第十一話
「…何だって?」
やっと三角巾が取れた右手を大皿に伸ばしつつ、眉根を寄せる少年シェパード。
「ベッド買ったばかりじゃねぇか?ってかアンタ、引越してきて何ヶ月だ?なのにまた引越すのかよ?」
「いや、だから、ね?」
肥った中年シェパードが身を乗り出す。
「引っ越すのはペット同居オーケーの部屋に、だよ。ここだとコナユキを連れて来られないから、思い切って引っ越すのもア
リかなぁって」
「…アンタ…」
ポカンと口をあけるケイゴ。感謝の言葉が来るのかな?と耳を立てるキヨシ。しかし…。
「猫の世話、できんのかよ?」
(ですよねー!?判ってたけどー!)
まず息子から投げかけられたのは当然の質問だった。ちょっとしょげて、胡麻ダレをかけた豚肉を口に運ぶキヨシ。
今日の夕食はジャガイモとダイコンの味噌汁に、スーパーの惣菜コーナーで見つけたポテトサラダとクラゲの酢の物、メイ
ンは冷シャブ。ドレッシングの簡単クッキングレシピに載っていた品とはいえ、致命的失敗をしない程度には父親の料理の腕
は上達している。とはいえ、猫の世話となると食べ物の事を含めて全く判らない。食べさせてはいけない物などを知る所から
のスタートである。
「そ、そこは…、まぁ…、猫の本とかを買って勉強をだね…」
「…図書館で借りてみるか…」
「え?ケイゴ図書館とか行くの?」
「………悪いか?」
凄まれて、「いや別に悪くないよ!?」と慌てて弁解するキヨシ。
「と、とにかくだ。部屋の候補は絞り込んでも良いんじゃないかな?だからケイゴの意見を聞かせて貰ってだね…」
「何でオレの意見なんだ?」
「え?だってあんまり遠くなったら、ケイゴも来るの大変じゃないか?」
「…あ。そうか」
何処でも選べる訳ではない。ペット同居可能という条件に加えて、ケイゴが通い易い範囲内という立地条件も無視できない。
自分が通う事を前提としている部屋選び方針に、ケイゴは異を唱えなかった。良い意味で遠慮がなくなってきたと、キヨシ
は少し満足する。
「ケイゴがよければ、都合をあわせて物件見せて貰いに行こうかなって思うんだけど…。どうかな?」
「地図とかあれば、部屋の中とかはどうでも」
位置だけ判ればいい、と述べる息子。それじゃあつまらないなぁと残念そうな父親。
実は、キヨシはなるべく早く決めてしまいたいと思っている。先日の猫の生首投函事件の事もあるので、コナユキの安全を
確保したいのは勿論、よりセキュリティーがしっかりした所へ越したいとも感じている。
「とりあえず、資料はあるから今夜ちょっと見てよ。ね?」
「………」
明らかに面倒臭そうなケイゴだったが、父が手を合わせて「ね!」と念を押すと、嫌とは言わなかった。
それから数日後。「アンタが決めろよ」の一点張りで乗り気ではなかった息子を何とか説得したキヨシは、候補に上げた部
屋を一緒に見に行くために、ケイゴを伴ってアパートを出た。
「やあ!今日は良い天気だね!」
「………」
「お昼は何を食べようか!」
「………」
テンションが高いキヨシは上機嫌で尻尾を振っているが、ケイゴは無言。うるさい父親が鬱陶しいのか顰め面である。
乗り込んだバス内でもあれこれ話している父をケイゴは徹底的に無視した。人目が恥かしいという、割と有り触れた感覚を
味わえる貴重な体験ではあるが、当然少年には感動も無ければ有り難くもない。
「まずはこのマンションだ!」
「…デケェな…」
親子が最初に足を運んだのは十五階建てのマンション。キヨシが申し込みしていたので係員の説明付きである。
今のアパートと比べるとケイゴの家からも学校からも少し離れてしまうのだが、部屋数が多い上にいずれも広くて開放感が
