第二話

「あ。おはようございます」

 一晩中降った雨がやっと止んだ午前九時。清掃用作業服姿の中年女性がモップを片手にお辞儀すると、「やあ、おはよう」

とキタキツネが応じる。

 スーツ姿の、なかなかに整った顔立ちをした中年の男性である。甘いマスクに優しそうな笑み、理知的な眼差し。やや細身

な一方で被毛にはボリュームがあり、平均よりやや身長が高いのでスラリとして見えた。

 ナイスミドルと言える風貌の狐は、「「Y」さん。今日は早いね?」と形の良い眉を疑問の形に顰めた。

「ええ、その…」

 中年女性は掃除していた通路を節目がちに見遣る。

「「かなり」でしたからね…」

「「かなり」だったか…」

 十数分前まで、正面口からこの近辺、そして地下へ向かう通路などは床が泥だらけだった。

 通路に並ぶドアは閉められており、中に居る者へ会話が聞こえる事はないのだが、パートで入っている清掃の女性を本名で

呼ぶ事は、ここでは許されない。姓名と関係なくランダムに割り振られたアルファベットで呼ぶ。

 ふたりが居るのは、警察署内の取調室が並ぶ通路。ここには、現行犯でしょっ引かれた者から過失により連れて来られた者、

そして罪の有無が曖昧な容疑者まで訪れる。中には精神が破綻している者や、逆恨みや八つ当たりで犯行に及ぶ直情的な者も

居るため、清掃などの委託業務に携わる民間人のプライバシーが守られるよう様々な決まりがあった。

 この中年女性に限らず、清掃委託を受けている業者は清掃用の作業服と帽子、マスクを常に着用しており、署内で「オキャ

クサン」とすれ違う時などは会釈の格好で顔を伏せるよう対処が言い渡されている。

「最近多いですね」

「春だからね。ところで、今回は何人だったかな?」

「七人ですかね?でも十四人だったかもしれないし、四人くらいだったかも」

 狐が訊ねたのは、深夜の乱闘騒ぎで連れて来られた若者達の数である。内情を詳しく知る事は建前上好ましくない清掃員の

女性は、そんな自分の立場を弁えた上で、最初に言った本当の数に加えて前後に大きくずれた人数を口にしている。

「なるほど、よく判らないな」

 口ではそう言いながら、女性の気回しに目で笑って礼を伝える狐。伊達に十年も清掃勤務をしていない。実際にはその人数

に病院に担ぎ込まれた分も加わるので、十名を越えるだろうと計算した狐は…。

「それと警部」

「うん?」

「「足りて」ませんよ」

「…そうか。済まないね」

 女性のさりげない一言に目礼した。

 狐がある少年を気にかけている事は、女性も知っている。気をつけていてくれた事に感謝して、狐はその場を後にした。足

が悪いようで、右足が取り残されるように長く接地し、爪先がすぐには上がらず引き摺られるような歩き方である。

(オシタリ、最近は大人しくしている…、訳でもないんだろうな)

 一番奥の取調室、そこで自分を待っている相手のもとへ向かいながら、狐は苦笑いした。

 鈴木正孝(すずきまさたか)。まだ33歳なので、警部としてはかなり若い。とはいえ、厳密には一介の警官とは少々異な

る特殊な官職なのだが、そこまでは清掃員の女性には知らされていない。そして…。

(あの一匹シェパードめ…、中学を卒業するまでには落ち着けば良いんだが…)

 ケイゴにとっては、持ち場で最も苦手な「オマワリ」でもある。

 ガキの担当部署でもねぇのに首突っ込んできやがって、と邪魔臭く感じているが、マサタカの方は柔らかな物腰と穏やかな

態度でしつこく関わり続ける。それは職務上という理由だけではなく…。

(最近また騒がしい連中が増えてきている。下手な関わり方をしなきゃいいんだが、難しいかな…。何せアイツは、昔の俺と

同じで無駄に刺々しいからなぁ…)

