第七話

「シラト」

すぐ後ろからかけられたその声に、ヤスキはビクッと身を震わせた。

校門を出た所で立ち止まった白豚は、しかし一瞬過剰に反応してしまったものの、聞き馴染み始めたその声の主が誰なのか

すぐに悟り、ほっとして振り返る。

体格の良い虎は、ヤスキの不審な様子にも気付かずに歩み寄り、「ひとりなら一緒に帰ろう」と誘った。

その極々普通な誘い方はヤスキにとって非常に嬉しい物だったが、しかし今日はアトラの顔をまともに見るのが辛かった。

昨日、三人に強要されて公開自慰をさせられた事は、当然頭の中に焼き付いている。秘密をアトラにバラすと脅された事も。

幸いな事に今日は三人揃って早退している。何らかの申し合わせがあっての事だと思うが、ヤスキには有り難い。

それでも、一度アトラと一緒に男子寮へ行ったのを見られているので、油断はできないのだが…。

ここでアトラと別れて帰ってしまうのが最も安全な選択だが、しかしヤスキはそちらを選べない。少々のデメリットに目を

瞑ってもアトラと一緒に居たい程、白豚は普通の友人に飢えていた。

「あ、あのっ…!ま、マガキ君は、今日は真っ直ぐ帰んないといけないです!?」

「ん?いや、そんな事はないが…」

唐突に何を訊くのだろうかと、訝って眉根を寄せた虎は、すぐさま「ああ…」と納得した様に頷く。

「時間はある。何処かでまたダベるか?」

察しを付けたアトラの言葉に、ヤスキは嬉しそうに頷いた。

「マガキ君、この街に来たばかりで知らないかもなんですけど、桜が綺麗な公園があるんです。ちょっと回り道ですけど、ど

うでしょう?」

「よし行こう」

良く考えもせずにアトラが即答してくれた事が、ヤスキは嬉しかった。

あそこなら三人とも出くわさないだろうという自信がある。

以前四人揃って不良に絡まれたそこは、彼らにとってもあまり寄りつきたくない場所のはずだったから。




あの時…、ヤスキから提案してくれた事が、おれには嬉しかった。

もしかしたら、出会ったばかりで少々図々しいかなと、馴れ馴れしくし過ぎてはいないかなと、少し気になり始め

ていたから…。

シゲやヤスヒトとは違って、自分から距離をぐいぐい詰めて来るようなヤツじゃあなかったから、本当はそんなに

乗り気でもないんじゃないかと、心配になっていて…。

だからあの日は…、それはまぁ、あんな事になって恥ずかしかったが…、おれにとってはちょっとばかり特別な日

だった…。




公園のベンチにかけ、缶ジュースを手に、アトラは桜を見上げる。

「ごめんです…。もうシーズン終わりなんですねぇ…」

もう花びらが殆ど残っていない桜の下、綺麗だと言って誘ったヤスキは、丸っこい体を小さくし、申し訳なさそうに呟いた。

「謝るなシラト。実は、散り終わる頃の桜をこうしてまじまじ見るのは、今日が初めてかもしれない」

僅かな薄桃色を残すばかりの桜をじっと見て、虎は目を細める。

「見た目は寂しいのに、これはこれで不思議と綺麗だな…。惜しく感じる」

僅かに残る花だからこそ、かえって愛おしいのかもしれない。アトラはそう考えた。

「何だっけな…、あのバンドの歌にもあったろう?花は散り際こそ真に美しいとかなんとか…」

「ああ、その曲は確か…」

望んでいた方へ話題が移り、ヤスキはほっとしながら口を開いた。

嫌われたくないと思う。少しでも機嫌を損ねたくないと思う。過度なまでに。臆病な程に。

ヤスキが気を使っている事に、しかしアトラは気付けない。自分同様に相手もリラックスしているのだろうと考えている。

日は徐々に傾き、やがて空は赤に染まる。

まだ沈まないでくれと太陽に祈りながら、ヤスキは話し続けた。

