彼が居た秋

「カナデはきっと、いろんなひとに親切な人生を送るんだろう」

 今でも男は、その言葉を忘れていない。

「世界は酷い事が多くて、でも優しい事や良い事もある。カナデみたいなひとも居る」

 何故そういう風になるのか、何故そう思うのか、訪ねてもあのひとは教えてくれなかった。

 それでもきっと、あのひとがああ言ったから、自分はそう在りたいと、今でも思っている。

 正しいかどうかは判らない。

 そう感じても情けをかける。

 もしかしたら罪深い事かもしれない。

 もしかしたら偽善なのかもしれない。

 しかし今更生き方を曲げる気はない。

 あのひとの言葉が確信から出た物だったとしたら、正しかったと示したい。

 もし、そう在って欲しいという願いだったのだとしたら、裏切りたくない。

 どっちだったのか、もう確かめる術は無いのだけれど…。

 

 

 

 黒髪が潮風に揺れる。伸びてきた髪にも頓着せず、青年は堤防の上に立って海を眺めていた。

 浅黒い肌の人間、目鼻立ちがくっきりした異国の青年である。何かを待っているように時折空へ目を向け、明るさと太陽の位

置を確かめていた青年は、秋風が吹くと心地よさそうに目を細めた。

 ずっとここで暮らしたい。そんな思いがありながら、しかし叶わない事だと微苦笑して、青年は軽く頭を振る。

 やがて、微かに金属のチェーンが立てる音が、後方からの風に混じって聞こえ…。

「マデ!もう来てたんだナ!」

 シャラシャラと空転する音を立てて、坂を下りて堤防沿いの道に出てきた自転車から、少年がそう声をかけた。

 乗っているのは狸。自転車がやたらと細く見える、ふっくら肥って大柄な少年である。

「さっきね」

 応じたマデが微笑んで、カナデは傍で自転車を停めた。

「さあ出発だよ!乗った乗った!」

 カナデが後ろを示して、マデは二台に乗り、後輪の軸にシューズの踵を据える格好で跨ると、狸の太い胴に腕を回した。

「発車オーライ」

「じゃあ行くよー!」

 自転車を漕ぎ出すカナデ。太い脚がペダルを力強く踏み込み、すぐに加速する。肥満体で運動が苦手そうに見えるが、カナデ

は写真が趣味であちこち動いて回るので、体力も行動力もある。二人乗りでも重さを苦にせず、グングンスピードを上げてゆく。

 変段ギアもついていないママチャリは、二人乗りの重さ…というよりもカナデの体重でだいぶタイヤを潰しているが、狸は巧

みなハンドル捌きで乗りこなす。

 子供のころからその体重のせいで、ちょっとした段差へ乱暴に乗り上げただけで簡単にパンクしてしまう事が重々理解できて

いるため、タイヤに負担をかけないよう、段差の所で尻を浮かせて弾みをつけてタイヤを上げるなど、堂に入った乗りこなしっ

ぷりである。

 ママチャリの籠にはナップザック。中にはカナデの家…和菓子屋で出た余り物の菓子と、短いペットボトルの茶が二本が入っ

ていた。手荷物も少ない、自転車で移動するそれが、二人なりのいつものデートでもある。

 そう。これは単に遊びに行くのではなく、二人には立派なデートだった。男同士ではあるが、カナデとマデはただの友人とい

う間柄ではなく、もっと踏み込んだ物になっている。

 外国から来た漁業実習生のマデと、地元の星陵ヶ丘高校に通う一年生のカナデ。写真を取りに行ったカナデが、海を眺めてい

たマデと偶然出会わなければ接点すらなかったふたりだが、初めからウマが合った。

 ついでに言えばカナデ自身は社交的で、マデはボキャブラリーこそやや少ないものの日本語が流暢に話せ、コミュニケーショ