 親近感と、懐かしさからである。


 午前九時半。

 霧が濃く出た白い風景の中、ずんぐりした中年シェパードがえっちらおっちら歩道をゆく。

 ジャージ姿なので一見するとジョギングしているようにも見えるが、全く走らない。しかし散歩というには急いでいるよう

な早歩きで、何とも中途半端な移動速度である。

 キヨシは昨日息子を見かけた遊歩道傍の橋へ辿り着くと、他より少し高くなっているそこから、道の向こうへ視線をやる。

 行き交う車。思い思いに行く歩行者。息子の姿は見つからない。

(学校は休みの時期…のはず。今日も来てくれないかな…)

 昨日は驚かせてしまったが、次はもう少し柔らかくアプローチしてみよう。そんな事を考えながら、キヨシはしばらくその

場で息子を探していた。


 それと同時刻…。

 少年は首を上体ごと捻り、曇ったガラス越しに外を見る。

 雨はすっかり止んだと確認して、ケイゴは強張った体を伸ばしてほぐした。硬くて冷たい床で眠るのには慣れている。

 結局、母の「客」はそのまま泊まっていったので、ケイゴは屋上手前の踊り場で一夜を明かした。

 階段を降りて部屋にゆき、音を立てずにドアを開ける。昨夜何度確認してもそこにあった黒い靴は、今度こそ玄関から無く

なっていた。

 居間は暗い。母が寝ているのだと考えて、起こさないように風呂場へ向かうと、乾燥機のドアを開けて脱いだ服をかける。

汚れているし湿ってもいるのだが、洗濯機や乾燥機を使えば音で母を起こしてしまう。機嫌が悪くなった母のヒステリックな

声は聞きたくないので、ケイゴは静かに浴室に入った。

 換気扇を回していなかった風呂場は、一晩締め切られていたので床も壁も湿っている。天井には水滴が無数につき、電灯の

反射で光っていた。

 チラリとユニットバスを見るが、蓋は開けない。母が連れ込んだ男が浸かったかもしれない湯を使う気にはれない。

 シャワーヘッドを掴んで、湯加減を調整して、椅子を綺麗に流してから座ったケイゴは、壁のフックにかけたシャワーから

湯を浴びる。

 シャンプーやボディソープ、リンス類や洗顔石鹸など、浴室には様々な品が置いてあるものの、全て母の物。人間の女性用

の物ばかりな上に、何より母が好んで使う品々の強い香りが好きではないので、ケイゴがそれらを使う事はない。

 冷え切った体が寒さを思い出したように震え、ケイゴは自分の体を抱くように両腕を掴んだ。

 頭から首、背中、胸、腹…、少しずつ温まってゆくのを感じながら、少年は曇った鏡を見遣る。

 顔が判らないシェパードのシルエットは、滲んでぼんやりとした輪郭になっており、本人よりも丸く見える。

 それで、思い出した。昨日会った中年の事を。

「………」

 不快さに顔を顰め、乱暴に、掻き毟るように頭を洗う。

 何もかも、掻き落として流してしまいたいというように…。



「先に車だったかなぁ…」

 ホームセンターのショッピングカートを押しながら、中年はひとりごちる。

 洗面器や洗剤、石鹸、調味料類など、足りなかった物を買い求めに来たのだが、思った以上にかさばってしまった。蒼森で

乗っていた自家用車は走行距離もかなり行っていたので、引越しを期にこちらでの買い替えを考えて手放している。

 カー用品もここで揃う事を確認し、レジに向かうキヨシはふと考えた。

(ケイゴはどんな車が好きかな?やっぱり格好良い方が…)

 使い手のあるライトバンにしようか、軽快な軽にしようか、それとも洗練された最新の…、などと色々思い浮かべながら、

キヨシは会計を済ませて店を出る。

 スーパーとホームセンター、回転寿司と薬局が集合したそこは、共有された広い駐車場が県道に接している。車の出入りも

多く、バス停も目の前で、駐車場内にタクシーも待機しているのでアクセスが良い。タクシー乗り場に向かい、列に並んだキ

ヨシは…。

(…いや、やっぱり歩こう…)

 視線を下げ、ベルトのバックルを隠す腹を見て思う。

 再会できた息子に格好悪い父親と印象を持たれるのは不本意。きっと少し痩せた方が良い。でもできればキツくない程度の

運動で。無理は体に良くないし。意外とちょっと歩くだけで結構痩せるかも?

