エピローグ
少年は独り、遊歩道の東屋で物思いに耽る。
ベンチの上に寝転がって見上げる、東屋の屋根の向こうに見える空は、青く澄んで高かった。
秋が近付いているのか、陽射しは気持ちばかり勢いを弱め、風は肌に心地良い具合になりつつある。
キヨシの葬儀から四日が経った。今日は初七日にあたるのだが、ケイゴには父の仏壇も墓も拝む事ができない。
葬儀は実家が出した。遺骨は手代木家の墓に葬られ、仏壇も実家にある。
ケイゴは母に連れられて葬儀に参列したが、親族という扱いはされなかった。祖父も他の親類もそれを許さなかった。
ケイゴの母は、棺桶に縋り付いておいおいと声を上げて泣いた。どんな気持ちなのかは理解できなかったが、そもそも泣く
事ができた母に驚いた。だが、泣けない自分と、死んでいるようには見えない綺麗な父の遺体には、それ以上に驚いていた。
元妻のこれ見よがしな芝居に神経を逆撫でされたのだろう、親族からの目は厳しかった。露骨な嫌味や悪態は勿論、聞こえ
るような大きさで陰口も叩かれた。
キヨシの遺産相続について、祖父をはじめとする親類と母が対立して、激しく罵りあった事が強く印象に残っている。相続
がどうのという話は難し過ぎてさっぱり判らなかったが、はたしてこういう場でするものなのだろうかと、判らないなりに疑
問には感じた。
そんな有様だったので、キヨシに救われて難を逃れたという母子と父親も参列していたのだが、話を聞く事もできなかった。
追い出される格好で葬儀場を後にしたので、墓地への納骨にも立ち会えなかった。
そんな有様だったから、父の実家にはもう顔を出せない。祖父にとってのケイゴはもはや孫ではなく、憎たらしい「あの女」
の息子としか見られていない。
(墓に行って、線香とか、普通だったらあげてやんなきゃいけねぇんだよな…。ごめんな、親父…)
その代わりという訳でもないのだが、遊歩道に埋葬した猫の墓には魚肉ソーセージを供えてきた。誰にも知られず悼まれな
いのもちょっとどうかと思ったので。
東屋のテーブルには、父が生前よく飲んでいた、いつの間にか自分もよく飲むようになっていた、甘い缶コーヒーが二つ並
んでいる。
これも、キヨシを通して知った「好き」の一つ。
キヨシと短い時間を共に過ごした新居には、もう行けない。祖父が契約を解除して、中にあった一切合財は引越し屋によっ
て引き上げられてしまった。あまりにも早いその対応は、同じ街に居る元妻が何かする事を警戒してのもの。分別も確認もろ
くにされないまま家財一式全てが引き上げられたが、その前にケイゴは一つだけ、運よく持ち出す事ができた。
「………」
少年はぼんやりと考える。
自分はもしかして待っているのか?と。
キヨシはもう居ない。コナユキももう来ない。なのに自分はまだ…。
「ひとりかね?少年」
耳を立て、ケイゴはベンチの上で身を起こした。
遊歩道の石畳を踏んで、大柄な和装の牛がひとり、東屋へ歩み寄る。
「アンタ…」
父の知り合い。確か「ミョウジン」と呼ばれていたはずだと、ケイゴは記憶を手繰って名前を思い出す。が…。
「角、どうしたんだ?」
立ち上がり、屋根の下に入った偉丈夫と向き合ったケイゴは、その頭を注視した。
かつては確かに備えていたはずの、二本の立派な角…。今はそれが右だけになっている。
「や。年甲斐もなく少々やんちゃが過ぎた。その代償だ」
応じたカナメは、根元から折れて無くなってしまった左角の跡を平手でツルリと撫でる。牛の角は生え変わりのない一生物、
しかも牛種にとってはシンボルなのだが、何処か気恥ずかしそうではあっても、無くなった事をさして惜しんでいる様子は見
られなかった。
しばし、両者は無言だった。
風が草を揺らす音が、車道から届くタイヤやエンジンが上げる音が、妙に大きく聞こえた。
「テシロギさんの事は、残念だった…」
やがて、カナメは静かに、低くしんみりした声で悔やみを述べた。
黙祷するように瞼を下ろしたカナメの顔を見てケイゴも理解する。父はきっと、この偉丈夫にも好感を抱かれていたのだろ
う、惜しまれているのだろう、と…。
カナメがキヨシの訃報を知ったのは、キヨシの会社を通しての事だった。狐の刑事もカナメがビジネス上ケイゴの父と密接
な関係にあった事までは把握していなかったため、特段連絡を取るような事はしていなかった。
