第三話

「あと二社ですよ」

「やっと…!」

 肥ったシェパード中年は、運転手役の若手営業マンの言葉で大仰なため息を漏らした。

 本社への正式配属初日。キヨシは社内の挨拶回りが終わると、そのまますぐに近場のお得意様への顔出しに移った。

 顧客の顔ぶれもすっかり変わっているので、面識ほぼゼロからの挨拶回りである。しかもこれが一日では到底終わらない客

数なので、今週いっぱいは続く。

「ホテル関係、随分と増えたんだな…」

「ええ。ベッドタウン化も進んでいるし、アミューズメントパークだって近くに三ヶ所も出来ましたしね。山の遊園地なんて

週末の度に凄い人出ですし、」

「パチンコも多いね?」

「それはもう、定住人口自体が年々増えてますから娯楽は勿論。…昔はそうでもなかったんですか?」

 十歳ほど下の営業マンに「確かそう多くなかったね」と頷いたキヨシは、拡幅工事に伴う交通整理の看板を見遣る。

「道も、建物も、すっかり変わったよ。こんな風になるなんて想像もしていなかったな…」

「でもまぁ、良い事ばかりでもないんですよね」

 ハンドルをこまめに捌いて交通整理に従いながら営業マンが述べ、キヨシは甘い缶コーヒーのタブを起こしながら「へぇ?

何か問題があるんだね?」と先を促す。

「賑やかになる一方で、繁華街は治安悪くなったし、ヤンキーって言うか半グレって言うか、そういうのも入って来てるし…、

学生まで影響受けてるのか、不良っぽいの増えてるし…。ああ、ちょうどああいう感じの…」

 減速走行中の車内から、フロントガラス越しに歩道を指差す営業マン。その示された先を見遣ったキヨシは…。

「!!!」

 コーヒーを吹き出しかけた。

(ケ、ケイゴ!?)

 指差された先に居るのは少年数名。派手な頭の少年達の中に、逞しいシェパードが混じっていた。

 立ち話をしているというよりは、険しい顔を突き合わせて睨み合っているかのような少年達を見ながら、営業マンは「ああ

ヤダヤダ」と顔を顰める。

「近頃は多いんですよああいうのが。ガキなのにおっかなくて、関わりたくない連中です…」

 社用車が通り過ぎても、ケイゴは車内から目をまん丸にして見つめているキヨシに気付かなかった。距離にして2メートル

も無い近くを通っても、車の中はいちいち確認していない。

 車はゆるいカーブを進んで、少年達はあっという間に見えなくなった。

 キヨシはコーヒーの缶を両手でギュッと掴んだまま思い出す。ケイゴと再会したあの時、自分も確かに怖そうな少年だと感

じていた、と…。

(ケイゴ…、まさか、悪い子になっているなんて事は…。いや、まさかな…)

 気を取り直す中年。

(今時の子はお洒落で、身なりも派手になっているんだ。友達がそうだって何もおかしくない!)



 点字ブロックを跨いだ拍子に、靴の底が噛んだ小石をアスファルトにこすり付ける。

 血が滲んでジンジンする口角を腕で擦り、ケイゴは夕暮れが近い空を見上げた。

 三対一の喧嘩はケイゴが追い散らす形で決着した。それなりの収穫で膨れたポケットから、歩みに合わせてチャリチャリと

小銭の音が零れる。

「!」

 突然、ケイゴは道から逸れて、排水路の上をコンクリートで固めた歩行者用通路に入った。住宅と住宅の間を通る、そこに

住んでいない限りは通路としても使用しないような道に。

 その数秒後、行く手から接近してきた、一見すると警察車両には見えないバンが道路を通過した。その運転席では…。

(ふふふ…。何故逃げたのかな?オシタリ…)

 キタキツネの警部…ヨシタカが、何とも言えない含み笑いを見せていた。

(あのオマワリ…、やっぱりこっち見てやがった…!)

