだけ幸福なのか、興味を示されなくなった当の本人は気付いてもいなかったが。
やがてシュウジはグラスを机に置き、腰を上げた。
「ウシオ君…。君もつまらなくなってしまった…。飼い慣らされた君はつまらない…。けれど…」
言葉を切ったシュウジは、ソファーの上に投げ出してあった、ドリンクメニューが入ったクリアケースを手に取ると、ドア
に向かって歩き出す。
「もしも君が、あの頃の君に戻れるのなら、その時は…」
シュウジの口元がきゅうっと歪み、唇が浅い三日月を描く。
「まぁたぁ…、楽しくぅ…、遊びたいぃ…、ねぇ〜…」
ねっとりとした声を発した美少年は、冥い淀んだ光を瞳に湛え、クリアケースを後方へ放り投げた。
ケースがテーブルの上にカツンと落ちたその時には、シュウジはドアの鐘をカランと鳴らし、外へと消えている。
ややあって、誰も居なくなってからおそるおそる片付けに来た二十代前半の若い店員は、無人の部屋を覗いてほっと表情を
緩めると、テーブルに歩み寄る。
そして、妙な物を見つけて眉根を寄せた。
A4サイズのクリアケースに収まったドリンクメニュー。それ自体は店の物で、妙でも何でもない。が、そのクリアケース
の在り様は極めて奇妙であった。
シュウジが後ろ向きに放ったケースは、殆ど厚みが無いにもかかわらず、まるで衝立のようにテーブルの上に直立していた。
散らかったテーブルの中の、少しだけ空いていたスペースに。
狂気の体現者、吾妻秀司は、この日こうして白豚との関わりを完全に断った。
そして、彼らの線が交わる事は、この先二度と無い。
それでもヤスキは未だ間接的に彼の影響下にある。あの三人がシュウジの配下である事で。
大局的に見れば、その事が関係して、ある人物を取巻く状況が程なく複雑化してゆくのだが、それが表面化し始める頃には、
ヤスキはもうこの件に関わっていなかった。
家につく間際で、ヤスキは足を止めた。
自宅の前の通り、このまま進めばあと三十歩ほどで門扉に手がかけられるという距離で。
「シュウジさんと何話してたんだよ?」
ヤスキの帰りを待っていたのか、三人組の一人、ナカモリが、おどおどと歩いて来る白豚を胡乱げに見つめた。
てっきり酷い目に遭わされているとばかり思ったヤスキが、見た目には綺麗なままである事に納得が行かなくて。
怪我をしているように見えないし、何処かを痛めているにしては庇っている様子もない。それが解せなかった。
(も、もしかして、ぼくの事心配だったんでしょうか…?)
そんなヤスキの考えは、半分当たって半分外れている。
確かに心配はしていたが、それはヤスキの為を思っての事ではない。
あの美少年の機嫌を損ねたかもしれないヤスキのとばっちりで、自分達にまで制裁の手が伸びるのでは?と心配していたの
である。
「おい、あのひとに何言われたんだよ?」
不安から来る苛立ちで、タカスギはヤスキを小突いた。
「え、えぇと…。ふ、普通にお話してたですけど…、む、難しくて、ぼくには良く判りませんでした…。ぼ、ぼくの事…、恐
がりだとか、どうとか…、そういう話を…」
ヤスキがつっかえつっかえカラオケボックスでの状況を語って聞かせると、三人は怪訝そうに顔を見合わせた。
「あ、あと…、星陵の応援団が、万引きグループを捜してるって…」
思い出したように付け加えたヤスキは、コバヤシにへその横辺りの肉をガシッと掴まれ、捻られた。
「い、いだっ!いだだい痛ひぃっ!」
「なんでそんな大事な事を後から言うんだよブタぁっ!」
悲鳴を上げたヤスキの腹をぎりぎりと抓りながら、コバヤシは他の二人と視線を合わせた。
「シュウジさんも気付いてたんだな?ひょっとして、オレらの事心配して警告してくれたのか?」
