第九話
学校を出る。
雨が降っている
だが今日は傘がある。
昇降口を出るケイゴは、キヨシに買い与えられたばかりの折り畳み傘を広げ、初めての雨に濡らしながら視線を上に向けた。
サラサラと浅い霧雨の音に混じり、ポッ、ポッ、と、塊になって落ちてきた大粒の滴が傘を叩き、耳をくすぐる。
濡れなくて済むだけではない。なかなか具合がいい物だと、シェパードは尖った耳をピクピク動かしながら霧雨の中を歩い
てゆく。
週に三度ほどキヨシと夕食を摂るようになってから、ケイゴは体の調子の良さと、余る時間を自覚し始めた。
優先するのは食事と休息、生存のために余計な事をしない…。ずっとそんな生活を送ってきた少年は、余裕ができた事と、
父から金品の強奪を禁じられた事で体力も時間も持て余し気味。
その余分になった時間で、ケイゴはほんの少しだけ勉強をするようになった。
きっかけになったのは、高校ぐらい行っておいても良いと思うよ、とのキヨシの言葉だった。学校を出たら働いて金を稼ぐ。
そう述べる息子に、せめて高校は行ってみてもいいんじゃないかなぁと父親は勧めた。自分が体験した高校時代について思い
出語りをしながら。
本当は、キヨシが語ったように楽しい事ばかりではないのだろうと思う。だいたい勉強自体が大嫌いなので、わざわざ金を
払って学校へ行く気持ちが判らない。ただ、昔を懐かしんで語る父の表情と声は、少年にとって印象深い物だった。
あまり早くに行ってもキヨシが帰って来るまでする事が無いので、ただで過ごせる図書館に寄ったり、コナユキの様子を見
に行ったりして時間を潰すのが最近のケイゴの放課後。そうして持て余す時間を、ケイゴはそれまでしなかった「空想」にあ
てたりもするようになった。
家族が居る。信用できる親が居る。何となく気恥ずかしくてそう呼べていないが、頼れる父親が居る…。
きっとそれは特別でも何でもなく、普通の子供には当たり前に居るものなのだろうとは思うのだが、ケイゴにとって父親と
の再会は、これまでの人生や考え方を一変させるに足る大きな変化。
だから考えてしまう。もしもキヨシと一緒に暮らしたら、どんな生活になるのだろう?と。
「あら、引越し先探しですか?」
「え?いやぁ…」
午後のティータイムに、角砂糖を四つ投入した甘いコーヒーを啜りながら住宅情報誌を眺めていたキヨシは、たまたま後ろ
を通りかかったパートタイマーの若い女性を振り向く。
「ああ、今日は早上がりだったっけ?」
「ええ、お先させて頂きます。…で、テシロギさん?越して来たばかりじゃないですか?もう引っ越すんですか?」
「う~ん、どうしようかなぁって…」
「もしかして…」
若い女性は両手を胸の前に上げて垂らす。幽霊のジェスチャーである。
「あはははは!違うよ、幸いにね!」
「そうなんですか?シトウさんのアパートの件があったから、もしかして…、って思ったんですけど」
「ええ!?シトウ君のトコ、そうだったのかい!?あっちも引っ越したばっかりじゃなかったっけ!?」
「ですよー?二ヶ月頑張ったけどもう限界だって、念願の独り暮らしを一時中断、先週からはご実家に戻ってますよ」
「へぇ~…。…見たのかな?」
「見たり聞いたり、だとか…」
「ひえぇ~…」
「なんだか結構ガチに声が聞こえたりしてたそうですよ?」
「えええええ…、本当の大当たり引いちゃったんだ?」
「でも、前に住人が自殺したとか殺人事件があったとか不幸な亡くなり方をしたとか、そういう話も全く無いみたいで…」
そんな風にしばらく、女性から噂話を聞いて雑談に興じていたキヨシは、名を呼ばれて事務室入り口に目を向ける。
「あ。引き留めてごめん。それじゃあお疲れ様!」
「はい!お先に失礼しまーす」
立ち上がったキヨシは、事務室入り口に立つ大男に会釈し、歩み寄った。
