第八話

「ふんふんふふふふふんふ~ん。ふんふんふふふふふんふ~ん。ふんふんふふふふふんふ~ん!ふんふんふーんふんふーん!」

 丸みを帯びた肉付きの良い尻がユサユサと、尾がフサフサとそれぞれ揺れる。センサーつきの掃除機がリズム良く吸引力を

調節する音に、合わせるようにして腰を前後させるキヨシはすこぶる上機嫌に鼻歌まじりだった。ただしクリスマスソングな

ので季節外れにも程がある。

 玄関から始まって寝室まで徹底的に掃除しているシェパードは、部屋の隅をウィンウィン吸わせてから一度スイッチを切る

と、曲げっぱなしだった腰を伸ばしてトントン叩き、窓から射し込む明るい日差しを顔に浴びつつ「ふう!」と額の汗を拭う。

晴れやかな笑顔である。ただしシェパードは肥っている上に中年でお世辞にもハンサムとは言えないため、爽やかさはいささ

か減。

 休日の昼前、キヨシは朝から大掃除中。やたら早起きしてしまっていたので進み具合は予定以上。想定していた時刻より一

時間半以上も早く、掃除の殆どが終わっている。

 室内を綺麗にし終えたキヨシは、掃除機を片付けるなり手帳型メモを手にしていそいそと玄関口に向かった。

「おひとり様ご案内…、おひとり様ご案内…」

 呪文のように呟きつつ、息子来訪をシミュレートし…、

「…ケイゴ用スリッパ!」

 玄関を指差し、足りない物に気付いてすぐさまメモに記入する。メモには既にルームウェアや、お泊りに備えたパジャマや

下着など、衣類関係が細かく纏められていた。

「グラス…、いや食器類一式必要だな」

「ケイゴ用歯ブラシとコップも」

「シャンプーとボディソープも要る。…でもどういうのが良いかな…?」

 意外と効果がある指差し確認シミュレート。風呂場まで回ったキヨシは、メモを見直して再確認する。

 まるで新生活用の買い物メモのようだが、別に息子を引き取れる事になった訳ではない。ただ、どの程度の頻度になるかは

不明なものの、これからはケイゴが時折この部屋へ来る事になるのは間違いない。主に食事を摂ったりするために。

 そして今日は、ふたりで決めて予定していた、その初日である。



「いいんだよ、返さなくても」

 体調不良から回復し、学校にも行けるようになった数日後、キヨシの部屋を訪ねてきたケイゴは、病院代や薬代は必ず返す

ので少し待てと言った。これに対するキヨシの返事は、当然この通りだったが…。

「返さねぇと気持ち悪ぃだろ」

 まだ遠慮があり、借りを作るのを良しとしないケイゴは、まったく納得していない表情だった。

 二頭が挟んだテーブルには、グラスが結露するほど冷たいアイスミルクティー。ケイゴの前の手付かずのソレが、まだ消え

ていない遠慮を象徴しているようにキヨシには感じられた。

「ケイゴは未成年で、義務教育すら終わっていないんだ。親の保護を受けるのは当然なんだよ」

 そう言ってから、また父親面か、と睨まれるのではないかとハッとしたキヨシだったが、ケイゴは特に噛み付く事もなく、

僅かにピクリと耳と眉を動かしたのみ。

「…えぇと、だからね?お金とか、対価とか、そういうのは要らないんだよ。だいたい、君はまだ労働できる歳じゃないんだ

から…」

「労働だったらやってたぜ?そこらのいきがってるヤツをシメて…」

 これまでも働いていたし収入も得られていた。と悪びれもせずに述べる息子に、「ソレはしちゃダメだからね!?っていう

かそもそも労働って言わないからね!?」と慌てて釘を刺すキヨシ。

「じゃあ、労働って何だよ?」

 ムクれたような声を出すケイゴ。その歳相応の不機嫌さが垣間見えた反応に、ちょっとポワンとするキヨシだったが、

(いや待って。こういう質問が出る辺り、かなり重症なんじゃないのか!?)

