第十二話
電柱に付けられた街灯が、薄闇の中で目立ち始めている。
「どこに…、どこに居るんだ?ヤスキ…!」
照明に彩られたアーケードを足早に行きながら、アトラは低く呟いていた。
考え込みながらぶつぶつと呟き続ける虎は、持ち前の厳つい顔を険しくしており、すれ違う人々に距離を取られている。
まずヤスキの自宅を訪ねたアトラだったが、白豚は居なかった。
会いたくないが故に居留守を使われる可能性も考えたが、アトラが着いた頃には周囲は暗くなっており、明かりの灯ってい
ない事から誰も居ない事は確実に思えた。
ヤスキと語らった葉桜があるあの公園にも足を運んでみたが、そちらにもやはり居なかった。
一緒に出かけた事などないアトラには、ヤスキが行きそうな所の心当たりが無い。
困り切ったアトラは、足を止めて携帯を取り出す。
ヤスキにかけてみたが、やはり着信拒否のままである。
少し考えた後、虎は電話帳を呼び出した。
泥棒髭のクラスメートは携帯を持っていないが、幸いにも自宅の電話は教えて貰っている。
もしかしたら部活が終わって帰宅しているかもしれない。
もしかしたらヤスキの行きそうな所を知っているかもしれない。
もしかしたらこの電話で事態を打開できるようになるかもしれない。
淡い期待を込めてコールした後、受話器の向こうから聞こえて来たのは、
『はいタモンでーす』
聞き慣れたクラスメートの声であった。
「タモンか?おれだ。マガキ」
本人が出た途端に、身構えていたアトラはほっとして肩から力を抜く。
『おっと初電話!どーしたよ急に?何か面白い事でもあった?あ、彼女ができた緊急報告!?』
「色々と残念だが外れだ。知っていたら教えて欲しい事がある。大至急で」
『ふん?何か忙しそうだな?で、何?』
アトラは事情の説明は完全に省き、単刀直入にヤスキの居場所に心当たりが無いかとヤスヒトに尋ねた。
「どんな些細な事でも良い。前にどこの店で見かけたとか、どこのコンビニで買い物していたとか、何でも良いからヤスキの
行きそうな場所を知りたい」
『…何?へ?何でそんな事…』
事情が飲み込めず、何故アトラがそこまで必死な様子でヤスキの居場所を探っているのかという疑問が頭の中を占領し、困
惑したタモンだったが、
「事情を説明している時間も惜しい!勝手だが頼む!急いでいるんだ!」
アトラに急かされ、『付き合い無いから、あんま詳しくねーよー?』と前置きしつつ、いくつかの心当たりを挙げた。
「…うん。…うん…。…のコンビニに…、…そうか、ゲームセンターか…。…CDショップ…。判った!アーケード近辺が多
いんだな?」
言われた候補を、丸暗記している星陵の地図に重ねてゆくアトラ。
趣味が高じて、彼は場所の記憶力が良い。話を聞くだけで脳内には即座にマップが組み立てられ、目的地がピックアップさ
れ、カーナビのように最短ルートを導き出せる。
その趣味によって磨かれた才能により、アトラの土地勘は、つい数週間前にこの街にやって来たばかりだとは思えないほど
優れている。
「助かった!お礼に今度、学食でパンでも奢ってやるからな!」
『お礼しょっぺ!って、あ!ちょっとマガキ!待て待て!』
電話を顔から離しかけていたアトラは、ヤスヒトの声で再び耳元へ戻す。
『…こそこそ悪口言うみたいで、あんま言いたくねーんだけどさ、こういう事…。シラト…ってかあいつと一緒に居る三人な、
あんま良い噂聞かねーよ。シラトはただのパシリっぽいけど、それでもあんまり関わんない方が良いかもよ?』
陰口でも叩いているような気分になったのか、少々決まり悪そうに忠告して来たヤスヒトに、
「…その点については、詳しく聞いてから議論したいが…」
アトラはそう応じ、一旦言葉を切ってから続けた。
「ヤスキに限って言えば、アイツはいいヤツだ。保証してもいい。信じて間違い無い友達だと、おれは思っている」