葬儀には間に合わず、悔やみの花はおろか弔電すら届けられなかったと悔恨を語る牛に、ケイゴは「別にいい」とぶっきら
ぼうに応じた。
「…酷かった…。親父の葬式…。身内で揉めて…。親父を知ってるヤツには、あんまり見られたくねぇ葬式だった…」
ケイゴは本心からそう思った。あんなのは父も困るだろうし、あんなのは父と親しかった者にこそ見せたくなかった、と。
「…アンタは、何でここに?」
自分がここに居ると何故知っていたのか?そんなケイゴの問いに、カナメは「たまたま。まさに偶然」と嘘をついた。
本当は、この街に戻るなりケイゴの姿を求めて方々探し歩いた。「己が」関わりを持つという事を誰にも知られたくなかっ
たので、自分の足だけで探し回った。
そうして辿り着いた心当たりのひとつがここ…、ケイゴがゴリラ達と乱闘に及んだ現場である。
「よければ、これから少し小生に付き合って貰えないだろうか?」
カナメは少年を見つめてそう尋ねる。
牛の偉丈夫は、誠心誠意向き合おうと心に決めていた。去るのみとなるはずだったこの街に、できてしまった遣り残しと…。
「…ここは?アンタの部屋か?」
大牛に案内されたマンションの一室で、部屋の入り口に立ったケイゴは瞼を半分降ろす。
洋室ではあるのだが、和の物中心にインテリアが置かれた、凝った部屋だった。
やがてケイゴは耳を伏せる。初めて来た部屋。馴染みの無い部屋。そのはずなのに、何故か…。
「小生がこの街で仕事をするために借りた部屋だ」
先に行った牛の偉丈夫は部屋中央にある衝立に手をかけ、かつてキヨシが自分のために整えてくれた部屋の中心たる座卓周
りを見下ろした。
「ここは、君のお父さんにコーディネートして頂いた」
ああ、そうだったのか。と、ケイゴは覚えのある雰囲気について納得した。居心地の良いこの「空気」は、父があてがって
くれた新居の寝室にも通じる物がある。
「立派に整えて貰えたまでは良いのだが、小生も訳あって、今はあまり頻繁には来られない。そこで…」
カナメは部屋の入り口に突っ立ったままのケイゴを振り返り、小さく首を傾げた。
「君に留守中のルームキーパーをお願いできればと思うのだが、どうだろうか?」
「ルーム…、何だって?」
訝しげに眉を顰めた少年に、偉丈夫は「難しい事を頼むつもりは無い」と前置きしつつ説明する。
「ルームキーパー。具体的には、掃除などをして「部屋の面倒」を見て貰う仕事だ。何せ部屋も家もひとが住まない事には傷
みが早くなるのでね。部屋を適度に綺麗に保って管理してくれるのなら、君の好きに使ってくれて構わない」
「…好きに…?」
「雨宿りするなり、休息するなり、勉強するなり、だ」
ケイゴの目が少し大きくなった。
「テシロギさんとは、仕事の付き合いで酒の席を共にさせて頂いていた。その折に伺った事がある。「息子が高校進学も考え
てくれるようになった」と…。まだ君が進学を諦めないのなら、落ち着いて本を広げられる場所は必要ではないのかな?」
複雑な家庭の事情があるとキヨシとの会話の節々から察してはいたが、詳しい話は一度も聞いていない。それでもカナメは、
この少年が父を喪って「不自由」するのではないかと考えていた。
誠意を持って接してくれたキヨシに対し、最後まで共に仕事を進める事ができず、最終的には後任を充てる形で離れた…。
カナメにとってはそれこそが不義理と思える事であり、何らかの形で応える事でその埋め合わせがしたかった。
カナメがこの街に残した最後の遣り残しとは、キヨシが残した一粒種への援助。
とはいえ、少年であるケイゴの年齢が問題だった。
成人ではないケイゴは到底ビジネスの相手には見えない。特殊な事情があるカナメが「表」で関わる相手の中で、どうにも
目立ち過ぎる浮いた存在となる。万が一にも自分との関わりが何者かに漏れ、「あの牛が部屋を提供するほどの関係にあるあ
の少年は何者なのか?」と疑われでもしたならば、ケイゴの身に「面倒事」が及ぶ可能性もある。
だからこそ、マサタカを含めて警察にも一切助力を求めず、ケイゴの情報をそちらから得ようともしなかった。接触しよう
としている事すらも気取られないように。そのため、ケイゴの境遇についてはさほど詳しく調べられなかったが、それでも助
けになる事はできる。特に…。
