第十話
雨が上がった日暮れの時刻。
空気も草木もしっとりと濡れた遊歩道を、少年はひとり歩いている。
行く先には東屋。いつもコナユキと会っていた東屋。普段は誰も居なかった東屋。
しかしそこに、今は十名の男がたむろする。
鉄柱の上に灯った照明が投げかける光の外縁、霧のように漂う水気に、男達が吹かすタバコの煙が混じり込む。霧と似て非
なるそれは、薄明かりの中にあって空々しく棚引いた。
「お。来たねぇ」
咥えていたタバコを摘んで口から外し、ゴリラはにこやかに笑ってケイゴを見遣った。友人に挨拶するように、軽く右手を
上げて。
ケイゴは無言で足を止めた。東屋から3メートルも無い、男達全員の顔が確認できる距離で。
「手紙、読んだ?」
ベンチから腰を上げたゴリラがズボンの尻を叩いて埃を落とす。
「まあそういうわけだから」
知り合いに話しかけるように気安く、どうでもいい事を話すように軽薄に、ゴリラは宣告した。
「バイバイ、モリタニ君」
シェパードが土を蹴る。ぬかるんだ腐葉土の塊を散らし、泥の滴を跳ね上げて、一直線に男達を目指す。
ゴリラだけが動かず、周りの男達が前に出て迎え撃つ。ケイゴの目は反射的に近い者へ、最短で拳を叩き付けられる相手へ
と向いた。
「この野…べっ!」
吠えて襲い掛かった先頭のブルドッグは、振るった拳と交差する格好で飛んで来たケイゴの拳骨で、文字通り鼻っ柱を叩き
折られた。ブルドッグの拳が肩口に当たったシェパードは、しかしいささかも怯まず、掴みかかった虎の腹へ前蹴りを見舞う。
一対九という数の差すらも、完全に頭に血が昇っているケイゴにとってはどうでもいい事だった。少年は臆さず、竦まず、
怯まず、そして…。
「オラァッ!…げ!」
「畜生テメェ!いでぇっ!」
囲まれて叩かれ、殴られ、蹴られ、叩き返し、殴り返し、蹴り返し、ケイゴは男達を相手に大暴れした。転んだら負ける。
倒れたら終わる。尻もちをついたら一巻の終わりとなる大立ち回り。
押さえ込んでしまえばそれまでなのに、シェパード一匹に男達は手間取った。数の不利どころか苦痛すらも認識していない
シェパードは、唇を捲り上げ、牙を剥き出しにし、獣そのものの唸りを発して暴れまくり、これだけの人数なのに取り押さえ
る事も難しい。
ソレはまさに、狂犬だった。
「やるじゃん」
数分が過ぎ、なおも倒れないどころか、さらにふたり目を昏倒させたケイゴの闘争心と暴力性を認めて、乱闘に参加してい
なかったゴリラは意外そうに呟いた。
多少腕っ節が強い、勢いだけの跳ねっ返り。
そう考えていたのだが、これはなかなか大した物だと評価し直す。
(どうりで、なかなか返り討ちにできなかった訳だ)
それからもしばし観戦していたゴリラは、三人目が倒れた時点で、屈み込んでベンチの下に手を入れた。
カラカラと軽い音を立てて、石畳に擦りながら引っ張り出したのは金属バット。
ソレを無造作にぶら下げて、水溜りを避けながら乱闘現場へ歩み寄り、ゴリラはおもむろに振り上げる。
ケイゴは虎の顔面に頭突きを入れて仰け反らせ、血走った目で隣のテンを見据え…。
「はいザンネ~ン。バイバイ、オリタニ君」
気付けば、テンの後ろに近付いていたゴリラが、凶器を振り下ろす寸前だった。
「ッ!」
右肩にバットがめり込んだ。
ブェギュッと異様な音が、首を通して自分の中から聞こえた。
そして、その痛みを感じるより先に、ケイゴは二度目の衝撃で視界を激しくブレさせ、方向感覚を失った。