何処からそんな自信が沸いてくるのか?聞いているヤスヒトがそう疑問に思うほど、アトラの声は確信に満ちていた。
この時、ヤスヒトとの電話がきっかけになった。
パシリと、あいつは言っていた。その言葉がキーワードになった。
おれが今まで見てきた、ヤスキとあの三人が一緒に居た光景…。
タモンからパシリ説を聞いた途端に、仲が良く見えていたヤスキとあの三人の間にある、不自然なぎくしゃくさに
気付けた。
そこからだった。おれがヤスキについて、改めて考え始めたのは。
探して回りながら考えが纏って来て、パズルのピースがはまって行くように色々な事が見えて来て、やっと気付いた。
おれがこれまで見逃していた、取りこぼしていた、ヤスキが発していたサインに…。
寂しかった。辛かった。けれどそれを悟られないようにしていた…。
無理をするヤスキから出ていたサインを、鈍いおれはその都度見逃してしまっていて…。
おれが、出会ったばかりのヤスキに固執した理由…。それは趣味が合うからというだけじゃなかった。
何となく思ったんだろう。ヤスキが寂しそうだと。
そしてこれも何となくだが…、ヤスキがおれに笑ってくれたら、ほっとしたんだ…。
一緒に居るとほっとする。二つの意味でそうだった。
ヤスキが笑ってくれて、「ああ、元気出たんだな…」と感じてほっとする。
そしておれ自身が、ヤスキと居る事で気が休まって、ほっとする。
一緒に居ると柔らかい気分になるから、口べただったはずのおれは、ヤスキには積極的に話しかけていたんだ…。
「こ、ここでやるです…?」
おどおどしながら車道の向こう側にある電飾看板を見つめたヤスキは、次いで「ひぎっ!」と声を上げた。
肉付きの良い尻が、後ろから伸びたタカスギの手でギリリッと抓られている。
「やるに決まってんだろ?良いか?少し遅れて入れよ?」
涙目になっているヤスキの横を抜け、ナカモリとコバヤシは少し緊張した面持ちで横断歩道を渡り、CDショップの自動ド
アを潜る。
そこは防犯カメラがある店であった。入り口にはゲート型センサーも設けられている。
だからこそこれまでは避けていたのだが、次に貢ぎ物を献上に行く日が近付いた今、彼らは賭に出た。CDを隠し持ってト
イレに入り、裏に回ったタカスギに、小窓から手渡すという作戦を立てたのである。
応援団の警戒が強化された事もあって、前回からこれまでに準備できた貢ぎ物は少ない。ここから巻き返すには、CDを纏
めて手に入れるなどしなければならない。
「よし、そろそろ行け」
タカスギ背を押されてつんのめったヤスキは、抓られていたせいでジンジン痛む尻をさすりながら、横断歩道をとぼとぼと
渡る。
ヤスキがあの美少年から「もう来なくて良い」と言われた事は、言いつけ通りに三人に伝えた。だが、それでは納得しては
貰えなかった。
その言葉が、もうヤスキを解放してやろうというシュウジのメッセージであった事を、三人は捉え損ねたのである。
ヤスキから伝えられた内容を、「連れて来なくて良い」と言われただけと取った三人の方針は、これまでと変わらなかった。
故にヤスキは、あの後もこうして万引きに荷担させられ続けている。
自動ドアを潜ったヤスキは、流行のポップスが鳴り響く賑やかな店内を、試聴に夢中になっている客の脇を抜けて進む。
試聴しているその客の一人が、校内で何度か見た事のある、目つきの鋭い小柄な柴犬である事に、ヤスキは気付かない。
白豚を見送ったヒカリは、胸の内で呟いていた。
(先に入って正解だった。あの面子だと…、どうやらここでヤる気のようだな)
進むヤスキに、やがて打ち合わせしていた位置が近付いて来た。
棚を横から撮影する防犯カメラが、アルバムを手に取っているコバヤシとナカモリを捉えている。
