第一話

話をさせてくれるかい?

こんな時に何だ、と思っているかもしれないけれど、こんな時でもないと話すこともなさそうだから。

返事も相槌も要らない。独り言だと思って聞き流してくれていい。勿論、眠くなったら寝てくれていい。

出来の悪い子守歌…、うん。まぁ、そんな感じで…。

お互いに知らない事ばかりだけれど、私の事を少し知って貰いたいとも思うんだ。

…そう…、あの日…。あの日も今日と同じで、雨が降っていたな…。




 雨が降る。

 サァサァと涼しげな音…ではない。

 ザァザァと激しい音…でもない。

 ビシャビシャと、雨どいを通って集められた三月末の冷たい雨は、地面を這い、少しずれた位置にあるゴミで詰まり気味の

排水溝にジョボジョボと流れ込む。そんな、不快に耳を突くやかましい水音に、派手な、そして湿った転倒音が重なった。

「げうっ!」

 喉に物が詰まったような声を上げたのは、体格の良い黒熊。ブレザー姿から学生と窺えるが、ピアスがずらりと並んだ耳に、

モヒカンのラインで染めた頭など、まっとうな学生らしい風体とは言えなかった。

 車線を増やす拡幅工事中の市道沿い。休工中で人気もない、雨水があちこち溜まる、おざなりの整地で歪んだ砂利敷き駐車

場。
小型のショベルカーやトラックが前に停められた、プレハブの現場事務所前。雨水と泥にまみれて転がるのは黒熊だけで

はない。他の二名、金髪の人間と派手な私服姿のシャムネコも似たような有様になっている。

「…まだやるか?」

 頬を押さえて痛みに呻く黒熊が、かけられた声で視線を上げる。

 見上げるそこから、曇天を背にして仁王立ちするシェパードが、冷たい視線を投げ落としていた。

 肘まで腕まくりしたグレーの長袖トレーナーは、雨に濡れて深い色に変じ、筋肉質な体に所々吸い付いている。下は学ラン

のズボンで、履いているのは擦り切れて薄汚れた白いスニーカー。

 背が高い、肩幅もあって骨太な、逞しいシェパードである。よほど頑丈なのか、いい音を立てて横っ面に数発入っていたに

も関わらず、堪えた様子が全く無い。

「ひっ…!」

 すっかり怖気づいた三名が首を振ると、シェパードは顎をしゃくった。

「出すもん出して、消えろ」

 立て続けに水音が跳ねる。

 砂利を蹴立て、泥まみれの三名が慌てて逃げ去った後には、財布から根こそぎ引き抜いて放られた千円札や、引っくり返し

てぶちまけた硬化が散らばった。

 三名の姿が雨霧の向こうに消えて見えなくなると、シェパードはペッと唾を吐き捨てる。殴られた頬がジンジン痛む。ズッ

と鼻をすすれば、鼻血の生臭さが口内に溢れる。血が混じった唾液は吐き出されるなり雨に叩かれ、たちまち砂利の隙間へ消

えた。

 シェパードは這い蹲るようにして残された金を拾い集め、無造作にポケットへ押し込んでゆく。

 忍足慶吾(おしたりけいご)。それがシェパードの名前。

 この春休みが終わると中学三年になる少年なのだが、その顔に幼さはない。その面構えを若いながら精悍な顔と取るか、幼

さを無理矢理削ぎ落とした痛ましい貌と取るかは、意見が割れるところである。

 やがて、金を集め終えたケイゴは身を起こし、空を見上げ、不快げにチッと舌打ちを零す。

 少年は、雨が嫌いだった。体が濡れる。濡れれば冷える。冷えた体を温めるのは、しかし少年には簡単な事ではない。服を

乾かすのもまた手間がかかる。

 内側が切れた頬に触れ、軽く顔を顰めたケイゴは、駐車場から工事中の道に出て、接続を断つ車止めを跨いで歩道へ戻った。

 腕でグイッと額を拭い、鬱陶しげに振って滴を跳ね飛ばし、ずぶ濡れの少年は独り、雨にけぶる道を歩いてゆく。



「ありがとうございましたー!」

 頭を下げ、走り出す引越し業者のトラックを見送った中年は、「ふぅ…」と息を漏らすと首にかけていたタオルで顔をゴシ

ゴシ拭った。

 ジャージ姿の中年はシェパードである。だが、極端な肥満体である上に、マズルが短く見える頬膨れの丸顔で、黒い部分が

広く、ひとが良さそうな垂れ目気味の双眸。おまけに耳が前に向かって折れて逆三角形の蓋になっているので、体のサイズは

ともかく幼犬か、模様だけシェパード柄な別種の犬のように見えてしまう。

(やっと一段落か…)