「どうもミョウジンさん。…今日は何か予定がありましたっけ?」
打ち合わせなどの話はなかったはずだと、頭の中でスケジュールを確認するキヨシ。ド忘れしていたら大変だと若干顔色が
悪くなったシェパードへ、和装の大柄な牛は「や、お約束は入れておりませんでした。失礼を」と破顔する。
「小生、私事で数日動きが取れなくなりそうですので、今の内に一言ご挨拶をと…」
「そうだったんですか?では、再来週の応接ルームの調度仮設置と打ち合わせは…」
「や。それは工期の予定通りに進んでおりますので、お願いした通り見て頂くつもりでおります。ただ、それまでしばらくは
現場へ顔を出せなくなりますので…、不義理で申し訳ない」
律儀だなぁと、キヨシは微笑した。現場を自分の目で確認する上役は多いが、カナメはその中でも本当に足を惜しまない部
類に入る。円滑に物事を進めるために手間隙を惜しまず、担当者への労いも仕事相手への礼儀も欠かさない。もしいつか自分
がそういった総括の立場になってもこうありたいものだと、シェパードは好意をもって思う。
「…ところで、先ほど若い娘さんとお話なさっていた件は…」
「え?ああ」
カナメの視線を追って振り返ったキヨシは、女性が既に退室している事を確認すると、「ちょっとした身内の話で…」と言
葉を濁した。商談ではなく怪談、カナメに話すような事ではない、と。しかし…。
「や。いわゆる「いわくつき物件」の話であれば、お聞かせ願いたいと思いまして」
そんなカナメの言葉を受けて納得した。真偽はともかくとして、そういった噂がある物件については、カナメの仕事柄あま
り無視もできないのだろう、と。
「…や。もしかするとカンバラの領分の話かもしれんが…」
「はい?」
「や、失礼こちらの話で…。それで、何処のどのような物件が…」
真面目な顔で聞きたがるカナメを、立ち話も何なのでと応接室へ案内し、キヨシは聞きかじったばかりの話を伝えてやった。
終始真面目な顔で、身を乗り出しながら詳しく聞きだそうとするカナメの様子を…、
(あれ?もしかしてミョウジンさん、怪談とか好きなタイプ?)
キヨシは意外に感じていた。そして思う。ケイゴもこの手の話が好きだったりするだろうか?と…。
「…さあ?どうだか」
「え?何その反応?」
夜。キヨシの帰宅時間にあわせて晩飯を食べに来たケイゴは、怪談とかホラーとか好き?という父の問いに、かなり長い間
考えた後で、眉根を寄せて首を傾げながら応じた。
「もしかして、ホラー映画とかも判らない?」
「馬鹿にすんな。映画とかのヤツだろ?怪物とか…、幽霊とかだろ?…あと宇宙人とか…、そういうのだろ?」
椅子に座っているケイゴは、キッチンカウンターの向こうで慎重にフライパンの具合を見ているキヨシの背中を睨んで鼻を
鳴らす。慣れないエプロン姿の中年シェパードは、パートの女性に教えて貰ったメニュー…だいたい失敗しないホイル焼きに
トライ中である。
「うん、そう。ジャンルとしては知ってるんだよね?」
「そいつは判るが、好きかどうかは判らねぇ」
だいたいテレビも殆ど見ない上に、映画を観に行く金があったら食事をする生活だったので、そういうジャンルがある事だ
けは知っていても、観る事は勿論興味を持つ事もなかった。
「そうなんだ…」
たどたどしい息子の説明を聞いて、キヨシは耳を伏せた。食べ物の好みとは似ているようで違う。選り好みする余裕が無い
どころか、娯楽については触れる余裕すら無かった。
「例えばだけど、映画の広告とかは目にするはずだね?そういう物の中で興味を引いたものとかは無かったかい?」
何か借りてきて一緒に観るのもいいかもなぁと考えていたキヨシだったが、
「…よく見た事ねぇから判らねぇ…」
これまで映画のポスターなどにも注意を向けていなかったケイゴは、印象に残るどころかどんな物があったか覚えてもいな