その手前に立ち、幅のある体で彼らの手元を隠すのがヤスキの役目であった。
子供騙しもいい所。センサーまで入っている店をこんな手で誤魔化せるとは、ヤスキには思えなかった。
故に実行前に反対意見も述べたのだが、返ってきたのは返事や意見ではなく、殴る蹴るの暴力であった。
結局、足やら腕やら腹やらこっぴどく叩かれ蹴られ抓られて、ヤスキは泣きながら意見を引っ込めるしかなかった。
(これでばれちゃったら、もうおしまいになるんですかね…)
いっその事、明るみに出て終わってしまえばいい。ヤスキはそうも思い始めていた。
もう失う友人も居ないのだから、学校中からどんな目で見られても構いはしない。
ただ一つ気がかりなのは、家族の事であった。
自分が犯罪の片棒を担いでいると知ったら、毎日遅くまで頑張って稼いでいる両親はどんなに落胆するだろう?そう考える
といたたまれない気持ちになった。
(やっぱり、こういう事は最初に止めておけば良かったんでしょうね…。ホモだって事をばらすぞって脅かされても、最初の
一回を止めていれば…。…今じゃもう、止める気もなくなっちゃいました…。今更です…。何もかも、今更です…)
俯き加減で歩くヤスキの目は、ふと横に向けられた。
立ち止まって顔を上げた白豚の瞳に、棚に立てかけられてジャケット正面をこちらに向ける、外国の、今はもう存在しない
あるバンドのアルバムが映る。
四人のメンバーがこちらに背を向けて横並びになった足下には、アルバムのタイトルでもある「チェンジ・ザ・ワールド」
という一文。
ハッとして視線を横へずらしたヤスキは、よく似たデザインの、しかしメンバー四人が正面向きになっているジャケットを
見つめる。
そこに印字された「チェンジ・ユア・スタンス」の上で、長身の狼獣人がヤスキを見つめていた。
かつてヤスキがそうと知らずに恋をし、今もなお恋心が変化した一種の信仰心を抱く対象…。ふらっとどこかへ消えてしまっ
たボーカルの、突き放すような印象さえある独特な眼差しが、白豚の目を捉えて放さない。
「君が世界の…敵に…、世界が…君の敵に…、ならない事を…」
誰にも聞こえないほど小さな、掠れた声を漏らしたヤスキの目から、涙が溢れた。
「ハウル…。ぼくは…世界を変えられませんです…。それでも…、駆除される側です…、きっと…」
大粒の涙が頬を伝い、顎から落ちて胸元を濡らす。
何も変えられない。ヤスキはそう思っている。
自分を取り巻く状況を、自分の世界を変えられない。
それでも自分は世間の敵だ。万引きの片棒を担ぐという、何ともせこい社会の敵…。
無力さ故に自分は何も変えられない。そう思い込んでいるヤスキは気付いていない。
自分がきちんと、他者に変化をもたらした事に。
そして、一人では踏み出す勇気は持てなくとも、背中を押して貰えれば、彼でもきちんと前に踏み出せる事に。
(何してやがんだアイツ?)
ヤスキの様子がおかしい事に気付き、コバヤシは焦る。
何故か判らないが急に泣き出してしまったヤスキは、すすり泣きの音で周囲の注意を引き始めていた。
これから万引きのサポートをさせるというのに、目立たれてはまずい。
「あ」
いらいらするコバヤシの隣で、ナカモリが声を漏らした。
子供のように腕を上げ、袖で目をぐしぐしと擦りながらすすり泣く白豚の向こうに、いつの間にか見知った姿があった。
角を曲がって棚の陰から出た所で仁王立ちになり、ヤスキと、その向こうに居る二人の姿を捉えた若い虎は、いかつい顔に
険しい表情を浮かべる。
まるで野生の虎のように、その喉から「グルルッ…」と唸りが漏れ、傍にいたカップルがビクッと振り返る。
アトラが立ち止まっていたのは、ほんの一瞬であった。
目元を拭うヤスキが、その視界の端に鮮やかな縞模様を捉えて顔を上げた途端、虎は足早に歩き出す。
(アトラ君…?)
