第十五話
怪我をしているヤスキとアトラは、その後すぐに救急病院へ連れて行かれた。
捕まった二名はシンイチから連絡を受けた応援団員達によって連れられ、担任と学年主任に事情を告げられた上で、彼らの
付き添いで自宅へ送り届けられた。
すぐさまヤスキの両親も呼ばれ、アトラから話を聞いたヒロによって一連の出来事を告げられた。
アトラがヒロにも伏せていた、ヤスキが同性愛者だという事を除いて…。
『お父さんには、凄く怒られました』
「だろうな」
携帯を握り、アトラは頷く。
『お母さんには、泣かれちゃいました…』
「だろうな…」
携帯を少し強く握り直し、アトラは再び頷く。
電話越しに聞こえるヤスキの声は、あんな事があったすぐ後なのに、比較的明るくてしっかりしていた。
若虎がちらりと視線を動かせば、風呂から上がって来た肥満虎はトランクス一枚のあられもない格好。でかい尻を座布団の
上に据え、親友であったらしい狐の遺影が飾られた仏壇の前で缶のウーロン茶をぐびぐびやっている。
救急病院で手当を受けたアトラは、ヒロのアパートに来ていた。
本人は痛いと一言も漏らさないが、何せ手の甲の骨が二本逝く骨折…立派な重傷なのである。両親から頼みにされているヒ
ロとしては、せめて今晩ばかりは寮に帰らせるより、何かあった時の為に自分の目の届く所に置いておきたかった。
その為、量販店へ安ビールを買いに行った途中でアトラ達と出くわしたヒロは、今夜は買ったばかりのビールをおあずけに
している。
アトラの両親には、若虎と肥満虎が互いに電話で事情を説明した。
怪我をさせた事を詫びるヒロに、アトラの母親は、
「ヒロのせいじゃない。その子の判断で勝手に怪我したのさ、気に病まないでちょうだいな」
と、実にあっさりとした答えを返した。
一方アトラは、怪我をした不用心さを父親に叱られはしたものの、友達を守ったその行為を、そっけない言葉で一応は誉め
られている。
『明日、職員会議にかけられて、正式な処分っていうのが決まるそうですけど、たぶんしばらく停学になると思うです。まだ
仮決定ですけど、明日も登校はしませんです』
ヤスキの少し沈んだ声を聞きながら、アトラは顎を引いて頷く。
気持ちは判る。アトラもまた、ヤスキとゆっくり、改めて、二人だけで話をしたかったのだから。
若虎は少々理不尽に感じたが、共犯者というヤスキの立場は、罰則無しで済ます訳にも行かないらしい。その辺りはアトラ
もヒロから聞いている。
「元気を出せ。あいつらの顔を見なくて良いんだと思えば、いくらか気が楽にならないものかな?」
『…かもですね。でも…』
顔を見ることができなくなるのは、アトラも同じ。そう言いかけたヤスキだったが、結局口に出さずに飲み下す。
救急病院では周りに大人達が居た事もあり、ろくに話せなかったので、直接会って話をしたかった。
胸がはち切れそうなほど一杯に詰まった、感謝とお詫びの気持ちを伝えたかった。
だが、それもすぐには叶わないようである。
「…もう遅い。そろそろ寝よう」
『あ、はい…。あの、アトラ君?』
「うん?」
『いろいろ有り難うです。そして、いろいろご免なさいでした…。本当に、本当にたくさん感謝してます…!いっぱい、いっ
ぱい申し訳なく思ってるです…!』
「…一応礼は聞いておくが…。ヤスキ?謝るな。おれはおれの好きなようにやった。もしかしたら君に迷惑になるような真似
をしてしまったのかもしれないし、他の誰かがやれば、もっと上手くやれたのかもしれないんだからな」
『で、でもっ!ぼくにはきっと、アトラ君でなかったら、味方してくれなかったです…。アトラ君だったから、ぼくは…、助
けて貰えたんです…!』
「そんな事は無い。ヤスキの事を知れば、仲良くなれば、きっと誰でも助けになってやりたくなるさ。今回は、たまたまそれ
がおれだったというだけで…。もう止めろ。あんまり持ち上げられたら、照れくさくて尻がムズムズして来る…。ところで…」
アトラは一度言葉を切ると、神妙な顔になった。
「今になってつくづく思う。あの日の放課後…、先生から頼まれ事をして、偶然顔を合わせなければ、おれ達は…」
『あ。それ、ぼくも時々考えたです』
アトラの言葉を遮り、電話の向こうでヤスキが小さく笑う。
『きっとぼく達、クラスメートなだけで、殆ど知らない同士だったですね?』
「そうだな。何が縁になるか判らない」
微苦笑して応じたアトラは、名残惜しそうなヤスキとお休みを言い合い、電話を切った。
スライドさせて縮めた携帯を見つめ、アトラは気になっている事について考える。
一体どこへ隠れたのか、三人組の一人…コバヤシの行方だけが判っていない。
確認したが自宅にも帰っていないという担任や学年主任達の話を、アトラはヒロ経由で聞き、不審に思っている。
(まぁ、もうどうあがいても逃げられはしないし、もう自分の事で手一杯で、ヤスキにちょっかいを出せるような状況でもな
いだろうが…。…おれが心配するような事でもないか…)
携帯を座卓の上に置き、アトラはヒロの大きな背に声をかけた。
「腹が減った。何か無いかヒロ兄?」
負傷の割に元気な若虎を振り返り、肥満虎は口の端をつり上げる。
どうやら自分が思っているよりもずっと、この若虎はタフなようだと再確認して。
「インスタントラーメンで良いなら、湯を沸かすぞぉ?」
その頃、捕まらなかった一名、コバヤシは…。
「……………!」
目と口を限界まで開き、声にならない悲鳴を上げていた。
古びた木造倉庫の中、腕組みして立つヒカリの前で正座させられているコバヤシは、傍らに立つミギワに肩を掴まれている。
その大きな手の太い指が肩に浅く食い込んでいるのだが、その指が何らかのツボを刺激しているのか、声も出せなくなる程
の激痛を感じている。