今だけは、こうしている間だけは、辛い現実を忘れられた。

だが、そんな思いも陽の運行を妨げられるはずもなく、頭上に星が瞬き出すと、アトラは「そろそろ時間だな…」と、話の

途切れ目に言葉を挟んだ。

「で、ですね…。そろそろ、帰らなきゃです…」

相手は寮生。詳しくは知らないが、寮には寮の規則がある事は判っている。

自分のわがままで引き留める訳には行かない…。名残惜しいが、ヤスキは率先して腰を上げた。

「おれはそう遠回りともいえなかったが、ここからだと、シラトの家は結構遠くないか?」

ヤスキの家と公園の間に寮があるはずだと、頭の中で地図を広げるアトラ。

まだこの辺りの地理には疎いはずなのに良く気が付くものだと、ヤスキは少し感心する。

が、これは虎の趣味が長じた特技である。

アトラは地図を細部まで暗記し、見えている景色から自分の位置を把握するのが得意であった。

「ええまぁ…。でも、そんなに遠くでもないですよ?」

そう応じたヤスキは、「ん?」と小首を傾げる。

ベンチから立ち上がったアトラは、向き合う白豚のその向こうへと視線を向けていた。

「…な、何だと…!?」

アトラが掠れた声を漏らすと、ヤスキはそれに気が付いた。

虎の首筋で毛が逆立ち、緊張してか、肩口の筋肉が盛り上がっている。

それだけではない。口元がわなわなと、まるで怯えているように震えていた。

「どうしたんですか?マガキく…」

「く、来るなっ!」

ヤスキの言葉を遮り、アトラは声を発しつつ一歩退いた。

その膝裏がベンチに当たり、虎は「うわっ!?」と悲鳴を上げて尻餅をつく。

一体何事か?明らかに怯えているアトラから目を離し、振り返ったヤスキは、

「ミィ〜…」

自分の前方5メートルほどの位置を、こちらに向かってちょこちょこと歩いて来る子猫三匹の姿を認める。

ヤスキが飲んでいたミルクセーキの香りに誘われたらしい子猫達は、警戒しながらも距離を詰めていた。

「…え…?」

ヤスキは一度アトラを振り返り、その怯えた視線が紛れもなく子猫達に注がれている事を確信した。

「ま、まさか…。マガキ君、猫が怖いんですか?」

「ば、ばばば馬鹿言うなっ!ここっ、怖くなんかない!怖くは無いが!ちょ、ちょっとだけ苦手なんだ!」

やたら早口で、しかも裏返った声で告げるアトラは、しかし本人の主張に反し、明らかに怯えていた。

「だ、大丈夫ですよ!子猫ですから!」

「子猫でも猫は猫だっ!し、シラト!追っ払ってくれ!」

ヤスキは困惑する。追い払えと言われても、相手は子猫。脅かすのも気が引けた。

猫達を見遣って戸惑う白豚は、その直後、アトラの「ぎゃっ!」という悲鳴を耳にした。

果敢にも子猫の一匹が、ベンチに置いてあった気になる匂いの元…ヤスキが飲んだミルクセーキの缶へトトトッと駆け寄っ

たせいである。

「く、来るな!あっちいけ!しっしっ!」

狼狽しきったアトラは、ヤスキの後ろに回ってその背中に縋り付く。

尋常ではない怯えように驚いたが、しかしそれ以上に、取り乱したアトラの必死な様子があまりにも意外で、ヤスキは小さ

く吹き出してしまった。

「あ、ああああ来た!こっち来た!ししシラトっ!頼む!追い払ってくれ!」

薄暗い空の下、アトラの声が響く中、桜の最後の花弁が風に舞い、ふわりと飛んで行った。



「猫アレルギー!?」

大仰に驚いているヤスキの横で、アトラは項垂れながら決まり悪そうに頭を掻いた。

帰り道を並んで歩く二人は、片方はやけに元気が無く、片方は大層驚いている。

「かなり重度のな…。おかしいだろ?猫科の獣人なのに…」

ぼそぼそと恥ずかしげに呟くアトラの横顔をまじまじと見つめ、ヤスキはやがて目を細める。