 そんなユルユルの信念で歩き出したキヨシだったが…。


「…ちゃんと噛んでんのか?」

 キャットフードをウニャウニャ唸りながら食べる白猫。見下ろすケイゴは片手に掴んだハンバーガーを齧る。

 今日与えているのは、コンビニで買ってきてやった缶入りのキャットフードである。以前家から持ち出したピンク色の浅い

ボウルは、こういった物を与えるときにはコナユキの食器として重宝していた。

 一晩降った雨で草葉はまだ湿っているが、東屋のベンチは濡れていない。晴れ間の空を見遣るケイゴはシャツが生乾き。こ

のまま気温が上がる事を期待した。

 食べ終えた後もボウルを丁寧に舐めていたコナユキに見上げられると、視線に気付いたケイゴは顔を顰めた。

「毎回は無理だぜ。オレも腹減ってんだ」

 カツアゲして得る子供の小遣いレベルの金額からすれば、ネコカンは馬鹿にならない買い物となる。それでも買って来てし

まうのは、コナユキが缶のフードを一際喜ぶから。

 自分はコイツが可愛いのだろうか?と、ケイゴは時折自問する。哀れみのような感情があるし、憎らしいとも思わない。し

かし気にかけてはいるが可愛いと思っているのかどうかはピンと来ない。いわゆる猫好きな人種の好意などとは違う気もする。

マイナス評価でない事だけは確かだが。

 やがて、自分の飯を食い終えて立ち上がったケイゴは、ボウルを植え込みの中にしまうと、「じゃあな」と声をかけてその

場を離れる。

 返事をするように小さく鳴いたコナユキは、行儀良くお座りしてその背中を見送った。


(こんなに…、体力…、落ちてたっけ…!?)

 運河を渡る橋を行く手に眺め、太ったシェパードはヒィヒィ息を漏らす。

 七百メートルほど歩いた辺りで息が上がり、自分の判断を後悔したキヨシは、かさばる荷物を両手に吊るして坂を登る。

(でも…、このぐらい…、運動…、したら…!結構…、痩せたんじゃ…!)

 また甘い事を考えつつ、帰ったらシャワーを浴びて冷たい物を…と想像を巡らせたキヨシは、

「!!!」

 ピタリと足を止め、大きく目を見開いた。

 かなり先、ゆく手に交わる遊歩道から現れたのは、昨日会った少年…。我が子ケイゴである。服装も昨日と同じなので間違

えようもない。

「ケイゴ!」

 キヨシは声を張り上げた。そして次の瞬間、声の大きさに比例して息を大きく吸った途端に、唾が気管にヒュッと吸い込ま

れ、むせ返った。

「げっふげふ!えひゅっ!げほごほっ!」

 体を折り、涙目になって激しく咳き込む中年シェパードに気が付いたケイゴは、視認するなり盛大に顔を顰め、キヨシが居

る方と逆へ足早に去る。

「ふぅ、ふぅ、…あ!」

 咳がおさまったキヨシが顔を上げたその時には、ケイゴは既に橋の向こうの下り坂にさしかかり、頭しか見えていない。

「ケイゴ!待って!」

 駆け出したキヨシは…、

「おわうっ!?」

 足がもつれて派手によろけ、脇の植え込みへ半身をめり込ませた。

「いたたたた!って、ケイゴ!」

 めげずに立ち上がった中年は、妙に崩れた前のめりの姿勢で坂道を登ったものの、ケイゴは既に橋を渡りきって曲がり、ス

タスタと遠ざかって小さくなっている。

 追いかけるのを諦めて項垂れたキヨシは、ため息を零して立ち尽くす。

 あからさまに避けられていた。昨日は驚いてあんなリアクションを取っただけで、落ち着いて話せれば…と期待していたの

に、明らかに息子は関わりたくなさそうな態度だった。

「どうして逃げるように…」

 ポソリと呟いたキヨシは、

(いや、待てよ?年頃だし、外で大きな声で名前を呼ばれるのは恥かしいのかもしれない…。自然な大きさの声をかけるのが

ベターか…)