 見上げれば、頭上に張り出したアパート玄関のひさしに切り取られた、雲が分厚く垂れ込めた空。

 シトシトと雨粒を落とし続ける曇天を眺めながら、しばらく汗を拭っていたシェパードは、エントランスの中へ引き返す。

 半日かけて引越しは終わったものの、荷作りを解いていないダンボールがまだ山積みのまま。新居でやるべき事はまだまだ

残っていた。

「…とはいえ、ひとまず寝られるようにはなったんだし…、ここらで一息入れようか」

 エレベーターに乗り、作業がある程度進んだ達成感と安堵から独り言を漏らす中年。のんびりした口調と体型から、ひとは

良さそうだが隙だらけにも見えてしまう。

 手代木喜慶(てしろぎきよし)。それがシェパードの名前。

 この春から本社勤務への栄転が決まり、転勤で越して来たサラリーマン。仕事ができる男ではあるのだが、到底敏腕には見

えない風貌である。

 掃除されて前の入居者の痕跡が全く無くなった部屋は、玄関を潜り、五歩ほどの廊下を抜けた突き当りがリビング。

 引越し業者のロゴが入ったダンボールが詰まれたリビングは、キッチンと繋がった構造。部屋数こそ少ないが若者向けのマ

ンションで、内装もレイアウトもなかなか洒落ており、キッチン手前はホームバー形式でカウンターが設えられていた。

 ダンボールを一つ跨ぎ越したシェパードは、食器類を詰め込んだ事を黒ペンで記しておいた箱に手をかけ、ガムテープを剥

がし、梱包ビニールを掻き分けて取り出すと、洒落たカウンターを改めて眺めながら回りこんで、流し台の蛇口を捻る。

 出始めにジュボボッと音を立てた水道の、何日か留まったままだっただろう水の悪さが気になったキヨシは、しばらくその

まま水を出しっ放しにした。シンクの排水溝に吸い込まれる水が、渦を巻いて音を立てる。

 通電したばかりの冷蔵庫のドアを開ければ、中には持ち込んだ2リットルボトル…ウーロン茶一本が寂しそうに立っている。

半端に冷えたウーロン茶のボトルを出したキヨシは、冷蔵庫の製氷トレイを引っ張ってから「あ、流石にまだだよな…」と苦

笑いした。

 冷えた物が飲みたかったが喉の渇きには抗えない。グラスを洗ってウーロン茶を注いで、キッチンカウンターの椅子に腰掛

けると、喉を鳴らして一気に飲み干す。そうして水分が入ったら、腹の虫が目を覚ましたように鳴いた。

(出前にしようか…。いや、今どんな店があるのか全然知らないし、メニューも判らない)

 腰を上げて顔を拭い、壁のパネルに顔を近付け、不慣れな空調リモコンを弄ってドライに切り替える。

 ジメジメした空気も汗ばんだ体も気になる。シャワーを浴びて冷たいビールでも飲みたいところだが、作業はまだまだ残っ

ているし、冷蔵庫の中身はウーロン茶のボトル一つだけ、買いに行かなければ酒も無いので、外食がてら何か買って来ようか

と考えながら、キヨシは窓の外を見遣った。

「すっかり様変わりしたなぁ…」

 レースのカーテンを押さえ、水滴だらけの窓越しに見下ろす曇天下の景色は、雨にけぶってグレーに見えた。駅がある市街

中心部は、このマンションからは運河と、それを挟む木々のラインを越えた向こうに見える。

 駅を遠く見遣り、そこから道路を目で辿り、昔は田畑だった位置が住宅地に変わっている事を確認したキヨシは、運河を越

えたすぐのところも賑わっていそうだと目星をつけた。遠目に見てもコンビニやファーストフード店、ファミリーレストラン

の看板が見えて、チェーン店の酒屋に三階建ての立派な中華料理店まで確認できる。

(開発が随分進んでいたんだな…。昔はあの辺りに店とか無かったはずだ)

