第四話
星陵ヶ丘高校の広大な敷地の脇には、雑草が生い茂った土地がある。
金網のフェンスと大人の腰ほどの高さがある鉄柱の車止め、そしてそこに渡された二本のチェーンで部外者の立入を拒絶し
ているそこには、滅多に使われない木造の倉庫が建てられていた。
元は地元の土建屋が倉庫兼簡易作業場として使っていたその建物は、持ち主であったその会社の倒産を期に、星陵の理事長
に引き取られたという経緯を持つ。
使用頻度の低い品などが雑多に放り込まれたそこは、第二の体育倉庫とも呼べるのだが、週に一度警備員が見回りに来る以
外はひとも寄り付かない。
一応大型の南京錠で施錠されているのだが、現在その中には四人の男子生徒が入り込んでいた。
数年前、警備業者から杜撰な担当が派遣された年、たまたま鍵が付けっ放しのまま忘れられた際、偶然見つけたある中学生
が、こっそり合鍵を作ったのである。
鍵はすぐに戻され、翌日になって鍵を忘れた事に気付いて戻った警備担当者は、何も知らないままそれを回収した。
よって、不正に作製された合鍵が存在する事は、学校側も警備業者も知らない。
そして今、その不正に作った合鍵の持ち主は、倉庫の中、幅広くて丸みを帯びたその背中に、体重を乗せて靴裏を叩き込ん
でいた。
ドスッと、柔らかい物に何かが埋まるような、布団を勢い良く、力一杯踏みつけたような音が、あちこち傷んだ木造倉庫に
響く。
「…ふ…!い…たぃ…!」
呻き声に続き、太い膝とぽってり肉厚な手が、石灰まみれの土床にべたっとついた。
背中を思い切り蹴られたヤスキは、四つん這いの姿勢のまま、自分の前に回り込んで仁王立ちになった背の低い男子の顔を
見上げた。
同時にパチンと音が鳴り、窓のない倉庫の中に裸電球の光が灯る。
灯りに照らされたヤスキの顔は、絶望に彩られていた。
相撲部の勧誘から逃れ、アトラと別れさせられ、三人にここまで連れて来られた白豚は、怯えきって小刻みに震えている。
昼休みに声をかけられなかった事でほっとしていたが、見逃して貰えた訳ではなかったのだと、改めて思い知らされて。
「なーに?もしかしてさぁ、避けてた訳?オレらの事」
やけに間延びした、ねっとりと絡みつくような口調と声音で訊ねられたヤスキは、首をブルブルと振り、媚びるような、許
しを請うような目つきでその男子の顔を見上げた。
「そ、そんな事無いです…!こ、コバヤシ君達は、と、友達ですしっ…!ぼ、ぼくも遊びたかったけど、先生に用事を頼まれ
ちゃって…」
弁解がましい口調で必死に述べるヤスキの言葉を、真後ろに立っていた、三人の人間男子達の中で最も体が大きい男子が、
「へえっ!?」と大きな声を上げて遮った。
「んじゃ何?金曜日さぁ、オレが居たのに気付いてたよなぁ?マガキの肩越しにこっち見てたよなぁ?ありゃ何?気付いてん
のに無視したのは何?オレを避けてたんだろ?」
「そ、それは…!タカスギ君を避けたわけじゃ…」
四つん這いのまま首を捻って肩越しに後ろを見遣り、言葉に詰まったヤスキは、肉で丸く張った頬を硬い靴先でぐいっと押
され、太った体をビクリと震わせる。
横合いで黙っていた中背の男子が、その爪先でヤスキの頬を足蹴にしていた。
「そうだよなぁ、タカスギを避けた訳じゃないよなぁ…。オレら全員を避けようとしたんだよなぁ、シラトぉ…」
ねちっこい口調でそう言いながら、靴についた土を擦り込むように、ぐりぐりと肉付きの良い頬を爪先で擦る男子。ヤスキ
はそちらに視線を向け、頬を圧迫された事でくぐもっている声で、媚びるように訴える。
「そ、そんな事しないですよぉ…!き、気付かなかったんです!ホントです…!」
小さい小林。中背の中森。背の高い高杉。三人はヤスキと中学時代から付き合いがある同級生である。
中学時代のヤスキや彼らを知る者は、口を揃えてその関係をこう証言するだろう。「仲の良い友達」と。
だが、その意味するところは二つ。
上辺だけ見て納得している者はそのままの意味でそう証言し、勘の良い者は揶揄を込めてそう証言する。
仲の良いお友達は、決してヤスキと対等な関係ではなかった。
言うなれば、三人と白豚の間には垣根がある。あるいは鎖が。
間に一線を引きながら、しかし放してはくれない存在…。そういう「友達」として、三人はヤスキの傍に居た。
そして、三人が傍に居たが故に、ヤスキには他の友達が居なかった。
中学で初めて会ったこの三人とよく一緒に居るようになってからは、小学校の頃はよく遊んでいた友人達とも疎遠になって
しまった。
一人ではないが、しかしその実孤立してしまっている…。それが、中学時代から今に至るまで続く、ヤスキが置かれている
状況である。
「困ったヤツだなーシラト?そういうイケナイ子には、また「教育」してやんねーと」
コバヤシが口にした「教育」という単語に反応し、ヤスキの耳がピクッと動き、その顔から血の気が引く。
「そ、そんなっ!?ご、ごめんなさい!ごめんなさいっ!気をつけますから!もうこんな事ないように気をつけるですから!