「かもよ?ほら、結構貢いでるじゃんオレ達」
コバヤシとタカスギはシュウジの信頼を得られていると思い込んで喜んだが、
「でも、だったら何でこいつにだけ教えたんだ?」
ナカモリの漏らした疑問で、疑わしげな目をヤスキに向けた。
「シラト。お前シュウジさんの機嫌をとるような事したのか?」
「え?えぇと…、た、たぶんしてないですけど…」
腹を抓るコバヤシの手を、ぽってり肉厚の手で押さえているヤスキが、顔を引きつらせながら応じる。
「じゃあ何でお前だけ…」
コバヤシの言葉を遮り、タカスギが不安そうに漏らした。
「ってかどうするよ?次の献上物…。応援団の連中、パトロールしてるって噂は聞いてたけど、川向こうにまで知られてるっ
て、結構大掛かりになって来てるんじゃねぇ?」
「でも止められねーじゃん。万引き抜きで、貢ぎ物どうやって確保するんだ?…気をつけながらやるしかねーよ。今更グレー
ド落とせねーしさ…」
顔を顰めながら応じたコバヤシは、不意に変わった風向きで異臭を捉え、鼻を鳴らした。
「…うわっ!小便漏らしてんのかよこのブタぁ!」
「ぶげうっ!」
ヤスキが失禁していた事に気付いたコバヤシは、贅肉を抓っていた手を放し、慌てて離れながら出っ腹に蹴りを入れる。
腹を押さえて前のめりになったヤスキは、下腹部への強い圧迫によってジョパッと股間を濡らしていた。
「うわ漏らした!」
「こっち来んじゃねーぞブタ!きったねー!」
三人はヤスキからざざっと離れると、すぐさま踵を返して歩き出す。
「貢ぎ物、考えねーと」
「だな、小便ブタになんか構ってらんねーって」
乾きかけていた股間を再び濡らしたヤスキは、三人が居なくなると、人目が無い事を幸いにそそくさと家に入った。
そして、上着とシャツ、小便で濡れたズボンを脱いで風呂場に入ると、シャワーを出して湯加減を調節する。
「…う…!うぅっ…!」
床に跪き、温まってきたシャワーを手で受けるヤスキの丸まった背が、小刻みに震え出した。
「うぇぼぉっ!」
口元を押さえて前屈みになったヤスキは、込み上げて来た胃液を湿った床に吐き散らす。
ひとりになった途端に、濃厚な恐怖が蘇って来た。
「うぇっ…!うべぇっ…!」
太った体を小刻みに震わせながら、ヤスキは嘔吐する。
シュウジとの対話は、ほんの短時間でヤスキの心を蝕み、トラウマを作った。
この日から、ヤスキは男女を問わず美形の人間に対して強い恐怖を覚えるようになる。
そして、アトラとヤスキが言葉を交わさなくなったまま、のろのろと一週間が過ぎた。
寮の自室、静まりかえったリビングで床に仰向けになり、手足を投げ出して大の字になりながら、アトラはぼんやりと天井
を見上げていた。
ヤスキに避けられ続けている事で、最近はどよんと気が重い事が多い。
クラスメートとの楽しい話題で一時気分が上向いても、すぐさまヤスキの事を思い出して沈んでしまう。
どんなに悩んでも解決策が思い浮かばなかった。
ほとぼりを冷ましてから接触するという手も考えていたが、ヤスキの態度は一向に変化を見せない。
おまけにただ待って過ごすのは気持ち的にかなり堪えた。
自分の方に原因があるとばかり思っているアトラは、ヤスキにきちんと謝れていない事もあって、小骨が喉につかえた気分
で落ち着かない。
しばし天井を眺めていたアトラは、半眼のまま眉間に皺を寄せ、億劫そうに両手を上げて、がりがりと頭を掻きむしる。
(くそ…。少々癪だが、ヒロ兄に相談してみようか…)
子供でもあるまいし、友達と仲直りするにはどうすればいいのか?などと誰かに尋ねるのは躊躇われたが、背に腹は代えら
れない。いよいよ手詰まりになったアトラは、頼みの肥満虎に助力を乞う事を検討し始める。