かった。
「これも「好き」探しかなぁ…。おっと」
フライパンの蓋の穴から細く蒸気が噴出して音を立て、キヨシは慌てて向き直った。
「今日は…、きっと…、大丈…夫!ほら!」
火傷しないよう気をつけながらホイルをトングで挟み、皿に移して包みを開いて見せたキヨシは、途端に溢れ出たバターと
キノコと鶏肉の匂いを嗅ぎ、勝利を確信した。
不慣れなのもあって、キヨシは作り方を調べながらもよく料理を失敗するのだが、直接聞いた作り方はやはり精度が違うの
か、ホイル焼きは失敗しなかった。なお、ケイゴは父の手料理の出来栄えに文句を言わない。味うんぬんよりも食えるか否か
が重要なので。ちなみに、文句も言わないが褒めもしないのが父からすればちょっと寂しい点だったりする。
二頭はメインディッシュの完成をもってテーブルに移り、テレビを付けて夕食に取り掛かる。卓に並ぶのは炊きたてのご飯
にキャベツと油揚げの味噌汁、バターとスライスニンニクたっぷりのホイル焼きは鶏肉と玉葱とシメジが具材、食が進む辛子
明太子と白菜の御新香。自炊もそれなりに様になってきたと満足げなキヨシは、先ほど途中まで話していた映画などの話題に
戻った。
「今度何かレンタルして来てみようか?お店でジャケットを見比べて、ケイゴが気になるのを選んでみるとか…」
「どうでもいいから任せる」
そっけなく丸投げする息子。困る父親。
「じゃあ、せめて何か方向性をだね…」
ジャンルか何かは絞って欲しいキヨシの訴えに対し…、
「面白そうなヤツ」
「えええええ…」
ガツガツと飯を掻き込む息子のいかにも面倒臭そうな回答は、父が途方に暮れるほど取り付く島もないザックリ具合だった。
「ところでケイゴ、君用のベッドを買おうと思うんだけれど…」
話題を変えるキヨシ。またも面倒臭そうに「要らねぇ」と即答するケイゴ。
ケイゴは母親が「接客中」で家に入れない時などは、キヨシの部屋に泊まるようになっている。キヨシとしてはベッドで寝
て欲しいのだが、頑なに拒んでソファーで眠る。曰く「おっさん臭い」そうで、交代すると言っても全く聞かない。
それならば、専用のベッドを用意すれば文句を言いながらもきっと使うだろうとキヨシは考えた。もっとも、一緒に買いに
行って選ぶと言う選択肢は、つっけんどんな息子の不用論で消えてしまった。連れて行こうとしても断られるだろうから、自
分ひとりで選んで来ようと心に決める。
とりあえず今度、洋画か何かを適当に見繕ってレンタルして来ようか、とキヨシは提案した。
ケイゴは頷きもしなかったが、チラリと目だけ合わせる。
それが了承の印だと、そろそろ父親にも判ってきた。
「映画…だと」
三日後の夕刻、キヨシが帰るまでの時間潰しに遊歩道で過ごすケイゴは、東屋のベンチに並んで座るコナユキに話しかけた。
「だいたいの連中は、観てるモンだと思うか?」
ニィ、とコナユキが応じる。どちらかというと疑問系の声だった。
ケイゴは視線を前へ向けながら、白猫の首後ろを摘むように撫でてやりつつ話し続ける。
「時々、テレビ番組とかの話は聞くけどな…」
クラスメートが話題にしている中に、たぶん話題の映画などもあるのだろうと少年は考えた。ただ、あまりに情報を持って
いないケイゴには、それがテレビ番組の話題なのか漫画の物なのか映画のそれなのかは判断できない。注意を向けていなかっ
たというのもあるが…。
ゆっくりと日が傾く空を、ケイゴは見遣る。
最近は天気がいい日が多い。空腹で困る事も、寒さに震える事も、怪我の痛みを堪えて眠る事もなくなった。コナユキにも
良い物を食わせてやれている。
こんな生活があったのかと、少し前を振り返る。あれが普通だった少年にとって、今の生活は…。
「幸福って、こういう事を言うのか…」
