第十四話
おどおどと怖がっているような様子で、しかし自分を真っ直ぐ見つめ、目を逸らさない白豚の発言を受け、
「なるほど。たれ込み通りという訳か」
顎を引いて頷いたシンイチは、じろりとコバヤシ、ナカモリ、タカスギを見遣る。
「そちらの言い分も聞かねばならんだろうが…、それは学校ででもじっくり聞かせて貰おう」
それを聞いたコバヤシは、じろりとヤスキを一瞥すると、シンイチに向き直る。
「い、イジメなんて大げさです!友達同士の小突き合いみたいな物で…」
「それをどう取るかは本人次第。そこの彼は、苛められていると取っている」
バットを握って何を言うのか、言い逃れようと必死なコバヤシだが、シンイチはその言葉を遮った。
しかし今度は傍らのナカモリが、声を大きくして食いつく。
「い、虐められる方にも問題があるって、良く言うじゃないですか!そいつだって悪いんですよ!」
その様子を後方から眺め、ジュウタロウは呟く。「語るに落ちるとは正にこれか…」
河馬がそう呆れていると、大牛は「ふむ、良く耳にする」と頷いた。
ナカモリの言葉を肯定するような素振りに、三人は表情を和らげ、白豚は顔を強ばらせ、アトラは厳しい眼差しを牛に向け
る。が…、
「だが、問題や原因がどうあれ…、当然!苛める方が悪い」
きっぱりと言い切り、ナカモリの弁解にもならない屁理屈を突き放したシンイチは、改めて三人を見回した。
「マガキ、そいつの上から退け。万引きもそうだが、君達三人が実際に凶器を所持し、暴行を加えようとしていた事は確か。
喧嘩という口実も口にできようが、その行き過ぎた行為は誤魔化しが利かんぞ?時間を取らせて済まんが、ワシに同行して貰
えんかな」
風紀委員の役目も果たす星陵応援団員として同行を求めるシンイチは、しかし同行を求める丁寧な言葉とは裏腹に、ドスの
利いた声と有無を言わせぬ口調である。
(ウシオ先輩は、やはり味方してくれそうだ。発言も振る舞いもヤスキ寄り…、三人の言葉に惑わされる事は無いだろう…)
シンイチを信じ、その判断に従う決心をしたアトラは、タカスギの上から退こうとした。
が、その腰が僅かに浮いた途端、長身の男子は路上に這わせていた手を素早く振り上げる。
アトラの眼前で開いたその手から、アスファルト上から握った僅かな砂粒がパッと散った。
「うっ!?」
呻いたアトラは、まともに目つぶしを食らい、無事な左手で顔を覆った。
腰を浮かせかけたその状態で、しかも左手を顔に当て、右手を骨折しているアトラが、はねのけるべく動いたタカスギを押
さえつけられない。胸を平手で突き飛ばされ、後ろに倒れ込む。
「アトラ君っ!」
すぐ後ろに控えていたヤスキが咄嗟に屈むが、頭を打たないように手を添えるのが精一杯、非力故に体格の良いアトラを支
えるには至らない。
頭を掬うようにヤスキに手を添えられながら尻餅をついたアトラの前で、タカスギは傍に転がっていたバットを握りつつ立
ち上がった。
(油断…!まさかこの期に及んで悪あがきするとは思ってもみなかった!)