 キヨシはかつてこの町で暮らしていた事がある。転勤によりずっと蒼森に居たのだが、十三年も経ったら街並みは以前の面

影を半分しか残していなかった。

 やがてキヨシはおもむろにダンボールの一つに歩み寄ると、ガムテープを外し、発泡ビニールで包んでおいた写真立てを取

り出した。

 すっかり色が褪せたウッドフレームの写真立てをキッチンカウンターの上に置き、写真をじっと見つめる。

 写真の中では、まだ痩せていた頃の自分と、眼鏡をかけた人間の女性が並んで笑っている。その間で、シェパードの赤ちゃ

んが目を閉じて眠っていた。

「………」

 かつての家族の写真を見つめ、キヨシはため息を漏らす。

 キヨシがこの町で暮らしていた時は、家族と一緒だった。

 だが、結婚三年目で妻とは離婚し、幼かった息子の親権はあちらが持った。養育費を振り込み続けているが、息子とはもう

ずっと会わせて貰えていない。我が子の姿を最後に見たのは、ようやく伝い歩きを卒業した頃の事である。

「…傍に越して来たなら、会わせて貰えるかな…」

 写真立てを手に取り、キヨシは背中を丸めて呟いた。元妻からは、会えば息子が動揺する、遠い場所に暮らす父の元に会わ

せになどいかせられない、などという理由で引き合わせを拒否され続けている。

 もう一度ため息をついて写真立てを戻すと、キヨシは小さくかぶりを振った。

(こっそり覗きに行くぐらいなら…、バレないだろう…)

 元妻と我が子の住所は知っている。もし妻と顔をあわせても、通りかかった風を装う事もできるだろうと考えながら、成長

した我が子の顔をしばらく想像して…。

「ありゃりゃ…」

 ぐぅ、と腹がなって苦笑いする。

「さぁ飯だ!歩いた方が健康的だけど、不慣れだから道に迷ったらとても困るしな。うん!」

 本当は迷いそうもないと思っているのだが、不精さに独り言で理由をつけたキヨシは、タクシー会社の番号を調べて電話を

かけると、サンダルをつっかけて傘を掴み、部屋を出る。

「作業もあるし、栄養がつくもの食べないといけないな。よし、ラーメンだなラーメン。チャーシューも必要だ。健康的な食

事も大切だけど、エネルギーが要る時はその限りじゃないからな。うん!」

 エレベーターに乗り込み、選ぶメニューに独り言で理由をつけた丸いシェパードは、肥えた体が左右に揺れるユーモラスな

歩き方で外へ出て行った。



 弱い雨音と運河の水音が、車道を行き交う車の音と競い合う。

 ノイズのように耳をくすぐる水の音に囲まれて、ケイゴはハンバーガーにかぶりついた。

 百円で買えるコンビニのハンバーガー。味はいまひとつだが腹が膨れれば文句は無い。ケイゴは餓えた野犬のようにガツガ

ツと、味わう事もせずハンバーガーを胃袋に詰め込み、牛乳を啜る。

 ケイゴが居るのは、石垣が見事な運河沿いに整備された、長い遊歩道の入り口近くに建つ東屋である。

 舗装路が続き、東屋が所々にあるとはいえ、蛇行する道は落ちた松葉で半ばまで埋まっており、雨降りではなお心寂しく見

える。昔は人出もあって家族連れの姿も見られたのだが、中心部の開発や住宅街の整備に伴い、町の発展から取り残される格

好になって、この遊歩道はゆっくりと時間をかけて寂れてきた。

 しかしケイゴは、だからこそここを選んでいる。ひとがあまり来ないから煩くなくていい、と。

 最後のハンバーガーに齧りつくと、ケイゴはポケットに手を突っ込み、巻き上げた金の残額を確認した。

(詰めれば一週間はいける…)

