この年の瀬に君を待つ

 夜明け前から雪が降る、滋牙県の12月30日。

 湯気立つシャワーを全身に浴び、汗を洗い落として身を清めながら、月ノ輪熊は太い二の腕を掴むようにして揉み解す。

(洗剤オッケーだろ?窓モップも新しいの置いといた。神棚用のパタパタは買ってきたし…)

 熊の名は実生慶一郎(あづきけいいちろう)。恰幅が良く体が分厚い、ドラム缶のような大男である。目に力があり顔立ちも

厳めしいので、見てくれでは高校二年生とはとても思えない。もっとも、表情が出ると素朴な顔つきになるし、案外気が良いの

で、会話さえすれば近寄り難さと無縁な事に誰でも気付くが。

 年末最後の自主トレーニングで汗を流したアヅキは、更衣室で手早く服を着こむと、頭にタオルを巻いて持参したエプロンに

袖を通し、掃除の支度をして稽古場に戻る。そして「ん?」と耳をピクつかせ、入り口に向かって建付けの悪い戸をガラガラと

開け…。

「雪だしー!」

「新雪だしー!」

「使いたい放題だしー!」

 道場前…というよりも道場が建っている社の前の公園には、小学生のレッサーパンダの群れ。

 この近辺はアヅキの故郷と同じく、他所よりも獣人が多めだが、特にレッサーパンダが多い。獣人を見かければ三人に一人が

レッサーパンダという、驚きのレッサーパンダ率である。

「おう、雪遊びかレッサーズ!」

 アヅキが呼び掛けると、すっかり馴染みになっている近所のレッサーパンダのジャリンコ達は、「あ!オニーさん来てるし!」

「オニーさんこんちはだし!」「オニーさんまたボッチだし!」とワラワラ寄って来て挨拶する。

「怪我しねぇように気をつけろよ?」

「はいだしー!」

「ヨユーだしー!」

「モーマンタイだしー!」

「お茶の子さいさいだしー!」

 十三名のジャリレッサー達は、異様に高いいつものテンションが雪で加速している。自分達が山野を駆け回って遊んだ小さい

頃を思い出し、ニンマリ笑ったアズキは、「飲み物あっためとくから、寒くなったら玄関に入ってこいよ」とレッサーパンダ達

に告げた。

 ここは学校の稽古場ではない。地元を離れて進学したアヅキが個人的に使わせて貰っている、寮から最も近い相撲道場。管理

者が常駐していない小さな社の敷地内、公園と併設している建物である。

 とはいえ、この道場は何年も使われていなかった。

 学ぶ者も指導する者も居なくなったここは、かつて少年団が活動の拠点としていた稽古場である。彼らが居た頃の名残として、

「りっとー相撲少年団」と記されたタオルが一枚、最後の道場生達の寄せ書きで埋められ、壁に鋲止めされている。

 土俵があるのにずっと使用されていない道場を勿体なく感じたアヅキは、社と公園の管理者に相談し、定期的に掃除する代わ

りに自主トレの場として使わせて貰っていた。

 更衣室の戸棚から缶のおしるこを何本も取り出し、稽古場の加湿のために石油ストーブの上に置いていた大鍋に放り込んだア

ヅキは、一年の感謝を込めて掃除に取り掛かった。

 春にこちらへ移り住んで、相撲に明け暮れる毎日。その支えに、この道場は少なからずなっている。何せマワシ一丁でトレー

ニングするなら、こういった場所でなければならない。自主トレーニングとはいえ、股割りにすり足と、一通りの基本がこなせ

る場の存在は大きい物である。

 神棚を清め、壁や窓枠の埃を落とし、天井の煤を払い、土俵も周囲も隅々まで掃く。幼い頃に教わった、最初の師の言葉を思

い出しながら。

 神棚の掃除は9がつく日と大晦日を避ける。29日は「二重苦」に繋がるとして避け、年の瀬迫った31日に掃除するのは、

