第四話

 寝癖だらけのシェパードはボーっとした目で、鏡に映ったむくんだ顔を見つめていた。

 眠気が抜けていないキヨシは大欠伸をしながら、ランニングシャツの下から手を入れて裾を捲りあげ、ムッチリした腹をモ

ソモソ掻く。

(ちょっと酔いが残っている…かな?)

 やや飲み過ぎたようで、食欲があまりない。とにかく喉が渇いていたので冷蔵庫に向かい、水割り用のミネラルウォーター

を取り出し、ソファーに座ってテレビのリモコンを取る。

 ボトルから直飲みし、冷たい水が胃に染みてゆく感覚を楽しみながら、キヨシはしばらく朝のニュースを眺めた。

 尿意を覚えて普段より少し早い時刻に目が覚めたので、時間には余裕がある。

 アルコールが残る血管内に水分を送り込んでやりながら、キヨシは昨夜の事を思い出した。



「中学生の息子さんを?」

「はい。まぁ、探すというか、あの辺りに居るかどうかも判らないままだったんですけれど…」

 仕事相手…上客である明神グループの若旦那を前に、キヨシがすっかり耳を倒して恐縮しながら事情を語り始めたのは、危

うい所へ助け舟を出された二十数分後の事だった。

 探し物なら手伝おうと言う大牛に、キヨシは当たり前に遠慮した。だが、カナメはそれで行ってしまう事もなく、夕食がま

だなら一緒に食事でも如何かとキヨシに持ちかけた。

 地理に明るくないとも言うし、助けて貰った恩もあるし、仕事の上でもこれから付き合ってゆく事になる…。逡巡したキヨ

シは、結局総合的に考えて断るべきではないと結論を出し、カナメを案内して食事処に赴いた。

 カナメが立派な和服姿なので、カウンター席や匂いがつく焼肉系の店は避け、個室がある店にすべきだろうと考えたキヨシ

が足を運んだのは、かつて住んでいた頃に上司と一緒に暖簾を潜った店。繁華街の外れ、賑わいの中心からはややずれた位置

にある、あまり大きくない店構えの居酒屋だった。

 居酒屋とは言ってもそれなりに高級で、料理は和食のみ、酒は日本酒と焼酎のみ。大将の好みでやや偏ったお品書きのせい

か、若者はあまり寄り付かない。だからこそ席は埋まっていないのではないかとキヨシは考えたのだが、目論見通りに個室が

空いていた。

 半分は上客の接待。もう半分は助けて貰ったお礼。そのつもりで席に着いたキヨシだったのだが…、

「それは、息子さんが反抗期で家出した…、と、そのような事でしょうか?」

「ああいや!そういった事ではなく!」

 卓を挟んで向き合う上客に、心配されてしまっている。

「ちょっと、訳がありまして…、もう長い事一緒に暮らしていないんです」

 家庭の事情を話して心証が悪くなっては仕事に差し支えるかもしれないと、ぼかして答えたキヨシに対して、カナメは「そ

うでしたか」と顎を引いたきり話を切り、内情には踏み込もうとはしなかった。

「や。しかしです。小生も詳しくないものの、繁華街を中心に近頃は物騒な事も増えたと聞き及んでおります。中学生であれ

ばなおの事、できれば息子さんにも、盛り場などにはあまり近付かないようお話をしてあげるべきでしょう」

「まったくです…」

 首を縮めるシェパード。

 身をもって物騒なところだと知った。カナメの言うとおり、会ってきちんと話をしなければ…。と考えるキヨシは、ハッと

お猪口を手に取った。大柄な牛は徳利を差し向け、遅れて迎えに来た酒盃にそっと酒を注ぐ。すぐさま酒を注ぎ返したキヨシ

は、チビリと酒を舐めつつ、クイッと軽やかにお猪口を傾けるカナメの様子を窺う。

 逞しく厚みのある体躯に和服。貫禄のある落ち着いた所作。表情は穏やかで眼差しは思慮深げで、振る舞いを含めたそれら

