第五話

 わっと、蜘蛛の子を散らすように若者達が逃げ去る。

 奪った金をポケットに押し込み、乱暴に手の甲で鼻血をぬぐったケイゴは、その手を顎下に回して這わせた。

 首周りが熱い。顎の腫れが酷い。突っ張っているように硬い。鈍痛が頭に居座っている。だるさが背中にのしかかり、熱っ

ぽい体にはいまひとつ力が入らない。息の乱れが酷く、体力が落ちている事は喧嘩を通して実感される。

 数日続いている体調不良は、全く快復に向かっていなかった。

 偏頭痛と軽い眩暈。勝手に揺れていた頭を軽く叩き、少年は歩き出す。が…。

「…はぁ…」

 熱い息を吐き、立ち止まって壁に手を当てる。

 覗き込む者も少ない細い路地。不快に湿った風がゆるゆると首に巻きつく。繁華街の喧騒は、すぐそこなのに妙に遠い。

 そのままの姿勢で項垂れ、しばらく休んでいたケイゴは…、

「大丈夫かね?」

 突然聞こえた声でハッと顔を上げた。

 足音にも気付かなかったが、2メートルほど先に、立派な身なりの大柄な牛が立っている。

「………」

 ヘタッている所を見られた気恥ずかしさもあり、無視してやり過ごそうと考え、ケイゴは牛の脇を抜けるように歩き出し…。

「火遊びはあまり宜しくないね」

「…なに?」

 かけられた声に思わず立ち止まり、反射的に睨め上げていた。

「や。老婆心というものだ。気を悪くしないで欲しい」

「…ろばし?」

「口うるさく世話を焼きすぎ…、と取って貰えれば」

(…判り辛ぇ…)

 睨み付けるケイゴだったが、大柄な牛は自分に向けられる刺々しい眼光も意に介さず穏やかに微笑むばかり。そもそも「狩

り」の標的ではない「しっかりした身なりのまっとうなひと」に見えるので、手を出す気にもなれなかった。

「何処か痛むのかね?それとも、体調不良かな?」

「…疲れてるだけだ」

 面倒臭がりながら応じたケイゴは、しかし気付いていない。顔見知りのお節介なキタキツネのオマワリに対するように、態

度はともかくとして、自分がきちんと返事をしてしまっているという事に。

「そうかね」

「…なぁ、オッサン」

 少年は鋭い目で真っ直ぐカナメを見つめながら、ボソボソと、小さな声で囁いた。


 少年が路地から去る。佇んでその背を見送るカナメは、考えた末に袂から携帯を取り出した。

(…あの少年は違う。多少荒事に手を出してもいるようだが、小生が探している「毒のある根」ではない。しかし…)

 顔立ちも態度も体型も、ちっとも似ていない。だが、その若い声は…。

(テシロギさんの声に、少し似ていたな…)

 シェパードの少年。それも、歓楽街の裏路地をこんな時間にうろついている学生…。これらの情報を考慮して、カナメは中

年シェパードに電話をかけた。

(良い子だと思うのだが…、上手く行っていないのか)

 カナメは、たった今ケイゴが去り際に残していった言葉を思い出す。

 

―こんな所をそんな立派な格好で独りでうろつくな。金持ち狙ってる連中も多いんだぜ。―

 

 あれは忠告だった。腫れた顔や鼻血を見るに間違いなく喧嘩の後だったのだが、あの少年はカタギには手を出さない主義ら

しい。

 やがて、『済みません!お待たせしました!』と、携帯越しに中年シェパードの声が届き、カナメは少し時間が取れるか確

認した上で、出会った少年の事を話した。

 ケイゴと距離をおき、気付かれないようにその移動先を窺いながら…。




 脱いだばかりのワイシャツに再び袖を通し、慌しくベルトを締め、通話を終えたばかりの携帯でタクシーを呼び、キヨシは

玄関を飛び出した。

 エレベーターは一階の表示。待っていられず階段を駆け下りる。

 息を切らせて全力で走る。タクシーを呼んだ橋の所へと。

 こういう時の頭の回転は速い。タクシーが出発し易いルートかつ停車し易いポイント、自分が進めるだいたいの距離、そこ

から導き出した位置で待つ事30秒、やって来たタクシーに乗り込んで、キヨシは呼吸を整える。

(怪我をしているのか…!具合が悪いのか…!)