 アプローチの方法に問題があったのだ、と考えてウンウン頷く。

(だとしたら、どうやって声をかけるかだ…。避けられないように距離を詰める?隠れて待ち伏せする?うん。これは良いか

もしれないな…)

 そんな行動を取れば、傍目に見てとっても不審者である事までは考えないキヨシ。

(それにしても…、ケイゴは昨日もここから出てきた?…うん。そのはずだ)

 家の近くの通り道…などではない。むしろケイゴと元妻が住んでいるはずのアパートからは少し遠いと思える距離である。

では何の用事があったのだろうか?と、キヨシは遊歩道に足を踏み入れた。

(何年ぶりだろう?懐かしいな。って、うわ…)

 入り口に立ったそこで、キヨシは立ちすくんだ。

 冬を越え、枯れてなお立ち続けるススキが運河側の手すりの向こうで首を振る。

 歩道には松の枯れ葉が堆積して、大部分が隠れてしまっている。

 嫌に白くなった刺々しい雑草の葉が、そこかしこで侘しくカサカサと揺れている。

 頭上では枝を好き放題に伸ばした松が腕を組み、空の大部分を埋めている。

(こんな風になってしまったのか…)

 人々から忘れ去られたような寂しい風景を前に、キヨシは昔の景色を思い浮かべて重ねた。

 かつてここは、こんなに暗くはなかった。こんなに寂れてはいなかった。人通りもあり、家族連れも居て、子供を乗せた自

転車を走らせる母親などの姿もあった。何より、まだ小さかったケイゴを連れて来た事もある、市民の憩いのスポットだった。

(ケイゴ、あの頃の事を覚えていて…。あ、いや、違う?)

 考えてもみれば、当時ケイゴをベビーカーに乗せて連れて来ていたのだから、記憶があるとも思えない。

(それなら一体ここで何をしていたんだろう?使っている通り道…とも思えないな。県道が並行して走っているんだ。ここを

歩くならあっちを使うだろうし…)

 曲がりくねった遊歩道を生活道にするとは考え難い。何か用事があって来ていたのではないかと、キヨシは目に付いた東屋

の方へ歩きながら想像する。
そうしてベンチにドッコラショと腰を下ろして、ひと気の無い遊歩道をなんとなしに見渡し、キ

ヨシはふと気が付いた。

(単に寂しい…とも決めつけられないな。侘び寂びがある、趣深い寂れ方と言えない事もない。案外、緑に染まる季節には気

持ちが良い場所かも…)

 そんな事を考えていた中年は、

「ミー?」

 何故か疑問形にも聞こえた小さな声で、折れ耳を震わせる。

 やけに低い声の出所…東屋のテーブルの下を覗くと、そこには小さな白い猫が居た。

「…ニャンコ?」

 警戒するでもなく傍に寄った白猫が足に身をこすり付けて喉をゴロゴロさせ始めると、キヨシは「随分人懐っこいなぁ君?

飼い主さんが心配するだろう?」と苦笑する。まさか野良がここまで懐っこいとは思わなかったので、近くで暮らす飼い猫だ

ろうと考えた。

(あ、そうか!お気に入りスポットか!ニャンコと触れ合える憩いの場所!)