 この金額で、給食を食べられる一学期までなんとか保てるだろうと、少年は頭の中で計算した。

 ケイゴは自他共に認める不良である。ケンカし、カツアゲし、補導もされる。だが、その生活を変える気はないし、どうし

たら変えられるかなどとも考えない。

 ケイゴにとっては、ケンカもカツアゲも飯にありつくための手段だった。母親から放任…否、放棄されているケイゴにとっ

て、食事とは家に帰れば出てくる物ではない。母親はいつも違う男を家に引っ張り込んでおり、家に帰っても邪魔にされる。

食事の支度など、最後にして貰えたのはいつだったのかすら思い出せない。

 だから、食うために奪っている。それが犯罪だろうが何だろうが知った事ではない。

 だが、自分の中で最低限の線引きだけはしている。奪う相手は自分と同じ不良のみ。そういった連中のみを標的とするのは、

自分と同じ、奪われる覚悟ができていると見なしているから。

 幸いにも飯の種には困らない。この町は発展に伴い、近隣から調子付いた不良学生やチームが流れ込むようになっていたの

で、獲物はいつでも居る。おまけに、ケイゴは運動神経も良く、体格にも恵まれており、やたらと頑丈な体をしており、ケン

カが非常に強いので相手が高校生でも社会人でも負けなかった。

 問題があるとすれば、ケイゴの事が評判になり始め、姿を見て逃げる手合いが出てきたという事。逃げる相手…つまり「覚

悟ができていない」と感じる相手を襲うのは、自分で決めたルールに反するので、飯の種にはできない。

 最後のハンバーガーを半分、具だけ食べてパンを残したケイゴは、東屋のベンチに座ったまましばし待った。時折視線を巡

らせ、ツツジの植木や柵、茂った雑草などを見遣っていたシェパードは…。

「ミー…」

 か細い声に反応し、耳を震わせて首を巡らす。

 雑草も植え込みも区別がつかなくなっている花壇の中から、白くて小さな物がヒョコッと顔を覗かせた。

「生きてたか…」

 ケイゴが呟き、その姿を認めた小さな白は、雨で湿った落ち葉の絨毯の上を軽やかに駆けて、東屋の下に入ってフルフルっ

と身を揺すり、前足で濡れた顔を擦る。

 それは、白猫だった。一歳に満たないだろう、まだ成獣になっていない若い猫である。

「食いカスぐれぇしかねぇぞ」

 残していたパンの、ソースがついていない部位を指で千切っているケイゴの横で、白猫はベンチによじ登る。そして、あて

がわれたパンをウニャウニャと、声を漏らしながら食べ始めた。

 ケイゴは無言でその食事を見守る。

 少年がこの白猫と出会ったのは、去年の秋の暮れだった。その仔猫は親とはぐれたのか、それとも誰かに捨てられたのか、

この東屋のテーブルの下に蹲っていた。

 警戒心が無いのか、それともやはり飼い猫が生んだ子が捨てられたのか、白い仔猫はケイゴにすりより、心細そうに鳴いて

いた。

 無視していたのだがすっかり懐かれてしまい、かといって塒を変える気にもなれず、しばらくは追い払い続けた。

 だが、まだ自力ではろくに餌を取れないらしい仔猫が弱っていく様を見続けて、ついに餌をやってしまった。ひとりぼっち

の仔猫に、うっかり自分を重ねてしまって。

 それからは冬に備えて、遊歩道に捨てられていた物を寄せ集め、底に布切れなどを敷いて箱型の寝床を作ってやった。

 雨や雪に備えて屋根を大きくした住処が完成した直後、ちらちらと降り出した雪を見て、ケイゴは仔猫に「コナユキ」と名

前をつけた。

 何とか冬を乗り切ったコナユキは、少しずつ大きくなっている。その内にすっかり大人の猫になって、自分が来なくなって

も平気になるだろうと、少年はぼんやり考える。

「…そろそろ行くぜ」

 コナユキの食事を見届けて、喉の下に指を入れてくすぐってやってから、ケイゴは腰を上げる。

 もう追いかけ癖が無くなったコナユキは、ベンチの上に行儀良く座り、傘もささずに立ち去る少年を見送った。



(やっぱり、帰りぐらいは歩いた方が健康的かな…)

