スポットライトが土俵を照らす。
数多の相撲取りの汗と涙、そして夢が染み込んだ舞台…。そこを花道から望んで男はポツリと呟いた。
「とうとう来たか」
黒々と光る肉体は、鍛え抜かれた逞しさと纏うオーラが素人目にも判る。本物だけが持ちえる輝きを、その男派放っていた。
「行けるか?」
朴訥な低い声が傍らから問う。声の主は大柄なジャイアントパンダ。太く、重く、逞しく、これまた本物の輝きを纏う巨漢。
「当然」
男は短く答えた。大舞台。晴れ舞台。多くの者が夢に見た夢の場所…。しかしそこも男にとっては通過点に過ぎない。
「ま、訊くのも無意味だし」
反対側で小柄な影が呟いた。「ここまで来て尻込みしたって、尻引っ叩いて送り出すだけだかんなー」と。
退いてなお本物の輝きを宿したままのレッサーパンダに、男はニヤリと笑みを向ける。
「流石我等がマネージャー。判ってるぅ」
そしてアシカは前を向く。電飾で彩られた花道の向こう、四角い土俵(リング)の向こう側、佇む影を。
「チャンプも仕上がりは上々だな」
ジャイアントパンダが三白眼で鋭く検分し、レッサーパンダが「今日も完璧だし」と顎を引く。両者の顔には緊張の色。し
かしアシカの顔には余裕の笑み。
反対側の花道で、下から煽る照明に影が浮かび上がる。
それは、黒く巨大な馬に跨り、トゲと角が生えた鉄兜を被り、マントを棚引かせる偉丈夫。眼光鋭く、見据えられただけで
萎縮するようなメヂカラがあった。
無敗のチャンプの脇でステッキ(中に銃が仕込んである)を手にしてシルクハット(縁に刃物が仕込んである)を被った小
男のマネージャーが、毎週やられ役を兼任しながらハイテンションな次回予告をしそうなあの声で叫ぶ。
「Kill him! Now!」
チャンプが愛馬の腹を蹴り、花道を疾走した巨馬は土俵の手前で止まってチャノウを降ろしたついでに塩を舐める。会場は
割れんばかりのチャンプコール。完全アウェーの状況で、アシカは不敵に笑ってマワシを叩く。そこへ…。
「アカシ君!」
声に振り向けば、そこにはクラス一の美女を先頭に、クラスの女子達と隣のクラスとか先輩とかで可愛いなと感じていた女
生徒達の姿。彼女達を押し留めるのは部の珍獣スコティ…?ナントカマンジュウの後輩と、元ヤン気質かつ割と真面目な牛。
逞しい牛が「すんません先輩…!どうしてもって聞かなかったんです…」と、体を張って女生徒達を止めながら振り返る。
「アカシ君!」
身長が低いスコティマンジュウの上から普通に声をかけるクラス一の美女。
「皆で折ったの!これを受け取って!」
放られたのはマフラー。真っ赤な帯となって宙を舞ったそれを、アシカはガシッと掴んでウインクする。
「サンキュー。これで百人力だ」
受け取ったマフラーを首に巻くと、アシカは颯爽と花道を歩き出しつつ、振り返りもせず肩越しに手をヒラヒラさせた。ペ
ンライトが振られてウェーブを作る中、不敵な笑みで宣言する。
「じゃあ、ちょっと勝ってくるわ」
かくして、会場に歓声が満ちた。
煌びやかに紙吹雪が舞う。天高く打ち上げられ、祝福の華を咲かせる花火。展開して陸上競技場風グラウンドとなった会場
を、腹に響く重いエンジン音を響かせてバイクがゆく。
黒革のライダージャケットを纏ってグラサンをかけたアイルビーバックとか言いそうな厳ついジャイアントパンダがハンド
ルを握るその横、サイドカーの上に立ち、力強く四股の途中で足を上げた力士像が天辺に輝くトロフィーを抱えたアシカは、
