第五話

火曜日。校門を抜けたアトラは、見知った後ろ姿を見て小走りになった。

「シラト。今日は一人か?」

距離を詰めてかけた声に、太った生徒は一瞬ビクッと驚いたように肩を震わせ、それから振り向いて、一瞬意外そうな顔を

した後、安堵したように表情を緩めた。

勢い良く振り向いた白豚の過剰な反応に、一度は眉をひそめたアトラだったが、しかし下膨れの顔に浮かんだ柔和な表情を

目にすると、疑問を投げかけるのも忘れてつい口の端に笑みを浮かべてしまう。

「はい。マガキ君も一人です?」

声をかけて来たのがあの三人ではないと知って浮かんだ、ヤスキの安堵の表情を、しかしアトラは愛想笑いと捉えて違和感

を覚えない。

三人は、週に一度か二度、ヤスキを交えずに下校する。

ヤスキ抜きで過ごしたなら過ごしたで、楽しい事はまた別にある。三人が一緒に過ごして楽しいのは、逆にヤスキにとって

は楽しくない事をされる時と決まってはいるが…。

昨日散々弄って気が済んだのだろう三人が、たまたまこうして放っておいてくれた日にアトラが声をかけて来てくれた事を、

ヤスキは喜んだ。

言葉を交わすようになってまだ日が浅いのだが、ヤスキはこの新しい知り合いを好ましく思っている。

第一印象では、もっと怖そうな生徒だと思っていた。

だが、実際に言葉を交わしてみれば、顔は怖いが割と話しやすく、何よりも結構話題が合い、話す事に困らない。

ファーストコンタクトとなった、後ろから抱きつかれたあの朝は、因縁をつけてきたのではないかとビクビクしたものだが、

直後に虎が見せた情け無さそうで申し訳無さそうで、なんとも恥かしそうなあの表情は、先入観を一発で吹き飛ばしていた。

願ってもいなかったアトラの提案で途中まで一緒に帰る事になると、ヤスキは心の中でとても喜んだ。

校庭から風に乗って飛んで来た散り始めの桜が、二人の足元で戯れるように渦を巻き、また離れてゆく。

春爛漫。あちこちで若々しい草が背を伸ばしている道を、虎と白豚は言葉を交わしながらゆっくりと歩いた。

まるで、分岐路での別れを少しでも先に延ばすように。

だが、あのロックバンドの話をしながら歩けば、一緒に進む道はあっという間に終わる。楽しい時間と楽しい距離は、どう

いう訳かいつでも極端に短い。

分かれ道が近付いてきた所で、アトラは何気なく聞いた。あのバンドの曲の、どういう所が気に入っているのか?と。

「えぇと…、たぶんですけど、ホッとするんです」

「ホッとする?」

意外そうに聞き返したアトラに、ヤスキは考え込むような表情で頷いた。

「たぶん…、暗い曲とかで安心するんです…。「ああ、ぼくはここまで酷くないですねぇ」って…」

「何だか後ろ向きだな?」

アトラが率直な感想を漏らすと、ヤスキはハッと驚きの表情を浮かべた。

うっかり本音を言ってしまったが、これはどう考えても奇妙な答えだった。

何とかフォローしないと妙な目で見られるかもしれない…。そう焦ったヤスキは早口で弁解した。

「いえっ、テレビでですよ?前にそう言ってたひとが居たんです!そ、それでっ「ああ、言われてみればそうだなぁ」…って

思ったっていうかですね!」

「う〜ん…。そう言われると、そういう捉え方もできるかもな、いくつかの曲は…」

アトラが目を細めて思案し始めると、ヤスキはほっと胸をなで下ろした。

「ま、マガキ君は、英語得意なんです?洋楽聴くんですし…」

ヤスキがこれ幸いとばかりに話を逸らしにかかると、アトラはあっさりと乗って首を横に振った。

「中の下だなぁ。…いや、やや過大評価してだが…。歌詞を丸暗記して意味を覚えているだけで、単語レベルから理解して応

用できる訳でもない。…シラトは?」

「ぼくもそんな感じですよぅ。ついでに打ち明けちゃいますですけど、全体の成績も中の下くらいです」

「お、似たもの同士か…」

アトラがニヤリと笑い、ヤスキはその笑みにドキッとする。

少し俯いた白豚がたっぷりした胸に手を当てた事には注意を向けず、アトラは前を向いて呟いた。

「しかし、授業は真面目に受けているよな、いつも…」

「え?いつも?」

「おれが見ている限りでだが、ノートも真面目にとっているんじゃないか?眠い授業でも」

「そ、それは…、あ、頭が良くないから、真面目にやらないとついてけないからです…」

ヤスキはボソボソと答えながら、気恥ずかしくなって顔を火照らせた。

(ま、マガキ君…、授業中にぼくの事見てたりするんですね…)