全てに品がある。どこか現実離れしているようにも感じられるが、存在感が希薄という意味ではなく、むしろ自分が非日常に

紛れ込んでしまったような感覚がある。

 とはいえ、居心地が悪いとは思わない。不思議な柔らかさ、温かさが、目前の大男から感じられて、むしろ向き合って座し

てからは緊張がほぐれていた。

 不思議な印象のひとだなぁと、夕餉を共にしながらキヨシは感じていた。そして…。



「もぉいっけん、いきまふかぁ~?」

 ヨタヨタとおぼつかない足取りの肥ったシェパードが、歩道と車道の低い段差に躓き、「おっとっと」と派手によろめく。

「お気をつけて。…や。流石に今宵はこの辺りにした方がよろしいでしょう…」

 さっと手を伸ばし、腕を捕まえて引く格好でキヨシを支えた和装の逞しい牛は、微苦笑を浮かべて中年を嗜める。

 面識も無かった同士、酒と飯の席での雑談はそう続かず、次第に共通の話題…仕事の方の話に移っていった。これが良くも

悪くもあったのだが、部屋のデザイン、レイアウト、コーディネートの話題で盛り上がり、すっかり意気投合し、そしてキヨ

シは飲み過ぎた。カナメが話し上手で聞き上手という事もあったのだが、手がけたコーディネートを挙げられて、あれを気に

入った、これが良かった、などと具体例込みで褒められて、かなり舞い上がってしまったのである。

 おかげでもう打ち解けて、馴染み同士のように親しくなっているが…。

「いやぁ~、すいまふぇん…」

 呂律も怪しいキヨシがヘラァッと緩い苦笑いを見せ、カナメはタクシーを捕まえて、先に中年を押し込む格好で乗り込むと、

住所を聞き取りしながら運転手に説明し、しっかりと自宅まで送り届けてくれた。



(…考えてみたら、最初から随分な失礼をやらかしているような…)

 思い出して落ち込んだキヨシは、しばらく項垂れた後で出社の準備を始めた。

(そうだ。二日酔い対策でウコンとか買っておこう…)




(また強盗、暴行か…)

 警察署の一角、デスクについている狐は、防犯パトロール強化の計画書と一緒に回ってきた事例報告書を読み終え、判を押

すなり難しい顔で眉間を揉む。

 街の発展に伴いじくじくと膿むように悪化した治安は、しかしコレと特定できる大元の病巣が存在しない。非社会的行為を

行なうグループや暴力団紛い、欲目が出たチンピラに過度な行為に走る不良、無数の要因が環境を生み出しているため、何処

か一箇所を押さえれば済む話ではない。しかもタチが悪い事に、そういった反社会的活動を職業的に行なう「業者質」の連中

も多く流入している。

 ある種の者達にとってはあまりにも都合が良過ぎる好条件が整い、しかもそれがひどく急速に進んだために、現在この街に

はある「疑い」が向けられていた。そのため、マサタカは今年度から署外の協力者と組んで動いているのだが…。

(それでも、何か一つ取り除いて綺麗に解決するような事じゃあない)

 例え明らかな病巣があったとしても、それを除けばすんなり片付くような話ではない。街自体の魅力が変わらない以上、一

度ついてしまった「流入の癖」はそうそう抜けない。

 暴力団追放を掲げる自治体の運動のように、長期的にはそういった連中がのさばり難い環境そのものへと変えてゆく、草の

根活動による抑制作戦が有効なのだが…。

(数年越しの地道な活動…。効果が表れるまで時間はかかる。着実に行くしかないが…)

 ため息を漏らすマサタカ。担当違いとはいえ、気にかけている少年の事が心配だった。

(アイツ…、エスカレートしてああいう連中に加わったりしないだろうな?)