グラウンドを周回しながら大歓声に手を振って応える。
八時間に及ぶ激闘の末、ハヤシの協力あって編み出せた新必殺技…変電所に侵入して電流を浴び続ける荒行によって体得に
至ったアカシナイアガラサンダースペシャルミレニアムエディションによってチャンプを降したアカシに、興奮のピークのま
ま観衆から祝福の声援が降り注ぐ。
「終わったな」
ジャイアントパンダが呟く。しかしアシカは「いや、まだまだここからだ」と答える。
「もっと上行くぜ?もっともっとだ。でもとりあえずは…」
アシカは盟友に笑いかけた。
「帰ってお前と一勝負だ」
ジャイアントパンダの耳がピクリと震え、次いでその顔を益荒男笑いが彩った。
「…って初夢だったんだよ。いやぁ~、その後モテてモテて大変だったけど子供にはまだ早いエピソードだから割愛な」
醒山相撲部の稽古場。マワシ一丁土だらけのアシカが長々とした夢の話を終えると、小太りなスコティッシュフォールドが
「スケールでかい初夢っス!テンションあがるぅ~!」と目を輝かせた。
稽古合間の小休止、柔軟しながら体の熱を保持している牛は、聞こえていた夢の話でげんなりした顔になっており、
(いやテンション下がるだろ。何だよその無意味な初夢…)
と胸中でひとりごちた。
稽古場での初稽古。元旦には姉妹校と合同で練習試合こみの寒稽古を行なったが、部での通常稽古は今日が年最初である。
年末年始の休みを挟んだとはいえ、気が弛んでいる部員は(あんまり)居ない。特に寒稽古で年のハナが良かったウシダテ
は気が引き締まっているし、高揚感も消えていない。
寒稽古で寝河の主将から一本取った。まぐれではなく、勝つべくして勝てた会心の取り口だった。
強敵に通用するあの感触と取り方を忘れたくない。物にしてしっかり身に付けたい。そんな思いからたった二日間の空白が
もどかしく、ウズウズと自主トレに打ち込みつつ三箇日あけの稽古を待ち侘びた。
基礎稽古が終わったら申し合い。寒稽古での動きを忘れないよう、立ち合いで感覚を固めたい。
ところが、混沌としたアカシ初夢トークで集中とかやる気とか色んな物が削がれて、正直イライラしているウシダテである。
「まったく、アカシは見る夢の内容は勿論、夢の中でもちっともブレとらんし。そこは感心するなー」
キュキュッとペンを鳴らしてホワイトボードの曜日表示を書き換えていたレッサーパンダはそう言って苦笑いすると、ルー
キーの牛を振り返った。
「ウシダテはどんな初夢見たんかなー?」
「え?オレですか?」
急に話を振られてドギマギしたウシダテは、耳を倒して申し訳なさそうな顔をする。
「見た気がするんですけど、中身よく覚えてないです…」
「あ~、あるある!おいらも覚えとらん年がちょくちょくあるんだし。ふふふふふ!今年は初夢覚えとらん同盟だな~!」
レッサーパンダの笑顔を股割りの姿勢から見上げ、「はぁ」と曖昧に頷く牛は、黒毛の下で顔を真っ赤にしていた。
初夢の話を家族以外とした事はなかった。そもそも夢の内容も覚えていないので話もできるはずがなかった。なのに…。
(まぁ…、覚えてなかったが、良かった…かな…?)
ちょっとホワンとしたウシダテだったが、すぐに気を引き締める。
視線の先…稽古場の壁際には部員達の中でも一際大きな影。その黒鉄の腕が、ゆっくり水を飲んで空にしたコップをトレイ
に戻す。
(十分経った…)
ウシダテが股割りをやめて立ち上がったのと、ジャイアントパンダが向き直ったのは同時だった。
(申し合いだ!)