きつくまぶたを閉じ、目を刺すような砂の痛みに涙を零しながら、アトラは手探りで後ろ手にヤスキの腕を掴み、位置を確
認してその前に陣取る。
自身が傷を負い、無防備でありながら、それでもなおこの土壇場でヤスキを守ろうとするアトラの行動は、バットを振りか
ぶるタカスギには理解不能だった。
そしてその瞬間、刺す様な殺気がバットを振り下ろそうとした手を止めさせた。
反射的に顔を上げたタカスギは、のっしのっしとヤスキの向こうからこちらへ歩む河馬の巨体を認める。
体の割に小さな河馬の両目が細められており、そこから発せられている険呑な光で、タカスギは一瞬射竦められてしまった。
タカスギが怯んだおかげで難を逃れたアトラは、しかし飛んできた蹴りで肩に衝撃を受け、ヤスキの横側、斜め後ろに倒れ
込む。
咄嗟の判断で、今度はアトラを守るべく膝立ちで前に出たヤスキは、その胸ぐらをタカスギに掴まれた。
「邪魔しやがってこのブタぁっ!」
「ぶぎぃっ!」
ティーシャツを掴まれたままバットの柄で鼻を殴られ、ヤスキは仰け反って尻餅をつき、背後に庇ったアトラに倒れかかる。
その拍子に、ヤスキの体重がかかったティーシャツが、掴まれた所からバリリッと音を立てて裂けた。
そのまま二人の脇を抜け、河馬の横を通って逃げようとするタカスギ。
その行く手で、間近で凶行を見たジュウタロウの肩が、ぐぐっと筋肉で盛り上がる。
(己の身を顧みずに庇いあう…、そんな二人の姿を見ても、君達は何とも思わんのか…)
タカスギが取った破れかぶれの行動は、仲間達にも影響を与えた。
ナカモリは奇声を上げてシンイチに殴りかかり、コバヤシはタカスギ同様にアトラ達の脇を抜け、鈍重そうな河馬の横から
逃げようと駆けだした。
しかしナカモリも、そしてコバヤシも、そしてタカスギも、相手を見誤っていた。
振り上げ、振り下ろされたバットは、しかし大牛を殴る事無く宙で止まる。
素早く伸びたシンイチの右手が、バットごとナカモリの右手を握り込んで止めていた。
ナカモリは失念していた。先日シュウジが口にした言葉を。自分の目の前に居る大牛が、昨年この界隈で暴風の如く暴れ回っ
た暴走特急そのひとである事を。
ビクともしないバットに戸惑ったが、ナカモリは空いている左手で拳を作り、バットの脇を抜けるようにして大牛の顎めが
けて繰り出す。
次の瞬間、何とも言えぬ嫌な音を、ナカモリは聞いた。
ただしそれは、拳が命中した大牛の顎から響いた硬い打撃音ではない。
己の手首から先で一斉に響いた、激痛を伴う音であった。
「ひぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
バットごと手を握られているため、押さえる事も出来ずに上げたナカモリの絶叫が響き渡る。
「殴り慣れとらん拳で、下手な殴り方をするからだ」
呆れと哀れみの同居する顔で呟くシンイチは、顎への一撃がクリーンヒットしたにも関わらず、ダメージを感じさせない。
せいぜいジンジンとした痛みを覚えている程度である。
苛めには熟練していても喧嘩では素人のナカモリは、太い首に支えられた大牛の頑強な顎を殴った事で、逆に自分の手首と
拳、そして指を痛めてしまったのである。
一方、河馬の脇をすり抜けて逃げようとしたタカスギとコバヤシは、その幅のある巨体の脇をすり抜け、逃走の成功を確信
した次の瞬間、
「!?」
不意に地面の感触が足下から消失し、さらに首と胸が圧迫され、戸惑いながら揃って「げぅ!?」と声を上げた。
「大人しくしておいて貰おうか。立場が悪くなるぞ?」
猫の子供でも持つように、脇を駆け抜けようとしたコバヤシの後ろ襟を掴んで軽々とつるし上げた河馬は、小柄な一年生を
ひょいっと眼前に引き戻す。
反対側の手はタカスギの首にのど輪をかけており、両脇を駆け抜けようとした二人はそろって捕縛されていた。
「無事かマガキ?それにシラト君も」
手首を捻挫し、殴った拳に逆に酷い打撲を負った痛みのあまり、情けなくひぃひぃと声を上げてすすり泣いているナカモリ
を放り出し、大して心配していないような口調で言いながら歩み寄ったシンイチは、しかしアトラの足の上に投げ出された右
