第七話

 薄く溜まった路面の雨水を、革靴の底が押し潰して蹴り跳ねる。

 ハァハァと息を荒らげて、太ったシェパードは路地を走った。呼び込みの若者も無視し、けばけばしい看板に目もくれず、

ただ、言われた場所へとひたすら走る。

 辿り着いたのは、本通りからかなり離れた、奥まった場所にある判り難い立地の店。

「ケイゴ!」

 電話で聞いた飲み屋のドアを開けたキヨシは、そこから見えるボックス席に座らされている、少年の姿を目に止めた。

「ケイゴ!大じょ…あっぶ!」

 駆け通しだった足がもつれ、入り口の段差に足を引っ掛けて派手によろめいた中年は、転びそうになりながらもケイゴの傍

へ寄る。

「だ、大丈夫なのかい!?あ、す、済みませんミョウジンさん!」

 もはや意地を張る元気もないのか、ソファーに身を沈めたまま視線だけ寄越すケイゴの向かい側には、和装に身を包む立派

な体格の雄牛が座っている。

「や。偶然見かけたのですが、体調が悪そうだったので…。取り越し苦労でしたら申し訳ないですが」

 大柄な牛は中年から少年へ目を向けるが、ケイゴは居心地が悪そうに視線を逃がし、子供のように耳を倒した。

 ケイゴの前にはミネラルウォーターが置いてあるが、カナメの前にはウイスキーのボトルと水割りのグラス…場所代と迷惑

料としてオーダーした品がある。開店前という状況で邪魔してしまった詫びを客としての注文で埋めるという遣り方は、実に

この牛らしい生真面目さだった。

「そっちがパパさん?」

 異人の女将がカウンターの向こうから窺って、

「ソックリだネ」

 本気なのか冗談なのか、真面目腐った顔でそう評していた。

「や。同感です」

 牛もまた、妙に生真面目に頷いていた。



 カナメの手前でもあり、店内でモメる気にもなれなかったのだろうケイゴは、渋々といった様子の態度はともかく、キヨシ

に連れられて店を出た。

 病院行きは頑なに拒否したものの、昨日に続いて今夜も迷惑をかけたという決まりの悪さもあって、強く出られなかった。

 すぐ戻ります、と断りを入れて飲みかけの酒と一万円を席に置いたカナメは、ふたりを先導して繁華街西側…比較的近いタ

クシーが拾える場所まで送り届けた。

 今夜も雨が降り出した。ポツリ、ポツリ、小さな粒が断続的に落ち、水滴が当たった耳をケイゴがプルルッと震わせる。

 ふたりが乗り込むのを確認し、走り出すのを見送ってから店へ引き返す大柄な牛の背中を、ケイゴはタクシーの窓越しに眺

めていた。

 親子の会話は無く、無線が時折喋るだけのタクシーは、二十分ほどかけてキヨシが住むマンション前に到着した。

 肩を貸そうかと心配するキヨシをつっけんどんにあしらい、それでもケイゴは中年シェパードの後に従って部屋へ向かう。

 不思議だった。何故去らないのか、何故大人しくついてゆくのか、自分でも判らなかった。

 玄関に靴を脱ぎ、案内されるままに入ったリビングには、昨夜と同じく不思議な感覚を抱かされる。

 それは、居心地の良さ。

 自宅よりも、寝床よりも、馴染みの無いこの部屋の方が心安らぐ。

「どうしてあそこに?」