 一応動向を見張っておくと、カナメは言っていた。話によれば殴り合いの喧嘩をした後の様子で、鼻血の跡が見られ、体調

も悪そうだったという。

 ドッドッドッと胸が早鐘を打つ。組んだ手がじっとり汗ばむ。

(ケイゴ…!)

 どうしようもない信号待ちが、ひどくもどかしかった。




(運が悪ぃ…)

 少年はポケットに手を突っ込み、軽く揺れ気味の視界に入っている男達の頭数を確認した。

 六名。体調が万全であって、場所が良くても、かなり厳しい数である。

 殺気立つ男達の中には、先日ケイゴに叩きのめされたテンや虎も入っていた。連中の目的が「普段の仕事」でない事は、体

力的に優れている獣人のみ、しかも普段の倍の人数で固まって動いていた事からも明らか。今日のこのメンツは、ケイゴを狩

るための2チーム合同編成。いよいよ看過できない相手と目されたケイゴは、ついに排除の対象としてリスト入りした。

 グループやチームではなく、個人で、しかも中学生でリスト入りしたのはこの少年だけなのだが、勿論ケイゴにとってそん

な事は名誉でもなければあり難くもない。そもそも連中の構成や背後など知らないし興味もない。

 敵意満面の男達は等間隔で半円を作り、逃げ出せないように距離を詰める。行き止まりを背にしたケイゴが囲まれる形であ

る。背後には、店じまいして数年は経つだろう、閉めっ放しで店名や電話番号も掠れたシャッターと、コンクリートの壁。正

面には、自分を痛い目に遭わせようと迫る、今まで自分が痛い目を見せてきた男達。

 因果応報。自業自得。普段は馴染みの無い言葉だが、ケイゴは「そういうものだろう」とぼんやり感じた。恐怖は無い。悔

やんでもいない。自分に標的が定められた事を悟ってもなお。

 だからケイゴはふと、こうも思った。自分は、いつかこうなる事を予感していたのではないか?と…。

 ポケットの中で試しに拳を握る。力が入らない。感触は頼りない。だが、大人しく降る気などない。折れるまで牙を剥く心

積もりである。

「覚悟しろよ、ガキ…!」

 凄む虎の顔を、しかしケイゴは睨み返さず、静かに見つめる。

 観念した…のではない。脅しにかかる虎の顔にへばりつく、多勢という自信を支えとした優越感と、それに根ざす露骨に得

意げな笑みが滑稽過ぎて、怒りも笑えもしなかっただけ。

 何発殴り返せるかな?と、自分でも意外なほど落ち着き払った心境で、ポケットから手を抜き、拳を作ったケイゴは…、

「ケイゴ!」

 思わず、ここが何処なのか、今どういう状況なのか、完全に忘れ去って目を丸くした。

 男達が振り返っている。その視線の先には、だらしなく肉が緩んだ、汗だくで息を切らせている、ひとりの中年の姿。

「かえっ…、ゲェホゲッホ!」

 声を発し、途端に咳き込むキヨシ。タクシーを降りるなり走り通してケイゴを見つけたはいいが、喉がカラカラでくっつき

そうな有様。声を発するだけでチクチクする。

 突然現れ、いきなりむせ返り、ゼェハァ息をしている中年を、男達は困惑して眺める。何だお前は、と恫喝するのも忘れて

しまっているのは、咳き込んだ拍子に鼻水まで出ている、汗だくで息も絶え絶えの肥った情けない中年が、どう足掻いても脅

威になり得ない、場違いに弱過ぎる存在だったから。

(…熱があんのか?)