ンの壁も無かったので打ち解けるのも早かった。

 ただ、恋慕の情の具体的な元や、抱くに至ったきっかけなどは、カナデ自身にもいまひとつ判っていなくて、結局何年経って

も判らないままだった。

 最初は、なんとなく「いいなぁ」と思っただけ。海を背景にした被写体として見栄えがいいというのが第一印象。外国人だか

ら物珍しく感じて興味を引かれたというのもあるだろう。

 付き合いも長くない、接点も多くない、偶然出会ったマデに、男同士なのに恋心を抱いた事は、カナデにとっても混乱するよ

うな出来事だった。前触れも無く唐突に訪れた初恋に翻弄されて、しかし困惑しつつこうも思った。

 恋に落ちるというのは、もしかしたら本当にこういう唐突な事なのかもしれない、と…。

「今日はどこに?」

「紅葉岩だよ!景色も良いし、ひとも来ないからネ!」

 秋風をかき分けて進む自転車の上で、ふたりは向かう先の話をする。カナデは色々な所を知っており、その中には殆ど人が来

ないような絶景スポットも含まれる。ふたりはそういった場所で逢引きするのが常だった。

 マデが祖国の実家に仕送りしている事を知っているので、カナデはなるべく金を使わないで済むデートを考える。

 水族館や映画館、動物園に遊園地、一緒に何度でも行きたい場所はいくらでもあったが、それは大人になってからでもいいと、

今は選択肢に挙げない。想像して楽しむに留めている。

 所々に大岩が顔を出す、切り立った崖が勇壮な山の麓から、登り坂にさしかかると、

「がんばれ。がんばれ」

 マデはカナデの腹に回した腕を軽く締めて応援する。馬に発破をかけるようだなと思いながらも、カナデは「頑張るよー!」

とペダルを踏み込んだ。

 カナデの肥えた体は次第に汗ばんで、ティーシャツが脇や胸の下に吸い付いた。向かい風に乗って鼻先をくすぐる甘酸っぱい

汗の香りを吸い込んで、マデは広く肉付きが良い狸のフカフカした背中に、ぴったりと身を寄せる。

「!」

 少し身を固くしたカナデは、照れと緊張、そして嬉しさが伺える少し強張った笑みを浮かべて、一層強くペダルを漕ぐ。

 急勾配の坂を自転車はグングン登って、やがて舗装路が途絶え雑草が目立つ砂利敷きの道になり、草に埋もれてちょっと見た

だけでは判らない、獣道のような様相の登山道の前に辿り着いた。

 ふたりは自転車を降りて、近くの程よい立木にチェーンで固定し、荷物を持って山道を歩き始める。

「足元注意でついてきてよ」

「そうだね」

 先導するカナデは、照れた笑いを浮かべながら手を差し出す。マデはニッコリ笑って、肉厚で柔らかいその手を取る。

 ひとが見ていないところでは手を繋げる。それはふたりにとってはとても嬉しい事で…。

 幅のある体で草を押し分け、マデの手を引いてズンズン進むカナデ。舗装もされていない狭い坂道は、石や窪みでデコボコだ

が、ついてゆくマデは気にする様子もない。

 マデは細身に見えるが、ひ弱な訳ではない。無駄な肉がないので細い印象なだけで、実際には筋肉質で引き締まった体つき。

スタミナも相当で、健脚なカナデについて回っても息切れ一つ起こさない。

 格闘家や短距離スプリンターのような締まったシルエットと、浅黒い肌に浮かぶ若々しい筋肉のラインを、カナデは美しいと

感じる。野生の獣のような体に、穏やかで物静かな性質、しかしそれが同居しても違和感がない。それがマデという青年の個性

の一つだった。

「着いたよ!」