 ミネラルウォーターを出しながら尋ねたキヨシから、ケイゴはそっぽを向いて目を逸らす。

 テーブルを挟んで向き合う二頭のシェパード。置かれたコップの中で水がゆらゆら揺れてる。空調の音がやけに大きく聞こ

えるほどの静寂が、ふたりの間に居座った。

 雨は、少しずつ強まっている。

「…もしかして、また…、その…」

 言い難そうに口ごもり、それでも黙ってしまったら先へは進まないと判っていたので、キヨシは意を決して続ける。

「ひとからお金を奪うために…?」

 ケイゴが一度目を向ける。すぐに視線は逸らされたが、その無言は雄弁な肯定となっていた。

「どうしてそんな事を…!」

「借りは、返す」

 店を出てから初めて口を開いたケイゴが発したのは、ぶっきらぼうな短い返答。

「借りだなんて!」

 書置きの事を思い出したキヨシは、思わず声を大きくした。

「ひとから奪ったお金で借りを返すだなんて、そんなの間違ってるよ!」

「ならどうやって金稼げばいいんだ!?」

 キッと睨み返し、ケイゴが吠える。

「会社に入れねぇガキは、どうやって稼げばいいってんだ!?」

「そ、それは…」

 噛み付きそうなケイゴの剣幕で一度はたじろいだキヨシだったが、ここで引き下がってはいけないと、ゴクリと音を立てて

唾を飲み下し、口を開く。

「稼がなくて良いんだよ!君が子供でいる時期は親が養うべき期間なんだ!遊ぶためのお小遣いが不足してるなら…」

「小遣いじゃねぇ!」

 ケイゴの怒鳴り声に耐え難い苛立ちが混じる。何故こうも熱くなるのかケイゴ自身には判らなかった。

 それは糧を得るための必要な「狩り」を、遊ぶ金欲しさと誤解された事に対して不満があったからである。ただ、例えばそ

れが赤の他人であれば、どうでもいい相手であれば、別にどう思われても構わないし不満にも感じない。相手がキヨシだった

から怒鳴って否定したという事実を、ケイゴ自身は把握できていない。

「飯を食うのに金がいるだろ!食わなきゃ死ぬだろ!生きるのに金がいるじゃねぇか!」

「…え?」

 呆けたような顔になるキヨシ。ケイゴが叫ぶように発した言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

「っつ…!」

 頭に血が昇って頭痛がぶり返したケイゴは、額を押さえて口を閉じる。喋り過ぎたとも感じたし、なんでマジになっている

んだ?と自分に呆れもした。が…。

「ケイゴ…、そんなに生活が厳しいのかい?」

 問いながらも、キヨシは既に異常に気付いている。養育費として元妻から求められ、口座へ振り込んでいる金額は、贅沢さ

えしなければ母子が生活するのにそうそう不自由しない額だった。

 元妻が派手な金遣いをするようになり、金の無心を繰り返した挙句に実家からも絶縁された事は知っている。考えたくはな

かった…否、これまで考えようとしなかったが…。

(彼女は…、養育費も自分のために使っている…!?ケイゴは…、食事にすら不自由している!?それでお金が…、食べるた

めに、生きるために、お金が必要であんな真似を…!?)