最も見られたくなかった相手が、これから万引きが行われる現場に現れた。その事で戸惑うヤスキは、逃げる間もなく大股
に歩み寄ったアトラに腕を掴まれる。
その、腕を掴んだ手に籠もった力が強過ぎて、ヤスキはビクッと体を震わせた。
「来いっ!」
怒りすら篭った声で短く言い放つなり、アトラは踵を返し、ヤスキの腕を強引に引っ張った。
抗う事もできず、白豚はずんずん進む虎に引っ張られてゆく。
周囲の視線を浴びながら、前だけを見据えて歩む虎の背に、ヤスキは視線を釘付けにさせられていた。
見つめるジャケットの背中には、「チェンジ・ザ・ワールド」「チェンジ・ユア・スタンス」という、先ほど見たアルバム
の文句が記されている。
複雑な心境である。
万引きの手伝いをせずに済んだという安堵。
アトラが自分を引っ張って行く事への疑問。
今から何が起こるのかという恐怖。
様々な考えと感情が入り乱れているヤスキは、程なく店外に連れ出された。
そこで始めて振り返ったアトラは、ヤスキの腕をやっと放し、正面から向き合って両肩をがっしりと掴んだ。
ビクッと身を竦ませたヤスキに、アトラは告げる。
「助けに来た。もう我慢しなくて良い!」
どんな罵声を浴びせられるのだろうかと身構えていたヤスキは、「…え…?」と声を漏らし、涙を溜めた両目で虎の顔を見
つめた。
先ほどの場面を見ただけで、アトラは状況を理解した。
すすり泣くヤスキと、その向こうの二人…。
最初からヤスキを疑っていないアトラは、白豚が万引きの手伝いを強要されているという図式を、その切り取られた一場面
から看破していた。
呆然としているヤスキの肩に手を置いたまま、アトラは素早く首を巡らせる。
自動ドアのガラス越しに見遣った店内には、足早にこちらに向かって来るナカモリとコバヤシの姿があった。
「行くぞっ!走れ!」
アトラはヤスキの肩から手を放すと、今度はそのぽってりとした手を握り、強く引っ張った。
返事もできず、促されるまま、走り出した虎に手を引かれてどてどてと走りながら、ヤスキは嗚咽を漏らし始めた。
「う…!うぅ…!うぇぅっ…!」
ぼろぼろと涙を零すヤスキの泣き声を背中で聞きながら、アトラはぎりっと牙を噛みしめる。
生まれて初めて、そう言って良いレベルでアトラは激怒していた。
何も知らず、のうのうと他愛のない話にヤスキを付き合わせ、ひとりで勝手に喜んでいた自分に。
その苦悩を察してやれず、手を差し伸べてやらなかった自分に。
それでいながら、ぬけぬけと「友達」だと言っていた自分に…。
「くそっ!そこだ!そこから曲がったぞ!」
アトラとヤスキを追って店を出たコバヤシは、二人が飛び込んだ数十メートル先のアーケード裏へ続く道を指さし、ナカモ
リに告げる。
「とろいブタ連れてんだ、逃げられるわけねーよ!」
そう威勢よく吼えながらも、ナカモリは焦っていた。
タイミングの良いアトラの登場。連れて行かれたヤスキ。
ひょっとしたらアトラは、ヤスキから万引きについて何か知らされていたのではないか?そんな疑惑が二人を落ち着かなく
させていた。
ヤスキを口止めし、力ずくででもアトラを黙らせなければ、何が起こるか判った物ではない。
焦る二人は角を曲がり、アーケード裏の道へ続く路地に虎と白豚の姿が無かった事で足を止める。
距離とヤスキの鈍足を鑑みれば、突き当たりの裏道に辿り着いて曲がったとは思えない。
「手前の道だ!」
コバヤシが前を指さして走り出す。
二人が飛び込んだ路地は裏道の手前でも分岐している。路地の中程から左右へ伸びる細い道に繋がっていた。
そこから曲がれば少々入り組んでいるが、少し進んだ先で裏道とアーケードに行ける。
アトラ達の狙いが太い道への復帰と踏んで駆けた二人は、交差する別れ道でまず左手の道を覗き込み、
『!?』
揃って絶句し、動きを止めた。
小山のような巨体が、大人がやっとすれ違えるほど細いその道を埋めている。
のっそりと歩いていた河馬は、二人の目の前で足を止め、「何だ何だ?」とでも言うように、片方の眉を少し上げた。
「逆か!?くそっ!」
「裏から回ろうぜ!どっちにしろそっち側に出るつもりだろうよ!」