手を見て表情を変える。
「腫れが酷い…。何があった?」
「あ、あの…、ば、バットで手を殴られたんです…」
目を擦っているアトラの脇で、ヤスキがシャツの破れた胸元を隠しながら応じると、シンイチは白豚の頭に目を止めた。殴
られた頭から血が滲んで、白い毛が朱色になっている。
「そして君は頭、か…。二人ともすぐ病院に行くべきだな。特にマガキは骨折しとるかもしれん」
「こっ…せ…!?」
ヤスキは言葉を途中で切り、喉をヒュッと鳴らす。
「可能性は高い。殴られてからそう時間は経っていないだろうに、その腫れ具合となると…」
難しい顔でそう言ったシンイチは、しかし「ぐっ!?」という声を耳にし、弾かれたように視線を上げる。
「ジュウタロウ!?」
大牛の目に映ったのは、地面に屈み込んで右膝を押さえている親友と、その束縛から逃れて駆けだしたコバヤシ、そしてタ
カスギの姿。
往生際悪く逃れようともがいたタカスギのバットが、故障している河馬の右膝を痛打していた。
分厚い脂肪と筋肉で守られた腹や胸、太腿ならば、力の入らないその姿勢で振り回したバットが当たってもどうという事は
無いが、右の膝の皿を悪い角度で打たれた河馬は、激痛のあまり立っている事もできなくなった。
走り去る二人を睨んで舌打ちしたシンイチは、苦痛を堪えて「済まん…!」と呻いたジュウタロウに視線を戻す。
「構わん。そのまま家出でもせん限りは、結局逃げられん。さし当たっては一人押さえた。残りまで無理に捕まえておく事も
ないだろう。それよりも、大丈夫か?ワシの仕事に付き合わせたばかりに…」
「こっちが申し出た事だ。…しかし面目ない…」
厳しい表情の大牛と、呻く河馬は、不意に会話を止めた。
低い、鼓膜を微かに振動させる、しかし底冷えするような重い音が、二人の耳に届いている。
その音の出所に、大牛と河馬の視線が移った。
「マガキ…」
呟いたシンイチの目は、白豚のパーカーを掴み、その首下へ視線を固定している若虎を映して揺れる。
「あ、アトラ君…?どうしたんです…?」
パーカーを掴んで胸元を大きく開けさせ、ヤスキの胸元を充血した両目で見据えるアトラの喉から、低く響く唸り声が漏れ
ていた。
「…ヤスキ…!君…!君は…!」
何とか声を絞り出すアトラの瞳には、シャツが裂けて露わになっている、ぼってりと肉が付いた、しまりのないヤスキの胸
と腹が映っている。
ぼってりした白い腹まで見えるほど、襟から腹部にかけて大きく破れたシャツの間から、薄い被毛を透かして、肌に残った
いくつもの青黒い痣が見えていた。
たるんだ乳房の曲線を帯びた下端。乳首のすぐ外側や、みぞおちのやや下側。臍の斜め上辺りや、胸の谷間…。アトラがぱっ
と見ただけでも、無数の痕跡が見つかった。
三人がヤスキに繰り返しおこなってきた、数え切れない虐待の痕跡が…。
普段は服に隠れるそれを目にし、アトラの中で何かが弾けた。
アトラが有する、どんな時も冷静に己を抑える、極めて強靱な精神のたが…。
それが、友人の身に刻まれた惨憺たる苦痛の跡を目の当たりにしたせいで、音を立ててはじけ飛んでしまった。
胸元をはだけさせられて凝視され、ドギマギしているヤスキの前で、アトラはすっくと立ち上がる。
「あ、アトラ君…?」
見上げるヤスキの声には応じず、アトラはキッと河馬の後方を…タカスギとコバヤシが逃げて行った方向を見遣る。
そして、靴底とアスファルトの擦れる音が響く一足を皮切りに、首周りや尻尾の毛をぶわっと立てたその身を、夜気を押し
のけて急激に動かした。
「待てマガキ!追わんでいい!」
意図を察したシンイチの制止は、しかし若虎を止められない。
屈んだまま動けない河馬の脇を猛然と駆け抜け、アトラは暗がりに姿を消してしまう。
「アトラ君!」
「マガキ!待たんか!」
ヤスキとシンイチの声が後方から響いて背を叩いても、アトラは止まらなかった。
骨折している右手の甲の痛みすら、今は嚇怒で脳に届かない。
充血した目を爛々と光らせ、ぽつぽつとまばらに街路灯が並ぶ夜道を、猛虎が駆け抜けて行く…。
「はぁ…、はぁ…、はぁ…、…くそっ…!」
電柱に寄りかかり、コバヤシは荒い息の間から悪態をついた。