 元妻をまだ少しは信じていた。だが、ケイゴの状況と言葉から芽生えた疑惑が、あれこれ考えて生じていたキヨシの疑問全

てを繋げた。

 自分の楽観に腹が立った。ポジティブさに失望した。物事を悪く考えず、悪い方向に疑おうとしない性質が、「元妻とケイ

ゴは不自由なく暮らしている」という幻想を長年見続けさせた。

 この日、この時だった。

 キヨシが、この状況を変えなければと心を決めたのは。

「…ケイゴ」

 中年シェパードが口を開く。少年シェパードが顔を見る。

 言いかけて、しかしキヨシは結局辞めた。自分が捻出してきた養育費を元妻が正しく使っていないという事は、まだ子供の

ケイゴにはショッキングな事実だろうと考えて。

 その事を告げる代わりに、キヨシはこう言った。

「お小遣いならわたしがあげる。お腹が減ったら言ってくれればいい。食事ぐらいわたしが食べさせてあげられるよ。育ち盛

りなんだ、食べたい物もたくさんあるだろう?」

 優しく目を細めてそう告げながら、キヨシは思った。

 たぶん、今はこれでいいのだと。

「…なんで…」

 ケイゴは胡乱げな顔をしていた。

「なんでアンタが、そんな事するんだ?」

 父を知らない子からは当然の疑問だったが、その素朴過ぎる他意の無い問いかけは、キヨシを無性に哀しくさせた。

「…甲斐性を見せたいんだよ。…大人の」

 親の、とは言わなかった。今はまだ、言えなかった。

 コップを掴み、水を一気に飲み干して、キヨシは「さあ!」と気を取り直すように声を発する。

「ご飯だ!そしてお風呂だ!まずはしっかり休まなくちゃ!」

「…は?」

 眉根を寄せるケイゴに、キヨシは肉付きのいい丸顎をタプッと引いて頷く。

「今日も泊まって行きなさい。温かくしてしっかり休んで、体調を戻さないと!」



 キヨシが買ってきたレトルトの粥を食べ、風呂に入り、丈はともかく胴回りなどが余るパジャマを借りて、ケイゴは寝床に

入った。

 渋々ながらも指示に従うのは借りがあるから。これ以上迷惑や面倒をかけたくないし、借りを膨らませたくないという意識

もあるが、一応恩がある相手なので、まずは言う事ぐらい聞いてやらなければという思いもあった。

 腹も膨れ、身も清められ、体も温まったケイゴは、飲んだ薬の作用も手伝いベッドに入るなり眠気を感じた。

 昨夜と同じようにベッドサイドについたキヨシは、嫌がるケイゴを宥めて腰を落ち着けると、

「そうだ。眠くなるまで…話をさせてくれるかい?」

 思い立って、そう切り出した。

「こんな時に何だ、と思っているかもしれないけれど、こんな時でもないと話すこともなさそうだから」

「…ああ?」

 面倒臭そうに応じるケイゴ。キヨシは少し硬い表情で深呼吸する。

「返事も相槌も要らない。独り言だと思って聞き流してくれていい。勿論、眠くなったら寝てくれていい。出来の悪い子守歌…、

うん。まぁ、そんな感じで…」

「………」

 無言で見つめてくるケイゴに、キヨシは小さく頷きかける。

「お互いに知らない事ばかりだけれど、私の事を少し知って貰いたいとも思うんだ」

 そしてキヨシは記憶を手繰る。

 この街に帰ってきた、あの日の記憶を。

「…そう…、あの日…。あの日も今日と同じで、雨が降っていたな…」




 その寝室には、穏やかな時間が流れていた。

 強まった雨が窓を叩く音と、キヨシの声、自分の呼吸だけが聞こえる中で、ケイゴはまどろむ。

 昨夜と同じくあまり馴染みの無い感覚がある。

 慣れてはいないが不快ではない、安心感に包まれて、ケイゴはゆっくりと眠りに引きこまれてゆく。

 この気持ちは何なのだろうかと、自分の胸の内を見つめようとしたが、それを形容する物も、表現する言葉も、比較する経

験も持ち合わせていないケイゴは、ただその柔らかくて暖かな、胸の中にポッと燈った灯火を抱いて、父に見守られながら夢

の中へ沈む。

 でも、これ悪くないな。

 そんな思考だけが、頭の隅に浮かんでいた。

 スゥスゥと寝息を立て始めたケイゴの顔を見ながら、キヨシは話すのを止め、口を閉じた。

 起きている間は険しさがある顔だったが、眠ってしまえば歳相応のあどけなさも窺える。

 キヨシは考える。泣きそうな顔で。

 ケイゴはきっと幸せではない。非行に走ったのは生きるため、ひもじさから逃れようとして抵抗する手段が、子供のケイゴ

にはそれしか見つけられなかったというだけ。

 親の責任だと思う。元妻だけではない、家庭を維持できなかった自分にも責任はあると、キヨシは思う。

 自分が元妻から愛想を尽かされた事には、仕方がないと諦めもつく。

 だが、ケイゴの事はきっと、仕方がなくもないし、諦める事は許されない。

(わたしに、何ができるだろう?わたしは、どうすれば良いだろう?わたしは…)

 深い眠りに落ちたケイゴの頭に、そっと触れる。

(…ケイゴ…?)