「小生もできる限りはこの街へ来られるようにするつもりでいる。こう見えて一度は教職を志した身だ。勉学という点でなら
ば、ある程度は力になれるだろう」
「………」
ケイゴはしばらく無言だった。黙って考え、真っ直ぐに牛を見て、それから鞄の中に手を入れる。
ケイゴはキヨシの葬儀の翌日に、どうしようもない喪失感を抱えたまま父の部屋へゆき、必死になって部屋中探した。
そして見つけた。父が書斎にしていた部屋の机の中から…。
「………」
少年が鞄から取り出し、じっと見つめるのは、スタンドに入れられた一枚の写真。
家財一式が引き上げられる前に持ち出せた、赤ん坊の自分と、まだ若い頃の両親が一緒に写った、父が大切にしていた家族
写真。
母に見られないよう鞄に隠して持ち歩いていたソレを、ケイゴはしばし無言で見つめ続けて…。
「…進学…。同じ高校に、もしもオレが行けたら…」
少年の指がそっと撫でる。太っていなかった頃は自分と似ていた、若かりし日の父の顔を。
「そうしたら…、アンタは嬉しいか?親父…」
そして、一年後。
少年は独り、高台の霊園に佇んでいる。
手代木家と刻まれた墓石の前に。
背丈もあり体つきも筋肉質で逞しい、精悍な顔つきのシェパードである。夏の盛りを越え、日に日に熱を緩めゆく風が、豊
かな被毛を靡かせていた。
甘い缶コーヒーのプルタブを起こした少年は、それを墓前に添え、手を合わせて目を閉じる。
忍足慶吾、十六歳。星陵ヶ丘高校の一年生。応援団所属。
一生懸命勉強したケイゴは、カナメの協力もあって何とか父の母校に入学する事ができ、今は学校の寮で暮らしている。背
も伸びて、体付きはよりガッシリし、目つきの鋭さはそのままだが少し落ち着きがみられる顔付きになった。
この街には父の実家と墓がある。実家には顔を出せないので仏壇も遺影も拝めないが、親族と鉢合わせしないよう注意して、
時々父の墓参りに来られるようになった。
自分は大丈夫。元気にやっている。勉強もまぁ…それなり。
墓前に来て父にそう報告するのが、今のケイゴの生活の一部になっている。
高校生活のスタートからしばらくは、元々の排他的な性格やつっけんどんな態度もあって友人もできず、キヨシの遺産も後
見人である母に押さえられて学費支払いにも苦労し、校則違反と知らずにアルバイトに精を出すなど、順調とは言い難い走り
出しとなった。
充実した…というよりも大変な生活を送る羽目になったが、転機は、同じ寮に入っている生徒がトラブルに遭ったところを
助けた事で訪れた。その寮生は小柄な猫獣人で、何となくコナユキを思い出す見た目だったので手を出してしまったのだが、
その行動一つでケイゴの状況は良い方向に転がり始めた。
教えて貰って苦学生の救済措置制度を知り、気に食わない相手も気のおけない相手も気になる相手も含めて知り合いが増え、
今では交友関係も金銭面も随分落ち着いてきた。この夏休みも、寮で親しくなった友人の地元に行き、寝泊りさせて貰う事に
なっている。
おおまかには順調と言えるのだが、中学卒業まで世話してくれたカナメとは、もう連絡も取れていない。
最後に会ったのは三月。ケイゴが星陵の寮に入る日取りが決まった後、カナメはあの部屋をその日にあわせて解約する手続
きを済ませ、ケイゴが聞いていた彼の携帯番号も四月に入るともう繋がらなくなっていた。
寝床を貸して貰い、勉強も見て貰い、少なくない時間を一緒に過ごし、多くの言葉も交わしたが、ケイゴはあの不思議な偉
丈夫の事を何も知らない。そもそも、深入りされる事も、同時に深入りする事も避けているような節があったので、その素性
についてはケイゴも訊かないようにしていた。
もしかしたら、自分に言った「不動産関係の仕事」という職業の説明は正確ではなかったのかもしれない。本当は真っ当な
職種ではなかったのかもしれない。後ろ暗い事のある行いをしていたのかもしれない。ひとには言えない秘密を抱えていたの
かもしれない。ひょっとしたら、自分に援助をしたり関わり合ったりする事は、カナメにとって良くない事だったのかもしれ
ない。…もっとも、全ては憶測の域を出ないが…。
だが、判らなくてもいいと、カナメが本当はどんな人物で、どんな事をしている男でもいいと、ケイゴは思っている。
定期的に使うので部屋を残しているのだとカナメは言ってはいたが、実は不要になった部屋を自分のために維持し続けてく