逃げている内にタカスギとはぐれており、今の彼は一人きりである。
悪事がばれた今、例え足で逃げても本当の意味で逃げ切れはしない。明日の事を考えると気が重くなる。
これまでヤスキに味わわせて来た、恐れと共に巡ってくる明日への重苦しい予感を、コバヤシは味わっていた。
「くそっ!」
苛立ち紛れに吐き捨てて、手にしたバットで電柱を小突いたコバヤシは、足を進めかけてハッと立ち止まる。
息をのんで彼が凝視する前方の闇の中に、何かが居た。
だが、それがあの大牛やアトラ達でないと気付くと、ほっと安堵し、さらに怒りが込み上げて来た。
体にぴったりとフィットする、黒いフリースのトレーナー。
まだ洗った事が無い新品のような、濃い青色のジーンズ。
薄褐色の被毛に覆われた、獣の顔。
背の低いコバヤシよりもさらに小柄なその柴犬は、校内で見た事がある生徒であった。
その小さな相手に驚かされた事で、苛立ちは強くなる。
一言も発さず、じっと自分を見つめているその柴犬に、コバヤシは苛立ちながら声をかける。
「何だよ…。何見てんだよお前…!」
柴犬はコバヤシの言葉を受け、軽く右の眉を上げると、ようやく口を開く。
「先輩への口のきき方がなっていないな。どうやら教育が必要らしい」
「あん?」
コバヤシは顔を顰める。校内で見た事はあっても、その小柄さから、柴犬が三年生だとは思ってもみなかったのである。
「何だよお前?何か文句あんのか?おう?」
苛立ちから凄むコバヤシ。自分よりも弱そうな相手にはいくらでも強気に出られる彼は、しかし気付いていなかった。
自分の背後から音もなく大股に歩み寄るトドの存在には。
「ミギワ」
ヒカリは下らない物でも見るような、ひどく冷め、そして突き放す目でコバヤシを眺め、その背後に立ったルームメイトに
声をかける。
「運良く、最も興味があったヤツが一人きりになった。ゆっくり話を聞けそうだ」
頷いたミギワが立てた微かな衣擦れの音で、コバヤシはようやく背後に立つ何物かの存在に気付く。
振り向いたその目には、まずモスグリーンのトレーナーに覆われている、突き出た大きな腹が映り、次いで上向きになった
視線は、三白眼の大柄なトドの顔を捉える。
「…あ…」
驚きから一瞬呆然としたコバヤシは、我に返るなり奇声を発してバットを振りかぶった。
「丁重に扱えよ」
柴犬のそんな声と同時にバットが唸りを上げ、そしてガッと音が響く。
コバヤシは目を疑った。自分が振り下ろした空っぽの手を見て。
その視界を、薄褐色の豪腕が霞みながら横切る。
コバヤシが見たのは、そこまでであった。
顎先を掠めた微かな衝撃によって脳震盪を起こし、コバヤシは白目を剥いてかくんと膝を折る。
糸が切れた人形のようにぺたんと座り込んだその上で、トドは顎先を掠めさせた右拳を開いて少し上に上げ、ひゅんひゅん
と回転しながら落ちて来たバットをパシッと掴み取った。
コバヤシが振ったバットは、トドの平手に擦るように下から打たれ、綺麗に回転しながら真上へ跳ね上げられていた。
あまりにも速く、あまりにも強烈な平手で手を叩かれたコバヤシは、握った手が痺れて、バットがすっぽ抜けた事にも気付
けなかったのである。
生まれたその家柄のせいで、幼い頃から否応なしに武芸を仕込まれ、人以外の物とも渡り合えるように鍛え上げられて来た
ミギワにとって、素人が振るう凶器など脅威の内に入らない。
「ご苦労」
柴犬はトドを短く労うと、座り込む格好で気絶しているコバヤシに歩み寄り、そのポケットをまさぐり始めた。
「…あった、これが倉庫の鍵だな」
三人とヤスキの周辺を嗅ぎまわっていたミギワから報告を受け、目を付けていた南京錠の鍵を手にしたヒカリは、少し満足
げに呟くと踵を返した。
「連れて来い。そいつにはまだ聞きたい事がある。本当にこの鍵が正しいか確かめながら、早速倉庫を活用するとしよう。…
あそこは尋問にうってつけだ」
柴犬はそこで言葉を切ると、「いや待てよ…」と声を潜める。
「…もう一人逃げたんだったな?簡単そうならそちらも確保してみるか」
ほくそ笑むヒカリの後方で、ミギワは無言のまま、気絶しているコバヤシを軽々と肩に担ぎ上げた。