弱り切った様子を見たからだろうか、アトラが今までにも増して身近に思えた。

「…な、なぁ?皆には黙っていてくれないか?結構恥ずかしいんだ…。こんな顔と体をしているくせに、猫が怖いとかそうい

う事は…」

「あ。やっぱり怖いんです?」

「…うっ…!」

うっかり口を滑らせた事に気付き、低く呻いたアトラは、やがて肩を落として頷いた。

「ま、まぁ、あんな所まで見られたら、もう隠しても仕方ないか…。ああ、苦手を通り越して、もう怖い相手だな…。ガキの

頃に何とか克服して猫獣人は平気になったが、本物の猫は相変わらずダメだ…。離れていても、姿が見えるだけで怖くて仕方

がない…」

心底恥ずかしかったが、もはや誤魔化しが効くような状況でもない。恥を忍んで打ち明けるアトラ。

「猫獣人にもアレルギーだったんですか!?」

「いや流石にそれはない。ないが…、それでも怖かったんだ…。皆には内緒だぞ?」

顔を顰めた虎は、がりがりと乱暴に頭を掻く。

「…悪かったな…。後ろに隠れたりして…。それと…、追い払ってくれて有り難う…」

「い、いえ…。改めてお礼を言われるような事でもないですよぅ…」

実際には追い払った訳ではない。怯え切って背中にしがみつくアトラをなだめたヤスキが空き缶を遠くへ持って行き、仔猫

達を遠ざけただけである。

「夕飯に続いて、また借りができた。そのうち必ず返すから」

「い、良いですよそんなのぉ!」

改まって頭を下げられたヤスキは、照れくさくなって耳をぴくぴくさせた。

アトラも同様に恥ずかしがりながら、視線をやや上に向け、鼻の頭をコリコリと掻く。

「あの…さ…。シラト?」

「はい?」

「あの…。これからさ、名前で呼んでも良いか?」

唐突なアトラの提案に、ヤスキは面食らう。

「おれは、親しいヤツの事は下の名前で呼ぶようにしている。だから、嫌じゃなければだが…」

「う、うんっ!良いですよ!嫌じゃないです全然!」

何度もコクコクと小刻みに頷いたヤスキに、アトラは「それじゃあ…」と続けた。

「おれの事も、これからはアトラって名前で呼んでくれ」

「へっ!?」

きょとんとした顔になり、上ずった声を漏らしたヤスキに、「嫌か?」と首を傾げるアトラ。

「い、嫌っていうかその…!ず、図々しくないです?まだ会って間もないのにそんな…」

「それを言われたら、おれも図々しいって事になる」

「ぶひっ!?はひひひゃっ!そ、そゆ意味は全くなくてでででですね!?ぼ、ぼくなんかがそんなマガキ君と友達っぽく振る

舞っちゃうのはどうかっていう…!」

「何だよ?寂しい事を言うなぁ…」

アトラは軽く顔を顰めて、

「友達だろう?おれ達は」

「…へ…?」

ヤスキを惚けさせる一言を、ポンと口にした。




あの事を知られるのは、おれにとってはかなり嫌な事だ。

…だから心底恥ずかしかった…。

だが、猫が怖い事を知られたのが、他の誰かじゃ無くヤスキで良かった。そうとも思った。

ヤスキがどういう気持ちでいるのかは判っていなかったが、それでもおれから見れば、ヤスキはもう信用できる友

達だったから…。

だから、あの日の事ははっきり覚えている。お互いを下の名前で呼び合う様になった、あの日の帰り道を…。




「友達…」

自室に戻り、制服姿のまま布団の上に俯せになったヤスキは、枕の上に顎を乗せて呟いた。

帰り道の途中でアトラが口にした言葉は、ヤスキの胸の中をぽわっと暖かくしている。

白豚は枕に顔を埋め、ふごふごと鼻を鳴らして喜んだ。

(友達…!友達だって…!マガキ君が…、マガキ君がぼくの事友達って言ってくれました…!)

