第二話

その日の放課後、ホームルーム後も部活までの時間を潰す目的で教室に居座っていたヤスヒトと話し込み、たまたま教室に

残っていたアトラは、たまたま帰りが最後になってしまったがために、担任にちょっとした手伝いを頼まれてしまった。

刷り上がったA3のプリントを二つ折りにして行くという単純作業なのだが、単調で面倒でつまらない。その上、プリント

の量は膨大である。

そのつまらない作業を生徒に押しつけた担任は、憔悴しきった顔で「これで半分…」と呟きながら二枚目のプリント作成に

向かったため、気の毒になったアトラは文句の一つも言えなかった。

生徒指導室というやたらと緊張感を煽るプレートが掲げられた部屋の中、長テーブルに高く重ね上げられたプリントを黙々

と折りながら、アトラはちらりと視線を上げる。

テーブルを挟んだ反対側では、アトラ同様担任に助けを求められてしまった運の無い生徒が一人、やはり黙々とプリントを

折っている。

肉がついて丸々とした指をしているにもかかわらず、丁寧かつ手早くプリントを折って行く白豚の器用さを目の当たりにし

て、アトラは少し意外に感じていた。

部屋の中にそこはかとなく漂うのは、朝に嗅いだ柑橘系の香り…。

当然あの出来事を簡単に忘れられるはずもなく、匂いによってあの時の気恥ずかしさまで呼び起こされてしまったアトラは、

居心地の悪い思いをしながら作業を続ける。

時折ちらちらと向けられる、覗うようなアトラの視線に気付いたヤスキは、やがて唐突に顔を上げた。

視線が正面からぶつかって、机の下に垂らした尻尾の先をピククッ!と痙攣させるアトラと、へらっと愛想笑いしつつ視線

の意味を問うように小首を傾げるヤスキ。

「あ〜…、いや、その…な…」

アトラはぼそぼそと呟き、視線を手元に落とす。

「今朝は悪かった…。繰り返しの言い訳になるが、ちょっと寝ぼけていて…。ビックリさせただろう?」

「え?ん…。ビックリはまぁ、したですねぇ…」

ヤスキは頷きつつプリントに視線を落とし、丁寧に折りながら「でも…」と続ける。

「そんなに気にしなくて良いですよ?別に酷い事とかされましたって訳じゃないですもん」

どうやら今朝の笑顔は偽りではなく、本当に怒っていないようだと察し、ほっとしたアトラは緊張を緩める。

(見た目通りと言うか、結構おおらかでおっとりしているんだな、コイツ)