一方その頃、タカスギはアーケードから一本奥に入った道を必死に逃げていた。
背後から迫るのは、嚇怒の炎を充血した双眸に灯し、全身の毛を怒りで逆立てた猛虎。
バットを握り締めながら、しかし迎え撃つつもりになどなれないタカスギは、牙を剥き出しにし、鼻面に無数の深い皺を刻
んだアトラの凄まじい形相に恐怖している。
両者共にスポーツなどに打ち込んでいないとはいえ、獣人の中でも特に高い身体能力を有する虎獣人のポテンシャルは、人
間であるタカスギのそれを遙かに上回る。
大柄な体躯の重さを物ともせず、ぐんぐん前へ押し出してゆく両脚は、人間の脚力とは次元が違っていた。
何故追いつかれたのか、タカスギは理解できない。
どういう訳かこの虎は、小道を選んで逃げていた彼の前方から現れたのである。
アトラは怒りに我を忘れながらも、遙か古代の先祖から脈々と受け継がれてきた狩人の本能により、効果的な追跡を行って
いた。
すなわち、趣味が高じ、住み慣れた街であるかの如く熟知した土地勘を活かし、タカスギ達が選びそうな逃走経路を割り出
して先回りしたのである。
もっとも、完全に頭に血が昇っているアトラ自身は、そこまで考えて行動していた訳ではない。獲物を探し求めて闇雲に走っ
ただけのような感覚でいたが、本能と知識は彼を裏切らなかった。
虎と非力な人間が一度接触してしまえば、もう先は見えている。
タカスギは足が疲れて息が上がり、猛追するアトラに距離を詰められて行った。
十分に距離を詰め、野生の捕食者の如く全身をバネにした跳躍で後ろから飛びついたアトラは、タカスギを俯せに押し倒す。
「う、うわっ!うわぁっ!」
恐怖の余り無茶苦茶に暴れ、背にのしかかったアトラを振り払おうとしたタカスギは、しかし強靱な左腕で仰向けにひっく
り返され、再びマウントポジションを取られてしまう。
「ゆ、ゆゆ許してくれ!悪かった!悪かったよ謝る!この通り!」
涙すら浮かべて懇願するタカスギを憤怒の形相で見下ろすと、
「…ヤスキも…」
押し殺したような掠れ声が、アトラの口から漏れた。
「ヤスキも…そんな風に救いを求めたんじゃないのか…?」
激しい憤怒に胸を焦がしながらも、猛虎の口調は静かであった。
「今のお前のように…、赦しを乞い…、助けを求めて…、それでお前達はどうした…?」
だが、それは熾火の静けさである事が、タカスギにははっきりと感じ取れている。
「止めてやったのか?酷い事を止めてやったのか?少しは優しくしてやったのか?」
落ち着いてなどいない。冷静でなどいない。
「そうじゃない。そうじゃないよなぁ…。止めてなんかやらなかったんだよな?」
静かに言葉を紡ぎながら、しかし猛虎は、傍に居る者がはっきり判るほど怒り狂っていた。
「止め難いよなぁ、こういう風になったら…」
一度呟きを止めたアトラは、「ああ…」と、何か思いついたような声を漏らす。
何故こんな事に気付かなかったのだろうか?アトラは思いついたばかりのその事について考えながら、口の端を少しつり上
げた。
「ああ、そうか…。そうだよなぁ…」
アトラの左手が拳を握り固め、ゆっくりと上がって行く。
「お前達が居なくなれば、ヤスキはもう苦しまないんだよなぁ…」
何故こんな簡単な事に気付かなかったのかと、アトラは苦笑すら浮かべた。
怒れる虎の内には、もはや少しの慈悲も、僅かな許容も無い。
激しい憎悪と嚇怒が、あの鋼のように強固だった自制心を完全に消失させ、獰猛で凶悪で冷徹で単純な思考が、ある種の甘
美さすら伴ってアトラを誘惑する。
そいつが居なくなれば、ヤスキは楽になれる…。
後の事を考えなければ、相手の事を考えなければ、そして、ヤスキの安全だけを考えれば、その思考は魅惑的ですらあった。
いやいやをするように首を左右に振るタカスギ。
だがアトラは、もう何を言われても、どんな風に赦しを乞われても、止めるつもりなどなかった。
タカスギの顔面へ、力任せに、力一杯、力の限り、この握り拳を叩き込む。
何回も、何十回でも、何百回でも、気が済むまで殴り続ける。
130キロを越えるヤスキによろめかれても苦も無く支えられる、一般の生徒とはポテンシャルが桁違いなアトラの豪腕で
殴れば、普通の状況でもタカスギはただでは済まない。
