エピローグ

アメンボのように水面を滑るボートが行き交う川面を、風が渡る。

細波が立った水面を裂いて滑るように進んでいた一艘のボートの上で、漕ぎ手の狼はオールを下ろし、大きく息をついて岸

辺を見遣った。

生き生きとした緑色の雑草が茂る土手の上、舗装されてサイクリングロードになっているそこに、二つ、やや大きい人影が

あった。

整った顔立ちの狼は、口の端を笑みの形に吊り上げ、オールを片手で押さえつつ右手を高く伸ばす。

それに応じるように、人影の一方…立っているがっちりした黒ずくめが肩の高さに手を上げ、隣で座り込んでいるずんぐり

して幅のあるもう一方が、おずおずと控えめに手を上げた。

休憩に入った狼を見遣りながら、上下ともに真っ黒な学ランを着込んでいる若虎が口を開く。

「シゲのヤツ、一年のくせにシングルスカルのエースだそうだ。ルームメイトとして鼻が高い」

事件から二ヶ月。暑さも本格化してきた七月初旬、しかしアトラは制服の上下をビシッと着込んでいる。

まだ団服を着られる立場にない一年生は、団の活動は学生服でおこなう。上の事情で練習が早めに引けた今日も、常々そう

であるようにアトラは自主的に己を戒めており、帰寮するまでは制服を脱がない。

そんなストイックかつ暑苦しい若虎の横で、茂った雑草に幅のあるぼってりした尻を据えている白豚は、胸までボタンを外

したワイシャツをばたばたと扇ぎ、胸元に空気を入れながら頷いた。

「すごいですねぇ。ぼくとは大違いですよぅ」

アトラ同様、急遽稽古が休みになったヤスキは、全身についたタプタプの贅肉のおかげで暑いのは大の苦手。

ぽってり厚い右手には、学校からここへ来るまでの道のりで空にしてしまったミネラルウォーターのボトルが握られている。

凛とそびえる若虎と、対照的にぐったりしている白豚を、川面を撫でて冷やされて来た緩い風が、やわらかなその手でくす

ぐるように撫でて行った。

この二ヶ月間、アトラとヤスキは、それぞれが選んだ部活に打ち込み、それなりに充実した日々を送っている。

アトラはこの二ヶ月でより真面目に、よりお堅くなったものの、天性の茶目っ気とでも呼ぶべき微妙なユーモラスさはその

まま。

応援団員としての役割を真摯に受け止めているせいか、はたまた寮に戻ってまでヒカリとシンイチの目があるせいか、たた

ずまいは一層凛として、一年生でありながら二年の先輩にも負けない風格と威厳を備え始めている。

だが、泰然としているように見えるアトラにも、実は気になる事があった。この二ヶ月。例の三人組をちょくちょく団室で

見かけるのである。

団長のヒカリに呼ばれているようなので、おそらくはマークし、定期的に様子でも窺われているのだろうと思ってはいるの

だが、帰り際にいつも見る、あの三人の怯えたような様子が気になっている。

もう一つ気になるのは、あの三人組の視線だった。

あれ以来ヤスキに関わらなくなっているものの、時折向けられる視線は、観察しているようにも見える。

悪意は感じず、むしろびくびく様子を窺っているようで、それがまた腑に落ちない。

もっとも、白豚本人は気付いているのかいないのか、全く話題に出さないのでアトラには判らないが。

一方、この二ヶ月でアトラ同様にヤスキも変わったのかというと、…これがあまり変わっていない。

相撲部に入り、日々の稽古でだんだん鍛えられて来てはいるものの、生来の争い事を好まない性格故か、稽古の申し合いは

勿論、他流試合ですら一度も勝った事が無い。

真面目に稽古に打ち込むだけでなく、先輩のアドバイスを受けて体を大きくしようと思い立ち、毎回目一杯の食事を摂るよ

う心掛けているのだが、筋肉が付き難い体質なのかプクプクと太っていくばかり。相変わらず勝ち星が得られない日々が続い

ている。

それでもアトラは、さっぱり強くなれないと嘆くヤスキに、いつも、そして今日も、笑いながらこう言う。

「ヤスキは強くなっている。相撲が強くならなくとも、他の所できちんと強くなっているとも」

「他の所って、どこですか?」

「気持ちとか…か?たぶん」

「曖昧ですねぇ…」

正直な気持ちを言えば、アトラはヤスキが強くなれなくとも良いような気がしている。

(ヤスキと一緒に居るヤツが強くあれば、それで良い。ソイツがヤスキをフォローしてやれる程度の強さと余裕を持っていれ

ば、きっとそれで良い)