スイングしたバットを肩に担いで、「う~ん、グッドヒット!」と唸るゴリラ。頭部を殴られたケイゴは踏み乱された泥の
中にベチャリと倒れ込む。
少年は臆さず、竦まず、怯まず、そして、冷静さを欠いていた。
一方、ケイゴが飛び出してからしばらくして帰宅したキヨシは…。
「うぷっ!」
封筒と猫の首を洗面所に運んで、血がついた手を洗い、生臭さで胸を悪くしてえずく。
綺麗にしてやりたいのは山々だったが、今はケイゴの事が気がかりだった。
鞄はある。制服もソファーの背もたれに引っ掛けてある。少年は少なくとも一度は部屋に入り、この酷い仕打ちを見せられ、
そして飛び出して行ったのだ。
封筒を処分しようと摘み上げたキヨシは、中にまだ何か入っている事に気付く。
外の物よりは小さな縦長の、長形3号封筒。染みた血で所々変色したその中には、無機質な書体で印字された一通の手紙が
入っていた。折り目もきっちりついていて、開封した形跡は無く、おそらくケイゴは中を確認していないと察せられたが、そ
の内容は、少年への呼び出しだった。
「~っ!」
キヨシは青褪めながらドタドタと玄関へ走った。
手紙を見ていなくとも、あの「中身」を見ていれば遊歩道が頭に浮かぶ。ケイゴはあんな酷い真似をする相手に会いに行っ
たのだと、容易に察しがつく。あんな真似をする真っ当ではない相手が待ち構えている所へ…。
(ケイゴ!ケイゴ!ケイゴ!無事で!どうか無事で…!)
靴をつっかけ、転びそうになり、鍵を掛けるのも忘れて、キヨシは部屋を飛び出した。
「流石にへばったかね?」
すっかり暗くなった遊歩道で、携帯を弄りながらタバコをふかすゴリラは、飽きたような顔で紫煙を吐く。
うつ伏せに倒れたシェパードは、テンに背を踏みつけられていても反撃しない。
頭に一撃貰って倒れたケイゴは、袋叩きにされてボロボロになっていた。シャツは破れて右袖が肩から無くなり、ズボンも
穴だらけ。全身泥まみれで自発的な動きが見られない。
念のため、凶器などを所持していないか確認したが、ポケットに入っていたのは猫用の缶詰一つ。今はケイゴの傍で泥に半
ば埋もれている。
「もうそろそろ良いだろ。まだ仕事はあんだから」
ゴリラは切り上げるよう皆を促す。
この後は裸にひん剥いて、最近入り浸っているらしいアパートの前で電柱にでも括りつけてやるつもりだった。ついでに、
会っていたという中年にも「何かしてあげなければ」と思っている。この生意気なシェパードが二度と立ち直れないように。
「だって、よっ!」
鼻血で顔の下半分を真っ赤にした虎が、サッカーボールでも蹴るように、ケイゴの脇腹を蹴った。弾みで仰向けに引っくり
返ったケイゴは、横向きになっている顔の腫れた瞼の下から、望洋とした眼差しを泥の中へ注ぐ。
「さぁ、仕上げに入ろうな」
ゴリラの号令で、男達がケイゴを引き立てる。力なく、ぐったりと、顔を伏せているシェパードは…。
「あ?」
虎が声を漏らした。掴んでいたケイゴの腕が滑って抜けた。…と、思った。
思った時には、瀕死のはずの少年は前のめりに駆け出していた。
「コラ!」
「待てや!」
怒声を背に、まっしぐらにゴリラ目指して、雨水と泥でずぶ濡れになった少年が走る。
激痛が頭を冷やした。
鈍痛が心を落ち着かせた。
袋叩きにされて冷静になれた。
最初から勝ち目が無かったのだと遅まきながら理解した。
そして、今の自分には「勝つ」必要が無いのだという事も理解した。
目標を達成するには何をするべきか?どうすれば最も効率よく目的を達せられるか?
