第三話

まな板の上に乗せたチャーシューの塊を、ポッテリした手に握られた包丁がストンと切る。

帰宅した白豚は学ランの上だけ脱ぎ、その上に黄色いエプロンを身に着け、即座に食事の準備に取りかかった。

ヤスキの自宅、その台所に据えられた四角いテーブルについたアトラは、クラスメートの丸みを帯びた背中を眺めたり、室

内を見回したりしながら時間を潰していた。

地元住まいのクラスメートも居るには居るが、友人の家にお邪魔するのは、この街にやって来て初めての事である。

物珍しさと意外さが混じった視線で周囲を見回すアトラは、実は若干の偏見を持って家にお邪魔した自分を、心の中でこっ

そり恥じていた。

肥満体のヤスキを見て、どことなくだらしない、締まりのないといった印象を受けていたせいか、家も小汚いのではないか

と考えていたのである。

ところが、ヤスキの自宅は良い方向にアトラの予想を裏切った。

住宅街の一軒家。築十数年…あるいは改築から十数年といったところだろうヤスキの自宅は、鉄格子の門扉の向こうに芝生

の庭を抱える、こざっぱりした邸宅であった。

土地は少し広く、家自体もやや大きく、快適な広さを備えているであろう事は、見上げた外観からもなんとなく判った。

案内されて玄関を潜れば、さっぱりとした調度で整えられたホール。

階段と二階の廊下から玄関が見下ろせる吹き抜けで、面積はないが高さのおかげで開放感があり、そこでアトラの先入観は

粉々に砕け散った。

下駄箱に飾られた花から漂う芳香がまず鼻を撫で、シックに抑えられた色調のマットや床、暖かな象牙色の壁が目を癒す。

玄関の他に見たのは廊下ぐらいだが、アトラが居るキッチンも清潔そのもので、きちんと整頓されている。

感心しているアトラがきょときょとしている間に、ヤスキはスライスしたチャーシューをレンジで温め、冷蔵庫に入ってい

た中華風コーンスープを火にかけ、電子ジャーから米をどんぶりによそう。

「こんなのしかないんですけど…」

品数が少ない事を申し訳なく思ってか、ヤスキは食事をテーブルに運びながら、垂れた耳を前側に倒し、眉根を寄せて上目

遣いにアトラの様子を窺った。

「いや、美味そうだ。本当に。…凄く美味そう…」

アトラは社交辞令ではなく、本心からそう応じた。

空腹を抱えた若虎の鼻をくすぐる、分厚く切られたチャーシューとコーンスープの香りは、コーヒーを流し込んだだけの胃

袋を興奮させるに十分である。

ヤスキは学校の物と違ってきちんと尻が収まる幅広の椅子を引き、アトラの左側にのそっと腰を下ろした。

「それじゃあ、いただきますです」

「いただきます」

豚に続いてほかほかの白米が山盛りのどんぶりを手に取った虎は、口の中に溢れ出る唾液を、ゴキュッと派手な音を立てて

飲み下すと、さっそく食事にとりかかった。

その十分程後…。

「…ごちそうさまでした…」

「お、お粗末様でしたです…」