 労働の何たるかを理解していない…というよりも、どうやら公衆道徳や倫理の面で若干問題があるらしい息子に、キヨシは

根気強く、言葉を選びながら説明する。いわゆる「はたらいておかねをもらうしゃかいのしくみ」…、小学校で知るはずの基

礎中の基礎から、未成年の就労規制などについてまで。

「…働く…」

 腕組みして呟く少年シェパード。

「雇われる…」

 視線を上に向けて彷徨わせる少年シェパード。

「仕事を貰う…」

 かなり考えてから険しい顔になる少年シェパード。

「…おい。じゃあオレはどうやって金を手に入れたらいいんだ?」

 これまでのように稼いではいけないと諭されて、困惑するケイゴに、

「だから、まだお金なんて稼がなくてもいいんだよ」

 応じるキヨシは少し疲れた表情。息子へのプチ社会の授業に時間を取られ、一時間ほど喋りっぱなしだった。

「お小遣いならお父さんがあげるから。それはまぁ、いくらでもという訳には行かないけれどね?」

「それをオレが貰って、アンタにどんな得があるんだ?」

「え?得?」

「ねぇのか?アンタは金出すだけなのか?」

 あ、とキヨシは気付いた。これは、得は別にないよ、とでも言ったら反発する流れだな、と…。

「得ならあるよ?」

「どんな?」

「先行投資なんだ」

「…先公…?」

 意味を知らないまま学校の教師を想像するケイゴ。

「つまり得はするようになっているんだ。勉強すれば判るけれど…」

 また小難しい説明になるけど聞きたい?と息子を嫌がらせて煙に巻いたキヨシだが、実は言いかけて飲み込んだ言葉があっ

た。

 子が元気に育つ、その喜びが自分にとっての得なのだ、と…。

 ただ、これを正直に言うと「気持ち悪ぃ」と顔を顰められそうなのでやめておいた。

「まぁ、どうしても労働したいなら、子供の仕事的な物はあるだろうけれど…」

「何だ?」

 突っ込まれない内に話題の方向性を変えようとしたキヨシは、ケイゴが食いついてきて一瞬口ごもった。

 子供の仕事、つまり家の手伝い…。食器洗いの手伝いや庭の草むしりなど、自分が子供の頃にお小遣いを貰うために勤しん

だ仕事は、現在のケイゴの家庭環境から言うとだいたいムリ。一体どうなってるのこの子の環境?と途方に暮れてしまう。

「何だよ?」

 詰まったままケイゴに促されたキヨシは…、

「ああ…。ええと…。肩叩きとか?」

 言った瞬間に、失言した!と毛を逆立てた。

 調子に乗るんじゃねぇぞ!とケイゴが怒り出すかと思ったのだが…。

「…カタタタキ…」

 少年シェパードは呟いて、真面目な顔で検討し始めていた。

(あれ?意外にも抵抗が無い感じ?)