 三十分以上も登り、分岐する山道を途中で外れ、草木をかき分けて辿りついたのは、背の高い草の向こうにいきなり視界が開

けて現れる、5メートル四方ほどの平地。

 崖がすぐ傍に迫ったそこには、釣り鐘型の岩の横にある裂け目から一本の楓が生えて、遠い日本海を背にし、色付き始めた薄

紅色の葉を風に揺らせていた。

 ここはカナデが数年前に見つけていたお気に入りの一つ。見つけた時も秋で、楓が今日よりもずっと紅く色付いていたので、

この場所に紅葉岩とあだ名をつけた。

 他の誰かの足跡も無い、秘密の場所。崖下から見上げても岩と楓は見えないので、道も目印もない木立と茂みを抜けて偶然辿

り着かない限り、ここの景色を知る事はない。ここが誰にも発見されないのは、目ぼしい山菜も茸も殆ど生えないからだろうと

カナデは考えている。

 マデもこの景色を、特に風に揺れる孤独な楓を気に入っている。カエデという樹木の名が、「カナデ」に似ていると感じられ

て親しみを覚える。そして、傍に仲間が居ないはぐれ者、岩の亀裂などというおかしな場所から生えている楓に、親近感のよう

な物を抱いてもいる。

「まず挨拶の一枚だよ」

 愛用のカメラを構え、息を吸い過ぎない程度に軽く止め、軽やかな音でシャッターを切る狸。その仕草を青年は傍で見守る。

 手慣れた、力みのない、自然な動作。狙いすまして集中するその姿勢は、しかし獲物を狙う狩人とも違う。撮影する瞬間のカ

ナデが見せるその姿が、マデは好きだった。

「お待たせだよ!じゃあ食べようネ!」

 振り向いて笑いかけたカナデは、マデと一緒に岩の下に腰を下ろすと、ザックを漁って包みを取り出した。中身は大福餅と、

桃色の可愛らしい練り切り。どちらも形が不揃いで客に出せなかった物である。

 膝を突き合わせるように向き合って座るふたりが、菓子を食べながら談笑する頭上を、海岸線から離れたカモメが渡ってゆく。

「…海が、荒れる」

 空を見上げたマデが不意に言って、つられて視線を向けたカナデは、十数羽のカモメが纏まって海から離れ、こちらへ飛んで

くる様を確認した。
それは波が高くなって海が荒れる兆候。川や田畑などに避難しようとカモメが移動した数時間後には、だい

たい天候が悪くなる。

「まだ大丈夫かナ?」

「たぶん。でも、あまりのんびりはしない。それが、きっといい」

 夕暮れまであったはずの時間が、長くても昼過ぎまでという制限付きになった。この後二ヵ所ほど行きたい所があったカナデ

は、残念がって耳を倒す。

 その悲しそうな顔がいとおしくて、マデは手を伸ばし、頬を撫でた。青年の指についていた大福の粉が、薄っすらと白く狸の

頬につく。

「それまでは、うん」

 マデが頷きかける。生真面目な顔で。

「デートだ。続けよう」

「よく照れないでハッキリ言えるネ?そういう事…」

 感心半分の苦笑いを浮かべて、カナデは頬に触れているマデの手を取った。

「カナデの手は、厚さがあって、柔らかくて、暖かい」

 手を握られた感想をそのまま口にするのは、マデなりの言葉の練習でもあるらしいが、言われているカナデは照れてしまう。

「マデの手も、スベスベしてて気持ち良いよ」

 手を取って笑い合うふたりは、やがて身を寄せ合った。

「今度の文化祭でネ」

 カナデは学校の事を話す。マデは興味深く聞いている。

 知らないマデにも判り易いよう、丁寧に、難しい言葉やあまり使わない表現は避けるように心掛け、想像し易いように説明す

るカナデ。後々、自分の説明力や述懐力の土台は、この頃に培われたのだろうと度々思い起こす事になるのだが、まだそんな事