手を合わせて頭を下げたアトラの前で、ヤスキは呆然としていた。

よほどチャーシューが舌に合ったのか、アトラは掻き込むようにしてどんぶり三杯片付け、ジャーは空になっていた。

分厚くスライスされたチャーシューは程良いしょっぱさと脂っこさ。

おまけに卵がたっぷり使われているコーンスープは、食欲をそそる絶妙な塩加減。

少々がっつき過ぎだと自分でも思ったアトラだが、箸が止まらなかったのである。

「ホントに、たくさん食べるんですねぇ…」

自分も普通よりは食べる方だと自認しているが、その1.5倍ほどの量をぺろりと平らげたクラスメートの健啖家ぶりに驚

いて、ヤスキは目を丸くしていた。

「いや、今日は特別…。美味かったからついつい食い過ぎた。悪い」

満腹のアトラは腹をさすりながら、「あー…、本当に美味かった…」と、口の端を笑みの形に歪める。

「それは何よりでしたですよ」

つられて微笑した白豚は、食器を持って立ち上がり、シンクに向かう。

アトラも縞々の尻尾を満足げに揺らしながら腰を上げ、白豚に倣って自分の食器を運んだ。

「あ、そこ置いといて下さいです」

水道のコックを捻ったヤスキは、そう言いつつスポンジを手に取る。が、

「食器拭きぐらい手伝わせてくれ。たらふく飯を食わせて貰って何もしないのは、どうにも尻の落ち着きが悪い」

働かないと落ち着かないのだと、手伝わせてくれるよう主張するアトラ。

遠慮するヤスキは、結局生真面目な虎の主張に押され、食器拭きの申し出を承諾する。

「実はぼく…、マガキ君って、もうちょっと付き合い難いひとかなぁって、思ってました…」

キュッキュッとスポンジを鳴らしてチャーシューの脂を皿から拭い落としながら、ヤスキはぽつりと呟く。

「ああ。顔が怖いからな」

「あ、やっぱりよく言われるんです?…って、ご、ごめんです!」

思わず本音を覗かせてしまったヤスキは慌てて謝るが、アトラは気にした様子も無く「まぁなぁ…」と頷いた。

「悪人顔でおっさん顔…。昔からよくそんな風に言われてきた。ほれ、同じクラスのタモン、居るだろう?泥棒髭の。あいつ

になんか初対面で感心されたぞ。「判りやすい悪党面だ」と…。お前に言われたくはない!と思ったもんだが…、確かに泥棒

髭の犬よりも悪人っぽいな、おれの顔は」

「…ぷっ…!」

「やっぱりシラトもそう思うか?」

吹き出したヤスキは、アトラにそう問われると、笑いを消して困り顔になった。

「え、ええと…。でも、見た目でちょっと格が違うのは判ります!」

「格?」

首を傾げたアトラに、ヤスキは大きく頷いた。

「泥棒髭は、いかにも小悪党って感じじゃないですか?でも…」

「なるほど、おれは大悪党か」

「…あ…。いやそのそうというか違うというか…。アレですよアレ!映画なんかで出てくる敵の偉いひと!」

「偉い悪役か」

「です。貫禄のある!」

(…こいつ、もしかしてこれでもフォローしているつもりなんだろうか?)