 ケイゴがハグレの気質である事は知っている。だが、若い間はどう価値観や理念が変わるか読めない部分も大きい。実際の

ところ、ヤンチャが過ぎていた自分が、当時蔑んでいた「オマワリ」になっているのだから。

(…っと、そろそろいらっしゃる頃だな)

 壁時計を確認して腰を上げた狐は、豊かな尾を優雅に振りながら部屋を出て、取調室などが並ぶ方へと署内を歩いていった。




 そして、夕刻。

 屋上に寝転がって流れる雲を眺めていたケイゴは、鐘の音と共にムクリと起き上がる。

 稼ぎの時間。学校を出て向かう先は、活きのいい学生がはばを利かせるゲームセンター近辺。金を巻き上げる不良を獲物と

した、カツアゲ狩りである。

 歩きながら、ケイゴは顔を顰めた。先の喧嘩でグラついた歯がまだ痛み、顎の横が腫れて、口を動かすと突っ張る感覚があ

る。歯痛の影響か頭に鈍痛もこびりついている。

 イライラしつつ歩いてゆくケイゴは、ふと思いついた。

(…痛み止め…、か…)

 ほんの少しだが手持ちの金には余裕がある。薬を買うのもいいかもしれない。そう考えて進む方向を変え、ケイゴは少し離

れたドラッグストアに足を伸ばす。

 歩いている内に空模様が怪しくなり、シェパードは憎々しげに空を睨んだ。

 やがて、それまで眺めるだけだったストアに初めて入ったケイゴは、不慣れな店内を少し珍しそうに入り口から見回して、

「風邪薬・鎮痛剤・感冒薬」と書かれた看板が天井からぶら下がっている事に気付く。

(助かった。何が何処に置いてあるって、書いてあんだな…)

 薬の種類やメーカーには詳しくないので、案内があるのは有り難い。棚に歩み寄ったケイゴは、聞いた事がある名前のパッ

ケージをしげしげと見比べる。メタリックに輝く銀と青、シックなホワイト、デザインは様々だが…。

(…ん?)

 ややあって、シェパードは目を大きくした。

 ケイゴは薬に詳しくない。だから知らなかった。値段も。

(高ぇ…。こんなにすんのか?)

 おにぎりやハンバーガーに換算し、歯の痛みと相談し、買うべきか否かしばらく迷ったケイゴは…、

「…ケイゴ?」

 横手からかけられた声でハッと首を巡らせる。

 栄養剤の瓶などが並んだ隣のブース。そこに、肥った中年のシェパードが、ウコンの粒剤パックを手にして立っていた。

 外回りの帰り、キヨシは帰社する途中でドラッグストアに寄っていた。父にとっては嬉しい偶然だが、子にとっては…。

「やっぱりケイゴだ!…って、ちょっ、待って!」

 顔を見るなり踵を返し、出口に向って足早に去るケイゴを、キヨシは追いかけ…ようとして商品を持ったままな事に気付き、

きちんと元の位置に戻してから改めて慌てて追いかける。

 足早に店を出て駐車場を横切るケイゴに、後を追って外へ転げ出たキヨシは、ドタドタと不恰好に走りながら近付いて…。

「寄るな…」

 振り向き様に睨まれてピタッと立ち止まる。が、竦みながらも唾を飲み込み、勇気を出して口を開いた。

「ど、何処か痛むのかい?それとも、風邪…とか?」

「テメェには関係ねぇだろ」

 凄むケイゴに、しかしキヨシは食い下がる。

「あるよ。お父さんなんだから…」

 お父さん、と自称するキヨシにカチンときて、ケイゴは吐き捨てた。

「オマワリ呼ぶぞ?「知らねぇ大人」に付き纏われてる、ってよ」

「………」

 グッと口を引き結ぶキヨシ。「知らない大人」という表現が痛恨だったようだが、その泣きそうな顔を見たケイゴは弱い者

いじめをしたような気分になり、チッと舌打ちして逃げるように立ち去る。

(…また、話せなかった…)

