第十三話

自室の勉強机の前に立ち、引き出しを開け、中に収まっている携帯を見つめたヤスキは、躊躇いながら振り返った。

その真後ろに立ったアトラは、白豚を励ますように力強く頷く。

始めて入ったヤスキの部屋の中が気にならない訳ではなかったが、今はヤスキがずっと引き出しにしまっていたという携帯

が最も気になっていた。

怖い物にでも触れるように恐る恐る手を伸ばしたヤスキは、久しぶりに携帯を手に取ると、パカンと開けて画面を確認する。

「ば、バッテリー、切れちゃってますです…」

「充電して確認しよう。発信履歴を」

アトラは既に自分の携帯を確認し、ヤスキにも見せたが、ヤスキの前でコバヤシがアトラに電話をかけたあの日の着信履歴

に、白豚の携帯からの着信を示す表示は無かった。

そちらの履歴はアトラが消す事もできるが、ヤスキの携帯ならば確実に確認できる。

携帯にコードを繋げ、少し待って携帯を起動させたヤスキは、アトラが覗き込む前で履歴を呼び出し、ポツリと呟く。

「…ない…」

何度もスクロールさせ目をまん丸にしたヤスキは、「ない」「ない」と、何度も繰り返した。

「だから来るまでに何度も言っただろう?コバヤシが電話をかけたように見えたのは、君を騙す芝居だったんだ」

アトラはヤスキの家に来るまでの間に、きっとコバヤシがヤスキをからかう…あるいはもっと酷い心境に追い込むつもりで

芝居を打ったのだと説明していた。

しかし、めまぐるしく変わる状況に翻弄され続けたヤスキは半信半疑で、なかなか信じる事ができなかったのである。

しばらく「ない」を繰り返したヤスキは、気が抜けたようにくずおれ、ぺたんと畳に座り込んだ。

その眼前で屈み、アトラは自分の携帯を差し出す。

携帯の画面には、ヤスキの携帯から送られた拒絶のメールが開かれていた。

「…ぼ、ぼく…!ぼくっ!ぼくこんなの送ってないですよっ!?」

驚きのあまり取り乱したヤスキは、「だろうな」と深々と頷いたアトラの前で慌てて送信済みメールを確認し、そこに打っ

た覚えのないメールを見つけて愕然とした。

「こ、こんな…、こんなの…!」

アトラが自分を遠巻きに観察するようになった理由が、ヤスキにもようやく解った。

こんな文面のメールを送られれば、確かにおいそれと声はかけられないし、以前のように付き合う事などできる訳がない。

「時間を見ろ。君が言っていた、コバヤシがおれに電話をかけた頃なんじゃないのか?芝居したついでに、おれの方には君に

成りすましてメールを送って来たんだろうな」

しばし呆然とメールを眺めていたヤスキは、ぽろぽろと涙を零し始めた。

「…ごめんです…」

「ん?」

「ぼ、ぼくが…、ぼくが携帯をちゃんと確認…してれっ…ば…!ひっく!…アトラ君も、なな、悩まなかったし…!こんな事

に…、いっぐ!なって、なかった…のに…!」

怖くて携帯を遠ざけていた。それが事態をより悪い方向へ複雑化させた事を理解し、ヤスキはすすり泣いた。

携帯を確認する勇気も、アトラと言葉を交わす勇気も無かった自分の臆病さがすれ違いを招いたのだと、心底悔やみ、申し

訳なく思った。

すすり泣くヤスキの前で屈んでいたアトラは、やがてどすっと畳みにあぐらをかいた。

「事態はまぁ、複雑だ。整理しないとな…」

そう呟いたアトラは、俯いて袖で顔を拭いつつしゃくり上げているヤスキを見ながら、息を吸い込み腕を組む。

「話をさせて欲しい。少し長くなると思うが、きっと、ここで話しておかなければいけない事だ」

顔を上げたヤスキに、アトラは大きく頷いた。

「おれの事…。ヤスキの事…。話すべき事は沢山あって、どこから始めれば良いのか正直迷うが…」

一度言葉を切ったアトラは、記憶をたぐるように少し視線を上に向け、目を細めた。

「…そうだな…、やっぱり最初から話して行かなくちゃダメなんだろう…」