しかも今、彼の頭部はアスファルト上にある。アトラの腕力で、アスファルトと挟まれる形で何度も殴られたなら、下手を
しなくとも命に関わる。
激しい恐怖に支配され、タカスギはじょぼじょぼと勢い良く失禁した。あられもない声を上げ、助けてくれと懇願しながら。
騒ぎを聞きつけて大通りから数人の野次馬が路地を覗くが、関わりたくないのか、誰も助けに入ろうとはしない。
偶然にも、その状況は報いとなっていた。
タカスギは今、救いを求めても誰も手を差し伸べてくれないという孤立した状況に陥り、ヤスキが味わった絶望の一部を体
感している。
固めた拳が上がり切り、振り下ろす直前の段階に入り、アトラの眼光が強烈な殺気を帯びた。
「消えて詫びろ…。二度とヤスキに触れられないようにしてやる…!」
だが、その拳が動く寸前。
「アトラぁっ!?」
聞き馴染んだ、太い、そして間延びした声で、アトラはハッと我に返り、瞳から物騒な光を消した。
バッと顔を上げて路地の先を見れば、大通りとの境目にひしめく野次馬をかき分け、前に出ようと四苦八苦している肥満の
大虎の姿。
「ヒロ…兄…」
呟いたアトラは、すすり泣きを耳にして顔を俯ける。
失禁したせいで小便の臭いが立ちこめる中、タカスギは涙と鼻水を流してしゃくりあげていた。
その様子を改めて見つめ、アトラは、
「……………」
顔を顰めながら、何も言わずに拳を下ろした。
ヤスキの分まで殴り倒してやるつもりだったが、ヒロの声で我に返ったアトラは、それが何の解決にもならない事を悟った。
(本当は、最初から判っていたのかもしれない…。ぶん殴っても何にもならない…。そもそも、おれがこいつらをどつき回し
たところで、ヤスキの気が晴れるだろうか…?)
まるで憑きものが落ちたように、一時の激情がなりを潜める。
骨折した右手の激痛も、もはや恨みにはならなかった。
もっともっと酷い目に遭わされ続けて来たヤスキに先んじて手を出すのは、まるで割り込みでもするようで、フェアではな
いとさえ思えた。
小さくため息をついたアトラは、すっと軽く、再び左手を上げ、固めたままだった拳を、タカスギの顔の脇に、ストンと、
軽く落とす。
「一つ貸しておく。…ヤスキとヒロ兄に、感謝しろ…」
仏頂面で呟いたアトラは、タカスギの上から退いて立ち上がり、路地の隙間から夜空に浮かぶ月を見上げる。
珍しく慌てている様子のヒロが突き出た腹を揺すりながら、重く慌ただしいどすどすという足音を響かせて駆け寄り、ぼん
やりと空を見上げる若虎の傍らに立つ。
「何事だね?穏やかじゃないが…」
尋ねるヒロに、アトラはゆっくりと視線を向けた。
「そいつが、最近連続していた万引き犯の一人です。「トラ先生」。…そして、苛めをやっていた卑怯者でもあります」
急な話に、糸のような細い目をゆっくりと大きくしたヒロは、身を起こして路上に座り込んだまま泣いているタカスギを見
遣った。
その様子を、野次馬の向こう、大通りの花壇の縁に立って背伸びし、遠目に眺めている者が居た。
(確保は無理だな…)
途中から様子を窺っていたヒカリは、花壇から飛び降りてトンと歩道を踏むと、路地に背を向けて歩き出す。
衆目があるのでコバヤシを担いだままうろうろする訳には行かず、ミギワは少し離れた場所で待機している。
(一人居れば良いか…。さて、あの生徒は先に倉庫までミギワに連れて行かせるとして、僕は一度点呼に戻るかな。それにし
ても…)
ヒカリは口角を微かにつり上げ、あるかなしかの微笑を口元に漂わせる。
(ギリギリの所だったようだが、耐え難いだろう激情を抑え込む自制心と、感情に囚われず衝動を押し殺せる精神力…。真垣
亜虎…、なかなか面白いヤツだ。ウシオが欲しがるのも頷ける。少し興味が出て来…)
ほくそ笑んでいたヒカリは、胸の内での呟きを止め、笑みを消した。
素早く振り向いた彼の目に、こちらをじっと見つめている者の顔が映り込む。
距離にして40メートル近く離れたヒカリは、野次馬の隙間から自分の方へ顔を向けているヒロを凝視した。
が、一時空いた野次馬の隙間は、人垣の動きによって再び塞がれ、ヒロの姿はすぐ見えなくなる。
(…僕を見ていた?)
