第六話

アトラとシゲの姿をゲームセンターの自動ドア越しに眺めたヤスキは、気分が沈んだ。

隣の芝生は青く見える。シゲと連れ立って歩くアトラの表情は、今のヤスキにはより眩しく見えてしまう。

どうしてそんな気分になるのか、白豚自身にはまだ良く分かっていないが、気分が重いのは、「やはり自分と居るよりも他

の友人と一緒の方が、アトラも楽しいのだろう」と感じてしまったからであった。

「くっそ!」

悪態をついたコバヤシが筐体を叩き、ヤスキはハッとして顔を戻した。

勝負がつき、良いようにあしらわれて負けたコバヤシは不機嫌さを隠そうともしていない。

「ほれ!次!」

苛立たしげに手を伸ばして催促したコバヤシに、ヤスキは耳を後ろに動かしながら首を振る。

「も、もう無いです…」

「ちっ!つかえねー!」

筐体を一瞥して立ち上がったコバヤシは、八つ当たりにヤスキの肩をドンと突く。

「痛…!」

ビクッと身を強張らせながらよろめいたヤスキは、その手首を横合いからタカスギに掴まれ、怯えたような目を「友達」に

向けた。

「ホントにもうねぇのかよ?財布見せてみろ」

ヤスキはびくつきながら財布を取り出し、そろそろと差し出す。それをふんだくったタカスギは、中身を見て舌打ちした。

「マジでねーし…」

「おいシラト、ちょっとそこで跳んでみろ?」

口を挟んできたナカモリに視線を向け、ヤスキは従順に頷く。

白豚が太った体を揺すりながらその場で何度か跳ね、小銭の音がしない事を確認すると、三人はようやく諦めた。

「まぁいいや…。また明日な」

「え?あ、明日…?」

ヤスキの顔が強張る。このペースで金を巻き上げられていては小遣いが保たない。

ただでさえこの他にも大きな出費を強要されているのだから、今月の小遣いは早くも残り少なくなっている。

これまでは金が無くともあまり困らなかったが、アトラとの交友を意識し始めたここ数日は、いつ「ジュース飲もう」と言

い出されても対応できるようにと、小銭の存在を意識するようになっていた。

「何だよ?嫌なのか?ああん?」

小柄なコバヤシが下から睨め上げるようにして凄むと、彼の三倍以上重いヤスキはブルルッと震え上がり、慌てて首を横に

振る。

「そ、そんな事無いですよぉ!」

「だよなぁ、楽しいよなぁこうやってつるむの」

表情を一変させ、親しげな笑みを作ったコバヤシの前で、ヘラヘラと追従の笑みを浮かべながら頷く白豚。

しかしビクつきながらも、彼の気持ちはアトラの方に向いていた。

(ど、どうしよう…?お金持って来なければ怒られますし…、持ってなければマガキ君と帰れる時、ジュース飲もうとか言わ

れたら困るです…。でも持って来て取られちゃったら結局同じですし…、あうぅ…!)