それからアトラは、長い長い話を始めた。

自分の側から見た事態の側面と、自らの心境…。

要領良く説明できているとは決して言えず、たどたどしい物だったが、アトラは包み隠さず全てを語った。

話し続けるアトラに影響されてか、ヤスキもまた、自分に起こったこれまでの全てを語った。

同性愛者であるという知られたくない秘密を握られ、三人に迫害され続けていた事も。

いつしか不良グループの下位に加えられ、貢ぎ物をする為に万引きを繰り返すようになっていった事も。

嫌だったので反対はしたが、結局は強く出られずに止める事ができず、ずるずると協力してきてしまった事も。

壁時計の針は淀みなく回り、短針が午後八時を示す頃、長い話はようやく終わった。



「…そして今、おれ達はやっと勘違いに気付けたわけだ」

お互いが言葉を出し合い、互いの知らなかった事を補完し合う長い話を、アトラはその言葉で締めくくる。

全て語り終えた若虎は、小さくかぶりを振った。

「おれがもう少し敏感だったなら、ヤスキとあいつらの関係も、察する事ができたんだろうな…。つくづく、自分の鈍さに腹

が立つ…」

「そ、そんな事…!ぼ、ぼくがきちんとしていれば、そもそもこんな事には…」

ヤスキは太った体をもじもじと揺すって項垂れた。

「ごめんです…。本当に…」

「それについては良い。ひとまずはな…」

応じたアトラは渋面を作り、「問題はここからどうするかだ」と呟いた。

「ヤスキの状況は解った。だが、どうすれば打開できるかが問題だ。ウシオ先輩の話では、応援団はヤスキを完全に奴らの一

員とみなしているらしい。それに…、あの三人だって自分達が不利になるような要素は排除したいだろう。ヤスキから聞いた

限りでは、どんな姑息な手を使ってこっちを妨害して来るか判らない。おまけに周りに味方が居ない」

勉強があまり好きではないものの、アトラは決して莫迦ではない。

ヤスキが置かれている状況がどれほど厳しいのかを、本人以上に理解している。

救いの手が差し伸べられる事は望めず、周囲は皆ヤスキの味方ではない。

あまりにも理不尽だと思った。思ったら怒りが込み上げて来た。

弱みを握られたヤスキが、勇気が出せなかった事が罪なのか?怯えて流され続けてきた事が咎なのか?抗えなかった罰がこ

の状況なのか?

「本当に悪いのは…、あいつらだろうに…!」

腕組みしたまま呻いた虎の指が、太く逞しい二の腕にぎりっと食い込むのを見ながら、ヤスキは「あ、あの…」と、おずお

ず口を開いた。

これ以上無駄に怯えさせては可哀相だと、アトラは意図的に厳しい表情を消す。

「何だ?」

「あの…、アトラ君は、どうしてここまで関わるんです?ご、誤解も解けたんですし…、後はもう、ぼくの事なんて放ってお

いたら…」

「怒るぞ?」

アトラはムスッと、口をへの字にした。

「だ、だって…、どう見たってアトラ君に得がないじゃないですか?今日の事だって、応援団に協力して、さっさと連絡して

しまうべきだったんですし…」

「忘れたのか?言っただろう、おれもまた容疑者だと」

「で、でも…、暴走…じゃない!おっきな牛の先輩は、アトラ君の事疑ってないんですよね?だったらいくらでも弁解が…」

「そうだな。そうなると、やはり当面の問題はヤスキの事だ」

何故関わるのか?という話は、巡り巡って戻って来てしまった。自分の話し方が悪いのかと悩んだヤスキは、珍しく苛立っ

たように強い口調で言う。

「誤魔化さないで下さい!だから、アトラ君は関わる必要なんて無いって言ってるんですぼくは!どうして危ない事にわざわ

ざ首を突っ込むですか!」

鼻息を荒くしている白豚に、アトラは軽く眉根を寄せ、眉尻を下げて見せた。

「どうしてって…。友達だろう?」

困ったような、少し寂しそうな顔でそう言ったアトラに、ヤスキは言葉を失った。

友達なんだから当然じゃないか?