真面目くさった顔で述べるヤスキは、何とかアトラを持ち上げようとしていたが、しかしベクトルがどうにもおかしい。

それに気付いていない事が、そして一生懸命言葉を並べるその様子が、アトラには面白かった。

だから虎も白豚の話に乗っかり、先を続けさせる。

「マフィアのドンとか、そんな感じか?」

「ですです!ああいう渋カッコイイの!」

「おれ、そんなに威厳あるかな?」

「あるですよ!」

「でも顔が悪いんじゃあ、せいぜいやられ役のボディーガードや側近止まりじゃないか?」

「顔は悪くないですよ!「悪そう」なだけで、絶対不細工じゃないです!格好良いです!」

何故か一生懸命なヤスキとの会話を楽しんでいるアトラは、片付けが済んだ後、勧められて再びテーブルについた。

そしてコーヒーをごちそうになりながら、つくづく思う。

つい先日まで言葉を交わした事もなかったのに、担任からの苦行を引き受けてしまった事がきっかけで親しくなる…。

もしかしたら連帯感が生まれでもしたのだろうか?何が縁になるか判らない物だ。と、感心すらしてしまう。

「…あのバンドが好きなのか?」

とりとめのない会話が好きな音楽の事に及んだ時、アトラは少し意外そうに、そして驚いたように目を丸くした。

昨日の帰り道で、好みはマイナーだからとヤスキは言ったが、アトラは心底納得してしまった。

「バンドそのものが好きっていうか…、ボーカルと、曲がです」

ヤスキが挙げたのは、英国のロックバンドの名前であった。

アトラは父親の趣味が洋楽なので、家にあるCDなどから馴染みがあったが、同級生との会話でそのバンドの名前が挙がる

のは初めての事。

なにせ十数年前、彼らが子供の頃にボーカルが突然蒸発したのがきっかけで解散しているので、よほどその方面に興味を持っ

ていない限りは知らないのだから、驚くのも当然である。

ライブ直前、それも他のメンバーが席を外して一人になったほんの数分の間に消えてしまったというその経緯から、事件に

巻き込まれたという説や本人の意志での蒸発説、陰謀説から宇宙人関与説まで囁かれたそのボーカルについて確かに言える事

は、人気絶頂の最中で消えた彼の行方が、現在に至るまで全く判っていないという事。

「格好良いよな、ハウル・ダスティーワーカー…。ガキの頃、親父が持っていたライブビデオを初めて見た時、ぶわっと鳥肌

が立ったあの感覚は今でもはっきり覚えている」

何処かなげやりに生きているように見えて、世の中に興味がないようにも見えて、しかし圧倒的な声と表現力で聴衆の心を

かき乱し、鷲掴みにし、荒々しい跡を刻んで虜にしてしまう冷めた目をした狼の姿を、アトラはこう捉えた。

揺るぎない存在、と。

何を前にしても、どんな状況でも、決して揺るがない達観したような眼差し。

彼を端的に表現する「まぁ、こんなものさ」という投げやりな一言。

誰にも擦り寄らず、何にも媚びず、常に泰然とした態度を崩さない狼の事を知れば知るほど、アトラは彼に惹かれた。

歳の割に落ち着いた彼の性質は、あのボーカルのようになりたいと願った結果身に付いた物である。

やや気分を高揚させながら身を乗り出し、印象に残っている曲名をいくつか挙げたアトラに、ヤスキはことごとく頷き、知っ

ていると応じた。

「きっかけは、テレビだったと思うです。波瀾万丈な生涯を送った有名人特集とかなんとかで、特集が組まれてて…」

「あ、それはおれも見たな。おれ達がまだ小学生ぐらいの時じゃなかったか?」

「ですです。で、ちょっと気になって、あのバンドを題材にした映画をレンタルで見て…」

「へぇ、そこらから興味を持ったのか」

不思議な物で、あまり披露する機会がない知識を共有する者と出会った時、ひとは一気に互いの距離が狭まる感覚を覚える。

少数派特有の同族意識が働くのか、普段その事について他者と話さないが故に、その話題で盛り上がれる相手とは急激に親

しくなれる。

気付けばすっかり話し込んでいたアトラは、しばし経ってから壁掛け時計を見遣って、露骨に顔を顰めた。

「…まずい…。もう九時になるのか…」

話に夢中になってうっかり失念していたが、寮には門限と点呼がある。

危機感を覚えた虎は、ヤスキに断りを入れて話を中断すると、親元を離れる際に買い与えられた真新しい携帯を取り出し、

不慣れな手付きで登録してある番号を呼び出した。

「シゲ?おれだ。今から戻るが、もしもの時は寮監に断って玄関を開けて貰ってくれ。…ああ、ああ、…たぶん間に合うとは

思うが…」

ルームメイトに連絡を入れるアトラを見つめながら、ヤスキはもぞもぞとズボンのポケットに手を入れる。

むっちりした腰回りと太股の肉が邪魔になり、かなり窮屈なポケットに収まっているのは、使い始めて丸々三年近くになる

携帯であった。

通話を終えたアトラに、終わるのをじっと待っていたヤスキはおずおずと声をかける。