は予想もできない。

 肩を寄せ合い、触れ合うその温もりを秋風の中で感じながら話し続けたカナデは、やがてマデの肩へ、そっと遠慮がちに右腕

を回した。

 すると、応じるようにマデはカナデの背中に左手を回し、優しく撫でる。そのこそばゆくも心地良い感触で、カナデは全身の

被毛をフワリと逆立て、丸々した体がさらに丸みを帯びる。

 ふたりの視線が絡み合い、ゆっくり顔が近付いて、楓が影を落とす下、静かに唇が重ねられた。

 軽いキスを交わして照れ笑いし、抱擁しあってお互いの感触と体温を確かめる。はじめは服の上から互いの体を撫で合ってい

たが、やがてまどろっこしくなった様子で、カナデは自分のティーシャツの裾に手をかけ、ベロンと捲りあげる。

「えへへ…」

 恥ずかしそうに、しかし何か期待もしている顔で照れ笑いしているカナデに応えて、マデは褐色の手をたっぷりした胸に当て、

軽く揉みしだいた。

「んっ…!」

 軽く顔を顰めるカナデ。手足よりも背中よりも頬よりも敏感な胸や腹に触れられるのは、恥ずかしいが心地良い。ゾクゾクと

背筋を這い上る快感が、首筋の毛をマフラーのようにボリュームアップさせた。

 ツクン…とカナデの下腹部の奥に疼きが生じる。切なくて、落ち着かなくて、そして甘美な疼きが。パンツの中で股間のモノ

がゆっくりと、しかし着実に体積を増してゆく。

 マデには、最初の頃はカナデが気持ち良いと言うのが不思議だった。肉を揉まれると気持ちよいのか?胸や腹を撫でられると

気持ちよいのか?と。何せ自分の体を自分で撫でても心地良いとは感じないので。しかし今では、カナデが喜ぶ撫で方や揉み方

が判ってきている。反応が正直で判り易いからである。

 一方カナデの手は、自分の胸に伸びている青年の腕に触れて、その感触を確かめる。褐色のスベスベした肌は被毛に覆われた

獣人とはだいぶ違っているが、カナデはこの感触が好きだった。

「お腹も撫でて欲しいナ…」

「こう?」

 乞われたマデの手がカナデの腹に降りる。ムッチリと張りがある丸い腹は、マデの引き締まった胴体とは完全に別物。ウォー

ターベッドのように中身が詰まったズッシリした感触で、しかし表面は毛足が長い毛布のような手触り。指が深く沈み込むほど

の柔らかさとモチモチ感は、マデも嫌いではない感触だが、カナデにとってもこそばゆいながら心地良いらしく、無防備に胸と

腹を晒して撫でられるのを好む。

「もっと…」

 撫でて欲しいと催促するカナデに、マデは頷いて、広く円を描く格好で狸の太鼓腹を撫でる。カナデも腕を伸ばして、マデの

シャツを捲り上げて脇腹に直接触れ…。

『あ』

 両者の声が重なって、マデの太腿に目が向いた。ズボンにポツンと染みを作ったのは、大粒の雨。

 ポツン…、ポツン…、と草木に当たって音を立て、雨がまばらに降って来る。予想以上に早い降り出しで、曇天を見上げたカ

ナデは「意地悪な天気だナ!」と悔しそうな顔になった。

「天気…、意地悪…」

 カナデの言葉について少し考えたマデは…。

「憶えた。うん」

 力強く頷いた。

「憶えても使う事あんまりないよ?」

 カナデは苦笑いして、「濡れ鼠になる前に山を下りるよ」と促した。外はダメになるので、何処か雨に当たらずに過ごせる場

所へ移動しなければならない。

「濡れる…鼠…」

 マデはまた少し考えて…、

「カナデは鼠になるより、狸のままがいいね」

 生真面目な顔で率直な感想を口にして、カナデの苦笑を深くさせた。

 

 

 