れていたのだろうと、ケイゴは勘付いていた。契約解除のタイミングもそうだが、用事があって街へ来ているというカナメは、
居る間は全然忙しそうにしておらず、ろくに用足しにも出かけずに自分の勉強を見てくれていたから。
受験に合格できるように「勉強」を教えてくれた。本当は良くないと言いながらも、ケイゴの意思を汲んで、学力を上げる
ための勉強ではなく、とりあえず合格するためだけの勉強で取り繕い、目的を遂げさせてくれた。
キヨシの話をしてくれた。再会した息子との向き合い方に悩んでいた、一生懸命なひとりの父親の事を教えてくれた。キヨ
シの仕事の内容や、これまでどういった物を手がけて来たのかも、詳しく教えてくれた。
何より、カナメと父はきっと「友人」だった。キヨシはそう思っていたから、カナメにも自分の事を話していた。カナメも
父に友情を感じたからこそ、自分に手を差し伸べてくれたのだと思っている。
その事はきっと確かだから、それでいい、と…。
しばらく墓と向き合って、心の中で父に近況報告をしたケイゴは、カラスや野良猫などに悪戯されないよう、缶コーヒーを
取って飲み干す。
そして、それを待っていたかのようなタイミングで…、
「おーい、オシタリー。そっちはもう良いのかね?私の方は済んだが…」
のんびりと、やや間延びした太い声がケイゴの耳に届いた。
右手を見遣れば、柄杓を突っ込んだ桶を片手にぶらさげ、のっそのっそと歩いて来る、コミカルなほど丸みを帯びた人影。
ケイゴに近付くのは、大柄な上に丸々と肥えたボリューム満点の大男。ケイゴの担任でもある星陵高校の教諭である。
「はい。いいです」
会釈して応じたケイゴに「うん。そうかぁ」と応じる虎は、口調もそうだが歩調ものんびりしており、まだ生徒のところに
着かない。
明らかに太り過ぎな体型故か、一歩踏み出すごとに過剰な皮下脂肪に覆われた図体が少し横揺れするユーモラスな歩き方で、
ワイシャツの生地がパツンパツンに張った豊満な腹などは特に目立ってゆさゆさ揺れている。太い鼻梁に眼鏡を乗せた、眠た
げにも見える細い目の大虎は、ハンサムとは言い難い面相。虎族特有の勇壮さも精悍さも迫力も見られないその顔は、しかし
代わりに柔和で愛嬌があり、優しげに見える。
ケイゴは進学前から、この教師と面識がないまま名前だけ知っていた。
カナメが言っていた。ケイゴが目指す星陵では「寅大(とらひろし)」という名の、大学時代に自分の先輩だった男が教鞭
を取っているのだと。
そもそも教職という存在に反感を抱きがちで、カナメから立派な人物だと聞いてなお半信半疑だったケイゴなのだが、この
担任教師に対しては最初からマイナス感情を抱かなかった。父に輪をかけて丸い体型や、名前の響きなどに、どうにも親近感
を覚えてしまって。
肥満虎は墓前まで来ると桶を足元に下ろし、墓に手を合わせて瞑目する。
その頬が張った丸い横顔をちらりと見遣ってから、ケイゴは砂利の上に置かれた桶と柄杓に視線を降ろした。
この霊園に親しい者が眠っているのだと担任は言っていた。この穏やかでのんびりした教師も誰かとの別離の辛さを味わっ
てきたのだろうかと、少年はぼんやり考える。
「さて、行こうかぁ」
「はい」
教師に促され、最後に墓石を一瞥してから、ケイゴは虎の後ろについて歩き出す。
砂利を踏みしめて歩く虎の、幅広い尻から下がって揺れる縞々の尻尾を見ながら、やがてシェパードは口を開いた。
「…面倒、かけて…、済みません…」
「ん~?気にしなくて良いんだぞ?」
振り返らずに教師は応じた。
「でも、先生にはあんまり関係ねぇ事で…」
「関係はあるとも、私はオシタリの担任だからなぁ」
俯き気味のケイゴは、「何で…」と小さく呟いた。
「何で、ひとりの生徒にそこまで親切にするんですか?」
「担任だから、だとも。ひとりもふたりも関係なく、教え子の世話を焼くのは当たり前の事だからなぁ。それに、アト…いや、
マガキからも頼まれているしなぁ」
「先輩から?オレの事を?」
ケイゴが顔を上げる。目の前の広い背中の上で、肉付きのいい厚い肩が軽く竦められた。
「うん。…あの子にしてみれば、オシタリは可愛い後輩なんだぞ?いつもあんな顔つきだから、そう見られているとは思えな
いかもしれないがね」