つまらないヤツだと思われたくない。退屈なヤツだと思われたくない。せっかく仲良くなれたあの虎に嫌われるのは、とて

も嫌だった。

どんな些細な事でも、アトラとの交友において引っかかりになるような事は避けたかった。

本人にとってはそんな気配りや心配すら、大げさでも何でもない。ヤスキにとってアトラとの交友関係は、どうあっても潰

したくない大切な物なのである。

そんな事を考えたヤスキは、

「ところでさぁ、お前最近マガキと仲良いよなぁ?」

ナカモリが口にしたその言葉に、胸の内を読まれたような驚きを覚えてビクリと身を震わせる。

「さっきも自動ドアの方じーっと見てたよな?マガキが通ってった後も、さ」

見られていた。アトラが前を通っていったゲームセンター入り口を、じっと見ていたところを…。

焦るヤスキの前で、ナカモリは薄笑いを浮かべて続ける。

「寮にまで遊びに行ってたじゃん?お前さぁ、もしかして…」

「ち、違いますよぅっ!ま、マガキ君にちょっと用事があって!そ、それでお邪魔しただけで…!」

あたふたしながら咄嗟に思いついた言い訳を口にするヤスキの手を、タカスギががっちり掴む。

「ふぅん…。ま、ちょっと話聞かせろよ。な?」

ヤスキは恐怖に顔を引き攣らせたが、タカスギの手を振り解けなかった。

タイミング悪く、三人に口実を与えてしまった。

ゲームで負けがこんだ苛立ちを、ヤスキで解消する。「教育」の口実は何でも良い。

丁度良い口実があるのに、うさ晴らしを諦める三人ではなかった。

やがて三人はゲームセンターでの遊びを終わりにし、ヤスキを逃がさないよう半ば取り囲むようにしながら、出入り口に向

かって歩いて行く。

その様子を遠くから観察している者が居たが、四人は誰もそれに気付かず、そのままゲームセンターを出て行った。

四人の姿が自動ドアの向こうからも消え、完全に見えなくなると、店奥のドリンクコーナーの壁に寄りかかっていたその観

察者は、

「……………」

無言のまま、手にしていた空の紙コップをくしゃりと握り潰し、傍らのくずかごに放り込んだ。

店内の垂れ幕やポスター、ゲームの筐体の隙間を縫って四人を見つめていたその観察者は、大柄で、とても太っているトド

であった。

遮蔽物を利用し、その巨体を目立たないポジションに置いていたトドは、預けていた背を壁から離して、のそっと前に足を

踏み出す。

その途端に、エアホッケーやパンチングゲームの大型筐体についていた周囲の客達が、大きなトドの存在に気付いてぎょっ

とする。

潜んでいた訳ではない。壁により掛かってオレンジジュースを啜っていたトドの態度は、むしろ堂々とした物であった。

だが、その巨体は巧みな位置取りによって一目では全体を確認できなくされており、自ら動き出して姿を晒すまで、周囲の

客はこれほどの巨漢がすぐ近くに居た事に気付けなかったのである。

故にその巨体は、まるでぬぅっと、有り得ない角度から染み出して来たかのように錯覚されてしまう。

目つきの悪い三白眼のトドは殆ど音を立てずに歩み、やがて四人が居た筐体の傍で足を止め、空いた席をじろりと見遣った。

それから、直前までコバヤシがついていたその筐体と向き合う席へ、ゆっくりと視線を移す。

「見たか?ミギワ」

席に着いていた小柄な少年が唐突に口を開くと、トドは無言のまま短く頷いた。

「この数日ウシオが嗅ぎ回っているのは、あの白豚についてだ。例の件に関わっている可能性が高いとの話だが…」

ナカモリ、コバヤシをくだして連勝記録を伸ばした柴犬は、目まぐるしい手捌きで筐体のボタンを叩き、レバーを繰りなが

ら、物思いに耽るように眼を細める。

アトラ達の寮を束ねる寮監と副寮監、柴犬の星埜光とトドの藤堂汀は、それぞれ私服姿。