 ケイゴはついつい額に手を遣り、自分の熱をはかった。

 確実に熱はある。しかもかなり。だが、熱のせいで見えているのかもしれないと思った、その妙な中年は…、

「ケイゴ!帰るよ!」

 もう一度自分に向かって喋って、しかもまた自分の名前を口にした。

 キヨシは真っ直ぐに、男達の間を抜けてケイゴに近付くと、信じられない物を見ているような顔の息子の腕を掴む。

 そして、困惑したままケイゴは腕を引かれ、バランスを崩してつんのめりながら、キヨシに連れられ歩き出す。

「てめぇ…?………!は、放せっ!」

 我に返って吠えるケイゴ。しかしキヨシは息子の手首をしっかりと、キツく、力を込めて握ったまま、止まらない。

 中年シェパードに少年シェパードが引かれ、歩き抜けるその様を、男達は一時呆気に取られて眺め、見送りかけたが…。

「お、おい!」

「コラ待ちやがれ!」

 呼び止める声が響いたその瞬間、キヨシは「走って!」と叫んで、ケイゴを引っ張り駆け出した。

「馬鹿野郎!放せ!てめぇは関係ねぇだろ!」

 喚くケイゴ。振りほどこうにも意外に握力が強く、キヨシの手は外れない。おまけに体重のある中年が前のめりの自分をグ

イグイと引っ張って走るのだから、弱った足腰では踏み止まるのも無理がある。

 とはいえ、キヨシの全力疾走はさほど早くない。すぐ追いつかれるのは火を見るより明らかだった。

 路地を飛び出し、少しでも遠くへ、少しでも賑やかな方へと、息子の手を引いて走る中年。男達はふたりが曲がった方向を

見定めつつ、後を追って路地を出て…。

「止まれ!」

 出し抜けに男達の耳に届く、鋭く響く声。それはキヨシの物でも、ケイゴの物でもなかった。

 慌てて急停止する男達。その足を止めさせたのは、コツンと革靴で路面を踏んだ、一頭のキタキツネ。

 スラリとしたスーツ姿のシルエット。品の良さそうな中年狐は、しかしその双眸を鋭く細めて男達を見つめている。

 その眼光で、大の男達が一様に凍りついた。

 多少なりとも荒事の経験がある男達だから、その男が本性を垣間見せた一瞥だけで理解できた。

 戦える相手ではない。そもそも勝負にならない。自分達は勝てないだとか、自分達が負けるだとか、相手が勝つだとか、そ

ういった事ではない。

 その男は、狩る側の存在だと。

 キタキツネは落ち着き払った様子で胸元に手を入れると…、

「警察の者だ。少し話を聞かせて貰おう」

 取り出されたのは警察手帳。

 途端に、男達は全力疾走でその場を離脱にかかった。

 行き止まりの路地の入り口、その片側寄りに立つキタキツネを避けて、角ギリギリを見事なコーナーリングで抜け、キヨシ

とケイゴが駆け去った逆方向に曲がり、てんでんばらばらに逃げ去る。

「追いかけて問い詰めたい所だが…、昔のようには行かないな」

 軽く右足を引き摺って両脚を揃え、キタキツネは直立して男達を見送った。

 マサタカは右足が悪い。かつて犯人を確保した際に負った名誉の負傷により、生涯片足を引き摺る事になった。若かったあ

の頃のように、走って相手を追いかける猟犬のような刑事では、もうない。それでも、その眼光と気力は今でもまだ萎えては

おらず、たった一睨みにワルでも震え上がらせるだけの迫力が宿る。

「済みませんが追って頂けますか?連中が根っこと繋がっているクチなら、運が良ければ接触する相手を確認できるかも…」

 マサタカは言葉を切って周囲を、そして、駆けて行く男達を慌てて退けたり、驚いて眺めたりしている通行人が数名居るだ

けの路地を、しげしげと見回した。

「…もう行かれていましたか…。いやはやお早い事で…!」

 微苦笑した狐は手帳をポケットに戻すと、キヨシとケイゴが駆けて行った方向へ目を遣る。

 大通りに出た後どちらへ行ったのか、二頭の姿はもう見えなくなっていた。


 鉄柱に錆が数多く浮いている古びた水銀灯が、涼しい光を投げ落とす有料駐車場の一角。

 自動販売機が放つ光が、なおさら濃く暗く見せるその脇の闇に、丸っこい影が蹲っていた。

「うげっふ!うえぇっ!えぇっふ!」