 キヨシはそんな考えに辿り着く。

 懐っこい白猫を見ていてふと思い出した。赤ん坊の時分、ケイゴはよく犬や猫を目で追って、小さな手を伸ばしていた。触

りたがってグズッた事もあった。

(動物好きな少年に育ったのかもしれないな…)

 途端に合点が行った。この妙に人懐っこい白猫は、もしかしたら…。

「君、私がケイゴの親だって…、あの子と似た匂いがするって、そう思ったのかい?」

 白猫は、屈み込んだキヨシが手を伸ばしても逃げなかった。それどころか出された手に自ら頭をこすり付けて、ゴロゴロと

喉を鳴らし始める。まるで、ずっとそうして貰ってきた相手に甘えるように。

 白猫の首下に太い指を入れて、優しく撫でてやりながら、キヨシは嬉しくなって目を細めた。

「そうか…。君には、私とケイゴは似ているように感じられるのかぁ…」


 足早に歩道を行きながら、シェパードの少年はムスッとしていた。

(…何でオレが逃げ隠れしなきゃならねぇんだ?)

 納得が行かない気分になる。が、大声で名を呼ぶあの中年とは、顔もあわせたくないし話もしたくなかった。

 確信があった。また父親面で話しかけて来られたら、昨日と同じように拳が出てしまう、と。

 父が居なくなった日の事は、父母が別れた日の事は、記憶に無い。幼過ぎて覚えていない。だからケイゴにとって父親とい

うのは、「確かに居るのだろうがどんな奴か知らない」存在だった。

 想像してみた事はある。父親が居たなら、自分の生活も、取り巻く環境も、今とは違っていたのだろうか?と…。美味い食

事を家族で囲んで食べて、何処かへ一緒に出かけて、普通の家族が皆やっているような事も経験できたのだろうか?と…。

 だが、そんな想像が少年を幸福な気分にする事はなかった。

 目の前の現実を諦観と苛立ち半々に受け入れ、日々を過ごす。未来への期待も、希望も、夢もなく、ただ生きるために生き

る。それだけがケイゴに許された事。

 だから苛立っていた。

 今更突然現れて、父親と名乗った存在に。

 軽く頭を振って余計な事を追い払い、少年は考える。

 今日は、夜まで何処に居ようか。




 避けられているという事が、私には判っていなかった。

 避けられる理由に考えが及ばなかったんだ。

 自分が息子を想うように、息子も親を想うものだと信じていた。

 いや、頭から決め付けていたんだ。

 慕われる。想われる。愛される。親子の間柄なら無条件にそういうものだと、何の根拠もなく…。

 おめでたいを通り越して、度し難い能天気さだよ…。




 午後一番。本格的な着任の前日だったが、キヨシはシャワーで一度身を清めてからスーツに身を包み、本社ビルを訪れた。

古巣への挨拶を兼ねた顔出しである。

 舞い戻ったこの本社には、かつて世話になった上司が居る。新規プロジェクトの担当者として充分な手腕を持つ者に心当た

りがある。…とキヨシを推薦し、呼び戻してくれたのは、その上司だった。

 掃除が行き届いた、姿が映り込むほどピカピカしている石の床を歩き、随分立派になったと感心しながら応接カウンターに

歩み寄ったキヨシは、受付嬢に訪問の用向きを伝えて面会を求めた。

 ややあって、奥から出てきた別の女性に案内されたキヨシは、エレベーターに乗り込んで回数表示を見上げる。最上階は二

十四階となっていた。

(前の本社は六階までしか無かったんだよな…)