慌ただしくてカミサマを軽んじているように思えるので避ける。なので年末最後の掃除と稽古終いは、28日か30日に行うの

がアヅキの習慣になっていた。

 相撲の技。土俵の心構え。稽古場での作法。相撲取りとしての在り方…。幼少期に最初の師から学んだ様々な事は、今もアヅ

キの内に息衝いている。

 アヅキは自他共に認める粗雑な男だが、何も考えずに生きている訳ではない。何も考えずにいられる幼少期のような時代はと

うに過ぎ去り、これからも望めない。

 自分には思索の丁寧さも深さも足りないと自覚しながら、ちょくちょく考え、思う。

 師に訊けば、答えをくれただろうか?と。

 惜敗を喫した時。行き詰まったと感じた時。後輩の指導で悩んだ時…。真っ先に考えるのは、その時々の指導者ではなく、最

初の師であればどう言うだろうかという事。

 中学時代の活躍でここの監督に見初められ、熱烈な誘いに乗って、地元を離れこちらに進学する事に決めた。その選択を間違っ

ているとは思わないが、師が生きていたら何と言っただろうかと、今でも時々考える。

 自分達に多くの物を遺して逝った師は、その人生にだいたい満足していたのだろうと、アヅキは思う事にしている。している、

が…。ただ、思い返す度に出て来る気持ちは、何年経っても変わらない。

 「貴方が逝くのは早過ぎた」と…。

 鍋をかけた石油ストーブが、チリチリチンチンと音を立てる稽古場で、大男は掃除に勤しむ。アヅキは基本的に雑な男だが、

稽古場の掃除だけは細かくてしっかりしていた。それは幼い頃に仲間達と稽古場を掃除した頃も、独りで掃除する今も変わらな

い。

 窓も洗剤で洗い、濡れ拭きしたうえで乾いたタオルでしっかり拭い、ピカピカにする。

 掃き清めた土俵は砂の乱れ無く整えられ、壁にも天井にも埃一つない。

 時間をかけて丁寧に掃除し、ピカピカにした神棚には、新しい榊の枝、玉飾り、注連縄が飾り付けられ、御神酒と鏡餅が備え

られて年越しの支度が整い…。

 パン、パン、と柏手の音が稽古場に響く。

 手を合わせ、一年お世話になりましたと、感謝を込めて手を合わせるアヅキ。神棚に向かい独り瞑目する月ノ輪熊の逞しい後

ろ姿は、厳かで様になっていた。

「よーし、こんで良いだろ!」

 拝を終えたアズキは腕組みし、満面の笑みで満足げにうんうん頷いた。そこへ…。

『寒いんだし!』

 道場の玄関口で戸がガラガラッと開き、レッサーパンダ達の声が重なって反響する。

「冷たいんだし!」

「冷えるんだし!」

「耳ピリピリするし!」

「指がかじかんどるし!」

「ふざけんなし!」

 雪遊びに熱中していたレッサーパンダ達だったが、唐突に我に返って寒さと冷たさに耐えられなくなったようで、勝手な文句

を口々に並べ立てて憤慨している。

 夜明け前から降り出した綿雪は、アヅキが掃除を終えた昼過ぎには、20センチを超える積雪になった。

 年末まで仕事が詰まっていたのか、大慌てで車の雪下ろしをしている住民を出掛けに眺めた月ノ輪熊は、他人事のように「ま

だまだ積もりそうだぜ」と呟いた物だったが、本当にその通りになってしまった。

 もっとも、アヅキは困らない。寮からここまで雪が積もった道を歩んだが、片道三分もかからない距離。極論すると、寮が近

い上に豪雪地帯育ちで雪に慣れているので、どんなに降っても大して困らないのである。

「雪ってのはそういうモンだろが?」

 何を言ってるんだこいつらは、と当たり前に突っ込んだアヅキは、鍋に入れて温めておいたおしるこ缶を取り出し、火傷しな

いようにタオルでくるんでやりながら、玄関に集合したレッサーパンダ達に渡す。

「雪が冷たいのは当たり前なんて、もう古いんだし!ほどほどの冷たさと寒さで良いんだし!」