 咳き込みとも嘔吐ともつかない声を上げるキヨシ。全身汗だく。息は絶え絶え。おまけに今更ながら緊張で胸が悪くなって、

胃が痙攣している。

 もう一歩も歩けないほど疲弊し、四つん這いで喘いでいる中年の脇で、自販機の側面に背を預けて座るケイゴも、追って来

る者が居ないか視線を走らせつつ、息を整えようと意識して呼吸している。

「ふぅ…!ふぅ…!ケイゴ、だ…、大丈夫、かい…!?」

 息が少し落ち着いてきたところで訊ねたキヨシは、

「シッ…!声がでけぇぞ…!追いかけてくる連中が居たらどうすんだ?」

 警戒を解いていないケイゴに叱責され、今更ながら慌て、両手で口をふさぐ。

 呼吸を整え、耳を立て、神経を尖らせて警戒する少年は、しかし気付いていない。

 先ほどもそうだったが、フクロにされても構わないのである。勿論抵抗はするが、潰されるならそれで仕方ないと、諦観に

近い覚悟で顛末を受け入れようとしていた。

 それなのに今は、この中年に腕を引かれて駆け出してからは、何が何でも往生際悪く逃げ延びようと考えていた。自分だけ

の時は、逃げようなどと思いもしなかったのに。

 しばらくして、ケイゴはため息をついた。

 体調がすこぶる悪い。集中にも限界がある。気を抜いたら、そしてこのままじっとしていたら、この場で泥のように眠り込

んでしまいそうだった。

「…もう良いだろう」

「…追いかけて来ない…、のかい?」

「知るか」

 不安げなキヨシへつっけんどんに返し、ケイゴはもう一度大きくため息をついた。

「…馬鹿じゃねぇのか?」

「え?」

 目を丸くした中年の態度で軽く苛立ち、少年は舌打ちをする。

「下手すりゃあのまま、てめぇまで巻き添えでリンチだったぜ?」

「………」

 ブルッと身震いして唾を飲み込むキヨシに、ケイゴは問う。

「何であんな真似した?」

「それは…、私はケイゴのお父さんだから…」

 慌てて口を閉ざす中年シェパード。お父さん、と主張する事で少年が怒り出すのではないかと思ったのだが…。

「…馬鹿か…」

 ケイゴはそう吐き捨てただけだった。キヨシの側からは、自販機の灯りが視界に入るので、ケイゴの顔が暗くなって見えな

い。ただ、呆れている様子ではあったが、面倒臭そうに吐き捨てたその声に、怒りはないような気がした。

「…ケイゴ…。あの…」

 どうしてあんな危ない所をうろついているのか?

 何故この間のようなカツアゲをしているのか?

 少年の行動を咎めるのとは別に、訊きたい動機が、理由が、キヨシにはたくさんあった。

 だが、迷った末に口を突いた問いは…。

「私を憎んでる…かな?やっぱり…」

 ケイゴは口を開き、それから一度閉じ、考えた。

 当たり前だ。…と即答で言い放ってやるつもりだったのだが、正直、キヨシ個人に対して、父親という存在に対して、憎悪

のようなものは抱いていない。

「…憎むとか、そんなモンはねぇ。…どうでもいい」

 やがて、ケイゴは本心に最も近いと思われる言葉を選んで、ボソボソと告げた。

「どうでもいい、か…」

 キヨシはその言葉をゼロと受け取った。憎まれる…つまりマイナスよりはマシな物だと、ポジティブに。無関心が憎悪より

マシかどうかは別として、とりあえず嫌われていない、というささやかな点をちょっぴり喜んだ。

 一方、答えた通りで、改めて考えてみても憎しみが無かったケイゴだが、イライラする相手である事は確かだった。能天気

な顔や態度、小心な反応を見ているととにかく苛立つのだが、憎悪していないのにイラつく理由が判らない。判らないのでな

おさらイライラしてしまう。

 ただ、思っていたより度胸はあったのかもしれないと、今日の事でほんの少しだけ評価を改めた。

「ケイゴ?」

 腰を上げた少年を見上げるキヨシ。

「じゃあな」

 へたり込んだままの中年を見下ろすケイゴ。

 キヨシの脇を歩いて抜けて、「あ、待って!」と呼び止める中年を肩越しに振り返り、ケイゴは一度だけ足を止めた。

「…これで懲りたろ?もう関わるな」

 そうして、少年は灯りの外へ歩き去る。

 駐車場に独りポツンと、取り残されたキヨシは…、

(ケイゴ…)