 項垂れてしょげたキヨシは、トボトボと社用車に戻り、結局何も買わないまま戻って行った。



(歯が痛ぇ…)

 遊歩道の東屋でベンチに座り、パンの切れ端を白猫に与えながら、ケイゴは頬を押さえて唸る。

 あの中年のせいで薬も買い損ねた、と恨み節で悪態をつくも、それで痛みが引く訳でもなく、イライラが増してゆく。

 食べ終えたコナユキが案ずるようにベンチに飛び乗り、太ももに頭をこすり付けてニィニィ鳴く。

「…何ともねぇよ…」

 ぶっきらぼうに呟いて、コナユキの頭を撫でてやって、ケイゴは東屋の屋根の縁と空の境目を見遣る。既に雲が広がり、一

面灰色の曇天は太陽の光を大幅に遮りつつあった。

(降るのか…)

 雨は、嫌いだった。



「お呼びでしょうか部長…、あ」

 ケイゴが去った後、トボトボと社に戻ったキヨシは、デスクに戻るなり部長から連絡があったと同僚から聞いて、部長室に

赴いた。そこで、先客の姿に目を奪われる。

「や。昨夜はお世話になりました」

 微笑を浮かべて会釈したのは和装の牛。

「ど、どうも。こちらこそお世話になりまして…」

 応じるキヨシはどうにも居心地が悪いが、偶然とはいえ食事を共にしたと聞いた部長の方は、良い営業ぶりだとニヤニヤし

ている。

「もう挨拶は済んでいるそうだが…、テシロギ。改めて自己紹介したまえ」

 上司に促され、改まって名乗りつつ、二枚目の名刺を渡すキヨシ。カナメからも名刺がもう一度渡され、双方共に微苦笑を

交わす。

 簡単な自己紹介を済ませたところで、部長は「戻って早々で悪いが」と本題を切り出した。

「ミョウジンさんから追加で正式に依頼された事がある。しかも君をご指名だ。相談に乗って差し上げなさい」

 何が何だか判らないキヨシに応接セットを提供した部長は、すぐさま電話を手にして元の仕事に没入してしまう。

 さて相談とは何だろう、とカナメを窺ったキヨシは…。

「小生、しばらくこちらで活動する事もあり、一昨日マンションを借りて身を移しましたが…」

「ああ、そうでしたね」

 昨夜の酒の席で、一時この街に身を置く事にした、という旨の話を聞いたなぁと、キヨシはアルコール越しの記憶を引っ張

り出す。

「そこで、よろしければですが、小生の部屋もテシロギさんにコーディネートを施して頂ければと…」

「私に、ですか?」

 聞き返したキヨシだが、その問いを発し終える前に理解した。

 大きな商談の際には時折、腕の確認で自宅などを弄らせられる事もある。今までも何度か取引先の社長宅や役員の部屋を使

い、コーディネートを披露してきた。

「承りました。私でよろしければ…」

「助かります。それで、早速ですが…」

 断られる事は考えていなかったのだろう、カナメは持参したバッグからファイルを取り出し、部屋の間取り図をテーブルに

広げた。

「家具の類はまだ、布団と冷蔵庫、電話とファックス程度しか置いてありません。調度も含めてコーディネートをお願いした

いのですが…」

 なるほどなるほど、と図面を見ながらキヨシは繰り返し顎を引く。

(これ前提での引越しか…)