「古いジョーシキはダハだし!」

「寒さはカゲンすべきだし!」

「ニーズにソウべきだし!」

「そういうジダイだし!」

 なかなか我儘な主張をひとしきり喚き立てたレッサーパンダ達は…。

「今日は裸んぼうじゃないし!」

「おけいこ終わったんだし?」

 とアヅキに問う。

「おう。神棚の掃除も飾りつけも済んだし、鬼綺麗にしたから今年はもう稽古できねぇ。明日も元旦も休みだ」

「お正月は帰らないんだし?」

 そう問われた月ノ輪熊は、「二日には稽古始めるから、帰ってる時間ねぇな」と応じる。

 帰省する部員も多いので部活は休みなのだが、隣町の相撲部が二日に寒稽古をすると聞きつけたアヅキは、そこに乱入するつ

もりだった。
なお、その寒稽古は部外者受け入れしている物でもなく、別に約束も取り付けていないのだが、「当日直接押しか

けりゃ嫌って言えねぇだろ」という粗雑っぷり。よく「そーゆートコだーね」と指摘されるザツザツ極まりない部分である。

「それで良いし?」

「寂しくないし?」

「怒られないし?」

 というレッサーパンダ達の疑問に、「良いんだよ」と応じたアヅキは…。

「お。ちょっと電話…」

 ポケットに手を入れ、スマートフォンを取り出して着信表示も見ずに耳元へ。

「はいアヅキ…」

『昼だけどオハだーね』

「おう、マコ!」

 故郷の幼馴染、七原真呼(ななはらまこ)からの電話で、月ノ輪熊は破顔した。

「神棚掃除したか?俺は今終わったトコ!おう、こっちも雪だ!鬼降ったぜ!」

 背を向けて電話しているアヅキのデンと広い尻でピコピコ跳ねている丸尻尾に、レッサーパンダ達が注目中だが、本人は気付

いていない。

『掃除済んだなら、そろそろ出発する頃なんかーね?』

「ん?」

 首を傾げるアヅキ。

『ああ、今日じゃなく明日?』

「ん?」

 再び首を傾げるアヅキ。

『だーかーらー。正月の帰省の話だーよ』

「え?帰んねぇけど?」

 キョトンとした顔で応じる月ノ輪熊。

「二日には稽古だし、帰ってもすぐ戻るしな。往復に時間かかるんだったら、帰んねぇでこっちに居た方が…」

『…………………………………………………………………………………………………………………………は?』

「いや帰るすぐ帰る今日帰る今から帰る年越しは実家だよなやっぱ!」

 長い沈黙を経て聞こえた声が強烈な悪感情を伴っている事に気付いたアヅキは、即座に前言撤回。

「今夜には帰るぜ電車止まってなきゃ!」

 ナナハラの機嫌をなおそうと早口で言い立て、通話を終えるなり、月ノ輪熊は滝のような脂汗をかきながら大声で騒ぎだした。

「お前ら帰れ!もう閉めるぞ急げ急げ急げ急げ早く!」

『なんなんだし!?』

「鬼やべぇから早ぐぅううううーっ!」

 

 

 

 故郷への山道を登るバスの、ガラガラの車内で、アヅキは前の座席の背もたれをグイグイ押しながら歯を食いしばっていた。

 無論、どんなに力んで押した所でバスの登り速度が上がる訳ではないが。

 夕暮れ山道の景色、バス内の独特な匂い、ふかし気味のエンジン音、何もかもが懐かしい。

 道場を飛び出したジャージ姿のまま、寮に戻って財布だけ引っ掴み、駅まで走り、京で乗り換え、バスに飛び乗り、最速で飛

んで帰った故郷は、慌ただしく帰って来た月ノ輪熊を静かに迎え入れた。途中の交通機関がダイヤル通りに運航していたのは幸

いである。

 冬休みに入って数日経った今日は、随分と人が少なく閑散としていて、元々殆ど乗っていなかった乗客も全て降り、もうバス

には運転手とアヅキしか乗っていない。

 やがて、辻の石碑を越えてバスが停まり、アズキはドタドタと降車した。

(セーフ…か!?)