…あぐぅっ!」
必死になって身を起したヤスキは、裏返った声で懇願しながらコバヤシに縋り付こうとしたが、乱暴に肩を蹴られて呻き、
動きを止める。
「きたねー手で触ろうとすんじゃねーよ!このブタぁっ!」
汚らわしい物でも見るような顔をして身を引いたコバヤシの横で、ナカモリが低く抑えた声でヤスキに告げる。
「いいかーシラト?オレらだってこんな真似したくねーんだ。でもホラ、お前馬鹿だから、しょっちゅう言いつけ忘れちゃう
だろー?だからさ、必要じゃん「教育」?」
「そうそう、オレら「友達」の為を思ってやってる訳。心を鬼にして」
ニヤニヤと笑う三人の顔には、喜悦混じりのサディスティックな表情が浮かんでいる。
「立てよ」
タカスギが押し殺して作った低い声で告げると、一瞬躊躇したヤスキは、しかし素直に立ち上がる。
黙って言うことを聞かなければ事態は悪化の一途を辿る。その事が骨身に染みて解っていた。
おとなしく立ち上がったヤスキは、真正面に立ったタカスギと一度目を合わせ、それから視線を下に逃がす。
身長は相手の方が十センチ高いものの、130キロのヤスキは、体重ではタカスギの二倍以上ある。
だが、運動もろくにしないし得意でもない白豚は、獣人特有の強靱な筋肉を備えておらず、腕力では同年代の人間男子にも
敵わない。
その体重にしても、獣人特有の重く強靱な筋肉が占めている割合は低く、その大半が脂肪の重みである。
だからこそ、体格的には大きくても、ヤスキは彼らに良いように扱われてしまう。
突然、タカスギの体が揺れた。
その直後にまずあったのは、硬い物が腹に飛び込む感覚。
次いで感じたのは、胃の下にめり込んだソレが与えて来る重苦しさ。
その後になってようやく激痛が腹の中で弾け、ヤスキは「ぐぇっ!?」と、絞り出すような苦鳴を漏らす。
脆弱な腹筋を反射的に固める事もできず、強烈なボディブローをまともに食らった白豚は、崩れ落ちながら腹を抱えた。
未消化だった昼食の残りと胃液が食道を逆流し、口内に溢れ、口と鼻穴から吹き出る。
「おげぇっ!えごっ!えぼぼっ!」
噎せながら嘔吐するヤスキを、三人はげらげらと笑って見下ろす。
自分を嗤う「友達」の声を遠く聞くヤスキは、恐怖と痛みと苦しさから溢れた涙で、視界がにじみ、ぼやけていた。
その視界が揺れる。
容赦なく尻を、背中を、肩を、腕を、太腿を、脇腹を、三人の足が蹴る。
ヤスキの体で外側に向けてある部位を、満遍なく、隙間なく、執拗に、丁寧に、三人の暴力が蹂躙する。
どうして自分がこんな目に?