 キヨシは目を見張った。ケイゴの耳が、まるで自分の手を受け入れてくれるように左右に倒れた。起こしてしまったかと顔

を窺ったが、ケイゴは眠ったままだった。

(…わたしは…)

 上手く言葉に出来ない。考えはしっかり纏まらない。どうすれば良いかなど判らない。

 ただ、気持ちだけは固まった。

 我が子を幸せにしたい。

 そんな純粋な願いだけは、はっきりしていた。




 目が覚めた時、ケイゴは天井をぼんやり眺めて、ここが昨夜と同じ部屋だと思い出すところから思考を始めた。

 頭が重い。しかし耐え難い頭痛にはなっていない。昨夜もそうだったが、だるさや疲れは感じられても、肉体が訴える苦痛

はだいぶ薄れている。

 閉められたカーテンを見遣れば、隙間はまだ暗い。窓を叩いていた雨音はもう聞こえない。

 スブゥッ…と、鼻が詰まったような妙な寝息に反応して、ケイゴはベッドサイドを見る。昨夜と同じく、キヨシはそこに座っ

たまま、ベッドに突っ伏して眠っていた。

(………)

 肉が付き過ぎて呼吸が怪しいのか、変な寝息を立てているキヨシの顔をケイゴはじっと見つめた。半開きの口がだらしなく、

よだれがシーツに染みている。立派な大人像や威厳ある父親像とは程遠い、パッとしない中年の相貌だった。

(………)

 だが、だからといって特に嫌悪感がある訳でもない。見ていると和むような気はした。

 視線を天井に戻したケイゴは、眠りにつく直前までキヨシが話していた内容を思い返してみた。

 言い訳…ではなかった。

 自分は自分で大変だった…などと語るのかと思えば、キヨシが話した内容には自分を正当化するような言葉は一切含まれて

いなかった。てっきり離婚した理由や、自分には落ち度が無かったなどという類の弁解やらを並べ立てられるのだろうと思っ

ていたのに。

 言い訳でも、口先で取り繕った方便でもなかったあれは、きっと、懺悔だったのだろう。

 判らなくなってきた。

 母からは、父親は自分達を捨てたのだと聞かされて育った。自分勝手な男だったのだろうと、奔放な母の生き方を眺めなが

ら漠然と考えたりもした。

 居ないのが当たり前で、憎むどころか興味も湧かなかったから、これまでずっと父親のことを深く考えたりはしなかった。

 だが、今になって疑問が湧いた。この男は本当に家庭を捨てたのか?と…。

 先日は身の危険も顧みず自分を助け出そうとした。

 昨夜は病院へ連れて行って自分を救おうとした。

 どちらも、衆目がある中で世間体などを気にした行動などではなく、自発的に厄介事へ首を突っ込んで来た。

 微かに鼾が混じる寝息を聞きながら、ケイゴはキヨシの寝顔に目を戻す。

(…「父親」…、か…)

 遠かった言葉。他人事でしかなかった関係性と概念。それが今は…。




「むふぅ…」

 首を起こし、顔を腕で擦り、欠伸したキヨシは、寝ぼけ顔でモソモソと胸元を掻きながら、布団が捲れた空っぽのベッドを

眺める。

 また変な寝方をしたなぁとぼんやり考え…。

「また違うっ!」

 慌てて周囲を見回し、窮屈な格好で寝ていたせいで体があちこち軋んで「えおぐぅ!?」と変な声を上げた。

「いだだだだ…!け、ケイゴは…!?」

 痛みに呻きながら立ち上がったキヨシは、空っぽのベッドを尻目にドアを開けて居間へ。

(また何処かに行っちゃったのか!?)

 リビングを見回し、キッチン側を覗き、ドタバタと玄関に出て…。

(…靴が…、ある?)