気合を入れ直したウシダテは主将を見つめる。
重機のような重量感溢れる胴体。生物としての質が違うのではないかと感じるほど逞しい両腕。年経た神木を思わせる太い
両脚。そして、睨みの利いた三白眼が光る厳つい顔。
その常々不機嫌そうな視線を一同に走らせる、大兵肥満のジャイアントパンダはしかし、見た目の威圧感とは裏腹に、静け
さもまた纏っている。
一瞬視線に撫でられたウシダテは背筋を伸ばす。それは、立派な社殿や綺麗に整えられた境内を前に、気が引き締まるのに
も似た心境。
「休憩終わり。申し合い始めるぞ」
低くて太い声が宣言すると、部員達は一斉に土俵際に押しかけた。
土俵に上がるのはまずハヤシ。最初の相手は主将が示した部員となる。
「ハイ!はいはいはーい!はい!はいはいっ!」
背が低い分ジャンプして目立とうとしながら、盛んにアピールするスゴ。
「まぁ最初じゃなくたっていいけどなウン本命は後の方が盛り上がるわけでリンリンもその辺判ってる系男子だから」
無い髪を掻き上げる動作で手を上げるワンナイトファーストドリームの余韻が抜けていないアカシ。
「………」
たぶんまた後ろの方だろうと思いつつも、自分を選んでくれと、無言で目力アピールするウシダテ。
普段と同じく俵の外に集まった部員達を見回し、上げられた手を視線でなぞり、一巡した所でハヤシの目が少し戻る。
「ウシダテ」
指名された牛は、
「………」
無言で睨んだままである。
「ウシダテ?」
レッサーパンダが背の高い後輩を見上げる。
「はい」
「どうしたんだし?」
「はい?」
「指名されとるし」
「…はい?」
クリハラを見下ろすウシダテ。
「………え?」
「いや「え?」じゃないし?手上げとったのに…」
「え?指し間違いじゃなく…?」
土俵に目を戻せば、いつも通りのムスッとした顔は自分に向いている。
珍しい事もあるものだと、きょとんとするウシダテは、
「何だ?気ぃ抜けてんのか?なら後に回すぞ」
「!い、いいえ!胸お借りします!」
慌てて大股に俵を跨いだ。
(リンリンも勘付いとったなー)
縞々尻尾を立ててピコピコ振るクリハラ。
普段、ハヤシはウシダテを最初には指名しない。他の部員の相撲を見せられながら、焦れて熱が増した後の方が良い相撲を
取れる傾向が強い事を、肌感覚で把握しているからである。
今日最初にウシダテを指名したのは、恐らくは自分と少し違う種類の感覚…野生の勘が働いたせいだろうとレッサーパンダ
は考える。
疼いている。気が逸っているのではなく、早く試したいと頭と気持ち両方が一致している。そんなウシダテの欲求をハヤシ
は感じ取っていた。無言で吼えるような「闘わせろ」を。
勇んで土俵に上がったウシダテは、ハヤシと同時に腰を沈めて構える。
最近のふたりは息が合うようになった。そう、クリハラは感じている。打ち解けたというか、理解が進んだというか、春頃
は想像もつかなかったほどに息が合う。
呼吸の窺い合いもなかった。両拳を落としたハヤシの呼吸に、一拍でウシダテが合わせる。
そして土俵に拳が四つ。
牛の大腿が膨れ上がりつつ伸びる。筋肉の塊に等しいその体を、重量に鑑みれば異様な速度で前へ押し出す。
(速く。鋭く。重く。動かされず…!)
でたらめに思える要素の組み合わせを脳内で反芻する。
立ち上がりは速く。踏み込みは鋭く。当たりは重く。そして重心は何を食らっても動かされない確かさ…。
馬鹿馬鹿しい矛盾を当然の物理現象に変える。それができてこそ自分の取り口は伸びるのだと、ウシダテは理解している。
(まずまずだし。っていうか想定より伸びが良いし。やっぱりウシダテは真面目だなー)
立ち上がるその始動段階で後輩の成長を感じ取ったクリハラは、
(でもまだ足りんし)
ドバンと、重くも鋭い激突音を聞きながら、想定した通りの光景を確認する。
土俵中央から30センチずれた位置。力強く当たりに行ったウシダテは、ハヤシに正面からぶつかり、止められた。
(だが!ここだ!)