 苦虫を噛み潰したような顔で振り返るケイゴ。しつこく接触して来るヨシタカが乗っている可能性がある車については、ど

んなに離れていても見つけ出す習性がついてしまっている。

 一度頭を振ったケイゴは慎重になり、ヨシタカが戻って来ないか注意しながらソロソロと移動する。多人数相手の喧嘩でも

怯まない腕っ節と度胸の少年がコソコソと隠れる様は意外だが、それほどまでに苦手意識がある相手だった。

 逆に言えば、ケイゴが普通の少年とそう変わらない反応を見せる唯一の大人がヨシタカである。乱暴に捕らえられた事も、

怒鳴りつけられた事もない。だが、どうにもあのオマワリの柔らかい物腰と、優しげに見えて妙に勘が鋭く頭の回転が良い部

分、そして距離をはかりながらも一定の理解を示して来るところが苦手だった。

 コソコソと移動したケイゴがコンビニに入り、自分の飯と猫缶を買い、向かう先は運河沿いの遊歩道。

(遠回りさせやがって、あのオマワリ…!)

 殴られた右頬が内側で切れ、歯がグラつく。今夜は痛みそうだと感じながら寂れた遊歩道に踏み入り、東屋に向かうと、近

くに居たコナユキがたちまち気配を嗅ぎ付けて姿を見せた。

「そんなに続くと思うなよ?」

 想定外の収入があったから、と猫カンを食わせてやりながら、ケイゴもソーセージ入りのパンを齧る。

 贅沢はしない。するとしてもコナユキの猫カン程度で、自身は美味い物を食おうとも思わない。少しでも長く食い繋げるよ

うに安い物を、そして手っ取り早く食べられる物を選ぶ。

 切れた口の中がケチャップで痛むのも無視し、少年は飯を腹に詰め込んでゆく。

 二袋目のパンに手を伸ばしたその時、尖った耳が動いて目線が屋根へ向いた。

 水滴の音。東屋の屋根に触れた雨の手が、そのまま周囲の木々と草にも音を立てさせる。

「…今夜も雨か…」

 苦々しい顔で枝葉の隙間から空を見遣り、ケイゴは唸る。

 雨は、嫌いだった。



 雨が降る。

 ザラザラと、風に巻かれて激しく。

 窓を叩く雨粒が流れとなって下る様を、カーテンを開けたキヨシは眺めていた。

 息子は今、どんな生活をしているのだろうか?今頃は母親と一緒に夕食を摂っているのだろうか?どんな話をしているのだ

ろうか?

 本社異動一日目の仕事より、その事が気になった。

 

 雨が降る。

 コウコウと、風の鳴き声を伴って。

 物寂しいその声を、アパートの階段の突き当たりで座り込んだケイゴは聞いていた。

 ズキズキと歯が痛む。付け根も顎も熱をもっている。運悪く今日は母が男を連れ込んでおり、居間で情事に耽っているので、

布団にはありつけない。

 昇ってくる風の寒さに震え、少年は体を丸めていた。




 四月。

 雨が降り、降る度に少しずつ気温が上がり、桜が満開となり、気が早いものはサラサラ散り始める。

 ケイゴとキヨシが再会してから、一週間が過ぎた。

 社会人も、学生も、年度が変わってあれこれと忙しくなる季節だが、ケイゴは進級しても二年生の時と変わらず、飯を食う

ために学校へ行き、教師から相談が入れば母がヒステリーを起こすので適度に授業を受け、そして適度にサボる。

 持て余す時間を睡眠にあてて、一日を無為に送り、少年は下校時間を待つ。

 学校に出る日は、コナユキに食事を持って行けるのは夕方のみ。下校しながら自分とコナユキで分ける食料を買い、あの東

屋で腹ごしらえをした後は…。



 人事異動による配置換えも一旦落ち着き、歓迎会が催されたこの夜、キヨシはほろ酔い気分で家路についていた。

 繁華街は、確かに賑やかになった一方で治安は悪くなった気がする。

 しつこい客引きの声、つるんで歩きながら大声で話すガラの悪い若者達、棚の隙間に隠されたいかがわしい物のように、ビ

ルの間の路地奥にひっそり明かりを灯す得体の知れない店もある。

 タクシーがよく停まっている本通りに出るはずが、方向を間違えてしまったキヨシは、繁華街の混沌とした横顔をたまたま

目にし、酔いがやや醒めた。

(坩堝、か…。確かに風溜まりのような条件は整っているけれど…)

 大通り目指して足早にゆくキヨシは、ふと、声を耳にして立ち止まった。

 客引きの声や酔客の歌ではない。それは、諍いによって生じる類の…。

(怒声…!?)