 シューズは昨夜ケイゴが脱いだまま、自分の靴と並んでそこにあった。

 首を傾げたキヨシの耳が、水音に反応してピクリと動いた。

 引き返して洗面所を覗くキヨシ。トイレから出てきて中年シェパードに気付いたケイゴは…。

「…何だよ?」

 物凄くホッとした顔で胸を押さえているキヨシをジロリと睨んだ。

「い、いや…。あ、具合はどうかな?」

「…何ともねぇ…」

 本当はまだ頭が重いのだが、強がりの仏頂面で応じたケイゴは…、

「あ」

 ツンッと、敷居に躓いた。

 熱の仕業か衰弱のせいか、やはり本調子ではない。足は自分で思ったほどには上がっておらず、誤作動じみた摺り足になっ

て引っかかり、まともにつんのめったケイゴを…、

「あぶなっ…、おげぇっふぁ!?」

 抱き止めた…のも一瞬。支え損ねたキヨシは見事に転び、下敷きになる格好で背中から倒れ込んで、痛烈ながらもコミカル

な声を上げた。

「……けふっ…」

 上になったケイゴは軽く咳き込んだだけ。下に入った贅肉だらけのキヨシの体が低反発クッションになり、ボヨンと衝撃を

吸収している。

「………!!!」

 後頭部と背中を打った痛みを堪え、固まっているキヨシと、

「………」

 抱き止められたまま上に乗っているケイゴは、そのまましばし無言で、動きもしなかった。

 湧き上がる奇妙な感情に、ケイゴは戸惑った。

 柔らかい肉布団。だらしない体型の中年。だが、抱き止められている今は、その感触も体温も不快に感じない。むしろ、心

地良い安堵にも似た感覚が胸を満たしている。

 厚いが逞しくはない、弛んだ胸に頬を乗せたまま、少年は聞く。確かな心音を。

(…ケイゴ…?)

 痛みが引いてきたキヨシは気付く。少年が立ち上がろうともせず、身じろぎもしない事に。

 ゆっくりおずおず、その背中に腕を回す。ケイゴの体がピクンと震えたが、その手は拒絶を示さず、身を預けたまま背に回

る腕を受け入れる。

(ああ…!)