あり、ペットの入浴も考慮してバスルームも大きい。ベランダには転落防止のためにネットが張られており、万が一隙間など
から出て行ってしまっても、各階から落下防止のネットがせり出している。おまけに一階にはコンビニとクリーニング店が入っ
ており、利便性が高い。
少し離れるし家賃もやや高いが、間取り良し設備良し眺め良し。エントランスには警備員が常駐しているので安全面もバッ
チリ。優良物件と言えた。
「次はここだよ!」
「…声がデケェよ…」
二つめの物件は貸家だった。こちらもキヨシの見学申し込みを受けたオーナーの案内付き。
コテージ風の平屋で、そこそこ広い間取りに加えて部屋数も十分、やはり浴室が広く取られている。敷地に併設されている
入居者専用ドッグランが最大の特徴。キヨシとしてはインテリアコーディネーターとしてのセンスが刺激されるオシャレ物件
である。
ただし、位置的には先のマンションよりも遠くなる。ケイゴは一軒家のような佇まいと住み心地が気になったが、あえて何
も言わなかった。
「ここがラスト!」
ファミレスでの昼食を挟んで最後に訪れた物件は、メゾネットタイプの新築アパート。不動産屋の若い係員がオススメだと
熱く語って案内してくれた。
部屋は長方形でやや幅が狭い間取りになっているが、総面積は二人暮らしに充分。ケイゴの家と学校から最も近く、ペット
用品売り場があるホームセンターが目の前で、チェーンのラーメン屋や最寄のコンビニまで玄関から一分もかからないという
好立地。
利便性という点では他の物件の上をゆく。加えて防犯カメラも設置されているので、安全面でも信頼できそうだった。
候補物件三つの見学を終えた後、せっかくだしここから近いから、とキヨシが先導する形で親子はホームセンターのペット
用品売り場に足を運んだ。
食品、トイレ用品、クッションや爪とぎ縄などを物珍しそうに見て回るシェパード二匹。
「これも猫用なのか?」
足を止めたケイゴがじっと見ている物を、「え?どれどれ?」と後ろから眺めたキヨシは、訝って耳を伏せる。
『ネコバベル…』
声を揃えて商品名を読み上げた親子は、見上げていた。四方に枝葉のような軸を伸ばして聳え立つ、樹木とも塔ともつかな
いデザインの、天を衝くような謎の建造物を。
新商品!分離!合体!お気軽にカスタマイズ!という煽り文句が書かれた看板によれば、ネコチャンの室内運動を助け、好
奇心を満足させる逸品とのこと。展示されている組み上げ例は2メートルを越える高さになっているが、自宅の天井の高さに
あわせて建造可能らしい。固定用の突っ張り軸もついており、安定性も抜群との説明が書いてあるが…。
(コナユキが…、これで遊ぶのか…)
使用例写真を見つめるケイゴが、バベルに挑む…というよりは各所でくつろいでいたりよじ登っていたりする猫達に白猫を
重ねて、モワンモワンと妄想する。
「………」
(あ。尻尾が…)
息子の尾がゆったりフサフサ揺れているのに気付く父。
「引越し先が決まったら、こういうのも調べて選んでみようか」
キヨシの提案に、ケイゴは無言だった。無言だったが…。
(尻尾…)
息子の尾がササササッとスピーディーに揺れ始めたのに気付く父。
結局、引っ越し先が決まるまでは猫用品も選べないので、猫用のササミジャーキーと、キヨシが何食わぬ顔で加えた可愛ら
しいベルト型の首輪だけ買って、親子は引き上げた。
「最後まで絞って残ったのが、今日の三つだったんだけどね!」
バス停からの帰り道、橋に向かって歩き、ハンカチで顔を拭いながらキヨシが述べる。
いずれも甲乙つけ難い。最後に残った三つの物件を自分の目でも見比べたケイゴにも、父が迷って決めかねていた理由が判っ
て来た。
「それにしても、今日は一日良い天気で助かったね!」