「携帯、持ってるんですね?」

「ん?んー…、春に親から持たされたばかりで、ろくに使い方も判らないんだがな…」

実際のところ、アトラの携帯には実家と親戚などを除けば、寮と学校、そしてシゲの携帯しか登録されていない。携帯を持

つ生活に慣れていない事もあり、今のところあまり活用していないというのが実情であった。

「あ、あのですね?ぼくも携帯持ってるんです」

そろそろ帰らなければならないと、足下に置いていた鞄に手を伸ばしたアトラに、ヤスキは引き止めるようなタイミングで

声をかけた。

「良かったらですけど、番号交換しないです?」

「…ああ。そうだな」

携帯に不慣れなため、番号交換という言葉ではピンと来なかったアトラだが、少し考えた後に理解すると、良い機会だから

と快く応じた。

が、ヤスキが言う赤外線通信の操作が判らず、結局彼の手に自分の携帯も任せて操作して貰う。

「詳しいんだな?」

「説明書に書いてありますよ?」

「いや、読んだ事は読んだんだがな…、実は良く判らなかった…。前にテレビで虎族は機械に弱い傾向があるって言っていた

が、アレはきっと本当だ」

「ああ、ぼくも見たですよ。…ショックじゃなかったです?腹とか立たなかったです?」

「何でだ?おれはまぁ…、安心したかな。機械が苦手なのおれだけじゃないんだって、ちょっと気楽になって」

「ははぁ…。そういう考え方もあるですねぇ…。終わりですよぉ」

携帯を手渡されたアトラは、礼を言いながら登録番号を確認し、ポケットにしまい込む。そしてふと気になって口を開いた。

「自宅から通っていても、携帯は持つんだな?」

不思議そうなアトラに、ヤスキは僅かに間を開けてから頷く。

「ぼくの家、親が共働きで帰りも遅いですから、中学に上がる時に持たされたんです。緊急連絡用に」

「そうか。シラトのお父さん達は、何をしているんだ?」

「えっ?ん…、えっと…」

白豚は少し口ごもり、それから「飲食業です」と短く応じる。

「なるほど、だから遅いのか」

頷いたアトラがそれ以上追求しない様子だったので、ヤスキはほっと肩の力を抜く。

「それじゃあ、そろそろ帰る。お邪魔しました。そしてごちそうさまでした」

鞄を手に立ち上がったアトラが生真面目に深々と一礼すると、ヤスキも出っ腹が窮屈そうなほど腰を曲げ、「いえいえ、お

粗末様でした」と応じた。

家族や親類以外の番号を初めて登録した携帯を、しっかり握りしめたまま…。

エプロン姿のヤスキに玄関まで見送られ、あわただしく門扉から道路へ出たアトラは、走って寮に帰り、無事に点呼を終え

る事ができた。

そしてその夜、不慣れな携帯相手に悪戦苦闘しながら、ヤスキにメールを送った。

生まれて初めてアトラが送ったそのメールは、本文に「めしうまかった」と入っているだけでタイトルすら付けられていな

いという、なんとも味気ない、しかしどこかこの男に似つかわしい、簡潔極まる物であった。

それからしばしあってヤスキから返って来たメールは、アトラが送った物とは対照的に、顔文字などが多用されてきらびや

かにデコレーションされていたので、虎は感心のあまり唸らされた。




…あの時は、おれ以外の友達の番号もたくさん登録してあるんだろうと思っていた。

中学に上がった時から使っていると聞いたから、きっとおれと違ってすっかり使いこなし、活用しているんだろう

なぁと考えて…。

実際、赤外線の操作を説明書も見ないでやっていたから、手慣れているんだとばかり…。

…本当は、友達とああして番号を交換するのは、あれが初めてだったんだよな…。

あのメールがやたらと賑やかだったのも、おれと番号を交換できた事を、ちょっとは喜んでくれていたから…。




そして、週明けの朝。

寝ぼけ眼がようやくしゃっきりして来たアトラは、既に登校していた白豚の机に歩み寄ると、「おはよう」と声をかけた。

鞄から机に教科書を移していたヤスキは、ちょっと驚いたように目を丸くして顔を上げ、声をかけてきた相手がアトラであ

る事に気付くと、鼻をフコッと小さく鳴らし、「おはよです」と笑みを浮かべた。

(ん?少し嬉しそう…)

つられて口の端に笑みを漂わせたアトラは、「この間はご馳走様。美味かった」と告げつつ、机の上に出ている布製の筆箱

に目を向けた。

そこからこぼれていた消しゴムには、シャープペンで入れ墨された「コンソメ風味」の六文字。

先週末に続いて一気に沸き上がった親近感を胸に、アトラは自分の机に向かう。

しかし彼も、そしてヤスキも気付いていなかった。

静かに、密やかに、自分達の様子をじっと窺っていた、三人の視線には…。

そして退屈な授業に占められた時間は流れて行き、いつものように休み時間の度にヤスヒトらに絡まれ、アトラが待ちに待っ

た放課後がやって来る。

(予定もないし、今日はぶらっとアーケード見物にでも行ってみようか?)