 おそらく仕事と生活で必要な最小限の物だけ運び込み、あえてそこで止めていたのだろうとキヨシは考える。普段の生活は

ともかく、職人としては超一流。キヨシはカナメから置いてある家具のメーカーや見た目を聞き出し、頭の中で素早くデザイ

ンを整え、最後にこう訊ねた。

「窓からの景観はどんな様子でしょう?」

 これに、カナメは一度目を丸くし、それからゆっくり細めて満足げに笑った。

 マンションの一室でベランダも狭く、庭も無い。だが、窓の向こうの景色まで吟味の材料に加える…。キヨシのスタイルそ

のものに、カナメはこの時点で高い評価をつけている。

 カナメの仕事は、マンション、アパート、ホテルなどを全国で経営する明神グループにおいて、運営中の施設と進出の最前

線を現地確認する事。さらに、賃貸マンションをホテルへ、ホテルを賃貸マンションへと、各種運営転換の是非も含めた大局

的判断もその中に含まれる。失敗するホテル、成功する旅館、ひとの付くマンション、離れるアパート、様々なケースを自分

の目と裏事情を示す書類で確認し続けて来たカナメは、あるポイントを重視するようになっていた。

 それは、「調和」と「隔絶」である。

 例えば、旅行客などが観光に赴いた場所では、現地のテイストが含まれて外との調和が保たれた内装は好まれる。

 逆に、都市圏においては外の喧騒から隔絶された、別世界を演出するレイアウトが興味を引き易い。

 キヨシが外の景観を気にしたのは、カナメが短期滞在という事を念頭におき、仕事での滞在とはいえ観光客のように現地の

雰囲気を味わえる空間をコーディネートしようと考えたからだろうと、大きな牛は察していた。

「…お心遣い、痛みいります」

 耳を寝せて喜んだカナメの礼に、キヨシは頭を掻きながら照れ笑いで応じた。



 プラスの商談も良いスタートを切り、ホクホクと家路についたキヨシは、バス停からマンションまでの短い距離を、足取り

軽く歩む。

 湿った風も降り出しそうな曇天も全く気にならない。カナメの部屋には明日早速お邪魔して、構想を練る事になった。帰っ

たら部屋の図面を元にいくつかパターンを決めて行こうと、晩酌しながらのレイアウト構想を楽しみにするキヨシは、ふと首

を巡らせる。

 顔を向けた先で目に止まったのは、運河と遊歩道。思い出したのは、ケイゴがそこから出てきた事と、出会った白い猫の事。

(………ちょっと覗いてみようか)

 思い立って、コンビニで猫缶を買って、キヨシは運河沿いへ足を向ける。

 天気の悪さが気になりだして、足早に歩いた中年は、湿った風が樹木の香りを運ぶ遊歩道に踏み入り、東屋に目を向けた。

(あ…。誰か居る…)

 東屋のベンチには、横たわっている人影が見えた。

 何だかんだで遊歩道、誰が散歩に来ていてもおかしくないなと、窺いながら歩を進めたキヨシは、仰向けでベンチに寝そべ

り、足を投げ出しているその人物のすぐ脇に、白くて小さな猫を見つける。

(飼い主さんかな?)

 不審に見られない程度に距離を取って、東屋と、そこに寝ている人物に目を向け続けたキヨシは…、

(あれ?)

 寝ている人物が学生服姿である事に気付いた。そして、気付いた途端に確信する。

「ケイゴ!?」

 そこに居たのは、息子だった。

 ドタドタと駆け寄るキヨシ。驚いて逃げるでもなくキョトンと接近者を見つめるコナユキ。そして、眠りの中から引き摺り

出され、夢うつつのまま薄く目を開けて、アイマスクのように顔の上に寝せていた腕の袖を視界一杯に映すケイゴ。

「大丈夫!?具合が悪いのかい!?」

 駆け寄り、跪き、すぐ傍で顔を覗きこんだキヨシは、顔から腕を除けた息子にボンヤリとした瞳で見返された。

(…変な夢、見てんな…)