しばらく立ち止まっていたヒカリは、やがて踵を返して歩き去る。
すべき事は沢山ある。あの新入り教師の事は気になったが、今は他を優先しなければならない。
相手のことも良くは知らないし、調べを含めて後回しにしても良いと判断したヒカリは、しかし気付いていなかった。
人垣の向こうで今もなお、ヒロが目を細め、何か考えるような顔をしている事に。
「君は、勇敢だな」
壁に寄りかかって立つ河馬は、傍らでぺたんと座り込んでいる白豚に話しかけた。
「え?」
借りたハンカチで鼻を押さえ、方々に連絡を取っているシンイチを眺めていたヤスキは、突然何を言うのかと、眉根を寄せ
ながら巨漢を仰ぎ見る。
「その頭、友人を庇って殴られたのだろう?それに儂らが見とった前でも、砂を目に入れられたあの虎を庇ってやろうとした。
さらには、今もあの虎の事を案じとる」
「そ、それは…!さ、最初にぼくを守ってくれたのは…、あ、アトラ君の方ですし…!お、お返しっていうかですね…!」
慌てるヤスキは、不意に俯くと、ぽそぽそっと後を続ける。アトラが口にしていた言葉を思い出しながら。
「と、友達なんですから…、当り前じゃないんですかね?そういうのって…」
熟考して動いた訳ではない。咄嗟の行動だったが故に、臆病な自分に何故あんな真似ができたのか、ヤスキは判らなかった。
だが、きっとそれで正しいのだとも思える。
何故自分を助けてくれるのかと訊ねたヤスキに、アトラも友達だからと答えた。
そしてそれ以上の理由は今のヤスキ同様に見つからず、続けて突っ込んだら必死に考えてひねり出そうとしていたのだから。
「友達、か…。ふむ、確かに友達は大事だ。だが…」
ジュウタロウは路地の反対側を見遣り、壁に背を預けて手首を抱えて呻いているナカモリを見据える。
「あの通り、普段は友達だと言ってはおっても、いざとなれば見捨てられる事もザラ…。体を張って守ってくれるような友達
は、そうそうおらんのが実情だ」
河馬につられてナカモリを見遣ったヤスキは、複雑な気持ちになる。
自分を散々酷い目に遭わせて来た相手なのに、今はナカモリが不憫に思えた。
タカスギもコバヤシも自分達が逃げる事に一生懸命で、彼がこんな状態にも関わらず、振り返りもせずに逃げて行った。
その事が、ヤスキには何となく哀しかった。自分はともかく、あの三人は本当に仲の良い友達なのだろうと思っていたから。
一人だけ残されてしまった今、どんな気分で居るのだろう?心細いだろうか?寂しいだろうか?それともあの二人に腹を立
てているだろうか?