嬉しさのあまり俯せのまま脚をばたばたさせ、鼻息を荒くするヤスキ。

心臓が鼓動を早め、首から上がかーっと熱くなる。

嬉しかった。こんなに嬉しいのは久しぶりの事だった。

秘密を三人に知られてから三年間、何をしていても心の底から喜べなかったヤスキは、数年ぶりに何もかも忘れて喜びを噛

み締める。

(友達…。友達…!友達っ!マガキ君、ぼくを友達って…!)

ただ一つの言葉、「友達」というありふれた単語が、ヤスキの頭の中を駆けめぐる。

諦めかけていた、しかし心の底では求め続けていた、本当の意味での「友達」…。

それを、アトラの方から切り出す形で口にされた今、ヤスキの胸は激しく躍った。

しばし布団の上で枕を抱え、ごろごろと転がって嬉しさを表現していたヤスキは、唐突に「…そうです!」と声を上げ、動

きを止めた。

そしてあわただしく携帯を取り出すと、登録してあったアトラのアドレスを呼び出す。

「マガキ君じゃないですから。これからは「アトラ君」って呼ばなきゃいけないんですよ」

太い指がもどかしげに動き、ボタンを操作する。そして程なくアドレスの名前は「真垣君」から「亜虎君」へ変わった。

変更終了のメッセージが表示されている携帯のモニターをじっと見つめた後、ヤスキはへにょっと顔を緩めた。

紐の様な短い尻尾がぴるぴると回って円を描き、耳がぱたたっと動いて風を起こす。

しばし上機嫌でモニターを見つめ、鼻をフゴフゴ鳴らしていたヤスキは、まるで我慢できなくなったかのように携帯を握り

締めて胸に抱き、布団の上をごろごろと転がり始める。

「友達っ!友達ができたんですよぼくっ!アトラ君、ぼくの事友達だって思っててくれたんです!友達です!ぼく達、友達に

なってたんですっ!」

嬉しさのあまり、弾む気持ちを声に出しながら転げていたヤスキは、布団の端から畳の上に転げ出た所で、ビクッと身を震

わせて急停止した。

しっかり抱いた携帯が振動し、たぷついた胸に震えを伝えて来る。

「アトラ君ですっ!?」

がばっと身を起こし、正座しながら携帯の画面を確認したヤスキの顔から、それまでの嬉しそうな、そして恥ずかしそうな

笑みが突然消える。

喜びの光が消え失せ、急に暗く沈んだ物になったヤスキの瞳は、モニターに表示された公衆電話という文字を凝視していた。

丸っこい体がまた震える。だがそれは、それまでの喜びによる震えとは対極にある、怯えによる震えであった。

「…はい、もしもし…。あ…、はい…。家です…。…え?今から…?」

電話に出て、ぼそぼそと応じるヤスキの肩が落ちる。

背中を丸めて相手と話すヤスキの体は、一回り小さくなったようにも見えた。



「あ〜、済みませ〜ん。串盛り大皿一つ追加で〜」

どこもかしこも贅肉がついて丸々している大柄な虎が、カウンターの向こうに声をかけると、

「あいよっ!串盛り大皿一丁っ!」

と威勢の良い初老の大将の声が返ってきた。

「遠慮するなよぉ?育ち盛りなんだから」

「遠慮しているように見えるか?ヒロ兄」

グラスのビールをグイッと煽ったヒロの隣で、ネギマを咀嚼しながらアトラが応じる。

「あまり見えないなぁ。だがこういう時はこう言っておくもんなんだ」

「ふぅん…。覚えておく」

真顔で頷いたアトラは、おもむろにビール瓶を手に取ると、空になったヒロのグラスに注いでやった。

トクトクと音を立てて注がれるビールを眺めながら、ヒロは元々細い目を、嬉しそうにさらに細めて糸のようにする。