ウシダテ自身も判っている。今の当たりではハヤシに止められて終わる。勢いで多少下がらせる事に成功したとしても、そ
の後普通に押し返される。
だから、追いの一手が必要だった。
自分の持ち味は「一撃必殺」ではない。その事に気付けたのは割と最近だったが、これはターニングポイントでもあった。
力と体を活かし、当たり勝ってケリをつける。それは理想だが、「それを堪える強敵」にこそ真価が問われる。そしてその
事に対してのヒントは出され続けて来た。難攻不落の城壁じみた主将と、遠回りに気付きと思考を促すマネージャーによって。
(まず、足の位置)
止められた瞬間にはウシダテは思考を巡らせている。「止められる前に」ではなく、止められた瞬間から。故に、先を考え
る相撲取りに生じがちな当たりの鈍りが、ウシダテには全く無い。
(角度、よし。位置取り、よし。重心、そこそこ。体勢…、行ける!)
マワシを取り合う両者の腕が、目的地に到達するまでの刹那に、牛の五感は確認を終える。「砲撃体勢」の確認を。
一度は拮抗して止まったそこから、ウシダテの踏み締めた足が再度土を抉った。完全に組み合った体勢になる前に、本来な
ら一拍慎重に窺いたくなるそこで、ウシダテはハヤシに体を押し付ける格好で出る。寄せるのではなく、組みもせずゼロ距離
から体で押しに入る。
ハヤシの目が僅かに細まったのを、クリハラは見ていた。
(う~ん、個人的にはもうちょっと洗練された遣り方を推したいけどなー…。ウシダテらしいって言えばらしいし、あれも持
ち味には変わらんし、有効ではあるし)
満点ではないが八十点。思いつきにしては上等。何せハヤシが喜ぶほどなのだから。
押しに出たウシダテの圧で、ハヤシが腰を沈めるのが遅れた。左四つに持ち込まれるのだけは防ごうと、先んじてマワシを
取りにかかったウシダテは、しかしここで気付いた。
(…呑まれた!)
勢いの減衰が期待したより早かった。押しはした。圧はかかった。停滞は与えた。その隙にアドバンテージを握れる…はず
だった。
ところが、密着状態からの二度目の押し込みによって生じた圧が、受け止めたハヤシの中に消えた。力任せに踏ん張った固
さではなく、そこに幾許かの柔軟性があった。強固でありながら、しなりも持ち合わせた古木の板のような剛柔に、加え
た力が呑まれてしまった。
(上等ぉっ!)
クワッと目を見開いたウシダテの鼻からブシューッと息が漏れた。排気、そして即座に吸気。密着状態で呼気の隙を突かれ
る事なく、息を溜め直す読みと度胸に、流石のクリハラも目を丸くして苦笑い。
(リンリン相手に組んだ状態でも竦まんかー。本当に、ウシダテは良い相撲取りになってきたし!)
息を入れ替えたウシダテが狙うのは下手を活かす揺さぶり。捻りをチラつかせて意識を向けさせる…ような所で思い切り捻
りに行く。
ハヤシの足が前に出る。堪える為に重心の移動を強いられて。これには部員達も「おお!」と声を上げた。
(前振りも全力、それでこそだし!)