自分が受けて来た仕打ちの事も一時忘れ、ヤスキはそんな事を考える。
見捨てて逃げられた事で自分達の関係の現実を知り、打ちのめされ、孤独を噛み締めるナカモリは、今正に、ヤスキが味わっ
た孤独の一端を味わわされている。
「体を張って守るだけの強さは得難い。とてもな」
しばし黙していたジュウタロウが、ヤスキの物思いを中断するように再び口を開く。
「つ、強くなんて…、ないですよぼくは…」
誉められ慣れていないヤスキはこそばゆくなって視線を下に向け、
「上を向いておかんと、なかなか鼻血が止まらんぞ?」
と河馬に注意され、慌てて顎を起こした。
見上げる視界には、夜空とブロック塀、そして傍らの大きな河馬。
ヤスキは彼らを追って行ったアトラの事を心配していた。何せ怪我をしている上に、相手はバットを握っているのだから。
バッテリーが上がっていた携帯を、充電したまま部屋に置いて来てしまったことが悔やまれている。携帯さえあればアトラ
の番号をシンイチに教え、無理せず戻って来るように言う事もできたのに、と。
「一時怖くて流されてしまったにしても、君は勇敢だ。勇敢で、優しく、そして強い」
繰り返した河馬に、ヤスキは照れ隠しに「強くないです」と応じる。
「ぼくが強かったら、アトラ君をこんな目に遭わせなかったですし、そもそもこんな事に巻き込んで迷惑をかけなくて済みま
したです…。強いっていうならですね、先輩達の方がずっと強いです。何も持たないで、バットを持った相手にあんな風に立
ち向かっちゃうですし…」
バットを持った相手の前に素手で立ちはだかったのはヤスキも同じだ。そう考えた河馬は、しかしこの白豚があまり誉めら
れて困っているらしいと察し、反論をやめておく。
「シンイチの方はまぁ…、踏んだ場数が桁外れだからな。まともに殴られはせんだろうし、殴られた所でどうという事も無い
らしい」
あちこちへの電話を続けている親友を見遣った河馬は、次いで太鼓腹を両手で挟み、冗談めかしてゆっさゆっさと揺らして
見せた。
「儂も、多少殴られても平気だ。ほれこの通り人一倍…いや三倍は贅肉がついとるので。バットで殴られるより、悪い角度で
顎に入ったぶちかまし一発の方がよほど効くだろうな。まぁ、不覚をとったので偉そうな事は言えんが…」
腹を揺すっている河馬を見上げながら、ヤスキは思い出す。この河馬が相撲部であった事を。
「相撲してると、強くなれるですか?」
「それはどうだろうな?だが…」
河馬は口の端を上げ、ヤスキに笑いかけた。
「何かに対して懸命に打ち込めるヤツは大概強い。体はどうあれ、皆心根が強くなる」
ジュウタロウの言葉に思うところがあったのか、ヤスキは少し黙って考え込んだが、やがてぽつりと呟いた。
「…何かに…打ち込める…」
その様子を見下ろした河馬は、不意に顔を上げ、妙な声を発したシンイチを見遣った。
「トラ先生?…あの太った虎の先生か?マガキも一緒に?万引き犯は取り押さえてある?…判った!事情は判らんがまぁ現状
は判った!済まんがシゲ、団員が向かうからそのままで居るようにとマガキに言ってくれ。…えぇい、番号が判らんと面倒で
いかん!」
「アトラ君、見つかったです?」
「そのようだ」
ほっと表情を緩めたヤスキに、ジュウタロウは大きく頷いた。
ヤスキを取り巻く環境は、もうじき変わろうとしている。
そしてヤスキ自身にも変化は生まれ始めていた。
自分はきっと、変わる事ができる…。
取巻く環境を、自分の世界を、きっと変えてゆく事ができる…。
怖いのを我慢してほんの少しでも勇気を出し、手を差し伸べてくれる誰かにほんの少しでも心を開けば、状況は変わる。
人一倍臆病で、自分では何も変えられない、自分は何も変わらない、そんな風にずっと思って来て、時間が解決してくれる
ことだけを夢見ていた白豚は、やっと、そう思えるようになった。
手を差し伸べ、手を取り、手を引いてくれ、踏み出す勇気をくれたあの若虎に、今は無性に会いたかった。
辛い事はまだまだあるだろうし、大変なのはこれからだろうが、まずはアトラに伝えたかった。
ありったけのありがとうと、ごめんなさいを…。