第十二話

「どう…かな?」

 やや緊張が見られる中年シェパードの問いに、

「………」

 少年シェパードは無言だった。

 キヨシとケイゴが居るのは畳の匂いが香る和室…旅館の客間である。

 遡る事一週間前。一学期の終業式が済んだ夜にキヨシは息子に訊いてみた。夏休み中、何処かへ旅行に行ってみないか?と。

 遊園地。動物園。水族館。興味がある場所へ何処へでも連れて行くけれど…。と言ったキヨシに、しばらく考えた後でケイ

ゴが述べたのは、キヨシが手がけた部屋が見られる所、という要望だった。

 手がけるのはオフィスや病院、企業の客間などが多かったキヨシは少し困った。そもそも蒼森に長期赴任していたので、こ

れまでの仕事の成果はだいたい向こう側である。

 そうして選んだのがここ、古くから峠越えの旅籠、そして湯治場としても栄えた山間の温泉郷に建つ旅館だった。

 苔むした巨岩がゴロゴロし、立派な巨木が何本も天へ伸び上がる、水と緑が豊かな山中に聳え立つその旅館は戦国時代の城

のように重厚で、古くから旅籠として知られたという老舗の名に恥じない立派さ。

 岩国屋旅館という名のここは、かつてリフォームが行なわれた際に若き日のキヨシもプランナーとして参加した物件である。

 無言で部屋の中を見て回るケイゴを目で追いながら、今見返すと発想が若いなぁと、我が事ながら感じるキヨシ。センスが

枯渇しないよう、常にアイディアとインスピレーションを求めてはいるが、当時の感性でなければやろうと思わなかっただろ

うという仕事や手法は当然ある。この旅館も部分的にそういう所があった。

(謎の過剰な間接照明…。ムード最優先での設置か…。若かったなぁ私…)