世の中全員、誰でも強くなれる訳ではないし、強くなれる程度とてたかが知れている。

同じ高校生、強いと言っても弱いと言っても、せいぜいどんぐりの背比べ。

だから自分はその中で、ほんの少しだけ強く、ほんの少しだけ余裕があり、困っている誰かに手を差し伸べられるどんぐり

で居たい…。

アトラのそんな気持ちを知ってか知らずか、ヤスキはため息をついた。

「アトラ君やミナカミ君やタモン君は良いですよ。アトラ君はまぁ勝ち負けないですけど…、ミナカミ君はああですし、タモ

ン君だって試合に出させて貰えないだけで、部内じゃほとんどの先輩負かしちゃうらしいじゃないですか。ぼくなんか毎度ご

ろんごろん転がされるばっかりで、転がした事一回も無いですよ?」

「勝ってみたいのか?」

口にしたアトラにとっては素朴な疑問でも、これは大幅にズレた質問である。

「当たり前じゃないですかぁ?応援団だって、負けさせる為に応援してる訳じゃないでしょう?」

呆れたように見上げて来たヤスキに、「盲点だった。それもそうだな」と若虎は頷く。

「「それもそうだ」って…。今までどんな気持ちで応援して来たんですか?」

「うん?まぁ…、選手が悔い無く全力を出し切れるように…と、そんな気持ちで、かな?」

ああ、そういうのもアリか。と、アトラの返答に納得してしまったヤスキは、呆れ顔に微苦笑を浮かべた。

「勝ち負けを超越したトコに居るですもんねぇ、アトラ君は…。ぼくだって、弱いなりに一回で良いから勝ってみたいですよ」

アトラは少し考えた後、「お?」と、何か思いついたように口を丸くすぼめて声を漏らす。

「勝たせてやろうか?」

「はい?」

唐突な言葉に戸惑い、垂れ耳を後ろに寄せつつ眉根を寄せたヤスキに、アトラは厚い胸をドンと叩いて続ける。

「おれで良ければ相手になってやる。自慢じゃあないが相撲は素人だ。真剣勝負をしても勝てるだろう?」

名案だと言わんばかりに、乗り気になって縞尻尾を揺する若虎。

その横で、ヤスキは小さくため息をついた。

アトラの身体能力と運動神経は並の生徒の範疇に無く、ヤスキと比較すれば大幅に上回っている。体重ではヤスキが勝って

いるものの、ウエイトがハンディになりこそすれ、到底有利に働くとは思えない。
しかも、もしも勝てたとして、素人に一

勝したところで何を喜んでどう誇ればいいのか?そして負けてしまった場合、そのやるせなさはどうすれば良いのか?

その辺り諸々が判っていないナチュラルズレトラは、「善は急げだ」と、もう勝負する事が決まったかのようにヤスキを急

かした。

「…遠慮しとくです…」

「ん?どうして?」

「どうしてでも遠慮するです…」

「友達なんだ。相撲やプロレスごっこぐらいするだろう?遠慮するな」

ヤスキは顔を顰める。この虎の「友達なんだ」発言は、その一言でかなりの範囲の物事をカバーする。

(懐が深いって言うか無頓着って言うか…、とにかく「友達なんだ」で大概の事を許容しちゃうんですよねぇ…)