「…肩を殴るのが…仕事になる…?」

「そうじゃないからね!?断じてそうじゃあないからね!?肩叩きはそんなヴァイオレンスな物じゃないからね!?」

 おかしいと思った、という顔のケイゴ。そもそも発想がおかしいのだが、両親や祖父母とのスキンシップを知らない少年に

とって、肩揉みや肩叩きは海の彼方の異国の風習並みに馴染み無い物である。

 なにはともあれ、食事に不自由しているならお父さんに言いなさい、お小遣いもあげるからひとから奪うのはやめなさい、

と言い聞かせた結果、ケイゴは一応了承した。明確に返事をした訳ではないが、沈黙をもって善処を約束する格好で。

 息子が暴力行為を伴う現金強奪を本当に辞めるかどうかは自分にかかっているのだと、キヨシは考える。奪う必要が無いと

いう事を理解すれば、ケイゴもきっとそんな真似はしなくなる。そのためには自分が援助するのがベストだと。

 そうしてふたりで取り決めしたのは、キヨシが週に一度小遣いを渡す事。その際には一緒に食事する事。そして空腹時には

携帯に連絡を寄越す事。

 そうすれば最低でも週に一度は顔をあわせる事になるし、ケイゴが餓えてひとを襲う事もなくなるだろうというのがキヨシ

の考え。なお、野良猫のエサについては別途計算になり、ケイゴがエサを購入したらそのレシートを元にキヨシが支給すると

いう、お使い訓練めいた手法を取る事にした。

 なお、家に帰れない、飯が無い、などの場合は緊急避難できるようにと、キヨシはケイゴに合鍵を渡し、不在の時でも部屋

に入れるようにしておいた。



 部屋の掃除を済ませたキヨシは、夕刻の息子来訪に備えて買い物に出かけた。

 若人が好むのはまず肉だろう。しかも自分も好きだ。そんな理由から、チョイスしたのは分厚い豚の肩ロース。ケイゴの好

みがまだよく判らないので、辛口甘口中辛の各種焼肉タレ、おろしポン酢、ステーキソースなど、調味料も大量に確保する。

 歯ブラシなどの日用品類も買い込んで、ずっしり重い袋を両手につるし、最初はホクホク顔で、後にハァハァ喘いで引き上

げる。その途中、運河沿いの遊歩道に寄って、買って来た猫用のオヤツをコナユキに与えながら休憩したキヨシは、ウニャウ

ニャ唸りながら食事する白猫を眺めながら考えた。

 このままエサを与えて野良のまま世話をしていると、子供ができて野良が増えたりしてよろしくない事にもなりかねない。

近所から苦情も出るだろうし、そもそもこの場所この環境では、生まれてくる子供達も幸せになるかどうか…。

「越してきたばかりだけど、ペットOKの部屋探してみようかなぁ…」

 息子の恩人…恩猫だし、ケイゴも喜ぶだろうし、一考の余地はある。そんな事を考えながら、キヨシは息子と暮らす生活を

夢想してみる。無論、親権は無いので妄想に過ぎない。今はまだ…。

「さてと…」

 腰を上げた中年シェパードは、コナユキにバイバイと手を振って帰路に着く。

 利口な猫だと思う。別れの挨拶を認識しているのか、ついて行けないと判っているのか、後追いもせず、呼び止めようと鳴

く事もない。倒れていたケイゴの危急を知らせてくれた時も、少年の体調不良を理解できていたように思える。

「ケイゴと、コナユキと、一緒の生活かぁ…」

 呟いてみて、耳を倒す。それはとてもステキな生活になりそうだと思えて。



 夕暮れ時にチャイムが鳴る。

 三十分前からソワソワし、居間をウロウロ歩き回っていたキヨシは、

「来た!えぐうっ!?」

 急いで玄関に向かおうとして脛をテーブルに打ち、

「げふあ!?」

 足を押さえて飛び上がり、クッションを踏んで転倒し、

「!!!」

 悶絶して転げた所でテーブルの角へ足の小指をぶつけた。

 玄関前。少し待って、もう一度チャイムを押したケイゴは、父がなかなか出てこないので耳を倒して考えた。日にちを間違

えたか?と。しかし…。

「や、やア!よク来タねケイゴ!さ、上がっテ上がっテ!」

 チャイムに三度触れようとしたその時、ドアを開けてキヨシが顔を出した。声を時々裏返し、脂汗を流しながら。

「…何かあったのか?」

「何も無イよ!?」

 涙が出そうな痛みを堪え、息子を部屋に上げようとしたキヨシは、用意していた新しいスリッパに対する息子の反応を見逃

さないよう目を光らせる。

 靴を脱ごうと下を向いたケイゴは、その目を引くスリッパに視線を引かれ、一時動きを止めた。

 緑色の、怪獣の足のスリッパがそこにある。

「………」

 沈黙の一瞬を挟み、普通の来客用のスリッパを履くケイゴ。

(あれー!?)