「…あそこから左だったな」

言われて頭を切り換え、顔を上げたヤスキは、名残惜しく思いながら頷いた。

もう少し話をしていたかったが、それぞれ寮と自宅に向かう分岐路は目の前であった。

(…もう少し、お話ししてたかったですけど…)

「…もう少し、話がしたかったが…」

自分が思った事を見透かして声に出したような虎の言葉に、ヤスキはビクッと身を硬くして立ち止まる。

「ん?どうした?」

数歩進んだ所でヤスキの足が止まった事に気付き、アトラは振り返る。

「え?い、いやぁ…」

もじもじしながら口ごもったヤスキは、鼻の周りを少し赤らめていた。

(え?えぇっ!?は、話をしたかったって…、も、もしかしてぼくとです?ほ、他に誰も居ないですよね?じゃ、じゃあやっ

ぱりぼくと話をしたいって、言ってくれたです…?)

ドギマギするヤスキから視線を外して腕時計を確認したアトラは、「もし…」と少し遠慮気味に口を開く。

「もし時間があるなら、どこかで少しダベらないか?」

「え?は、はいっ!大丈夫ですよ!」

ヤスキは声を上ずらせてこくこくと頷く。願ってもいなかった申し出に、心底喜び、また緊張しながら。

「ここからなら…、寮が割と近いんだが、来るか?」

「え?りょ、寮です…?」

突然の住まいへの誘いにやや戸惑ったヤスキに、アトラは「今日はシゲも部活で居ないはずだし…」と呟きながら頷く。

「…えぇと…、シゲ…?」

「おれのルームメイトだ。隣のクラスの狼」

「えっと…、良いんです?相部屋って事は、マガキ君の部屋はその…、シゲ君ってひとの部屋でもあるんですよね?勝手に上

がって怒られないですかね?」

戸惑い気味の白豚にそう指摘された虎は、口をぽかんと開けて「あ」と間の抜けた声を漏らす。

(そういった配慮については考えた事もなかったな。確かに部屋は共有している訳だし、一言も無く連れ込むのはまずいか?

…まぁ、そう気にするようなヤツでもないと思うが…)

少しの間考え込んだアトラは、ヤスキに向かって「大丈夫だ」と頷いた。

「え?で、でも何だったんです今の間?ホントはあんまり大丈夫じゃないとか…」

「いや、本当に大丈夫だ。考えた事もなかったから少し迷ったが、シゲはそういう事を気にするようなヤツでもないと思う。

結構無頓着な所があるしな」

不安げなヤスキに、アトラは自分に言い聞かせてもいるような口調でそう告げる。

そして感心した。この白豚は、こういった気配りがきちんとできるヤツなのだと。

冷蔵庫にジュースはあっただろうか。無ければ寮の販売機で買えば良いか。そんな事を考えながら歩くアトラの横で、心弾

ませ、しかし少し俯き加減で恥かしげに歩くヤスキ。

これから過ごす楽しい一時に意識が向いている二人は、全く気付かない。

「…シラトのヤツ…。マガキと何処に行くんだ…?」

三人組の一人…ナカモリが、その後を学校前からずっと尾けていた事には…。




あの頃には、おれの中でヤスキのイメージはほぼ固まりかけていた。

真面目で、お人好しで、気配りができるヤツ…。

けれどおれは本当のヤスキを判っていなかった。判ってやれていなかった。

…何も知らないまま、判ったつもりになって…、理解したつもりになって…。

どこまでも鈍くて間抜けなおれは、本当はヤスキが毎日のように辛い目にあっていたなど、想像もしていなかった…。




(これが…、マガキ君の部屋ですか…)

入り口から上がった所で足を止め、しげしげと部屋の中を見回す白豚。

家の窓から寮を眺めてはいたが、実際に中へ入るのは今日が初めてである。

話には聞いていたが、買い取ったホテルを改装したという寮の部屋は、予想以上に立派な作りになっていた。

(学校の理事長、昔から続く資産家だっていう話ですけど…、こんなホテルいくつも買い取るぐらいお金持ちなんですか…。

いっそ不動産業者とかリゾート開発とかやっちゃえば良かったんじゃないです?それとも学校経営って儲かるんですかね?)