ミギワはコバヤシが所持していた鍵で侵入し、彼をここに拘束していたのである。
頬を張られて目が覚めるなり、反抗的な態度を取ったコバヤシは、ヒカリの命で痛めつけられていた。
あわよくば…。そう思っていた。
今夜は、犯行現場を押さえ、纏めてミギワに捕らえさせるつもりでいた。
だからこそつけ回し、先行してナカモリとコバヤシが入ったCDショップに自らも潜り込んだのだが、そこで思わぬ横槍が
入った。
アトラの乱入である。
おかげで計画は多少狂ったが、ヒカリはそこから自分に都合の良い展開になる可能性も図った上で、付かず離れずアトラと
ヤスキ、そして三人組を、ミギワと二手に分かれて見張っていた。
そして、事態は彼が期待した通りに動いた。
シンイチとジュウタロウが出張った際にはもう良い目は期待できないかもしれないとも思ったのだが、嬉しい誤算で、三人
組は往生際が悪かったのである。
激痛のあまり涙とよだれを垂らして喘ぐコバヤシの顔を、ヒカリは冷たい目で見据えながら口を開いた。
「…さて、もう一度聞こうか。できれば従順に、粛々と答えてくれたまえ」
「は…!ひ…!こ、こんな事して、ただで…」
「ミギワ」
虚勢を張ろうとしたコバヤシは、しかし柴犬の命を受けたトドによって、すぐさまそれまでとは逆の肩に同じような苦痛を
加えられ、またもや声にならない悲鳴を上げる。
「あまり遅く帰るのは良くない。お互いにな。だから何度も同じ事を言わせないでくれないか」
夜十時半。ヒカリもミギワも寮を抜け出してここへ来ている。
「自分で言うのも何だが、僕は抵抗できない相手を一方的にじっくりたっぷりいたぶるのはとても好きだ。大好きだ。凄く好
きだ。…だが、残念ながら今日は見たいテレビもある」
本音を語るヒカリは、目を僅かに輝かせて続けた。
「教えてくれないか?お前達のバックに誰が居るのか。そしてお前達があの白豚のどんな秘密を握り、隷属させていたのか…」
ヒカリの興味はそこにあった。
三人が繰り返す万引きは、後半になれば応援団のパトロールに怯えながらも強行されている。それはただの欲から来る行動
とは思えなかった。
もう一つ気になっているのは、極めて臆病でも、性格的にこんな事に荷担するとは思えない白豚が、三人に対して異常に従
順だった事である。
「あ、あの…、豚は…!」
痛みから自棄になって、反抗的な態度のまま、コバヤシは吐き捨てるようにヤスキの秘密をばらしにかかった。
そして唾を飛ばしながら喚き立てる。
ヤスキが同性愛者である事を知り、それを脅しの材料に使って来た事を。
さらには、同性愛者などという気色悪い存在なのだから、そんな目にあっても仕方がないだろう?と、コバヤシはヒカリに
同意を求める。
「そうだな、同性愛者はイレギュラーな存在だ」
ヒカリは大きく頷き、同意を得られたと思ったコバヤシが目を輝かせると、
「だが、気色悪いのは、むしろあの白豚より君らの方だがな」
そうばっさり切って捨て、肩を竦めた。
「同性愛者だろうと異性愛者だろうと、僕の過ごしやすい環境と秩序さえ乱さないならどちらでも良いとも言える。下手に妊
娠などしない分、不純異性交遊と比べて問題ないとも言える。まぁ、性病感染については同じく困るが、僕に関係のない所で
なら好きにちちくりあって貰って結構。いつどこで誰と誰が尻を掘り合おうが一向に構わない」
物凄い貞操観念を淡々と口走り、コバヤシをぽかんとさせると、ヒカリはその件についてはもう良くなったらしく、話題を
変えた。
「ではもう一つ、バックに居るのは誰だ?星陵の生徒じゃあないな?星陵にはなんちゃって不良も隠れ不良も今は居ない。タ
チの悪いヤツは昨年までにそこのミギワが片付けたし、ウシオはすっかり真面目な生徒になったからな」
ヒカリのこの問いに、コバヤシはぐっと言葉に詰まった。
だが、もしかしたらと期待を込め、再び虚勢を張ってみる。
「こ、後悔するぞ?オレ達はな、あのアガツマシュウジさんの舎弟なんだぜ!?」
胸すら張って声を大きくしたコバヤシは、ヒカリが表情一つ変えなかったので、拍子抜けして二の句が継げなくなった。
「…そうか。そうだったのか」
静かに呟いたヒカリは、ミギワと視線を絡ませた。
「ウシオが随分深入りしてしまったが、まだそこまで知られていないと考えても良いか…?何にせよ、これは早急に手を打た
なければいけなくなった」
何やら深く考え込む様子で顎下を指で撫で、しばし視線をやや下に向けて黙り込んだヒカリは、おもむろに顔を上げてコバ
ヤシを見遣る。
「さて取引だ。…とは言ってもそちらに拒否権は無い。これから僕が提示する条件を全て飲め」
一方的に言い放ったヒカリに、コバヤシは目を剥いて言い返す。
「き、聞いて無かったのか!?それとも判って無いのか!?馬鹿かお前!?オレはあのシュウジさんの…ぎゃあああああっ!」
ミギワが軽く肩を捻り、懲りずに反抗的な態度を取ったコバヤシが悲鳴を上げた。
「ああミギワ、そのくらいにしてくれないか?僕も少しやりたいから」
ヒカリはそう言いながら、尻ポケットに手を入れて手帳を取り出す。
小さな鉛筆が付いたその手帳からペンだけ抜き出し、柴犬は口を開いた。
「まずは想像してみろ。これからミギワがその口を無理矢理開けたままにさせる。そして、僕はこの鉛筆をそこに入れる」
尖った鉛筆を目の前に翳して具合を確認したヒカリは、コバヤシの引きつった顔を無表情なまま眺めた。
「無論ただ入れる訳じゃあない。下の歯茎と唇の間、顎骨と肉の間に、ズグッと押し込む。歯の本数だけそれを繰り返そう。
心配するな。傷跡は外からは判らないから、見てくれの変化を気にする事は無い。ただ痛いだけだ」
ヒカリは鉛筆を右手の人差し指と親指で摘みながら、コバヤシに向かって足を踏み出した。