 独自色の模索に一生懸命で、やたらと間接照明に拘っていた時期の事を思い出すキヨシ。懐かしいし気恥ずかしい。

 一方ケイゴは生まれて初めての旅館宿泊。部屋の間取りから雰囲気、アメニティや調度類まで、何もかもが物珍しかった。

 客室は踏込…いわゆる玄関の先に次の間があり、左手側のドアの先にトイレと洗面所、狭いバスルームが配置され、右手側

には冷蔵庫と小さな食器棚が置かれている。次の間から襖で隔てられた先には六畳和室が縦に二間続いており、内側にあたる

片方が布団を敷くための寝室で、もう片方は大きな卓が置かれた居間。居間の先が小さなテーブルを挟んで椅子が向き合う広

縁になり、一面の窓から外の景色を遠方まで望める。

 天候に恵まれたと、キヨシは窓の外を眺める。真夏の陽射しで色付いた緑の山々の連なりは見事で、眺めていると目の奥が

ほぐされて疲れが抜けてゆくような感覚があった。緑の濃さや蝉の大合唱、山々に漲る夏の生命力は窓ガラスを通してさえ感

じられる。

「…これ。なんかイイな」

 ケイゴがポツリと呟いて、キヨシは「え!?どれどれ!?」と振り向いた。

 少年が見ているのは寝室となる部屋の襖の横…次の間と和室の間の壁だった。次の間側から見れば冷蔵庫の上に当たる胸高

の位置に障子戸の小窓があるのだが、窓自体の形はやや欠けた円になっている。障子窓を閉めていると、次の間と踏込に灯る

天井の照明が更待月の形に切り取られて浮かび上がる構造だった。

「ああ、そこ」

 歩み寄ったキヨシは、耳を倒して障子を開け閉めしている息子の後ろから説明する。この階の客間の名前は全て月の状態に

因んだ物になっているのだが、その由来が一部屋毎に違うこの明り取りの形状。なお、朔月の間に至っては障子戸こそあるが

明り取りの穴が空いていないという徹底ぶり。実用性はそこそこに、より諧謔味へ目を向けた物となっていた。

「上の欄間にはね、全部の月が彫られているんだ」

 言われて襖の上の欄間を見上げたケイゴは、満月を中心にして月の満ち欠けの姿を左右にずらりと並べた穴に気付く。ふと

見れば、天井の照明側面を覆う木枠にも更待月の彫り抜きがあった。

「下の階はまた違って、客間は花の名前。各花に因んだ透かし彫りの欄間や照明カバーが設えてあるんだ。その下の階は鳥の

名前でね、こっちもそれぞれの鳥をモチーフにしたインテリアになっているんだよ」

「猫は?」

「え?」

「…ねぇのか」

「って、「猫の間」?それは…、うん。まぁ、無いねぇ…」

 やがて部屋係の女性が砕いた氷を浮かべた抹茶と茶菓子を運んで来ると、親子は卓を挟んで座椅子につき、館内の説明を受

け、夕食の時刻と貸切風呂の利用について問われた。

 館内に三つある貸切風呂は昨年オープンしたばかりの新しい設備。時間予約制になっており、日帰り客からは特別料金を頂

戴するが、宿泊客は一度目を無料で使用できるシステム。ケイゴは言われている事がチンプンカンプンだったので、息子から

一任されたキヨシが露天風呂を選び、それならば明るい内の方がいいだろうと、食事を午後七時半に設定し、その前の時間…

午後六時からの45分間を予約する。

「よく旅行するのか?」

「え?いやぁ、殆どしないよ」

 客室係が退室した後、冷えた抹茶を飲みながらケイゴが尋ね、キヨシは首を横に振る。新婚旅行と職場旅行を除くと、遠出

は仕事の出張程度だった。

「だからまぁ、ロングドライブは新鮮だったよ」

 そう言って笑うキヨシは、先ほどから無自覚に肩を上げ下げしていた。しばし前からその様子に気付いていたケイゴは、「

肩とか疲れてんだろ?運転で」と視線をキヨシの肩に向ける。

 キヨシは今回の旅行にあたり軽自動車を購入した。欲しいかも?と思いながらもいろいろあって延びに延びていたが、後回

しにしていたおかげでケイゴを伴って車を選ぶ事ができた。尤も、息子は車にも詳しくないので退屈そうに眺めていただけ、

意見を訊いても「好きにすればいいだろ」とつれない反応だったが…。

 最終的にキヨシが選んだのは、可愛らしいデザインの黄色い軽。一般的なトールワゴンタイプで、肥っているキヨシには運

転席が若干狭そうにも見えた。

 ここへ来るまでも運転姿勢が少し窮屈そうだったので、肩が凝るのも仕方がないだろうとケイゴは考える。

 息子がおもむろに立ち上がって机を回り込み、背後に立つと、「え?いや、いいよ!旅行に来てまでそんな…」とキヨシは

遠慮したが、

「いいから」

 ケイゴは構わず肉付きのいい父の肩を掴み、ギュッと力を込める。

「あぐあ…!」

 力加減が強過ぎる、しかし我慢できない痛みでもないケイゴの雑で乱暴な肩揉みで、キヨシの口から声が漏れた。

 小遣いの対価である労働。ケイゴはそう表現する。

 肩揉みも肩叩きも全くして来なかった少年は、最初はそれこそ、まるで贅肉も筋肉もまとめて骨組みから引き剥がそうとで

もしているかのような力の入れ具合で掴んで父に悲鳴を上げさせた。それでも、こんなに力持ちになって…!と、痛みと感動

半々の涙目になるのだからキヨシも相当ポジティブである。


 一息入れたその後で、親子は備え付けの浴衣に着替えはじめた。しかし…。

「えぇと…。何だいケイゴ?怖い顔して…」

 向けられる鋭い視線で落ち着かないキヨシが、パンツ一丁で着替えを中断。ケイゴは半裸の父をじっと凝視している。

 キヨシは視線を下げる。爪先は見えない。出っ張った腹に隠れて。

(…もしかして…。体型?不摂生だとか?そういう事を怒って…!?)