 たった今耳にした、少年の言葉を噛み締めていた。

 関わるな。…と言ったケイゴが残した声には、これまで確かに宿っていた排他的な響きはなく、むしろ…。

(気遣ってくれているような…、ちょっと優しい声だった…)

 遠く救急車のサイレンが鳴る。何処を走っているともつかない車のエンジン音が無数に聞こえる。

 風を浴びた体の、汗の冷たさが気になり始めた。




 あの時聞いたケイゴの声が、別れ際の言葉が、「違う」と感じたんだ。それまでとは違うって…。

 確かにそれまでは、心のどこかで迷ってはいたんだけれど、あの時に思ったんだ。

 心配する事も、助ける事も、きっと諦めちゃいけないんだって。

 例えそれが私のエゴだとしても、ケイゴには元気で居て欲しかったから…。




 母は帰っていなかった。

 シャワーを浴びる気になれず、ケイゴは狭い納屋へ、倒れ込むように身を横たえる。

「…ふぅ…」

 寝転がった少年の眼前には、菓子パンとハンバーガーの包み。

 何か食わなければとも思うのだが、顎が痛いし熱っぽいし食欲がちっともない。

 灯りを消すために身を起こすのも億劫で、寝て起きて、食欲が戻ったら食べようと考えたケイゴは、モゾモゾと体を丸めて

目を閉じる。

 たちまち思考が鈍った。眠気に囚われた少年が感じるのは、見るのは、聞くのは、実際の経験と自分の妄想が混じった夢現。

 手首を掴んだ中年の、肉付きのいい掌の感触を思い出した。

 乱れに乱れた激しい息遣いと、鼻に届いた汗の匂いを思い出した。

 手を引いて走る、息を切らせた中年が、前を向いたまま訪ねてくる。

 

―私を憎んでる…かな?やっぱり…―

 

「…別に…、そんなの…、……もう……………」

 自分の口をついた回答を、眠りに落ちたケイゴ自身は聞いていなかった。




 曲面しか無いような丸い体を泡だらけにして、キヨシは全身を入念に洗っていた。

 久々の運動ですっかり汗だく、自分でも臭いが気になるほどだったので、食欲に優先してまずシャワーである。

 出っ腹が邪魔だが窮屈さを我慢して前傾し、股擦れの跡、筋肉痛が約束された太腿や脹脛、そしてムッチリした臀部など、

洗うついでに軽く揉んで血行を良くしておく。

 そうして手を動かしながら、キヨシは思い出していた。去り際にケイゴが残した声を。

(関わるな。…って、あんな声で言われても…)