ミギワは群青色のカーゴパンツに濃紺の長袖ティーシャツ、その上に黒いベストという格好だが、退色したジーンズに緑の

トレーナー姿のヒカリは、まるで正体を隠すように獣人用耳出し穴がついたキャップを目深に被り、目元を暗くしている。

「あの四人の関係…。どうにも、ありがちと言えばありがち、そして妙と言えば妙な関係になっているようだな」

トドが無言のまま頷くと、太い首周りで衣類が擦れた僅かな音で察したのか、ヒカリは筐体のモニターから目を離さないま

ま「お前もそう思うか」と呟く。

「さてどうするか…。ウシオの顔を立ててやっても良いが、それだけでは僕らに旨味が無い。もっと得になる利用法がありそ

うだが…」

厳格で真面目。周囲からの評価はそうなっているのだが、ヒカリは己の事を悪党と自認している。それも、かなり性質が悪

い悪党だと。

寮監を務めているのは、規律正しいキチッとした活動を好む彼が、その発言力を強めて彼好みに寮を統治する為である。

だからこそ、他に寮監候補になりそうだった相手は、水面下で動いて本人にはそうと悟られる事なく評価を下げたりし、自

分への寮監推薦を確実な物にした。

自己の利益追求に余念が無いヒカリが、コンピューターが操作するキャラクターを淡々と叩きのめしてゆくのを眺めながら、

ミギワは無言で傍らに立ち続ける。

忠実な番犬のように、時折周囲へその険しい視線を飛ばしながら。

やがて、何事か思案していたヒカリは、ぽつりと口を開いた。

「ミギワ。連中を見張れ」

トドは僅かに視線を動かし、ルームメイトの後頭部を見遣る。

嫌だと言うのではなく、何事か問うような光を三白眼に灯して。

「優先すべきは白豚。あとの三人は次点で同列。取っ組み合いの喧嘩から自販機で買った飲み物まで、歩く事と息をする事以

外の行動は全部報告しろ」

異論を挟む事なく無言で頷いたミギワは、のっそりとヒカリの傍を離れ、ゲームセンターから出て行った。

「さて…。面白い事になるか…、それとも大して得な事にもならないか…、どっちにしろ、暇つぶしにはなりそうだ」

薄く笑う柴犬の目は、もはや筐体のモニターなど見てはいなかった。



乱暴に突き飛ばされたヤスキは、たたらを踏んでよろめきながらも、何とか踏み止まって振り向いた。

古びた木造倉庫の入り口、ヤスキを突き飛ばして中に入れた三人は、引き戸をきっちりと閉めるなり、各々がヤスキを取り

囲む形に移動する。

「もしかしてさー。アレか?この間の、先生からプリント折り頼まれたっての…、本当はマガキと遊んでたんじゃねーの?」

コバヤシの疑わしげな視線を受け、ヤスキはブンブンと首を横に振る。

が、首を振るまでの間に僅かな一拍が置かれた事に、三人は過剰に反応した。

担任からの頼み事を引き受けたのは嘘ではない。だが、アトラと一緒だった自分は、あの時も楽しかったのではないだろう

か?そんな自問がもたらした回答までの僅かな間は、三人の疑念に油を注ぐには十分だった。

斜め後ろに回り込んだタカスギに背中をドンと平手で突かれ、ヤスキは前へよろめく。

よろめいて足を踏み出した先で待ちかまえていたナカモリは、白豚が慌てて踏み止まると、ずいっと身を寄せて顔を急激に

近付ける。

「いぎゃっ!」

突然の痛みできつく目を瞑ったヤスキは、ナカモリに右脚の爪先をきつく踏まれ、さらにだぶついた脇腹を力任せに掴まれ

ていた。

制服越しとはいえ、捻るように抓られた脇腹の肉はギリギリと痛い。そして何より、贅肉をそのように弄ぶナカモリの目に

浮かぶ蔑みの目が、ヤスキの心を痛めつける。

「相変わらずだらしねー体しやがって…。何だよこの肉?えぇ?」