 カナデと夕暮れまで過ごした後で、マデは帰路についた。

 が、漁業実習生として生活しているアパートまで来ても、中には入らず、前を通過する。

 折り畳みの傘を打つ雨音を頭上に、水が跳ねる靴底の音を足元にぞれぞれ聞いて、長く歩いた先、缶詰を加工する工場の裏手

側で足を止め、高い塀の一角にある社員用通用口で、磁気カードを取り出す。

 社員証を兼ねるカードキーをリーダーに通して、正面に長く続く通路に入ったマデは、しかしそのままオフィス側にも工場側

にもロッカールームにも行かず、廊下の途中にあるプライベートの札がかかったドアへ向かった。

 専用の鍵を取り出してロックを解除すれば、そこは休憩室ですらない。四角い部屋の中央に下り階段がポッカリと口を開けて

いる。

 この工場の長どころか、命じられて建設計画に加えたオーナーすら入れないそこは、ある非合法組織が用意させた秘密の階段。

広いホールのような秘密の部屋に続くそこを、マデはゆっくりと降りてゆく。

 必要以上に急いで移動すればセンサーが異常を感知し、出入り口がロックされる。細心を通り越して神経質なセキュリティは、

そのまま毒ガスによる処分という乱暴な手段にも分岐する。勘違いで殺されては叶わないし、それで殺された者を見てもいるの

で、青年は慎重だった。

 もっとも、それで処分された者について、組織は何ら痛痒を見せない。勘違いさせた方が悪い。それが、雇われた消耗品に対

しての扱い。マデもそんな消耗品の一人である。

 階段を降り切ったそこで、ドアを規定の回数だけノックしてしばし待つと、覗き窓に偽装された識別レンズが作動し、マデの

虹彩を認識して施錠を解いた。

 ドアを潜ればカードリーダーと指紋による二重認証式の気密ドア。これを抜けたマデは、ようやく室内に入る。

 視界が急に開けたそこは、殺風景どころではなく剥き出しのコンクリートに囲まれた、だだっぴろい部屋。マデと同じ外国人

労働者達が列を作り、一見すれば工場で働く従業員のような作業服姿の男三名に活動報告を行ない、引き換えに賃金を受け取っ

ている。

 一見すれば、ただの若い出稼ぎ労働者達に見えるが、実際には専門の訓練と教育を施された者達である。マデもまた、彼らと

同じ条件で雇われている調査員だった。

 入ってすぐの位置に立つ男に身元を示す番号を告げ、順番を待つマデは、しかしいつも通りに見える週一報告の場に、今回は

見たことがない男が一人、混じっている事に気付いた。

 スーツ姿の男である。禿頭…というよりも、頭髪や眉毛、睫毛なども含めて体毛が一切ない。

 どこか爬虫類めいたその中年の正体を、マデは一目で察した。以前、こういう空気の男と一度だけ会った。この体毛が無い不

気味な男も、彼と同じく「幹部」なのだろうと…。

 ゆったりした椅子に腰かけて、報告会の様子を見守っていた男は、ポツリと呟いた。

「扶桑樹(ふそうじゅ)の苗はまだ見つかりそうにないか」

「時間の問題と思われます」

 傍に控えた作業服姿の、物腰からして堅気ではなさそうなゴツい男が、体毛の無い男に囁いた。

 時に視線や詮索すら罰せられる事を知っているマデは、男達に視線を向け続ける愚は犯さない。家族を養うために金が必要な

のだから、不興を買って働けなくなっては困る。

 それからも同じ役目で街に放たれている者達が続々と報告に入り、終わった者から順に一方通行の出口へ向かい、やがて列に

並んでいたマデに報告の番が来た。

 一週間の調査報告は、捜索範囲の具体的な説明や時間帯、日にちまで含まれる。

 目標の物は見つからなかったと、マデはいつも通りの報告を終えて、視線を気にしつつ出口へ向かう。不審がられないよう、

普段通りの態度で。

 一瞬、体毛の無い男が目を向けていた気がしたが、視界の端で、すぐに興味が消えた事だけは確認しておいた。

 こういった時、マデは友人の事を一切考えない。彼と過ごした時間を全く振り返らない。

 思い浮かべた時に、自分に何らかの反応が表れてしまう事を警戒して。

(「扶桑樹」…)

 工場を出て、雨が上がってもまだヒチャヒチャと湿った音を立てる道をゆっくり歩きながら、マデは思う。

 探せと命じられているその樹木は、とても貴重な物のようで、自分の雇い主のトップ…あるいは今日初めて見たあの幹部がど

うしても手に入れたい品らしい。

 しかしそれは、一つ以外は邪魔になるらしい。最初の一つは手に入れるが、残りは他の誰にも渡したくないらしい。

(だから、見つかったら、他の苗が邪魔だから、焼く。残らないように。街ごと。全部…)