こんな境遇にあれば誰しも思い浮かべそうな疑問は、しかしヤスキの頭を掠めもしない。
そんな事は考えても仕方がないので、とうの昔に考えるのを止めてしまっている。
知られてはいけない弱みを握られてしまった、三年前のある日から、ヤスキは彼らに絶対服従の身となっていた。
体も心も堪らなく苦しいが、体を丸めて黙って耐え、この「教育」が終わるのをじっと待つ。
逃げる気力は無いし、抵抗とてするつもりは無い。そもそもそんな考えが浮かばない。
そんな真似をしようものならさらに酷い目に遭わされるという事は、これまでの経験で骨身に染みて判っている。否、判ら
されている。
三人に対して自発的に逆らう気など、長らく「教育」されてきたヤスキには全く湧かない。
先週末はたまたま居合わせたアトラに思わず縋り付くようにして、三人との接触を避けてしまったが、これはヤスキ自身が
驚くほどに珍しい行為であった。
そのささやかな反抗を、三人は見過ごせなかった。
少しの甘さがそのまま相手をつけあがらせる…。そう考えた彼らは、徹底的に「教育」すると心に決めている。
長らく続いた暴行は、三人が息切れし始めると、幾分だがその苛烈さを和らげた。
「そんなトコに鼻つけてどうしたんだよ?トリュフでも埋まってんのか?」
腹を庇うように体を丸めて地面に突っ伏しているヤスキを侮辱する、薄ら笑いを浮かべたコバヤシの冗談に、他の二名がげ
らげらと笑う。
「でもさ、トリュフ探すのは確か雌豚って聞いた事あるぜ?テレビで」
「かーっ!何その無駄知識!」
「いや、ちょっと待てよ?」
笑いながら話し合う三名は、床に突っ伏したまま鼻声で呻いているヤスキを見下ろし、下卑た笑みを浮かべた。
「案外、雌豚って言えなくもねぇんじゃねぇか?コイツ」
「へっ!言えてるぜ。…ほらよっと!」
話しながらも足を大きく引いたナカモリが、それこそサッカーボールでも蹴るように、ヤスキの左脇腹を容赦なく蹴った。
「えぶぅっ!?」
右手で胃を押さえていたヤスキは、左腕で上半身を支え、身を起こす最中であった。
その無防備な左脇腹に硬いバッシュの爪先が、足の甲が見えなくなるほど深々とめり込んだ。
分厚い脂肪を纏っているとはいえ、痛い物は痛いし苦しい物は苦しい。
深々とめり込んだ爪先によって送り込まれた強烈な圧迫感と激痛が、脇腹で弾けて灼熱感を全身に飛ばす。
ヤスキは再び床に顎から突っ伏し、今度は脇腹を押さえて転げ回る。
自分の吐瀉物と石灰で全身を汚しながら、声も無くもがく白豚の姿を見て、三人は腹を抱えて爆笑した。
「ひひひ!どんだけ死にそうになってんだよ!」
「やっべ!マジウケるんですけど!」
「ぎゃはは!すっげぇいいリアクション!」
こうなってしまうと、三人にとって最早ヤスキはクラスメートでも「友達」でもなければ、もはやひとですらない。
何処までも醜く、何処までも汚らしく、どこまでも下位に見なせる、格好のおもちゃである。
気弱で従順でおとなしい肥満の白豚は、三人には声を上げて泣き喚く肉の塊に過ぎず、嗜虐的な光を湛えた目には一風変わっ
たサンドバックとしか映らない。
そして、イジメる事に慣れてはいてもろくに喧嘩をした事もない三人は、性質の悪い事に加減という物を弁えていなかった。
そもそも、同じように暴力を振うのでも、喧嘩とイジメにおいては振い方が根本的に違う。
端的に言えば、喧嘩における暴力には、相手を痛めつけて戦意を奪うという「目的」が存在する。つまり、程度の差はあれ
目的のある暴力なのである。
だがイジメにおけるソレは違う。
痛めつけるという似たような目的は確かにあっても、痛めつけてからどうこうする訳ではない。痛めつけた先に達成される
べき事柄が無い。痛めつける事自体が目的であり、そしてそこに到達したからといってゴールではない。
言葉にせよ腕力にせよ、暴力を振るう事自体が目的で、喧嘩とはそもそもの達成目標が異なる。
極端に例えるならば、喧嘩はゴールがはっきりした短距離走で、イジメはゴールの無いマラソンのような物とも言える。た
だし、その労苦を一方的に味わわされるのは、他でも無いイジメられる側なのだが。
自分達が痛みを覚えない三人は、一方的に振るう暴力に酔い痴れた。
ヤスキが媚びる度、許しを請う度、従順に言う事を聞く度、さらに酷い事をしたくなる。