「や、止めろ!そんな事してただで済むと思ってんのか!?シュウジさんが黙ってないからな!?判ってんのかお前!?」
「ああ。誤解の無いように言っておくと、僕らはアイツを怖れていないから、名前を出しても脅しにはならない。残念だった
な、使えないバックで」
淡々と言いながら歩み寄るヒカリの前で、コバヤシは目に涙を溜め始めた。
「や、止めろ!止めっ…ごぇっ!?」
肩を掴んだままのミギワが、その大きな手でコバヤシの口を下から捕らえる。
顎下から挟み込むようにして伸ばされた指が、コバヤシの頬を無理矢理押し込み、頬の内側を歯と擦れさせて出血させた。
堪らずといった形で、コバヤシの顎は無理矢理開けさせられる。
暴れようとしても無駄であった。跪かされたままふくらはぎに軽く乗せられたミギワの靴裏と、掴まれた肩に食い込む指が、
コバヤシに立ち上がる事を許さない。
「じっとしていた方が良い。あまり動くと「外側」まで貫通して、取り返しの付かない傷が残るぞ?」
眼前で立ち止まったヒカリが鉛筆を握った手をゆっくり前に出すと、コバヤシは涙を零して哀願し始めた。
柴犬が本気である事が、コバヤシには判った。
そして気圧され、萎縮させられた。
先ほどまでは潜めていたのか、目の前の小柄な柴犬からは今、禍々しい雰囲気が感じ取れた。
それは、邪悪な迫力とでも言えば良いのか、悪しき圧力とでも形容すべきなのか、とにかく、コバヤシ達三人が畏怖してい
るシュウジと同質の、「まっとうでは無いプレッシャー」を発散している。
何事についても、上には上が居る。
そうコバヤシは理解した。目の前のこの柴犬は、自分達がヤスキにして来た事よりももっと、もっともっと、ずっと酷い事
を、喜々としてやるのだろうと。
おそらく相手が言いなりになるまで、絶対止めずに…。
「ひゃ、ひゃへへ!ひゃへへふははい!ふぁんへも言うほふぉひひはふ!はんへもひふははっ!ゆ、ゆうひへふははいぃっ!」
コバヤシは不明瞭すぎて言葉にならない間の抜けた声を上げ、必死に赦しを乞う。
「何でも言うことをきく…。そう言ったな?」
鉛筆を握る手を口の傍で止めたヒカリが呟くと、首を固定されているコバヤシは、代わりに目で頷いた。
「…では、まず仲間にも伝えて、今から言う事を守らせろ」
ヒカリは下らない物でも見るような目で、跪くコバヤシを睥睨した。
「一つ、アガツマがお前達のバックについている事は決して誰にも言わない事。教師にも応援団にもそれ以外にも、絶対にだ」
コバヤシは怯えながら目で頷く。
「二つめ、この倉庫の鍵を不当に作成していた事についても黙っている事。なお、鍵は僕が貰っておく。他に予備は無いな?」
コバヤシはまたも頷く。すっかり飲まれてしまい、隠し立てする気はもう無くなっていた。
「三つめ、今日僕らと会った事もまた、誰にも言うな。お前は一人で町中を逃げ惑い、結局自宅に帰る…。そういう筋書きで
行こう」
もはやこの辺りまで来ると、受入難くも何とも無い。特にリスクもないコバヤシは当然頷く。
「では四つめ、アガツマとの関係は継続しろ。ただし僕らの事は話すな。もしも向こうにこちらの事が伝わっていると認めら
れたら、その時こそ歯茎に穴を空ける」
恐怖に駆られたコバヤシが呻き声で返事をすると、ヒカリは一度言葉を切り、鉛筆を摘む手を揺らして脅しをかける。
「最後に五つめ…、シラトというあの白豚、今後一切、彼にちょっかいを出す事を禁ずる。彼がホモだという話も伏せておけ。
それは今日から僕らだけが握る秘密とする。もしも何処かからかそれがばれて、この秘密に価値が無くなった時には…」
ヒカリは腰を曲げてずいっと身を乗り出し、コバヤシと鼻が触れ合いそうなほど顔を近付けた。
「原因を調べるような面倒はしない。お前達が噂を流すかどうかしたと断定し、然るべき措置を講じるので、そのつもりでい
たまえ」
「ふぉ、ふぉんふぁっ!?」
コバヤシが声を漏らし、ヒカリはミギワに目で合図をし、手を放させる。
「何だ?意見でもあるのか?」
「あ、あいつが勝手にばれるような真似したらどうするんです!?オレ達の知った事じゃねーよ!」
ようやく口が自由になったコバヤシが反論すると、ヒカリは哀れむような表情を作って後輩を見下ろした。
「馬鹿だなぁお前…。そうなったとしても原因を調べるような真似はしないと言っているんじゃないか。だから…」
ヒカリは目を細め、見ているだけで底冷えするような、愛らしくも凄絶な、冷たい微笑を浮かべた。
「そうならないよう、君達が必死になって彼の秘密を守れ。少なくとも、僕らが放棄するまではこの秘密に価値が無くならな
いよう、せいぜい気を付けておきたまえ。嫌だと言うなら…」
嫌に決まっていた。だが飲まない訳にはいかない。
突き付けられた理不尽を、コバヤシは仕方なく受け入れる。
彼ら三人からの理不尽な要求を、ヤスキが受け入れ続けて来たように。
これから先、彼らはヤスキの秘密を口外しないだけでなく、守るために細心の注意を払わなければいけなくなったのである。
「では帰りたまえ。くれぐれも、「約束」はやぶらないように…。もっとも、酷い事ができる格好の口実を僕に与えてくれた
いマゾならば、止めはしないがね」
ヒカリがそう告げると同時に、ミギワがコバヤシを解放する。
おっかなびっくり二人の顔色を窺ったコバヤシは、
「何だ?やはり苛めて欲しいのか?」
ヒカリがそう言って冷たく微笑むと、悲鳴を上げて倉庫から飛び出して行った。
「さて、帰るぞミギワ」
ヒカリは巨漢を促して歩き出すが、相棒が何か問いたげな表情を浮かべ、その場から動かない事に気付くと、振り返って肩
を竦めた。
「何が美味しい物になるか判らない。だから件の白豚の秘密は、一応貰っておく事にしたのさ。今後何かに利用できないとも
限らないからな」
何に利用するのか?