そんなアトラの常識が、本当の「友達」に恵まれなかったヤスキに、強烈なショックを与える。

「と、友達…、だから…?」

「他に理由が必要なら…、あ〜…、待て、今考えるから…」

虎は顰めっ面になり、ヤスキは呆然とした。

友達である事。それがリスクに目を瞑って首を突っ込む理由で、それ以上の理由は改めて考えなければならない。そんなア

トラをまじまじと見つめ、ヤスキはもごもごと呟く。

「と、友達って…、ぼく、万引き犯ですよ?」

「脅されて仕方なく、な」

「そ、それにっ、ホモなんですよ!?」

「そんなのは個人の好みの問題だろう」

「お、襲っちゃうかも!?アトラ君の事、がばーって襲っちゃうかも!?」

「そうなったら受けて立とう。ヒロ兄達とよくプロレスごっこをしていたからな。結構やる方だぞ?おれは」

「そ、そういう「襲う」じゃなくてですね…」

顰めっ面で考え込みながら、「そんな事はどうでもいい」と言わんばかりの態度で答えを返して来るアトラに、ヤスキは呆

れた。

「ぼ、ぼぼぼくっ、アトラ君の事好きになっちゃうかもしれないんですよ!?気持ち悪いでしょう!?ホモなんですよ!?本

当に解ってるんですか!?」

「嫌われるより好かれる方がよっぽど良い。それにホモがどうした?おれはムッツリスケベだ。…ああもう…、そうがなり立

てられたら「理由」を思いつかないだろう…」

アトラはがりがりと頭を掻き、ヤスキはぽかんと口を開けた。

誰かに同性愛者だと知られてしまった時の反応は、何度も思い浮かべて来た。

だが、アトラが見せたような反応は想定していなかった。

アトラのその態度が、同性愛という価値観についてどう捉えているかを如実に物語っている。

なんでもない事。

ヤスキの目の前に居る虎は、同性愛など数あるスタンスの一つだと、完全に割り切っているのである。

ヤスキの目から、ぽろりと涙が零れた。

まさかこんな風に、ごくごく普通の事のようにさらっと受け止めて貰えるなどとは、これまで考えてもみなかった。

過剰に嫌悪され、忌避され、迫害されるに違いないと想像していたのである。

「う…、うぅ…!うぐぅっ…!」

白豚が俯いて涙を零し始めた事に気付き、若虎は驚いて目を見張った。

「あ…。済まん。受け答えがぞんざい過ぎたか?悪気は無いんだ。だが、君が理由を求めるからおれは必死にだな…」

おろおろし始めた虎の前で、ヤスキは俯いて泣き続けた。

事態はまだ複雑で見通しが利かず、決して楽観できないが、それでもヤスキは、救われたような気持ちになっていた。



ヤスキが落ち着くのを待って、アトラは白豚の自宅を出た。

正しいのかどうかは判らないが、案が一つだけ思い浮かんだのである。

応援団の大牛。彼ならばきっとヤスキの立場をある程度は判ってくれる。アトラはそう確信していた。

自慰を目撃されて以来気まずくなっていたシゲに連絡を取り、シンイチが寮に帰っていない事を確認したアトラは、彼に連

絡を入れてくれるよう言伝している。

ヤスキの家に来て貰うという案も考えたが、両親が帰って来た場合、事が全て明るみに出る。

どうにかしてヤスキの立場を悪くせずに済まそうと考えての事だったが、しかしこれが裏目に出るとは、アトラも予想でき

なかった。

「ウシオ先輩はきっと判ってくれる。声はでかいし空気も読めないが、あの先輩はいい人だ」

アトラは並んで歩くヤスキをそう励ましながら、シゲに伝えて貰った合流場所、アーケード傍の小さな公園に向かって歩い

てゆく。

なんと声をかけても言葉少なくこくこくと頷くばかりのヤスキを、たまに顔を覗って気遣いながら、アトラは目立たないよ

うに細い道を選んで待ち合わせ場所を目指した。

その選択もまた、裏目に出た。

「もうあいつらと無理に関わる必要は無くなるんだ。今度からは昼飯に付き合え。帰りは一緒に行こう。また寮に遊びに来れ

ばいいし、邪魔でなければおれが遊びに行く」