少年は冷静に思考を巡らせながら意志を固めた。
ひとはそれを、「殺意」と呼ぶ。
アイツが群れの頭。
少年は本能でそう確信していた。
アイツが原因。
少年はそう直感していた。
アイツが、標的。
少年はそう定めた。
最低限、コイツは殺す。
全員は無理でも、コイツだけは殺す。
自分がどうなっても、コイツだけは絶対に殺す。
「ハッ!活きがいいじゃないのぉ!?」
携帯をベンチに置いたゴリラが金属バットを掴む。死にかけのガキ、ただの空元気、一発殴れば、もしくは二三発ブン殴っ
てやれば大人しくなるだろう、と。
真っ直ぐ、馬鹿正直に突っ込んで来る少年は、バッティングセンターの球より打ち返し易い。
構え、捻り、フルスイングする。外すはずもなく、バットは少年の側頭部めざして空を裂き…。
ガンッ。
「あん?」
予想外の音と、手の平の痺れ。目を丸くしたゴリラの顔を…、
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおあっ!!!」
バットを叩き払うように止めたケイゴの左手が、拳を固めて殴打した。
「!?!?!?」
体重と加速が乗った左ストレートを見事に貰い、仰け反ったゴリラが鼻血をしぶかせる。
何が起こったのか判らなかった。バットがどうして弾かれたのか、何に跳ね返されたのか、何に当たってあんな音が鳴った
のか…。
ゴリラの頭を過ぎった幾多の疑問に対する答えは、ケイゴの手の中にある。
引っ立てられる際にケイゴは泥の中から掴み上げていた。猫用の缶詰…コナユキに与えるつもりでポケットに入れ、そのま
ま持って来てしまっていた物を。
冷たい石を握り込むように、静かな憤怒を注ぎ込むように、深い怨念を塗り込むように、力の限り握り締めた缶は、夜闇に
黒々と光る凶器と化していた。
「…っくあ!?」
尻もちをついて仰向けに倒れたゴリラに、ケイゴが馬乗りになった。
「このっ!」
イイのが入って頭は揺れているが、相手は死に掛けの小僧。鼻面に一発貰って激昂したゴリラは、上から覆い被さるケイゴ
めがけて殴りかかる。
「テメェ!」
だが、右腕が動かない少年は、下から殴られながらも、表情一つ変えずに殴り返す。
「調子に…!」
獰猛さも、敵意も、憎悪も、苛立ちも、少年には見られない。
その顔はただ、ただ、ただ、何かが大きく欠け落ちたような、目にした者が不安にかられる無表情。
ケイゴは殴られ、殴り、殴られ、殴り、殴られ、殴り、殴り、殴られ、殴り、殴り、殴り、殴り…。
「ってぇ!?」
残った左に凶器を握って、
「こ…!」
残った左に殺意を込めて、
「お…」
何度も、
「おい!」
何度も、何度も、
「テメェら…」
何度も、何度も、何度も、
「黙って見…!」
何度も、何度も、何度も、何度も、
「手ぇ貸…!」
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、
「いでぇ!」
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、
「助っ…!」
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も…。
「早ぐ…!」
男達が分けに入っても、ゴリラからケイゴを引き剥がす事はできなかった。何処にそんな体力が残っていたのか、馬乗りに
なったシェパードの脚はゴリラの胴を巻き付く形で締め上げており、振るわれる拳は大の男がしがみ付いても止まらなかった。
殴り続けるケイゴの拳も、殴られ続けるゴリラの顔も、夜血に赤黒く染まり切って、もはや輪郭すら定かではない。
殴り過ぎて指の感覚もなくなったケイゴの血塗れの手からは、いつしか缶は滑り落ちて、傍らで泥に埋まっている。
あの「案内」は、脅しと嫌がらせを兼ねた挑発のつもりだった。
だが、その挑発がこの少年に対してどんな効果を及ぼすのかを、男達は見誤っていた。
刺激的だった。あまりにも。刺激し過ぎてしまった。
「あ…!」
テンが声を上げる。
パトカーのサイレンが聞こえる。しかも、近付いて来ている。
「やべぇ!」
男達は我先に逃げ出した。
サイレンを恐れたのもあるが、口実が欲しかったというのも事実。正直な話、男達は脅えていた。だから…、
「お、ぶっ…!ひっ…!テメ…、ら…!たシュ…、け…!」
狂ったように、あるいは機械的に、延々と休まず拳を振り下ろし続ける少年と、捕まったままのゴリラを、そのまま置き去
りにした。
パトカーのサイレンは近付いて、そのまま運河の向こう岸を通り過ぎて行った。
「はっ!はひゅっ!はひっ!」
ドタドタと遊歩道に駆け込む、肥った中年シェパード。
足元も怪しい暗い道を息を切らせてヨタヨタ走って東屋を目指すキヨシは、やがて遠目に、灯りを受けて朧に浮かび上がる
少年の姿を確認した。
(ケイゴ!ひとりだけ…!?)
