年越しの楽しみ
雪をすっぽり被った椿の生垣に囲まれた、広い敷地を有する純和風建築。その表札が掲げられた石造りの門構えに寄り添い、
雪が深く積もった中に男の子がひとり、道の向こうを眺めている。
大晦日の日没まで残り一時間程度。空も、雪景色も、白一色の山々も、徐々に赤味を帯びてゆく。
何かを待っているように、時々爪先立ちになって背伸びしている男の子は、現在七歳の小学生。しかし標準的な同年代と比べ
ると少々体が小さい。体は細く、背は低く、血色が悪く感じられるほど色白で、着ている半纏がブカブカな恰好も手伝い、ひ弱
な印象がある。
静かな白神山地で暮らす、友達も殆ど居ない男の子は、正月とお盆が好きだった。
どんなに忙しくても、どんなに大変でも、一年にこの二回だけは欠かさず訪れる客が居て…。それが、男の子の年越しの楽し
みになっている。
「タケミ」
後ろから声をかけられ、男の子がハッと振り向く。
そこに立っているのは老齢の男。角ばった顔に獅子鼻の厳つい顔立ち。長髪は総白髪で長い顎髭も口髭も真っ白。しかし、六
十代にも関わらず、182センチの長身は背筋が伸び、肩幅も胸の厚みも衰え知らずで、未だに筋骨逞しい。
歳経て隠居した侍。そんな印象の老人の、切れ長の鋭い双眸としゃがれ声は、威厳に満ちている。
男の子の名は不破武美(ふわたけみ)。
祖父の名は不破三厳(ふわみつよし)。
この屋敷で暮らす孫と祖父。
「来てから迎えに出ればよい。ぞうしてずっと待っていては、体が冷えて風邪をひくぞ」
「は、はい…」
案じる祖父に忠告されて、しぶしぶ玄関へ戻ろうとした少年は…。
「む。いや待て、参ったようだ」
老人の言葉で足を止め、急いで振り返った。
道の向こうにだいぶ古い型の、買い替えを勧められているジープの姿が見えた。それはみるみる近付いて大きくなり、敷地に
入ってうるさいエンジン音を止める。
運転席から降りて来たのは、身長2メートル半にもなる、巨漢の熊。赤味を帯びた金色の被毛を纏い、年の暮れだというのに
腕まくりしてジャケットを着ている熊は、体中どこもかしこも分厚く重々しい、容貌魁偉の大兵肥満。
右眉を縦に跨いだ傷に、マズルの半ばを水平に横断する傷、左頬に刀傷を思わせる長い切り傷など、傷跡だらけの強面である。
が、その厳つい顔が、ニィッと意外な柔和さで笑み崩れた。
「思いのほか早かったな、ユージン」
「だいぶ飛ばして来たからな」
傷だらけの厳つい顔を綻ばせ、金熊は屈んで両手を広げる。「おし!来いタケ坊!」と。
喜んで駆け寄った男の子を、両手を脇に入れて高い高いしてやりながら、「元気だったか?ええ?」とユージンはその場でク
ルクル回る。
老人から見れば、血こそ繋がっていないとはいえ、三十年以上育てた二人目の息子のようなもの。
男の子から見れば、物心つく前から会いに来てくれる、親戚のおじさんのようなもの。
親の無いユージンは、老人の実の子…タケミの父と、兄弟のように育った間柄。ミツヨシの事も父親として慕っている。
「う、うん…!おんちゃんも、元気そうでよかった…です…!」
「お?標準語が板について来たじゃねぇか。ええ?」
はにかんだ微笑をモジモジしながら見せるタケミ。そこへ祖父が口を開く。
「アルビレオの影響であろうよ。合わせる内に習熟してきた。もう一つ良い影響を受けたのは、嫌いな食べ物が減った事だ。あ
の子につられて肉を食えるようになった」
「へぇ、あれだけ手こずってたタケミの偏食がねぇ…。アル坊はもうハワイに行ったのか?」
「昨朝、ダリアが連れて行った。今頃はもう島に着いておろうよ」
「アル坊が居なくて寂しいか?ええ?」
高い高いするユージンの顔を見下ろしながら、タケミは控えめに「うん…」と頷いたが…。
「でも、アル君お母さんといっしょだから、さびしがっちゃダメだから…」
「…そうか。優しい子だなぁヌシは」
金熊は目を細めて、抱き上げた男の子を軽く揺すった。
正直なところ、両親が居なくて祖父に育てられているこの子の所へ、同い年の子供が同居したのは良い事だとユージンは考え
てる。どちらも生みの親が居ない身、通じる所もあるだろう、と。実際に、人見知りのタケミは同居する友人とすっかり打ち解
け、よく笑顔を見せるようになったらしい。