これから応援団員に自首に近い格好で会う事になり、緊張しているのだろうヤスキを、アトラは明るい話題で元気づけよう

とした。

「おれから送ったメール…、ああ、コバヤシの芝居のきっかけになったヤツだが…、あれはな、休日にどこかへ遊びに出ない

かと、誘うメールだった。…つくづくタイミングが悪かったがな…」

「…遊びに…?」

公園がすぐそこまで迫った頃、路地の出口で足を止め、小さな呟きで問い返したヤスキを、アトラは「ああ!」と、笑みを

浮かべて振り返る。

「地図は頭に入ったが、まだ行っていない名所が山ほどある!だから、ヤスキが良ければだが、君のお勧めの場所へ一緒に遊

びに行けないかと思った」

「一緒に…」

か細い声で呟き、少し嬉しそうに表情を緩めたヤスキは、

「!?」

急に顔を強ばらせ、アトラを困惑させた。

「どうした?嫌…」

「アトラ君っ!」

若虎の言葉を遮り、白豚はダッと地面を蹴った。

そして、アトラに抱きつくように両腕を伸ばし、がっしり肩を抱えて体重を預ける。

咄嗟の事で重いヤスキののしかかりに耐えられず、仰け反るように押し倒されかけたアトラの耳元で、ゴッ!と、鈍い、嫌

な音が響いた。

その一瞬で若虎の目に映ったのは、街灯の明かりを受けた棒状のシルエット。

そして、斜めに振り下ろされたそれを脳天に受けて、一度大きく頷くように頭を下げ、それから弾みで仰け反った友達の、

真っ白な顎。

尻餅をついたアトラの横に、ヤスキがどうと俯せに倒れ込む。

「あ…!ぎぃ…!」

頭を抱えたヤスキが、アスファルトの上でもぞもぞと身じろぎしながら苦痛の声を漏らす。

何が何だか判らないアトラは、それでもヤスキに向かって腕を伸ばした。

が、その手の甲に硬い衝撃を受け、「ぐあっ!」と苦鳴を上げる。

ベギュッと嫌な音と感触、そして衝撃を覚えた手を反射的に抱え込み、苦痛に歪む顔を上げれば、見覚えのある長身の男子

がすぐ傍からアトラを見下ろしていた。

街灯の光で襲撃者の顔を確認したアトラは、それがクラスメートである事に気付いて愕然とした。

「お前っ…、タカスギ…!?」

ヤスキを振り返っていたアトラの背後、進行方向の路地の出口に身を潜めて待ちかまえていたタカスギは、木製バットを右

手にぶら下げ、顔を強ばらせていた。

長身の男子は緊張と興奮で荒い息を吐きながらも、血の気が失せて青ざめた顔をしている。

その瞳は動揺と興奮をごちゃまぜにして浮かべ、尻餅をついたまま手を抱えるアトラと、頭を押さえて弱々しく身もだえす

るヤスキを見下ろしている。

その後ろから、さらに二人の人間男子が姿を見せた。

これだけ時間が経ったのだから、三人はもう諦めて帰っただろう。アトラはそう考えていた。

その考えが甘かった事を、若虎は今、苦痛を堪えて歯ぎしりしながら理解する。

彼らは諦めてなどいなかった。

それどころか、ヤスキの家の傍に潜み、アトラが出てくるのを待っていたのである。

ヤスキについてはどうとでもできると踏んでいたが、事情を知っただろうアトラももはや放ってはおけない。ヤスキ同様、

痛い目に遭わせて屈服させるつもりであった。

しかしアトラはヤスキとは違う。体格も良いし運動神経も良い。まともにやりあったら手強いだろうと予想できた。

そこで三人が用意したのが、木製バットという武器である。

「ちょろちょろ目障りなんだよマガキ。お、お前がわりーんだぞ?お前が出しゃばって来るから…」

タカスギの声は少し震えていた。アトラの肩を背後から一撃するつもりが、咄嗟に庇おうとしたヤスキの頭を正面から殴る

事になってしまった。おかげで予想外の手応えが手の平に残り、タカスギは逆に怯えている。

ナカモリ、コバヤシも同じく動揺しているが、それでも手に持ったバットは放さない。

しかし、襲われた方のアトラは逆に落ち着いていた。より正確に言えば、無理矢理心を鎮めていた。

判断を誤った事に対する激しい悔恨。