「い、痛いですよぅ…!は、放し…、ぶぎぃっ!?」

身を離そうとしたヤスキは、しかし肉を掴む手に力を込められ、目をきつく閉じて悲鳴を上げる。

ヤスキはナカモリの腕に弱々しく手を添えるが、力任せにふりほどく事などできはしない。

あからさまな抵抗は、より酷い事態を招くだけだと身に染みて理解できている。

足先をぐりぐりと踏みにじられ、腹肉をぎりぎりと抓られながら、その痛みを我慢するヤスキ。

しかし彼の心は、直接的な痛みよりもずっと恐ろしい事に向けられていた。

「なぁ、正直に言えよ?」

ふるふると小刻みに震えながら痛みを我慢しているヤスキに、脇からコバヤシが声をかける。

「お前もしかして、マガキに惚れたんじゃねぇの?えぇホモブタぁ?」

ヤスキの肥えた体が、その言葉に反応してビクンと大きく震えた。

「ち、ちち違いますです!そんなんじゃないです!」

必死に否定するヤスキの声は、完全に裏返っていた。

「ムキになって否定する辺りが、かえって怪しいなぁおい?」

ニヤニヤと笑いながら、ナカモリがぐっと身を寄せ、脇腹を掴む手にさらに力を込めた。

「オレらが代理でマガキに伝えてやろうか?お前の気持ち…。ん?」

痛みを堪えてきつく目を閉じたヤスキの背後にタカスギが寄り、肩越しに耳元へ恐ろしい言葉を囁きかけた。

「や、止めて下さいぃっ!ち、違います!本当に違うんです!マガキ君はその…、ただのっ!ただの友達でっ!」

「嘘つけブタぁ…。そーかそーか、惚れたかぁ、うんうん」

コバヤシが下卑た笑みを顔にへばりつかせ、大きく何度も頷く。

ヤスキは恐怖のあまり目に涙すら浮かべ、ぶるぶると震えていた。

これが、ヤスキが彼らに逆らえない理由であった。



ヤスキがソレについて自覚し始めたのは、中学校に入って間もなくの事であった。

あるクラスメートの男子に抱く、胸の奥が少し重い、苦しいが不快ではない、奇妙な感覚…。

最初こそ何だか判らなかったソレを、ヤスキはドラマなどを見て徐々に理解していった。

火照る顔…。胸の苦しさ…。相手の事ばかり考えてしまうその症状は、まさにテレビなどで語られる恋の症状そのものなの

ではないかと。

ヤスキが気になって仕方なかった相手は、背の高い、そしてやや体格の良い獅子であった。

成績は良く、スポーツもでき、おまけに教師からも気に入られており、皆がやりたがらなかった学級委員まで進んで務める

優等生…。

同性愛。

その恋愛の形をそう呼ぶ事をヤスキが知るのはもう少し先の事だったが、言葉は知らずとも、ヤスキは密かな恋をした。ま

だ鬣の生えそろわない、若々しく凛々しい獅子に。

そして気付いた。あの大好きな外国のバンドのボーカルにも、自分は恋をしていたのだという事に。

戸惑いはあったし、恐怖もあった。

自分は他の皆と違う。男を好きになるなど普通ではない…。

そう思い悩み、ろくに眠れない日々は数ヶ月にも及んだ。

それでも、ある意味幸せではあった。恋心がもたらす多幸感に酔いしれ、きっと実現しないだろう若獅子との恋を頭の中だ

けシミュレートする日々は。

…だが、やがてそれだけでは済まなくなった。

ヤスキの身体的な成長は、中学に入学してからの数ヶ月でピークに達した。

欲求は募り、下腹部に甘い疼きが生じるようになると、ヤスキは込み上げる欲情のはけ口を本能的に求め始めた。

丸めた布団に抱きつき、欲求から腰を振り、偶然にも精通を経験したのは五月の半ば。

我流で試行錯誤し、オナニーを覚えたのは六月の頭。

そして、考えているだけでは我慢できなくなってしまったのは、六月末の事であった。

若獅子の事を考え、毎晩のようにふける自慰。