「そうそう!土産があるぜ!俵の親父殿から重箱入りの豪華なお節料理を預かって来た!正月は豪勢にやろうぜ爺さん!」
「で、主は手ぶらか?」
冗談めかして口の端を上げたミツヨシに、「まさか」と応じるユージン。
「飲み切れねぇほど酒を持って来た。酔いどれ正月と洒落込もうぜ!タケミには、愛媛の有名な蜜柑ジュースが土産だ!そいつ
でワシらに付き合え!」
「うん!」
男の子が喜んで頷き、金熊はタケミをポーンと軽々投げ上げて、ふんわりとキャッチして声高に笑った。
「背が伸びたか。その調子で爺さんみてぇな大男になれよ」
年越しの夕餉を目前に控え、身を清めるために風呂に入った金熊は、連れて来たタケミの頭をワシャワシャと洗ってやりなが
ら、優しい笑みを浮かべて語りかける。
シャンプーハットを被らされている男の子は、「でも…」と言い淀んだ。
「アル君と、背がだんだんはなれて…」
一緒に暮らす友人の巨体と育ちっぷりが、どうしても比較対象になってしまうタケミに、「アル坊はもともと体格が良い上に、
熊の獣人だからな…」とユージンは苦笑い。
「好き嫌いが減って来たんだろう?ならヌシもその内にデカくなる」
「そのうち?」
「おう、肉も魚もちゃんと食えば、その内な。焦るモンじゃねぇぜ。おし!流すから目ぇ瞑っとけ」
シャンプーハットが外されて、ギュッと目をつぶったタケミの頭にシャワーが注がれる。ユージンが訪れると、体を洗って一
緒に風呂に入れてくれる。タケミはこの時間を気に入っていた。
「そら、浸かるぞ~」
綺麗に泡を流した後で、ユージンはタケミを抱き上げて一緒に湯船に身を沈めた。そして、肩まで浸けて体を温めたら、足を
伸ばして仰向けに寝そべるような姿勢になり、その出っ張った腹にタケミを跨らせ、揺らして遊んでやる。ユージンが尋常では
ない巨体なので、子供にとっては海やプールに浮かべる大型フロートで遊ぶような具合。筋肉に支えられた上には豊かな被毛と
分厚い脂肪が乗っているので、座り心地も抜群。
「伊豆から越して来た子供らとは仲良くなれたか?」
「ん…。少し、話すようになった…かも…」
湯から出ているタケミの肩などが冷えないように、大きな手で湯をかけてやりながら、ユージンは男の子の近況を話させる。
ユージンにとっては、兄弟のような関係で仕事の上では相棒だった男と、信頼する同僚の間に生まれた子がタケミ。いわば可
愛い甥っ子のような物で、「親族」と認識できる数少ない相手。祖父にしっかり育てられていると思う一方で、どう過ごしてい
るのかは気になってしまう。
タケミもまたユージンと会えるのを楽しみにしている。人見知りで引っ込み思案で内気な男の子は友人も殆ど居らず、話し相
手もあまりいないが、物心つく前から会っているユージンには、顔が怖くとも体が大きくとも懐いて好いて慕っている。
「通信簿良かったってな」
「うん。良かったみたい」
「風呂あがったら見せろ」
「うん」
「ヌシはもう少し威張れ」
「う、うん…」
目を細めてタケミの頭を撫でながら、ユージンは懐かしんだ。
自分がミツヨシに引き取られて、初めて会った時、タケミの父親がちょうどこのくらいの年頃だった。当時の父と顔立ちはま
ずまず似ているが、決定的に違うのは、過剰なまでの自信の無さと、他者への怯え。
(狼の獣人に変身する体質…。世界に一人の例外で、そいつを秘密にしなけりゃいけねぇと来れば、他人と距離も感じるか…)
不憫だとは思いたくない。この生まれを、形を、性質を、不幸と思ってしまったら、タケミも、亡き両親も、報われないよう
な気がして…。
ミツヨシが予約していた豪勢な寿司を夕餉に、ユージンが土産に持ち込んだ酒を熱燗で楽しむ。
今年最後の晩飯を、大晦日恒例の歌番組を流しながら、三人は楽しんだ。
日付が変わる午前零時を待って、頑張って起きていたタケミは、しかし眠気に勝てず、胡坐をかいたユージンの足の上で丸く
なって寝ている。
上から半纏をかけてやり、男の子の頭を撫でながら、ユージンは育ての親であるミツナリに伊豆の状況を話していた。話の中
心は、大隆起以降最悪の被害と言われている今年の大事故…「沼津の大規模流出事故」と「南エリア長城倒壊事故」について。
「字伏兄の目は治らねぇらしい。もっとも、聴覚と嗅覚で補えられるから潜霧に不自由はねぇって本人は言うし、実際に潜って