 シャワーでボディソープを洗い流しつつ、キヨシは思う。

 ケイゴには、キヨシと過ごした記憶は無い。当時はまだ幼過ぎたので憶えていない。離婚に纏わる話も母親の側からしか聞

かされていないはずで、自分の事を元妻からどう聞かされているのか判らない。

 綺麗になった体を浴槽に沈め、キヨシは考える。

 細かな事はともかくとして、きっと、自分のせいだという話は聞かされているだろうなぁ、と…。



 キヨシが元妻と出会ったのは、若手社員として四苦八苦しながらも、頭角を現わし始めた頃の事。職場の懇親会のあと、ひ

とりでフラッと立ち寄った小さなバーで、話し相手になり、酔い潰れたところを介抱してくれた相手が彼女だった。

 それがきっかけで、キヨシはその店へちょくちょく足を運ぶようになった。

 時に成功して気分良く盛り上がり、時に上手く行かずに落ち込み、時に褒められて舞い上がり、時にアイディアの枯渇で悩

み、一喜一憂するキヨシは、親身に話を聞いてくれる彼女と少しずつ親しくなって行った。

 時々の逢瀬は次第に回数を増やし、一緒に食事へ行くようにもなった。

 支えてくれる彼女にキヨシは首ったけで、彼女もまた晩生で誠実なキヨシに惚れていた。

 だが、キヨシの親は彼女との交際に難色を示した。飲み屋の女など誰にでも良い顔をするものだと、特に父親が猛反対して。

 基本的に聞き分けの良い息子だったキヨシだが、この時だけは譲らなかった。

 彼女と一緒になりたい。結婚を前提にした真面目な付き合いなのだと、両親と何度も話し合ったが、それでも折れて貰えな

かった。

 流れに変化があったのは、お互いに結婚を意識し合うようになってから一年半が過ぎた頃だった。彼女が妊娠している事が、

明らかになったのである。

 結婚を認めて貰えずに悩んでいるキヨシを気遣い、黙っていたが、体調と体型の変化は誤魔化し切れるものではない。やや

鈍いキヨシも流石に気付いて、はぐらかす彼女を問い詰めて妊娠が明らかになった。

 号泣しながら詫びた。喜ぶ以前に申し訳なかった。親も説き伏せられない自分の子を、これほど時間を費やしても身を固め

る所まで辿りつけていない自分の子を、彼女は生みたいと言ってくれた。

 そしてキヨシは、親の説得にますます力を入れた。頑固な父親は首を縦に振ろうとせず、説得はやはり難航した。

 親の許しを求めずに結婚する事も考えたが、やはりそれでは駄目だと思い直した。どうあっても認めて貰いたかった。愛す

る女性と、彼女との間にできる我が子を。

 やがて、説得が実らない内に彼女は臨月を迎え、元気な赤ん坊が生まれた。

 シェパードの、男の子が。

 息子には妻が、キヨシの名から一文字取って「慶吾」と名付けた。

 赤ちゃんを見ればきっと父の気持ちも変わると、キヨシは写真を持って親の元へ向かうようになった。頑固者の父はそれで

もウンと言わなかったが、元々それほど強く反対していなかった母は少し靡いてくれた。

 長丁場となった。が、母という心強い味方を得て、可愛い我が子の寝顔にも励まされて、父との話し合いを続けたキヨシは、

ついに首を縦に振らせる事に成功した。ケイゴが一才になろうという頃になって、やっと…。

 渋々だったが、結婚式には父も来てくれた。孫の頭を撫でられるようになった母はご満悦だった。

 愛する妻と、愛しい我が子、両家の両親の許しも得られて、いよいよ順風満帆の生活がスタートした。

 だが、それから間をおかずキヨシの母は他界した。

 通夜の晩に父から聞いたが、母は半年ほど前に、末期ガンで余命宣告を受けていた。頑なだった父が、母を交えた説得に応

じて首を縦に振った理由を、キヨシは涙を流しながら悟った。

 それからのキヨシは、家族を養おうと、良い生活をさせようと、一層張り切った。この当時の張り切りがあったから、今の

腕利きインテリアコーディネーターの立場がある。

 社内でも屈指のスピードで昇格し、収入は増し、仕事も増えた。稼ぐ必要性もあったからだが、元々仕事も好きで、毎日の

生活に張り合いがあった。

 疲れても帰りが遅くても我が子の寝顔を見れば癒された。

 どんなハードスケジュールでもヘコタレはしなかった。

 すくすく大きくなる息子が可愛くて仕方がなかった。

 指を握る小さな手が毎日力を増して嬉しくなった。

 哺乳瓶を吸う力が強いと元気だと感じ安心した。

 オムツを替える時は足をシャカシャカと動かす癖があって、動きがツボに入って失笑した。

 いないいないばぁをすると無邪気にキャッキャと喜んで、物足りない時は泣いてぐずってせがまれた。

 キヨシの顔を見ると「だぁ」と呼ぶようになった。ダディとパパの中間に違いないと言ったら、明らかにプラスに考え過ぎ

