第六話

 煙草の煙が薄霧をかけた、ソファーやテーブル、そして冷蔵庫や雑多な家具が置かれた広めの部屋で、

「は?何言ってんの?」

 大柄なゴリラが顔を顰め、煙草を灰皿に押し付けて揉み消した。

 繁華街にあるバーのスタッフルーム。指名待ちの若い人間女性が数名ソファーに座り、暇を持て余しているように、気怠そ

うな顔でぼんやりと携帯の画面を眺めている。

「逃がしたぁ?しかも警察に出くわしたぁ?は?はぁ?はぁ~?何やってんの?」

 苛立ちで鼻息が荒いゴリラの声に、通話の相手はボソボソと小声で弁解を並べる。

「判ってんの?サツはまずいんだよサツは。何でゴキブリ駆除に行って蜂の巣つつくような事んなってんの?ええ?」

 相手の返答に声を被せて責め、しばしネチネチと罵倒したゴリラは、

「まぁいいや。オシタリだっけ?うん、ソイツの周辺洗え。いいよもう、無理なら手ぇ出さなくて。え?無理じゃない?バッ

カだなぁ、サツと絡んじゃう時点で任してなんかいられねぇんだって。だーかーらー…」

 面倒臭そうに小指で耳をほじくりながら、ゴリラは吐き捨てた。

「動きだけ見張って知らせろよ。何処でどういう事してんのか、どういうトコ通って帰んのか、仲のいいダチは誰か、何処に

住んでんのか…。簡単だろ?え?…あ~、うん。まぁ考えとくわ」

 一度言葉を切り、ゴリラはニタリと笑った。

「片付ける時にはまぁ、声かけてやっても…」

 ソファーの女性達は無反応。剣呑な気配が混じる通話の声は耳に届いているはずだが、ぼんやりと携帯の画面を見ているば

かり。

 やがて、ゴリラは通話を終えて視線を巡らせた。

 女性達は相変わらず携帯を眺めている。それほど不自然な光景では無いように見えるが、しかし充分に不自然だった。

 その状態で、会話も中座も無く、身じろぎも殆ど無く、30分以上も手元をだけを眺めているのだから。

 女性のひとりの顔に、ゴリラは視線を固定した。

(そろそろ次のレベルか)

 女性の頬を、つぅっと、涙が伝う。

 しかしそれは「泣いている」とは言い難い。倦怠感が漂うぼんやりした表情のまま、ただ目尻から体液が漏れているだけ。

 各種分泌線の弛緩により、涙に続いて鼻水が、口音からは唾液が漏れ始める。

(用法用量を守ってお使い下さい…って、言ってあるんだがな)

 クックックッとゴリラが含み笑いを漏らす。そろそろもっと「強い」物が必要になってくるはずだった。




 頭痛が酷かった。ただでさえ険しいケイゴの顔は、苦悶も手伝って威嚇する獣のようになっている。

 頭をベルトなどできつく締め付けられているような、苦しい鈍痛。それが起きてからずっと、昼になっても午後になっても

放課後になっても消えない。

(変な風邪でも引いたか…?)

 下校時刻まで耐えたケイゴは、フラフラしながら階段を降りて、下駄箱に寄りかかりながら靴を取り出し、躓くようにつっ

かけて外へ出る。

 曇り空から霧雨が降る。雲を通した日光が目に入っただけで、頭痛が酷くなった。

 熱が下がらない。歯が浮いて、何かを噛むだけで痛い。食欲は無い。引かない頭痛のせいか胸がムカムカしている。

 傘はない。霧雨を身に浴びながら、力が入らない足を進める。校門を出るまでの短い距離すら時間がかかった。

 部活が始まった校庭から響く、声や音すらも嫌な刺激と捉えられた。

 歩いているだけで息が切れてしまう。耳鳴りがして落ち着かない。悪寒が酷い。

(やっぱり、薬とか買った方がよかったのか…)

 手持ちは残りいくらだったか考えようとして、止めた。

 キヨシに助け舟を出されたあの夜以降、ますます調子が悪くなって狩りができていない。もう薬を買うだけの金すら無い事

は朝にも確認していた。

(寝とけば…、その内…)