ミッ、と少年の傍らで、コナユキが鳴く。
「判るのかよ?」
それは肯定の返事にも聞こえるタイミングで、思わず笑みを浮かべたケイゴは仔猫の頭を少し雑に指で撫でた。
嬉しそうに目を細めてクルクルと喉を鳴らすコナユキと、穏やかに微笑むケイゴ。
雨は降りそうもない。もう寒くはない。
しばらく時間を潰してから立ち去ったケイゴは珍しく上機嫌で、だから気付いていなかった。
自分が遊歩道に出入りする様子を、じっと窺っていた者が居た事には。
「映画借りてきたよ!」
帰ってくるのを見計らって部屋を訪れたケイゴに、キヨシは誇らしげに胸を張って腹を突き出し、レンタルショップのケー
スを見せた。
が、少年の興味は視覚より嗅覚にある。玄関からでもはっきり判る、リビングから香るその匂いは…。
「あ。映画と言えば…っていう事で、今夜はピザを買って来たんだ!」
チーズの匂いでスンスン鼻を鳴らす息子の様子に気付き、キヨシが説明すると…、
「映画は、ピザなのか?」
映画と言えば、というのが判らない。一体どんな繋がりがあるのだろうかとケイゴは眉根を寄せる。
「ああ、いや、お父さんもあんまり詳しくないんだけれどね?この映画にはピザがいいって…」
実は、提案はしたもののキヨシも流行の映画にさほど詳しくない。そこで、時々映画を観に行った話をしている職場の若者
に、ティーンエイジの息子と一緒に観る、そんなに難解ではなくて面白い映画のオススメは無いか?と聞いてみたキヨシは、
ピザとセットでアクション映画を勧められた。それが、カメでニンジャなティーンエイジのハリウッドアクション映画である。
なお、このシリーズは劇中よくピザが登場する。
冷める前に、というキヨシの主張もあり、早速ディスクをセットして、並んでソファーに座り、コーラとピザで映画鑑賞し
ながら夕食開始。
ふたりでは食べきれない程のピザをテーブルに広げ、軽妙なやり取りを披露する亀獣人四人組の派手なアクションを眺める
親子。
意外といい物だとケイゴは素直に感じた。街に蠢く悪党を影で懲らしめる秘密の四人組という、外見の奇抜さはともかく内
容は正統派ヒーロー物と言えるアクション映画は、テンポの良さもあって退屈せず、事前知識が全く無いどころか、映画その
物に対する慣れも皆無なケイゴでも楽しめた。
とはいえ、ここはキヨシから曖昧な要望を伝えられただけで合致する映画をチョイスして勧めた同僚のファインプレーとも
言える。
巨悪との戦闘、仲間内での反発、和解、決戦、ニヤリとさせるちょっとした捻りもあって、カタルシスを覚える大破壊を伴っ
た決着までの流れには爽快感があった。
表情をあまり変えていないが、ケイゴがこの映画を気に入った事は、キヨシにもなんとなく判った。視線は常に画面の方に
向けられていて、ピザを見るのは取る時だけだったから。
「実はもう一本借りて来たんだよね!」
そんな事を言いながら、父親は自信満々得意満面でレンタルケースから取り出したディスクをセットする。ちょっとグロテ
スクなシーンもあるはずだが、食事が終わったから大丈夫だろう、と。
「ケイゴは聞いた事ないかな?」
名作。そんな噂を聞いた事がある巨大鮫のパニック映画。キヨシはレンタルショップでふとこれを思い出し、うろ覚えの記
憶を手繰ってパッケージを探して借りてきた。きっとハラハラドキドキも嫌いではないだろう、と。
結論を言えば、中年シェパードは間違えて借りた。タイトル的にはちょっと惜しい、しかし余計な単語が入っている、そし
て中身は全く別物…つまりは、「鮫の映画」ではなく「サメ映画」を…。
(失敗したー!)
映像が古いのとは根本的に異なる、年代的技術面とは完全に別な拙さと雑さが窺えるオープニングを経て、キヨシは己の誤
りに気付いた。
(これ、いわゆるB級とかいうヤツだー!)