 お叱りの言葉でも飛んでくるのかと身構えたキヨシだったが…。

「…どこまで脱いで、どう着るんだコレ?」

 浴衣も生まれて初めてのケイゴは、着方が判らなくて父の様子をじっと見つめていただけだった。ホッとしたキヨシは「あ、

ああ。とりあえずパンツだけになって…」と着用の手伝いを始めた。

 少年ながらケイゴはガッシリ骨太で筋肉質。本人はいまひとつ落ち着かないようだが、浴衣姿になっても若々しい逞しさが

窺えて、キヨシは思わず感嘆の声を漏らした。

「いいね。格好良いよ」

「…そうか」

 すぐに脱げてしまいそうだしスカスカしているしどうにも具合が妙だ、と感じているケイゴは、

「………」

 着替える父を見て思った。似合っている、と。

 若い頃はともかく、体も緩んで恰幅がよくなったキヨシは、身幅と厚みがあるせいで手足が短く錯覚される。そのせいで良

くも悪くも日本人体型にマッチした浴衣姿に見えた。

 温泉旅館におけるくつろぎの正装に着替えたところで、キヨシは入浴を見越して軽くビールを楽しみ、ケイゴは部屋に備え

付けてあった木材のパズルと睨めっこし、地元と違うテレビ局の番組を流しながらしばらくのんびりした。

 会話は途切れがちで、道中の感想を口にしたり、夕食の期待を述べたりする程度。しかし間が持たないとも居心地が悪いと

も感じない。会話は切れてもお互い確かにそこに居て、それが普通という自然さがある。

 そうして日も傾いた頃、貸切風呂を予約していた時刻が近付くと、親子はフロントで専用キーを借りて庭園に出て、敷かれ

た飛び石と案内表示に導かれて露天風呂へ向かった。

 大浴場などとは逆方向、庭園の奥へ奥へ、敷地の端へ端へと歩いた先にあったのは、東屋風の脱衣所と風呂がぐるりと板塀

で隔離された立派な露天風呂だった。

 ファミリー向けの規模で同時に六人程度は入れそうな露天風呂は、ヒョウタン型の大きな湯船で、広い洗い場と、ゴツゴツ

した岩に囲まれたいかにも温泉というレイアウト。飲泉も可能な塩化物泉で、湯は影になった部分がやや黒っぽくも見える、

透明さに深さが加わったナトリウム泉である。

 脱衣所を抜けたケイゴは湯船を見下ろすと、途方に暮れた顔で父を振り返る。

「いや~…、ここまで立派だとは思っていなかったよ」

 キヨシにもこれは予想以上だったようで、驚きながら笑っていた。

 温泉に限らず浴場などの共用の風呂をろくに使った事が無かったケイゴは、父に倣って洗い場で並び、まず体を流し始める。

 並ぶ二頭の体型はかなり違う。

 キヨシは贅肉過多で、風呂椅子に座って曲げた太腿の付け根に腹の土手肉が乗る体型。後ろから見ても腰周りの肉が横に出

ている。元来骨太で肩幅もあるのだが、度が過ぎた中年肥りで腹回りを中心に豊満になり過ぎてしまったので、逞しい印象は

ない。

 対してケイゴは筋肉質で、腰の上でウエストが適度にくびれ、引き締まっている。体を洗うその背中では、コワい被毛に肩

甲骨や背筋の動きが浮き出て見える。栄養状況も改善されたせいか毛艶も良くなり、若々しい生命力が四肢の隅々まで溢れん

ばかり。

 そんなにも違うシルエットでも、並んでいる裸の後姿を見比べれば誰でもひと目で親子だと判るだろう。二頭は毛色も模様

もそっくりだから。

 身を清め終えた二頭は並んで湯船に入る。被毛に染みて肌を刺激する塩化物泉に、ケイゴは戸惑いと困惑の表情を浮かべた。

「あぁ~…っ!いい湯だな!」

 肩まで浸かり、中年そのものの声とセリフを吐き、岩に背を預けて頭にタオルを乗せたキヨシに、「…なぁ」と、腰まで浸

かったところで止まったケイゴが尋ねる。

「何で変な感触してんだ?この風呂の湯…」

 疑問を投げかける息子。外傷にも効く癒しの泉だが、慣れない物を前に野生の警戒心が蘇ったのか、肩まで浸かろうとしな

いケイゴ。キヨシは苦笑いしながら心配しなくても大丈夫だと告げて、簡単にこの温泉の説明をする。

 のぼせてしまわないように腰を上げ、岩に座って脚だけ浸して話すキヨシと、時折湯を手で掬い、感触を確かめるケイゴ。

 父の説明を聞いて納得したらしい少年はようやく肩まで浸かり、キヨシも一緒に再び浸かり、湯は岩の間から贅沢に溢れて、

香り高く洗い場を濡らした。

 湯涼みしながらたっぷり45分楽しんで、初めての温泉はどうだったかと父に問われると、

「…嫌いじゃねぇかもな」

 ケイゴはそう答えて、「好き探し」のページに一つ加えてみた。「父と来た温泉」を。


 鍵をフロントに返して、湯上り処でレモン水を飲みながら湯涼みして、庭園を散歩したらもう食事時。