無抵抗なまま泣き喚くヤスキに、息が上がるまで長時間にわたって一方的な暴行を加えた三人は、直接的なフラストレーショ
ンの発散には満足したらしく、誰が言い出したともなくひとまず休憩に入る。
「あー、運動したら喉乾いた…」
「オレも。飲み物でも買って来るわ。何が良い?」
「おお、んじゃコーヒー」
「炭酸。見つかんなよ?」
「へーきへーき」
ナカモリが倉庫から出て行くと、ヤスキはほんの少しだけ安堵した。
石灰と土と自分の吐瀉物にまみれて、ぐったりと横たわるヤスキの目には、目の前の床に落ちている、胃袋から出て来たホ
ウレン草の葉が、自分同様にぐにゃりと這いつくばっているのが映っている。
白豚は胃液の酸っぱい匂いと味、そして苦痛を我慢し、これで終わりになってくれますようにとひたすら祈った。
やがて戻って来たナカモリが二人に飲み物を手渡し、三人が喉を潤し始めると、ヤスキはずっと下にしていたせいで痺れた
部位を庇い、ほんの少し身じろぎし体勢を変える。
その行為がたまたま目に止まったコバヤシが、「あー」と、わざとらしく大きな声を上げた。
「シラトも喉が渇いてんだよなー。熱心に「教育」受けてくれたもん」
そのセリフを聞き、自分もジュースなどが貰えるかも?と思うほど脳天気だったなら、ヤスキはそもそもこんなに苦しんで
いない。
自分の「友達」がそんなに優しくない事を重々承知しているからこそ、嫌な予感しかしなかった。
「だ、大丈夫ですから…!の、喉っ、乾いてませんです…!」
胃液で喉が焼けて掠れた声を、聞き取り辛いほどに上ずらせ、ヤスキは必死になって訴える。
が、その言葉を聞くつもりが初めから無かった三人は、周囲に視線を走らせ、目当ての物を見つけた。
入り口脇、コンクリートで排水溝周りを浅く囲んだだけの簡素な洗い場。
そこには蛇口に繋がれた緑色のゴムホースが、蛇のようにとぐろを巻いていた。
「水飲ませてやろうぜ?」
「おー、いいね」
コバヤシとナカモリの言葉で、ヤスキの顔からさーっと血の気が引いた。
「い、いいですよ!本当に喉は乾いてませんしっ、飲まなくても平気ですから!」
慌てるヤスキに、タカスギが笑顔で応じる。
「遠慮すんなって」
「え、遠慮じゃなくて…!」
「あー、何?オレらの好意が受け取れねーんだ?んんっ?」
タカスギがその顔から笑みを消して凄むと、怯えたヤスキは言葉を詰まらせる。
痛みすら覚えるような苛立ちの視線に耐えかね、そっと目を逸らした白豚は、コバヤシがホースを掴み、蛇口を弄りながら
水の出具合を確かめている様子を目にし、首筋の毛をぶわっと逆立てた。
その行為が何を意味するのか、はっきりと判ってしまったせいで。
口から零さずにきちんと飲めるように水量を調節している…。
ただ水を飲ませるつもりではない。徹底的に、強制的に、大量に飲ませるつもりでいるのだと理解したヤスキの頭を、いつ
かテレビで見た、強制給餌される北京ダックの姿が過ぎった。
意図を悟って慄然としたものの、しかし抵抗などできるはずもない。今抵抗できるなら、もっと前に抵抗している。
背や肩を乱暴に小突かれて無理矢理正座させられたヤスキは、その背後に回ったタカスギに腕を軽く捻られ、背中に押しつ
けられた。
「資源は大切に…って言うだろ?水だって粗末にしちゃダメだ。零すんじゃねーぞ?もし零したら…」
タカスギはそう言いながら手首をぐいっと捻り上げ、ヤスキに弱々しい悲鳴を上げさせた。
判ったと意思表示する為にぶんぶんと首を縦に振ったヤスキは、鼻にゴム臭いホースを突きつけられ、「フゴッ!」と声を
漏らす。
「おら咥えろよ」
古くなって表面が融解したゴムホースは苦い異臭を放っており、おまけにべたべたと気色悪い粘り気を帯びている。
無理矢理咥えさせられた途端に吐き気が込み上げたが、ヤスキはそれをぐっと堪えた。
にたにた笑いを顔に貼り付けたまま、コバヤシが蛇口を捻る。
途端に口の中に溢れる水。ヤスキは最初の一口を上手く飲めず、口の両端からだらっと零した。
その直後、宣告通りに腕がゆっくりとねじり上げられ、ヤスキは鼻の奥で「んん〜っ!」と唸りながら、必死になって水を
飲み始める。
そしてホースを咥えたまま、流し込まれる水を零さないよう頬を膨らませて口いっぱいに溜め、必死になって飲み下し続け
ながら、コバヤシに目で訴える。
(許して!助けて!勘弁して!)