今宵、少しばかり早く引けて来られたヒロは、アトラを誘って食事に出ていた。

若虎の希望によって少し離れた位置にある串焼きがメインの居酒屋が選ばれたのだが、別にアトラはこの店を知っている訳

ではない。

ただ、教師であるヒロと自分が一緒にいる所を、学校の誰かに見られたくなかったのである。

「上手だなぁ、お酌。…まさか…?」

言いかけたヒロの目がにわかに鋭さを帯びると、横目で見られたアトラはビール瓶を立てながら軽く肩をすくめた。

「まさかだよ本当に。酒なんて飲んだら「十年早い!」…って親父にぶん殴られる。実家にいる時は頻繁に親父の酌をさせら

れていたから、自然と慣れただけだ」

「なるほどぉ。影虎(かげとら)さんは相変わらずかぁ?」

「あいかわらずだ。…なんで、あんなに酒飲んでてヒロ兄達みたいにならないんだろうな?」

せり出た腹に視線を向けながら発せられた手厳しいアトラの言葉に、ヒロは微苦笑する。

「私は揚げ物なんかも大好きだからな。カゲトラさんとはそこが違う」

あんぐりと口を開けて砂肝にかぶりつき、ヒロはアトラの父親の顔を思い浮かべながら、懐かしそうに目を細めた。

ヒロにとって、アトラの家族はただの親戚ではない。家族も同然の存在であった。

今残っている本当の家族は、兄が一人だけ。

母親はヒロが中学生の時に病で他界した。

父親は物心が付く前に蒸発しており、顔も知らない。

親を喪ったヒロとその兄は、親戚筋をたらい回しにされた。

運悪く、その頃はどこの家も手間のかかる小さな子供を抱えており、二人を引き取る余裕など無かったのである。

そんな中、二人の境遇を見かねて家に引き取ってくれたのが、真垣影虎(まがきかげとら)…つまりアトラの父であった。

結婚はしていても子供は居ない。二人増えた所でどうという事もない。何より、二人とももう分別のつく年頃なのだから、

住む家と飯さえあてがってやれば、勝手にどうとでも育つだろう。

そう言って、アトラの父は山深い田舎の町へと二人を導いた。

面倒を見てくれる事になったのがアトラの両親だった事を、ヒロは幸運に思っている。

父親を知らない自分達兄弟に、「父が居る家庭」がどういう物なのかを教えてくれた、大切な「家族」であった。

そうしてヒロとその兄は、それぞれ高校を出るまで真垣家で過ごした。

高校卒業後、兄は故郷に戻って大手菓子メーカーに就職し、ヒロもまた故郷の近くの大学に進んだ。

そして、二人がそれぞれ真垣の家を出て別に暮らし始めてから、待望の第一子、アトラが生まれる。

恩人の息子であるアトラは、ヒロ達にとって歳の離れた弟のような物であった。

住む場所は遠く離れても、絆は切れず、恩義は薄れない。

ヒロ達兄弟は折に付けて真垣家に顔を出し、それができない時には真心込めた品物を送った。

二人とも私生活で色々あり、また仕事も忙しくなり、次第にこまめに顔を出すことはできなくなっていったが、今でも真垣

家は彼ら兄弟にとって第二の実家なのである。

ヒロ達兄弟は、親が苦言を口にするほどアトラを甘やかしがちだったが、幼い虎の子に二人で口をそろえて厳しく言い聞か

せた事がたった一つだけある。

それは、「自分達を「おじさん」と決して呼ぶな」…という事であった。

アトラとヒロは親子ほども歳が離れており、おじさん呼ばわりされても不自然さはないのだが、アトラがほんの子供だった

当時はまだ若々しく、がっしりはしていても太ってはいなかったスポーツマンのヒロは、おじさんと呼ばれる事を嫌がったの