ひょっとして、自分が手紙の内容を読み間違えるか、思い違うかしていて、あの残酷な投函をした相手が待ち構えている場
所は違うのか?同じようにケイゴも空振りしたのか?と、キヨシは一瞬考え…
「ケイゴ!?」
すぐさま、そうではないと思い直した。
その少年は、濡れていた。
雨水に、泥に、血に、涙に、暴力に、絶望に、喪失に、夜にまみれてずぶ濡れの少年は、そこに独り立って、見下ろしてい
る。仰向けで泥の上に横たわるゴリラを、表情もなく。
「ヤ…、止メデ…!モウ…、許ジデ…グダザ…!」
顔を押さえてヒィヒィ泣いているゴリラは、どれだけ殴られたのか、顔は元の人相も判らないほどパンパンに腫れ上がって、
口からは歯の大半が折れるか抜けるかしており、顎骨も割れ、口内はザクザクに切れている。舌も先端がザックリ割れて、切
れ落ちるところまで行かなかった肉片が中途半端にぶら下がり、発音もおかしくなっていた。
「ケイゴ!」
駆け寄るキヨシに、しかしケイゴは目も向けない。無表情のまま屈み、泥の中の金属バットを拾い上げる。
「ケイ………っ!?」
何をするつもりなのか察したキヨシは、息子の傍に寄って「ダメだよケイゴ!」と声を張り上げた。
「引っ込んでろ…」
目も向けないケイゴの横顔と瞳に、キヨシはゾクリと悪寒を覚える。
「コナユキが、殺された…」
それは、諦めた目だった。
「猫殺したんだ…。だったら…」
どうなってもいいから目的を果たす…。そのために他の全てを切り捨てた目だった。
「死刑だろ…」
元より自分には何も無い。ただ生きているだけの自分には。だから、ここでコイツを殺して、殺人犯になって、牢屋にブチ
こまれたって別にいい。
少年はバットを振り被った。ゴリラの頭を完全に潰すために。
そして躊躇いなく、速やかに、それを振り下ろし…。
ゴッ…。
重い、嫌な音が響いた。
キヨシはキツく目を瞑っていた。
ケイゴはハッと目を見開いていた。
振り下ろすはずのバットが、根元のところをぶつけて止まった。
「いっ…だぁああああいっ!」
額を両手で押さえたキヨシの口から悲鳴が上がった。
よろける父親を、息子は呆然と見つめる。
割って入ったキヨシの額に、ケイゴが握ったバットのグリップが、ちょうど柄で小突くような角度で命中していた。半端な
当たり方もさる事ながら、充分なミート距離ではなかったので少し瘤ができる程度だが、当然痛くて涙目になるキヨシ。
「…何で…」
憑き物が落ちたような顔でケイゴは呟く。
「何で、コイツを庇うんだ…?」
「べ、べつに…!このひとかばったんぢゃにゃくて…!」
額を両手で押さえながら、痛みを堪えてキヨシは呻いた。
「ケイゴに…、「そんな真似」をさせたく…、なかったから…!」
少年は絶句した。
さっきは確かに、どうなってもいいと思った。自分には何も無いから。
けれど本当は…、今の自分には…、
「ダメだよ…、ケイゴ…!」
父が居た。
ハッと、キヨシが顔を上げて耳を立てる。
ここへ来る途中でも耳にしたが、またパトカーのサイレンが近付いていた。
「と、とにかく行こう!早く!」
ケイゴの左腕をキヨシが掴む。途端に、少年の手から金属バットがスルリと抜けて、泥の中へ頭から落ちた。
ガロン…。
落ちていた猫用缶詰とぶつかって、隣に転げたバットが響かせた音を背に、ケイゴはキヨシに手を引かれて、足早に闇の中