「………」
「夕食は何を頼もうか!」
「………」
テンションが高いキヨシは上機嫌で尻尾を振っているが、ケイゴはまたも無言。ずっとうるさかった父に呆れて、やや疲れ
たような顰め面である。
「あ!そうだ!コナユキの意見も聞かなきゃいけないね!」
「…喋らねぇだろ」
呆れ顔で応じたケイゴだが、顔を見ていく事には賛成である。ポケットに手を突っ込み、買って来たササミジャーキーの袋
の感触を確かめて、スキップでも始めそうな父と共に遊歩道へ入った。
「最近晴れが多いからコナユキも過ごし易いだろうね!」
「…ああ」
機嫌の良い父と、むっつりしている息子は、緑も活き活きしている遊歩道を進み…。
「………」
「………」
同時に黙り込んだ。
行く手から歩いて来る人影がある。若い女性と小学校低学年程度に見える男の子、親子と思しきふたりだった。
シェパードの親子の目は、その子供の方が抱えている白い猫に向いている。
「ちゃんとお世話しなきゃダメよ?」
「うん!わかってる!」
男の子に抱っこされて撫でられている仔猫は、コロコロと喉を鳴らして気持ち良さそうに目を閉じている。
ケイゴは一度立ち止まったが、そのまま歩き出した。
キヨシはそんな息子を見遣り、戸惑いながらも追いかける。
母子と父子がすれ違おうとしたその時に、男の子に抱かれていたコナユキがケイゴに気付いた。
「ミィ」
コナユキが鳴く。ケイゴは一瞥を向けたが…。
「………」
少年は何も言わず仏頂面のまま通り過ぎる。それきり、母子と仔猫には目も向けず。
「ミィ?」
コナユキが鳴く。どこか怪訝そうにも聞こえる響きで。それでもケイゴは振り返らない。キヨシはそんな息子を目を丸くし
て見つめる。どうして?と言わんばかりに。
白猫の反応を見て、不思議そうな顔で立ち止まる母親。男の子もモゾモゾする仔猫を抱えたまま、「どうしたの?」と訝る。
「ミィ!ミィ!」
仔猫の声が遠ざかる。立ち止まらず、胸を張り、肩をそびやかして、前だけを見ながら歩く息子の斜め後ろを、結局キヨシ
もまた何も言わず、追いかけるように歩む。
親子連れが見えなくなるほど、遊歩道を奥へ奥へと歩き、声も姿も無くなった頃、やっとケイゴは足を止めた。
「ケイゴ…?」
キヨシは声をかける。立ち尽くす息子の背中に。
「………………」
しばらくの間、ケイゴは黙っていた。微風に尾の毛が揺れるだけで、身じろぎ一つせず、じっと。
「…良いんだよ」
やがて、何を問われたわけでもなかったが、ケイゴは父にそう告げた。
少年がポケットから出した手は、ジャーキーと首輪が入ったペットセンターの袋。
無駄になった品を見下ろしながら、ケイゴは口を開く。
「アイツにも家族ができた。良いんだ。これで…」
アイツに「も」と、ケイゴは言った。
少し寂しくて、そして嬉しくもあって、キヨシは思わず涙ぐんでいた。
それから数日後、コナユキの件はともかくセキュリティ面を考え、キヨシは結局引越しする事に決めた。せっかくだから、
ケイゴが望むなら猫と同居するのも良いと考えている。
見学で最後に赴いたメゾネットタイプのアパートに入居契約したキヨシは、仕事のスケジュール表と顔を突き合わせて引越
し作業の予定を詰めて…。
「お引越しですか?もう?」
「ええ、ペットと住めるタイプも良いかなぁ、と…」
応接室で向き合う和装の牛に、スケジュール合わせのついでに引越しの話題にも触れたキヨシが苦笑い。
「居れば毎日楽しいかなぁって思いまして」
「や。良いのではないでしょうか?小さな同居人に癒しを貰える生活というのも」
レンタカーを借りて、息子にも手伝って貰って、引越し作業をするのだと語るキヨシに、カナメは柔らかな笑みを見せなが
ら、胸の内で呟いた。