現理事長の義理の父にあたる先々代が、老朽化したそれまでの学生寮にかえて利用する為に、リゾート開発計画が頓挫した

せいで浮いていたホテルを一気に四つも買い取ったというのは、地元では有名な話。当然ヤスキも耳にしている。

(こういう所なら、ちょっと泊まってみたいです。…って言うか…、ここで生活してるですよね?マガキ君…。なのに何で…)

アトラがキッチンに入って飲み物と菓子の用意をしている間に、改めてじっくりと部屋の中を観察したヤスキは、眉根を寄

せて首を傾げた。

(何かこう…、ちょっと殺風景です?私物があんまり見あたらない…)

ヤスキの疑問はもっともで、アトラとシゲの部屋のダイニングは私物が極端に少なく、デスクの上に筆記用具などが出てい

る程度。二人とも持ち込んでいないのでテレビもパソコンも無い。

「男やもめな割にさっぱりしているだろう?実は二人して段ボール詰めのままの荷物があってな、寝室に放り込んである」

オレンジの炭酸飲料とチョコクッキーをトレイに乗せて戻って来たアトラの言葉で、ヤスキは納得した。

「無くても困らない物をわざわざ出して、せっかく広々使えている部屋を狭くするのも惜しくてな」

「なるほどです」

頷いたヤスキを座らせて、アトラはトレイを座卓に下ろし、向き合う格好であぐらをかく。

そこからはもう共通の話題である古いバンドの話に没頭し、ヤスキは最初に抱いた緊張を忘れてアトラと語り合う。

アトラもまた、他のクラスメートが見たら目を疑うほどに良く喋り、この一時を楽しんだ。

薄々自覚はしていたが、どうやら自分はヤスキと話すときは饒舌になるらしい。自分でもやや寡黙な事は自覚していた虎に

は、その事が少し可笑しく感じられた。

気の置けない友人。

まだ出会ったばかりにも関わらず、ヤスキはアトラにとってそんな存在になりつつあった。

「知ってるです?ハウルがアメリカでライブした時、バックコーラスに入った地元の子供達の中で、ある女の子にだけ興味を

見せたって話…」

「ん?うーん…、記憶に無いな…。それで?その女の子がどうしたんだ?」

「ハウルは最初にリハーサルした時に、バックコーラスの中からその子の声だけが全く別の物になって聞こえて来たそうなん

ですよ。それで、本番前にその子の所に行って、こう言ったそうなんです…」

ヤスキは一度言葉を切り、続きが気になっているアトラに、少しもったい付けてから続けた。

「「君はいずれ世界を変える」って」

「あ!ああーっ!あの言葉って、そういう状況で言われたのか!」

フレーズだけ知っていたアトラは、バックボーンに触れてやや興奮した。

だが、白豚の話はそこで終わっておらず、続く言葉でアトラは絶句した。

「それじゃあ、その言葉をかけられた女の子が、シェリル・ウォーカーだったって事も知らないです?」

「!?」

世界的な歌姫の名前が飛び出し、アトラは口をぽかんとあけて目を丸くする。

その反応を面白がりながら、ヤスキは知識が披露できる事が嬉しくて仕方がないといった様子で、鼻をフコフコ鳴らした。

「ほ、本当なのか!?それ…!」

「本当ですよぅ。シェリル自身も公式にコメントしてますですしね!彼女のセカンドネームの「ウォーカー」って、ハウルの

セカンドネームの半分、「ワーカー」にあやかって付けた芸名だって、生放送の番組で暴露してたそうです」

「おぉ…!物凄く得した気分だ、その豆知識…!」

「ハウルのバンドはこっちじゃちょっとマニアックですからね、シェリルファンもピンと来ないらしくて、あんまり広まって

ないエピソードみたいですよぅ」

「あのセリフ、確かあれだけじゃあなかったよな?えぇと…、「そうなった時、世界が…」何だっけ?」