へ去って…。
「ヂグ…ヂョウ…!ヂグヂョ…!ヒック!アイヅラ…、ゼッデェ…ユルザネェ…!」
泥の中を這いずって、ベンチに縋って体を起こし、ゴリラが喘ぐ。
顔は見る影もなく腫れ上がり、目が殆ど開いていない。歯が何本も折れて抜けてガタガタになり、乱杭歯の隙間からヒュウ
ヒュウと息が漏れる。足腰も立たないほど叩きのめされたゴリラは、ベンチを背にして座り込む。
「置イデ…逃ゲヤガッテ…、アイヅラモ…!アノガギモ…!全員ブッ殺ヂデヤル…!」
一度は逃げ出した連中も、サイレンが去ったら様子ぐらいは見に来そうな物なのに、ひとりも戻って来なかった。置いて逃
げた事に加えてさらに腹が立つ。
泥まみれの手でポケットを探り、ゴリラは顔を顰める。バットを握ってケイゴを迎え撃った際、それまで弄っていた携帯を
ベンチに置いていた事を思い出した。
「小便漏ラシテ命乞イシロ…!俺ノバック、甘グ見ンジャネェゾ…!」
ゴリラは携帯に手を伸ばす。戦力にアテはある。繋がっているバックに要請して、兵隊を揃えて…。そう。この繋がりの前
には、圧倒的な数の差の前には、子供一匹、中年一人、どうという事もなく…。
「スグダ…!スグニブチ殺シテ…!」
「残念だが」
怨嗟の呻きを遮ったのは、前触れもなく夜風に乗った厳かな声。
「そなたが何処かへ行く事も、何処かへ繋がる事も、何処かへ至る事も、もはや叶わぬ」
ゴリラは顔を上げる。キョトンと。
そこに、大男が立っていた。
「出遅れはしたが…。いやはや、どうにか間に合ったらしい」
携帯が置かれたベンチの向こう、最初からゴリラの視界に入っていたそこに、いつの間にか、いつからか、その大柄な偉丈
夫は佇んでいた。
和装に包まれた逞しく分厚い大柄な体躯。理知的に輝く両の瞳。しかし今宵、その双眸からは常の穏やかさは消え失せて、
冷厳な眼差しがゴリラを見下ろしている。
「ナ…、ナン…。ナ…!」
ゴリラの口元が震え、得体の知れない怖気が背筋を這う。
厳かな声音に気圧され、身の底から震えが湧き零れる。
静かで冷たい眼差しに、射竦められて体が動かない。
本能よりもなお深い、魂その物が脅え竦み上がる。
何だお前は?
そんなゴリラの意図を察して、偉丈夫は厳かに告げる。
「小生らは降魔(ごうま)。外法の者」
これを聞いたゴリラの顔から血の気が完全に失せる。
「売り元」から話には聞いていた。
この国には、超法規的存在…一般人が知る法の外側をうろつく保安官のような者達が居る。公安とも、警察の下請けめいた
調停者とも違う、国家から個人裁量による刑罰の執行権が与えられた、「執行者」とでも言うべき者達が。
彼らが「執行対象」と見なした者からは、人権を含めたあらゆる権利が剥奪される。もしもそんな物があるとすればの話だ
が、おそらくは「生きる権利」すらも。
そうして、「執行」された者は社会から消える。痕跡一つ残さずに。
だから、どれだけ好き勝手に動いても、決して彼らには見つかるな、と…。
下らない都市伝説や怪談の類だと、当時のゴリラは鼻で笑った。だが、目にしてしまったらもう笑えなかった。
歯の根もあわないほど震え出したゴリラの瞳に浮かぶ、理解と絶望の光を確認すると、牛の偉丈夫は放り出されたままの携
帯に視線を向けた。そして…。
(…ぬかった…!)