(さて…。「最後の仕事」としては悪くない、か…)
そして予定していた引越しの日。事前に進めてきた荷造りも完了し、いよいよ運び出すだけとなったその日の朝…。
「ミョウジンさん!?」
来客を知らせるチャイムに誘われ、荷物を集めて狭苦しくなった玄関へ出たキヨシは、そこに大柄な牛の姿を認めて目を丸
くした。
「や。お手伝いでも、と」
逞しい巨体に作務衣を纏い、襷に鉢巻きという勇ましい格好のカナメは、人手と車を用意してきたと述べてキヨシを驚かせ、
恐縮させる。
「おい。この小せぇ箱、何かに詰めたらダメなのか?」
小箱を片手にリビングから顔を出したケイゴは、父と向き合っている牛に気付くと、少し眉を上げ、それから決まり悪そう
に視線を逃がす。
「…ども…」
「や。お邪魔するよ少年」
にこやかに会釈するカナメだが、ケイゴは正直なところ、この牛への対応を決めかねている。
敵ではないし、一度助けられたし、父の仕事相手。関係する者や接する者が少ない生活を送ってきた少年にとって、この程
度の関係の第三者ですら、どういった態度で接すれば良いのかがよく判らないのである。
「あ。ケイゴそれはね!?ちょっとデリケートだから潰れないように運ばなくちゃいけない物が入っていて…」
「…判った。上に積んどく」
素直に了承して引っ込んだケイゴを見送ると、カナメは小声で囁いた。
「や。随分態度も雰囲気も柔らかくなりましたな」
「でしょう!?」
思い切り反応したキヨシは、デレッデレに緩んだ喜び顔であった。
カナメが引越しの手伝いに連れてきた作業員は全員が獣人で、牛と同じく作務衣姿だった。彼によれば全員素人という話だっ
たが、みな体力があり、妙に手際がよく、息もあっていて、荷運びは異様なほどスムーズに進んだ。
荷物を新居に移動させるだけで一日半がかりの大仕事になると踏んでいたキヨシは、昼前に運び込みが終了して大喜び。カ
ナメを含めて手伝ってくれた皆へ昼食を馳走する事にし、天ぷら蕎麦の出前を注文した。
「や。大して働いておりませんのに、恐縮です」
ケイゴのベッドを分解した骨組みを纏め、ひとりで軽々と左脇に抱え、右肩にはソファーまで担いだカナメが耳を倒す。笑
顔の父とは対照的に、どんなでたらめな腕力してんだよ?と顔を強張らせる息子。
大きな物を大まかに各部屋へ振り分けたら、あとはキヨシとケイゴの仕事。作業も一区切りついところで丁度蕎麦が届いた
ので、荷物が整然と詰まれた新居でお礼振る舞いが始まった。
思い思いに蕎麦を味わう作務衣姿の手伝い人達に、ケイゴはかつてカナメに対して抱いたのと同じ、奇妙な感覚を抱く。
敵ではない。そもそも敵に回してはいけない。…上手く言葉にできないが、おおまかにはそのような感覚である。
「ご近所さんへの引越し蕎麦も、このお店にお願いしようか…」
予想以上に美味と感じて思案するキヨシに、「や。それは良いですな」とカナメも同意。二匹揃って機嫌良さそうに尾が揺
れている。
変な感覚だと、少年は思う。
父の引越しに、手伝いが大勢来て、皆で働いて、一緒に飯を食べて…。野良犬同然だった少年は、こんな事があると考えた
事もなかった。こんな風景を想像した事もなかった。
これはどんな状況で、自分はそれをどう受け止めればいいのか?どう感じているのか?そう考え込んで、天麩羅を摘んだま
ま箸が止まっている少年は…、
「シシトウは苦手ですか?」
かけられた声でふと横を見る。
声をかけてきたのは、茶を淹れて配っていた、引き締まった細身に豊かな被毛でボリュームのアクセントがついた、雪のよ
うに真っ白な狐の青年だった。
「いや。別に…」
何となく狐のオマワリを思い出して顔を顰めるケイゴ。愛想のない少年の反応で気を悪くする事もなく、白狐は上品に微笑