フェイントや捨石という意識は今のウシダテには無い。先の事を考えた組み立ては、自分にとっては性格上向いていないと
いう事が判ってきたから。
理想の道筋を立てると、そちらに頭が泳いでゆく。美味く行くという甘い予感が詰めを誤らせる。絵に描いた餅に突っ込ん
でおじゃんにするのが、ウシダテが取り零す時の特色だった。
甘い見立ての絵図面など見ない。大雑把に線だけ引いた図面を元にし、あとは効かなかったその時に考える。そしてその考
える間が殆ど無い即座の判断は、経験と感覚を引き出しとする。
完全無策とは違う。しかし計算頼みとも違う。行き当たりばったりのようで無策でもない、指示立てがありながら柔軟…。
それ故にここぞの場面で思い切った取り口が可能となるのが、ウシダテの持ち味。
下手捻りが体勢を僅かに崩したその瞬間に、ウシダテは次の手を選んでいた。浮いていた右腕をハヤシの腋の下に捻じ込み、
左腕が上手を取るのを阻む格好で肘を張る。
諸差しからの下手投げ。同方向への二回連続となる重心移動。逆方向に返して揺さぶりたくなる所で、あえて重ねた一投げ
が、ジャイアントパンダの左足を浮かせた。
もしかすると。そう部員達が一瞬思ったその瞬間…。
(あ。ダメだった)
スゴが、自分でも理解できないまま直感で同級生の敗北を悟った。
捻りから投げの連携で体幹が傾いた…と見えたハヤシは、その重心を、踏ん張った右脚一本に全部移し替えた。
投げの勢いも圧も重心の移動も自分の体重もかけられた体重も、全て。
僅かに膝が沈む。そして呑み込む。剛性を保ちながらも柔軟に。
(まずい…!)
ウシダテの背筋を冷たい物が駆け登る。圧されて砕ける寸前の氷のように、張り詰めた空気がキシリと軋む。
(主将の距離に留まり過ぎた!)
肘を深く曲げた腕でマワシを握れる距離…。そこは林凛太の制空権内。
剛と柔。陰と陽。黒と白。両儀両立相補相活。「三傑」に勝つために鍛造された、夢想にして理想の絶対矛盾。
ウシダテが味わったのは、スゴが嗅いだのは、その片鱗…。
その先は劇的だった。投げを打たれた側であるハヤシが、右足を軸に踏ん張って体を縮めたかと思いきや、まるでその反作
用で膨れるように伸びた。太い枝が強風で重々しくしなるように。
右上手投げ。それも、両上手でウシダテを捕らえた状態から、両腕で引っこ抜いて放り投げるような…。
(ああ、くそぉ…!)
いい線まで指がかかった。高揚と集中の余韻を引き摺ったまま、一時の浮遊感に身を任せたウシダテを、土俵に落ちた衝撃
が襲う。
勢い余って俵の上を転げ越したウシダテが、二年生達に止められると、放った両腕を即座に引きつけて脇を締め、臨戦態勢
を保っていたハヤシは、ゆっくりと腰と背筋を伸ばす。
指名待ちの部員達がすぐさま押しかける土俵の外、起き上がったウシダテは人垣で見えなくなったジャイアントパンダに、
「…あざっした…」
小さく呟きながら深く頭を下げた。
「ウシダテ」
顔を上げるのを待ったようなタイミングでかけられた声に、首を巡らせた牛を、レッサーパンダが見上げる。
「寒稽古の一番と一緒で、良い前捌きの入りだったし。本命打てるまでアレが続くようになればしめたモンだなー!」
目を細めて笑いかけるクリハラの、表情と声音に篭る期待。ウシダテは頭の先まで熱くしながら「うぉっす!」と威勢よく
応じた。
稽古終わって日が傾いて、部員達が順番にシャワーを浴びる。
シャワーヘッドを手に体を流すハヤシの横で、ウシダテはチラリと目で窺った。
全体の稽古の出来はどうだったのか、この主将は良いも悪いも述べる事がない。個人的には着実な前進を確信した稽古だっ
たが、ハヤシからすれば何でもないのかもしれない。そんな事を考えながら目を戻し、打った肘から汚れと鈍痛を落とすよう
に洗うウシダテは…。
「ウシダテ」
「はい!」
ハヤシに声をかけられて、今度は顔ごと目を向ける。
「フウタに言ってある。アイツから話聞け」
「はい。…はい?話を?聞く?クリハラ先輩から…ですか?何の?」
話を聞け。ただしクリハラから。
どういう事だよアンタは話ないのかよっていうか何の話だよ。と困惑するウシダテは、
「上がったら声かけろや」
そんなハヤシの言葉に、事情が判らないまま曖昧に頷く。
しばし、水音が続いて…。
「これからのオメェに、頭の「瞬発力」ってヤツが要るらしい」
泡だらけにした上腕を丁寧に揉み洗いしながら、ハヤシはポツリと言った。
「フウタはそういったヤツが得意だからな。聞くだけ聞いてみろ」
「!お、おす!あざっす!」
「オメェ以外の先鋒は、俺もフウタも考えてねぇ」
ぶっきらぼうな声に、ウシダテは耳を立てる。
「一本、ハナで確実に取って来れるようになれ」
牛は怪しんだ。
もしかしてこれは夢なのでは?自分は夢を見ているのでは?アシカのように都合のいい夢を見ているのでは?もしや初夢?