コバヤシとナカモリが喚きながら裏道へ飛び出して行くと、その背を見送った河馬は「ふむ」と頷き分厚い手で顎を撫でた。
そしてしばらくその場に立ち止まったままでいたが、やがて声を潜めて小さく呟く。
「どうやらもう行ったようだ。戻って来る様子も無い」
「助かりました…」
道幅を丸々占領する巨体の向こうで、小さく礼の言葉が響く。
巨漢のすぐ後ろで息を整えながら、アトラは後ろに庇ったヤスキを見遣った。
並の体では幅のあるヤスキを覆い隠せないが、たまたま飛び込んだ路地に高さも幅も特大の河馬が居合わせたおかげで、難
を逃れる事ができた。
咄嗟に入った細い道で河馬とはち合わせしたのは、幸運な偶然であった。
河馬は先に聞こえた声と二人の様子で何者かに追われている事を察したのか、自分の体を横にして二人を奥へ行かせると、
その前に立ちはだかり、壁になってくれたのである。
河馬が向き直ると、アトラは恩人に深々とお辞儀する。
「何故、庇ってくれたのですか?追われている事を察してくれたようですが…、こちらが悪いとは思わなかったので?」
「君らは悪い事をして追われとった訳ではないだろう?ひとを見る目はあるつもりだ。…ただし近眼だが」
河馬は口の端をほんの少し上げ、微かな笑みを作った。
「恩に着ます。えぇと…、先輩」
どこかでこの河馬の名を聞いたような気もするのだが、アトラは咄嗟に名前を思い出せず、気まずそうに口ごもる。
「カバヤだ。蒲屋重太郎(かばやじゅうたろう)。こうして言葉を交わすのは二度目だな、虎と豚の一年生」
二人の様子を子細に確認するように目を細めたジュウタロウは、その片方が、自分の友人が探っている白豚である事を確か
めつつも、その胸の内を全く顔に出さなかった。
「…?自分達の事を、覚えて…?」
「虎は珍しいからな」
胡乱げなアトラに自分の事を棚に上げて応じると、河馬は若虎の背後に庇われたまま俯いている白豚を見遣る。
無意識なのだろうが、アトラは恩人であるジュウタロウからすらもヤスキを守るように、その逞しい腕を白豚の前で水平に
伸ばしていた。
「穏やかではない様子だが、何があったのかな?」
「それは…」
アトラは躊躇った。ヤスキがおかれている状況は下手に誰かに話せないほどデリケートなので、迂闊にジュウタロウへ伝え
てしまうのはまずいのではないかと思えたのである。
「…まぁ、話せないならそれでも構わんよ」
どう伝えるべきかと悩み、困り切った様子のアトラに、河馬は笑って言う。
「聞こえたと思うが、あの二人は裏道を行ったらしいな。大丈夫かね?なんなら付き添うが?」
「いいえ、大丈夫です。有り難うございました」
アトラはまた深々と頭を下げると、ヤスキの手を引いて前に出た。
体を横向きにした河馬の腹に体を擦りながら「失礼」と頭を下げ、ヤスキもまた窮屈な隙間から引っ張り出すと、アトラは
最後の一礼をする。
「なにぶん急ぎですので、今宵はこれで失礼させて頂きます。このお礼はいずれ改めて…」
「なんのなんの。気にしないでくれんかな」
丁寧かつ古風なアトラの物言いに苦笑を浮かべたジュウタロウは、早速駆け出した二人を見送ると、幅広い顎の下にバナナ
の房のような大きな手を当て、考え込むような面持ちになる。
(…どうにも剣呑な雰囲気だ。これはシンイチに連絡すべきだろうな…)
ジュウタロウはやや上を見上げ、公衆電話がある最寄りの場所を思い浮かべる。
(こんな状況だと…、携帯電話があれば便利なのだが…)
河馬はアトラに負けず劣らず、細かな操作が要求される電子機器類全般が苦手であった。
やばいと思った。
言っては何だが、ひとりならともかく、ヤスキを連れたままであいつらから逃げ切るのは厳しいと思った。
運が良かったな、あれは…。
ヤスキを疑う気持ちは、おれには全く無かった。
ようやく探し当てたヤスキは、店内で泣いていた。
あの横顔を見て確信した。
ヤスキは確かに万引きグループの一員だと。
そして、無理矢理に協力させられていると。
あの涙は、罪悪感と悔恨から来る涙だと…。
ヤスキの手を引き、アトラは走る。頭の中に浮かぶ地図から、連中と遭遇し難そうな道を抜き出して。