 運河を越える橋を目指し、食事帰りのキヨシはよっこらよっこら歩いてゆく。帰りがけに酒屋に寄ったので、右手には傘、

左手にはウイスキーの瓶と缶ビール、甘い缶コーヒー、ビーフジャーキーやスルメなどの肴がぎっしり詰まったビニール袋。

 運河の土手を越えて跨ぐ格好になるので、橋に至る道は手前からそこそこ急勾配の坂道になっており、運動不足のシェパー

ドはやや息を切らしている。

 パラパラと傘を叩く雨の音。ヒチャヒチャと足元で鳴る浅い水溜りの音。行き交う車が舞い上げた飛沫と足元で跳ねた雨粒

が、ジャージの裾を濡らした。

 欲張って纏め買いした酒類が重くて、指にビニールの持ち手が食い込んで、手が痛くなってきたキヨシは傘と入れ替えで左

右持ち変えた。タクシーを拾えばよかったかもしれないと、早くも少し後悔している。

 一度手元に落とした視線を前へ向け直したキヨシは、脇道…遊歩道から出てきたのだろう若い犬獣人が目に入って、道の真

ん中から少し脇に寄る。

(おや。傘もささずに…)

 少年は雨に濡れそぼっていた。被毛はすっかり水を吸い、腕まくりしたグレーのトレーナーは濃く変色している。かといっ

て急ぐでもなく、雨から逃れようともせずに歩いてくる。

 降り出してしばらく経つのに、傘もなしに…、と気になったキヨシは、少年の顔を窺った。

 チラリと、少年もまた鋭い目を中年に向ける。険のある排他的な眼差しに一瞬怯んだキヨシは、しかし直後に記憶の隅を刺

激された。

「…ん?」

 声を漏らして立ち止まる中年。同じく、訝るような目つきで立ち止まるずぶ濡れの少年。

(この子、何処かで…)