が、三人はヤスキの言いたい事を察しながら、嗜虐的な喜びの表情でにやにやと笑うだけであった。
絶え間なく流し込まれ、必死に飲み下し続ける水で、胃袋はすぐさま満杯になり、ただでさえせり出している腹が次第に膨
れていく。
「おら頑張れ頑張れ」
面白がったナカモリが足を上げ、ヤスキの腹に靴底を当ててぐいぐい押す。
しかし零したら背後のタカスギに腕をねじり上げられるヤスキは、文句を言う事もできずに腹の圧迫感に耐え、必死になっ
て水を飲み続ける。
だが、ひとが飲める水の量など決まっている。容量という物があり、延々と飲み続ける事ができない以上、限界はいずれ必
ずやって来る。
三人に対する恐怖からできるだけ我慢したヤスキだが、パンパンに膨れて重くなった胃が鈍痛を訴え始め、全身から脂汗が
滲み出た。
(も、もぉ…、ダメ…!)
涙と鼻水をだらだらと流し、荒い鼻息をついていたヤスキの口から、ごぱっと水が溢れた。
口から外れたホースが制服を濡らし、ヤスキの周囲を水浸しにする。
「うっわ!きたねーっ!」
足でヤスキの腹を踏んでいたナカモリが慌てて飛び退き、ゲラゲラと笑いながら遠巻きになる。
面白がって笑う三人に、腹を押さえて苦しげに顔を歪めながら、ヤスキは土下座した。
「も、もう無理です!飲めないです!お腹一杯です!ごめんなさい!許して下さいぃ!」
石灰と土が水でべたべたに溶け合った泥の中、無様に土下座する白豚の姿は、ようやく気が晴れて来ていた三人を、やっと
満足させた。
「おい、そろそろ水止めろって。オレらの靴まで汚れちまう」
「おう。…あ、今何時?」
「えぇと…、うお、もう六時回ってる」
「まじかよー。二時間も何してんのオレら?暇人?」
三人の声が響く中、ヤスキはパンパンに張って苦しい腹を抱えたまま頭を下げ、土下座を続ける。
やがて三人はヤスキには声もかけず、今夜九時のテレビドラマについて話しながら倉庫を出て行った。
しんと静まりかえった中、しばらく土下座を続けていたヤスキは、数分経ってからおそるおそる顔を上げた。
びちゃびちゃに濡れた地面に正座したまま、脅えた視線を引き戸に注ぎ続ける。
もしかしたら三人が戻って来るかもしれない。そう考えるとすぐには動けなかったが、さらに五分ほど待っても戻って来る
気配が無いと、ようやく肩の力を抜く事ができた。
肩を落としてへたり込んだまま、ヤスキはしばしぼうっとした。
解放されたのは有り難いが、惨めであった。興味が逸れればもう声もかけられず、物程度の扱いをされる自分が。
「…う…、ふ…!ひっ…!ひっく…!うぅ…」
やがて、静かな倉庫に、ヤスキがすすり泣くか細い声が響き始める。
汚れた床に正座したまま、肩を震わせるヤスキは、膨れた腹を見下ろして手を当てた。
妊婦のような腹を撫でていたら、突然「えぶっ!」と戻しそうになり、慌てて口を押さえる。
水で膨張した胃が苦しくて、気持ち悪かった。だがそれ以上に心が辛かった。
両親が共働きで遅くまで帰らない事と、ヤスキが親に心配をかけたくない子供である事が、この状況を固定させてしまって
いた。
学ランは自分でクリーニングに出しているので、イジメによる汚れは親に気付かれない。
ちょっとした傷の手当は一人で済ませているし、何よりも三人の「スキンシップ」は服を着ていれば隠れる所へ集中する。
気付こうにも、ヤスキ本人が隠したがっている事もあって、親や教師の目にはシグナルが映らない。
三人と付き合いたくないという本音は、しかし決して口にする事はできなかった。
ヤスキはあの三人に、他人はおろか親にさえ絶対に言えない秘密を握られてしまっている。