そんなミギワの疑問を察したのか、ヒカリは「そうだな、例えば…」と呟き、薄く笑う。
「興味はあるが、もしかしたら邪魔者になるかもしれないあの虎に対して、何らかの使用方法があるかもしれない」
そして一夜があけた。
早起きしたアトラはヒロのアパートから一旦寮に戻り、制服に着替えて登校した。
慣れない左手で一所懸命にノートを取ったのは、停学になったヤスキが、自分のノートで授業の遅れをいくらでもカバーで
きるようにと考えての事である。
応援団員は口が硬い者が殆どだが、どこからでも噂は漏れる。コバヤシ、ナカモリ、タカスギの三人とヤスキの停学につい
て、校内では様々な憶測が飛び交った。
昨日電話でヤスキについて問われた事もあり、アトラも無関係では無いと察していた泥棒髭の雑種犬は、しかし虎の様子が
少々おかしい事に気付き、話題を振らなかった。
そして迎えた放課後、アトラは職員室付近をうろうろしながら、職員会議が終わるのを待った。
「マガキ」
待ちくたびれて壁に寄りかかったアトラは、横手からかけられた声に顔を上げる。
壁から背を離して会釈したアトラの右手に、シンイチは気遣うような視線を向ける。
「手は痛むか?」
包帯で覆い隠された右手を見遣り、若虎は首を横に振った。
「薬が効いているので平気です。不自由ではありますが…。折れ方が綺麗だったそうで、そうかからずに良くなるそうです」
「そうか」
顎を引いて頷いたシンイチは、アトラの前で腕を組む。
「恨んどるか?」
「は?」
難しい顔をした大牛に、アトラは首を傾げて見せた。
「ワシが捕まえねば、嗅ぎ回らねば、シラト君は停学にならなんだ」
「確かにそうでしょう。「今日の所は」ですが」
何を言うのか?と、やや呆れたように眉を上げてアトラは応じる。
「いつまでも続けられるはずもありません。いつかはばれて捕まっていた。下手をすれば、もっともっと罪を重ねてから警察
の厄介になったかもしれません。だから…」
アトラは一旦言葉を切ると、ふっと達観したような笑みを浮かべ、自分に言い聞かせるように先を続けた。
「今の内に打ち明ける事ができて、良かったはずです…。ヤスキも、あの三人も…」
それを聞いたシンイチは、「ふむ…」と頷いて顎に手を当てる。
「ワシが見込んだ通り…、いや、見込んだ以上に骨があるな、君は…」
「恐縮ですが、自分はそう大した男じゃあありません」
謙遜ではなく、アトラは心底そう思った。
タカスギに馬乗りになって拳を振り上げたあの時、アトラは確かに殺意を覚えていた。例え相手が死んでも構わないとさえ
思った。
解決策を考える面倒さを怒りで敬遠し、安易な消去法にひと一人の命を乗せようとしていたのである。
昨夜から今に至るまで、あの時の事を思い返す度、若虎は恐れ戦き、そして失望した。
己は、何と弱い男なのだろう、と…。
「謙遜するな、大した物だとワシは思う」
「先輩方には敵いません」
そうシンイチに応じたアトラは、
「…応援団員は皆、先輩のように強いひとなのですか?」
唐突に、自分でも良く判らず、気付けばその質問を投げかけていた。
「む?」
眉根を寄せたシンイチは、少し考えてから口を開いた。
「どうかな。だが「強く在りたい」と心底思う、骨のあるヤツらばかりだと、ワシは思っとる。腕っ節ではなく、心根が、な」
アトラはシンイチの目を見上げながら繰り返す。
「強く…在りたい…」
己の心の弱さを、脆さを、危うさを認識したアトラには、胸に突き刺さるような言葉であった。
「恨んでるか?」
さっきも聞いたような言葉を投げかけられ、アトラは微苦笑した。
「何故ヒロ兄を恨まなければならないんだ?」
「シラト君の停学期間が長いからだ」
非常階段の踊り場でアトラと向き合いながら、肥満虎は首を縮めた。
「あの三人は二週間…、そしてヤスキは一週間…、十分短いとおれは思う」
職員会議の結果を受け止めたアトラは、大きく頷くと、深々とヒロに頭を下げた。
「有り難う、ヒロ兄」
「うん?…結局私は、無罪を主張はできなかったんだぞ?」
眉根を寄せたヒロに、アトラは頭を下げたまま「だからだ」と応じる。
「事情はどうあれ、ヤスキは無罪放免とは行かなかった。先生方から見ればそうなんだろう?そしてヒロ兄はきっと、正しい
主張をしてくれた…」
顔を上げたアトラは、親しみの籠もった笑みを浮かべてヒロを見つめる。
「特別扱いしないでくれて、有り難う…」
一瞬きょとんとしたヒロは、次いで微苦笑を浮かべると、むっちりした胸元をぼりぼりと掻いた。
「相変わらず、甘やかし甲斐が無いなぁアトラは…」
一方その頃、相撲部の河馬は友人と並んで校内自販機前に立っていた。
稽古からあがった直後に足を運んだ、マワシにジャージの上を羽織っただけの格好のジュウタロウと並んでいるのは、影の
ように黒い被毛が印象的なヨークシャーテリアである。
「…と、そういう訳でだ、不憫に思うなら協力してくれんか?」
「不憫には…、思わない…な…、特に…」
ぼそぼそと応じながら缶のウーロン茶を啜ったヨークシャーテリアに、「そうか…」と頷くジュウタロウ。その顔には、何
事か企んでいるような笑みが張り付いている。
「小玉屋の栗ぜんざい、一週間分…」
ぽつりと呟いた河馬を、黒毛のヨークシャーテリアは前髪で隠れた目で見上げる。
「頼みを聞いてくれるなら奢ってやろう」
「…卑怯…だな…」