 普通にスルーされて哀しいキヨシ。子供はこういうのが好きなのでは?と考えてのチョイスだが、好みではなかった。しか

もケイゴにはこれがキヨシの趣味だと誤解されている。

「ケイゴは肉は好きかい?」

 気を取り直したリビングで、中年は少年に問う。

「食えるなら、だいたい何でも」

「今日はね!豚の肩ロース切り落とし!おつとめ品って事で値引きされてたんだ」

 冷蔵庫からキッチンカウンターに出されたパック入りの肉の塊を、ケイゴはじっと見つめる。

「…どうやって食うんだ?」

「焼くのが一番かな!」

 張り切るキヨシ。実は料理の腕はからっきしなのだが、良い所を見せたくてわざわざ食材で買ってきた。そんな中年は、肉

なら焼くだけで充分美味いから大丈夫、…という根拠に乏しい自信が満々。

「調味料も揃っているよ!各種焼肉のタレにステーキソース、もちろん塩胡椒もあるよ!何が好きなんだい?」

「別に何でも」

 おや?とキヨシは眉根を寄せた。

「実は肉とかあんまり好きじゃなかったりする?」

 あまり喜んでいないように感じられての質問だったが、ケイゴはこれに対して「そういうわけじゃねぇ」と応じた。

 嫌いではないと思う。だが、好きなのかどうかと問われるとよく判らない。食欲はある。だが、美味そうだと感じているか

どうか考えるとよく判らない。

 選り好みできる状況に無かったケイゴには、美味い不味い好き嫌い言っている余裕もなかったので、自分でも「これが好き」

と、はっきり言い切る事ができない。だから、食えるならとりあえず何でもいい。

 そんな、時々考えながら言葉にしたケイゴの返答を聞いて、キヨシは泣きそうな顔になった。

 美味しい。嬉しい。食事にそんな感想や感情を抱く事もできなかった、食い繋ぐだけで一杯一杯だった我が子が、不憫でな

らなかった。

「それじゃあ…」

 中年は提案する。

「ケイゴが好きな物、これから色々探してみようか?」

 ポジティブに切り替えた。これまでは恵まれていなかったかもしれない。しかし、これからは「幸せ探し」をしてゆけるの

だ、と。

「という訳で、今日は肉!コマーシャルやってる釜炊き炊飯ジャーあるからね!お米もバッチリ!」

 新品の電子ジャーは炊き上がりまでもう少しだと表示で知らせている。キヨシは張り切って腕まくりし、真新しいエプロン

を身に付けて、ピカピカのキッチンに立つ。

 「少し休んで待っていて」と言われたケイゴは、リビングのソファーで待つように言ったつもりの父の意図に反し、キッチ

ンカウンターの椅子を引いて腰掛ける。

 背中に視線を感じて緊張…するどころか、父の働きぶりに興味があるのだろうと前向きに受け取ったキヨシは、張り切って

野菜切りに取り掛かった。

 その後姿を眺めながら、何となく不安を覚えるケイゴ。何に根ざした不安なのかは本人も判らないのだが、それは、素人目

にも危うい父親の包丁捌きが原因である。

 四苦八苦しながらキャベツを切り、やたら大雑把な千切りにしたら、次は肉をフライパンに入れる。

 また不安を覚えるケイゴ。今度は、火で熱する前のフライパンに肉を二枚とも乗せ、上からサラダ油を注ぐという、素人目

にも何となく順番がおかしいキヨシの手法が不安の原因である。

「さ、少し待とうか」