 かつて居た本社はここではない。キヨシが転勤している間に建て直されて、今の新しい本社ビルが出来上がった。老朽化が

問題視されたと言うよりは、業績アップにより余裕も出来、何かと状況も変わったため、箔をつけるために建て替えたとも言

える。

 株式会社ヘッズデザイン。業務内容はインテリアコーディネート…つまり内装などのデザイン調整を仕事としている会社で

ある。一般住宅からホテル、レジャー施設まで広く手がけており、インテリアコーディネートの概念が薄かった頃から続いて

いる老舗とも言え、業界では草分け的な存在の一社に数えられていた。

 キヨシはこの社の中でも一級のコーディネーターである。長らく支社に置かれていたが、それは左遷されていた訳ではなく、

人材不足だった現地の支社を少数精鋭で固めるに当たり、欠かせない存在だったせい。

 長らく支社でその手腕を発揮しつつ、グループリーダーとして、新人の手本として、何かと重宝されていたキヨシが呼び戻

されたのは、支社の知名度も上がって業績も素晴らしい物となり、後発のコーディネーターも育って戦力が充分になったから

でもあるが…。

 やがて、エレベーターは二十二階で止まった。

 案内の女性に先導されて絨毯が敷かれた廊下に出たキヨシは、通路の長さに対して妙に数が少ないドアの一つに目を留める。

 開いたそこからヌッと現れたのは、身長190センチを超えるだろう、筋肉の塊のような巨漢だった。

 キヨシと同じく案内の女性に導かれる巨漢は、立派な角を備えた和牛である。艶やかで黒みの濃い茶色の被毛と調和する、

漆黒の羽織袴の和装姿が、重厚で逞しい筋肉質な体躯によく似合っていた。

 すれ違いながら会釈した巨漢を、キヨシはお辞儀を返しながら窺う。

(明神グループの若旦那か…)

 キヨシが離れている間に変わった本社の状況…、それは、国内最大手とも言われているホテル王、明神グループとの業務提

携にある。何より、キヨシが本社に呼び戻されたのは、まさにその明神グループ絡みの新プロジェクトのためだった。

 巨漢が出てきた部屋…総務部長室との札が掲げられた一室の前で止まり、案内の女性がインターホンで入室を問うと、キヨ

シはスピーカー越しでもしっかりとした張りがある部屋主の声を聞き、懐かしんで折れ耳をピクつかせる。

(電話越しよりしっかり判る。お元気そうで、変わりないな…!)