素早く拾い上げた携帯のモニターは、何の操作もされていなかったにも関わらず点灯していた。既に内部で何らかの処理が
進行していたのは明らかである。
(まだ終わらぬか。これは…)
端末の角がポッと火を吹いた。内から爆ぜるようにバッテリー附近が燃えたかと思えば即座に鎮火し、物理的に破壊された
端末は動作を停止した。だが、内部のデータなどは既に弄られてしまっているだろうと、大牛は眉をおろす。
ゴリラもまた足切りされる末端に過ぎなかった。とはいえ…。
「さて…。そなたに電子ドラッグを売った者の事、詳しく話して頂こう」
事件はともかく、彼個人の「物語」は、これで終わる。
「今宵、この降魔との逢瀬をもって、そなたからはあらゆる権利が剥奪された。素直に話した方が楽だとだけ、仏心で告げて
おこう」
他でもないゴリラ自身が、牛の眼差しからその事を理解し、ガタガタと震えていた。
「ケイゴ…。病院に行こう…」
部屋に連れて行った息子の有様を灯りの下で確認し、家での手当てでは手に負えないとキヨシは判断した。
顔の腫れも酷いが、だらりと下がった右腕が全く動かないのが気になった。骨折している可能性が高い。
「とりあえず、ズボンだけ替えて…」
すぐシャワーを浴びさせるのは危ないかもしれないと感じ、せめて泥だらけのズボンだけでも替えさせ、上に何か羽織らせ
て病院へ行こうと考えたキヨシだったが…。
「…ケイゴ?」
俯いている少年は、玄関に残された血の染みを見つめていた。
握り締めた左手が小刻みに震えて、俯けた顔の鼻先から、ポタリ、ポタリ、と滴が落ちる。
声を漏らさないように、力んで震えて堪えながら、ケイゴは泣いていた。
「ケイゴ…」
キヨシは泥だらけの息子をじっと見つめ、歯を噛み締める。
ケイゴにとってコナユキは「仲間」だったのだろうと、キヨシは感じた。庇護されず、一匹で生きるその姿に、ケイゴは親
近感を覚えていたのではないだろうか、と…。
考え中だったが、ペットと同居できる部屋を探してもいた。早く決断し、行動に移しておけばと悔やんだ。
手負いの少年の体に、中年はそっと、傷に障らないよう腕を回す。
包み込むように抱く父の肩に顎を乗せて、ケイゴはいつまでも、いつまでも、ポロポロと涙を零し続けていた。
それから、四日が経ち…。
「ここに埋めたのか…」
「うん…」
遊歩道の一角、太い杉の木の根元を見下ろすケイゴは、三角巾で右腕を吊っている。
付き添うキヨシは少しやつれた息子の横顔をチラリと見遣り、それからまた木の根元へ目を戻した。
鎖骨を骨折してしまったケイゴは、今日までここに来られなかった。切れた瞼の上もまだ完全には塞がっておらず、歩くだ
けであちこち軋んで痛む有様である。
警察への届出はしていない。ケイゴも手を出しているのでお咎め無しで済まされない可能性があったので、部屋への「投函」
含めてキヨシはだんまりを決め込む事にした。
古杉が墓標となった猫の墓を、合掌ができないケイゴは動かせる左手だけで拝んだ。
墓碑などを作って目立たせてしまうと、誰かに掘り返されてしまうかもしれない。そうでなくとも、公共の場である遊歩道
に無断で埋めるのは本来よくない。しかしケイゴが来られる場所というと…。しばらくそう悩んだ末に、キヨシはこうして遊
歩道の敷地内へ目立たないように埋葬した。
「………」
しばらく目を閉じて拝んだ後、ケイゴは父を横目で見遣った。
「…ありがとな」
「え?」
きょとんとする父親。素直に礼を口にした息子は口を少し尖らせる。
「…だからっ…!墓…!」
「あ、ああ…。うん…」
照れ臭かったのか、踵を返して足早に引き返すケイゴ。慌ててその後ろを追いかけるキヨシ。
「…猫」
「うん?」
追いついて横に並んだキヨシは、ポツリと呟いたケイゴの横顔を見遣る。
「大人になったら、猫と暮らすのも…、いいかもな…」
「…うん。そうだね、それは…、いいね。うん」
トラウマにはなったかもしれない。だが、猫を嫌いにはなっていない。コナユキとは暮らせなかったが、いつか、また、何
処かであんな野良と出会ったなら…。