部活があるシゲと別れて一人昇降口に向かったアトラは、まだ不慣れな街の探検でもしてみようかと考えながらスニーカー

をつっかけた所で、「おや?」とでもいうように眉根を寄せた。

ガラスの向こうを見透かせば、たぷたぷに太った白豚が、ガタイの良い、ジャージ姿の人間男子に話しかけられている。

アトラにプロレスラーを連想させたその二年生は、何やら困っている様子のヤスキに、笑顔でしきりに何か言い続けていた。

「…と思うね!うん!そうすべきだ!」

ドアを抜けた途端に途中から聞こえてきた話は理解し難かったが、程なく話の中身が判るとアトラは思わず呻いてしまった。

「と言うわけで…、おいでませ相撲部!そんな体してんだ、相撲しようぜ?せっかく太ってんだからやんなきゃ勿体ない!い

やいや、「太ってる」はこの場合褒め言葉な?」

どう考えても大きなお世話な言葉を並べ立てているその二年生と、周囲の視線が注がれる中で恥ずかしげに縮こまっている

ヤスキを眺め、しばしぽかんとしていたアトラは、やがて小さく吹き出した。

(確かに、相撲部が勧誘したくなるのも判る)

身長はともかく、ヤスキの幅がある体はボリューム満点で、いかにも相撲部が似つかわしく思えた。

しかし本人は困っているようでもあり、飯を食わせて貰った恩もあるアトラは、さてどうにか助け船を出してやろうか?と

思案しながら二人に歩み寄る。

「先輩、お話中済みませんが…」

話しかけたアトラの方を振り向いたヤスキは、一瞬驚きで目を大きくし、そしてほっとしたような顔をする。

一方、アトラに負けず劣らずガタイの良い二年生は、話しかけてきた虎をじっと見つめ、爪先から頭の天辺まで、値踏みす

るように無遠慮な視線で撫で回した。

そして急に何か考え込むような顔付きになると、おもむろに手を伸ばして、戸惑っているアトラの肩を掴み、次いで腕を、

胸を、少し力を込めてポンポンと叩いてゆく。

その確認作業が太股まで達すると、大人しくしていたアトラもさすがに堪りかね、口を開いた。

「あの…、先輩?」

しかし二年生はアトラの言葉に応えず、くるりと振り向いてヤスキに同じ事をし始める。

肩や腕、さらにむっちりした胸まで揉まれ、あげくに太鼓腹をポンポンと叩かれたヤスキは、恥ずかしさから被毛の薄い顔

の周りを真っ赤に染めて俯くが、二年生はお構いなしに何事か思案し、「むーん…?」と唸る。

「どっちも捨て難い…。あと一人でノルマ達成だけど、こりゃ二人とも誘っとくに限るな…」

(ヤバイ!)