そう考えて気が緩むなり、今度は別の事が急に気になってきた。

目の前の肥満男子が使っている、妙な敬語についてである。

「あの、シラト?その…敬語?か?何なんだ?タメなんだから、タメ口で良いだろうおれ達の場合は」

「え?あ…、んー…」

ヤスキはぽってりと肉の付いた丸っこい体をもじもじと揺すり、窺うような上目遣いでアトラを見遣った。

アトラはその瞳に何やら複雑な色が一瞬浮かんだのを見て取ったものの、その意味を汲み取る前に、白豚の円らな瞳に一時

浮かんだ何かは、深い所へ沈んで見えなくなってしまう。

その、ヤスキが一瞬見せた目の光が、怯えや恐れ、そして媚びなどから成る物だという事に気付くのは、しばらく後になっ

てからの事であった。

「敬語は…、変…です?」

「まぁ、ちょっとおかしい使い方になってやしないかと疑問にも思うが…。ああいや、今訊いてるのはそういう事じゃないよ

な…」

一度「変」の意味を間違って捉えたアトラは、何について変かと問われているのかすぐに気付き、首を横に振る。

「敬語を使う事は、変な事じゃないはずだ。…だがこう、距離を置かれているようには感じるかも…。む〜…、おれが言いた

い事、判るかな?判らんかなぁこれじゃあ…」

感じている事を上手く説明できず、もどかしげに訴えるアトラ。

「だいたいですけど、判るかもです…」

小さく頷いたヤスキは、俯いて目を伏せた。

「…せめて丁寧に話したりしましたら…、嫌われないかもじゃないですか…」

「ん?」

アトラは眉をひそめたが、白豚はそれっきり口をつぐみ、声を発さなくなる。

何となく問いを重ねられなくなったアトラは、ひとまずプリントを折る事に専念した。

慣れてきたのか、二人とも徐々に能率が上がって、紙束が重ね上げられるペースも早くなってゆく。

単純作業に没頭しつつ、時折肩を回し、時折首を曲げ、時折背伸びしながら、アトラとヤスキはプリントとの格闘を続行し、

やがて…。

「…終わりか?」

「終わりみたいです」

二つ折りになった紙束を挟んで、「はぁ〜…」と、揃って大きなため息をついた。

「…苦行だった…」

「…でしたねぇ…」

肩を落として項垂れ、目頭を揉んだり首を捻ったりした二人は、ようやく作業が終わった事を担任に告げるべく、揃って職

員室へ向かった。

硬い椅子に座りっぱなしだった事もあり、何となく尻と腿裏が痛いアトラは、傍らをちらっと横目で窺う。

やはりヤスキも同様らしく、歩きながらもむちっとした尻に両手を当て、しきりに揉んでいた。

ヤスキと一緒に職員室に入ろうとしたアトラは、引き戸が向こう側から開けられて手を引っ込め、次いで少し首を引いて一

歩下がる。

引き開けられた戸の向こう、職員室の出入り口を、やたらと幅広い巨体が塞いでいた。

真新しいのに何故か幾筋も皺がよった白衣を纏うその教師は、眼鏡の奥の細い目を僅かに広げ、出くわした生徒達の顔を見

下ろす。

アトラと同じ虎獣人であった。

だが、一般的な虎獣人のイメージとはかけ離れたビジュアルを有する、柔和そうな表情とでっぷりと太った体型が印象的な

大虎である。

身の丈はアトラを凌駕し、幅も厚みもヤスキを超えており、相当なボリュームであった。

ヤスキは上目遣いに大きな教師を見上げながら、

(えぇと、確かこの先生は…)

寅大(とらひろし)。確かそういう名前だったはずだと思い出す。

妊娠を期に退職した教師に代わって今年からこの星陵にやって来た化学教諭で、先任が抜けた二年生のクラスの担任をして

いる。

「まだ残っていたのかぁ?アトラ。部活には入らないつもりじゃあなかったのかぁ?」

やけに間延びしたのんびり口調で大虎が話しかけると、アトラは顎を引いて頷く。

「先生に用事を頼まれて…」

「そうかそうか」

肥満虎は二重顎がくっきり判るほど大きく頷き、ヤスキに視線を向けた。

「そっちの子も?」

「ええ。クラスメートのシラト」

紹介しながら視線を向けてきたアトラと、自分を見下ろす肥満虎のやりとりに、ヤスキは軽い違和感を覚える。

今年この街にやって来たばかりのアトラと、同じく赴任してきたばかりの教師…。普通に考えて接点が無さそうなこの二人

が、どういう訳か馴染みのように言葉を交わしている事に。

「ふむ。よろしくなぁ、シラト。アトラは、顔はちょいと怖いが、根は優しいヤツだから、仲良くしてやってくれなぁ?」

「ヒロ兄、余計な事言わないでくれ…」

露骨に顔を顰めるアトラと、優しげな弛んだ笑みを浮かべる肥満虎の顔を交互に何度も眺め、ヤスキは「は、はい…」と返

事をしながらも困惑する。

(…ひ、ひろにぃ…?え?え?知り合いなんです?)