 気が付くと、ケイゴは遊歩道に立っていた。

 苦痛に耐え、朦朧としながら選んだのは、自宅ではなかった。

「………」

 東屋に足を運び、尻餅をつくようにベンチへ座る。気配を察したコナユキが、ニー、と鳴いて寄って来たが、今日はあげら

れる物が無い。

「悪ぃな。今は何もねぇんだ…」

 白猫の頭を撫でようとして、しかし指先が空振った。

 すっかり濡れた体は小刻みに震えている。それだけでなく、遠近感覚もおかしくなっているのか、それとも目に来ているの

か、手を伸ばして届く距離の中でさえも正確に把握できなくなっている。

「………」

 改めてコナユキの頭を撫でてやると、ケイゴは堪らず、倒れ込むようにベンチに横たわる。

 気分が悪い。力が出ない。

 サァサァと、霧雨が静かに草木と地面を濡らしてゆく。

 雨が吹き込む東屋の中で、熱と痛みに苛まれながら、少年は意識を失うように眠りに落ちた。



 川沿いの街灯がポツポツと光を灯した夜半、太ったシェパードは片手に買い物袋を、片手に傘を持って、えっちらおっちら

橋を渡る。

 いよいよ強くなった雨足のせいで、夜はノイズに包まれていた。サイレンが遠くから近付いて来て、何となしに立ち止まっ

たキヨシは、スリップ事故か何かだろうかと考えながら救急車を見送る。

(…今日も会えなかった…)

 あの夜以降、キヨシは仕事が終わると必ず繁華街に寄ってから帰るようになっていた。恐々路地を覗きつつあちこち回って、

川の手前でタクシーを降りてからコンビニで食事を買い、歩いて帰るというサイクルになっている。

 その際に、前に一度ケイゴと出会った遊歩道の東屋も覗いて、待っていたように寄って来る白猫にオヤツをあげるのが日課

になっていた。

 今夜も同じパターンで遊歩道に入り、東屋へ近付いたキヨシは、

「ミー、ミー、ミー」

 降りしきる雨の中をこちらへ駆けて来る白猫を目に留め、顔を綻ばせた。

「やあこんばんは!待っててね、今おやつを…」

「ミーミー、ニァー、ニー」

 やけに鳴く白猫。その態度に違和感を覚えたキヨシは、寄ってきた猫を向かえるように屈む。

「どうかしたのかい?お腹減ってるのかな?」

 雨の中を走って寄ってくるほど空腹なのかと考え、キヨシは手を伸ばしたが、白猫は手が触れる寸前でサッと身を翻す。首

を傾げるシェパードの目は、尻を向けて振り返りながらニーニー鳴いている猫の顔を見つめ…、

「…!?」

 その向こう、東屋のテーブルの陰に殆ど隠れているベンチに、ひとの足を認めた。

(だ、誰か居る!?)