 夕食は国産牛、地鶏、川魚などの炭火焼きをメインにした会席で、親子には料亭の囲炉裏個室席が用意された。ふたりで挟

むに丁度良いテーブル。白く赤く柔らかに燻る炭火。真夏にも関わらず火を前にしても苦しくない冷房。至れり尽くせり具合

に唖然とするケイゴは、

「息子様には、季節のドリンクをお持ちしましょうか?」

 髪を短く刈り揃えた、小ざっぱりして清潔感がある優しげな顔の中年に問われた。甲斐甲斐しく働く給仕に混じっている上

に、着用している衣類も男性職員の割烹用作務衣だったのでケイゴは気付けなかったが、宿の若旦那である。

「どうかなケイゴ?せっかくだからお願いしてみる?」

 キヨシはそう促しつつ、料理にあいそうな、できれば辛口気味でサラリとした飲み口の日本酒は無いかと訊いてみた。

「では、加賀鳶、黒帯などいかがでしょう?」

「黒帯…ですか?」

 そちらは初めて聞いたとキヨシが興味を示すと、一風変わった混合酒なのだと若旦那は説明してくれた。

「ブレンドされる事で甘味を微かに残しつつ辛口に仕上がっています。柔剛兼ね備えた面白みのあるお酒です」

「へぇ…。もしかして、柔道とかやられていたんですか?」

 物言いから気になったキヨシに問われると、若旦那は微苦笑した。「からっきしでしたが、息子まで柔道馬鹿になってしま

いました」と。

 キヨシは飲み物をそちらに決め、ケイゴは葡萄…ルビーロマンのゼリー入りジュースを頼み、小皿の群れから始まる会席料

理に取り掛かった。

 コースで運ばれる料理に加え、自分達のペースで串物などの炭火焼を楽しむ、ゆったりとした夕食。食材をそのまま楽しむ

ような囲炉裏焼きとは対照的に、料理長の腕が相当な物のようで、見慣れた品まで味付けに工夫がされており、味の強弱、辛

さしょっぱさ、変化をつけて飽きさせない。

 個室で舌鼓を打つ夕餉は和やかで、穏やかで、最初は落ち着かなかったケイゴも料理に夢中になっている内に気にならなく

なって…。

 世の中にはこんな物もある。こんな事もある。生きるだけで精一杯で、他に目を向ける余裕も想像を巡らすゆとりも無かっ

た少年は、父と「出会って」から広がり始めた世界に驚いてばかりで…。

(こんな顔をするなら、たまに贅沢もいいかな)

 ほろ酔い気分のキヨシは、創作料理の一鉢毎に耳を立てて凝視し、味わって驚く息子を眺めながら、柔らかく微笑んでいた。

 また一つ願いが叶ったと、満ち足りた気分で。


「ただいまぁ~」

「…ただいま、なのか?」

 食事を終えて客間に戻ると、食事中に布団が敷かれて寝支度が整えられていた。

 気分良く飲み過ぎたようでややフラつき気味なキヨシは、ケイゴに肩を借りて帰ってくるなり、布団を目にして「あ~、ふ

とんふとん~…」とそちらへ行こうとする。

「ったく…」

 引っ張られる格好で、しかし付き合って支えたまま、飲み過ぎたキヨシと寝室へ入ったケイゴは、肥った体を苦労して折り

曲げ、ゴロンと転げて横になった父を見下ろす。

「ちょっとだけ~…」

「いいから寝ろ」

 ショボショボの目を頑張って開き、キヨシは「でもねぇ…」と息子へ言う。

「大浴場も…、まだだし…」

「酔っ払ってる時は入るなとか、注意が書いてあっただろ」

「あ~…、そ~…だった…」

 思い出して残念そうに呟いたキヨシの横に腰を下ろし、目線を近づけてケイゴは言う。

「朝でいいだろ?起きてからでも」

 返事は無かった。それもそうかぁ、というような表情で、緩みきった笑みを浮かべたキヨシは、抵抗をやめて瞼をおろし、

そのままクーカー寝息を立て始める。

「…ったく…」

 微苦笑を浮かべたケイゴは、父の隣で自らもゴロンと仰向けになった。

 眠るにはまだ早い時刻。夢うつつで寝ぼけるのも良いだろうと、灯りをつけたまま目を閉じる。

 満腹で、火照った体に布団の冷たさが心地良くて、すぐにうとうとし始めて…。

「………」

 衣擦れの音と、左側の感触で意識を覚醒させられたケイゴは、起きる原因になった物に目を向けた。

 寝返りをうったキヨシがケイゴにぶつかって、左腕がその脇腹の下敷きにされている。重いが、痛くはないし苦しくもない。

たっぷりついた贅肉が柔らか過ぎて、圧迫されるというよりは埋まっているような具合。

 自由な右手を伸ばして、夏用浴衣の薄い生地越しに腹肉をプニュプニュつついてやったが、起きる気配は無い。続いて頬も

つついてやったが、目を開ける兆しもない。叩けば流石に起きるだろうが…。

(まぁ…、いいか…)