二人のやりとりからは、明らかに旧知の間柄である事が窺えた。

が、ヤスキが訊ねようと口を開く前に、ヒロは「じゃ」と片手を上げ、二人に道を譲ってぺったぺったと廊下を歩き去る。

ぽかんと口を開けて広い白衣の背中を見送ったヤスキは、アトラが先に職員室に入った事に気付くと、慌てて後を追った。

「あ、あの…。知り合いなんです?あの先生と…」

小声で訊ねたヤスキに、「親戚なんだ」と、アトラは振り向きもせずに短く応じる。

(なるほどぉ…。けど、全然似てないですねぇ…)

とりあえず、親しげだった事には納得が行った。

「有り難う。有り難う助かった…!」

作業が終わった旨を報告し、陰がある…どころか、いかにも幸薄そうな雰囲気がある中年教師に感謝され、まんざらでもな

い気分になったアトラは、

「それでなぁ、実はその…、明日も頼みたいんだが…」

続けられた言葉で尻尾をぶわっと太くする。

誰が好きこのんであんな苦行をやりたがる物か。当然お断りだ。

そう考えて返事を決めたアトラだったが、

「ぼくはいいですよぉ。暇してますですから、明日もお手伝いするです」

口を開くより一息早く、傍らの白豚があっさりとそう言ったので、吃驚仰天、目を皿にする。

片割れにこう言われてしまうと、少々断り辛い。

遠慮したいのは山々だったが、喜ぶ担任の姿を目にし、結局アトラもしぶしぶ手伝いを申し出た。

(まぁ、暇と言えば暇なんだしな…)