 一瞬そんな事を考えたケイゴの額に、キヨシの掌がポテッと乗る。

「ちょ…、え!?凄い熱じゃないか!?」

 驚いて目を剥いたキヨシの大声で、ケイゴはハッと意識を定めた。同時にこめかみを締め付けるような頭痛がやってきて、

顔を顰めた少年は額に触れる手を叩くように払い除けると、ガバッと勢い良く身を起こす。

「…てめぇ…!」

 憎々しげに睨み付けるケイゴ。至近距離から眼光を浴びせられたキヨシは、その鋭さに身震いする。

 怖い。だが、それでも、心配である事には変わりない。

「ケイゴ…、具合が悪いんじゃないのかい?こんな所で寝ていたらかえって悪くなるよ…」

 息子の不調を感じ取り、案ずるキヨシに対して、

「馴れ馴れしく話しかけてんじゃねぇぞ…」

 ケイゴは低い声で凄みながら立ち上がる。

「あ!待っ…!」

 引き止めようとしたキヨシは、言葉も半ばに引っくり返った。胸を平手で乱暴に、拒絶を込めて突かれて。

 肺が圧迫されて激しく咳き込むキヨシ。尻餅をつく格好になった中年を見下ろし、鼻面に皺を寄せた威嚇の表情でケイゴが

吐き捨てる。

「迷惑だ。オレに付き纏うな…!」

「付き纏うなんて!お父さんはただ…」

「何が「お父さん」だ!!!」

 一層強い怒声を浴びせられたキヨシが身を竦め、ケイゴはさらに苛立った。が、脅そうとした相手が狙い通りに怯えたとい

うのに、それで何故苛立つのか、自分でも判らない。

「ツラ見るだけでイライラする…!何でオレにちょっかいかけて来るんだ!」

「し、心配になっただけで、ちょっかいなんて…、ゲホン!」

 無理に喋って咳がぶり返すキヨシ。対してケイゴは「心配!?」と不快げに唇を捲り上げ、牙を晒した。

「要らねぇ心配だ!関係ねぇヤツはすっこんでろ!」

 怒鳴る度に中年が竦む。その仕草でますます苛立つ。

 これ以上はまずいと、ケイゴは頭の隅で感じた。このままではイライラが募って、手や足が出てしまいそうだ、と…。

「…オレに構うな…!」

 唸り声を吐き捨てて踵を返したケイゴを、咳き込むキヨシの傍らで、コナユキがニーと鳴いて見送った。

(ケイゴ…)

 拒絶され、取り残され、へたり込んだまま、キヨシは立ち去る息子を見送った。



 日がとっぷり暮れて、星が出番を迎えた宵の口。

 暗い室内に灯りもつけず、着替えもせず、スーツのまま自室のソファーにぐったりと寝そべって、キヨシは息子の言葉を思

い出していた。


―迷惑だ。オレに付き纏うな…!―

―何が「お父さん」だ!!!―

―関係ねぇヤツはすっこんでろ!―

―…オレに構うな…!―


 照れ臭くて避ける。面識がないから顔をあわせ辛い。どう接して良いか判らない。…そんなレベルではなかった。はっきり

とした拒絶の意思が、鋭い言葉に込められていた。

(私は…。私は…。ケイゴに…)

 会えて嬉しかった。積もる話をしたかった。父としてこれまでできなかった事を、これからなら…。そうも思った。

 だが、間違えていたらしいと今になって気付いた。

 父親。そう名乗る事自体がケイゴには不快なのかもしれない。息子の側から見れば、自分は不要どころか、居ないほうが良

い相手なのではないか?と…。

(ケイゴにとって…、要らない存在なのかもしれない…)