 ビックリしたキヨシは、一瞬ホームレスが寝ているのかと思ってて立ち上がるなり後ずさろうとしたが…。

「!!!」

 二度目の驚きで硬直した。

「ケイゴ!?」

 それは反射的な反応だった。現状を理解するよりも、疑問を感じるよりも先に、キヨシは地を蹴って駆け出していた。

「ケイゴ!ケイゴ!?」

 ベンチの脇へ駆け込んで、泥でズボンが汚れるのも構わず跪き、ぐったりと横たわる息子に呼びかけながら、その額に手を

乗せる。ハカハカと浅い呼吸を苦しげに繰り返すケイゴは、半開きの口から力なく舌を垂らしており、顔中がジットリと汗に

まみれていた。

 意識が無い。呼びかけても起きない。ただ事ではないと察したキヨシは、心配するようにニーニー鳴くコナユキが見守る中、

ケイゴの体を抱き起こして軽く揺さぶった。しかし、息子は一向に目を開けない。

 まず首筋に手を当てた。脈拍は、弱くないが早い。平手に感じられる体温はかなり高い。脂汗をかいて被毛がジットリと湿っ

ている。

「大丈夫…、大丈夫…!」

 ケイゴを抱きかかえたまま、キヨシは携帯を取って救急車を呼んだ。




 心臓が止まるかと思った。

 何が何だか判らなかった。

 完全に動転してしまった。

 救急車の事が頭に無かったら、電話をかけるのも遅れていたかもしれない。

 …私が思い出していたのは、ケイゴが赤ちゃんの時に一度だけ夜中に高熱を出した時の事…。生きた心地も無く救

急病院に連れて行った時の事だった…。




 妙に耳を突く、注意を促すような音を聞いた。

 うるさいと感じたが、これは今鳴り始めた物だろうかと、ぼんやり疑問に思った。

 揺れている。体が。小刻みな振動と大きな揺れ、前後にずれる重心と、左右に傾く体。

 地震かと、何となく思った。どうでもいいとも思った。とにかく今は眠りたい。より正確には起きるのが辛い。

 だから、このサイレンを止めてくれ。

(…サイレン…?)

 パトカーか、消防車か、救急車か、何のサイレンだったか思い出せないまま、ケイゴは耳をピクつかせた。

「……生まれ。血液型は…」

 聞いた声だった。サイレンの中に浮き沈みする、焦っているような声…。

「名前はオシタリケイゴ。住所は…」

 名前を口にされた。教師の点呼などを除くと、名を呼ばれる事はあまり無いのだが。

 …いや、最近は結構呼ばれるかもな…。とも心のどこかで感じた。

「私の…、息子です…!」

 薄く、目を開けた。

 そこに、白いヘルメットを被った人間の顔があった。

「開眼確認。君、聞こえるかい?」

「え!?」

 ヘルメットの男の言葉に割り込んだ声を、ケイゴはすぐに誰の物か認識した。

「ケイゴ!?ケイゴ、起きたのかい!?」

 呼びかける声に顔を顰め、少年はボヤく。

「うるせぇ…。寝てられねぇだろ…」

 少年が意外と明瞭に不快さを表現すると、それまで硬かった救急隊員の表情がほんの少しだけ緩んだ。

「…なんだコレ…。何処だ…?」

 呻いたケイゴが少し間をおき、思い至って「…これ救急車か!?何で!?」と少し驚いた様子で目を大きくすると、

「君、名前は言える?」

 救急隊員に問われ、前後の状況が全く判らないながらも、ケイゴがフルネームを告げ、自分はどうしたんだ?と尋ねると…。

「意識レベル回復。アラート」

 隊員は小さく安堵の息を漏らし、メットから繋がっている口元のマイクへひとまず報告を入れた。



 病院に運び込まれたケイゴは、診療の後でベッドに寝かされ、点滴を受けた。

 気難しそうな顔つきの髭面医師によれば、衰弱が見られるものの心配は要らないとの事。ただし、歯痛を放置して炎症が生

じ、痛くて食事もおろそかになり、歯茎の炎症が原因で発熱と頭痛まで誘発したこの状況については、「親御さんが気をつけ

てあげないと」と難しい顔で苦言された。

「年頃の子は、意地を張ったり、面倒臭がったりで、不調を不調と言わない事もあります。そこらは大人が見てあげなきゃい

けませんよ」

 山賊風味の髭面の医師は、眉間に深い皺を刻んだ気難しげな顔のままキヨシにそう告げた。

「そうですね…、本当に…」

 病状の説明ついでに叱られ、耳を倒してシュンとするキヨシ。母親に責任転嫁するつもりはない。会っていながら気付けな

かった自分の落ち度だと思えば、反論もできなかった。

「よっぽど我慢強いお子さんなんでしょう。あの顎の腫れを見れば判ります。あんなになるまで耐えるなんて、そうそうでき

る事じゃありません。大人でも音を上げますよ」

 ふぅ、とため息をついて医師は言う。

「とにかく、体を休ませてあげて下さい。それと、言わなかった事を責めたりしないよう気をつけて下さい。気持ちが落ち着

かないと体も落ち着きません。治りにも影響しますからね」

 顔は怖いが単に怖いだけではない、相手を叱れる医師の言葉に、キヨシは恐縮するばかりだった。

 