 ゴクリと唾を飲む。

 何処かで喧嘩をしている。それは判るのだが、反響して位置が判らない。ただ、そう遠くはないと感じたので身が強張った。

 引き返すべきか、それとも後方から聞こえたのか、そもそも過剰にビクつかずにそのまま行けばいいのでは…。

 そんな一瞬の逡巡の後、キヨシは目を見開いた。行く手の、それこそ大通りの明るさが見える真っ直ぐな路地の横手から、

若者達が一斉にまろび出て来て。

 鼻血で胸元まで真っ赤に染まったピアスつきの虎が、両手で口とマズルをすっぽり覆い、転びそうになりながら駆けてゆく。

 その後ろからブルドッグが、こちらは上着が派手に千切れて片袖が抜けた格好で、ヒィヒィと悲鳴を漏らして走ってゆく。

 最後に飛び出してきたのはテン。しかしそのジャンバーの後ろ襟を、背後からヌッと伸びた手がムンズと掴む。

 ゲェッとえづくような音と舌を吐き出したテンは、そのまま首から下だけ前へ走り、襟を支点に引き止められる格好で尻餅

をついた。

「!!!」

 目を見開くキヨシ。咳き込むテンを捕らえたまま、その脇に屈み込んだのは…。

(ケイゴ!?)