二年生の独白を聞いた虎と白豚は、同時に危機感を抱く。

レスラーのような体格の二年生の目には、どうやら体格の良いアトラも勧誘対象と映ったらしく、その瞳には興味の光が灯っ

ている。

助けに入ろうとしたはずが、一転してもろともに窮地に立たされたアトラは、

「キカナイ。どうした?」

唐突に後ろから聞こえた声で、縞々の尻尾をビンッと立たせて太くする。

振り向いてみれば、太くて低い声の主は、圧倒されるような巨体の河馬であった。

応援団の大牛と比べれば幾分背が低いものの、極端に太っており、ボリュームでは彼を大幅に上回っている。

気付かない内に1メートルと離れていない真後ろに立たれており、振り向いた瞬間には驚きのあまり思わず仰け反っていた

アトラだったが、少し落ち着いてきてから改めて観察すれば、その巨漢はでかい割に威圧感が無い。

体に比して小さい目は穏やかな眼差しをしており、のんびりとした外見と落ち着きのあるたたずまいのおかげで、牧歌的な

印象すら受ける。

「どうよカバヤ?良くないかこの二人?ん?どっちか入れば二年の勧誘ノルマ達成できるし!いや両方欲しいなぁできれば!」

キカナイと呼ばれた二年生は、ヤスキとアトラを示してそう訴えたが、

「ノルマなら、先程一人入部届けを出してくれたから、既に達成されとるぞ?」

河馬がさらりとそう応じると、「およ?」と首を傾げた。

「またお前の口説き落とし?」

「うむ」

「何でそんな交渉上手なんだ?秘訣教えろよ来年の為に。おれと何が違うんだ?」

「星座と血液型かな」

真面目くさった顔で友人に応じた河馬は、アトラとヤスキを交互に見遣り、表情を緩める。

やたらとでかいが、笑うと案外優しい顔立ちになる…。笑いかけられたアトラはそんな事を考えた。

「あまり乗り気でもないようだが、もし興味があったら稽古場を覗いてくれんかな?勿論無理強いはせんが、やってみれば案

外楽しい物だぞ?相撲というのは」

やんわりと提案した河馬は、のそっと体の向きを変えながら続けた。

「相撲部には、今のところ二人しか獣人がおらん。入ってくれたら、仲間ができて嬉しいなぁ」

軽く片腕を上げて踵を返し、校舎に沿って歩き出した河馬は、足を止めないまま思い出したように首を巡らせた。

「そうだキカナイ。トウドウ主将が呼んどったぞ?いつになく不機嫌そうだったが、何かしでかしたか?」

 これを聞いたアトラは、相撲部主将でもあるあの副寮監が不機嫌そうに見えない顔をしているところなど目にした事がない

ので、強い違和感を覚えた。

「うわやべ何お前さらっと怖ぇこと言ってくれてんの?もしかしてそれでおれの事呼びに来たの?」

やたらと早口になった人間男子に、「うむ。忘れかけとった。済まん」と、河馬はさらりと応じる。

「おおかた、またコダマ先輩を苛めたんだろう?」

「いじめてねーっつーの!からかってるだけ!誤解すんなー!」

「そうか。だが問題は、トウドウ主将がそれをどう捉えるかだな」

大慌てで河馬を追い越し、レスラーのような二年生は走り去る。

その後ろを特に急ぐでもなく追いかけ、ゆっくりと去って行く河馬。

しばしその場に佇んでいたアトラとヤスキは、やがて呆然としたままの顔を見合わせ、小さく笑った。

「危なかった」

「ですねぇ」

苦笑しながら呟いたアトラに、ヤスキは垂れた耳をパタタッとはためかせ、嬉しそうに頷く。

「マガキ君、助けに入ろうとしてくれたですよね?ありがとうです。そして済みませんです」

「いや、結局何の役にも…」

礼を言われたアトラは照れ臭くなって鼻の頭を掻き、気を取り直したように口を開いた。

「途中まで一緒に帰ろう。用事が無ければ…」

アトラの提案に笑顔のまま頷きかけたヤスキは、しかし一瞬後に表情を消した。

何事かと訝ったその直後、アトラの両脇を抜け、三人の男子生徒がヤスキに近付く。

「よーシラト、帰ろーぜ?」

そう声をかけながら、馴れ馴れしい動作でヤスキの肩に腕を回したのは、クラスメートの人間男子であった。

ヤスキに歩み寄った他の二名も同様にクラスメートで、彼らがいつもヤスキと昼休みなどに一緒にいる顔ぶれである事に気

付いたアトラは、「ああ、済まん」と頭を掻いた。

「悪かった、先約があったのか…」