んで「よかった。私は好きなんです、シシトウ」と付け加えると、カナメの方へ歩いて行った。
自分がシシトウを苦手でないと、何故「よかった」になるのだ?とケイゴはその背中を見送る。
「…頭領。隣接棟含めて盗聴器等監視機器の類は見られません。各員引き続き警戒しておりますが、引っ越し作業に向ける興
味以上の注意を払っている目もございません。危険は無い塒かと…」
「ご苦労」
茶を渡しつつ小声で耳打ちした狐へ、カナメは潜めた低い声で応じる。ケイゴもキヨシも、このやり取りにも、手伝い人達
が密やかに新居とその周辺を調査して安全確認している事にも、全く気付かなかった。
「ところでテシロギさん」
狐が下がると、カナメはやや改まった口調で切り出した。
「実は小生、早急に取り掛からねばいけない別件を当てられてしまいまして、こちらの担当から外れる事になりました」
「え!?」
唐突な話で驚くキヨシに、大柄な牛は「や。急な事で申し訳ありません…」と済まなそうな顔になって角の付け根を掻く。
「ここまで来ておきながらの事で、後ろ髪を引かれる思いではありますが…。何分、代役も立てられない上に少々時間がかか
りそうな案件でして、完成までに戻って来られない可能性も高く…。担当にはしっかり引継ぎを致しますが、どうか不義理を
お許し下さい」
「そう…ですか…」
キヨシは明らかに残念がっていた。ビジネスの相手としても、ひとりの大人としても、カナメは誠実で信用できる人柄の男
だった。後任にも出来る者を配置してくれるだろうが、正直に言えば契約の満了まで一緒に仕事をやり終えたかったところで
ある。
「とはいえ、いずれまた戻るつもりではおりますので、テシロギさんにコーディネートして頂いた部屋はそのまま借りておき
ます。内覧会を終えて落ち着いた後にでも、また酒でもご一緒できれば幸いです」
カナメとしても不本意だったのだろう。事情を語って詫びる雄牛の耳は終始倒れていた。
かくして、引越しにかかる比重を最も大きく占めていた荷運びは半日未満でかたが付き、キヨシはケイゴと共に内装整理に
取り掛かった。
その日の内に梱包解きを終えてベッドの組み立てを済ませ、翌日には大きな家具の配置を終え、その翌日からは仕事を終え
て帰宅してからの作業。ケイゴも学校が終わったら新居に寄って、父から言われた単純作業をこなしたりした。
元のアパートで引越しの挨拶を済ませ、新居の近隣住人に引越し蕎麦を振る舞い、三日経つ頃には部屋もコーディネートを
すっかり済まされて、前の部屋とは違う、しかし居心地の良さはそのままの空間ができあがった。
プロなのだなぁと、ケイゴは素直に感心する。箱だらけの時も、荷運び前の状態でも、こんな居心地になるとは想像もでき
なかった。これが父の手腕なのだと認めるしかない。
「それじゃあ!改めまして…乾杯!」
「乾杯」
すっかり気に入ったのか、近くの蕎麦屋の天ザルを夕食に頼んだキヨシはお猪口を掲げ、ケイゴのウーロン茶入りグラスに
チンと合わせる。
今日の酒は祝い酒。封を開けたのはカナメから引っ越し祝いに貰った日本酒で、「熊潰し」という聞いた事の無い銘柄の酒
だが、すっきり辛口でなかなか美味かった。酒香が強いので好みは分かれるところだろうが、魚介や生もの、味の濃い肴には
よく合う。
「そろそろ落ち着いて来たかな?どうかな、このレイアウト?」
「いいんじゃねぇか?居心地良くて」
何気なく問い、予想外に素直な、しかも肯定的な感想を息子から返されたキヨシは…。
「…何だよ?変なツラして」
「え?い、いやぁ!珍しく褒められたなぁって…」
ポカンとしたキヨシのそんな言葉を受けて、ケイゴはムスッとしかめっ面になる。