である。

そして、その頃からしつこく言い聞かせた事が功を奏し、アトラは今、ヒロ達兄弟を兄付けでそれぞれ呼んでいる。

実は、この春アトラが故郷から遠く離れたこの星陵へ進学して来たのも、このヒロの存在によるところが大きい。

かねてから実家から離れた生活をしてみたいと思っていたアトラだが、両親が難色を示していた。

アトラは親の目から見ても真面目と言える少年だが、いかんせん生活に不安があった。

機械類に極めて弱く、コインランドリーはおろか、自宅の洗濯機やオーブントースターすらまともに使えない我が子が、一

人暮らしなどできるはずもない…。

そんな両親の不安は、昨年夏、たまたま次の春から県境を跨いで星陵へ招かれる予定になったヒロから話を聞いて、いくら

か和らいだ。

星陵の寮は二人部屋、おまけに食事はきちんと寮の食堂で提供される。

赴任前に資料を読んで覚えたヒロから、寮に関するそんな話を聞けた両親は、アトラの強い希望もあり、「ヒロも行く事に

なる星陵ならば…」と、ようやく首を縦に振った。

そしてアトラは、弟と妹に羨ましがられながら故郷を旅立ち、この星陵へとやって来たのである。

「友達は、もう何人かできたのかぁ?」

「まぁ、仲が良いのは何人か…」

尋ねるなりぐいっとビールを煽ったヒロに、アトラは目を細めて応じる。

「いいヤツばかりだ。毎日が楽しい」

「ルームメイトも?」

「ああ。気兼ねしないで済む相手だ」

頷いたアトラの横で、ヒロは視線を天井に向けた。

「あの、シラトって子も?」

「友達だ。一緒に居ると楽しいし、話も合う」

横目でちらりと若虎を窺い、肥満虎はにんまりと口元を緩めた。

父親譲りなのか、あまり笑い顔を見せないアトラが、今ははっきり判るほどに楽しげな笑みを浮かべているのを目にして。

「…あ、そうだ。ヒロ兄、学校ではおれの事、マガキって呼んでくれ」

「うん?」

アトラが思い出したように話題を変え、ヒロは片眉を上げる。

「言いそびれていたが、あまりヒロ兄と親戚だと知られたくない。たぶん、思うヤツは思うだろう?「特別扱いされているん

じゃないか?」と…」

「ああ、なるほどなぁ」

ヒロは納得して頷くと、「安心しなさい」と続けた。

「その点にも気をつけるし、勿論特別扱いもしないからなぁ」

「有り難う、ヒロ兄」

素直に礼を言ったアトラに、ヒロは「ふむ?」と面白がっているような視線を向ける。

「その「有り難う」は、どっちについてだね?」

「両方だ。黙っていてくれる事にも、特別扱いしないでくれる事にも」

真顔で生真面目な返答を返した「弟」に、肥満虎はにんまり笑いかける。

「甘やかし甲斐がないなぁ、相変わらず…」



一方その頃、ヤスキは私服姿で、商店街の書店内に居た。

アトラと連れ立って一度帰宅し、幸福感を噛み締めていた白豚は、浮かれ気分もどこへやら、今は心がずっしりと重い。

重たい何かを丸飲みした様な気分で、胃の当たりがムカムカし、鈍痛さえ感じている。

だが、逃げ出す事はできない。三人はヤスキから少し離れた所で、同じく私服姿で、白豚と店主の両方を観察していた。

これから自分が何をしなければならないのかは、入店前にしつこく言い聞かされている。

「良いか?お前は他人を装って少し後から入って来い」

コバヤシの言葉が耳元に蘇り、ヤスキは自嘲気味に口の端を歪めた。

(いっその事、本当に他人になれたら良いのにです…)