そんなアトラが唐突に鳴ったノックに反応して身を起こしたのは、決心が固まりかけたその時であった。
シゲではない。シゲならばノックなどしない。シゲなら唐突に開ける。だからああいう事にもなる。
先日の一件を根に持っているアトラは、そんな事を考えながら「開いています」と応じた。
「突然済まん。たぶん居ると思ったんでな」
ドアを開けてのっそりと部屋に入って来たのは、応援団の大牛であった。
「どうかしましたか?ウシオ先輩」
アトラは訝るように眉根を寄せ、シンイチを足下から頭まで改めて眺め直す。
白い手袋をはめたシンイチが身に付けているのは学ランだが、普段の制服とは形状が異なる。
裾の長い上着に、袴のように太いズボンという、昔風に言えば長ランボンタンスタイルであった。
団服。
星陵では、その特異な形状の学ランはそう呼ばれている。
二年生以上の応援団員にのみ着用が認められたその学ランは、いわば応援団のユニフォームであった。
これを着用しているという事は応援団員として活動している最中のはず。それなのに何故寮に居るのか?
疑問に思ったアトラは、少し前にシゲから聞いていた事を思い出した。
応援団は立て続けに起きている万引きを警戒し、パトロールしているらしいという話を。
「少し、上がっても構わんか?」
シンイチの言葉は一応問いかけの形にはなっていたが、しかしその眼光と声音の深さは、拒否を許さない物であった。
少々戸惑いながらも頷いたアトラは、茶でも出そうと考えてキッチンに向かいかけ、「何もいらんぞ」とシンイチに呼び止
められる。
振り返ったアトラは違和感を強くした。
今日の大牛は、どことなく表情も硬ければ、声も態度も硬い。勧誘して来る時とは明らかに違う。
シンイチは床にどっかと腰を下ろすと、難しい顔で腕組みした。
その正面に居住まいを正して正座したアトラは、一体何の話だろうかと、大牛の表情をじっと窺う。
「しばらく前から万引きが多くなっとる事、話に聞いた事はあるか?」
「…はい」
アトラは少し考えてから頷き、シンイチは先を続ける。
「単刀直入に言う。マガキ。君はその万引きグループと関わっているとして、応援団にマークされた」
「は!?」
素っ頓狂な声を上げたアトラは、ぽかんとした顔を即座に厳しい物に変えた。
「先輩。自分は関係ありません。そう疑われるような真似をした覚えもありません。そのグループと関わっていると見た根拠
を、差し支えなければ聞かせて頂けますか?」
低く抑えられたアトラの声を聞きながら、シンイチは頷く。
少し感心していた。アトラの態度に、である。
団の一部はともかく、アトラが万引きに荷担していないだろう事は、シンイチの目からは明らかであった。
彼から見ても間違った疑いをかけられながら、アトラは激高せず、努めて冷静に振る舞っている。
自分が見込んだ通り、骨のある男だと再認識しながら、シンイチは口を開いた。
「まず、ワシの意見から言うと、君は白だ。間違いなく関わっとらんだろう」
そう前置きしてから、大牛は続けた。
「疑惑が浮上したのは、君自身の行動に不審な点があったからという訳でなくてな…。万引き自体は昨年から続いとるし…。
君に疑惑の目が向けられたのは、ある生徒と親しくしとる事が判明したからだ」
「ある生徒?」
アトラの脳裏に、太った白豚の姿が浮かんだ。シゲから聞いた際、一人だけえらく太っているという情報で連想したように。
「白土安基」
シンイチの口から今まさに自分が思い浮かべていた人物の名が飛び出し、アトラはハッと息をのんだ。
「彼はおそらく黒だ。マガキ、彼と親しそうな君は、そのとばっちりで疑われとる」