 逞しいシェパードは威嚇の表情。鼻面に無数の小皺を寄せ、今にも首筋へ噛み付きそうな顔で、怯えるテンに何事か囁く。

 すると、テンはジャンバーの内ポケットから何かを抜き出し、震える手でシェパードに差し出した。

 それから先は素早かった。ひったくるように財布を取られるなり、襟を放されたテンは脱兎の如く駆け出し、残されたシェ

パードは中身を検めて金だけ取り、財布を足元に放り出す。

 そして、札と硬貨を無造作にポケットに突っ込むと、ケイゴは何事も無かったように歩き出し…、すぐさま立ち止まった。

 そこに突っ立っている、肥った中年に気付いて。

「…ちっ…」

 それが誰なのかすぐさま気付いたケイゴは、舌打ちを残してくるりと向きを変える。が、凍りついたように立ち尽くしてい

たキヨシは、その背を見てハッと我に返った。

「ま、待ってくれケイゴ!」

 声をかけながら走る。息子の背に向かって。その手を肩へかけようと伸ばして。

 だが、駆け寄る足音で不快げに耳をピクつかせたケイゴは、振り向くなりキヨシを睨み付けた。

「近付くな…。ブン殴られてぇのか…?」

 ドスの利いた声と睨みで、ピタリとキヨシの足が止まった。あと五歩ほどの中途半端な距離を残して。

 ケイゴは、鼻先から顎下、トレーナーの襟まで、おびただしい鼻血で赤黒く染め上げていた。

 手負いの少年が向ける瞳は敵愾心に溢れ、眼光には胸の内まで突き刺すような冷たさと鋭さが宿っていた。子供の頃からケ

ンカした経験もろくに無い、むしろ穏やかに朗らかに過ごして来たキヨシは、思わず身震いするほど気圧される。

 ゴクリと喉を鳴らすキヨシ。再び踵を返そうとしたケイゴは…、

「ケイゴ、今の…」

 中年が漏らした、怯えと戸惑いが濃く浮かんだ声を聞き、出鼻を押さえられる格好で動きを止めた。

「関係ねぇだろ。てめぇには」

 つっけんどん…を通り越した、苦々しい声で唸るケイゴ。吐き捨てて、今度こそ体の向きを変えようとすると…。

「か、関係なくはない!…よ?」

 声を大きくしながらポケットに右手を入れたキヨシは、しかしジロリと睨まれて尻すぼみ。

「だって…、わ、私はケイゴのお父さんで…」

 ハッ、とケイゴの口から嘲笑が零れ落ちる。

「父親面か?ガキに凄まれただけでビビッてるヤツが」

 グゥの音も出ないキヨシに、今度こそケイゴは背を向ける。

「ま、待って…」

 何か言わなければ。引き止めなければ。そんなキヨシの声を、ケイゴは今度こそ無視した。

 動こうとする、立ち去ろうとする、そんなタイミングに間が悪く声がかかる。そして何故か、自分はいちいちその声に反応

してしまう…。

 理由は知らない。判ろうとも思わない。だが、自分が呼び止められて応じているという事実自体に腹が立った。

 足早に、不機嫌そうに、靴音高く立ち去るケイゴ。

 腹が立った。今更出て来て父親面で説教など、堪った物ではない、と。

 取り残されて立ち尽くすキヨシは、ケイゴの姿が大通りに消えた後で、ポケットに入れていた手を引き抜く。

 キツく掴んでいたのは、力んで握り締めたせいで皺だらけになったハンカチ。

 手当てしなければ。

 たったそれだけを口にする事ができず、息子は行ってしまった。

 酔いはもう、すっかり醒めていた。




 正直に言うと、怖い…と、確かに思っていたんだ。

 情けない事に、我が子に対して怖いって…。

 だから、立ち竦んだ自分の足に納得できなかった。

 その竦み方は、きっと間違っているのに、と…。

 それなのに、私はあの時、向けられた背中を、遠ざかる背中を、そのまま見送ってしまった…。




 頭からシャワーを被り、毛の中に染み込んだ血を被毛を毟るようにしながら乱暴に洗い流したケイゴは、俯いて背に湯を浴

びる。

(…腹…、減ったな…)

 空腹で、腰の落ち着きが悪い。湯を浴びているのに寒い気もする。

 帰宅する前に何か食べられる物を買って来たかったが、格好が格好だったので諦めた。店員に警察でも呼ばれては面倒くさ

くなる。
加えて言うなら、補導されようが説教されようが意に介さないが、よく顔をあわせる羽目になる狐のオマワリは苦手

なので、警察は嫌だった。

(水飲んで、さっさと寝よう…)

 体力を惜しむように長湯を避け、手早く体の水分を除き、風呂上りの湯涼みを兼ねて空きっ腹を水道水で埋めたケイゴは、

狭い部屋に入り込んで毛布を被る。

 横になってもなかなか眠気は訪れず、何故か、あの中年の事を思い出してしまった。

(父親、…だとよ)

 眉間に皺が寄る。シクシクと不快に、苛立ちが胸を疼かせる。

 母からは、父親は自分達を捨てたと聞いた。

 経緯は知らない。ただ、捨てられたのだという母の言葉だけが、ケイゴが知る父の居ない理由。

(そんなヤツが…、今更…)

 ギチッと奥歯が鳴って、ケイゴはハッとした。

(…考えんな…。もう関係ねぇ…)

 煩わされるだけ下らないと、少年は意図して考えるのを止めた。



 シャワーを浴びながら、ぼんやりと俯くキヨシには、背を叩く湯の感触も遠かった。

(ケイゴ…。あれ、お金を盗ってたのか…?)

 強盗。追剥。カツアゲ。様々な単語が頭の中を回る。

 怪我をした少年達。血で胸元まで染まった息子。ショッキングな光景が脳裏に何度も蘇る。

(どうしてあんな事を…。不良になってしまったのか…?)

 呆然としてしまい、思い返すばかりで考えが纏まらない。

 ただの喧嘩。若い内なら意見の衝突などでそんな事も起こるだろう。

 …そんな、持ち前のポジティブさが反映された考えも浮かんだが、逃げる相手を捕まえて財布を出させて金を奪ったその行

為は、単純な喧嘩のソレではない。

 考え事をしながらのシャワーは長引いて、ぼんやりしている内に長風呂になって、アルコールが変に回ってしまって軽い頭

痛を覚えた。

 のろのろと風呂から上がり、適当に体をぬぐってパンツを穿き、冷蔵庫から缶コーヒーを出し、半裸のままトスリと力なく

ソファーに尻を下ろす。

 両膝に肘を置き、前屈みで項垂れ、コーヒー缶も開けずに両手で包んだまま、しばらく動かなかったキヨシは…。

「…うん」

 唐突に、顎を引いて独りで頷く。

「うん。そうだ」

 色々考えて、思いついた事があった。

 子が不良になったのなら、正しい道に引き戻すのは親の務めだと。…例え親権が無くとも。

 母親がああなった息子を放置している理由は判らない。怖くて逆らえないのかもしれないとも思うが、もう大きくなった子

供相手に強く出られなくとも責められない。むしろこれは、不在の父となってしまった自分が負うべき責務だとも思った。

 パシュンと音を立ててプルタブを起こすと、キヨシは冷たいコーヒーを一気飲みする。

 もしかしたらまた殴られるかもしれないと考えたら、胃の辺りがあの強烈なボディブローを思い出して鈍痛を感じたが…。

(話をしなくちゃいけない!会って、今度こそちゃんと話を!)