バットで殴られ、骨折した右手の激痛。

自分を庇ったヤスキが殴られた事による、はらわたが煮えくりかえるような怒り。

それら全部を飲み込み、アトラは冷ました頭をフル回転させる。

頭を殴られたヤスキは、しかしバットが斜めに命中していた事が、跳ねたバットの軌道を思い返す事で察せられた。

相手は全員バットを握っているが、おそらくこういう荒事には慣れていないのだろうと推測できた。

そして、頭を押さえて転げているヤスキが、痛みに慣れたのかショックが去ったのか徐々に落ち着き出した事も感じ取れる。

そしてアトラは決断する。危険ではあるが、この事態を打開する行為に出る事を。

「走れヤスキ!」

そう叫ぶなり、アトラは素早く立ち上がった。

怪我をさせたはずの相手が勢い良く身を起こした事に驚き、タカスギは咄嗟の対処を誤る。

慌てて振り下ろしたバットは、アトラが斜めに掲げた右腕に当たり、外側に跳ねた。

手の甲に続いて肘のすぐ先にまで激痛が走るが、苦痛を怒りに包んで飲み下す。

どのみち腕一本。使い物にならないなら、酷使した所で問題ない。

痛む腕を庇うどころか逆に捨てに行くという、見ている方が薄ら寒くなるような事を考え、そして躊躇いなくそれを実行に

移したアトラは、体勢を低くしてタカスギにタックルを仕掛け、無事な左腕でその胴を抱え込む。

凄まじい初速と加速が生み出す、人間には真似のできない強烈な突進力と、130キロを越すヤスキの体も支えられる豪腕

に物を言わせたタックルは、タカスギを為す術もなく仰向けに押し倒す。

カエルが潰れたような「ぐえっ!」という声を漏らし、バットを手放したタカスギは、敏捷に動いたアトラに組み敷かれ、

抵抗する暇さえ与えられずにマウントポジションを取られてしまった。

そのすぐ傍で、身を守るように反射的にバットを上げたコバヤシとナカモリも、荒事に慣れていないが故に激しく動揺し、

殴り掛かるだけの決心がつかない。

「行けヤスキ!逃げろ!」

振り向きもせずに叫んだアトラの後ろで、ようやく上体を起こしたヤスキは、状況を正確に把握できずに混乱する。

その思考が乱れた状態で、とりあえずは手強そうなアトラよりも手軽な白豚を阻もうと動き出したナカモリの姿を見て恐怖

したが、ヤスキは逃げなかった。否、逃げられなかった。

逃げ出すどころか後ずさる事もできずに、ある物に視線を固定している。

凶器を持つ三人に怯む事無く勇敢に立ち向かい、自分に逃げろと叫んでくれた「友達」の広くて逞しく、頼もしい背中には、

「チェンジ・ザ・ワールド」「チェンジ・ユア・スタンス」の言葉。

ヒーローなんか居ない。そう思っていたヤスキは今こそ悟る。

ヒーローは居た。救いの手を差し伸べてくれた。こんな何の価値もないような自分を「友達」と言ってくれるヒーローが…。

自分を取巻く世界を変えられるのは、そして自分自身を変えられるのは、きっと今しかない。

今アトラを見捨てたなら、ヒーローは二度と現れないし、自分は一生このまま変われないし、誰かから友達だと言って貰え

る資格もない。

「う…!うわぁああああああああああああっ!」

ジンジン痛む頭を右手で押さえたまま、ヤスキは声を上げて立ち上がった。

もとより後ろめたい事をしているという自覚があるナカモリは、周囲にその騒ぎを教えるようなヤスキの声にたじろいだ。

彼の足が弛んだその隙に、ヤスキは突進する。

白豚の体重は130キロを超える。誤魔化しようのない、歴然としたその数字がヤスキの味方をした。

バットを振りかぶる事もできず、避けようか迎え撃とうか迷ったナカモリは、結局ヤスキと正面衝突し、両者の口から同時

に声が上がった。

「ぶぎぃっ!」

「ぎゃあっ!」

これまで散々虐げられて来たものの、ヤスキがただ走ってぶつかるだけで、同級生の体は簡単に吹き飛んだ。

馬乗りになってタカスギを抑え込んでいるアトラは、すぐ傍らにナカモリが倒れ込んで来ると、驚いてヤスキを振り返る。