引っ張って無理矢理走らせているヤスキの荒い呼吸は、前を向いて走るアトラの耳にも届いている。
ヤスキの喉がヒュウヒュウと掠れた音を立てている事に気付いたアトラは、ヤスキの限界が近い事を悟り、仕方なく足を緩
めた。
もしもの場合に備えてどん詰まりの道は選ばず、見通しの悪いコの字に折れた民家の隙間を縫う道で、アトラはヤスキを振
り返る。
「座れ。少し休もう」
汗だくのままぜぇはぁと荒い息をつくヤスキは、しかし戸惑い顔でアトラを見つめている。
時間を無駄にしたくないアトラは「息を整える間だけだ」と告げて、ヤスキを無理矢理にでも座らせようと、その肩を掴む
べく両手を伸ばした。が、その手を見て何か思い出したような顔になった白豚は、一瞬の間をおき、怯えるように後ずさる。
相手の肩に乗せようと伸ばしかけた手を宙に彷徨わせ、アトラは傷ついたような表情を浮かべた。
その顔を見たヤスキの胸は痛んだが、しかし怯えは収まらない。
「ど…、どうして…、こんな事するです…?」
掠れた声を吐きだしたヤスキに、アトラは即答できなかった。
ヤスキの発言は、まるで「余計な事をした」と言っているようにも取れたせいで。
どんな形でも良い、どんな終わり方でも良い、状況を変える救いを望んでいたはずのヤスキは、しかし最も見られたくない
相手が犯行予定現場に現れたせいで動転していた。
走っている最中は意識が逸れていたが、立ち止まって向き合うと、自分が置かれている状況がはっきりと理解できる。
アトラに合わせる顔がなかった。その申し訳なさと混乱が、ヤスキを自暴自棄にさせる。
「どうしてですか!どうしてぼくの前に現れるんですか!同情ですか!?同情のつもりですか!?本当は気持ち悪いと思って
いるんでしょう!?気持ち悪くてかわいそうだから、こうして…、…けふっ!うぇふっ!げふっ!」
いっぺんに言葉を吐きだしたヤスキは、掠れた喉がチクチクと痛み、激しく噎せ返る。
「おい。大丈…」
体を折って咽せるヤスキを気遣い、その肩に触れようとしたアトラは、
「触らないで下さいっ!」
ヤスキの太い腕が弱々しく手を払い、哀しげに顔を歪ませた。
「無理して…触らないで下さい…!惨めになりますから…!」
涙をぽろぽろと流しながら、ヤスキはアトラを睨み付ける。
「何だ…。無理って、何の事だ…?ヤスキ…、おれは…」
頑なに拒絶される哀しみと困惑を押し殺し、アトラは冷静に振る舞おうと努める。
落ち着かない気分に長らく振り回されていたのはアトラも同様であったが、思いの丈を言葉に変えて叩き付けたい衝動を、
強力な自制心で押さえつける。
頭が混乱しかねないこの状況に散りばめられた何かを、アトラは感じ取っていた。
今こそ落ち着いてソレについて考えなければいけないのだと、心のどこかで察している。
違和感がある。
ヤスキの言動には、単に万引き現場を押さえられたというだけでは説明できない、怯えにも似た何かがある。
同情。気持ち悪い。かわいそう。無理して触るな。
ヤスキが口にしたそれらの言葉は、万引きの片棒を担いでいた自分を恥じ、卑下するが故に出たのだと、一瞬思った。
だが、本当にそうなのだろうかと、冷静になればなるほど疑問が頭をもたげる。
怖いが故に強い視線と哀しい言葉を吐き散らすヤスキの姿を見ている内に、自分を押さえつけて冷静さを維持しようと努力
していたアトラは、ふとある事を思い出した。
あの、拒絶のメールを受け取った時に抱いた違和感である。
「…ヤスキ…。おれの何が気に入らない?何故避ける?」
「さ、避けてるのは、アトラ君じゃないですか…!あ、アトラ君が、ぼ、ぼくを気に入らないんじゃないですか…!」
アトラは困惑顔になったが、確信した。
ぎくしゃくしてしまった自分達の間に、とんでもない勘違いによって、とんでもないすれ違いが起こっていた事を。
「何故おれが君を避ける?どうしておれに避けられると思う?」
ヤスキはぐっと言葉に詰まった。
それをわざわざ口に出して言わせるのか?信じていたのに、アトラもまた自分を虐げるためにそんな真似をさせたいのか?