「…で?」

 薄暗い空間に電子音と軽い金属音がけたたましく満ちる、深夜まで営業するゲームセンター。

 ビル一つがそのままアミューズメントとなっている、その建物の四階、メダルゲームブース奥の休憩所で、大柄な男が首を

傾げる。

 肩幅もあり、体も分厚く、首が埋まって見えるほどのゴツい体躯の大男は、特注であろう革のジャケットを身に付けた、二

十代後半と思しき若いゴリラである。

 ベンチにふんぞり返り、背もたれに腕を回しているゴリラの周囲では、派手な服装や髪型の獣人や人間の若者が、思い思い

にくつろいでいた。

 休憩室を占拠するその人数、10名。位置関係からゴリラがこの中でのトップと窺えるが、残る9名は二種類に大別される。

 すなわち、くつろいでる6名と、萎縮している3名に。

「だ、だから…」

 殴られた頬が痛んで口の調子がおかしいのか、テンがくぐもった声で言う。

「また、あのシェパードに邪魔されて…」

「ほう」

 ゴリラは口を丸くする。そして続けた。

「…で?」

「いや、「で」って…」

 今度は鼻に丸めたティッシュを挿している虎が口を開く。

「アイツのせいでやり損ねた、つってんだよ…!」

 ウンウンと頷くブルドッグは、切れた目の上が腫れ上がり、大きな絆創膏で右眼側が不恰好に塞がっている。

 ふんぞり返ったゴリラと向き合う格好で身を硬くしているのは、先ほどケイゴに叩きのめされた3名だった。

 この三人組は、ゴリラをトップとするグループに所属している。グループ内での役割は、簡単に言えば酔客相手の強盗。い

ちゃもんをつけて金を奪い取る、時にはいちゃもんすらつけずに奪い取る、あるいは暴力を振るって奪い取るのが仕事である。

 とはいえ、そうして得る金銭等はこのグループの主収入ではない。むしろ、金を脅し取る「行為そのもの」が大事な役目で

ある。

 ゴリラの周囲に居る内の数名は、バーの勤め人とホスト。ゴリラ自身もクラブの用心棒という肩書き。そして「実行部隊」

は、特定の店の客は襲わない事になっている。
このグループは、つまりはそういった「演出」で利益を上げている集団だった。

「シェパードに邪魔された。それは判った。でもな~コンちゃん?」

 ゴリラは面倒くさそうに鼻をほじりながら、報告してきた三名の顔を見回した。

「それで何で大人しく引き下がって来んのか、オレにはさ~っぱり判らねぇなぁ?」

 暢気な口調ではあったが、三名は黙り込む。ゴリラの目は全く笑っていなかった。

「…そろそろ決めるトコじゃねぇか?あ?あんま舐められてると、オレも「替わり」探さなきゃいけねぇぞ?判ってんだろう

なテメェら…?」

 一変し、低い声が口の隙間から囁かれる。

 恫喝に身震いした三名は、しばらく黙ったあと、ゴリラに顎で示されて再び街へ出て行った。やりかけの仕事を、今度こそ

遂行するために。

「ザッキーさん?」

 金色に髪を染めた、美形ではあるが軽薄そうな男がゴリラに囁く。

「あんまり面倒ならさ、何とかしてあげちゃったら?そのシェパードの方」

「ん?」

 ゴリラはホストの言葉に軽く顔を顰める。

「あんまり甘やかすの良くねぇんだぜ?立派に稼げるようになって貰えねぇと…、オレが楽できねぇし?」

 ケタケタと笑い声が重なる中、ゴリラはホストから携帯を差し出され、「へぇ」と面白がるように目を丸くした。

「コイツがそのシェパード?隠し撮り?」

「そ。先々週、三丁目高架下でモメてた時の」

「あ~…、ナントカタニだったっけ?」

「「オシタリ」って言うらしいよ」

「ふうん。結構いい面構えしてんじゃねぇの」

 細められたゴリラの目には、制服姿のまま乱闘に興じている、獰猛に牙を剥くシェパードの横顔が映っていた。




 翌日の夜、仕事を終えたキヨシは再び繁華街へ足を運んだ。

 ケイゴを見かけた付近を中心にウロウロしてみたが、少年は見つからない。