 点滴を終えたケイゴを連れて、支払いを全額手払いで済ませたキヨシは、流石に母親が心配しているだろうからと、家へ電

話を入れるよう促した。

 夜十時。普通は中学生が家族に無断で出歩いている時間ではない。しかし…。

「心配なんかしてねぇよ…」

 待合のソファーに力無く腰を沈めたまま、ケイゴはキヨシへ呻くような声で告げた。

「何日家に帰らなくたって、あのひとは気にしねぇ…」

「それは…、どういう…?」

 息子の言葉の真意を測りかねて、キヨシは困惑した。そんな父の顔を上目遣いで睨みながら、ケイゴは言う。

「あれだ。育児…崩壊?放棄?まぁ、そういうヤツ」

「………へ?」

 投げやりに言ったケイゴは、眠気が強いのかしきりに生あくび。

 そんな息子の前でポカンと口を開けたまま、キヨシは立ち尽くす。

 周囲が一斉に静かになって、暗くなったような、そんな錯覚を覚えた。

 

 傘を差して濡れないようにし、息子を連れてタクシー乗り場へ向かったキヨシは、運転手にケイゴの住所を告げようとして、

一度考えた。

(ケイゴの言葉が本当なら、このまま家へ帰らせても…)

 にわかには信じ難かったが、納得できる部分も確かにある。ケイゴが不良になったのはネグレクトの結果だとすれば…。

「お客さん?」

 乗るのか乗らないのか、行き先を告げない客を面倒臭そうに見遣る運転手。開けたままの後部ドアの窓が、内も外も雨に濡

れてゆく。

 キヨシは考えた。

 親権は元妻。

 未成年であるケイゴ。

 今は法律上養育者ではない自分。

(ええい!構うもんか!)

 結局、キヨシは決めた。その判断に伴って生じる可能性がある全ての面倒事を、受け入れる覚悟ごと決めた。



「ちょっと待ってて、シーツを変えて来るから」

 ケイゴをリビングのソファーに座らせて、キヨシはそう告げて寝室へ向かおうとした。

「別に、何処でも寝られる…。外でだって…」

 応じるケイゴはしかし、疲れもあって眠気に負けそうな様子。

「駄目だよ。しっかり休まなきゃ…」

 そう言いながらも、キヨシは少しホッとしていた。

 自分の部屋へ連れていく。そう言ったキヨシに一応反対はしたものの、ケイゴは無理に帰ろうともせず、不満顔のまま連れ

て来られた。借りを作ったと感じて従ったのかもしれないし、少しは気を許してくれたのかもしれない。と、つっけんどんで

はあっても少し軟化したその態度からは思える。

 急いでシーツを替え、枕カバーも取替え、全て消臭殺菌スプレーを振ってベッドメイキングしたキヨシは、ケイゴを迎えに

リビングに戻り…。

(寝ちゃったのか…)

 ソファーで横になって目を閉じている我が子に気付くと、その傍らへそっと屈み込んだ。

 起こすのも可愛そうだが、ここで眠らせるよりベッドで寝たほうが良い。

 キヨシは小声で呼びかけて、そっと揺り起こし、文句を言う息子を支えてやりながら寝室へ移動した。

 そして、ベッドに寝かせて、布団をかけてやって、

「…おっさん臭ぇ…」

 そんな文句で自分でも予想外なショックを受け、一瞬泣きそうな顔になる。

 だが、文句を言う元気があるからといっても油断はできない。呼吸は落ち着いているが熱はまだあって、衰弱している事に

変わりはないのだから。

「喉乾いてないかな?食欲が出たら言って。あ、寒くない?毛布増やす?」

 あれこれ世話を焼こうとし、鬱陶しがられて舌打ちされて、それでも心配は消えなくて、キヨシは一晩傍で見守るつもりで

ベッドサイドへ椅子を持ってきた。

 見られていたら眠れないとケイゴは文句を言ったものの、それでも弱った体では睡魔に抗えず…。

 すぅ、すぅ、と呼吸が規則正しくなった頃、キヨシはケイゴの寝顔を眺めながら昔の事を思い出した。

 大きくなった。少年と言える歳になった。それでも寝顔を見ていると、添い寝しながら眺めたあの赤ん坊の顔の面影が幾許

か残っていると思えた。




 何時だろうか?