「別に褒めてねぇよ…!」
どう聞いても褒めていたのだが、素直に認めるのも癪に障るので否定するシェパード。
「そ、そっか~…。あはははは…!」
照れ苦笑いを浮かべて、キヨシはお猪口をクイッと傾けた。
機嫌が良い。嬉しい。新居への引越しを息子と一緒に頑張って、こうして新しい部屋で一緒に過ごしている。少し前まで幾
度も想像し、夢にまで見た眺めがここにある。まだ正式な親権は無いのだが、望んだ以上の形で願いは叶った。
しんみり考えると涙ぐみそうになって、キヨシはまたお猪口をあおる。
やがて蕎麦も片付き、ケイゴにスナック菓子を、自分用の肴に明太子を出して来ると、予想以上に酒が進むようになり、こ
れは少しセーブしないとまずいかも?と思ったキヨシだったが…。
「グコ~…、ブシュ~…」
それから三十分ほど経った頃には、あっさり酔い潰れて寝てしまった。
抑える事を意識したは良かったが、パンチ力を把握する前にパカパカ呑んでしまった分が効き、気が大きくなると同時に判
断力が著しく低下し、飲酒量を把握できないまま一升瓶を半分あけている。
机に突っ伏してゴンゴン鼾をかく父親を呆れ顔で眺めながら、ケイゴは冷蔵庫から出してきた甘い缶コーヒーを啜った。
付けっ放しのテレビを眺め、クイズバラエティー番組の出題について一瞬考え、即座に考えるのを止め、出演者の顔芸を見
比べるだけにする。
父の鼾と、テレビの中から聞こえる笑い声やどよめき、交わされるボケとツッコミ等を聞きながら、少年はフライドポテト
のような形状のカリカリしたジャガイモスナックを齧る。
キヨシの鼾も寝息も、うるさいようであまり気にならない。他者が立てる音を好意的に捉えている自分を、ケイゴは少し意
外に感じた。
(そういえば、アレは何処に置いたんだ?)
唐突に思い出して、ケイゴは部屋を見回した。
確か父のベッドルームには無かった。他に飾る場所となれば、思いつくのはこのリビングか、ややスペースを持て余してい
るキッチンくらいのものだが…。と、少年が探している物は、一枚の写真である。
引越しの荷解きの時に、ケイゴは小さな箱を一つ開けて中を見た。他の箱の中に詰めてもいいかと訊いた際に、キヨシがデ
リケートだからと注意を促した箱を。
あの箱の中にはケース入りのタイピンやカフスなどの小物類と、梱包ビニールに覆われた写真立てが入っていた。
好奇心からビニールを外して中の写真を確認したケイゴは、ハッとさせられた。
見覚えがあるようで、しかし知っているものとは大きく違う写真…。写真の中では、まだ若い頃の母とキヨシが、シェパー
ドの赤ん坊を真ん中にして笑っている…。
家にある写真と同じ物…。だがそれは、それまでケイゴが知らなかった「完全な形」の一枚だった。
その写真は随分色が褪せていた。壊れ易い物に触れるような手つきで、そっと梱包を戻した後で気が付いた。キヨシの手元
には、この一枚しか無かったのだろうと。母もキヨシの写真は処分していたし、父が映っている側は切り取って捨ててしまっ
ていたので、おそらく、親子三人で写った写真は、この世でこの一枚だけなのだろうとも感じた。
大事にしてくれていたのだと、ずっと想ってくれていたのだと、その色褪せた写真は少年に教えてくれた。
ケイゴを部屋に入れるようになってから、キヨシはそれまで飾っていた家族写真をしまっていた。だから引っ越し作業中に
見るまで少年は存在すら知らなかったのだが…。
「…照れ臭かったのか…?」
そう呟いてからケイゴは気付いた。父の寝顔を眺める自分の口元が、やや緩んでいる事に。
まともな意味での「親」という存在を知らなかった少年にとって、ケイゴ本人には自覚がないものの、キヨシは父親である