しかし想像するだけの行為に物足りなさを覚えたヤスキは、ある日の放課後、誰もいない教室で、若獅子の机を漁った。

びくびくと周囲を窺いながら縦笛を抜き出し、そっと口に含む。

意中の相手の乾いた唾液がこびりついたそこを丹念に舐め、荒い息を吐きながら椅子に覆い被さり、頬ずりする。

背徳感と強烈な興奮。その行為に没頭するヤスキは、しかし気付かなかった。

かくれんぼに興じていた三人組の一人、コバヤシが、教室後ろのロッカーからそっと忍び出て、クラスメートの奇行をまじ

まじと見つめ始めた事には…。

この時から、ヤスキと三人の関係は始まった。

誰にも知られたくなかった弱みを握られたヤスキには、彼らの言いなりになる以外に道は無かったのである。

それから、地獄のような月日が丸三年にも渡って続く。

初恋の相手であった獅子は、二年生へ進級すると同時に、親の都合で遠く離れた街へ転校して行った。

初恋の対象である本人が居なくなっても、ヤスキの状況は良くならなかった。

忘れ難い思い出とトラウマを抱えたまま、白豚は全てを腹へ収め、誰にも相談できず、誰にも助けを求められず、少しずつ、

成長していった…。



「お、お願いです!言わないで下さい!」

三年前と同じセリフを、ヤスキは今日もまた繰り返している。

土下座して額を地面に擦り付け、石灰と土で汚しながら。

「ま、マガキ君はただの知り合いなんです!好きとかそういう事じゃないんです!」

上目遣いに自分達を顔色を窺って来る白豚を見下ろし、三人は優越感に浸る。

三人には、そう簡単にこの秘密をばらすつもりはない。彼らにとってヤスキは大切なストレス解消用具であり、下僕であり、

愉快で無様で醜い友人である。そう簡単に手放すのは惜しい。

だが、そんな事まで考えが及んだとしても、決して秘密をばらされる訳には行かないヤスキには、彼らの機嫌をなるべく損

ねないよう、従順に、おとなしく、されるがままになっておくしか道はない。

「どーすっかなー…」

「教えてやった方が良いんじゃね?」

「そうそう、マガキの身の安全のためにも」

三人が口々に言い、ヤスキは「そ、そんなっ!」と声を高くする。

「や、止めて下さいっ!何でも…、何でもしますからぁっ!だからマガキ君には言わないで下さいぃっ!」

必死なヤスキは這いずって進み、三人の足元で土下座を繰り返す。

その姿を見て気分をよくした三名は、顔を見合わせて笑みを深くした。

「んじゃ、ここでオナニーしろよ」

「…え…?」

繰り返し頭を下げていたヤスキの動きは、コバヤシの声で止まった。

「ここでオナニーしてみろよ。そうしたら言わないでおいてやるから」

優しい。そうとさえ言える猫なで声でナカモリが後を引き取る。その優しげな声音に、ヤスキは逆に寒気を覚えた。

「マガキの事おかずにしてさ、やってみろよ」

「ぎゃはははは!それサイコー!ってかサイテー!」

大概の事にはおとなしく従うヤスキも、これにはさすがに躊躇した。

「そ、それは…!」

三人の前で公開オナニーをさせられた事は、前々から何度もある。

だが、アトラをおかずにしろという言葉に、強い抵抗を覚えていた。

何も知らずに友人として接してくれているあの虎を思いながら自慰に耽るのは、とんでもない裏切りに思えた。

例え想像の中とはいえ、あの虎を汚してしまってはいけないような気がした。

ヤスキがアトラをどう思っているのかについて三人がおこなった洞察は、ある意味半分は正しい。

まだ蕾にも至っておらず、たった今指摘されるまで自覚もほとんど無かったが、ヤスキの中でアトラへの好意は、より深い

物へと変わりつつあった。

だが、もう半分は外れていた。

辛い時に、寂しい時に、絶望しかかっていた時に目の前に現れ、言葉を交わしてくれたアトラに、ヤスキはもっと特別な思