 キヨシの目が潤んだ。

 それは、不恰好ではあっても、思い描いた物とは違っていても、夢にまで見た行為。

 もう一度我が子をこの手で抱き締める…。そのささやかでありながら実現の目処も立っていなかったキヨシの夢は、今日、

やっと叶った。

 ヒクッと、中年の喉が鳴る。感極まって涙腺が緩む。

 顔を起こしたケイゴは、涙を溜めたキヨシの目に気付くと、

「…悪い…」

 その涙を痛かったが為の物と解釈し、急いで身を起こした。

「い、いや、大丈夫…!」

 鼻を啜って身を起こしたキヨシは…、

「あ!」

 中腰のまま姿勢を崩し、尻餅をついたケイゴの腕を咄嗟に掴んでいた。

 そしてハッとする。抱いた我が子の感触と、成長した体の大きさに意識を奪われていたが…。

「ケイゴ、熱が…、あまり下がっていないんじゃ…?」

 眩暈を起こしてバランスを崩したケイゴは、キヨシの声に答えない。痛みは薄れても不調は解消されておらず、体力もまだ

戻っていなかった。

「もう一度病院に行って診て貰おう!」

 しかし、キヨシの意見に対してケイゴは…、

「病院には…行かねぇ…」

 そっぽを向いて即座に、しかし掠れ声で却下。

「無理はよくないよ。意地を張らないで…」

「意地とかじゃねぇ…」

 言葉を遮るケイゴ。じゃあどうして?と目で問うキヨシに、少年は言い難そうにボソボソと応じた。

「…あそこの匂いとか、空気とか、針とか、嫌だ…」

 キヨシの目が丸くなった。ケイゴは視線を逃がしたまま口をつぐんでいる。

 病院は嫌い。行きたくない。

 意地を張るのでも意固地になるのでもなく、逆に意地を張らずに言っている。単に、ただ単に、単純に、ケイゴは子供の動

機で「病院が嫌いで行きたくない」のである。殴られようが蹴られようが、体調が悪くなろうが親に放り出されようが、耐え

忍ぶ事には慣れている少年が、病院の匂いと雰囲気と注射や点滴の針を恐れた。何せ、幼少期からろくに病院にもかかって来

なかったので、この歳でも耐性が全く無い。

「…そ…」

 数回口をパクパクさせて、

「そう…なん…だ…?」

 何と言っていいのか判らなかったキヨシは、曖昧な言葉をポソッと零す。済んでのところで「小さな子供じゃあるまいし」

という言葉は飲み込んだ。


 水を飲ませてもう一度寝かせたケイゴに、キヨシは色々と確認した。

 母に連絡は取らなくていいのか?学校は休ませて貰った方が良くないか?食べたい物は無いか?他に必要な物は無いか?

 面倒臭そうにつっけんどんな口調で、構うなと応じたケイゴだったが、それでも一応は答えを返した。母は自分を気にしな

い事、学校には自分で連絡を入れる事、それらを手短に告げて、キヨシから電話を借りる。

 時間になり、ケイゴが学校へ欠席の連絡を入れている間に、キヨシは念のために冷蔵庫の中身を再確認した。

 栄養は摂らなければいけないが今は消化に良い物が望ましい。冷凍チャーハンやパスタ等を除くと、他には酒の肴になるよ

うな揚げ物類しか無いので、やはり食べさせられるのは昨日買ったレトルト粥しかなかった。

(あと食べさせても良さそうな物は…。あ~…、梅干しでもあれば梅粥にできたのに…)

 冷蔵庫の棚に立つ海苔の佃煮やドレッシング類をしばらく確認していたキヨシは、ふと思い出した。昔、自分が少年だった

頃に体調を崩した時の事を。

(母さんが昔…。ああ、そうだった…)

 高熱を出して弱って、粥ばかりで飽きた時、亡き母は粥の上に一匙だけなめ茸を乗せてくれた。

(あれは美味しかった…)