と、自分に言い聞かせながら。




今なら判る。あの時ヤスキがあっさり頷いた理由…。

本当は、あまり早く帰りたくなくて、進んで用事を引き受けたんだよな…。

どんな苦行も、面倒な仕事も、「あれ」と比べれば楽な物だったから…。




その帰り道…。

「何だかなぁ…。お礼は良いとして、それが缶コーヒー一本とかどうなんだろうなぁ…」

担任から渡された缶のプルタブを起こしながら、アトラは微妙過ぎる労働対価についてぼやく。

時刻はもうじき六時半。春の日は先程水平線の向こうへ去り、空は刻々と夜色に変わってゆく。

「貰えるだけ良かったかもですよ?先生からの頼み事って、ただ働きとかが基本じゃないですかね?」

ぽってり肉厚の両手で缶コーヒーを包みながら応じたヤスキを、ちらりと横目で見遣り、一度は「確かにそうかも…」と頷

いたアトラだったが、一拍おいて思い直し、顔を顰める。

「いや、それでもあれだけの労働なら対価はそれなりに期待しても良いだろう?ラーメンの一杯でも振る舞うとか…。…とこ

ろでシラト、飲まないのか?」

「あ、ぼくブラックだめなんです」

応じたヤスキから視線を外し、開けたばかりの自分の缶を眼前に吊り上げて仔細に眺めたアトラは、

「微糖は?」

「微糖ならまぁ、いけるですね」

ヤスキに訊ねて確認すると、「良ければ」と交換を申し出る。

少し嬉しそうに目を細めて受け取ったヤスキは、アトラにブラックの缶を渡すなり、プルタブが空いた缶から甘さ控えめの

コーヒーを一口啜る。

再びプルタブを開けたアトラは、がぶっと煽って缶の半分を一気に飲み干し、口内と喉を潤す苦みで怠い作業の余韻を吹き

飛ばした。

「シラトは、甘い物が好きか?」

「え?嫌いじゃないですけど…。何でです?」

唐突な問いに首を傾げた白豚に「いや何となく」と応じながら、アトラは納得した。

肉の付きすぎで垂れた胸に、歩くだけで揺れる腹。太股も尻もズボンがきつそうで、顎の下まで脂肪がたっぷりついた首な

ど、制服の硬い襟が食い込んでいる。

その体型に加え、柔らかそうな短い白毛に覆われているせいで、アトラなど何となく鏡餅を連想してしまう。

甘い物が好きな事がそのまま肥満に直結する訳ではないだろうが、体型を見ていると好みにも頷けた。

「それにしても時間くったな…」

「くったですねぇ」

「…あのさあ、シラト」

「はいです?」

アトラは一度言い難そうに口ごもると、声を低めて話し出した。

「ヒロ兄…、いや、トラ先生がおれの親戚だって事…、皆には言わないでくれ」

「え?ええ、良いですけれど…、なんでです?」

首を捻ったヤスキに、アトラはもごもごと続ける。

「教師に親類がいるからって、特別扱いされているとか、勘違いされたくないんだよ。そういう目で見られるかもしれないだ

ろう?」

「ああ〜…、何となく判ったです。言いません。誰にも。…でも…、ぼくには何で教えてくれたんです?」

訊ねたヤスキに、アトラは顔を顰めて見せた。

「実は…、教えてから気付いたんだ。うっかりしていた事に…」

厳つい虎の顔に浮かぶ困ったような表情が少し愉快で、ヤスキは小さく笑いながら何度も頷いた。

「…そうだ。シラトは帰ったら何をしているんだ?」

「え?…えぇと、音楽聞いたりとかしてますですけど…」

意識して話題を変えたアトラは、ヤスキが口にした答えに食いつく。

「へぇ、どんな音楽を?メジャーな歌手のとかか?」

「いや、マイナーなのだから、ちょっと判んないかもですよぅ…」

「マイナーか。おれも好みは大概マイナーな傾向があるが…。中学は帰宅部だったのか?」

「ですです」

「じゃあ、友達と遊びに行ったりとかも」

「う〜ん…、一緒に遊びに行く相手があんまり居ないですけど、近くをうろうろしたりですかね…」

「そうなのか。…高校でも部活とか入らないのか?」

「はい。予定は無いです」

しばらくそんな風に会話した後、アトラはむず痒くなって軽く顔を顰めた。

「…なぁシラト。さっきも言ったがおれ達は同い年なんだ。タメ口で良いだろう?」

敬語で話される事が妙に引っかかっているアトラはそう言うが、ヤスキはふるふると首を振り、「慣れてるから、こっちの

が楽なんです」と応じる。

(慣れてるって感じの言葉遣いでもないと思うがなぁ…)

そう思いながら、アトラは眉根を寄せる。

(明らかにたどたどしいし…、使い方もちょっと…いやだいぶおかしくないか?)