だと妻に突っ込まれた。

 夜泣きですらも愛おしくて、泣き出したらどんなに眠くても飛び起きて、抱っこしてあやして寝かしつけた。

 ベビーカーを押して散歩に出れば、様々な動くものに興味を示して、じっと目で追ったり、手を伸ばしたりするのが可愛ら

しかった。

 腕の力が強い子で、ハイハイの方が早いと赤ん坊ながら考えていたのか、掴まり立ちが妙に遅くて、いつも四つん這いで子

犬のように動き回って、よくテーブルの下から引っ張り出してやった。

 毎日が幸せだった。

 だが、仕事が増えたキヨシが不在がちになったその頃、最初の事件が起こった。

 置手紙を残し、妻は実家に帰った。

 育児を手伝わない。なかなか帰って来ない。手紙にはそういった不満と家出の理由が記されていた。

 キヨシは慌てて彼女の実家へ向かい、義父母と妻に謝り、事をおさめた。

 この一回が癖になった。

 それからというもの、妻はちょっとした事に不満を覚えては、頻繁に実家へ帰るようになった。置手紙を残していたのも三

回目まで、それ以降は、察しろと言わんばかりに無言で出て行くようになった。

 キヨシは辛抱強く…というよりも、持って生まれた善性のような物で「自分に原因があるのだから…」と、当然の不満と受

け止め、妻に非があるとは僅かにも考えなかった。

 妻がいつから自分の分の夕食を作らなくなったのか、行ってらっしゃいもおかえりなさいも言ってくれなくなったのか、思

い出せなくなっていた。

 そしてある日、妻は出て行った。いつもと違い、家計費が入った口座の通帳とカードを持って。

 それからというもの、実家を訪ねても顔も見せず、電話で話せば離婚をちらつかせるようになった。

 なんとかよりを戻したいと、キヨシは何度も何度も会いに行ったが、妻は実家を出て部屋を借り、行方をくらました。

 それからも、姿を見せてくれない妻と、日に日に成長しているだろう息子のために、稼ぎを通帳へ入れ続けた。

 懇願すれば時折ケイゴの写真を送って貰えたが、帰って来て欲しいという頼みははぐらかされ続けた。

 まるで結婚に至るまで時間がかかった意趣返しのように、ずるずると先延ばしにされたが、結局離婚に踏み切られた。ケイ

ゴが幼稚園へ入園する前年の事で、養育費の捻出を印象付けるタイミングだった。

 親権は妻がもった。仕事三昧の父親が子供の面倒など見られる訳がない、という妻の言葉に、精神的に疲弊していたキヨシ

は反論できなかった。

 父は、それ見た事か、だから言ったのだ、と怒っていた。

 傷心のキヨシは、それから程なく新プロジェクトに抜擢されて蒼森へ飛んだ。断る選択肢もあったが、あえて勧めを受け入

れた。何かしていなければ喪失感で押し潰されそうに思えて、我武者羅に打ち込める物が欲しかった。

 この頃から妻はまた働き出し、派手に着飾り始め、両親や親類へ頻繁に金を無心するようになっていた。それがエスカレー

トしてゆき、数年後には勘当される事になった。

 優しく接するつもりが遣り方を間違え、甘やかし過ぎたのかもしれないと、キヨシは思った。それで彼女は変わってしまっ

たのかもしれないと。また、実家を説得するのに時間がかかってしまった事も、親が協力的でも好意的でもなかった事も、頼

りないと思われて愛想を尽かされた原因の一つかもしれないとも。

 つまりキヨシはこの時、「全て自分が悪い」と思い込んだ。

 何度も妻に頼み込んだが、ケイゴには一度も会わせて貰えなかった。

 悔やんで、涙して、独りの夜には酒に慰みを求め、胸に穴が空いたような喪失感が埋まらないものかと、食事の量が増えて

いった。
そして…。



(…あ…)

 喘ぐように口を開けて舌を出していたキヨシは、我に返ってザバッと湯船から立ち上がると、眩暈を覚えて壁に手をつく。

昔の事を思い出している間に、自分が風呂に入っている事すら忘れてしまい、すっかりのぼせてしまっていた。

 ダラダラと止め処なく汗が吹き出す体に、水に近いぬるま湯をシャワーでかけて冷やし、雑に水気を取ってから居間に戻っ

て、冷たい水をがぶ飲みする。

 だるくて倒れ込んだソファーの上で、キヨシはぼんやり考えた。

 またケイゴに会いに行かなくては、と。

 身を引く事などもう考えていない。お節介だろうが構わない。ケイゴは自分の息子で、自分はあの子の父なのだから、心配

していけない理由などない。

(明日も…、探しに行こう…。もう一回話をして…。…いや…)

 キヨシの中にはもう、

(「もう一回」なんかじゃない。何回だって話をするんだ…!)

 迷いなど、少しも残っていなかった。