 パックの粥を袋のまま鍋で加熱し、充分に熱を加えてから丼にあけたキヨシは、その上にチョンとなめ茸をスプーンで一つ

乗せた。

 いそいそと居間のテーブルに運び、ケイゴを呼びに寝室へ向かい、嫌がる我が子に肩を貸してやり…。

「まだ熱いから気を付けて。かき混ぜて冷ましながら食べるといいよ」

 少し緊張しながら様子を窺うキヨシ。その胸中を知ってか知らずか、一匙のなめ茸が乗った粥を見て、スプーンを取ったケ

イゴは、

「………」

 中年シェパードを一瞥してから、言われたとおりに粥をかき混ぜる。

「あ、水取って来るから」

 忘れ物に気付いて立ち上がったキヨシは、キッチンでミネラルウォーターをコップに注ぎ…耳を立てた。

 ふぅ、ふぅ、と吹きかける息の音。そして、慎重に粥を啜る音。

 振り返れば、ケイゴはなめ茸を混ぜ込んだ粥を、一心不乱に食べていた。

 目尻が下がる。耳が下がる。

 粥をきちんと食べてくれる我が子の姿。ただそれだけで、キヨシは胸が一杯になった。




 それはまるで、安心したような体調の崩れ方だった。

 ベッドに入る頃にはケイゴの熱は一気に上がり、全身から汗が噴き出した。

 張り詰めていた気が緩んで、溜まっていた疲れが出て、もう無理をしなくて良いと悟った肉体が、一気に不調を全面に出し

たようだった。

 急用で休む旨を会社へ連絡したキヨシは、高熱がぶり返したケイゴをベッド脇で見守り続けた。

 息苦しくは無いが、とにかく熱が高い。援軍となる抗生物質の助けを借り、栄養という物資の補給線も確保した肉体が、体

内に入っている不要な雑菌に全力で反撃を開始している。

 朝に粥を食べたきり、ケイゴは眠って起きてを1時間から2時間程度の短いサイクルで繰り返した。

 キヨシはケイゴの額を冷たいタオルで冷やしてやり、トイレに行きたければ肩を貸して連れて行き、こまめに水分を摂らせ、

片時も離れず甲斐甲斐しく世話を焼いた。

 この日は皮肉にも晴天で、気持ち良く晴れていた。朝から晩まで雲にも殆ど邪魔されなかった太陽は、ゆっくりとアーチを

描いて夕暮れ色に街を染めた。



 午後四時。ケイゴに頼まれたキヨシは、あの遊歩道で白猫に餌をやっていた。

(何のお願いかと思ったら…)

 微苦笑する中年の前で、魚肉ソーセージをウニャウニャ言いながら齧る白猫。

 コナユキという名の野良猫だと、ケイゴは言っていた。息子から頼み事をされるのがこんなに嬉しい事だとは、ついぞ考え

た事もなかった。

「お礼を言わなくちゃいけないな…。コナユキ君が教えてくれなかったら、あの晩、わたしはケイゴに気付けなかったかもし

れないんだから…」

 今度は美味しそうな缶詰を探して来るよと話しかけ、頭と背中と喉を撫でてやって、キヨシは遊歩道を後にする。

 買い足すべき物を確保したキヨシが部屋に戻ると、ケイゴは薄く目を開けて姿を確認してきた。

「ご飯はあげてきたよ。元気だった」

「…そうか…」

 小さく応じたケイゴは、顔を反対側に向けてモゴモゴと口を動かす。

 ありがとう。

 耳には届かなかった小さな声。だが、息子が何を言ったのかはキヨシにも判った。



 念のために風呂には入らせない事にした。

 ケイゴは嫌がったが、汗で湿ったままではよくないと、キヨシは湿らせたタオルで体を拭ってやった。

 買ってきたばかりの新しいパンツに着替えさせ、パジャマも替えて、シーツも布団も交換して、粥を食べさせてから昨夜と

同じように寝かしつけた。

「…アンタも寝ろよ…」

 眠気に抗いながら、ケイゴは言った。

「ずっと、横になってねぇじゃねぇか…。昨日も…」

 キヨシは少し驚いて、それから喜んで、尻尾を振りながら顎を引いた。

 うん。今夜は横に布団を敷くよ、と…。

 ケイゴはもう、キヨシを拒絶しようとはしなかった。放っておけと言ってもきかないし、傍に居られるのにも慣れて来たし、

何より、ここまで世話になっては従う他ない。

 ベッドの横に布団を敷いて、キヨシは天井を見る。

 隣に居るはずの息子の姿は、ベッドの縁に邪魔されて見えない。

 だが、同じ天井を並んで見ているというその事実が、キヨシには少し嬉しかった。

 やがて、いびき混じりの寝息が部屋に響いた。

 二晩ろくに体を休めていなかったキヨシは、溜まっていた疲れに負けてすぐに寝入ってしまっていた。

 衣擦れの音で起こしてしまわないように気を付けて、静かに身を起こし、ケイゴはキヨシの寝顔をベッドから見下ろす。威

厳も無く凛々しくもない、いびき混じりの寝息を立てて、よだれを垂らして寝こけている中年の顔を。

 父親。

 他の家にはそういう存在が居る…という程度の認識に過ぎなかった、縁遠い概念。

 母からも放り出され、親の温もりを知らなかった少年は、新しく触れたソレをまだ咀嚼し切れていないが…。

(…「父親」…)

 自分にも父親が居たのか。

 ケイゴは中年シェパードの寝顔を眺め続けた。物珍しそうに、いつまでも、いつまでも…。