だからどんなに虐められても、どんなに虐げられても、どんな暴力を振るわれても、逆らう事はできなかった。
ヒーローなんか居ない…。
居たとしても自分を助けてはくれない…。
誰にも言えず、救いを求める事もできないどん詰まりの状況で、ヤスキはいつからかそう達観するようになっており、なる
べく酷い目に遭わないようにと祈る事が習慣になっていた。
ただ一つ、ささやかながらも希望があるとすれば、「友人達」とのこんな関係も、せいぜい高校までだろうという事。
社会に出るか大学に進学すれば、もうこの関係も続かないだろう…。
これまで約三年間耐えたのだから、あと半分我慢すれば解放される…。
それが、ヤスキの折れそうな心をぎりぎりで支える、儚い希望であった。
冷静に考えれば、地元が一緒である限り、完全な解放など時間が過ぎるだけでは有り得ない。そんな事に気付かないはずも
無いのだが、ヤスキはあえてその点に考えを回さない。意図的にそこへ思考が巡らないよう、自己ブロックしている。
そうして希望を潰してしまわないようにしなければ、家から出る事もできなくなりそうだったから。
「ひっ…、ひっく…!ひっ…」
石灰塗れの制服の袖でぐしぐしと顔を拭う。
顔が石灰で汚れるのも、袖口が涙と鼻水で汚れるのも、もうどうでも良かった。
早く家に帰りたい。
早く部屋に帰りたい。
帰ってベッドに入り込みたい。
この世に一箇所だけ残った、絶対に安全な場所で丸まっていたい。
それだけを思いながら、ヤスキはすっかり水を吸って冷たくなったズボンと、中に水が入ってぐっしょりした靴を鳴らして
立ち上がる。
すすり泣きながら引き戸を開けて外を伺うと、外はもう真っ暗だった。
ヤスキは鍵を持っていないが、取り付けられた南京錠は、閉めるだけなら誰でも出来る。
こそこそと鍵をかけ、改めて周囲を見回し誰も居ないのを確かめてほっとしたのも束の間、散々飲まされた水で膨れた腹は
重くて、歩くたびに胃袋が弾んで苦しく、中で揺れた水がたぽたぽと音を立てる。
数歩進んだら耐え難い吐き気が込み上げてきて、もう居てもたってもいられなくなった。
倉庫の敷地の隅にある、電球が切れ、笠が錆び付いた灯りがぶら下がった鉄柱の脇で、ヤスキは体をくの字に折って吐いた。
草むらに吐き出した胃の内容物は、胃液交じりとはいえもう殆どが水で、体を折って腹を圧迫すれば、喉から勢い良く溢れ
て口と鼻からバシャバシャと出て行った。
もはや酸っぱさすら殆ど感じない嘔吐を終えたヤスキは、いくらか楽になった胃袋と脱力感を抱え、とぼとぼと歩き出す。
自分を酷く惨めに感じている。
反抗する気持ちなどとうの昔に消え失せているし、泣き喚いて許しを請う事にも慣れた。
だが、他の殆どの事にどれだけ慣れようと、嵐が去った後に押し寄せる耐え難いこの惨めさだけは、イジメが始まった頃か
ら全く薄れていない。
それでもヤスキはただ耐える。きっといつかはこの状況から開放されるだろうという事をささやかな希望にして、唯一の支
えにして、大切に抱き締めながら。
重い足取りで帰路を行くヤスキは、やがて唐突に足を止め、何かに怯えるようにぶるっと身震いした。
怯える事が反射になってしまっている自分を情けなく思いつつも、しかしほっとしながらズボンのポケットに手を入れ、取
り出したのは携帯電話。
メールを受信した携帯の小窓に表示されている、つい先日登録したばかりの虎の名前を目にし、弱ってしょげ切っていた白
豚の顔が僅かに和らぐ。
ヤスキがずっと体を丸めていたのは、これも理由の一つである。