開始から十五分でケイゴは寝た。カメからサメの落差が激し過ぎた事や、満腹も手伝っての事だが、棒立ちの役者ふたりが
動かないカメラの前で延々と状況説明に時間を割く導入部分にノックアウトされて。
このまま観続けるのも疲れそうだし、一向に面白くなる気配もないし、DVDを停めようかと考えたキヨシは…、
(あれ?)
肩に軽く触れるものに気付いて横目を向ける。
すっかり寝入ってしまったケイゴは横に倒れてきて、キヨシに寄りかかる格好になっていた。
(ケイゴ…)
顔つきも目つきも鋭くて、幼さが削ぎ落とされた感のある少年だが、目を閉じているケイゴの顔にはあどけなさが滲む。体
調を崩して寝込んでいた時とは違う、満ち足り、リラックスした少年は、気を許した父の傍で心身ともに弛緩しきっていた。
すぅ…、と静かに寝息が聞こえて、キヨシの肩に寄りかかっていたケイゴの頭がずれ始めた。そのまま滑り落ちては可愛そ
うだと、静かに尻をずらしたキヨシは、少しだけケイゴの方へ体を向けて、滑りつつあったケイゴの頭を、肩の内側…贅肉が
ついた胸で支える。
ゆっくり、深く、寝息を立てるケイゴは起きる気配も無い。すっかり体重を預けられたキヨシは、モゾモゾと静かにみじろ
ぎして、最終的には横倒しになりそうな息子を自分の胸と腹で支え、そっと肩に手を回す格好になる。
下手に身動きしたら起こしてしまいそうで、キヨシはじっとしていた。
リモコンを取る事もできなかったので、映画は延々と流れていた。
肉付きのいいキヨシの体が柔らかくて、クッションのような寝心地なのか、ケイゴはなかなか目を覚まさなかった。
(ケイゴ…)
触れている部分が暖かい。思い出すのは、赤子の頃に抱っこしていると、抱いている腕と胸だけ火照って蒸れた事。寝入り
に体温が上がるのは、今も昔も変わらない…。
飯を食ってゆくし、時折寝泊りしてゆくが、しかしここはまだケイゴの「家」ではない。法律上はまだ親子ではない。
(親権はまだ…、彼女が持ってるからなぁ…)
口や態度はどうあろうと、気を許してくれている事は判る。信用してくれている事は判る。本当の意味でそれに応えるには、
やはり生活そのものを丸ごと引き受けてやるべきなのだろうと思う。
離婚時に一度は決まった親権も、親権者変更調停によって変える事は可能。離婚当時のケイゴはまだ赤子で、基本的には母
親に親権が与えられる年齢範囲だったが、今は違う。
ケイゴは今年で15歳。この国の古い風習であれば元服の歳の頃。もうじき親権者を選択できる歳となる。
ケイゴがそう望んでくれるなら、キヨシが親権者に…つまり、名実共に「父親」になる事もできる。
(突然話しても混乱するだろうし、選択肢を与えるのは、誕生日まで待った方が良いか…)
夏。ケイゴが15になる誕生日を迎えたら、その時…。
回した腕でそっと背中を撫でながら、キヨシは息子の温もりを噛み締めていた。
一方その頃…。
「ふぅん。猫と遊んで、どっかのオッサンの家に転がり込んでる、ねぇ…」
電子音と軽い金属音が競い合って響く、深夜まで営業するゲームセンター。
メダルゲームブース奥の休憩所を占拠する集団の中で、ケイゴを見張っていた男から話を聞いたゴリラが唸る。
「どういう事だ?そのデブのオヤジはナニモンだ?」
人相の悪いブルドッグが眉根を寄せると、「さぁねぇ」とゴリラは肩を竦めた。下品な笑みを浮かべながら。
「案外、そのオッサンに身売りしてたりしてな?」
「身売り?野郎が?オヤジに?」
意味が判らないらしいブルドッグの後ろで、
「あんな凶暴なヤツを?そんな物好きなオッサン居るのかよ?」
と、虎が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「顔も良くねぇ、おまけに凶暴、あんなの願い下げだろ」
「S役なんじゃないの~?そのオッサン、引っ叩かれて悦ぶ性質とかさぁ」
ゴリラの返答にテンが「タチってかウケ?」と乗っかると、ブルドッグを除く全員がゲラゲラ笑い出した。
「この辺に顔出さなくなったのはそのせいか~…。カツアゲより儲かるんだろうよ」
笑いをおさめたゴリラが煙草を咥えながら、納得したように呟くと、虎が「で、どうする?」と目をギラつかせて尋ねた。