思い出そうとして眉根を寄せたアトラの前で、ヤスキは詩を朗読するようにすらすらとその言葉を口にする。

「「君はいずれ世界を変える。そうなった時、世界が君の敵に、そして君が世界の敵にならないよう祈る」です」

「意味深だな…。今まで何か漠然とした事に対して言った言葉だと思っていたが、あれが個人に向けられたんなら…、どうい

う気持ちで言ったんだろう?」

白豚は少し考え込み、「たぶんですけど…」と口を開く。

「歌手として有名になったら、いろいろ大変じゃないですか?良く思ってくれるファンばかりじゃないし、ちょっとした事で

マスコミとかに叩かれちゃうかもですし…。だから、そういう事に注意しなさいって言いたかったんじゃ…」

「なるほど…、そう考えればもっともだな。そうか、「世間を敵に回すな」という意味だったのか」

納得し、すっきりしたような顔のアトラから視線を外し、ヤスキは壁の時計を見遣る。

寮の備品なのだろうシックでシンプルな壁掛け時計は、午後六時を示そうとしていた。

(…楽しかったのに、あっという間です…)

残念に思いながら、ヤスキはアトラに別れを告げる。

言われて時間を確認したアトラは、少し驚いたように「こんなに時間が経ったのか…」と呟いた。

楽しさの余韻と名残惜しさを胸に、ヤスキはアトラに見送られて寮の門まで出る。

だが、アトラに見送られて歩き出したヤスキは、部屋の窓から自分を見ている者が居た事には気付いていなかった。

自室の窓から外を覗いた大牛が、厳しい光を湛えた視線をじっと白豚に注いでいる。

「…マガキの知り合いだったのか…」

呟いた大牛は、ルームメイトの「ウシオ、そろそろ飯に行こうよ」という声に、「ああ…」と、珍しく上の空で返事をする。

(さて、どう接触するべきか…。いや、動くのは情報を集め終えてから、か…)

牛の視線に気付かないまま、角を曲がって姿を消したヤスキは、暗くなった帰り道を気分良く歩んで家に帰った。

久しぶりに心から楽しめた。だからこの日ヤスキは、眠りにつくまでずっと、辛い日常の事を忘れたままでいられた…。




思えば、あの時はもうウシオ先輩はヤスキの事を気にしていたはずだ。

白い太った生徒、という特徴から…。

もしもあの日、寮に来たヤスキと先輩が顔を合わせていたら、何か変わっただろうか?

…いや、あの時点では、先輩はまだ動かなかったかもな…。




翌日の午後。

最後の授業が終わり、ホームルームが済み、ようやく解放されたアトラは大きく伸びをする。

が、大きく開いたその口は、急にパコンと閉じた。

ホームルームが終わるなりすぐさま隣のクラスからやってきた狼が、頭に手を乗せて、ぐいっと押したせいで。

「危ないだろうがシゲ。舌を噛んだらどうする」

顔を顰めたアトラが強い口調で言うが、マイペースな狼は悪びれる様子もなく「今から時間取れるか?」と訊ねて来た。

「何故?」

「先輩にいい事教えて貰ってさ」

「いい事?」

疑わしげなアトラは、しかしシゲが続けた言葉で顔付きを改める。

「美味いラーメン屋!確かめに行く気ない?」

「行こうじゃないか」

寮で夕飯は食えるものの、それとこれとは話が別。

この街に来て日が浅い彼らは、店の評判について全くの無知。寮食が閉まっている時に利用可能な美味い定食屋やラーメン

店の情報は、いくらでも欲しい所であった。

「んじゃ早速行こうぜ。いやーラッキーだった!昼休みにたまたま会った先輩から聞けたんだよ」

乗り気になったアトラは早速荷物を纏め、シゲに続いて教室の後ろから出ようとする。

そしてふと首を巡らせると、その目に映ったのは、いつもの三人と一緒に居る白豚の姿。

(…あっちはあっちで友達付き合いがあるだろうし…、誘うのは止めておくか)