 今日は来ていないのかも。いやしかし向こうの通りに居るかも。引き上げの判断もつかず、中年はいくつもの通りを覗きな

がら彷徨い歩く。

 スーツ姿のまま、ひとりで、店に入るでもなく…。

 キヨシはあまり鋭い方ではない。直感や勘の良さは仕事の方に偏り、危険を察知する能力は極めて低く、端的に言えば鈍い

部類に入る。

 そして今日も、キヨシは気付かなかった。

 チャリッと金属の音がしたのは、路地を曲がった先を覗き、行き止まりでがっかりしながら戻って来た時だった。

 行く手を塞ぐのは人間の若者三名。キヨシは知らないが、昨日ケイゴと乱闘を演じた三名と同じグループに属し、同じ役割

を持つ、別のチームである。

 咥え煙草の茶髪の若者、スキンヘッドの若者、顔中ピアスだらけの若者。三名は、キヨシが入って来た細い路地を塞ぐよう

に広がって立っている。

 その時点でも、危機に気付いていないキヨシは端を通って行こうとした。

「おいオッサン」

 声をかけたのはスキンヘッド。

「え?」

 キョトンとして立ち止まるキヨシ。

「逃げられると思ってんの?」

 ピアスの男が睨み、咥え煙草の男が一歩ずれて中年の真正面に立つ。

(…えぇと…。何だろう?)

 何かしただろうか、彼らは誰だろうか、そんな事を考えつつ少しずつ不安になってきたキヨシは…、

(あ。これってもしかして…、ブルガリア…、じゃなく…、サンガリア…、じゃなく…、ガリア戦記…、じゃなく…)

 頭の中から該当する単語を探し、思いついた途端にサーッと、顔から血の気を引かせた。

(お…、ヲヤヂガリ!?)

 詰め寄った若者が煙草の煙を吹き付けながら言う。「な、オッサン。お金ちょーだい」と。

 因縁をつける、難癖をつける、いちゃもんをつける、そういった、いわゆる「理由」を必要としない開き直りがむしろ清々

しい。無駄も無いが品も無いアプローチである。

「あの」

 中年シェパードは背筋を伸ばす。

 こういった場合は堂々とするのが良い。…と、何かで読んだか何かで見たか誰かから聞いたかしたような気もするしそうで

ないような気もした。

 ついでに腹も出てしまうが胸を張り、深呼吸したキヨシは、若者の顔を真っ直ぐに見つめ…。

「怖いからやめてください」

 キッパリと、堂々と、正直に、そう述べた。

「…あ?」

 咥え煙草の若者が顔を顰める。キヨシの本心である冗談のようなセリフを、自分達をおちょくるための発言と受け止めて。

 無言で、前触れもなく、若者はポケットから手を抜いた。メリケンサックを嵌めた手を。

 自分が何をされようとしているのか、相手が何をしようとしているのか、その前振りすら察知できていなかったキヨシは…。

「あ?」

 若者の二度目の声で、目線を煙草へ移す。

 若者が咥えていたタバコが、ポッと、指先ほどの大きさの火を先端で上げた。

 少し太めの蝋燭に灯るようなサイズの火を、キヨシと若者は揃って見つめる。すると次の瞬間、小さな火がボウッと湯飲み

茶碗サイズの火柱に膨れ上がり、煙草が先端から根元ギリギリまで一気に灰になった。

「…あ!?あぢっ!」

 鼻先に熱を感じ、不自然に燃え上がってフィルターだけになった煙草を吹き落とす若者。

 ビックリして仰け反ったキヨシは、バランスを崩してそのまま二歩後退する。

「何してんだ?」

 スキンヘッドの若者とピアスの若者が、胡乱げに仲間を見遣ったその時…。

「や。どうも済みませんテシロギさん」

 低く、太く、しかし聞き取り辛くはない重々しい声が、路地にすぅっと染み渡った。

「え?」

 名を呼ぶ声に反応し、目と折れ耳をキヨシが向けた先には、黒々とした巨体が立っている。

 立派な角。分厚い体躯。黒に寄った茶の被毛。その巨躯に纏うのは羽織袴…。

 そこに居たのは、キヨシが本社ですれ違った牛。これからの仕事で深く関わる事になると、上司から言われていた客。

(明神グループの…、若旦那…?)