大牛は話し始める。
万引きグループとしてヤスキを中心に四名をマークし始めている事。
ヤスキと仲が良さそうに見えるアトラについても、その動向に注意するよう、応援団での方針が決まった事。
そして、アトラも明日からそれとなく監視される事になるだろうという事…。
説明を聞きながら、アトラは確信した。
シンイチが今、団の方針に背いてアトラにこの情報をリークしている事を。
疑われるような事はするな。ヤスキと関わるな。それらの警告を伝えるために、シゲの居ないこの時間を見計らって、パト
ロールの最中に抜け出して来た事を。
「一つ、窺っても良いでしょうか?」
話が一区切り付いた頃、アトラは大牛の顔を真っ直ぐに見つめて尋ねた。
「本当は、この事をおれに伝えるのはまずいんでしょう?もしも本当に万引き犯人だったら、泳がせて捕まえる事ができなく
なる」
「ふむ。まぁそうだな。ただしそれは「もしも」君が犯人だったらだ。言っても問題無かろう?」
しゃあしゃあと言い放ったシンイチに、アトラは誤魔化しを許さずに切り込んだ。
「何故おれの為にここまでしてくれるんですか?応援団に背いてまで…」
アトラの真っ直ぐな視線を受け、しばし黙ったシンイチは、諦めたようにため息をついた。
「困った事に、ワシには気に入ったヤツをひいきしたがる悪い傾向がある。君の事が気に入っとる。肩を持ってやりたくなる。
何せ…」
一度言葉を切ったシンイチは、耳を倒してニヤッと笑った。
「君を団に引き入れる事を、ワシはまだ諦めとらんからな」
アトラはしばらくの間じっと大牛の顔を見つめ、それから深々と頭を下げた。
「このご好意、絶対に忘れません」
シンイチが部屋を出て行ってしばらくし、寮の門から出て行くと、アトラは手早く着替えて出かける支度をした。
もう、嫌われるかもしれないなどと躊躇っている猶予は無かった。
明日からは応援団が自分をマークする。そうなったら、下手に動けばそれだけで声をかけられ、行動を封じられてしまいか
ねない。だからこそ動くなら今しかないと、虎は判断した。
アトラが理解するには、ヤスキを取り巻く状況は複雑過ぎた。
込み入った事情の全てを知る者は、直接関係している者の中にも居ないのだから、いわば外の存在であるアトラが察してや
れるはずもない。
故にアトラは、シンプルな考えに基づいて動き出した。
友達であるヤスキへの疑いを晴らしてやる。たったそれだけである。
それは、複雑な状況を鑑みればどこかずれて、滑稽な程に単純だった。
だが、単純であるが故に、真っ直ぐであるが故に、アトラの気持ちはこの件に関わる誰よりも強い。
シンプルでピュアでストレートな、友情に根ざした強い思いを胸に、アトラは薄手のジャケットに袖を通し、準備を終えた。
胴体は黒。肩から先の袖は黄色というそのジャケットの背には、憧れのハウル・ダスティーワーカーの言葉。
黒地に白い文字でプリントされた、意図的に激しく掠れさせられている二列のアルファベットは「チェンジ・ザ・ワールド」
「チェンジ・ユア・スタンス」と読める。
自分が嫌われている事は、もうどうでも良い。
だが、どうあってもヤスキと直接会って、話をしなければならないと思った。
(何かの間違いだ。ヤスキはそんな事をするヤツじゃない。おれは、アイツを信じる!)
直接話を聞き、嫌がられても拒まれても、事をはっきりさせようと決意した。
そして、ヤスキの口から無実だと聞けたなら、自分は全力で味方をする。
そんな固い決意を胸に、アトラは階段を駆け下りて寮を飛び出した。
既に日は大きく傾き、空は深い青。やがて太陽が海の向こうへ沈む…。
アトラとヤスキの長い夜は、こうして始まった。