そんな疑問がウシダテに自分の頬を抓らせたが、当たり前に痛かった。
ハヤシは仏頂面を全く変えずに続ける。
「中堅までに一本取れれば、俺とアカシで何とかする」
アカシへの謎の信頼を窺わせるハヤシの発言。ウシダテは毎度の事ながらあのチャランポランなアシカへの高い評価に深い
疑問を覚える。
(主将と前主将が言う「アカシ」って、オレが知ってるアカシ先輩と別人じゃないよな…?)
ハヤシとクロガネにしか見えていない、アカシという名のイマジナリー部員の存在を改めて疑うウシダテであった。
「ウシダテに、先帰れって追い出されたっス」
プーっと頬を膨らませるスコティッシュフォールドの横で、薄く掻き残ったまま凍って固くなった雪を踏み締めながらジャ
イアントパンダは「おう」と相槌を打つ。
「マネージャーと話があるって言ってたんス。おれも聞きたかったのに~…」
「おう」
ザックザックと足音を響かせ、大股に参道の石段を登るハヤシの横に、チョコチョコ早歩きで並びながらスゴは話し続けた。
時々、すれ違う参拝客の邪魔になんらないように、ハヤシから注意を促されながら。
不機嫌そうにしか見えない仏頂面の巨漢に、チョコマカついて回る小兵がアレコレ話しかける様は、さらに機嫌を損ねはし
ないかといつも周囲がヒヤヒヤするのだが、スゴは物怖じするどころか全く気にしない。
そもそもハヤシは別にいつも不機嫌な訳ではない。少し前は苛々して張り詰めていた事も多かったが、ハヤシはしばらく前
から「穏やか」になったとスゴは思っている。もっとも、ハヤシが穏やかだと言うとクリハラとアカシ以外の部員には目と脳
味噌を心配されるのだが…。
「あ!初夢の話かも!おれも聞きたかった!聞きたかったなー!」
「違う」
「え?違うんスか?」
「おう」
言葉少なくズンズン登るハヤシを追いかけながら、スゴはふと思い出して自分が見た初夢を語る。
「おれ寮食の晩飯でお代わり自由の肉じゃが出た初夢だったっス!あんかけ挽肉のヤツ!」
「良かったな」
そんなに好きなら今度また作ってやるかと、頭の隅で考えて…。
「主将どんな初夢だったっスか?」
「………」
しばし無言で石段を登ってから、ハヤシは口を開いた。
「判らねぇ」
「そうなんスか?あるっスよねそういう年」
「おう」
ハヤシが「見ていない」とは言わなかったので、内容を覚えていないのだろうとスゴは考えた。
そして二頭は醒山神社の大鳥居の前に立ち、一礼してから潜る。
雪が端に寄せられた境内は狭く見えるが、白く化粧した神域は美しく、そしてどこか愛らしい。丸みを帯びた綿帽子があち
こちに乗った光景は、空気の冷たさとは裏腹に温かみがある。
供養物を焚く火に誘われるように、二頭は薄い人垣の輪に加わる。手袋を外して平手に炎の熱を受け、しばし温まってから
拝殿の方へと歩き出す。
「…ヒミツの稽古場、雪掻きしないと使えないっスね…」
声を潜めたスゴに「おう」と頷いたハヤシは、石畳の上で急に足を止めた。
「………」
三白眼が訝って細められた。睨むような目付きでじっと拝殿を、そして石畳を中心にした景色を凝視する。
(やっぱ…、ここ…だよな?)