 微笑したキヨシが促されて扉を潜ると、部屋の主は大きく両手を広げて出迎えた。

「おかえり!しばらくだなテシロギ!」

 相好を崩して歓迎したのは、高級そうなスーツを着こなす壮年の人間男性だった。口髭を蓄えた貫禄のある面構えに、均整

の取れた体つき。しかし目尻にたくさんの皺が寄る笑顔は、身なりの立派さとは別に人好きのする魅力で溢れている。

「お邪魔します相原(あいはら)室長…あ!いや、部長!」

 うっかり昔の癖で役職名を口にしてしまい、訂正して苦笑いしたキヨシに、「おいおい頼むぞ?」とアイハラが肩を竦めた。

「ああ、放っておいてくれていいよ。何せコイツも明日からはここの一員だからね」

 案内の女性は総務部長からそう声を掛けられると、用意する飲み物だけ訊き、一礼して部屋を出て行った。

「さあ、かけてくれ」

 応接用のソファーを勧められ、クッションがきいた革張りのシートに尻を預けたキヨシは…、

「しかし…、肥ったなぁお前」

「いきなりソレですか!?」

 ローテーブルを挟んで座るなりしみじみと漏らした上司に目を剥いた。

「いや、そりゃあ言うだろう。いきなりでも言うだろう。言わなきゃならんだろう。突っ込み待ちとしか思えないそんな体型

になっておいてお前…。そりゃあ言うさ」

「酷いなぁ…」

 繰り返すアイハラと口を尖らせたキヨシは、一拍おいて笑い合った。

「だが中身は変わっていないと見た!ああ、性格の方の話な?センスはさらに磨きがかかっているんだろう?期待するぞテシ

ロギ。是非、俺の顔を立てると思って頑張ってくれ!頑張らなかったら昔みたいに直々に尻を叩いてやるがな」

「あはは!お手柔らかに頼みますよ!」

 長い間違う場所で仕事をして来たが、打ち解けるのは一瞬だった。

 アイハラはキヨシにとって職場最初の上司であり、イロハを手ほどきしてくれた先輩でもある。キヨシはアイハラにとって

出来のいい部下であり、自慢の後輩でもある。かつてそうしていたように、気心知れた友人のようなやり取りがすぐに再開さ

れた。

「それでどうだ?久しぶりに帰ってきた気分は。懐かしいか?」

「懐かしさより新鮮さが強いです。何処もすっかり様子が変わっちゃって…」

「そうか。いや確かにそうかもな…。それで思い出したが残念な知らせがある」

「…何でしょう?」

 身を乗り出したアイハラに倣い、キヨシもずいっと前に顔を出し…。

「焼き鳥のハッチャンな…、もう無い」

「何てこった!」

 頭を抱えて仰け反るキヨシ。

「四年近く前になるが、おやっさんが脳梗塞で倒れてな。利き手がもう言う事を聞かないって話で、店を畳んだ」

「はう~!あの鶏皮を二度と味わえないなんて…!」

「だが良い知らせもある」

「何です?」

「息子が脱サラして跡を継いだ。今は焼き鳥のキューチャンになっている。味は年々親父に迫っているぞ」

「そうですか!行かなきゃ!」

「何度もツケで飲み食いさせて貰ったもんなぁ」

「いやホント…」

 笑顔を見せたまま、キヨシは息子の事を思った。

(息子が跡を継いで…、か…)

 ドアがノックされ、先ほどの女性が飲み物と菓子をテーブルに置いて退室すると、昔を懐かしむ雑談はキヨシの身の回りに

及んだ。

「それで、いいひとは見つからないのか?」

「え~?再婚の話ですか?」

「何だ、懲り懲りって顔じゃあないか?」

 キヨシが見せた表情がからかい易い物では無かったので、アイハラはそれ以上つつかず、当たり障りのないお互いの近況に

話題を変える。話はこれまでの仕事の中身から、これからの動き方へと変わってゆき…。

「それはそうと、今しがたまで客が来ていたんだが…」

「客…。明神グループの若旦那ですね?」

 キヨシが察して応じると、「ああ、丁度顔をあわせるタイミングだったか」とアイハラは口髭をしごいた。

「廊下ですれ違いました」

 明神要(みょうじんかなめ)。明神グループ会長の次男坊。元は教職を目指していたらしいが、紆余曲折があって家業に携

わる格好になったと噂されている。今では交渉役から現場視察までこなす、前線組の責任者だとも聞いていた。

「お前を呼び戻したのは、俺が欲しかったからというのもあるが…、先方がお前の手がけた物件のサンプル写真をいたく気に

入ったというのも大きい。和洋式のコーディネートには特に興味があるそうでな。面白みの有る奇抜なトッピングから、無難

に安定する纏まりまで、所に応じて使い分けるデザインセンスがツボに入ったそうな。お前がその場に居たら赤面して退室す

るような持ち上げぶりだったぞ?流石と言うか名家生まれの、それも教職を目指していたインテリは一味違うな。つくづく褒

め方が上手く、口にする感想に含蓄がある」

「なるほど。それなら頑張らなくちゃいけませんね。道理で念押しされる訳だ…」

 首をすくめてプレッシャーだと表現したキヨシは、すぐさま頭の中で和洋型のコーディネート履歴を振り返り…、

(…帰ったら部屋の片付けを終わらせないと…)