と同時に「友人」にも近い存在として認識されている。友人をもった事がないケイゴには、この感覚を正しく把握したり説明
したりする事すらできないのだが。
軽く首を振って笑みを消したケイゴは、先に風呂を済ませる事にして、音を立てないように立ち上がった。
前のアパートもそうだったが、新居の脱衣場も風呂も自宅と違って狭苦しくない。寝床は柔らかいし空調も快適で、暑さに
も寒さにも湿気にも悩まされない。
湯船に浸かって足を伸ばし、スムーズな作動音を低く漏らす天井の換気扇を見上げながら、ケイゴは思う。
自分は幸せだ、と。
最初は、週に一日程度だけ、飯を食べるためにキヨシの所へ顔を出す程度だった。
それが、週に二度、三度と頻度が上がり、寝泊りもするようになり、今では自宅よりもキヨシの部屋で過ごす日の方が増え
ている。
キヨシは時折、母は心配しないかと気にする素振りを見せる。そんな時「全然」とそっけなく応じるのがケイゴの常だった。
母親は、あまり家に帰らなくなったケイゴを心配していない。それ以前に、帰っているのかいないのか、帰らない日の頻度
が増しているのかどうかすらも把握できていない。前々から居ても居なくても同じだったので気にしてもいない。
キヨシは「こっちで勉強できるように机も買おうか?」などと言うが、かなり本気のその提案を、ケイゴは全力で拒否した。
遠慮ではない。父の目があるところでは特に勉強したくないのである。勉強が嫌いなのもあるが、父に見られるのは何故か恥
かしい気もするので。
ただ、不足無く、むしろやや過剰気味にケイゴ用の物を揃えてくれるキヨシは、決して言わない事がある。
こっちに住まないか?一緒に暮らさないか?…そんな事を、キヨシは自分に言わない。
不審には思っていない。ただ不思議には感じている。あれだけ賑やかし甘やかしなキヨシがそう提案しない事を。それでも、
自分には考え付かない理由や事情が父にはあるのだろうと、ケイゴは考える。キヨシは自分を裏切らないと信じているから。
身を清め、温まり、タワー型扇風機にも似た獣人用ジェットドライヤーで被毛を乾かし、キヨシが買ってくれた初夏用のパ
ジャマに着替えたケイゴは、リビングに戻り…。
「グシュ~…、スカ~…」
まだ寝ている父を見下ろす。
一度時計を見て、それからまた父を見下ろして、ケイゴは少し考える。季節的に風邪はひかないだろうが、机に突っ伏した
この格好のまま寝ていたら、肩やら首やら痛くなってしまうかもしれない、と。
そのように気を回そうとする自分に少し戸惑ったケイゴだったが、キヨシの肩に手をかけて「おい。起きろ」と揺さぶった。
「なぁ~…にぃ~…?」
酔いも回っているし寝惚けてもいるキヨシの返事は子供のようで、肥っている事もあって何処か幼くも見える顔と相まって、
ケイゴの失笑を誘った。
「布団で寝ろ。そんなカッコだと寝…、何だ?寝…違える?だったか?どっか痛くなんじゃねぇか。たぶん」
「ん~…、わかったぁ~…」
億劫そうにもそもそと動いて、テーブルについた手で体を支え、開いているのかどうかも判らない目をしてフラフラ立ち上
がるキヨシ。
心配になって肩を貸しに入ったケイゴは…。
「わ…」
グランと、腰が抜けたような唐突さで急に揺れたキヨシを支えかねて、諸共に倒れ込む。
ソファーに尻から落ちて、並んで座るような格好になる父子。顔を顰めるケイゴの横で、背もたれに頭を預けて天井を仰ぐ
キヨシは、すぐさままた鼾をかき始めてしまった。
「…バッカみてぇ…」
クックッと、堪え切れなかった笑いがケイゴの口から漏れる。
馬鹿馬鹿しいヘマ。情けない酔っ払い。転んで打った腰。
いつからだろうか?下らない事まで含めて、全部が全部楽しかった。