「あー、腹減った」
夕暮れの遊歩道を歩きながら、ケイゴがわざと声を大きめにして訴えた。この話はこれで終わり、というサインと受け取っ
たキヨシは、「何が食べたい?」と尋ねる。
「左手で食べられる物が良いね?えぇと…、片手で不自由しない物…、ピザ?寿司?出前が良いかな」
「どっちでも」
「ええ?またそう投げやりに言って…」
「ニィー」
そこから二歩で、親子の足がピタリと止まった。
『…へ?』
声色が違う、しかしそっくりなトーンで声を発し、シェパード二匹が振り返った。
通り過ぎようとした東屋、そのベンチの脇に、ススッと白い子猫が姿を見せている。
「ミ?」
振り返った格好のまま硬直し、口をパクパクさせているケイゴとキヨシを見て、コナユキは不思議そうに首を傾げた。
「…おい。埋めたんじゃ…?」
「え?え、えええええ?何これどういう事…?」
愕然とするケイゴと困惑するキヨシ。ピンと尾を立てたコナユキは、ミッミッミッミッと声を揺らしながら、ふたりの足元
にトテトテ寄ってゆく。
実は、キヨシの部屋の郵便受けに放り込まれていたのは、コナユキの首ではなかった。
男達も当初はコナユキを捕らえて、その頭を宣戦布告の手紙に添付する事を計画していたのだが、仔猫とはいえコナユキも
野良。宣戦布告の数日前、エサでつりつつ捕まえようとした男の悪意を察知したらしい白猫は、一目散に逃げて姿を隠してし
まい、それきり現れなくなった。
困った捕獲担当の男は、しかし運よく、猫にとっては運悪く、車に轢かれた白地に薄くクリーム色の斑がある猫の死骸を手
に入れた。耳の薄いブチは気になったが、血で塗ればまぁ判らないだろうという結論に至り、工作してからゴリラに報告した
のだが…。
血塗れの状態の物しか見ていなかったケイゴはともかく、猫を埋葬したキヨシは洗う際に実物をしっかり見ていたのだが、
この模様の違いには気付かなかった。薄いブチ模様を、落ちない血の汚れだと思い込んでしまっていたので。
「…じゃあ、あの頭って…」
「ええと…、う~ん…、何処の子だったんだろう…?」
腑に落ちないが、しかし…。
「…お前、幽霊じゃねぇよな?」
屈んだケイゴが伸ばした左手に、コナユキはゴロゴロと喉を鳴らしながら頭を擦りつける。
温かい。柔らかい。生きている。間違いなく。
「…ははっ…!」
笑ったケイゴが鼻をすすった。
「ったく!ひとの気も知らねぇでお前っ…!オレが…!どれだけ…!」
気を利かせて、キヨシはそっぽを向いた。
泣き笑いのケイゴの手に、コナユキは執拗に頭を押し付ける。
まるで、何処に行っていたんだよ?心配したんだぞ?と、ケイゴの方を責めているかのように…。
首の後ろを摘むようにして乱暴に仔猫を撫でるケイゴの横で、キヨシは思い出したように言った。
「今夜はお寿司を取ろうか!特上の!」
犠牲になったのが何処の猫かは判らないが悔やみは悔やみ。それとは別にコナユキが無事だった事は喜ばしい事。悔やみと
祝いにパーッとやるのも、悪くは無いだろう、と。
カランカランと、ドアについた鐘が鳴る。本通りから離れ、奥まった場所に店を構えている、地図を見てもなお位置が判り
難い立地のバーで。
「いらっしゃいマッセ」
イントネーションに異国情緒が滲むママに、来店した狐は「スズキサン?」と問われた。
「はい。今日は…」
「来てるヨ。ミョウジンサン。奥、ボックス席ネ」
入り口の段差を上がった狐にお絞りを手渡すと、女性店主は狭い店内の奥を指し示す。そこには、唐揚げやフライドポテト
を盛り合わせた大皿を前に座っている、立派な体躯を和装で包んだ牛の姿があった。
「や。ご足労をおかけしました」
目尻を下げたカナメは、既に水割りで喉を湿らせている。テーブルには安物のウイスキー瓶が置かれており、これを見たマ
サタカは意外そうに眉を上げる。
「ウイスキーもお好きでしたか?」
「や。こういうのも悪くはないな、と最近…」
微苦笑するカナメ。グラスを持って来た店主にビールを頼んだマサタカは、牛と向き合って座ると改めて店内を見回した。