いを抱きつつある。

それは、ある意味「崇拝」に近い。

救いを求めて縋る対象としてではなく、象徴的な意味合いとしての崇拝ではあったが。

諦めかけていた、手の届かぬ物と思い込んでいた、眩しい日常の象徴…。

アトラはヤスキにとって、憧れていた普通の学生生活を垣間見せ、そして体験させてくれた存在であった。

だからこそ、ヤスキはアトラに対して恋心が芽生え始めている事に気付けなかった。

だからこそ、三人に指摘されてもなお、なかなか自覚できなかった。

だからこそ、気付いてしまった今は激しく動揺していた。

あんなにも親切に、優しく接してくれたアトラを、自分はいつしか「そういう対象」として見ていた…。その事がとんでも

ない裏切りに思え、ヤスキは激しい自己嫌悪に陥る。

「…しろよ」

「…おい、聞いてんのか?」

「おいこらシラトぉ!」

呆然としていたヤスキは、肩を強く蹴られて呻き、我に返る。

「さっさとやれよ。でなきゃマガキにバラすぜ?」

「う、うぅっ…!」

歯を食いしばってわなわなと震え始めたヤスキは、覚悟を決めた。

正座して、ベルトを緩め、ズボンのホックを外し、ジッパーを下げる。

自分の体と同じ色の真っ白いブリーフが見えたら、不意に視界が滲んだ。

恥辱のあまり涙が込み上げて来て頬を伝い、一連の作業をのろのろ行うぽってりとした手に、ぽたっ、ぽたっ、と落ちて砕

ける。

精液で汚れないよう、ズボンを腿まで下ろし、制服の前を開け、ワイシャツと肌着をたくし上げ、顎の下に挟んで腹と股間

を丸出しにする。

さらに胸の所で衣類に左手を添えて固定したヤスキは、きつく目を閉じ、ソレを指で摘んだ。

下腹部から股にかけて脂肪で三角に膨れたソコに、ぽつんと控え目にくっついているヤスキのソレは、やや小振りな上に重

度の仮性包茎であった。

股間にまでむっちりと堆積した分厚い脂肪に根本が埋没しているせいもあって、押されたシワシワの皮が陰茎の先までをすっ

ぽりと覆い隠し、ドリル状になっている。

元々のサイズに加えて、今は身が竦んでいる事もあり、ソレは陰嚢まで含めて気の毒な程に縮み上がっていた。

その柔らかな包皮をぽってりした指で押さえ、ヤスキはピストン運動を開始する。

そんな気分でなくとも、自慰をしなければならない。終えるまで解放されないのだから何が何でも射精しなければならない。

焦れば焦るほど陰茎は萎え、思うように自慰は行えないが、しかしやがて、必死の努力が報われて、手の動きに導かれた陰

茎が頭をもたげ始める。

「へへへ!一丁前におっ勃ててやがるぜ淫乱ブタが!」

「勃っても縮んでもよく判んねーけどな。ぎゃはは!」

「不幸なおちんちんしてますねー、シラト君。同情しちゃいますよー」

囃し立てる三人の声で羞恥心を煽られながら、ヤスキは必死になって体を揺すり、小振りな陰茎をしごく。

快楽など求めてはいない。ただこの場を逃れたいが故の、苦行に等しい自慰であった。

亀頭の先まで堆積した包皮の中から先走りが溢れ、先端から滴る。

息が上がり、鼻周りから徐々に赤みが強くなっているのが、白くて薄い被毛越しにはっきり判った。

手の動きに合わせてたるんだ体が波打って震え、小振りな逸物の上に被さるようにぼってりとせり出した腹が弾み、捲り上

げた衣類を手で押さえた下では垂れた乳房が揺れる。

本人が必死になればなるほど、肥満体の自慰には滑稽さが滲み、三人の笑いを誘った。

口々にブタ野郎、淫乱などと罵り声を上げつつ、三人は涙を流して自慰に没頭するヤスキを囃し立てる。

「ちゃんとマガキの事考えてやってんのか?」

「でかそうだもんなぁ、アイツのナニ!」

