彼が居た夏
「世界はきっと残酷で、けれど捨てた物じゃない」
今でも折につけ、男は思い出す。
自分はきっと、あのひとから問われた事を、死ぬまで忘れないだろう、と。
そしてきっと、あのひとにああ答えたから、今の自分は在るのだろう、と。
だから今も、思い出す度に自分へ問いかけている。
日本海に面した半島。河口を挟んで栄えた街。
水平線に近付いて行く赤い太陽。川の上にかかる橋から、ひとりの青年が午後五時過ぎの傾いた太陽を眺めている。
川面を駆けて行く風の音、流れ往く川の波音、ワァンワァンと混じり合いながら遠く響く蝉の声。長閑な夏の夕刻、ティー
シャツの袖は河口へ向かう風にはためいていた。
浅黒い肌の人間の青年である。黒髪で黒い瞳だが、目鼻立ちはやや彫りが深く、顔をよく見れば異邦人である事が判る。
シャツから覗く腕も、半ズボンから覗く脚も、筋肉質で逞しい。肩も張りがあり、胸は厚めで、腹部は引き締まっている。
精悍な顔立ちだが、深い彫りに夕刻の影がたまり、何処か物憂げにも、疲れているようにも見えた。
やがて、佇む青年へと、橋を渡って小走りに人影が近付いた。片手を上げて大きく振りながら。
それは、熊のように大柄な狸の少年だった。ふっくら肥ってずんぐりしたフォルムで、半ズボンもランニングシャツもムッ
チリしている。均整が取れた青年の体とは大違いの脂肪太りで、頭半分以上背が高い。ただし、体は大きいが顔からはあどけ
ない幼さが抜け切っていなかった。
脂肪過多の体を弾ませる小走りの狸は、両手で腹の前に紙袋を抱えている。そんな格好だからとても走り難そうに見える狸
に目を向けて、青年は目を細くした。
「ゴメン、お待たせだよ!」
家から走り通して息を切らせながら傍に寄った狸は、膝に手をついて前屈みになり、呼吸を整える。青年は黙って首を横に
振り、優しげに微笑んだ。
「はいコレ」
走って来る間も激しく振って滅茶苦茶にしてしまわないよう気をつけていた紙袋を、狸は青年に見せた。開けられた袋の中
には、少し破れたり形が崩れたりしている薄皮饅頭が詰められている。狸の家で扱っている商い物の、味は変わらないが店頭
に出せない品である。
「土手に座って食べようよ」
狸は橋の上から川べりを指差して促し、青年はやはり無言でコクリと頷く。
マデ。それが青年の名前。
祖国では、有り触れた一般的な名。
小玉彼出(こだまかなで)。それが狸の名前。
彼方へ出ずる。そんな意味が込められた名。
マデは自分を漁業実習生だと言った。実習で学びながら給料も貰え、家族へ仕送りする事もできるのだと。日本語はだいた
い聞き取れるし意味も理解できるが、話すのはあまり得意ではない。
筋肉質な体を見れば判るように体力があり、いつも背筋が伸びている。しかし無駄な力みがなく、穏やかで物静か。まるで
剣道の達人のようだとカナデは評するのだが、本人は言われている意味が判らない。
カナデは地元の星陵ヶ丘高校に通う高校一年生。写真が趣味で、新聞部に籍を置いている。勉学でも部活でも成績優秀で、
人当たりも良く朗らかなので友人が多い。
大柄で肥っているため鈍重そうに見えるが、何処にでも写真を撮りに行くだけのバイタリティを持ち、見た目に反して運動
神経もスタミナも優れている。文科系の部活に属しながら、体を動かすのも好きで活発。
育った環境は勿論、国籍も違うし年も違うふたりが出会ったのは、今年の春の事だった。
年度変わり前のまだ寒い頃。夕暮れ時、街の漁港。
写真を撮りに行ったカナデは、水揚げ場の岸壁縁に立つ、夕日を物珍しそうに眺めている青年を見つけた。
佇むその背と夕日を絵になると感じ、カナデは半ば反射的にファインダーを覗き、一枚撮った。
その、一度のシャッターが出会いのきっかけ。
シャッター音に少し驚いて、胡乱げに振り向いた青年と、声もかけずに撮ってしまって決まり悪そうな狸の目が合った。
不思議そうな表情で狸の顔と手元のカメラを見比べるマデ。
異国のひとだと知り、青年に何と声をかけようか悩むカナデ。
「は、ハロー?」
「…こんにちは」
狸の戸惑いがちな挨拶に、青年が日本語で発した挨拶が重なった。
妙な、しかし重くは無い気まずさがふたりの間に漂って、やがて狸が苦笑いし、青年がつられてぎこちなく笑い…。
上が砂利敷きの散歩道になっている、長い土手の斜面。
街を二分する川を見下ろし、夏草に覆われた斜面に腰掛けて、ふたりは売り物になれなかった饅頭に齧りつく。
「次の休みはいつなんだよ?」
カナデの問いかけに、マデは少し間をあけてから「3日、あと」と応じた。
「三日後…、日曜日かナ?」
「そうだね」
「じゃあ、また何処か出かけてみるよ?」
「そうだね」
カナデの太い尻尾が振られて、夏草と擦れてサワサワ鳴る。