そんな事を考えている内に分かれ道に差し掛かり、「じゃあ、ここで…」とヤスキに声をかけられたアトラは、考え事を中

断して足を止めた。

「ああ。…家、こっちの方なのか。寮と近いんだな」

「ぼくの部屋の窓から、寮が見えてるですよ」

「へぇ。なら直線距離なら結構近いのか…」

「それじゃあ…」

ぺこっとお辞儀したヤスキに頷き、アトラも口を開く。

「ああ、また明日な」

虎の挨拶に、何故か白豚は虚を突かれたような顔で一瞬黙り、それから笑みを浮かべた。

「うん。また明日ですね。プリント折り」

返されたヤスキの言葉で嫌な予定を思い出し、アトラは露骨に顔を顰めた。

「…そうだな。また明日頑張ろう…」




あの時の微妙な間…。ああ、はっきり覚えている…。

何を思ってきょとんとしたのか、今なら判るし…。

ひょっとしたら…、嬉しかった…のかな…。もしかしたら喜んでいたのか…。

普通に「また明日」と言える相手が居る事に、気が付いて…。




夕食後、自室の窓際に佇み、ぼんやりと外を眺めていたアトラは、

「暗いなアトラ。何かあったのか?」

風呂から戻って来たシゲにそう声をかけられ、「ちょっとな」と曖昧に頷く。

袖無しの白いシャツにジャージのズボンという格好の狼は、まだ乾ききっていない頭をタオルでグシグシと拭いながら首を

傾げた。

「何?下駄箱にラブレターでも入ってたとか?男からの。だから帰りが遅かった?」

「そうなったらちょっと戸惑うだろうな…。だがはずれだ。面倒な用事を先生に頼まれて、仕方なく居残っていただけだ」

「なんだ。普通に退屈な理由だな?」

「…作業としてもそうだが、確かに理由としてもつまらんなぁ…」

勉強用のデスクに寄って椅子に腰掛けたアトラは、部屋中央の座卓についてスポーツドリンクを飲み始めたシゲに、プリン

ト折りという退屈でつまらない手伝いの内容について説明する。

ついでに、疲れていたので夕食時に大牛の勧誘が来なかったのは幸いだったと、心の底からの本音まで。

「そっかー。そりゃ大変だったな。そのプリントがテストの問題とかだったらメリットもあるのに。自分の役に立つだけじゃ

なく、クラスの皆に情報として売れるもん」

「…お前、時々発想が物凄く黒いよな…」

「そうか?」

たぶん悪いヤツではないと思うのだが、正直なところアトラから見てシゲは掴み所がない。

正直と言えば聞こえは良いが、妙に裏表が無くて、飛び出す言葉が時に鋭い。

そんなんじゃあ要らない敵を作るぞ?と警告したくもなるのだが、まだ会ったばかりの自分がそこまでお節介な事を言うの

もどんな物かと、アトラも態度を決めかねている。

おまけに、本当に敵ができるかというとかなり微妙だったりもする。

どういう訳かこの狼、やたらと社交的なせいか他人の嫉妬を買わないのである。

入学してからというもの毎日のようにラブレターを貰っているにも関わらず、やっかみ一つ無い。

不自然なほど敵ができにくい…、そういう星の下に生まれているとしか思えなかった。

「で、それが嫌で窓の外を眺めて黄昏れてたってのかい?」

「嫌なのは嫌だが、窓の外を眺めていたのは別に意味が…」

まるっきり他人事なので極めて軽い調子のシゲに適当に応じかけたアトラだったが、唐突に言葉を切って首を捻り、窓の方

へ向けた。

「意味が無くもない…か…」

虎は再び窓際に寄って外を眺め、闇に浮かぶ民家の灯りを瞳に映す。

部屋の窓から寮が見えると、ヤスキは言った。

(ぼんやりとだが、あの言葉を意識してしまって、外を眺めていたのかも…)