そんな捉え方をして泣きたくなったヤスキは、虎の逞しい手で両肩をがっしりと掴まれた。
憤怒の表情を浮かべたアトラの顔が、鼻がくっつきそうな程間近に寄り、牙を剥きだした口が強い声を発する。
「言えヤスキ!何故おれが君を避ける!?君が避けられるのはどうしてだ!?」
「だ、だって…、だってそれは…」
自分の激情すらも瞬時に吹き飛ばす、猛虎の剣幕に圧倒され、ヤスキは萎縮しながらびくびくと首を縮める。
「そ、それは…」
「言えっ!」
吠えるような声を間近で浴びせられ、白豚はきつく目を瞑ってビクッと身を竦ませた。
「ぼ、ぼくが…、ぼくがホモだから…。だからアトラ君は、それを聞かされて…、距離を…取…」
「…は…?」
間の抜けた声がすぐ傍で上がり、萎縮していたヤスキは言葉を切ると、おそるおそる薄目を開ける。
一瞬前まで浮かんでいた憤怒の表情はどこへやら、アトラは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
「…何だ?今、何と?」
呆然としているアトラの顔を見ながら、ヤスキはひっくひっくとすすり泣く。
「だ、だから…。ぼくがホモだって、…うっ…!…し、知って…、気持ち悪くて…、それでアトラ君は…、ひぐっ!…ぼ、ぼ
くを遠巻きに…、観察するっ…ように…」
嗚咽を堪え、つっかえつっかえ言葉を紡いだヤスキの前で、アトラの顔が再び厳しい物に変わる。
「…何故おれが、君がその…ホモだと知ったと、そう思うんだ?理由は?」
「え?」
「大切な事だ、ヤスキ。おれは誰からそれを聞いたと思う?」
「お、思うって…」
戸惑うヤスキの中で、疑問が膨れあがる。
アトラは自分を虐めるためにわざわざ告白させている訳ではないようだ。そう感じ始めると、その言動の全ては何かを確認
したがっているように感じられて来た。
「ど、どういう意味です?だ、だってアトラ君は教えられて、それで…」
「だからそこだ!「もしもおれが君のその事を知っていたとしたら」、誰から教えられる可能性がある!?」
アトラの言い回しで、ヤスキの中で疑問が膨れ上がる。
もしかしたらこの若虎は、今の今まで自分の秘密を知らなかったのではないだろうか?と。
「こ、コバヤシ君…。だ、だって、コバヤシ君が…、電話で直接、教えたでしょう?ぼくの事…、ひっ!?」
ヤスキの言葉は、途中で途切れた。
白豚の肩を掴んだままの若虎は、爛々と瞳を輝かせ、喉の奥からグルルルルッと、剣呑な唸り声を漏らしている。
「…そこか…。そこに原因があったのか…」
低く呟いたアトラは、爆発しそうな怒りを何とか飲み下し、ヤスキの肩から手を放した。
「おれは、コバヤシと電話で話した事など、これまで一度もない」
「…へ?」
上目遣いにびくびくと見つめてきたヤスキの前で、アトラは視線を逸らしながら吐き捨てた。
「どうやら見事にはめられていたらしいな。おれ達は…」
はらわたが煮えくりかえる思いだった。
他人に対してあんなにも強い憎悪を覚えたのは、始めてだった。
だが、心のどこかでほっとしてもいた。
おれとヤスキは、どちらかが望んで避けあっていた訳じゃなかったんだと、やっと気が付いて…。