 すっかり日も落ちて真っ暗になり、間隔が広い街路灯がポツポツと光を投げ落とす山道に、エンジン音とアヅキを残してバス

が去る。

 すっかり雪が踏み固められて締まった車道と、鼻をチリチリさせる凍った空気。故郷の冬の中に佇み、アヅキは白く息を吐く。

(こりゃセーフだろ…!)

 午後八時過ぎ。バスも最終便になったが今日中に帰って来れた。土産も何も持っていないがとにかく帰っては来た。

 とりあえず急いでナナハラに会って顔を見せて弁解しなければと、深呼吸する月ノ輪熊。

(鬼セーフだ!)

「ギリセーフだーね」

 ビクッと跳び上がったアヅキは、歩道の雪をバフっと煙らせて着地するなり振り向く。そこに、手の平で口元を覆い、ハァ~

と息を吐きかけている山猫の姿があった。

「こ、心でも読んでんのかっ…!?」

「?何言ってんだろーね?」

 胸を押さえてドキドキしているアヅキは、ナナハラのいつも通り表情が乏しい顔をマジマジと確認する。

「…マコ…。怒ってんのか…?」

「何で怒ってるって思うんだろーね」

 心当たりをグッサリ抉るように指摘する回答である。なお、ナナハラの声には抑揚が無く、冷たいほど平坦。

「おっ、おおお怒んなよ…!ちゃんと帰って来たろ?」

「………」

 無言の山猫。幼馴染の沈黙も表情も目つきも山の風も冷たくて、いたたまれなくなる月ノ輪熊。

「……………」

「な、何か喋れって…!」

「…………………」

「…!!!」

 長い長い沈黙の後…、

「…ご、ごめん…!」

 アヅキが絞り出すような声で謝ると、ナナハラはやっと口を開いた。

「バーカ」

 顔を引き攣らせるアヅキ。

「待たせんじゃねーよ、バーカ」

「…お、おう…!ごめん…!」

「ケーちゃんの、バーカ」

「おう…!俺またバカやるトコだった…!」

 ギュッチギュッチと雪を踏み締め、大股に距離を詰めると、アヅキはナナハラの体を捕まえるように腕を回し、ギュッと抱き

しめる。

 冷え切って冷たくなったジャンバーの表面が、山猫がずっとここで帰りを待っていた事を物語る。

「…お前もバカじゃねーか。こんな冷たくなるまで待ってて…」

「うるっっっさいんだーね!バーカ。バーカ!」

 見抜かれた事が恥ずかしかったのか、ナナハラの声がやや乱れた。照れ隠しに語気を強める山猫が、いじらしくて、いとおし

くて、アヅキは腕に力を込めてきつく抱きしめる。

 そして身を放し、ナナハラの顔を見降ろし、一度黙ったアヅキは…。

「よし!このままうち来い!」

「また帰って来ていきなりだーね」

「んな冷えた体のまま帰せるかよ。帰る前に鬼温めてやる!」

「スケベー」

「あんっ!?良いだろスケベで!イチャイチャしてぇんだよ会えた時ぐれぇ!」

「どストレートだーね。正月帰ってこないつもりだったくせに」

「言うなそこは!鬼悪かった!ごめんってガチで!おふっ!」

 突然妙な声を漏らして息を飲む月ノ輪熊。

 山猫が下から伸ばした手は、アヅキの出っ腹の段差の下で、股間の盛り上がりを鷲掴みにしている。

「ガチ、だーね。ガチガチ」

「お前!ムードとか!」

「チンチンガチガチでムードとか、まーた臆面もなく言いやがったなー」

「うるせぇよ!」

「ま…」

 スッと身を寄せたナナハラが、アヅキの口元に素早く顔を寄せ、唇を浅く重ねる。

 不意打ちのキスで目を丸くしたアヅキに、ナナハラはやっと、ニンマリ笑みを見せていた。

「口も体も気持ちも正直者、そんくらいの方がケーちゃんらしーね」

 ムスっとしたアヅキをからかうように、ナナハラは半眼でウインクした。

「続きは、温めて貰いながら…。だーね」


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