 コンロをいきなり強火にし、フライパンに蓋を被せたキヨシは、「何か飲むかい?」と息子に尋ねた。

「缶コーヒーと、牛乳と、ウーロン茶と…。あ~…」

 冷蔵庫を開けて確認しながら、キヨシは失敗に気付く。ジュースも買ってくるべきだった、と。

「コーヒー」

 ぶっきらぼうに応じたケイゴの前には缶コーヒーが置かれ、キヨシは取り出した缶ビールのタブを起こす。

「じゃあ、乾杯」

「乾杯?」

 極々普通に缶を差し出したキヨシに対し、そういった行為に馴染みが無いケイゴは訝しげな顔。

「あ、そうだね。何に乾杯かって…」

 息子の戸惑いを勘違いしたキヨシは、「記念すべき一回目の食事に乾杯、でどうかな?」と提案した。これを聞いたケイゴ

は、なるほど乾杯はこんな時もするのか、と解釈してコーヒー缶を上げ、父のビール缶と合わせた。

 不良とはいえ無意味に跳ね返っている訳ではない。物を知らないが故に、普通の少年少女がうざったいと感じるような事に

も、苛立つどころか素直に応じる純朴な部分もある。

 粗暴なだけではない、何処か妙なアンバランスさもある、不穏当で不安定で不完全で不可解な不良…、それがキヨシの息子

だった。

(攻撃性とは裏腹に、素直な子供の面も確かにある…。ケイゴはこれまでどんな生活をして来たんだろう?)

 そう、チビチビとビールを舐めつつ一時の思索に耽るキヨシは、作業タスクがリセットされていた。

「…ん?」

 ケイゴが訝しげに眉根を寄せて鼻を鳴らす。次いでキヨシも「あれ?」と目線を宙に向け、クンカクンカと匂いを嗅いだ。

 何やら焦げ臭い。加えて電子コンロの方から薄く、白い空気が漂って来る…。

「あーっ!焦がしちゃったぁっ!?」

「何してやがんだ馬鹿野郎っ!」

 慌てて戻ってフライパンの蓋を取るキヨシ。しかし時既に遅く、厚い肩ロースは無残にも片面をかなりの深さまで炭化させ

ており、蓋が上がるなり煙たい焦げ臭さが周囲に広がった。

「ああ…!」

 耳を伏せて尻尾を垂らし、肉付きのいい背中を丸めてションボリと項垂れたキヨシは…、

「まあ…、こんな日もあるさ!」

 ダメなポジティブさで立ち直る。

「よし!こうなったら!」

 全く「よし」ではないのだが、キヨシが取り出したのは携帯電話。一体何処へかけるつもりだ?そもそも電話をかけてどう

にかなるのか?と胡乱げな顔をするケイゴ。

「キューツーにかける訳じゃないよ?」

 ジョークを飛ばしたキヨシは…、

「…急…、通?」

 ケイゴが胡乱げに眉根を寄せて、盛大にスベッた事を悟る。

(ジェ、ジェネレーションギャップか!流石に今の若い子には古過ぎて通じないんだ!)

「何だソレ?」

 ケイゴの問いに、かつてネット普及前に流行っていた電話会社のサービスで…、と解説し始めたキヨシだったが、一通り説

明するのはまずいと途中で気が付いた。

「…ま、まぁ…、そういうのがあったんだよ!一種のジョークね!」

 曖昧に流そうとしたキヨシだったが、無駄な空き容量が割と多いケイゴの脳味噌には、妙に語呂のいい「キューツー」がしっ

かり記録されてしまった。

 なにはともあれ、焦げ肉と千切りキャベツと炊きたてご飯を諦めたキヨシは、いくつか登録しておいた店の番号にかけ、席

の空きがあるかどうかを確認し…。

 