 そのシェパードの精悍な顔立ちに、キヨシは何故か見覚えがあった。

「…なにガンくれてんだ…?」

 鼻面に小皺を深く刻み、威嚇する少年。

 恫喝の低い声でビクッとしたキヨシは、しかし謝って逃げ出そうとするその寸前に気が付いた。

 その少年の顔が、自分の父親の若い頃に似ているという事に。

「ケイ…ゴ?」

 迷いと疑いを置き去りに、思わず口に出た。

 そして、声になって出たその名前が、自らの耳に届いた瞬間に、思い浮かんだ事がはっきりと固まった。

 目の前に居るのは、まだ幼い時分に別れたきりだった、我が子である、と…。

「ケイゴ…なんだね…!?」

 キヨシが一歩踏み出す。感極まって声が震えた。

 直前までの、もしかしなくとも怖い子かも…、という怯えは消え去り、自然に浮かんだ笑みが少しずつその顔を染めてゆく。

 顔の紋様も変わり、毛色も変わり、幼い頃の面影など残っていなかったが、それでも、間違いないと確信した。

 そしてケイゴは…、

「………」

 無言で中年の顔を見つめ、考え込む。

 この大人は自分を知っているらしい。

 しかし誰だったのか思い出せない。

 何処で会ったのか思い出せない。

 敵か、そうでないモノか、ケイゴはいつも大人を見る時と同じように、睨むような眼差しを向けたまま考える。

 だがキヨシは、ケイゴのそんな疑問にも警戒にも気付かない。

「すっかり大きくなって…!」

 再会した我が子に歩み寄ったキヨシは…。

「判らないかい!?お父さんだよ!」

 刹那、少年の目が見開かれた。

 唸ったのは風。

 弾けたのは雨粒。

 響いたのは重い音。

「…え…」

 贅肉がタプつく腹部に、手首まで埋まったのは硬く握り込まれた右の拳。

 我が子の両肩へ手をかけようとしていたキヨシは、腹にめり込む強烈なボディブローを無防備に喰らっていた。

「えっ、えぶぅっ!」

 カツンと、キヨシの手から離れた傘が柄から落ちて音を立てる。背を丸めてくの字に体を折り、前屈みになった中年の喉の

奥から、胃の内容物がこみ上げた。

 堪らず膝から崩れて四つん這いになったキヨシの脇、地面に落ちたビニールの中身がガヂャンと派手な音を立てる。

「うえおっ!えぼぉっ!おげぇっ!」

 ビシャビシャと、えづくキヨシの下へ吐しゃ物がぶちまけられ、食ったばかりの麺が踊る。

 吐しゃ物の異臭と瓶が割れて流れ出たウイスキーの匂いが、雨霧に混じって立ち込める中、ケイゴは無言で、父と名乗った

四つん這いの中年の背を睨みつける。

「…ちっ!」

 中年の背中へ舌打ち一つ吐き落としたケイゴは、ポケットに手を突っ込み、落とされた傘を乱暴に蹴り飛ばし、キヨシの脇

を足早に歩き抜ける。

 蹴られてひしゃげて壊れた傘は、掲げられている遊歩道の案内図の脇で、植え込みに乗ったまま雨風に揺れていた。

「はっ…、げふっ!うえふっ!…はぁっ…!ふぅ…!ふぅ…!」

 吐くものがなくなり、ようやく落ち着いたキヨシが顔を上げたその時には、ずぶ濡れの少年の姿はどこにも無かった。

「ケイ…ゴ…」

 涙と雨で視界が曇る。吐瀉物の異臭が漂う中、膝を汚して跪いたまま呻くキヨシの声は、雨と車の音に掻き消された。



 ガゴンゴゴンと、けたたましい音を立ててペットボトル用の回収ボックスが転がる。

 アパート前のゴミ集積場、力任せにボックスを蹴りつけて電柱にぶつけたケイゴは、肩をいからせて舌打ちし、アパートの

階段へ向かった。

 折り返す急な階段に水滴と足跡を残し、三階まで上がって廊下に出て、雨にけぶる景色を吹き曝しの通路から眺める。

 立派なマンションや商業施設が競い合うようにどんどん増えたので、景色は数年で大きく変わった。以前はここから眺めら

れていた運河の近辺も、今ではもう見えなくなった。

「……ちっ…!」

 舌打ちを漏らして歩き出したケイゴは、目当てのドアの前で止まると、ドアノブを掴んで引き開ける。

 玄関が暗い。居間の窓にはカーテンが引いてあるのか、正面に見えるドアのガラスも暗い。母が寝ているのだろうと考え、

音を立てないように靴を脱ごうとしたケイゴは…、

「………」

 耳を立て、ドアを見つめる。

 喘ぐ声。女の声。その嬌声がどういった時に漏れる物なのか、少年は知っていた。十歳になる前から…。

 視線を下げれば、見覚えのない黒光りする革靴が玄関の端に脱いである。

 ゴキブリのように脂ぎって光っている。そう感じるソレを薄汚い物を見る目で睨み、ケイゴは踵を返して廊下に出ると、音

を立てないようにドアを閉めた。

 足早に階段まで戻り、登る。

 最上階である五階を過ぎてまだ登り、突き当たった屋上ドアの前で腰を下ろし、鍵がかかった扉に背を預ける。

 狭い踊り場には掃除用具が入った縦長のロッカーと、乾いた雑巾が雑に詰め込まれたバケツがあるだけ。風が吹き上がって

来る肌寒い場所だが、ケイゴにとっては馴染みの場所の一つだった。

 物心がついた時から、母が男を連れ込んでいる時はここに来て、膝を抱えて過ごした。ガラの悪い「客」に、目つきが気に

入らないと暴力を振るわれる事も多かったので、そういう風にしてきた。

 最近では腕っ節も強くなったので、一方的にやられる事は無いだろう。だが以前一度、酔っ払った客に絡まれた時に叩きの

めしてやった際には、金蔓を失った母がヒステリーを起こしたので、以降もそれまでと同じように退散する事にした。

 まだ小さかった頃は、アパートの住人が見かねて声をかけた事もあったのだが、他人への不信から排他的かつ攻撃的な性格

になった少年はその内に忌避されるようになり、母親の素行や暮らしぶりもあって、親子揃って避けられるようになった。今

では目も合わせられず、声をかけられる事などない。

 ケイゴはじっと、そこに座り続ける。濡れた体が冷え、衣類の感触すら不快だが、辛抱強く体温で乾くのを待つ。

「…ちっ…。何なんだ、あいつ…」

 階段のどん詰まりに、舌打ちと呻きが小さく響いた。

 する事も無いので考えてしまう。そう望まないのに思い出してしまう。

 

―お父さんだよ!―

 

 見覚えの無い中年が唐突に口走った言葉が、興奮して上ずった声が、耳の中で響く。

 浮かんでいた表情は、驚きと…、あれは何の感情だろう?喜びだったのだろうか?