「そりゃあ勿論…」
フーッ…と煙を吹き出して、ゴリラは目を細めた。楽しげな光を瞳に宿して。
「ブチ壊してやるしかないじゃないの。予定通り」
(結構降ってんな…)
数日続いた快晴から、一転して大粒の雨が降る空模様。鞄の口から覗く折り畳み傘の柄をチラリと見て、ケイゴは下駄箱を
開けた。
今は傘もある。何より、雨風をしのげる居場所もある。
雨は、もうそれほど嫌いではなくなった。
父から貰った傘を広げて、アスファルトの水溜りを跨ぎ越し、ズボンの裾を少し湿らせながら下校する。
金曜日。明日は仕事も休みになるので、よければ今夜はどこかへ外食しに行こう、とキヨシに提案されている。そのまま泊
まって行ってもいい、とも。
部屋に入って待っていてくれと言われているので、天気も悪いし、素直に言う事を聞いておこうと、ケイゴは空を見る。一
面が雲に覆われ、遠雷が低く聞こえる。しかし雲の色は薄くて景色も明るく、透過した日光で所々雲の濃淡があぶりだされて
いる。雨足は強いがそう長い間は降らないだろうと、経験則から考えた。
外食は、きっと酒が出る所なのだろう。休日前を除いてキヨシが深酒をしないようにしている事は、ケイゴにも判ってきた。
いつか自分も父と酒を飲むようになるのだろうか?あれはどんな味がするのだろうか?少し試してみたい気もするが、お酒
は大人になってから、とキヨシに釘を刺されたので諦めた。
歩き慣れた遊歩道への道。その先にあるキヨシのアパートへもそろそろ通い慣れた。
橋を渡り、遊歩道入り口を見やったケイゴは、一度空を見上げて遠雷に耳を澄ませた。
(コナユキは出て来ねぇだろうな…)
あの仔猫は雷が嫌いなので、きっと寝床に篭っている。この雨の中で下手に呼んで体を濡らさせても可哀相だし、食事は明
日の朝にでも届けてやろうと考えて、ケイゴはそのままアパートへ向かった。
合鍵でドアを開け、玄関マットで靴裏の水気を抜き、折り畳み傘を伸ばしたまま閉じて傘立てに収め、靴を脱いで上がる。
怪獣の足のスリッパを一瞥し、履いているところを見た事が無いのだが、父は何故こんな物を買ったのだろうかと軽く疑問
に思う。自分に与えるために用意したとは露ほども考えない。
リビングに入り、制服の上を脱いでソファーの背もたれに引っ掛け、向かう先は冷蔵庫。
ぎっしり詰め込まれた甘い缶コーヒーを取り、ソファーに戻って腰掛け、ゆっくり味わう。
雨は降り続いているが、風があまり無いせいで、ベランダの窓はあまり濡れておらず、雨音は遠い。
静かで、ゆったりと時間が過ぎる部屋。ケイゴはこの部屋が嫌いではない。むしろ自宅より落ち着ける。
整頓されているから。広いから。空調がきいているから。落ち着ける理由はその辺りにあるのだろうかとも考えたが、どう
にも違うようだと最近感じ始めた。
どんな仕事をしているのかと尋ねた際、キヨシは自分をサラリーマンと称した。もっと詳しくと訊いたら、インテリアコー
ディネーターだと教えてくれた。部屋のデザインや調度をコーディネートするのが仕事の内容だと。
だから、ああなるほどとケイゴは思った。キヨシの手で過ごし易くコーディネートされているから、この部屋は居心地が良
いのだろうと。それに…。
(アイツの匂いがする…)
加齢臭ともコロンの匂いともつかない、キヨシの匂い。それが薄く漂う部屋の空気が、今は不快ではない。寒くない。狭く
ない。雨も当たらない。体も汚れない。ここなら…。
(コナユキ…)
白い仔猫の事を思う。
何となくだが、ペットが飼えるかどうかアパートやマンションごとに決まりがあるのは知っている。ここがどうなのかは判
らないが、中で動物を見た事は無いし、キヨシもコナユキを連れて来ないので、何となくダメだろうとは思う。
いつしか空は暮れ、外は薄暗くなっていた。灯りを付けない室内はなお暗く、そろそろ照明のスイッチを入れようと立ち上
がった少年は、窓を見遣る。
雨は止んでいた。キヨシが帰って来るまで少し時間がある。今ならコナユキに飯を与えに行ってもいいかもしれないと思い
直して、ケイゴは猫用の缶詰を鞄から出し、ポケットに入れた。
直後、コトンと玄関で音がした。
(アイツが帰ってきたのか?)