「いやー!良かった良かった!…っていうか助かった…!」

 丁度夕食時、満席となった中華料理店の隅で、キヨシはホッとしながら苦笑い。

 電話で確認したところ二店は満席で、三軒目にかけた中華料理店でやっと席を予約できた。腰掛二つが小さな卓を挟む形に

なった、薄暗い駐車場を見下ろす二階窓際の席。広くはないし景色もパッとしないが、他の席とも適度に離れているので具合

がいい。

 だがケイゴは食事に期待するどころか、龍が巻き付く柱に彫物の鳳凰が舞う衝立など様々なものが派手な店内と内装を、警

戒心丸出しの顔で覗っている。

「こういう所はあまり来ないのかい?」

「…店の中で食わねぇからな」

 キヨシの問いにそっけなく答えたケイゴは、お絞りで顔をゴシゴシ拭う父を見て、こうするのがルールかマナーなのだろう

と解釈し、真似る。

 真似っこする息子に気付いていないキヨシは、メニュー表を広げて「何がいいかなぁ?」と尾を振った。ケイゴは「好き」

が判らない。中華料理も馴染みが無いと言う。キヨシはそんな息子の「好き探し」のため、自分が嫌いではない物はケイゴも

食べられるのではないかという前提を立ててメニューをチョイスして行った。

 カニチャーハン、フカヒレの姿煮入りラーメン、チンジャオロース、エビチリソース、青梗菜と白菜と鶏肉のクリーム煮、

中華風とき卵入りコーンスープ…。張り切ったキヨシが奮発して注文した料理が次々と運ばれて来て、狭いテーブルが埋め尽

くされる。

 見慣れない料理の数々を前に絶句するケイゴ。美味そうか不味そうか、見た目だけでは判別できないほど料理を知らない少

年でも、本能に呼びかけ食欲をそそる香りに問答無用で胃袋を鷲掴みにされた。

「どれでも好きなだけ食べていいよ?」

 と、キヨシはチャーハンやラーメンを小皿へ分けてケイゴの前へ置いてゆく。小皿を持ち、鼻先に近づけてスンスンと匂い

を嗅ぎ、まるで野生動物のような反応を見せたケイゴは、父に倣ってレンゲでチャーハンを掬い、一口食べてみた。

「………」

 味は、すぐには判らなかった。調味料たっぷりの安いファストフードなどを主食にしてきたので、料理人の腕で整えられた

味にはなかなか味覚が反応しなかった。

 ただ、やがてじんわりと、染み入るように口内に味が広がって、香りが鼻へ抜けて…。

 気付けば、ケイゴはガツガツとチャーハンをかきこんでいた。

(あ。これは好きそう?…いやどうだろう?お腹が減ってるだけ…?)