 左手だけやけに蒸し暑いが、ケイゴは二つの意味で目を瞑った。






 それは、一夏の思い出。

 少年がそれまでの人生で、初めて楽しいと思えた夏の、輝かしい無数の出来事。

 太陽が眩しくて、風が熱くて、蝉がうるさくて、アスファルトが踊っていて、何もかもそれまでと同じなのに、何もかもが

違って見えた夏。

 温泉に行った。山に行った。海に行った。映画を観た。

 それは、特別な夏だった。

 生まれて初めて楽しいと感じた長い休み。

 独りぼっちではなくなった最初の夏休み。

 再会…ケイゴにとっては「出会い」に等しい巡り合いから四ヶ月半。

 梅雨から夏の間に思い出が集中しているからなのか、後になって少年がこの頃を思い出す時、記憶の中の父はいつも暑そう

にしていた。






 その日は、雨が降っていた。

 その夏には珍しい、まとまった量の雨が。

 父の部屋の電話を取り、短縮ダイヤルで呼び出しながら、ケイゴは分厚い雲で妙に暗い夕刻の景色を窓から眺める。

『はいもしもし。ケイゴかい?』

「ああ。そろそろ出る」

『判った。場所は大丈夫?雨も降っているんだから、タクシーを使うんだよ?』

「判ってる」

『あ、ケイゴ?』

「ん?」

 電話の向こうでキヨシは一瞬逡巡し…。

『いいや!また後で!』

 首を傾げたケイゴは切れた電話を戻し、父から貰った傘を掴んで玄関から出た。

 雨はもう、嫌いではない。



「これで…、一段落だな」

「有り難うございます!」

 報告書を上司の所へ持って行ったキヨシは、決済印を書類に貰って頭を下げた。

「いよいよ来週オープンか…。長らくご苦労だったなぁ。ミョウジングループの覚えもいいだろう」

 カナメが去り担当引継ぎがなされた後も、プロジェクトはつつがなく進行した。キヨシが主任となって引っ張ってきた仕事

も、来週のお披露目をもってようやく一区切りとなる。

 ミョウジングループの覚えも良いだろうと、アイハラは上機嫌だった。

「で、また任せたい案件がいくつか出てきてだな…」

「すぐですか!?」

 流石に目を剥いたキヨシに、アイハラは笑って言った。

「いやいや、少しは緩めて時間をあけてからの話だ。そこまで酷使はしないぞ?それに…」

 ニヤリと笑う上司。

「子供の事もあるだろう?これから大変になるんだ、休みはいつでも取れるようにしておかないとな」

「…有り難うございます」

 微苦笑するキヨシ。ケイゴの親権についていろいろ考えている事を、上司はそれとなくだが察していた。詳しい事情は訊こ

うとしなかったが、酒のグチ語りでおおまかには察している。

「それじゃあ、お先します」

「おう、お疲れさん」

 退室するキヨシに、アイハラはふと思い出したように声をかけた。

「落ち着いたら、息子の顔を見せてくれよ?何なら飲み会に連れて来い」

「未成年ですよ!」

 笑って応じてドアを閉め、キヨシは廊下を独りで歩む。

(いよいよ、か…)

 今日はケイゴが十五歳になる誕生日。お祝いにレストランを予約したのは、社会勉強の一環として、こういう物もあるのだ

と、また一つ知って貰いたかったから。

 酒を飲むので今日は自家用車出勤ではない。職場から直接レストランへ向かう事になる。

(…ケイゴ、どんな顔をするかな…)

 今日こそ、キヨシはケイゴに話をするつもりだった。

 自分の「子供」にならないか?と…。

 親権選択はケイゴに委ねる。勿論、今のままで良いと言われる可能性もある。だが、ケイゴさえ首を縦に振ってくれたなら、

その時は…。

(名実共に、「親子」に…)


「あ~…、この先冠水してますねぇ。迂回指示が出てますよ。レストランにだったら、そこらから歩いた方が早いかもしれま

せんね」

 タクシーの運転手にそう言われて、キヨシは進行方向を見遣った。

 フルスピードで往復するワイパーが、強雨から豪雨の間を行ったり来たりする雨に必死に抵抗している。水を掃いた傍から

すぐさま大粒の雨に曇らされるフロントガラスは、時間的には濃過ぎる夕闇に列を作ったテールランプで乱反射していた。降

りしきる雨のあまりの強さで雨霧が立ち、しぶきと混じって足元を染めている。

「そうですね…」

 時間も時間だからと、キヨシは運転手に断りを入れて、信号で止まったタイミングで降車させて貰った。

 傘を広げて踏んだ地面がビシャリと鳴る。煉瓦風の石畳が敷かれた歩道にまで、車道の轍からタイヤに押し出された雨水が

波になって上がって来る。足を濡らさないよう気をつける歩行者も居れば、既に手遅れとなって開き直っている者もある。

(よりによって今日こんなに降らなくても…)