ぽつりと応じたヨークシャーテリアは、空になった缶をボックスに突っ込むと、踵を返した。
「…契約…成立だ…。約束は…忘れるなよ…?」
「勿論だ。恩に着る」
背中越しに言うヨークシャーテリアに頷き、ジュウタロウはにんまり笑っていた。
そして、一週間が飛ぶように過ぎた。
「明日から登校です」
白豚は少々緊張しているような面持ちで言い、向き合って座ったアトラは重々しく頷く。
「アトラ君には、感謝してるです。丁寧に取ったノート見せて貰えて、授業の中身はだいぶ判ってるですから…」
「水臭い。何でもない事だ」
照れ隠しからややぶっきらぼうな口調で応じたアトラに、ヤスキは微笑を向ける。
ヤスキの自室、折り畳み式の丸いちゃぶ台を挟んで座る二人の前には、それぞれ微糖の缶コーヒーと甘ったるい缶コーヒー
が置かれ、大皿にあけられた鈴カステラがどんと鎮座している。
あれからの停学中、ヤスキは両親に付き添われ、万引きに入った全ての店へ謝りに行った。
驚くべき事に、首謀者である三人組ですら全ての店は覚えていなかったというのに、ヤスキはだいたいの時期まで間違わず
に記憶していた。
これは、それだけヤスキの中で罪悪感が深かった証でもある。
いい顔をしなかった店主も多かったが、しかし少なくない店でヤスキの行為は許された。
それは、両親共々深く反省し、詫びて回った成果かもしれない。
そんな挨拶回りを除けば、庭にすら出ずに完全な自宅謹慎をしているヤスキを、アトラは毎日訪ねていた。
言葉だけでなく態度で、何があっても友人関係は壊れない事を証明しているとも言える。
「そうだ。痣の具合はどうだ?」
アトラが唐突に話題を変えると、ヤスキは鼻の周りを少し赤らめた。
「だ、だいぶ良いですよぅ!もう殆ど消えちゃったかもです!」
「そうか。どれ、ちょっと見せてくれ」
アトラがずいっとテーブルを回り込むと、ヤスキは慌てて首を横に振る。
「ほ、本当にもう何でもないですから!」
「だからそれを見せてくれ」
頑として聞かないアトラに詰め寄られ、ヤスキはドギマギしながらトレーナーの裾に手をかけ、シャツごとべろんと捲りあ
げた。
露出した、目に眩しいほど白い、贅肉でたるんだ腹と胸を見つめ、アトラは顔を曇らせる。
事件の翌日に訪ねて来た時も、アトラは恥ずかしがって嫌がるヤスキを説き伏せ、痣の具合を見せて貰った。
長く続いた虐待の痕跡は、短くて薄い被毛越しに、陰影のようになってうっすら見えている。被毛越しですらこうなのだか
ら、実際の濃さは想像に難くない。
確かにヤスキの言うとおり、幾分薄くなったような気はしないでもないが…。
「まだ…、目立つな…」
アトラは沈痛な声で呟く。
服に隠れて見えなかったとはいえ、気付かずに言葉を交わしあい、笑いあいながら、ヤスキの痛みに、辛さに、全く気付い
てやれなかった自分を、アトラは恥じている。
白い体に残った痣を見るたびに、己の迂闊さを、鈍感さを痛感する。
「痛かったろうに…、辛かったろうに…、キツかったろうに…」
先日と同じように、アトラは左手を伸ばした。
先日と同じように、ヤスキは一瞬身を引いた。
先日と同じように、ヤスキが身を引いた分だけ身を乗り出し、若虎は白豚の体に触れた。
垂れた乳房、乳首脇の濃い痣に触れられたヤスキは、ぴくっと体を震わせる。
「済まん。痛かったか?」
「い、いえ…、ちょっと…、くすぐったかっただけですはい…」
気遣うアトラを、ヤスキは恥ずかしげに上目遣いに見遣る。
その心細そうな表情で、恥ずかしげな眼差しで、アトラは胸を強く突かれるような思いを抱く。
あるいは、我慢強かったせいで、誰にも助けを求められなかったのかもしれない。
ヤスキ自身が語るように単に臆病なだけでなく、この白豚には辛抱強い所があって、そのせいで誰にも言えなかったのかも
しれない。
そう思う度に、アトラはいたたまれない気持ちになる。
「…済まなかったな…」
利き手ではない左手の感触がもどかしい。みぞおち横の痣を撫でながら言ったアトラに、ヤスキは「な、何で謝るです?」
と戸惑う。
「も、もう良いです?お腹出してるの…、ちょ、ちょっと恥ずかしいですから…」
「恥ずかしい?」
眉根を寄せた若虎に、白豚は小さく頷いた。
「ぼ、ぼくこんなに太ってるですし…、見られるの…、は、恥ずかしいです…。そ、それに、だらしない体してるですし…、
汗っかきですし…、さ、触るの…、気持ち悪くないです?」
「気持ち悪くなんてない。プニュプニュ柔らかくて、手触りが良い」
応じたアトラが手を広げ、丸く出ているみぞおちから臍の上までを優しく撫でると、ヤスキはブルルッと身震いした。
くすぐったさの他に、妙な感触があった。
ゾクゾクと背筋の毛が逆立ち、下っ腹の深い部分…、臍よりも下、男根の付け根のさらに奥が、切なく疼く。
言ってしまいたい。
自分が本当の気持ちを口にしたら、優しいアトラは、本音はどうあれ必ず首を縦に振る。
自分の境遇を哀れんで、傷つけないよう気を遣って、きっと無下にはしない。
おそらく今なら色よい返事が貰える。
だからこそヤスキは思う。
今は絶対に言ってはいけない。と。
ヤスキにその気はなくとも、今言ってしまえば、状況を利用して同情を引く結果になる。
誠心誠意、両手を広げて自分を受け入れ、体を張って助けてくれたアトラに対し、それはフェアではない。
白豚はそう考え、我慢できなくなる前に尻をずらしてアトラから離れ、首までたくし上げていたトレーナーを下ろし、痣を