駆け込んできたヤスキは、タカスギに馬乗りになったままのアトラのすぐ後ろに寄り添い、大きな鼻孔から荒い鼻息を吹き

出させながら、涙がいっぱいに溜まった目で、身を起こそうとしているナカモリと、呆然としているコバヤシを睨む。

撲られた頭は痛いし、バットも三人も怖い。だが、アトラを見捨てて行くのは嫌だ。

臆病な友達が振り絞った勇気を確かに背中で感じ取り、アトラはこんな状況にもかかわらず、微苦笑を浮かべてしまった。

どうやら自分はヤスキを侮っていたようだと痛感して。

跳ね飛ばされたナカモリは身を起こし終え、バットを握りなおすと、怒りで顔面を真っ赤にしながら叫んだ。

「てめー…!自分が何したか判ってんだろうな!?」

しかし焦りからか、ナカモリのその恫喝は上ずった声になっている。

「もう嫌です!まっぴらです!これまで色々渡して来たけど…、もう何もあげません!絶対に…、絶対に…!「友達」はあげ

ませんですから!」

ヤスキの声もまた上ずってはいたが、しかしもう相手から目を逸らそうとはしない。

信頼を、情を、真心を見せてくれたアトラの行為に、ヤスキは精一杯の勇気を振り絞って応える。

これまで言いなりになっていたヤスキの反逆に、コバヤシもナカモリもたじろいだ。

決して迫力があったわけではないが、予想外の、考えた事もなかったその行動で、ヤスキが急に「別物」に見えたのである。

もはやその白豚はサンドバッグでも、財布でも、自分達に虐げられる為だけの存在でもない。

人格を備えた完全な個人である事を、その態度から、三人は今更理解した。

逃げ出す者の居ないその睨み合いは長く続いたが、終わりは唐突にやって来た。

「声を聞いて来てみれば、何やら物騒な事になっとるな」

背後から響いた声に、コバヤシとナカモリがハッと振り向く。

「ウシオ…先輩…」

タカスギを組み敷いたままのアトラは、二人の間から前を見据え、ほっとしたように声を漏らした。

「む?こっち側だったか…」

続いて聞こえた声に、今度はヤスキが後ろを振り向くと、幅も厚みも高さも特大の河馬が、後ろからのっそりと歩いて来る

所であった。

三人組から逃げていたアトラとヤスキに接触したジュウタロウは、友人に連絡を入れて状況を教えた後も、行動を共にして

いた。

そのおかげで、シゲからの連絡を受けた時には既に二人ともアーケードにおり、アトラ達よりも早く待ち合わせ場所に到着

している。

先ほどのヤスキの叫び声を聞きつけ、こうして急行できたのは、そんな偶然の積み重なりがもたらした幸運であった。

「さて、状況を知りたいのだが…」

「わ、悪ふざけしてただけですよ先輩!なっ!?」

機転を利かせたコバヤシは、往生際悪くナカモリに話を振る。自分達が凶器を手にしている事も忘れて。

「お、おう!ちょっとしたこう…、鬼ごっこの延長?みたいな感じで…」

「ほう。そうかそうか」

大牛はうんうん頷くと、唐突にくわっと目を見開いた。

「…ワシらを馬鹿にしとるのか?大概にせぇっ!!!」

発せられた怒声は、肌をびりびりと震わせる程の大音量であった。

三人組のみならず、アトラまで驚きで固まっている。

そしてシンイチは、大声で竦み上がっている白豚に視線を向け、低くした声で続けた。

「シラトと言ったな?いくつか問う。正直に答えろ」

ビクッと体を震わせたヤスキの青ざめた顔を睨みながら、シンイチは続けた。

「ここしばらく、前年度からここらで万引きが続いとったが…、君も含めてそこの四名に容疑がかかっとる。…単刀直入に訊

く。お前達は犯人か?」

大牛の視線を浴びながら、ヤスキは口ごもる。

アトラと相談し、四人でおこなった万引きの事を打ち明けると決心していたはずなのに、いざとなったら怖くて声が出なく

なってしまった。

認めてしまったら、三人によってどんな目に遭わされるか…。

それに、打ち明けてしまったら、万引きの事が学校中に知れ渡ってしまう…。