るからその通りなんだろうが…」
「手痛い損失だな」
「ああ…。そこもだが、南エリアその物も被害は甚大だぜ。特にウォールEが酷ぇ。当番制で守備隊に当たってた潜霧士が八割
以上逝った。ただでさえ人手も物資も不足してる所だったが…。特自が今月頭から駐屯防衛に動いたのは、爺さん、アンタの差
し金だろ?」
「さて…」
澄ました顔で回答を避けるミツヨシ。しかしユージンは確信していた。
元自衛官。大隆起の直後、ジオフロント探索の為に降下させられた精鋭部隊の生き残り「不破三厳三佐」。「奇跡の帰還者」
のひとりがこの老人。退官して潜霧士となり、今では引退しているが、それでもその発言を特自は無視できない。
基本的にグレートウォールの守備に専念し、「本土」を伊豆半島から護っている特自が、駐屯部隊を南エリアに派遣して防衛
に当たらせた…。この前例がない動きの裏で、ミツヨシから自衛隊の高官に口利きがあったはずだと、金熊は見抜いている。
何せミツヨシは、今年起こった大規模地殻変動による被害から何とか生きて逃げ出せた南エリアの住民を、この村に受け入れ
させている。獣化サンプルが増えれば研究所の仕事もはかどるというような政府の説得などを含め、様々な手回しをして彼らを
保護した老人が、その故郷である南エリアに援助を行なうのは不思議ではない。
これ以上つついても白状しないなと察したユージンは、話題を変える事にした。老人が自分を特自にあまり関わらせたくない
と、面倒事を余分に背負い込ませたくないと、気を配っている事は察せていたので。
「南エリアは天災だが、西エリアの霧流出はほぼ人災だ。街一つの住民がほぼ全滅、被害は半年経った今でも明確な数字になっ
てねぇ。土肥じゃあ「難民」の世話に、受け入れ、関わった連中の調査に裏付けと、陣頭指揮をとる俵の親父殿も忙しい。体は
勿論心を休める暇もねぇ。…あんな事があったってのによ…」
「手を止めておれぬのであれば、振り返る暇も、思い悩む暇もない。見方にもよるが今のハヤタには丁度良いかもしれぬ」
「爺さんならそう言うとは思っちゃあいたがよ…。それと、こいつは潜霧組合での内々の話だが、来月中にも九人目の一等潜霧
士が認定される見込みだ」
「なるほど」
「…誰が、とは訊かねぇのかよ」
「字伏弟は、いずれは一等と認可されるタマではあるが、今はまだ実績が足りぬ。であれば決まっておろうよ」
ユージンが徳利を取る。ミツヨシが空になった御猪口に注いで貰う。
テレビは解説者が出演アーティストの経歴を読み上げ、盛り上げるのに一生懸命だが、ふたりが酌み交わす居間は静かだった。
やがて、番組が終わり、ニュースが始まり…。
「蕎麦の支度をする」
「おう。そろそろか…」
ミツヨシが腰を上げ、ユージンは足の上で眠る男の子を見下ろした。
「タケミ、起きれるか?年越し蕎麦だぜ」
微かに唸って薄く目を開けた男の子を、両脇に手を入れて持ち上げ、立ち上がって高い他界する。
「もうじき除夜の鐘だ。「最速あけましておめでとう」チャレンジ、できるか?ええ?」
「ん…。がんばる…」
眠い目を擦る男の子を、ブラブラ揺らして眠らせないようにしながら、ユージンはテレビを眺める。
各地の寺に詰めかけた参拝客が、暗い中に携帯の画面で光を灯し、今か今かと時を待つ。
「待たせた」
しばしあってミツヨシがざる蕎麦を運び、三人でゾルゾルと啜り、熱い茶を前にしてテレビを眺め、鐘を前に構える坊主の挙
動を注視。
妙な静寂。誰も動かない一瞬。そして…。
ゴォ~ン…。
『明けましておめでとうございます』
深々と頭を下げた三人の声が、見事に重なった。
「おし!明けた明けた!」
「では仏間にも挨拶を…」
「ふぁ…」
ミツヨシと、眠そうなタケミと、それを抱き上げたユージンは、仏壇に向かって手を合わせ、一年の健康を祈願する。
見下ろす遺影にはタケミの両親も含まれる。三人は厳かに合掌を終えると、並ぶ遺影をしばらく見上げてからゆっくり立ち上
がった。
「おし!タケミ、今夜はワシと寝るか!」
「うん!」
金熊に抱えられて仏間を出てゆく孫を、祖父は静かに見送って、妻と息子夫婦の遺影に顔を向けた。
(あの子が今年も一年、健やかに過ごせるよう心を砕こう。どうか安心して見ていてくれ…)