座ったままのヤスキと、それを囲む三人から視線を外したアトラは、そのまま廊下に出て行った。




相変わらず、おれは気付いていなかった。あの三人とヤスキの、本当の関係に…。

たぶん観察眼が無いんだろうな…、それに想像力も。

想像もしていない事については考えが回らないというか…。

頭に柔軟さが無いんだろう。致命的に…。




『おぉう…』

カウンターの席についたアトラとシゲは、出てきたラーメンを凝視しながら、思わず感嘆の声を漏らしていた。

湯気が立つラーメンどんぶりは、表面が隙間無くチャーシューで覆われている。

シゲが先輩から教えて貰ったというこの店の人気メニュー、「ドカ乗せチャーシュー麺」は、期待以上のビジュアルとボリュ

ームを兼ね備えていた。

シゲが聞いた所では、地元では若い世代を中心に人気があるラーメン屋らしく、話に違わず混み合っている。

店舗はそれなりに広く、席も多いのだが、午後四時という時間にもかかわらずほぼ満席であった。

昼時と夕飯時は店の外まで行列ができるとも聞いたが、シゲはこの様子を見て納得した。

「これ、千円は明らかに安いよなぁ…」

「ああ、得した気分だ」

二人は早速箸を割り、分厚いチャーシューを摘んで頬張った。

「チャーシューから箸を付けるの、実は初めてだよ」

「おれもだ」

少し感激しているシゲの横で、短く応じたアトラは考え込んだ。

美味い。美味いのだが何か引っかかる。

(そうだ。味だ。こんな味を何処かで…)

このチャーシューと似た味を、つい最近何処かで味わった。それで引っかかりを覚えたのだと気付いたアトラは、すぐさま

白豚の顔を思い出した。

(…ああ…。そうか、そういう事か…)

カウンターの向こうで忙しく立ち回っている太り肉の黒豚と、色白の人間女性を改めて見遣り、アトラは納得した。

(飲食業…。確かに飲食業だ。このひと達がシラトの両親なのか…)