「え?い、いや、約束とかは…」

言いかけたヤスキの言葉を遮り、肩を組んでいない男子の一人が「そーそー」と口を開いた。

「約束してたんだよなぁ。先週末とか忙しかったじゃんシラト?忘れちゃってたぁ?」

その軽薄そうな口ぶりを、親しいが故の砕けた口調と解釈し、アトラは頷く。

「なら、おれはここで。また明日な」

「おーう、また明日ー」

「おつかれー」

「じゃーなー」

三名の人間男子から声は上がったが、しかしヤスキの口からは別れの言葉は出なかった。

その事にも、白豚が縋るような、救いを求めるような、切実な視線を自分に向けた事にも、踵を返しかけていたアトラは気

付けなかった。

そして、背を向けた自分に注がれる、絶望と失望がない交ぜになった、ヤスキの眼差しにも…。




…悪い事をしたと思う…。

あの時おれがもう少し鋭ければ、きっと気付けていただろうに…。

 きっと、ヤスキの力になれただろうに…。

あの時おれがおかしいと感じていたら…、そうしたら、あんなに悪くなる前に…。




その夜、寮食で納豆をたっぷりかけたどんぶり飯をガツガツと掻き込んでいたアトラは、定期的に周囲へ警戒の視線を走ら

せながら、時折訝しげな表情を浮かべていた。

「どうしたんだアトラ?物足りなそうな顔して」

隣に座ったルームメイトの狼に話しかけられ、「いや、決して物足りなくはないんだが…」と応じたアトラは、

「まるで、待ち合わせに来ない恋人を待ち焦がれてるみたいだなー」

そう続いたシゲの言葉で噎せ返りそうになり、ギロリと剣呑な視線を向ける。

「冗談冗談。怒るなよ」

軽い調子で手をパタパタと振り、アトラの苛立ちをさらりと受け流したシゲは、「ウシオ先輩なら、今夜は勧誘来ないと思

うぞ」と、アトラが気になっていた事について触れてきた。

「どうしてだ?」

「帰り道に会って聞いたんだけど、パトロールなんだってさ。ほら、ウチの応援団って風紀委員みたいな事もやってるって話

だろう?それの延長で、何かあったら学区内の自主的なパトロールなんかを交代でやるんだってさ。で、ウシオ先輩は今日が

当番だって」

アトラは「ふぅん」と応じ、それから眉根を寄せる。

何かあったらパトロールをする…。つまり、応援団がパトロール中という事は、何かがあったのではないか?

「万引きが多発してんだって。しかも防犯カメラが無い店でばっか」

アトラの疑問を汲み取った訳ではないのだが、食事を終えて休憩中のシゲは、暇つぶしに話を続ける。

「見たって言う店の人の話じゃ学ラン姿なんだって。で、中学生か高校生か判んないし、こっちの学校か川向こうかも判んな

いけど、とにかく、被害に遭うのがカメラ無しの店だけだから、たぶん地元に住んでて土地勘のあるヤツだろうって話」

どんぶり飯を掻き込みながら耳を傾けていたアトラは、そこまではあまり身を入れていなかったが、

「ウシオ団長から聞いたって、サトルさん経由で又聞きした話だけどな、三、四人組で、一人えらく太ってるんだって。それ

がまぁ今のところ一番の特徴かなぁ」

シゲが語ったその情報の一部分で、アトラは不意にクラスメートの白豚を連想し、箸を止める。

(いや、それは無いな…。そういう事をするようなヤツじゃないだろう。気弱そうだし…)

 四人組と、一人太っているという情報から連想してしまったアトラは、失礼だぞ、と自分を戒めた。

「一応地元民じゃないからこっちは疑いから外れてるけどさ、注意しろよアトラ?帰宅部のお前が、先週みたいに夜遅くまで

帰って来ないと、あらぬ疑いを招くかもだぞ?」

「ああ、気をつけておく」

冗談めかして警告したシゲに、苦笑を浮かべてアトラは頷く。

そして再び考える。地元民であり、かつ帰宅部にもなるのであろう新しい友人、白豚の事を。

(先生の頼みを引き受けて遅くなっただけだが…、一応、疑われないように気をつけろと言っておくべきか?…いや、お節介

かな?こんな事を言ったら、おれが疑っているようで気を悪くするか?)

結局アトラは、万引きが連続発生している事ぐらいは、友達なら話題にしていても不自然ではないだろうと考えた。

(飯を食ったら、あまり遅くならない内にメールを入れてみるか。練習も必要だしな…)