 キヨシは恨めしげに曇天を見上げる。傘を差してなお吹き込む雨に、ワイシャツもズボンも濡れ始めていた。急いで車道と

逆側に寄り、並ぶ建物の壁や軒でいくらかでも雨を防いで、歩行者専用アーケードを目指す。ブロックの反対角にあるレスト

ランへのショートカットになるだけでなく、屋根もあるし車道と隣接しないので濡れる心配も無い。

 気が急いでいても、雨が強く、歩道をゆく歩行者達も傘をさして耐えながら移動しているので、そう急げない。

 しかしそう距離も無い。もう少しの我慢。あそこを抜けた先では、きっともう着いているだろう息子が待っている。

(あそこまで行けば安心だ…!)

 あと十数メートルでアーケード入り口。濡れていないかなと、キヨシはバッグの中身を心配する。

 ケイゴへの誕生日プレゼントは、きっと年頃の子供なら喜ぶだろう、様々な有名映画をモチーフにした巨大アミューズメン

トの2デイチケット。息子は一緒に写真を撮る事を嫌がるが、ああいった所での記念撮影なら応じてくれるかもしれないと考

えて、キヨシは口元を緩める。

 親子になれたらやりたい事がたくさんある。

 温泉にも行った。海にも行った。山にも行った。もっと、もっともっと、息子と思い出を作りたい。恵まれなかった少年に、

これまでを取り戻すほどの楽しく嬉しく驚きに満ちた経験をさせたい。

 苗字はどうしよう?自分と同じ苗字になるのは嫌だろうか?それに、途中で変わるとあれこれクラスメートから詮索されて

嫌かもしれないし、変えるとしても時期を考えた方がいいかもしれない。

 ケイゴの名義の通帳も作ろう。生まれた時に作ったように、もう一度息子の貯蓄をしよう。

 携帯電話も買おう。今日のような待ち合わせの時にはあった方が助かるし、残業の連絡も入れ易くなる。

 クリスマスはどうしようか?大晦日は?初詣はどこか有名な神社で人波に揉まれてみるのもいい。受験勉強も進学もあるが、

高校生活が楽しい物になるようサポートして行きたい。

 そうだ。進学祝いには何を用意しようか…。

(大丈夫。私達はきっと親子になれる…!)

 鞄を胸に抱えて、キヨシは前を向き…、

「はやくかえんないとシロかわいそう!さびしいってないてるかも!」

「そうね!急いで…、ああもう!ケイゴ、水溜りを踏まないの!」

「ダイジョブ!ナガグツだもん!」

 おや?と耳を立てた。

 目の前には人間の母子連れ。若い母親と小学校低学年程度に見える男の子。どうやら子供の方は「ケイゴ」というらしい。

「早く行ってあげないと、お父さんも駐車場で暇してるだろうし…」

「パパはおとなだからがまんできるでしょ?シロはこどもだから…」

 お父さんは割と軽んじられた扱いだなぁと、キヨシは雨音に混じって漏れ聞こえる会話内容に微苦笑する。

 そして想像した。

 もしも、何も間違えなかったのなら?

 自分も、彼女も、何も誤らずに夫婦のままだったら?

 もしそうだったなら、ケイゴは最初から何の苦労も強いられずに済んだはずで…。

(…うん。絶対に幸せにしなくちゃいけない。「そうなるはずだった」当たり前の幸せを、ケイゴに…)

 改めて胸に銘じるキヨシの思考は、しかし途中で打ち切られた。

 ブレーキ音が派手に響いた。

 反射的に車道へ、少し先の交差点へ、キヨシも他の歩行者も視線を向ける。

 渋滞にイラついていたのか、それで判断を誤ったのか、変わる間際の信号を見てアクセルを踏み、しかしやはり無理だと思

い直してブレーキを踏んだ自動車が、一台あった。

 その急ブレーキに、後続のトラックが対応できなかった。前の車が交差点を突っ切るのだろうと考え、停止線まで進むつも

りになったトラックのドライバーは、慌ててブレーキを踏みこんだが間に合わなかった。その結果、車は追突されて交差点へ

突き出された。信号が切り替わり、交差する車線の車が信号の表示が青に変わったのを見て動き出した、その一拍後のタイミ

ングで。

 急に押し出されて来た車を避けようと、交差する車線の先頭に居たワゴン車が急ハンドルを切った。押し出されていた車と

の接触を何とか避け、しかしそのワゴンは冠水した路面にタイヤを取られ、滑走した。避けた角度のまま、危うい所で停車で

きた対向車線の先頭車両の鼻先を掠めるようにして、歩道めがけて真っ直ぐに。

 悲鳴が聞こえた。怒号が聞こえた。目前の、アーケード入り口角にある店めがけて突っ込んでくるワゴンを、キヨシは立ち

尽くして見つめ…。

(あ…)