 大柄な牛は理知的な輝きを宿す目を、厳つい体躯からすれば意外なほど上品に細め、キヨシに微笑みかける。

「お待たせしました。小生この辺りにはまだまだ不慣れのようで…」

 のしっと踏み出す牛。突然の乱入者に、しかしスキンヘッドの若者もピアスの若者も、威嚇を行なうどころか動けない。

「では、参りましょうか」

 キヨシの傍に寄り、その顔を見下ろして穏やかに微笑みかけた牛に…、

「待てコラァ!」

 無視される格好になっていた、燃えた煙草で鼻先を熱された若者が、激して声を上げた。

 が、敵意を振り撒くのも、「仕事」を続行しようとする気勢も、そこまでだった。

「失礼。当方、これより用事がございまして」

 低く穏やかな声。温厚そうな眼差しと微笑。泰然とした佇まい。大柄ではあるが警戒心は抱かせない、コワいところなど一

つもない品の良い牛に…。

「…あ…、はい…」

 直前まで掴みかかろうとしていた若者は、毒気を抜かれた様子で半歩下がり、道をあける。

 若者達は牛と、彼に連れられてゆくシェパードを見送った。

 所在無く呆然と立ったままの若者達は、敵意が霧散してしまった理由も判らなかったが、引き下がった事を屈辱とは感じな

かった。

 ソレは敵ではない。そして、敵に回すべきではない。

 そんな事が、脳ではともかく本能では判っていたから。



 路地を抜け、客待ちのタクシーが並ぶ大通りに出た所で、キヨシは先導するように先を行く牛に声をかける。

「あの…、ありがとうございました」

 牛は足を止め、振り返る。袴羽織の目立つ格好なので人目を引くが、衆目を意に介していない様子でキヨシに笑いかけ、目

を細くした。

「テシロギさん…、で間違い御座いませんでしたか?」

「え?」

「や。お名前を間違えては失礼です。これから色々とお世話になるのですから、なおの事。お名前を伺い、お顔も存じており

ましたが、自己紹介は済んでおりませんでした。勘違い、憶え間違いをしては失礼にあたりますが、大丈夫でしたか?」

「…あ…、ええ…、はい…。テシロギで間違い無いです…」

 返事をしながら戸惑うキヨシに、牛は「明神要(みょうじんかなめ)です。どうぞお見知りおきを」と軽く会釈した。

 キヨシよりは年下だが、若者ではない。三十半ばの頃と見える牛は名乗りを終えると、

「何かをお探しでしたか?」

 そう訊ねてシェパードを驚かせた。

「ど、どうして…」

「や。十数分前にも、何やらお探しの様子で歩いていらっしゃったのをお見受けしまして」

 最初に見かけた時は忙しそうだったので挨拶を見送ったが、しばし経った後に見かけた際にもキヨシは何かを探している様

子だった。二度目は流石に気になったので声をかけようとしたが、通りの向こうから歩いて来る途中で、先ほどの若い連中が

後についてゆくのが見えて…。

「こう述べるのも失礼にあたるやもしれませんが、迷子のようにも見えました。困り果てている様子などが…。それで声をか

けさせて頂いた次第です」

 というのが、カナメが語った事の次第。

 運が良かったと胸を撫で下ろし、ペコペコ頭を下げて繰り返し礼を言ったキヨシは、

「それで、何をお探しでしょう?地理に明るくないので店探しなどであれば役に立ちませんが…」

 大きな牛が控えめに手伝いを申し出ると、慌てて首を横に振る。

「いえ!店を探しているわけじゃなく、その…、ひと探しでして…」




 そう。ミョウジンさんと初めて言葉を交わしたのは、ケイゴを探している途中での事だった。

 ゾッとするよ。もしあの時に声をかけて貰えなかったら、どうなっていたのか?って…。

 だから、感謝している。

 仕事の事でも…。私の事でも…。ケイゴの事でも…。