雪が除けられて露出した石畳。
行燈の明かりが景色に紅化粧を施す。
鳥居の下から、石畳の中央を通し、拝殿を真正面に望む。
気付けばそこに佇んでいたハヤシは、ゆっくりと足を進めた。
石畳の左右に数十名の人影がある。両側で一列に並び、揃って石畳の方を向いている。
ジャイアントパンダが居た。
雪のように白い狼が居た。
燃えるような赤毛の羆が居た。
男達が居並ぶその間を、ハヤシは誘われるように、呼ばれるように、拝殿に向かって歩いてゆく。
刺々しく灰毛が立った山犬が居た。
腕を組む巨躯の鯨が居た。
いずれも裾に白波が踊る蒼い蒼い法被を纏い、間を歩き抜けるハヤシを見つめ、無言のまま佇んでいる。
眠るように目を瞑ったカワウソが居た。
よく知る男とどこか似た面影の黒狼が居た。
そして…。
立ち止まったハヤシは拝殿を見つめる。
賽銭箱と階段の上で扉が開け放たれ、橙色の灯りで染まった荘厳な社内が晒されている。
その入り口に、影が一つ立っていた。
白く、美しく、厳かで、雅な影…。
よく見えない。なのに微笑んでいると、ハヤシは感じた。
顔が判らない。なのに優しい、慈しむような視線を感じた。
何か言っている。その小さな、囁くような声をしっかり聞こうと、一歩踏み出したその瞬間、ハヤシは気付いた。
拝殿に至る階段の手前。
賽銭箱と注連縄の手前。
凍てつく石畳の一番先。
そこに、男がひとり、立っている。
青々と鮮やかな法被を纏う、肉付きのいい後姿。
三色の毛色に被せた布地、その背中には円で囲まれた「祭」一文字。
知らない後姿。
そのはずなのに、どういう訳かひどく懐かしい。
思う。
自分はこの男を知っているはずだと。
自分はこの男に会いたかったはずだと。
その背に手を伸ばす。
祭の一字に手を伸ばす。
誓願の御山
青峰の雅山
目の醒める美山
祭山
何かに気付きかけた途端に、一陣の風がハヤシを叩く。
腕を上げて顔を顰め、強風を堪えて目を開けたその瞬間、三白眼は、雪とは異なる白い景色を瞳に映した。
見渡す限りに、白く色が抜けた芒の穂が揺れていた。
穏やかな風にさやさやと、穏やかに揺れる草原を、真っ白な満月が照らしている。
深い藍色の夜空を支え、そよぐ芒のその中に、二つ、円で囲まれた文字がある。ふたり、背を向け佇む者がある。
青い法被に祭の一字。三色の被毛が微風に揺れる。先ほどと同じ後姿。
その隣に、もう一頭が並び立っていた。
跳ねた波のような癖がついた、白い長毛が夜風に踊る。法被の裾で踊る白波のように。
太く大きく力強い四肢。広く分厚く逞しい背中。
巨躯。飛沫を上げて白く躍った荒波を思わせる巨体。その背には、円が囲んだ「力」の一文字。
思わず足が前に出た。
待っていた背中。
求めていた背中。
その後姿は、ハヤシが焦がれた男の…。
―またやろーぜぃ!―
幻聴か。そんな声が響いた気がして…。
「先輩?」
どうかして立ち止まったのかと見上げてくるスゴをチラリと見遣り、ハヤシは「何でもねぇ」と歩みを再開した。
眺めれば、賽銭箱の前に並ぶ参拝客の向こうで、拝殿の戸は閉じている。
あの夢は何だったのか。
考えても判らないので、ハヤシはこう言うしかなかった。
「判らねぇ…」
「何がっスか?」
「何でもねぇ」