そうも思うが、三人が自分をそう簡単に解放してくれるはずもない事は、ヤスキ自身もよく判っている。

緊張感と罪悪感で軽い吐き気すら覚えながら、白豚は本を探しているふりをしつつ、あらかじめ言い渡されていた所定の位

置につく。

そこは、棚の影の死角になる位置をカバーする鏡と、座っている店主の視線を遮る位置であった。

ヤスキがそのポジションに入った途端、三人は素早く、静かに、手にしていたカバンへ目をつけていた本を数冊押し込んだ。

その短い作業の間、横幅も厚みもあるヤスキの体は、万引き実行犯である三人を店主の目から隠す衝立代わりとなっている。

そして三人は何食わぬ顔で棚を離れ、思い思いに店内を移動する。

しかしこの時、ヤスキは違和感を覚えた。

壮年の店主の視線が、タカスギを追っているように思える。

鏡は見えていなかったはずだが、態度に不審な物を感じたのだろうか、三人が合流して口々に「無かった」を繰り返しなが

ら出入り口に向かうと、店主は腰を浮かせかけた。

「あ、あのっ!」

椅子から尻を離した店主は、ヤスキがかけた声に反応して振り向く。

一瞬足を止めた三人だったが、しかし打ち合わせに無いヤスキの行動に不審の念を抱きながらも、今は問いただせる状況に

無い。戦利品を持って立ち去るのが先決であった。

店を出てゆく三人には目を向けないようにしながら、ヤスキは店主に尋ねた。

アトラと話題にするあのバンドの名前を挙げて、楽譜は置いていないのだろうか、と。

(何してるんでしょう…。ぼく…)

店主が難しい顔をしながら楽譜の棚を調べている間、その背後に立ったヤスキは漠然と考えていた。

三人を庇う気持ちなどない。ただ、我が身可愛さの行動であった。

あの三人が捕まれば、共犯者として自分の名前も挙げられてしまうのは目に見えているのだから。

咄嗟に店主を欺く為に、あのバンドの名前を出してしまった事で、ヤスキの心は沈んだ。

三人が無事に店を出た事に対する安堵など、もはや無い。ただただ悲しくて、自分が嫌になった。

自分が好きなバンド…。アトラとの繋がりにもなったバンド…。

大事な物を自ら汚してしまった事に対する後悔と罪悪感が、ヤスキの胸中をかき乱していた。

「残念だけれど、ないみたいですねぇ」

気がつけば、店主はヤスキに向き直っていた。

「取り寄せしますか?」

傍目にもはっきり判るヤスキの落ち込みようを、目当ての楽譜がなかったからだと勘違いしている店主は、優しげな声で気

を利かせる。

その気遣いが、ヤスキの罪悪感をさらに増幅させた。

自分はそんな風に気を使ってもらえるような者じゃない。そう叫んで洗いざらいぶちまけたい気分になった。

それができなかったのは、あの三人組が怖かったから。

そして、せっかくできたアトラとの交友関係を潰してしまいたくなかったから。

こんな事をしている事が知られたら、アトラは二度と口をきいてくれないだろうと思った。

(ぼくはどこまで…、卑怯で…、臆病で…、小心で…、軟弱なんでしょう…)

愛想笑いで店主に応じながら店を出たヤスキは、涙がにじんだ目で夜空を見上げた。

(痛いのも、苦しいのも、怖いのも、辛いのも、もう嫌なんです…。どうすれば…、逃げられるんでしょうね…)

涙がこぼれないようにじっと上を見つめているヤスキのポケットで、携帯が鳴っていた。

無事に逃げおおせた三人が、ヤスキを再び呼んでいる。

アトラとは暖かな繋がりをもたらしてくれる携帯が、今は冷たく重い鎖になっていた。

応援団として万引きグループを追っている大牛の予感は、的中していた。

ヤスキは三人に脅され、万引きグループの一員として協力させられていたのである。

体型のおかげで目立つヤスキにとって、万引きが実行直前に発覚し、三人と一緒に逃げた数度の失敗は、致命的なミスとなっ

ている。

白い体色の太った獣人。そして学生。これだけの情報からいくらでも絞込みはかけられるのだから。

だがヤスキは、白豚と一緒のせいで印象が強く残らなかった人間の三人はともかく、自分だけに迫っている調査の手には気

付いていない。

そしてそれが発覚した時、弱みを握られているヤスキが他の三人の事を言えるかという問題になると…。

(…アトラ君…。こんな事知ったら、絶交ですよね…)

鳴り続ける携帯に出ないまま、ぼんやりと空を見上げているヤスキの目から、ぽろっと、大粒の涙が落ちた。