 今になって、払われた手がジンジン痛み出した。




「まただ」と感じた。

 また、自分は竦んで、見送ってしまっている、と…。

 離婚した自分の立場とか、親権とか、負い目とか、そういった事はたぶん、あまり考えていなかったと思う。

 私はただ、竦んでいたんだ。

 態度、拒絶、どっちも怖くて、身が竦んでいたんだ…。

 そして、もう関わるべきじゃないのかもしれないって、思い始めたんだ…。

 身を引くべき。…ただその考えは、単にケイゴの気持ちを思っての事だけでなく…。

 …正直に言うよ。私は、それ以上キツく、強く、拒絶されるのが怖くなったんだ…。




 それから四日後…。

「なるほど。これは…」

 担当責任者であるキヨシと自分を残し、人払いが済んだ部屋の中で、カナメはレイアウトを見回して満足げに頷いた。

「どうでしょうか?」

「や。すばらしい…!散々打ち合わせしておきながらお恥ずかしい事に、こうまで居心地の良い、しかも新鮮さがある部屋に

なろうとは、想像できておりませんでした…!」

 キヨシはカナメの感想を聞き、ホッと表情を緩めた。

 前哨戦とも言える、カナメ個人の部屋のインテリアコーディネートは、部屋主が満足する出来栄えとなった。

 和の物が好み…というよりも、和の物でないとどうにも落ち着かないというカナメに配慮し、居間の彩りに組み合わせたの

は、同じメーカー品の座椅子と座卓。壁際には一輪挿しを乗せられる飾り棚を兼ねた階段箪笥に、格子の引き戸がついた木組

みのテレビ台。テレビを望む座椅子の横には透かし彫りの衝立がパーテーションとして置かれ、座した際に目に入る窓の光を

抑える仕組み。

 寝室には畳敷きのスペースが用意され、布団は一段高いそこに敷く。枕元には小さな丸い卓袱台が置かれ、提燈を模ったナ

イトランプが鎮座し、携帯などの充電が出来るようコードが引かれている。

 逆に、風呂場や台所などの水周りは気がねなく使えるように、抗菌素材の近代的な生活雑貨を中心に固められているが、キ

ヨシが古巣から取り寄せてプレゼントした、薫り高い蒼森ヒバ製の湯桶、手桶、風呂椅子、まな板が、その芳香で心安らぐ空

間を演出している。

 空間を広く使えるよう、しかし間延びした殺風景なポイントが生じないよう、程ほどの密度と生活動線を確保した空間は、

大柄なカナメのサイズに合わせて計ったようにしっくり来る。

 金に糸目はつけない、という条件があればこそだったが、好みと意図を汲んで不満の無い、そして想像していた以上の形に

たった数日で仕上げられたのは、キヨシ自身の経験に裏打ちされた豊富な選択肢と閃きあっての事である。

「有り難うございました。そして何卒これからも、よろしくお願い申し上げます」

 丁寧に礼を言い、これからの事も頼むカナメ。太鼓判を貰ったと言って差し支えないキヨシだが…、

「はい。こちらこそ…」

「………」

 カナメは微かに眉根を寄せた。

 ここ数日、どうにもキヨシは元気がないように思える。付き合いが長いわけでもなく、さして人柄や性格を把握できてもい

ないのだが、カナメは他者の体調不良や精神的疲労に敏感な性質。キヨシが何らかの不調を抱えているのではないかと、密か

に案じた。

「よろしければですが…」

 大柄な牛は丁寧に、控えめに、切り出した。

「ささやかながら、部屋の装いが整った祝いなどをしたいところです。改まった物ではありませんが、軽い祝杯にお付き合い

頂けませんでしょうか?」

 キヨシは一瞬逡巡したものの、お得意様のお誘いを無下にするのはデメリットと感じ、有り難く誘いを受ける事にした。の

だが…。



(まさか今日だなんて…)