いかにも職人らしい気難しそうな顔付きの黒豚は、毛色こそ違うものの、その恰幅の良いでっぷり体型がヤスキと非常に良

く似ている。

美人と言って良いだろう人間女性は、細身だが、色白な肌と柔和そうな円らな目がヤスキを思い出させる。

妙に納得できた。特徴が混じり合えば、確かにあの白豚が間に生まれそうな二人である。

最初こそ考えもしなかったものの、一度気付いてしまうともう間違えようもなかった。

「ん?口に合わないのか?」

箸を止めているアトラに気付いたシゲは、ルームメイトの顔とラーメンを交互に見遣る。

「…いや…」

納得してすっきりと気分が良くなったアトラは、口の端を少し上げて笑う。

「物凄く美味い」

一方、二人は気付かなかったが、衝立で区切られた座敷席の奥では、同じ学校の先輩が二人、こそこそと声を潜めて言葉を

交わしていた。

「…まさか、この店の息子だったとは…」

呟いた大牛はぞるるるっと豪快に麺を啜る。

「やはり知らなかったか」

彼と向かい合った席に座り、同じようにラーメンを啜っているのは、小山のような巨体、かつ肥満体の河馬。

やたら目を引く大男二人組は、周囲の視線を浴び続けながらひそひそと会話を続ける。

「…いや待てジュウタロウ。ワシは言った。確かに言った。白土安基の事を知りたいと言った。だがこういう事を知りたい訳

じゃあなくてだな…」

「む?違うのか?将を射んとせばまず馬を射よ…と、そういう事かと思ったのだが…」

「待て。何がどうなってそんな発想に?」

眉をひそめて問う大牛に、河馬は真顔で続ける。

「応援団への勧誘の為に、両親に取り入っておくつもりなのかと」

「そんな回りくどい勧誘なんぞするか」

「では…」

河馬はすっと目を細め、声を一層小さくした。

「応援団の「副業」に関係する事で、調べているのか」

「そういう事だ。…他言は無用だぞ…」

「判っとる」

河馬はチャーシューを箸で摘むと、「しかしそういう事なら…」と言いつつ口に放り込む。

焦らされるような気分で話の先を待ち、河馬がチャーシューを咀嚼し終えるのを待った大牛は、

「あまり穏やかではない噂は、前にちらっと聞いた事がある」

「どんな噂だ?」

身を乗り出した大牛に、河馬は「ふむぅ…」と息をつきながら視線を向け、

「まず…」

「まず!?」

「のびる前に食わんか?」

そう、かなり真面目な顔で主張した。

一方、二人が密談している間にアトラとシゲはラーメンを食い終え、満足顔で会計をしている。依然として衝立の向こう側

には気が付かないまま。

虎と狼が連れ立って出て行った数分後、会計を済ませて店を出た巨漢の一方は、

「夜遅くまで、友人達とゲームセンターにおるとか、繁華街付近をうろついとるとか、そういった噂を聞いた事がある」

そう、大牛が聞きたかった類の話を始めた。

「その方面の話を、できる限り詳しく」

大牛の目がやや鋭くなると、河馬は「それは構わんが…」と先を続けた。

「彼とつるんでいる友人達は、もしかしたら…」

目を細めた河馬は、親友の顔に昨年の彼の面影を重ねた。

今とは浮かべる表情がまるっきり違う、凶暴で、獰猛で、荒れに荒れていた頃の猛牛の顔を。

迷いが無いと言えば嘘になるが、それでも河馬は伝える事にした。

自分が話さなくとも、大牛はいずれ自力でそこに辿り着く…。そうなった時、最悪のタイミングでその状況を受け止めるよ

り、予め教えて心の準備をさせておいた方が幾分マシに思えて。

「…シンイチよ…、お前が良く知っとる相手と、繋がっとるのかもしれん…」




あの時は驚いた。

だが納得もした。

考えれば考えるほど、あの両親とヤスキは部分的に酷似していて…。

人気店だから当然親は忙しいんだろう。

一生懸命働く親に迷惑をかけたくないから、心配をかけたくないから、ヤスキはずっと我慢していたんだ…。




電子音やBGMが賑やかに鳴り響く、明るく色彩豊かなゲームセンターの中で、学生服の一団が対戦格闘ゲームの筐体を囲

んでいた。

コバヤシ、ナカモリ、タカスギ、そして白豚の四人組である。

人間男子三名はゲームの画面を注視しているが、ヤスキだけは所在なさげな様子で一歩引いた所に立っている。

明らかに気乗りしていない様子が表情から窺えるが、「友達」が目を向ける度に愛想笑いを浮かべる。

「ぐあ!また負けた!無駄につえー!」

ゲームに興じていたナカモリは、操作していたキャラクターを一方的に叩きのめされて敗北し、不機嫌そうに顔を顰めて仰

け反った。

画面上端に表示されている連勝記録は四十を越え、対戦相手の腕前を物語っている。

「代われよ、今度はオレだ」

仲間と交代で椅子についたコバヤシは、ヤスキを振り向いて手を伸ばす。

「ほれ、出せよ」

「あ、は、はいです…」

催促されたヤスキは財布を取り出し、バリッと口を開けて硬貨をつまみ、コバヤシの手の平に乗せた。

ヤスキの財布はギンガムチェックの蝦蟇口であった。ただし、蝦蟇口とはいっても形状だけで、口はマジックテープ式とい

う、安っぽく、そして子供っぽい品である。

蝦蟇口にギンガムチェックという組み合わせ自体が居心地の悪い多国籍風で、どこか胡散臭い。

高校進学の際に買い与えられた本革製のおしゃれな財布は、十日ほど前にナカモリに召し上げられてしまい、そのまま戻っ

て来ていない。

そのため、中学時代に使っていた、あまり気に入っていないこの財布を再び引っ張り出している。

硬貨を受け取ったコバヤシは礼も言わずに筐体へ投入し、じりっと画面に身を寄せ、連勝記録更新中の手強い相手に挑む。

今渡した百円玉が最後の一枚で、財布にはもう十円玉以下の硬貨が数枚入っているだけ。

切なくなってため息をついたヤスキは、所在無く突っ立ったまま何気なく巡らせた視線をゲームセンターの入り口で止めた。

ガラス張りの自動ドアの向こうを、見知った姿が丁度横切ってゆく。

(マガキ君…。それと…)

クラスメートである虎の横には、すらっとした狼の姿。

見覚えのあるその狼こそがアトラから聞かされていたルームメイト、「シゲ」である事は、ヤスキにも容易に察せられた。

二人はゲームセンターの中には視線も向けず、立ち止まりもしなかったため、ほんの短い時間しか見えなかったが、歩き去

るアトラの表情が目に焼き付いたヤスキは、胸の奥が苦しくなった。

(マガキ君…、楽しそうでした…。あんな顔で笑って…)

実際には彼と話をしている時にも見せる笑顔だったのだが、今のヤスキには、そうは受け取れなかった。