そんな回想をノックによって打ち切られたアトラは、立ち上がって入り口に体を向ける。

遅れて立ち上がったシゲも、アトラ同様にドアの方を向いてへ視線を固定した。

そして二人は、ノックに続いて響いた「入るぞ」という、くぐもった声に「どうぞ」と、揃って返事をする。

ゆっくり引き開けられたドアの向こうには、入り口を殆ど埋めてしまうような幅のある巨体。

ドラム缶に手足が生えたような肥満体で、目つきは悪く、おまけに三白眼。耳が小さいアシカのような顔のフォルムが可愛

らしいだけに、挑みかかるような目つきが強い印象を与える。

淡い茶褐色の体を持つその男子は、本州ではかなりレアなトドの獣人であった。

藤堂汀(とうどうみぎわ)。アトラよりもさらに背が高く、あの大牛よりほんの少しだけ背が低く、胴回りは二人を合わせ

た程もある。

寮で二番目の身長と一番の体重を誇り、トドのくせに山育ちで泳ぎが不得意という、何から何までちぐはぐなこの海獣、相

撲部主将で寮の副寮監でもある。

そんな目立つ大男の、どーんと突き出た太鼓腹の前には、体積が三分の一も無い小柄な生徒が立っていた。

トドと同じ体色をした、小柄ながらも凛々しい顔付きの柴犬は、この寮の寮監を務める星埜光(ほしのひかり)。

ふわふわかつすっきり、おまけにチャーミングな見た目の愛らしさに反し、極めて厳格な寮監として知られており、眼差し

は鋭く、居るだけで場を引き締める。

二人は同じデザインの黒いジャージ姿だが、サイズがあまりにも違い過ぎるせいで、ぱっと見ただけでは同じ品だと気付け

ない。

「真垣亜虎!水上重善!」

凛とした声で名を呼ばれた二人は、その空気の影響を受けてか、背筋を伸ばして「はい!」と声を重ねる。

「よし!」

良く通る声を発した柴犬の後ろで、トドが無言のままボードに止めた名簿へ印を付ける。

「…二人とも、点呼の時間には必ず待機しているな。感心だ」

珍しく少しだけ表情を緩めた柴犬は、背後に聳えるトドを肩越しに見上げ、何やら頷きあうと、再び二人に視線を戻す。

「口頭で注意はしているが、どうやら中学生気分と春休み気分が抜けきっていない一年生が多いようだ。相変わらず点呼時間

の留守が多くて困る。君達については規則についても十分理解していると思うが、点呼に間に合いそうにない時はまず連絡。

外泊などの際には事前の届け出を忘れないように」

そう生真面目に告げると、柴犬は「ではお休み」と言い残し、トドが無言でドアを閉める。

肩の力を抜いたシゲは、頭を掻きながら唸る。

「何か緊張するんだよなぁ、あの寮監達と向き合うと」

「真面目なんだろう。きっとあの真面目なオーラが、おれ達を強制的に緊張させながら真面目にさせるんだ」

真顔で言うアトラに、狼はきょとんとした顔を向ける。

「元々真面目だからか?アトラはそう緊張してる風でもないよな?」

「おれはそう真面目でもないぞ?特に午後の授業中は不真面目だ」

またも真顔で応じたアトラに、シゲは肩を竦めて見せた。

「そういう事正直に言えるあたり、やっぱ真面目だよ。…いや、ひとが良いっていうのかな」

「そうか?…いやどうだろうな。真面目というならアイツの方が…」

眉根を寄せたアトラは、おとなしい白豚の事を思い出す。

(あの作業、あまり嫌がっている様子もなかったな…。辛抱強いのか、お人好しなのか…)




自分の視野の狭さには、ほとほと呆れる。

ヤスキはお人好しで辛抱強いかもしれないが、おとなしかった訳ではない。

萎縮して、怖がっていたんだ。

しかもヤスキが怖がっている物は、そこら中に溢れていて…。




翌日の午後、帰りのホームルームが終わった後、アトラはヤスキと共に担任に付き従い、生徒指導室に足を運んだ。

そこでアトラは目にした物のボリュームに軽く仰け反り、ヤスキは「うわぁ…」と、感心すらしているような声を漏らす。

量が二倍であった。

折るべきプリントと前日折ったプリントがテーブルの上で並び、圧倒的なプレッシャーを放っている。

(昨日…、こんなに折ったのか…)