暴行を受ける最中、携帯が壊れてしまわないよう、奪われてしまわないよう、太腿を腹に引きつけるようにして守っていた。
先週までは例え取り上げられて中身を見られてもどうという事はなかったのだが、今は違う。アトラと親しくなった事は、
あの三人に知られたくなかった。
もしもアトラの番号が登録されている事が知られたら、メールを受け取っている事を知られたら、愉快ではない目に遭わせ
られ、せっかくできた繋がりを切られてしまいそうな気がして…。
先週末に受け取ったアトラからのお礼のメールも、念のために消してある。
せっかく送って貰えたメールを消してしまうのは、正直な気持ちを言えばとても惜しいし残念だったが、背に腹は代えられ
ない。下手をすれば、メールを貰う機会すら断たれてしまうかもしれないのだから。
携帯を握り締めて立ち尽くしながら、どん底まで落ち込んで冷え切っていた心が、ほんの少し軽くなって温まる。
この春に遠い街からやってきた同級生は、何も知らずに自分と接してくれる…。
ヤスキにとって、ふとした事が縁で少し親しくなれたアトラは、久し振りに自分と対等な接し方をしてくれた存在であった。
本当に友達になってくれたら、どんなに嬉しいだろう?
他の皆がそうするように、休み時間にテレビの話題で盛り上がったり、昼食を一緒に食べたり、休みの日にどこかへ一緒に
遊びに行ったり…。
そんな当たり前の事を眩しく思うほどに、ヤスキは「普通」という物に憧れていた。
痛みも幾分忘れ、表情を和らげて歩き出しながら、ヤスキは届いたばかりのメールを読む。
だが、数歩も行かない内に足が止まり、表情が強ばった。
「…え…?」
読み返すヤスキの目には、「最近万引きが多発しているらしいが知っているか?」という内容のメールが映っていた。
「…う…!うぅっ…!」
呻くような声を漏らしたヤスキは、しかしアスファルトを踏む重い足音を耳にし、はっと顔を上げた。
はっきりとは見えないが、行く手の電柱に設置された灯りの向こう、広がる暗がりの中に人影が見えた。
あんな事があった直後である。今のヤスキは何だって恐ろしいし、何だって怖い。
思わずジリッと後退したヤスキが目を凝らすと、たまたま道の向こう側を走って行った車のライトが、暗闇を闊歩する大き
な影を浮かび上がらせる。
(あっ…!あのひとって確か…)
こちらに向かって歩いてくる相手が誰だか確信したヤスキは、踵を返して脇道に入る。
「む?おい!そこの!」
その動きを不審に感じた相手が足を速め、夜道に大声が響き渡る。
驚いたヤスキはビクッと身を震わせ、全力で駆け出した。
パトロール中の大牛が、ヤスキが入った脇道の前に立ったときには、白豚は奥の角からさらに曲がって姿をくらませていた。
大牛は足を止め、それ以上追おうとしない。
汚れた格好を見られたくないという理由で小走りに逃げ、身を隠したヤスキだったが、その行為のせいで、大牛にある疑念
を抱かせてしまった。
逃げた生徒の恰幅がかなり良い事を、大牛はシルエットからはっきりと確認している。
ヤスキはそこまで考えていなかったが、白豚の姿は学生服とのコントラストもあり、暗い夜道では目立ち、大牛に強い印象
を残していた。
(…万引き容疑がかかった学生グループの一人は、えらく太った男子だったとか…。まさか…?)
頭部が白い太った生徒…。大牛は、校内でそんな生徒の姿を見た事があった。だからこそ、今無理に追う必要はないと判断
したのである。
(…あまり考えたく無い事だが…)
無骨な顔を険しく歪め、大牛は深く息を吐いた。