 嫌いでは無さそうだが、ケイゴのがっつきぶりを見ていると、好き嫌い以前にひどく餓えているだけなのではないか?いう

気もして来る。実際には、ケイゴは食感も味付けも未経験の御馳走に夢中になっているのだが、夢中になっているその様は餓

えた獣の食事風景を彷彿とさせる。

「慌てないで良いんだよ?欲しい物があればおかわりを頼むから…」

 味わっているかどうかも定かではないケイゴの食事の勢いに圧倒されるキヨシは、そう諭しながらまた小皿に料理を取り分

けてやる。

 みるみる減っていく料理。流石は育ち盛りだと感心してしまったキヨシは、自分が食べるのも忘れて息子の食いっぷりにし

ばし見とれていたが、店員が追加で料理を運んでくると、空いた皿を動かして卓のスペースを少し空けた。

「待ってました!」

 拝むように合わせた両手をスリスリさせながら、ニコニコ顔で舌なめずりするキヨシ。

 新たに運ばれてきたのは蒸籠に入った小籠包。四つ並んで湯気立つソレを、肉まんと似た形の妙な饅頭と認識したケイゴが

見定めるような目を向けていると、「父さんの好物なんだ」とキヨシが説明する。

「アツアツが一番美味しい…というか蒸したてじゃないと本当の美味しさは味わえないんだよね。こうして、レンゲに乗せて、

端の皮をちょっと破いて…」

 軽くタレをつけた小籠包をレンゲに乗せ、皮を箸で破き、吹いて冷ましながら溢れ出たスープを啜り、食べ方を実演するキ

ヨシ。しかしケイゴは胡散臭そうな顔をすると、箸で挟んだ小籠包をそのままポイと、丸ごと口に放り込んだ。

「あ」

 ポカンと口をあけるキヨシ。小籠包を噛み潰すケイゴ。

 別に反感を抱いた訳ではない。熱い内に食うのがいい物だと言っているのに、何故そんな面倒な食い方をするのか?という

考えから、まどろっこしく見える手順を省いたのだが…。

「!!!!!!!!!!」

「ケイゴっ!?」

 最もやってはいけない小籠包の食べ方を、知らないまま手本のように実践してしまった。予想していたよりもずっと多かっ

た小籠包のスープが口内に溢れ出て、焼けるような熱さに堪らず口を開けハヒュハヒュ息をするケイゴ。目を白黒させている

息子に水を手渡すキヨシ。

 一気にグビグビ水を飲み、口の中を冷やしたケイゴは、籠に入っている残りの小籠包を軽く脅えの混じった目で睨む。

「ちゃ、ちゃんとした食べ方をすれば美味しいんだよ?」

 フォローするキヨシだったが、小籠包に対する少年の第一印象は、「食べるな危険」であった。

 舌を火傷してしまったケイゴは、味がますます判らなくなった。

 …そのはずだったが、父と摂る食事は、確かに美味かった。



 白い清潔なベッドに埋もれるようにして、若い青年がひとり寝かされていた。

 個室にベッドは一つ。それを取り囲むのは無数の機器類。呼吸を補助するマスクや点滴、各種生命反応を拾うための検知器

が青年の体に繋がれ、無数の管と線が各種機器へ伸びている。

 その隣室、青年がおかれた部屋を間近から見張れる、透明なアクリル板の窓で仕切られた部屋には、スーツ姿の男達が数名

待機していた。

 パリッとした身なりで姿勢もいい男達の中のひとり…狐の中年は、ぼんやりと天井を瞳孔に映しているだけの、意思も感情

も見られない青年の顔をいたましげに見つめている。バイタルサインを示すモニターが発しているはずの音も、アクリルの窓

越しには聞こえない。それが、ひどく弱々しく衰えてしまった命そのものの静けさのようにも、マサタカには感じられる。

 この青年がこの状態で発見されたのは、自宅での事だった。第一発見者は母親。夜間のアルバイトへ出かける時間になって

も部屋から出てこないので、声をかけに行って異常に気付いた。

 発見当時の状況は、「うつ伏せでベッドに倒れていた」となるのだが、タオルケットを被って携帯を手元に置いたその状態

は、就寝前に携帯を操作しながら脳溢血や心不全などに見舞われた者のソレとも似ている。

 青年は目を開けていたが、母親が呼びかけても反応が一切なかった。ゆすっても叩いても反応は皆無だった。

 異常を察した母親が救急車を呼んだのは午後四時半。運び込まれた病院で青年の容態を診るなり医師が「察し」て、警察へ

連絡を入れたのは五時少し前。同一の症状九例目ともなると対応も迅速だった。

「脳内物質の過剰分泌と、神経負荷による…」

 医師がボードを片手に刑事達へ告げる内容は、先の八例と同様だった。

 だが、おそらくこの青年は「九人目ではない」と、マサタカは考えている。

 ここしばらくの間、衰弱死した若者が発見される事件が続いている。その若者達はこの青年のような状態に陥り、治療も介

護も受けられなかった結果死亡したのではないかというのが刑事達の見解だった。

(これまでの全ケースで薬物などの反応は無い…。全員職場や学校も違い、住所も離れている。友人関係でもなければ面識が

ある可能性も低い。帰属する団体も活動範囲も異なっている…。共通するのは、被害者が所持している携帯に、何者かの介入

によりデータを改ざんされた形跡がある事…)