 薄く目を開けたケイゴは、夢うつつでボンヤリ考えた。

 悪寒は無い。寒気は消えている。体がぬくいのは、柔らかなベッドとフカフカな掛け布団のおかげ。

 苦痛に耐える間は無意識に力んでいたのだろうか、体のあちこちに軽い筋肉痛のような疼きが感じられる。

 部屋に灯りはついていない。だが、体を伸ばして寝ているそこは、あの狭い自分の寝床ではない。

 ふと、手の感触に気付く。

 しっとり汗ばんだ手が、誰かに握られている。

 肉付きの良い、厚くて柔らかいその手は…。

「………」

 顔を横に向けると、ベッドサイドに椅子を寄せ、布団に上体だけ突っ伏している太ったシェパードの頭が見えた。

 キヨシはケイゴの左手を両手で包んだまま、力尽きて眠っていた。

 カーテンが引かれた窓はまだ光の兆しも見せず、車の音も聞こえない。

 草木も眠る夜の真ん中で、ケイゴは不思議な感覚を味わっていた。

 それは、ケイゴがすっかり忘れてしまっていた感覚…、「安心」という物だった。




「むふぅ…」

 首を起こし、顔を腕で擦り、欠伸したキヨシは、寝ぼけ顔でモソモソとうなじを掻きながら、布団が捲れた空っぽのベッド

を眺める。

 変な寝方をしたなぁとぼんやり考え…。

「違うっ!」

 慌てて周囲を見回し、不自然な格好で寝ていたせいで首が派手に軋んで「ふぐぅ!?」と変な声を上げた。

「ケイゴは…!?」

 もぬけの殻になったベッドを尻目にドアを開ける。

「ケイゴ!?」

 呼びながらリビングを見回し、キッチン側を覗き、ドタバタと玄関に出て…。

(靴が無い…)

 ケイゴが履いていたずぶ濡れのシューズは無く、揃えておいたはずの場所には、その影だけが取り残されたように湿った跡

がうっすら残っていた。

(家に帰ったのかな…)

 リビングに入って時計を確認すると、朝の5時50分。看病するつもりが、相手が居なくなっても気付かないなんて…、と

落ち込んだキヨシは、

「…あ」

 テーブルの真ん中、一枚千切られて置いてあるメモ用紙に目を留める。

 

―治りょう代はかえす―

 

 手に取り、療の字が出てこなかったのだろう息子の書置きを見つめ、キヨシは窓際に歩み寄った。

 見下ろす朝景色の中に人影は無い。

「返すとか…、そんなのいいのに…」

 病み上がりなどというレベルではない。休ませなさいと医師からも言われている状態である。姿を消した息子がちゃんと体

を休めるかどうかが、キヨシには心配だった。




 登校時刻。ケイゴは何事も無かったように学校に向かい、席に座った。

 体はだるく、関節痛や筋肉痛はあるが、顎も歯もだいぶ痛みが引いている。熱は微熱程度まで下がり、頭痛も随分おさまっ

た。顎の腫れも随分引き、鼓動と呼応して脈打つように痛んでいたのが、今は指で押さえた際に打ち身の跡のような痛みがあ

るだけ。

 栄養補給と抗生物質が効いたのか、獣人特有の回復力が発揮されつつあったが…。

(給食食って、放課後は…)

 借りを作りたくない。だから、狩りをしてあの男に治療費を返すつもりだった。

 勿論、金の出所や作り方を知ればキヨシが受け取るはずもないのだが、そんな事に気が回るような倫理観や価値観を、ケイ

ゴはまだ持っていない。

 そして…。

(調子は戻った。もう平気だ)

 若さゆえに、自分の体力を過信し、楽観的過ぎる判断に溺れようとしていた。




 夕刻の繁華街。

 ケイゴはそれまで何度もそうしてきたように、表通りには目もくれずに一本奥の路地に入る。

 パイプが走る薄汚れた壁。室外機が撒き散らす湿った排気と音。降り出しそうな曇天の下、灰色のヴェールを透かしてみる

ような光彩の景色を見ると、少年の気は引き締まった。

 狩場に入れば臨戦態勢が出来上がる。身も心もそんな習性に染まっている。

 標的を探してブラつきながら、ケイゴはしかし、慣れた狩場に違和感を覚えた。

(…久しぶりだからか…)