 コーディネート以前の状態にある自宅の事を思い出した。



 傾く太陽が伸ばしてゆく影。それを、独りぼっちの少年はぼんやり眺めている。街を見下ろす低い山の上で。

 市営の霊園に併設する公園は、立地の都合上ほとんどひとが来ない。屋根も無く風も強く当たるが、ケイゴは人目を気にし

なくて良いここで時間を潰す事が多い。

 余計な事をすれば体力を使う。体力を使えば腹が減る。だからベンチにじっと座り続けて体を休めていた。

 やがて、太陽を背負う山がその影を街に落とし始め、公園も背にしている森の影に埋まりだした。頃合いと見たケイゴは、

下がり始める気温を避けるために腰を上げ、歩き出す。

 なだらかな山肌を這う坂道を、ゆっくり、ゆっくり、下りながら考える。

 今夜は布団で寝られるだろうか、と…。


「よし…!」

 首にかけていたタオルで顔を拭い、キヨシは部屋を見回して頷いた。

 ランニングシャツにジャージ姿、一仕事終えた顔の中年の前には、空っぽになって畳まれたダンボールの束。

 リビングにはローテーブルとローソファーが置かれ、その正面にはラックにセットされたテレビ類が鎮座する。

 寝室には真新しいベッドを置き、隣接する八畳間は書斎にして、本棚やデスクを据え付けた。

 部屋の模様替えが昔から好きだったキヨシは、それが高じてインテリアコーディネートの道に進んだ。しかし、今となって

は自分の部屋に奇抜な工夫を凝らす事はなく、家具や調度のメーカーや品質にも殆ど拘りを持たない。

 好みの物ばかりで身の回りを固めていると、コーディネーターとしての出力に偏りが生じ、様々な客の好みに応え難くなる。

…というのがキヨシの持論。そのため、キヨシ自身は自分の居住空間を、癖が無いあっさりしたデザインに落ち着かせ、家具

や調度の類も何の変哲もない物にしている。

 何処でも取り扱っているカーテンに、そこらで似たものを見かける家具、量販店で目にする普通の家電。しかしそういった

物で構築された空間は、それぞれの自己主張が薄いまま調和が取れており、居心地がいい。その成果こそが、キヨシの確かな

手腕の証明でもある。

 冷蔵庫から愛飲している甘い缶コーヒーを取り出し、テレビをつけ、新品のソファーに座って一息つく。明日からの出社を

前に生活環境は整い、心機一転仕事へ繰り出せる。

 綺麗に整った部屋を眺めて、キヨシは考えた。

(これで、いつケイゴが来ても大丈夫…!)


 家に戻ると、母は居なかった。

 置手紙も無く、食事の用意も無い。冷蔵庫の中はビールばかりで、食品の買い置きも無い。

 これが普通なので、ケイゴは淡々とヤカンを火にかける。

 冷蔵庫のモーター音と、熱されるヤカンの音が、狭い台所を這う。

 棚に収められた食器類は少ない。母が客と使うグラス類や、酒のつまみを乗せる浅い皿が並び、家族住まいならありそうな

セット物の食器類は存在しない。

 料理器具も極端に少ない。母は料理をしないし、ケイゴもできないので、あっても使わない。ガスコンロにのっているヤカ

ンと小さな手鍋を除けば、流し台の下の戸に収まったまま何年も日の目を見ていない。

 やがてヤカンが沸騰を知らせて笛を吹き出し、ケイゴは買って来たカップラーメンに湯を注ぐ。

 ろくに味わう事もなく、吹いて冷まして飲み込むように麺をすすり、あっという間に汁まで飲み干すと、ヤカンに残った湯

を保温ポットに移したケイゴは、後始末をしてからシャワーで体を清め、雑に体を乾かして居間に向かった。

 居間と、母の寝室、さらにその奥にある本来物置になるはずの納戸の中がケイゴの居場所。裸電球が灯る一畳ほどの狭い空

間に、端が捲れた薄い布団が敷いてある。壁には制服が吊るされ、奥の端には鞄が押し付けられている。

 狭苦しい空間で服を脱ぎ、毛布を羽織って電気を消し、暗がりの中で体を丸めて横になったケイゴは、すぐさま眠りに入る。

 母の帰りは大体朝になる。週末でなければ男を連れ込む事もないので、朝まではゆっくり眠れる。

 母の勤め先は知らない。どの仕事場でも長続きしないのか、比較的短期間で転々と店を移るので、いつからか判らなくなっ

た。母はいちいち告げなかったし、ケイゴもいつしか訊かなくなった。

 この環境も関係も生活も、おかしいとは思わない。この生活以外知らなかったから…。




 気付いていなかった。私とケイゴの認識の、考え方の、抱く感情のひどい乖離に。

 ケイゴの暮らしがどんな物になっていたのか、私には全然判っていなかった。きっと健やかな生活を送っているん

だと、今の中学生はどんな事を楽しむんだろうかと、明るい方にばかり考えて、その方向でしか想像もしなかった。

 だから私はずっと浮かれ気味だった。健やかに、立派に、大きく育ってくれていたんだと満足して。

 けれど…、けれどケイゴは…、健やかな生活なんてできていなかった…。