 この街を蝕んでいる各種薬物汚染とはまた別口に思える。情報を整理し、手繰れる糸が、あるいは見落としが、何処かに無

いかと黙考する狐。

「…スズキ警部」

 ドアを少しだけ開けた若手が小声で呼びかけ、マサタカは首を巡らせた。

 若手が押さえているドアの隙間から和服姿の肩が見え、狐は無言で頷くと、足を少し引き摺って廊下へ向かう。

 足の古傷がやけに疼く。どうやら、また雨が降り出すらしい。



「家に寄りついてないって?あ~…、嗅ぎ付けたか?」

 同時刻、ビルの裏手で携帯を手にしたスーツ姿のゴリラは、面倒臭そうに顔を顰めて鼻をほじっていた。

 顔に泥を塗られっぱなし、そろそろお灸をすえてやりたいのだが、肝心のケイゴがしばらく姿を見せない。

 大規模包囲から上手いこと逃げられたあの日に、そろそろマズいと把握したのか?とも考えたゴリラは、既に突き止めてい

るケイゴの家にも、ちょくちょくひとを見に行かせているのだが…。

 もう来ないなら放っておけばいい、という段階は既に過ぎている。メンツにかけて、見せしめの意味も込めて、生意気な小

僧を這い蹲らせてやらなければいけない。

「ま、家に帰らないんだったらそれはそれで遣り方はある」

 通話相手が発した、どうすれば?という問いに、

「学校張れよ」

 と、ゴリラはニヤつきながら言った。

「ちょっと面白いよな?イイ子ぶってるのか、学校にはちゃ~んと行っているって話だった。何処をほっつき歩いてるんだか、

追いかけて突き止めればいい」

 電話を切ったゴリラはビルの裏口から入ると、細い階段を昇って細い通路を歩き、店の裏口に当たるスタッフルームを抜け

て、「待機室」に足を踏み入れた。

 煙草の煙が充満して空気が白く淀んだ、指名待ちの女性達が携帯を見つめている部屋で、手近な椅子を軋ませて腰を下ろし

たゴリラは、彼女達が見つめている携帯を覗き込もうとはしない。覗き見防止措置が働いているとはいえ、間違ってもそれを

自分で見る気にはなれない。

(おうおう、すっかりハマっちゃってまぁ…)

 ニヤつくゴリラは、彼女達の身に何が起きているのか知っている。

 女性達が見つめている携帯のモニターでは、サイケデリックな色使いの図形が明滅し、変形しながら蠢いている。見つめて

いると浮遊感が生じ、画面の中へ延々と落ちてゆくような錯覚に囚われる。

 それはゴリラが売ったアプリ…いわゆる電子ドラッグである。

(ん?)

 ゴリラはふと、女性のひとりに目を向けた。携帯を凝視する女性は目の充血が酷く、白目が黄ばんでいる。瞳孔を黄ばんだ

オレンジが取り囲んでいるようにも見える目からは、ぼんやりしている…という表現も不適切なほど、様々な物が欠けている

印象を受けた。

 例えばそれは、意思や、知性。ひととして持ち得ているはずの物が、その眼差しと表情からは大きく損なわれている。

 女性の薄く開いた口の端から唾液が垂れて尖った顎先へ向かう様を眺めながら、ゴリラは首を縮めた。

(あ~、限界か…。まぁコイツは結構買ってくれたし、知り合いも沢山紹介してくれた。もう充分だろ。…あ、そうだ。確か

コイツの知り合いにもハマりが早いヤツが居たっけな?あっちももうじき末期かもなぁ。そろそろ携帯からメールリスト吸い

上げておくか)

 経験上知っている。「こうなる」と、もうじき出勤して来なくなる事を。

 ゴリラは自前の端末を弄り、アプリを起動する。呼び出したリストは電子ドラッグを配った「顧客」の名簿。ゴリラが所持

する「親」のアプリは、ドラッグである「子」のアプリの状況を監視する事ができ、遠隔操作でアプリその物に削除を含む変

更を加えられる上に、その端末にインストールされている他のアプリにまで干渉できる。つまり、メールリストのコピーや、

履歴の削除等、証拠隠滅作業が遠隔操作で可能だった。

 ゴリラは目の前の女性の携帯へ不正アクセスし、アドレス帳をコピーする。近々痕跡も消してアプリも消さねばならないな

と、進行ゲージを見つめながら考えた。

 静かに、しかし着実に、電子ドラッグは拡散を続けている。