「こんな店もご存知だったとは…。この界隈にもすっかりお詳しくなったので?」
「や。ここを知ったのも成り行きでして…」
運ばれてきたグラスを受け取ったマサタカは、店主にビール瓶から酌をされ、カナメと乾杯する。
バーのドアには「本日貸切り」の札。達筆なソレはカナメの手による物。店の従業員も今日は休みにされており、客ふたり
を店主ひとりが世話する格好である。
「…ご心配なく。女将は今回協力頂いた方のひとりで、首を突っ込まない方が良い事も承知なさっておいでです」
目を気にするマサタカにそう述べたカナメは、この界隈の新顔…特に目立って羽振りの良い人物や、胡散臭い話を持って来
る人物、良からぬ噂がある人物を、この女性店主が手伝ってくれたおかげでピックアップできたのだと説明した。女性の働き
かけで界隈の裏話が集まり、店で働く娘達の繋がりで若い世代の情報も入り、それらのおかげで「ガン細胞」に辿り着けたの
だと。
「餅は餅屋と言いますが、界隈に古くから住まう人々の「根」こそ力です。や。連中を良く思っておられない老舗の大将や古
参のオーナーも多く、他方からご協力頂けたおかげで気取られずに噂が集まりました」
「これは…、一本取られました」
顔を顰めるマサタカ。地元警察とはいえ界隈の協力を得られるとは限らない。むしろ痛くも無い腹を探られては堪らないと
口を閉ざす者や、取り締まりや警邏への単純な反感で協力したくない者もある。自分達に地の利があるようで実際には無かっ
たのかと、牛の手際に脱帽するマサタカ。
「…こっちの方は、三名まで同様の仲介屋を紐付けられました。が、これ以上携帯から辿るのは無理ですね…。大元は県外ら
しいと突き止めはしたものの…、ご協力頂いておきながら情けない事で」
「何をおっしゃいますやら。小生こそ、助力に参じておきながらここまで時間がかかってしまいました。まことに面目ない」
謙遜…ではなく心底遺憾らしく、難しい顔で耳を寝せる大牛。これには狐の方が恐縮してしまう。
「ところで、最初の情報元になったゴリラですが…」
マサタカは思い出す。カナメに襟首を捕らえられて狐に引き合わされたあのゴリラは、見るも無残な顔だったが…。
「貴方があそこまでするような悪漢でしたか」
「や。少々力が入りすぎまして。お恥ずかしい…」
苦笑いして角の付け根をコリコリ掻くカナメ。
ゴリラからは、誰にあんな目に遭わされたのか、事の次第含めて詳細に聞き出したのだが、マサタカにはあえて黙っている。
そもそも「あの夜に遊歩道で乱闘騒ぎを起こした者など存在しない」ので、少年はひとりで遊歩道に出かけ、何らかの事故
で怪我を負っただけ。「傷害事件など起きていたはずもない」ので、狐刑事に報告するまでもない。…という理屈である。
(そう。必要ないし、心配もない。何せ、しっかりしたお父様がついていらっしゃる)
入念に調べ、そして最終判断を下した。最初に思った通り、あの少年は関係しているように見えて完全に別。連中と敵対す
る格好で関わっていただけで、事件とは無関係だと。
「何はともあれこれで一応の区切り…。ご協力感謝致します」
「や。それが…」
労うマサタカに、カナメは神妙な顔になって応じた。
「小生、引き続き大元を追うようにと命を受けまして…」
数時間後、マサタカが引き上げた後のボックス席で、独り残ったカナメはチビリと水割りを舐める。
「今日はあまり呑まないネ、ミョウジンサン」
グラスを持って来たママが隣に座ると、「そうでしたか?」と瓶に目を向けたカナメは、確かにそうだと目を細める。
「お酌するヨ?沢山貰って、お礼もしたいしネ、連中も追っ払ってくれて、お礼もしたいしネ」
「や。そこはお気になさら…」
しなだれかかるようにママが肩を寄せると、カナメの言葉が途切れる。
「ウフフ!照れ屋サンだネ、ミョウジンサン!」
女性に不慣れで免疫が無い大牛は、ガチガチに固まって顔を真っ赤にしてしまう。
堂々とした振る舞いと礼儀正しさ、貫禄のある体躯と和装からは想像もつかないほどウブなカナメに、ママはからかうよう
に密着しながら水割りを濃く作り直してやった。