普段より少し早いが、早めに仕事を切り上げられたのだろうか?と、ドアへ向かったケイゴは、動く様子の無いドアノブを
見つめる。
耳を倒して待つが、気配は無い。気のせいだったのだろうと思い直して、靴をつっかけたケイゴは…。
タツッ…。
「?」
水滴が落ちる音を聞き、視線を上げ、ドアの郵便受けに目を向けた。
夕刊の配達。雨で袋が濡れていた。そんな事を一瞬思い浮かべたケイゴだったが、滴り落ちた水滴の色に気付いてハッと目
を見開く。
内側に張り出あいた郵便受けの下部から、タツッ…、タツッ…、と断続的に落ちる水滴が、赤黒い床に染みを作る。
ゆっくり、一歩。
ゆっくり、二歩。
ゆっくり、手を伸ばす。
緊張して郵便受けの蓋を開けたケイゴは、中を覗くなり顔を顰めた。
生臭い、鉄の匂い。
雨が降る錆だらけの工場で嗅ぐ異臭にも似るが、それは錆の香と違って「乾燥していない」。
少年が覗き込んだ郵便受けの中には、A4サイズが入る、薄茶色の紙封筒が入れられていた。丸く膨れたソレは、内側から
ジクジクと溢れる液体で赤黒く染まっている。
ケイゴは息を止めてそれを取り出し、封もされていなかった口を開け、立ち登ってきた臭気に目を細くし…。
「………………………………………………………………………………」
やがて、封筒をそっと床に置くと、ドアを開けて外へ出て行った。
(あ。鍵があいてる…)
ケイゴが出て行ってから四十分ほど後。とっぷり暮れてから帰宅したキヨシは、差し込んで捻った鍵の手応えの無さで、施
錠されていない事に気付いた。
(ケイゴ、来ているんだね!)
顔を綻ばせてドアを引き開けたキヨシは、直後に鼻を鳴らす。
異臭があった。
灯りもついていない玄関内に漂う、生臭く、鼻の奥へ染み込むような異臭は、手を離されて閉じたドアの風でかき回された。
「ケイゴ?」
何だかおかしいぞと、壁を探って灯りをつけたキヨシは、ドアが開けっぱなしで暗いままの居間を見遣り、次いで視線を下
げて玄関口にケイゴの靴が無い事を確認すると同時に、気が付いた。
(何だろう、これ?)
息子が持ち込んだのだろうかと、足元に置かれていた大きめの、膨れた封筒を見つめる。泥の中にでも落としたのかなと考
えたキヨシは、封筒の滲みを気にしながら屈み込んで、ポカッと開いていた口を摘み、広げて中を覗いた。
「うーん…?」
生臭さに眉を顰めて凝視した、その中には…。
「…え?」
まず疑問が、声になって口を突いた。自分が目にしている物が何なのか、理解し損ねて困惑した。そして…。
「ひっ!」
理解すると同時に、反射的に後ずさろうとしたキヨシは足を滑らせて尻餅をつく。そのはずみに触れていた封筒がベシャリ
と湿った音を立てて倒れ、中からゴロリと、丸い物が転がり出た。
「!!!!!!」
大きく開けた口から、声にも悲鳴にもならなかった息を絞って吐き出すキヨシの眼前には、べったりと赤に汚されて、白い
猫の首が転がっていた。