 マデは知っていた。それが見つかったら、その後どうなるのかという事を。雇い主の男達が、酒が入った状態で口を滑らせる

のを盗み聞いて知るに至った。

 アパートの敷地に入り、部屋の窓を見上げ、階段を上り、ドアに鍵をさす。

 ドアノブを回して引き開けたマデは、玄関の黒い革靴を見ても驚かなかった。

「待たせて貰っていたぞ、2番」

 丸いテーブルが一つ置かれた居間に人間の青年に見える誰かが座っていた。ただし、それが本当の姿ではないという事を、マ

デは知っている。

 何故なら、その男はマデと完全に同じ背格好で、同じ顔をしているのだから。

 どんな手段か知らないが、この男は顔や背格好を変化させられる。より正確には他者の姿を模す事ができるらしい。

 今はマデのふりをして部屋に来るため、この姿を取っているが、他の者と会う時は別の姿だったりするし、時にはその辺りで

すれ違った誰かの姿を模している事もある。その日によって見た目が異なるのはいつもの事だった。

 ラタトスクというらしいその男に、マデは会釈した。

「報告が終わりました。続いているから、見つかっていないです。まだ」

「結構だ。しかし、こうも長期に渡って続けるという事は、本当に扶桑樹がここらにある可能性が高い…少なくとも向こうはそ

う睨んでいるという事か。それにしては使い捨ての人員を動員する人海戦術…。どうにも本気の度合いが測り難い」

 マデに教育実習生の身分を与えている組織も、そことは異なる組織に属しているこの男も、扶桑樹という物を探している。そ

れを見つけ出すよう命じられているマデ達は、しかしその植物の特徴について全くと言っていいほど知らない。

 「判らない」。それが組織の説明だった。

 外見的特徴、花の色、葉の形、香り、何もかもが不明なのである。文献によって記述が異なり、樹木であるという事を除くと、

どの情報も当てにならないらしい。

 「おかしな植物を探せ」という命令はジョークのようにも聞こえるが、しかし組織は本気だった。それだけの価値がある、希

少な物なのである。

 ソレの外見的特徴などの情報は無く、捜索を命じる組織からも話は無かったが、マデはかつてラタトスクから扶桑樹がどんな

目的に使われるのかだけは簡単に聞いている。

「若返りの薬になるだの、不老長寿の秘密に通じるだのという説がある」

 ラタトスク自身も懐疑的であるらしい事が口調から感じられた。マデも、そんな物があったら誰でも知っているか、採り尽く

されているのではないかと疑問を抱き、ラタトスクもその言葉に反論しなかった。その代わりに、大袈裟に言われているだけで、

別の事に役立つ何かかもしれないと言葉を添えていた。

 そんな植物の疑わしい話に飛びつくあたり、金持ちは余裕があるのだなと、マデは呆れ半分だったが…。

 ラタトスクは持参していたミネラルウォーターから水を飲み、「そういえば」と、立ったままのマデを見上げた。

「4番が処理された後、何か体制に変更は?」

 うっかり毒ガスで処分されてしまった別の二重スパイの話になり、マデは「いいえ、あまり」と首を振った。

「担当する地域に、別のひとが入っただけです」

「単純に補充しただけか。怪しまれもしなかったようだが…」

 ラタトスクはこちらの正体が露見する事はないと確信しているので、余裕のある態度で考察する。

 事実、例えマデが情報を外に流している事がバレて、尋問されたとしても、ラタトスクは困らない。明かしているのは自分の

コードネームだけで、所属する組織の名も、規模も、どういった存在なのかも、マデは知らないので喋りようが無い。接触も、

このマデの部屋にラタトスクが直接出向く格好なので、他に足がつく要素はない。尋問されたところであちらが得られる情報は、

特定できないが他の組織が動向を探りに出ているという、警戒は強いられるが打つ手が無い曖昧な物に留まる。

 情報に対して金を払う、裏切れば家族を殺す、そんな飴と鞭で成立している主従関係。家族を食わせるためにどんな危ない橋

でも渡る。そんな労働者にラタトスクは話を持ち掛け、手駒にしている。

 どちらにとっても末端にあたる位置で、使い捨てられる二重スパイ。それがマデ達だった。

「ま、とにかくこれからもよろしく頼む。もしも先に扶桑樹の苗が見つかったら、報告はせずにこちらに教えるように」

「はい」

 頷いたマデは思う。

 カナデと、彼が暮らすこの街と、「もうとっくに見つけてある扶桑樹の事」を。

 家族は食べさせなければならない。

 どちらを裏切っても待っているのは破滅。

 扶桑樹発見という目標が達成されれば街は焼かれる。

 雁字搦めで、希望など無くて、どう転んでも明るい未来には辿り着けない。

 なのに、マデの心は平穏だった。

(家族にお金を送れて、害が行かない。カナデが住む街も焼かれない。全部、上手く行く)