 そうして気付いた。

 自分は大丈夫だと。

 同時に気が付いた。

 目前に居る母子に。

 母親は、ビックリしたまま硬直している我が子を、反射的に屈んで抱き締めた。

 そうする母親を見ながら、キヨシは直感していた。ワゴン車が彼らに直撃するだろう、と。

(ケイゴ…)

 その子は、息子と同じ名前だった。

 カッと体が火照っていた。脅えと恐怖と焦りが混在する胸の動悸と、血流が加速するような感覚で、肌がむず痒かった。

 モノトーンに染まった視界の中で、両手が前へ伸びてゆく。

 キヨシは傘もバッグも放り出して、前へ踏み出し、我が子を抱える母親の背を…。




「いやー、ビックリだったよ!」

 少し遅刻した父を、息子はムスッとした顔で見つめる。

「目の前で事故があってね!ちょっと違っていたらお父さんも大怪我だった!雨の日は車じゃなくても気をつけないといけな

いね…!」

 ケイゴを促して、キヨシはレストランのエントランスに入る。

 事故のことを話しながらカウンターの前を通り、丸いテーブルを囲んで椅子が配された席が、広い間を取って並ぶホールの

ような広い空間へ。

 壁の燭台型照明や煌びやかなシャンデリアが優しく光を落とす、白く清潔なクロスがかけられた丸いテーブルを挟んで、「

緊張してる?」と問うと、息子はますます不機嫌そうな顔になった。別に、というところらしい。

「あまり緊張しなくていいよ?今日は…、うん。あんまり混んでいないようだし…」

 金曜日なのに意外と席がガラガラだなと、キヨシは少し不思議に感じた。人気のレストランだと聞いていたのに、と。

 係員の姿も見えない。コースで頼んでいるので料理を注文する必要は無いのだが、飲み物のオーダーだけはしなければなら

ない。

 係が来るまで待つ事にしたキヨシは、

(どのタイミングで話をしようかな…)

 息子への提案の切り出し方について考え、それより先にまずはプレゼントからだろうと思い直して…。

(あれ?)

 眉根を寄せて困惑した。

 荷物が無い。

 そういえば傘を預けた記憶もない。


 鞄は…。



 何処に…。




 ああ、そう。





 放り出したんだった。























































 雨が降っている。

 少年は待っている。

 約束の時間まで僅か。

 もうすぐ父も来るはず。

 雨に濡れたタクシーが出入りするレストラン入り口前、張り出した立派で広い屋根に護られたケイゴは、ヴェールのように

も見える土砂降りを眺めていた。

 予約者の名を告げたら、ロビー内に入って待つよう勧められたのだが、ケイゴは父を入り口で待つ事にした。

 雨が降る。

 サァサァと涼しげな音…ではない。

 ザァザァと激しい音…でもない。

 緩急も強弱もない、途切れ目のない一繋がりの音で。

 じっと待つケイゴの横で、家族連れや恋人同士が次々と、窓の中がキラキラ光って見えるレストランへ入ってゆく。

(遅ぇな…)

 雨が降っている。

 少年は待っている。

 約束の時間は過ぎた。

 父はまだ来てくれない。

 少年は信じて待っている。






 目を開けると、キラキラした物が周辺に散らばっていた。

 ショーウィンドウのガラスが砕けて散らばっているのだと、しばらく判らなかった。

 突っ込んで来たワゴンのフロントが目の前にある。

 ワゴンにぶつかられて、ショーウィンドウを突き破って、そのまま一緒に店内に入ったのだと、キヨシは理解した。

(運が良かった…!)

 その店は服屋だった。尻餅をつく格好で座り込んでいるキヨシの背中とレジカウンターの間には、ラックに纏めて吊るされ

た婦人服が入っていた。

(ああ良かった~!痛くないし、そんなに酷い怪我はしていないな)

 酷い耳鳴りがして音が良く聞こえず、衝撃で体が痺れているようにも感じるが、何処も痛くはない。

(でも、服はすっかり濡れてるし、靴が何処かに行ってる…。流石にこの格好じゃレストランには入れないぞ?一度帰って着

替えないと…)

 そしてふと、周囲の暗さに気が付いた。

(あれ…。事故のせいで故障した?お店の灯りが消えてる?)