隠す。
そして、いささか強引に話題を変え、今日伝えようと思っていた別の事について口にし始めた。
「あ、あの…。あのですね?謹慎中に時間はたっぷりあったから、色々考えたです…。ぼく、停学があけたら、やってみたい
事ができたです。上手く行くか判らないですし、続くかどうかも判らないですけど…、でも…」
黙って頷くアトラには、もうヤスキが言っている事が何なのか、だいたい見当がついていた。
停学中に一度だけ、ヤスキはある部活の事をアトラに尋ねたのである。
中身はどうあれ外見上はしっくり来る。
口には出さないものの、その部活はヤスキに似合うだろうと、アトラは思っている。
「…あれから、おれも少し考えた。打ち込んでみようと思える物ができて…」
若虎はそう言うと、目を細めて白豚の顔を見つめた。
「お互い、頑張ってみようか」
「う、うんです!」
深く頷いたヤスキとアトラは、それからも、いつまでもいつまでも、のんびりと言葉を重ねあった。
通学路の途中で待っていたアトラに付き添われ、周囲の視線を気にしながら一週間ぶりに登校したヤスキは、
「よっ!おひさシラト!聞いたぜ聞いたぜーっ!」
教室に入るなり泥棒髭に駆け寄られ、ビックリして首を縮めた。
万引きの事はもう校内に知れ渡っているだろうと覚悟していたが、面と向かって言われるような事態は想定していなかった。
周囲のひそひそ話で過ごしにくいだろうという程度に考えていたのである。
びくびくしながら警戒するヤスキに、しかしヤスヒトはやや興奮気味の明るい口調で続けた。
「ガッキー庇って、バット持った三人組にぐわーって立ち向かって行ったんだって!?くあーっ!やるねーっ!」
「…ぶひ…?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔になるヤスキ。
あっという間に男子連中に囲まれてしまった白豚は知らなかったが、この一週間でヤスキについての噂が校内を駆けめぐり、
浸透していた。
それは、要約すると「万引きを繰り返す友人達を諫めきれず、しかし彼らの未来を思って見捨てられずに、一緒に行動して
しまっていた白豚。しかし彼は、たまたま現場を見てしまったアトラに三人からの危害が及ぼうとすると、暴行を加えようと
した三人の前に決然として立ちはだかり、友達の盾になって凶器で殴られた」…という、全部が全部嘘ではないものの、大幅
に脚色された噂であった。
変に勘繰る者も居たが、退屈を嫌い、いつでも話題に飢えている高校生が、この手の話に興味を示さないはずがない。
おまけに、コバヤシ、ナカモリ、タカスギの三名の停学が、ヤスキより長い二週間である事も、この噂に説得力を持たせて
いる。
捏造が加えられた噂の中での「やる時はやる優しい子」的なヤスキのイメージは、今では多くの生徒の中で固定化していた。
「不思議だろう?黙っていたが、どういう訳か今はこうなっている」
周りに聞かれないよう、アトラがこっそり耳打ちする。
ヤスキは「な、何がどうなってるんです?」と、困惑を隠しきれなかった。
この環境の変化は、大牛経由で詳しい事情を知り、白豚を不憫に思った河馬が手を打ち、友人の新聞部員を介して噂を広め
たおかげである。
だがその事実は、全校生徒は勿論、ヤスキやアトラ、そしてあの大牛すらも知らない。
クラスメートに囲まれて励まされ、あるいは活躍の詳細を語るようせがまれ、もみくちゃにされている白豚からそっと離れ
て、アトラは自分の席に着く。
客観的に見ればアトラの手柄なのだが、若虎自身はそうは思っておらず、吹聴して回るつもりもない。
自分は裏方で良い。そう考えるアトラは、ヤスキが欲しかった物が何なのか、今でははっきりと理解している。
それは、今まではあの三人の存在が障壁になって作る事ができなかった、ごく普通の友人達…。
ヤスキが望んだ物は、彼やアトラが思いもしなかった形で与えられた。
不自由な右手を机の上に置き、教科書を鞄から机に移し替え、眼を細めてヤスキを眺めながらアトラは思う。
理不尽な責め苦に延々と耐え続けて来たヤスキに、ようやく訪れた、ごくごく普通の学生生活…。できればそれをすぐ傍で
見守っていたい。もうあんな辛い目に遭わないように、いつでも力になってやりたい…。
だが、今回の件で身に染みた事もいくつかある。
タカスギを消してやりたいと心の底から思い、そしてヒロの声で我に返ったあの瞬間に、自分の心の弱さを痛感させられた。
そして、ヤスキが置かれていた状況に対して、自分が無知で無力であった事もまた、しこりとなって心に残っている。
揺るぎない心根と、友達を守れる強さが欲しい。
そう願ったアトラは、あれからの一週間で熟考し、決心した。
自分のスタンスを変える事を。
その日の放課後、星陵相撲部の稽古場は、いささか賑やかであった。
「わぁあああん!トードー!またキカナイが苛めるー!」
「う、嘘ですからね主将っ!苛めてないっすよ!?」
入り口を潜ったトドに、カメラを片手に握った小太りな狸が飛びついて抱きつき、後ろから追いかけて来たレスラーのよう
な体型の人間男子が、慌てて言葉を遮りにかかる。
マワシにジャージの上を羽織っただけのトドは、自分の太い胴にひしっと抱きついた狸を見下ろした後、その三白眼をギロ
リと後輩である大男に向けた。
「嘘だ!苛めだ!ねぇヨギシ!聞いてたでしょ!?」