 せっかくの直感も本人が無視すれば無意味。

 時折ピリッと背筋に来る、危機感、注意、警戒心、そういった本能的な警告すらも、しかし少年は体調不良の名残と断じて

しまった。

 おかげで、監視する側は楽だった。

『中坊は四番地の方向に』

 ケイゴが歩き去った後、携帯のメールでそう告げているのは、少年と面識の無い、私服姿の若者。

 ゴリラのチームに所属しているメンバーではない。近くの飲み屋でアルバイトする、ごく普通の青年である。

 ケイゴを捕らえたいチームは、繁華街のあちこちに監視の目を用意した。少年の顔写真を回し、「引ったくりの容疑者」と

して情報を求めたのである。

 確実ではなく容疑の段階なので、こっそり確認したい。間違っていたら問題になるので警察への通報はNG。情報提供者に

は小銭程度だが礼金も出す。…ゴリラはそんな内容で一般人を巻き込み、手駒を割かずに監視網を作っていた。

 見かけて報告するだけで小銭が入る。そうでなくとも繁華街の治安維持の一環。容疑者とはいえ引ったくりかもしれないな

ら見かけて報告するのは正しい事…。ひとの思考へ巧みに付け込んだゴリラの監視網は、ケイゴが姿を見せてからたちまちの

内に「関係者」へ情報を提供していた。

(…おかしい)

 ケイゴが異常を察したのは、30分ほど経ってからだった。

 獲物が居ない。狩って良い対象を全く見かけない。万全ではない状態で歩き回ったケイゴは、ぶり返してきた悪寒を堪えな

がら神経を張り詰める。

 何故居ないのか?などという疑問の答えは探さない。異常と感じた状況そのものに注意する。

 その野生的な思考と判断は正解ではあるのだが、いかんせん…、

「居たぞ!」

 対応に移るのが遅過ぎた。

 駆ける靴の音、複数。

 場所は細い路地の、丁字交差。

 自分が置かれている状況を正確に把握する前から、ケイゴは「囲まれる」と判断して駆け出した。

 靴音の無い道を咄嗟に選択し、飛び込んで走る。人数は集められていたが現場指揮官が決まっていないのか、連携は取れて

おらず、道は塞がれていないし先回り要員も居なかった。

 挟み撃ちのはずが三方向目に逃げられ、合流しながら追う男達の数、十三名。

 人数を正確に確認した訳ではないが、声と足音から対応不可能な人数だという事だけは判るので、ケイゴは全力で逃げの一

手に集中する。

 裏口脇のゴミ箱が蹴飛ばされて引っくり返り、悪態と怒声が上がる。

 無関係な酒屋の店員が驚いて転び、ビールケースが地面と激突する。

(やべぇ…!)

 ケイゴは自覚する。息を激しく乱しながら。

 体力は戻っていなかった。

 駆け出したら短時間で一気に悪化した。

 鼓動が早まるなり体のあちこちが悲鳴を上げた。

 高まった体温と血圧が頭痛を呼び戻した。

―駄目だよ。しっかり休まなきゃ…―

 キヨシの言葉が耳元に蘇った。

 だが今は軽率さを悔やんでいる余裕すらない。逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ…。

(借りが返せねぇ…!)

 喉が鳴る。呼吸と共に咳が出る。咳を抑えて空気を取り込む。

 どうなってもいい。いつかは駄目になるんだろうから、いつ駄目になったって別に。…かつてはそんな捨て鉢な諦観を持っ

ていた少年は、必死に足掻く。

 だがしかし、その意思とは裏腹に体は不調。根性論でどうなる物ではない。痛みを堪えてどうにかなる物ではない。衰弱と

は、れっきとした物理現象なのである。

 足が重くなる。太腿が上がらなくなる。追いかける足音は距離を狭めている。罵声の中に息遣いまで混じって、今にも首筋

にかかりそうなほど近い。

 もうじき路地の角。その曲がり角を見て、さらにその向こう数メートルで十字路のはずだったと、ケイゴは記憶を手繰る。

だが…。

(交差するトコまでに追いつかれるか…!?)