 そんな事を考えるケイゴは、険しい顔をしていた。

 父の写真は家にある。数枚しか残っていないが、昔何度か見た事がある。

 そこに写っていたのは、気のよさそうな顔で笑う、やや垂れ目気味の、背が高いスマートなシェパードだった。さっき声を

かけてきた、だらしなく肥え太った中年とは似ても似つかない。…と感じながらも、印象に残っている目元だけは少し面影が

あるとも思えた。

 ケイゴには父親と過ごした記憶はない。両親が離婚した当時のケイゴは小さ過ぎて、顔も声も憶えていない。

 一緒に居たのだろう、程度には思っている。母と自分と他の誰かが一緒に暮らしていた、と。だがそれは「居たはずだ」と

後から補填されたイメージに過ぎないのかもしれず、どんな男だったか、どんな言葉を聞いたか、どんな接し方をされたかは

記憶に無い。

 恋しいと思った事はない。居ないのが当たり前として育ったのだから。ただ、昔一度だけ純粋に気になり、周囲の子供には

父親と母親が居るのに自分には母親しか居ないのは何故なのか?と母に訊いてみた事はある。

 その時聞いた母の答えは、短くて、さらっとしていた。

 

―あのひとはアタシとケイゴを捨ててったの―

 

「…今更…」

 ボソリと低く声が零れた。

「今更「お父さんだよ」、だと…?」

 イライラした。ただひたすらに。



「いたたたた…」

 背中を丸める中年シェパード。上半身裸になってあらわになった腹を、両手で抱えて痛みに呻く。

 やっとの思いで部屋に帰り着いてから、リビングに出しっ放しだったダンボール群を押し退けて床に隙間を作り、痛みがひ

くまでしばらく横になって休んでいたのだが、服を脱ぐだけでぶり返してきてしまった。

 濡れた服を苦労して体から剥がし、ズボンも脱いで全裸になったキヨシは、初めて使う洗面所で鏡を見る。肥えて真ん丸い

体は、傘を蹴り壊されたので浴びる羽目になった雨と、苦痛で滲んだ油汗で濡れそぼり、あちこちで棘のように尖った毛束が

跳ねていた。鈍痛に疼く腹は、中身を全部吐き出したにも関わらずちっともへこんでいない。

 背丈はそれなりにあるのだが、キヨシは妙にずんぐりして見える。骨太な骨格と肉付きのせいで幅があり、胸の出具合や手

足の太さなどを総合的に見ると、コロッと太り過ぎた子供のような体型だった。サイズはともかくとしてだが。

「う~…」

 痛む腹を撫でながら、キヨシはバスルームに入り、風呂の蓋を外す。舞い上がった湯気が充満し、浴室はたちまち空気の色

を変えた。

 洗面器を買い忘れた事に気付いて、シャワーヘッドを取って屈み、掛け湯しながらキヨシは思い出す。

 あの少年は間違いなく自分の息子だと、確信している。

「…突然の事で、驚かせてしまったかな…」

 肩からかけたシャワーが体表を伝い落ちる。胸と腹の曲面を滑り、閉じて揃えて膝をついた脚が作った谷間を、一条の流れ

になって下ってゆく。その水音に、ゴモゴモとキヨシの呟きが重なる。

「すっかり大きく、立派になってたなぁ…。痛いけど、あんなに力がついたんだなぁ…」

 自分を苦しめる鈍痛すらポジティブに受け止めて、キヨシは胃の辺りを円を描くように撫でた。

 シャワーを止め、湯船に身を沈め、温まった事で腹の痛みが一時強くなり、軽く顔を曇らせながら、中年は成長していた息

子に想いを馳せる。

(今日はビックリさせてしまったようだけれど、次は落ち着いて話せるかな?)




あの時の私は、判っていなかったんだ。

突然の再会がもたらす物は、喜びだけじゃない。混乱、衝撃、戸惑い、何を感じるかは皆違う。

あの時の私は、ケイゴがどう感じているのか全然判っていなかったんだ。駄目なプラス思考で、ね…。