ミギワに抱きついたまま首を巡らせた狸は、奥の壁際でメモ帳を手にしているヨークシャーテリアにそう声をかけた。
「おれらは裸で撮られてるんだからさー、フェアじゃないよなぁ?さぁコダマ先輩も脱いだ脱いだ!」
黒毛のヨークシャーテリアの口から自分そっくりの声が飛び出すと、レスラー体型の大男が青くなる。
「…と…、要求する事は…、まぁ…、一種の…ハラスメントかも…しれません…」
「ひー!裏切り者ぉっ!」
声真似に続いてぼそぼそと私見を付け加えたヨークシャーテリアを振り向き、文句を言うレスラー体型の大男。
その背後に、狸をそっと離した巨漢がのしっと歩み寄った。
「ぎゃー!ぎぶぎぶ!ぎぶだってば…っぐぅえ!」
トドに背後から太い腕でチョークスリーパーを決められ、太鼓腹に乗せられる形で持ち上げられ、足が地面から離れた大男
は、息もままならずに青かった顔を紫色にする。
「また何かやらかしたのか?キカナイ」
背後からの声に狸が振り向けば、開いたままだった引き戸を潜る大柄な河馬の姿。
「聞いてよカバジュー!またハラスメントだよ!嫌になるよ!恥ずかしい写真盗撮してばらまいてやりたくなるよ!」
頬を膨らませてプンスカ怒っている背の低い童顔の狸を見下ろし、ジュウタロウは微苦笑した。
人数不足から廃部も危ぶまれている写真部の狸は、どうにも子供っぽくて愛くるしく、同級生の大男がからかいたくなる気
持ちも判らないでもない。
主将のトドとも親しいこの三年生の狸、新聞部の取材に協力する形で、いわば下請け撮影にちょくちょく訪れるのだが、そ
の都度レスラー体型の大男にちょっかいをかけられている。
「あ、あの…。もしかして、取り込み中だったですかね…?」
主将におしおきされている同級生を眺めていた河馬は、背後からおずおずと声をかけられて振り向いた。
「いや、いつもの事だ。気にせんで良いよ」
そう応じた河馬が招き入れたのは、制服姿の白い豚。
極端に太っているのでシルエットそのものは大きいが、首を縮めておどおどしているせいで迫力が無いその豚を見て、狸は
「あ」と声を漏らし、ヨークシャーテリアは前髪に隠れがちな双眸を僅かに細めた。
周囲の相撲部員達も河馬が連れて来た白豚に注目し、気付いたミギワは後輩をつるし上げ、かつ締め上げたまま、くるっと
体の向きを変えて来訪者を見遣る。
一瞬にして稽古場から、締め上げられている大男の呻き以外の声が消えていた。その白豚が最近校内でちょっとした噂になっ
ている生徒だと、皆すぐに気付いたのである。
「あ、あの…。ご迷惑でなければ、お願いがあってですね…、その…、お邪魔したですけど…」
注目されておどおどと肩を縮めた白豚の横で、河馬が預かっていた一枚の用紙を顔の前に吊してみせる。
「入部希望者です。主将」
ジュウタロウが告げると、ミギワはやっと後輩を解放した。
尻から地面に落ちて噎せ返っているレスラー体型の後輩には目もくれず、ジュウタロウから用紙を受け取ると、ミギワは記
載内容を子細に確認する。
そして、読み終えるなりその三白眼をギロッと白豚に向けた。
ビクッと身を竦ませたヤスキから用紙に目を戻したトドは、何事か考えるように目を細めた後、やがてゆっくりと頷いた。
「主将は入部を認めるそうだ。まぁ、最終的には顧問が決定するが、とりあえずは…」
寡黙な主将に代わって述べた河馬は、傍らの白豚を見下ろして口の端をつり上げ、ポンと、大きな手で肩を叩いてやった。
「ようこそ、相撲部へ」
これまで自分がして来た事を考え、入部希望を突っぱねられる可能性も高いと踏んでいたヤスキは、思いの外あっさり受け
入れられ、一瞬きょとんとする。
それから我に返ると、慌てて深々とお辞儀した。
「ふ、ふつつか者ですが!よっ、よろしくお願いしますですっ!」
興奮で鼻の周りをやや赤らめ、顔を上げたヤスキは、しかし考え込んでいるような表情のトドと、その周囲に集まって入部
届を見つめている部員達、そして狸とヨークシャーテリアの部外者二名に気付くと、急に心配顔になった。もしや記載内容に
不備でもあったのかと考えて。だが…、
「…シロアンっての、どうです?」
レスラー体型の大男がそんな事を呟くと、ミギワは熟考するように目を細くする。
「白土安基…。白に安だし、白くてあんこ型だし、どうすかね?」
しばし黙考していたトドだったが、後輩からそう告げられると、ゆっくり大きく頷いた。
「よっし!今日からお前、シロアンな!」
「はひっ!?」
レスラー体型の大男にビシッと指し示され、戸惑いながら自分の顔を指さしたヤスキは、傍らの河馬へ助けを求めるような
視線を送った。
「あだ名だ。儂ら相撲部は皆あだ名で呼び合っとる。…まぁ、大相撲で言うところの四股名のような物と思ってくれ」
そういうのは四股名と違うと思う。一瞬そう思ったヤスキだったが、
「じゃあ、これからよろしくな、シロアン!」
「びしびし行くから、覚悟しとけよシロアン!」
「シロアン、いい体してっけど相撲経験は?」
部員達からさっそくシロアンと連呼され、戸惑いつつも新しいあだ名を受け入れる。
一方、さっそく部員達に取り囲まれて稽古場奥の見学スポットへ連行されてゆくヤスキを見送りながら、トドは考える。
さすがにヤスキの入部はヒカリがし向けた事ではないだろうが、ジュウタロウが助けに入った状況を覗き見ていたあの柴犬
は、あの時点で既に、こうなる可能性も考えていたのではないだろうか?