 追っ手を惑わすには距離が足りない。曲がる後姿を見られてしまう可能性が高い。いや、十字路で一時惑わせてもすぐに追

いつかれて…。

 一か八かで力を振り絞り、角を曲がったケイゴは…。

「!?」

 続けて、無数の足音がけたたましく角を曲がる。少年を追うその怒号は、一瞬途切れ、次いで困惑の言葉が混じり始めた。

「おい、どっち行った!?」

 交差する十字路で、男達は右往左往した。もうすぐ追いつけそうなところだったのに、シェパードは忽然と姿を消していた。

 

「………………」

 ケイゴは無言でその男の顔を見上げていた。いかにも儲かっていそうにない飲み屋の、入り口に敷かれたマットの上、路地

とはドア一枚を隔てた位置で。

 目前に立っているのは立派な和服姿の大男。見上げるケイゴの顔は疑問と驚きで、この時ばかりは歳相応の少年らしい表情

になっていた。

「なん…っ!」

 何で?そう言葉を発しようとした途端に、ヒリついた喉が咳を発した。慌てて口を押さえて耳を澄ませるが、追っていた連

中は走り去った後のようで、ドアを開けて入ってくる様子は無い。

 一方、出会い頭にケイゴの腕を掴んで、手近なドアに飛び込んだ牛の偉丈夫は…。

「偶然に驚いているよ」

 こちらも相当にビックリしていた。

 追われているケイゴと出くわしたのはただの偶然で、何かから逃げていると咄嗟に判断しての行動である。

「会うのは二度目だね」

 咳き込んでしまわないように頷きだけで返答するケイゴ。そこへ…。

「お客サン、開店まだヨ?」

 小麦色の肌が健康的な、異国人らしい中年女性がカウンター側から声を掛ける。

「や、これは失礼!」

 カナメは微苦笑を浮かべて深々とお辞儀すると、「失礼ついでに、ミネラルウォーターなどありましたら、一本譲って頂け

ませんか?」と尋ねる。

 ケイゴは息を整えながらその様子を眺め、どうやら幸運が味方してくれたらしいと、今さらになって安堵した。

「あるヨ。一本?」

「や、助かります」

 女性がカウンターの向こうで屈み、冷蔵庫から水割り用のミネラルウォーターを出している間に、

「小生はミョウジン。少年は?」

 と、カナメはケイゴに名を尋ねた。

「しょう…せい?みょうじん?」

「自分は、という意味でね。名はミョウジン」

「…オシタリだ」」

「ふむ。おっと、有り難うございます女将」

 女性が持って来てくれたボトルを受け取ると、ミョウジンはそれをケイゴに渡し、女性には札入れから取り出した千円札を

手渡す。

「や、開店準備の邪魔をしてしまった迷惑料こみと思って頂ければ」

 多い、と言いかけた女性を制したカナメは、

「息子サン、具合悪い?顔色よくないヨ」

「いや、小生の息子という訳ではなく…」

 店主の言葉にそう返答しつつ、改めてケイゴを見遣る。走っていたので息切れしているのだと考えていたが、咳き込み方や、

貰った水を飲みながらも噎せ返りそうになっている状態から、体調不良を疑った。

「タクシー呼ぶ?病院行く?電話あるヨ」

「や、有り難うございます。しかし携帯がありますので」

 和装の牛は店主に礼を言うと、思い出したようにケイゴを見遣った。主に、そのポケットなどの膨らみを注意するように。

「ところで少年、携帯電話は使っているかね?」

「…持ってねぇよ」

 何でそんな事を?と言いたそうなケイゴに、「おや?それは今時珍しい…」と応じたカナメは、心なしかホッとしている様

子でもあった。

「いや、そうでもない…のかな?うむ。どうにも今時の少年少女の常識非常識がピンと来なくて困る」

「持ってるヤツは、…ゲホッ!結構、クラスに居るけどな」

 少し息が落ち着いてきたケイゴは、「では小生が保護者を呼ぼう」とカナメに言い出され、「ん?」と眉根を寄せた。

「少年は、テシロギさんの息子さんだろう?」

 ケイゴは先ほどと同じレベルの驚き顔で、「え?」と、カナメの顔を見つめていた。