自分の労働を振り返り、心底呆れ、かつ嫌になって来たアトラは、担任の言葉で絶句した。

 そして「折る」という字は「祈る」という字に似ていると、やはり逃避気味に、かつ無意味に考える。

また、こうも思った。プリントを折り終える前に、自分の心の方が折れそうだと。

「悪いけれど、折ったヤツを昨日のヤツの中に挟んで行ってくれ」

実質的に昨日を上回る労働量。アトラは早くも引き受けた事を後悔するが、

「判りましたです」

傍らのでっぷりした豚はさらりと頷いてしまう。

正直「やっぱり用事が…」と逃げ出したい気分になっていたアトラだったが、ヤスキがこうまで潔く応じて席に着いてしま

うと、自分だけ逃げる訳にもいかない。

しぶしぶ席につき、「じゃあ頼むな」と言い残してふらふらと部屋を出てゆく担任を見送ると、一度大仰にため息をつき、

それから親の敵でも見るような目でプリントを睨んで折り始める。

「おー。やる気満々ですね?」

「やる気なもんか…!気乗りはしないが、早く帰るには早く終わらせるしかないだろう?」

感心したような顔をするヤスキに言い返し、アトラは紙が破れるのではないかという程の力を込めて作業を続ける。

「ぼくはのんびりでも良いんですけどねぇ…」

「勘弁してくれ…」

げんなりして応じたアトラは、しかし気付かない。呟いたヤスキの顔と声が、暗く沈んでいた事には。

折り込むという手間が増えている分、アトラが急いでも作業は昨日より遅くまでかかり、終わった時には時計の針が七時少

し前を指していた。

疲労というよりは飽きがきて活きが悪くなっているアトラは、前日と同じくヤスキと共に職員室へ報告に行き、やはり前日

同様に感謝の言葉と缶コーヒーを受け取る。

「…つくづく思う…。ラーメンぐらい振る舞ってくれてもバチは当たらんと思うよ、おれは…」

疲れた足取りでスニーカーを引きずりながら、校門を目指すアトラが呻く。

「そうですねぇ。お腹減りましたねぇ」

うんうん頷くヤスキは、またもブラックを渡されたので、アトラに取り換えて貰った甘いコーヒーを啜る。

故郷にあるラーメン屋のマイフェイバリットメニュー、こってりした醤油ラーメンの味と香りをリアルに思い出すアトラ。

思い出した途端に腹がグゥと鳴り、アトラは気恥ずかしげに耳を寝かせ、それを見たヤスキは小さく笑った。

「マガキ君、立派な体してますもんねぇ。お腹も減りますよねぇ。やっぱりよく食べる方です?」

「まぁ、小食ではないかな…」

見た目からしていかにも食いしん坊といったイメージがあるヤスキに問われ、何となく釈然としない様子のアトラ。

が、その何処をどう指摘して言い返そうかと軽く悩む顔が、唐突に一変した。

「…あ…」

表情を消し、声を漏らして立ち止まったアトラを、少し進んでから気付いたヤスキが振り返り、小首を傾げる。

「どうかしたです?」

「…夕飯…どうしよ…」

困り果てた声と表情で呻いたアトラを、しばし不思議そうな目で見つめたヤスキは、何か思いついたように突然「ああ!」

と声を上げ、ぽってりした手をポンと打つ。

「寮の食堂、もう終わっちゃったです?」

こくりと力なく頷いたアトラは、傍目にも判るほどガックリしていた。

お代わり自由でたらふく食える寮の夕食を逃した事実は、プリント折りの精神的疲労にダメージを上乗せし、アトラの心を

へし折りにかかる。

「…外で食って帰ろうにも、小銭しか持って来ていないからな…。仕方ない、一度帰ってから外食に出るか…」

そんな元気の無い虎の呟きを聞きながら少し考えたヤスキは、やがて何かに気付いたように、アトラを通り越すような視線

になる。

そして一瞬目を見開いた後、軽く息を飲んだ。

その表情の変化に、しかし俯いているアトラは気付けない。

表情を少し強張らせていたヤスキは、やがておずおずと口を開いた。

「あ、ああ、あの…、良かったらですけど、ぼくの家で食べてくです?大した物ないですけど…」

疲れたような目を上げて顔を窺ったアトラに、ヤスキは少し早口になって続けた。

「ぼくの家、いつも両親遅いです。それでっ、ぼくもこれから一人で食事なんです。だから親に遠慮する事ないですしっ」

「け、けれど…、やっぱり悪い。急にお邪魔して飯だなんてそんな…」

「つ…、つまんないですし!一人で食べるの!嫌なら無理言わないですけど、どうです?」

そう提案する白豚は、少し身を乗り出し、大きな鼻穴からフコッフコッと息を漏らしている。

何故か必死さを感じるヤスキの誘いに、遠慮と食欲の間で迷っていたアトラの気持ちが固まった。

「…おれ、結構食うぞ?」

「平気です!」

嬉しそうに、そしてほっとしたように応じたヤスキの顔を見ながら、アトラは思う。

もしかしたらヤスキは、一人で夕食を摂るのが寂しかったのかもしれない。と…。




…ああ。今なら判る。

あの時は、ヤスキがどことなく必死に見えたような気がしていたが、本当に必死だったんだよな?

寂しかったんじゃない。ヤスキは我慢強いからその程度の事は何でもないんだ。

あの時おれを誘ったのは寂しかったからじゃなくて…。

…うん。あのままおれと別れて一人になるのが、まずかったからなんだろう…。

結果的には、俺を誘ったせいでかえってまずい事になってしまったんだが…。