怖れによって正直に言う事ができなくなったヤスキの心情を察し、アトラが口を開いた。

「先輩。その件については自分も詳しく話を聞いています。代わりに…」

「黙っとれ、マガキ」

シンイチは白豚の顔をじっと見つめながら、助け舟を出そうとした若虎の言葉を遮った。

口出し無用。言外に込められたそんなプレッシャーで、アトラは口を閉じた。

助けは来ない。

その事を察したヤスキは、大牛の視線に怯え、竦み、カタカタと震えるばかりで声が出せなくなったが、

(ヤスキ。大丈夫だ)

アトラは前を見据えたまま、後ろのヤスキにも判るように大きく頷く。

その仕草で少なからず元気づけられたヤスキは、おどおどしながらもきちんとシンイチの目を見返し、

「…は…い…」

小さく、本当に小さく頷いて、自らの罪を認めた。

アトラに組み敷かれたままのタカスギと、並んで立つコバヤシとナカモリの視線が、ヤスキの体に突き刺さる。

裏切ったな?

三人の目はそう言っていた。

自分達に絶対服従のはずのヤスキに、三人は密かに期待していた。「自分が全てやった」と発言する事を、実に身勝手に、

実に都合よく期待していたのである。

「そうか…。ではもう一つ」

シンイチはヤスキの顔から視線を外さないまま、静かに続ける。

「君がそこの人間男子三人に苛められていたというのは本当か?」

「そ、そんな事ありませんよ先輩!」

堪らず声を上げたのはコバヤシであった。

振り向いてシンイチを見た彼は、しかし言葉を続けられなくなる。

黙っていろ。

そんな意志を込め、無言の大牛が投げかける剣呑な視線は、コバヤシを萎縮させるに十分な迫力を持っていた。

一時コバヤシに向いたその目が戻って来ると、ヤスキはゴクリと唾を飲み込み、視線を避けて俯いた。

自分を含めて万引き犯である事を打ち明けるのとは、また話が違う。

ここで頷けば、三人に対する明らかな反抗となる。

(少々酷かもしれんが、本人から言わせなければならんのだろうな…)

再び言いよどんでいるヤスキの背と、厳しい顔つきを崩さない大牛を眺めながら、ジュウタロウは思う。

ヤスキの言質を取る。それがシンイチの狙いなのだと河馬は知っていた。

万引きに荷担していたとしても、虐められて無理矢理手伝わされたとなれば、事情は少し違って来る。

哀れな白豚の処遇に幾許かの心付けをしてやる為にも、大牛は今ここで彼自身の口から聞いておきたい。

当事者たる三人とヤスキ本人、そして後に証言者となる部外者のアトラと河馬がいるこの状況で、本人の口から本音を言わ

せたい。

長い沈黙の後、シンイチの目が僅かに細められた。

ダメか。そう判断し、話を先に進めようとしたその時、

「…う…!」

ヤスキは小さく呻き、目を見開いた。

振り返ったアトラが、白豚の顔をじっと見ている。

何も言わず、しかし雄弁に、その瞳が若虎の気持ちを物語っていた。

(大丈夫。何があってもおれは君の味方だ)

イジメを認めてしまった後の、三人の報復…。

犯してきた万引きが明るみに出た後の、学校での立場…。

おそらくは同性愛者である事も、三人によって言いふらされてしまうだろう。

そのように、この先に待ち受けている様々な困難を考え、それでもなおアトラの気持ちは変わらない。

例えどんな境遇になろうと、せめて自分だけはヤスキの傍に居る。

どんな立場でもヤスキはヤスキ。一緒に居ると穏やかな気持ちになれる、話していてとても楽しい友達である事に変わりは

無い。

その決意は、僅かにも揺らがない。

理不尽に虐げられてきた白豚が不憫だからという事もあるが、何よりもアトラ自身、全部知った上でまだヤスキを好きなま

までいる。

首を捻って振り向く虎の真っ直ぐで力強い眼差しに励まされ、ヤスキは嬉しさのあまり泣けてきながら、ゆっくりと頷いた。

そして、シンイチの顔を真っ直ぐ見返し、口を開く。

「…はい。イジメられてましたです…」