「あん時縦笛しゃぶったみてーに、マガキのもしゃぶりてーんだろ?ん?」

それらの声に意識が行かないよう、ヤスキは努めた。

今白豚はあの虎の事など考えていない。それだけはどうしてもできなかった。

アトラの裸を想像すればこの状況でも興奮できるだろうと、半ば確信している。

だが、脅されているとはいえこんな事で性欲の対象とするのは、あの虎に対する裏切りに思えた。

「はっ…!ふっ…!はっ…!」

元々スポーツなどに取り組んだ事もないヤスキはスタミナもなく、これだけの動きで呼吸は激しく乱れ、苦しげな吐息を大

きな鼻穴と半開きの口から漏らしている。

脇の下や膝裏、首周りに股ぐら、あまつさえ垂れた乳の下などからは汗が吹き出し、たらたらと滴り落ちていた。

「おいおいおい、茹でてもねぇのに出汁が出まくってんぞ?」

「脱がしたら背脂すげぇんじゃね?」

「うっは勘弁!ぜってー臭う!」

好き勝手な事をのたまう三人の悪態も、今のヤスキには届かない。

汗っかきな事は本人も非常に気にしていて、常に衣類に柑橘系のスプレーを振っている程なのだが、今はそこに触れられて

も動揺などしていられない。

集中が途切れたら陰茎が萎えてしまいそうで、必死になって淫乱な情景を思い浮かべている。

やがて、努力の甲斐があって、ヤスキは陰嚢の下から体を駈け上る強い刺激を感じ、肥えた体をぶるるっと震わせた。

「ひぐっ…!」

微かに呻き声を漏らしたきり息を止め、手も止めて、全身を固くしたヤスキは、自分の手の中にばたたっと射精した。

勃起してもなお被っている包皮のせいで、精液そのものの勢いは殺されている。

だが、ここ数日自慰に耽っていなかった事もあり、精液の放出量はかなり多い。

陰茎を覆うようにして握り、精液が飛ばないようにしたヤスキの手から土床にぱたぱたと精液が滴り落ちると、三人はゲラ

ゲラと声を上げて笑った。

「よくやるぜこの淫乱!」

「オレだったら人前でオナニーとかぜってー無理!恥ずかしくて死ねるね!」

「どうだったー?頭の中のマガキ君は優しくしてくれましたかー?」

ひとしきり笑った三人は、きちんと掃除してから帰るようにヤスキに言い残すと、さっさと倉庫から出て行ってしまう。

放心状態でひとり取り残されたヤスキは、ズビッと鼻をすすり上げた。

火照って汗で濡れた体が急激に冷え、寒気を覚えて身震いしながらも、なかなか立ち上がる事ができない。

言いなりになるしかない自分が情けない…。

こんな姿を晒さなければならない事が辛い…。

そんな思いも勿論あったが、何よりもヤスキの事を痛めつけたのは、「何故自分はこうなのだろう?」という疑問であった。

皆と同じだったら、普通だったら、こんなに苦しむ事はなかったはず。そう考えると苦しかった。

それでも今、ヤスキは傷だらけの心の中で安堵していた。

三人の機嫌は直った。これからちょくちょくアトラの事を脅しに使われるのは目に見えており、それを考えれば気が重くも

なったが、とにかく今日の所は難を逃れた。

裸電球がぶら下がった天井を涙が滲む目で見上げ、ヤスキは祈る。

(神様…。お願いですから、マガキ君とは、話ができる関係のままで居させてくださいです…)

今のヤスキが願うのは、そんなささやかな事である。ささやかだが、しかし彼にとってはとても大事で、何物にも代え難い。

もう一度大きく身震いしたヤスキは、のろのろと腰を上げ、ティッシュで性器を綺麗に拭うと、衣類をきちんと身に付け直

し、足下の掃除を始めた。

手早く後始末を済ませて倉庫から抜け出し、周囲を窺ってから帰路についたヤスキは、しかし気付いていなかった。

街灯の光が及ばぬ暗がりに潜み、じっと自分の事を見つめている、三白眼の存在には…。