話している内に駐車場につき、可愛らしい軽自動車のトランクに荷物を入れた肥満虎は、「どっこいしょ…」と運転席へ巨
体を捻じ込む。明らかに狭くて運転手と車のバランスが悪いのだが、それがケイゴに、父と過ごした去年の夏休みを思い出さ
せた。
開けて貰った助手席に乗り込んだケイゴがシートベルトを装着すると、そろそろガタが来ているのか、それともドライバー
の体重に文句を言っているのか、軽自動車は妙に苦しげなエンジン音でブツブツ言いながらゆっくり前進を始める。
駐車用の線引きもない砂利敷きの駐車場を出て、下り坂に差し掛かった車の前で、木立が割れて視界が一度開けると、中央
を川で二分された市街地が広がった。
父の故郷。父が暮らした街。そこで今ケイゴは勉学に励んでいる。
先の事など判らない。やりたい事も見つかっていない。将来の事など知らない。ただ今は、その日その日を送りながら、父
の高校生活に想いを馳せる。
「墓参りセットを降ろしてから寮に寄るから、荷物を取ってきなさい」
「はい」
「結構長距離になるからなぁ、トイレは遠慮しないで言いなさい。そうだ、昼食も途中で摂るから、何か希望があれば…」
まるで、ドライブ中に父がそうしていたように話しかけて来る担任に応じながら、ケイゴは地元の事を考えた。
あの狐の刑事は元気だろうか?コナユキは幸せだろうか?父が救った家族はどうしているだろう?
そして少年は軽く首を振る。
探したりはしない。会う必要はない。交わす言葉はない。
この帰省は故郷を懐かしむための物ではなく、故郷と母に、別れを告げるための物。
母は、本音を言えば学校を辞めて貰いたいと思っているらしい。学業に費やす金が惜しいのだろうとケイゴにも察しはつい
ている。そのせいで随分苦労もしたのだが…。
一学期中に何度か面談して家庭環境を確認した後で、虎教師はキヨシの遺産についての相続権と、遺児であるケイゴの権利
について、色々と調べてくれた。不誠実な後見人の責任を問う手法や、新たな後見人の指定についても。これについては知人
の法律家が協力してくれたそうなのだが、ケイゴもまだ会った事がなく、これから向かう先で初めて対面する事になる。
とはいえ、ケイゴ自身は母の事を恨んでいない。父の事で誰かを恨んでしまったら、自分を愛して育もうとしてくれていた
父の気持ちに叛く事になってしまいそうにも思えたから、何も、誰も、恨むまいと決めた。
母はまだ若いし、自分という重しと関係が切れれば、これからの人生も自由にやって行けるだろう。だからこの決別はきっ
と彼女のためにもなると思っている。
育てられた覚えがなくとも、良い思い出がなくとも、愛された記憶がなくとも、ケイゴはそれでも母を愛していた。
虎はアパートで桶や柄杓を降ろしてから学生寮に車を向けた。
降ろして貰ったオシタリは急いで部屋に行って、あらかじめ纏めておいた僅かな荷物を取り、教師が待つ車に戻る。
軽自動車の助手席に乗り込んだケイゴは、シートベルトを締めようとして鞄を足元に置きかけ、(あ。詰め込んだし、この
まんまじゃヤベぇか?)
圧迫されて割れたら大変だと感じ、ジッパーを開けて鞄から写真立てを取り出した。
それは、自分と母と父が揃った、色褪せた集合写真。この世にたった一枚だけ残った、かつて存在した家族の名残。
ケイゴが見つめるソレをちらりと見遣った運転席の担任は…、
「ん!?」
急に身を乗り出して、いつもは細い眼をまん丸にし、写真を覗き込んだ。
「…?な、何か…したんですか?」
気恥ずかしさもあってどもったケイゴに、教師は「いや…」と、歯切れの悪い声を返した。
(シンジョウと似ているなぁ…)
ケイゴは気付いてもいないし自覚も無い。だが、ひとの顔を細かく憶える事が得意な肥満虎は気が付いた。彼と親しくして
いる女子生徒は、ケイゴの母と面影が似ていると。おそらくだが、眼鏡を外せばかなり似ているはずだと。
しかし教師はそれについて口にする事もなく、ゆっくり車をスタートさせる。
ケイゴは写真立てをタオルで包んで大切にしまい込み、窓の外へ視線を移す。
一年ぶりのロングドライブ。隣にはもう父は居ない。強い日差しの中、軽自動車に揺られて少年は帰る。
育った街と母親へ、父には言えなかった、父は言ってくれなかった、「さよなら」をちゃんと告げるために。