 カナデが自分を好いてくれた理由は、マデにも判らない。

 だが、マデは自分がカナデを好いた理由をよく理解している。

 生まれた時から強いられてばかりの人生だった。

 家柄があり、身分があり、環境があり、立場があり、次男としてこなすべき役目があった。

 家族に仕送りをして養うために、祖国を離れて出稼ぎに出された時も、新天地に対する期待など無かった。

 出稼ぎ先で待つのが普通の海外実習などではなく、「要塞」と呼ばれているらしいあの組織に消耗品として扱われる生活だと

知っても、絶望はしなかった。

 最小限の教育を短期間で叩き込む地獄の訓練にも、逃げ出したいと思う事もなく、終わるまでの二年間淡々と従った。

 端的に言えばマデのそれまでは、諦める以前に、最初から期待も希望も持たない人生だった。「そうしなければいけない」、

「そういうものだ」と、悟ったように生きてきた。

 それが変わったのはあの日の夕暮れ。

 夕焼けの海に目を奪われ、こんな風に景色を美しいと感じる心が自分にもあったのかと、意外に感じていたあの時、カメラの

シャッター音が背に触れた。

 写真撮影の邪魔になってしまう。何処から撮っているのだろう。退けと言ってくれればいいのに。

 そんな事柄を並列で考えながら振り向いたカナデは、見た。

 カメラを手にした、ずんぐり丸っこい、夕日に赤々と照らされた狸の少年の、何やら決まり悪そうな顔を。

「は、ハロー?」

 外国人だと気付いて、戸惑いながら声をかけてきた狸に、「…こんにちは」と応じた。それからしばし戸惑って、結局苦笑い

した狸につられて表情を緩めた。

 あれが、自分が「始まった」日なのだと、マデは思っている。

 好奇心旺盛で心が自由なあの狸は、自分に何も強いる事無く、見返りも求めず、ただ好意を寄せてくれた。

 それが、心地良かった。自分は不自由で、しかし心まで不自由でなくとも良いのだと、カナデと接していて気付いた。

 

 ラタトスクを送り出し、陽が沈んで暗くなった部屋で、インスタントラーメンの袋を開け、湯を沸かす。

 空きスペースが大半の食器棚の一角に飾った、カナデに貰った写真立て…海を背景にタイマーをセットして撮ったツーショッ

トの写真を眺めて、ヤカンが音を鳴らすのを待つ。

「カナデ…」

 教えてくれたのは君。

 誰より大切な友人で、何より大事な恋人。

 だから護ろう。世界全部とかそんな事は到底できっこないけれど、せめて君と、君が暮らす狭い範囲は、損なわれる事がない

ように…。

 それがマデの切なる願い。生活と家族の事だけを考え、働く以外に何もしてこない人生を送ってきた青年が、初めて自分で見

つけた自分の為の願い。

(…そうだ)

 ふと青年は思い立った。乾燥してスナックのように固いインスタントラーメンを見つめながら。

 カナデとラーメンを食べに行こう。テレビに出るような、雑誌に載るような、行列ができるような、美味しいラーメンを食べ

に行こう。刻み葱しか具に加えていないインスタントラーメンでも不味くはないのだから、客がたくさん入る店のラーメンが美

味くない訳がない。

 贅沢はできないけれど、あまり遠くには行けないけれど、自分の手が届く範囲で、自分の足で行ける範囲で、思い出を作って

おきたい。美味しいラーメンをふたりで食べに行く程度なら、自分でも実現できる事だと思った。

(カナデが、ラーメンを嫌いでないなら良いけど…)

 

 

 

 

 

 これは、ある若者二人の、初恋の話。

 独りの青年が挑んだ孤独な闘いの話。

 世間でちょっとした騒ぎにしかならなかった、外国人実習生達集団失踪騒動の裏で起きていた事件の真相。

 守られた誰もにそうと自覚させないまま、全てを穏便に終わらせ、小さな世界を守り抜いた青年の物語…。