 だがそれよりも、もしかしてこれは事故処理に来た警察に当事者として状況を訊かれる羽目になるのでは?と心配になった。

(レストランに電話して、少し遅れるって連絡を入れておかないと…。ケイゴが先に着いているだろうし、お店のひとに伝言

をお願いしなくちゃ。…こういう時には不便だし、やっぱりケイゴにも携帯を持たせておくべきだな…。こんな時に限って遅

刻だなんて、ケイゴ怒るだろうなぁ…)

 薄暗い店内の向こう、破れたショーウィンドウの大穴の向こうに人だかりが見えた。

(あ。あの子とお母さん…。良かった。あっちも無事だったんだ)

 咄嗟だったが上出来だったのではないだろうかと、どんどん暗くなる中でキヨシは満足した。同時に、たぶんケイゴは褒め

ないだろうな、怒るかもな、と思いもしたが。

(怒っているケイゴに、何て切り出せばいいだろう?プレゼントで機嫌が直るかな?)

 そろそろ立ち上がらなければ。ケイゴを混乱させないように伝える話し方も考えなければ。

 なのに、何故か自分は座りこんだままで。

 中年シェパードの顎が、ゆっくりと下がる。

 微笑しているような、穏やかな表情のままで。

 さっきの母子が助かっていた事には気が付いた。

 だが自分が助かっていない事には気付けなかった。

 持ち前のポジティブさは、最期までそのままだった。

「…はな…し……を……さ…せて……くれる…かい…?」

 静かに、途切れ途切れに、最後の一呼吸が成した言葉はしかし、告げるべき相手へ届く事は永久にない。

 それきり、キヨシは二度と動かなかった。






「…………だと思ったんですよ。…………しかし、被害者の免許証などの苗字は違ってい…………」

 同僚の声も話半分に聞き流し、雨天に痛む古傷を抱えた足を引き摺って、狐の刑事は足早に廊下を進む。

「黙り込んで…………何を訊いても答えな…………。…………タナベさんが見覚えがあると言ってい…………それでスズキさ

んの…………」

 硬質な靴音が反響する廊下を、マサタカは嫌な汗をかきながら進む。

「少年課の資料だと父親が居ない母子家庭と…………それで父親だったんじゃないかって…………あ。その先で…」

 角を曲がり、足を止め、絶句する狐。

 そこに、びしょ濡れの服のまま、肩からタオルをかけられた少年が居た。

(オシタリ…!)

 青褪めるマサタカ。まさかとは思ったが、予想が外れて欲しいという願いは叶わなかった。

 シェパードの少年は脱力し切ってベンチに座っている。軽く背中を曲げて、膝に肘を乗せて、身を乗り出すようにして、正

面の、何も無い壁をぼんやり眺めている。

「………オシタリ…」

 歩み寄ったマサタカが声を掛けても、ケイゴは無反応だった。

 何処も見ていない虚ろな目。少し開いた口。椅子の上に弧を描く尾。

 皮肉な事に、呆けたその顔はマサタカがよく知っているケイゴの顔よりも、よほど歳相応の顔に見えた。困り果て、立ち尽

くし、途方にくれた、迷子の少年の顔に…。

 同僚に片手を挙げて、引き受けると意思表示して下がらせると、マサタカはケイゴの隣に腰を下ろす。

 事故現場に駆けつけた救急隊員のひとりが、着信音に気付いて被害者の物と思われる携帯を見つけた。持ち物類も吹き飛ん

で、身元も判明していない被害者の手掛かり…。隊員は反射的に電話を取った。

 それが、少年が父の身に何が起こったのか知った経緯。

(重軽傷者六名…。死者一名…)

 項垂れて、マサタカは歯を噛み締めた。

 事故状況や目撃者の証言から、被害者は親子連れを庇った事が判っている。

 死者数を二から一に変える。マサタカも敬服するしかないその偉業の代償は、しかし…。

「…涙」

 十数分も経った頃、ケイゴがポツリと声を発した。

 マサタカが顔を向け、ケイゴは続ける。

「出て来ねぇんだ。涙」

「…オシタリ…」

 マサタカには、かけるべき言葉を見つける事ができなかった。

 お前のお父さんは立派な事をした。

 例えばそんな称える言葉であろうとも、おそらくケイゴにとっては何の意味も無い。

「オレ…。今、どんな気持ちなんだろな…」

 いつも「アンタ」とだけ呼んでいた。

 たった一度も父と呼んでいなかった。

 今はその事が無性に引っ掛っていた。

「…「親父」とは…、もう…、話せねぇんだな…」

 誕生日には、雨が降っていた。

 少年は今日もずぶ濡れだった。