 一度帰社して報告を終えた後、再びカナメの部屋に戻ったキヨシは、届いていた出前の寿司桶を目にしてゴクリと唾を飲み

込んだ。

「善は急げと申します。予定の空きを見過ごすのも勿体無い。それに、労いはその日の内にできるなら、それに越した事もご

ざいません」

 羽織袴姿から、部屋着なのだろう若草色の着流しに着替えたカナメは、セッティングされたばかりの初々しい居間にすっか

り馴染んで見えた。キヨシが手がけたコーディネートの賜物なのだが、それもカナメの貫禄と佇まいあっての物。どちらも浮

かず、外れず、よく調和している。

 出前の特上寿司を振る舞うカナメが用意した酒は、出羽桜春雷。まだ飲んだ事のない貰い物だが、辛口なので寿司には合う

だろうと選んだ品である。

 出前は手鍋に一つ分の汁物付きで、海老二匹の頭が丸々入った海老汁が、カナメの手で御椀に取り分けられて湯気を上げる。

「では、ご苦労様でした」

「いえいえ!お気に召したようで、とても嬉しいです!」

 卓を挟んで向き合って、注ぎあった酒で満ちたお猪口を上げ、乾杯するふたり。

 まずは一口、ツッと啜ったキヨシは、舌に来る辛味に目を丸くする。

 極めて辛口で、スッと立ち消える味わい。なるほど生物にこの酒はいい、とキヨシは感嘆するも…。

「ここ数日、お加減が優れないのでは?」

「え?」

 酒盃から目を上げたキヨシは、カナメの問いで数度瞬きする。

「や。杞憂であればそれで結構なのですが。不躾な踏み込みでしたら、どうか気を悪くなさらず…」

「あ…、いえ…」

 目を泳がせたキヨシの視界の隅で、カナメの箸が寿司桶からヒラメを攫ってゆく。

 黙っているのも失礼だし間が持たない。キヨシは小さく息を吐き、「体調不良ではないんですが…」と、食事時の楽しい話

題にならない事を確信しながらも、案じてくれたカナメに話し始めた。

 息子と上手く行っていない事。

 体調が悪そうだったので心配したのだが、要らぬと突っぱねられた事。

 父親らしくもない自分だから、頼れる相手と思われて居ないのだろうという事。

 自分の助けなど、本当に不要だったのだろうという事…。

 気付けば内容は愚痴と悔やみそのもので、自覚したキヨシは恥かしくなった。

「いや、情けないお話をしてしまいました…!」

 寿司も食わずに喋り続けて、思い返して恥じ入る中年シェパードに、時折合の手を入れながら話を聞いていた大柄な牛は…。

「「助けを求められないという事が、そのまま助けが必要ないという事にはならない」…」

「え?」

 カナメの言葉で、キヨシは耳を震わせる。

「や。小生の先輩にあたる高校教諭がおっしゃっていた言葉なのですが…」

 受け売りなのだというカナメに、内容が気になったキヨシは「もう少し、そのお話を聞かせて貰えませんか?」と、少し身

を乗り出して乞う。

「では、引用で恐縮ですが…」

 カナメは拳を口元に当てて小さく咳払いすると、

「助けが必要である子供が、必ずしも自身が助けを必要とする状況にある事を認識しているとは限らない。むしろ、そういっ

た子供こそ手を差し伸べ難く、対処が遅れがちになる」

 そう、先輩の言葉を諳んじて伝える。

「…と、先輩はそのようにおっしゃられました」

「…そうですか…」

 キヨシは口を半開きにし、数度小さく頷いた。

 ここしばらく考えていた。

 ケイゴは自分を拒絶している。

 助けを必要とはしていない。

 自分は求められてなどいない。

 関わる事すら望まれてはいない。

 ならば自分はもう引き下がり、会うべきではないのではないのか?と。

 だが…。

(必要じゃないかどうか、決めつけるのはまだ早いのかもしれない…。私も、ケイゴも…)

 悩んだ末に、身を引くべきだと考えを固めかけたところへの、今のカナメの言葉だった。

「…どうぞ」

 カナメが酒瓶の口を向ける。

「あ、どうも…」

 応じてキヨシがお猪口を上げる。

 大柄な牛は微かに微笑んでいた。中年シェパードの目に、活力が宿ったように感じられて。