胸の内で呟いたヤスキは、「まぁそのおおらかさも魅力なんですけど」と漏らし、アトラに首を傾げさせた。

「遠慮するですよぅ。勝てそうになったら申し込むです」

「そういう事なら…」

素人の自分にまで負けるかもしれないほど自信が無いのか?と思ったアトラだが、元々無理強いは好きでない。こうまで言

われては引き下がるしかなかった。

「ところで…、今日は暇なんだが、時間はあるか?」

アトラが話題を変えると、待ってましたとばかりに耳をパタッと動かし、ヤスキは頷く。

「なら、ここからだと寮が近いし、たまには来るか?」

「えっ?い、いいえ!ぼくの家じゃだめです!?」

「心配するな、シゲはあの通り部活中だ」

アトラが顎をしゃくると、ヤスキは改めて川の上に目を遣り、狼がボートですいすい滑っている様子を眺める。

ヤスキはシゲが苦手だった。

理由について語られていないアトラには、それが何故なのか、正確には判っていない。

たった一度の出来事で白豚が負ったトラウマは極めて深刻で、人間のみならず、美形の狼にも寄り付けなくなってしまった

事などは…。

ただ、顔の良い生徒に近寄り辛そうにする事から、傍に居て見た目を比べられるのが嫌なのだろうと、若虎は勝手に解釈し

ている。
そして思う。その点、体もごつくて厳めしい顔つきの自分は、ヤスキにとっては並ぶに丁度良い相手なのかもしれ

ない…などと。

「良いヤツだぞ。シゲは」

「判ってるですけど…。でもやっぱりちょっと苦手なんです…」

申し訳なさそうに応じるヤスキに、アトラは「まぁ仕方ない」と呟いた。

「おれもネコが苦手だからな。とやかく言える事でもない」

「ネコと比較です?」

「ん?おかしいか?」

そう聞き返す辺りが既におかしい。…と思ったものの、ヤスキは言及しないでおく。

「まぁとにかく、いつまでも眺めていたらシゲも気になるだろう」

「そうですね。そろそろ行くですか」

億劫そうに「よいしょっ…!」と声を漏らしつつヤスキが腰を上げ、アトラは口の端に微かな笑みを湛えて踵を返す。

先に歩き出したアトラの横に並びながら、ヤスキはそっと、その横顔を見遣った。

あの日、ホモだと知られてしまった時にも、アトラは取り乱さなかった。

そして、あれ以来その事について口にした事は一度も無い。

それでもヤスキは覚えている。アトラが嫌悪感も、蔑みの視線も、全く見せなかった事を。

好きになってしまうかもしれない。

勢いから、半ば脅しのように言ってしまったあの言葉に、アトラは確かに応じた。

嫌われるよりよほどいい、と…。

あれは何だか、好き嫌いの種類が少し違う回答だったような気もしたが、しかしヤスキにとって免罪符となっている。

知らず知らずに渇いていた自分にもたらされた、否定以外の言葉が…。

「ん?どうかしたか?」

「い、いいえっ!何でもないです!」

視線に気付いたアトラが首を曲げると、ヤスキは慌てて目を前へ向けた。

アトラと居るだけで楽しい。

あれから親しいクラスメートが何人もできたが、それでもヤスキにとって、アトラは一番の友達である。

深く思う。この関係を失いたくない、崩したくない、変えたくない、と…。

だからこそ、事態がすっかり沈静化し、生徒が話題に上げなくなった今でも、本当の気持ちは言えなかった。

告げる事のできない、切ない恋心を抱いたまま、ヤスキはそれでもアトラの傍から離れられない。

離れず、しかしくっつき過ぎず、微妙な距離を保って、一線を越えてしまわないように振る舞っている。

近くに居られるだけで、拒絶されないだけで、幸せで居られるから…。

「思い出したんだが…」

アトラが唐突に口を開き、ヤスキは小首を傾げて再び友人を見遣る。

「あの…、コバヤシの偽造メールでのすれ違いの時、な。おれはてっきり、送ったメールでご両親の事に触れたのが、ヤスキ

の機嫌を損ねる原因になったのかもしれないと思った」

「へ?何でです?そんな事で機嫌悪くしたりなんか…」

言いかけて口ごもったヤスキをちらりと見遣り、アトラは「ほらな」と呟いた。

「前もそうだったが、ご両親の仕事について訊いた時、少し言い難そうにしていたな。ひょっとして、あまり知られたくなかっ

たんじゃあないのか?」

アトラの推測を聞かされて観念したのか、ヤスキは小声でボソボソと白状し始める。

「お父さん達のお店…、チャーシュー麺が人気なんですよぅ…」

「ああ、美味かった。あのチャーシューの味で、ヤスキのご両親じゃないかと何となく察したんだが…」

「何も思わなかったです?」

「…?何が?」

眉根を寄せたアトラを、ヤスキは鼻をフゴッと鳴らしながら見遣る。

「小学校の時、よく馬鹿にされたです…。ぼくのお肉を切って店で出してるんじゃないか?って…」

アトラは一瞬きょとんとした後、小さく吹き出す。

「笑い事じゃないですよぅ!その頃のあだ名、チャーシューとかボンレスだったんですからぁ!」

「わ、悪い…!しかし…、くくっ…!下らん…!ふくくっ…!」

肩を小刻みに震わせて笑うアトラをジト目で睨み、むくれたヤスキは「ぶふーっ!」と、激しい鼻息を漏らした。

「だからあんまり言いたくなかったんですよぅ!もう気にしてないけどですねぇ、それでも絶対笑われると思ったんです!」

「言ってやれば良かったのに。切り売りしていたらもっと痩せていると」

「あー!おデブだと思って馬鹿にしてるですね!」

「いや馬鹿にはしていない」

「してるですぅ〜!絶対してるですぅ〜!どーせ思ってるんですよぅ、豚肉好きだからそんな太ってるんだって!」

「…豚肉が、好きなのか?」

「あー!今度は「共食いだ!」とかそういう事考えてるですねー!?」

「いや思っていない。それは流石に被害妄想だろう…」

土手を行く二人の間では、いつまでもいつまでも、途切れる事無く声が上がっていた。