だからこそあの夜、コバヤシに対し、ヤスキについての口止めもおこなったのではないか?と…。
しばし考え込んでいたトドは、やがてゆっくりと首を横に振った。
考えるだけ無駄に思えた。何せ多くの場合において、ヒカリは常人とは思考形態がかなり異なるのだから。
付き合いは深いが、あの柴犬の事はミギワにも完全に理解できているとは言い難い。
敵には容赦しないし、下手に味方も作らない。損得に敏感かと思えば、時折自分の得になりそうにない事までする。
自分が得をできるかどうかの他に、面白いかどうかという事もまた、彼の動機に成り得るのだろうとは思うが。
同時刻、アトラは左手に一枚の用紙を持ち、大牛の背後に付き従って歩いていた。
学校敷地内、運動部の部室が並ぶ一角に建つ、応援団の団室内を。
ロッカールームのドアがある通路を進み、ミーティングに使われる長机が並んだ部屋を抜け、シンイチは足を止める。
そして、そのドアの前で大きく息を吸うと、三度ノックし、
「ウシオです。入団希望者を連れて来ました」
と、よく通る大きな声で来訪を告げた。
「入れ」
程なく室内から返ってきた、ややくぐもっている声を耳にし、黒い縁取りがあるアトラの耳がピクッと動く。
ドア越しのためにはっきり聞き取れなかったが、その声には聞き覚えがあるような気がした。
「失礼します」
断りを入れてドアを引き開け、一歩踏み入った位置で一礼したシンイチは、大柄なその体を二歩分だけ脇へ退けた。
視界がひらけたアトラの目に、綺麗に整頓された団長室が映る。
団旗と星陵の校旗がポールを交差させて突き当たりの壁に掲げられ、棚には表彰状やトロフィーが並んでいる。
旗の手前には両袖のスチールデスクが置かれており、部屋の主はその脇で、団服の上着に袖を通している最中であった。
その、特注サイズの長ランボンタンを着込む人物の後ろ姿を凝視し、アトラは口を半開きにする。
「…寮…監…!?」
他の団員より一回り小さな団服をビシッと着込み、裾を翻して向き直った柴犬は、絶句したアトラの顔を眺め、どこか面白
がっているように口の端を僅かに上げる。
「ここでは団長だ」
見知った顔…自分達の寮の代表が応援団長だったなどと知らなかったアトラは、しかし小柄な柴犬のきびきびした振る舞い
や、纏っている凛とした空気を思い、ややあって納得した。
心の強さは、体の大きさと無関係。
体格に恵まれていても、自身の自制心の危うさを実感した今のアトラには、ヒカリが団長である事にも納得が行った。
「団長もご存じの真垣亜虎ですが…、応援団への入団を希望しています」
少し嬉しそうに、そして得意げに胸を張ったシンイチがそう告げると、ヒカリは鷹揚に頷き、アトラを眺める目を細くした。
「ウシオの口説きに、ついに折れたか」
「言葉だけなら、どうなったか判りません。…ですが、行動で魅せられてしまいました」
背筋を伸ばして応じた若虎は、深々と頭を下げる。
「先輩達の強い心根に憧れました。どうか自分を鍛えて下さい」
ほくそ笑むヒカリと、満足げなシンイチ。
応援団員になる。それが、ヤスキと共に過ごせる時間を減らしてでも実践したいと願った事。
応援団という立場から誰にでも力添えし、誰にでも手を差し伸べてやれるよう、心身を鍛えて備えておく。
もう二度と、救いを求める誰かの手に、視線に、気付かず見過ごしてしまう事のないように。
そして、ヤスキのように救いを求める誰かを、しっかりした足場へ引き上げてやれる力を持てるように…。
それが、若虎の望みであった。
この日よりアトラは、一足遅れて応援団員となった。
そして彼は応援団員として、一人の男として、この学び舎を巣立つその日まで、幾多の苦難に立ち向かい、陰に日向に星陵
の生徒達を支えてゆく事になる。
後々アトラは星陵の団史にその名を刻み、数々の偉大な先達と並び称され、ある二つ名で知られる事になるのだが、それは
また、別のお話…。