マデは饅頭を齧りながら、嬉しそうなカナデを見つめて目を細める。
大狸はマデが好きだった。精悍な顔。引き締まったプロポーション。時々何処か寂しげな蔭りを帯びて見える横顔。写真に
も映える容姿は、非の打ち所がない。
だが、その素朴な人柄と、異邦人というミステリアスな印象にも強く惹かれる。
「行きたいところあるかナ?」
「カナデに、ついていく」
「希望とか無いんだよ?」
「どこでも。カナデが行く所が、ぼくはいい」
任せると言われて困った顔をしたカナデの、厚くてふっくらした右手に、マデがそっと左手を重ねた。
「………」
ポッと顔を紅潮させて、カナデはチラリと青年の横顔を窺う。川の流れを眺めるマデは、穏やかに微笑んでいた。
「何処でもいいんだよ?」
「そうだね」
再び訊ねた少年に、青年は小さく顎を引いて応じる。
「何処でも…、良いかナ…。僕も…、マデと一緒なら…」
呟いたカナデの手を、マデがキュッと軽く握った。途端にカナデの胸はキュンとして、トクントクンと鼓動が速くなる。
カナデは、マデへの好意が他の友人達や家族に向ける物とは質が違う事を自覚している。恋慕。そう呼べる感情なのだとい
う事を、生まれて初めて抱いたばかりの少年は、実感も半端なまま、薄々「そうなのではないか」と感じている。
マデもカナデの気持ちを知っている。狸自身が、この気持ちは何なのだろうかと、正直に打ち明けて相談したので。
マデはカナデを拒まなかった。どんな形であれ、独り渡った異国で自分に好意を抱いてくれるひとが居るのは嬉しいと、一
生懸命考えながら言葉を探して、たどたどしく、しかしできるだけ丁寧にカナデへ告げた。
カナデは幸せだった。満ち足りていた。マデは優しくて、ちょっとした事で褒めてくれた。物知りだと、優しいと、いつも
褒めてくれた。何より、出かける行き先も遊ぶ内容も、何もかもを自分に任せながら、しかし投げやりではなく、尊重しなが
ら寄り添って大事にしてくれた。
「えー?普通だと思うよ?」
マデが自分を褒める度に、カナデはそう照れ隠しで言った。自分が認識している「普通」の事が、ひとによっては、場所に
よっては、全然普通ではない事を、少年はまだ知らなかったから、マデが口にする言葉の意味を、さほど深く受け止めていな
かった。
ひとが見ていない所では抱擁し合った。
「だらしない体だよ?」
と、いつも照れ隠しに自嘲するカナデに、
「柔らかくて、感触が、いい。これがカナデの感触」
と、マデは毎回応じた。
抱き合うだけで、温もりを肌で感じるだけで、こうまで満たされるのかといつも驚いた。
だが、実習生ならずっとこの国に居られる訳ではない。いつか必ずマデは祖国に帰ってしまう。
それが何年後なのか、カナデはあえて訊かなかった。訊いてしまったら、知ってしまったら、悲しさに耐えられなくなるか
もしれないと思ったから。
「…じゃあ…」
カナデは空いている方の手で、遠くに見える山を指差す。さほど高くは無いが、周辺に他の山が無いので、そこの山頂は見
晴らしがいい。
「また展望台まで登ってみるよ?」
「そうだね」
マデが頷く。カナデが重なっていた手を引っくり返す。
手を握りあうふたりの周囲で、少しずつ空気が暗い色に変じてゆく。
口数は減っていたが、沈黙すら愛おしかった。
暑い最中でも、重ねた手の温もりは心地良かった。
黄昏が訪れるまで、時間を惜しむように、ふたりはじっとその場に座っていた。
マデが語った話の殆どが偽りであった事をカナデが知ったのは、それからずっと後になってからだった。
名前や、家族が居る事、仕送りしている事などは本当だったが、彼が語った故郷の話は、家庭環境は、国籍は、そして彼自
身が置かれた境遇は、殆どが嘘だった。
思えば、漁業実習生だと言っていたのに、マデの体からは漁業関係者のように磯や潮の香りがした事がなかった。
思えば、自分の鼻先や頬まで撫でてくれたマデの手は、漁業関係者の物としては不思議なほど肌荒れ知らずだった。
思えば、この街の漁業実習生なら見慣れているはずの海の日没を、いつも珍しそうに、興味深そうに眺めていた。
カナデが事実を知った時は、もうマデは傍に居なかった。
どうして嘘を吐いたのか、彼に訊く事はできなくなった。
だから、どうしてなのか、自分で想像するしかなかった。
きっとマデは、自分を信じられなくて騙したのではない。
気を遣われたくなくて嘘を言ったのだろう。そう思った。
本当のところがどうだったのかは、永久に判らないが…。
今でも、かつて少年だった男は、自分へ問いかけ続ける。
自分は、マデの事を知りたくて、この道を選んだのか…。
それとも、罪滅ぼしがしたくて、この道を選んだのか…。
自分へ問いかけながら、こう信じたくて歩み続けている。
「世界はきっと残酷で、けれど捨てた物じゃない」と…。