路傍の少女と檻の幼女(一)

 人の出入りもまばらな、南アジアの小さな空港。

 降下してくる機内から見えた、空港周辺と大通り近辺に灯りが集まり、他が大地に空いた穴のように暗い街並みを思い出し

ていた男は、

「観光ですか?」

 入国管理担当者に問われ、流暢な現地語で「いや、仕事なんだよ」と応じた。

 まだ二十代後半だろう入国管理担当者は、彼と同年代の異邦人の顔を見上げる。彼自身も決して背は低くないのだが、旅人

の目線は彼よりも頭半分は高いところにあった。

「こう見えて僕は記者なんだよネ。スモウレスラーに見える…、なんてよく言われるけれど」

 ウインクした旅人は、前を開いて羽織ったベストを左右に広げている太鼓腹を、軽く平手で叩いてみせた。ポンとコミカル

な腹鼓が鳴って、入国管理担当者は思わず笑みを零す。

「ようこそ。歓迎いたします。「コンニチハ」」

 知っている数少ない日本語から挨拶の言葉を探してきた、精一杯の歓迎に、

「有り難う。久しぶりに母国語が聞けたよ」

 大男は黒い隈取の中で目尻を下げた。

 チェック済みの荷物を受け取り、のっそのっそと巨体を揺らして歩き去る旅人の背を見送って、

「スモウレスラー…」

 彼が口にした言葉を呟いてみた入国管理担当者は、思わず小さく吹き出していた。イメージにピッタリだったので。

 旅人は、恰幅の良い狸の大男だった。

 柄の無い白い半袖ティーシャツの上にポケットが多いカーキ色のベストを羽織り、ベストと揃えた色のカーゴパンツを穿き、

どんな悪地もしっかり踏み締めて足首まで保護するゴツいブーツを履いている。

 小柄であればひと独り入りそうなほど大きなザックを軽々と担いだその男は、足取りそのものは登山家か探検家と言われて

も納得してしまいそうな力強さだが、出っ張った腹に豊満な胸、深い臍などがティーシャツにくっきり陰影をつけるほどの肥

満体である。

 とはいえ、スモウレスラーと言われるのも頷ける体格である。丸太のように太く逞しい四肢を備えており、ただ太っている

訳ではなく、相当な馬力を秘めている事は体つきを見れば判る。

 パスポートに記された名前は「カナデ・コダマ」。

 国籍は日本。職業はフリージャーナリストである。

 

 空港を出たカナデは、大きく息を吸って腹を膨らませると、異国の空気を噛み締めてからゆっくり吐き出す。それが、国境

を越えたら一度はやる、彼のルーチンワークだった。

 バスやタクシーが並ぶターミナルを見回した狸の大男は、バスの時刻表と行き先を確認し、停まっているタクシーの数を数

え、サラサラとメモを取った。

 移動の足を確認すると同時に、バスの本数とタクシーの数を、前回来た時との差を導き出す資料の補強材とするためである。

 そんな、彼にとって普通の事をしているカナデは、

(…ん?)

 丸みを帯びた厚い耳を僅かに動かす。極々小さな耳の震えは、意図的に抑えられた物になっていた。

(…気のせいかナ)

 監視などの視線や自分への注意、警戒心を感じる時、カナデは胸の中心…鳩尾近辺の表面がサワサワする。今も一瞬その感

覚があったのだが、それは一瞬で消えていた。

 しばし用心しながらも、カナデは何食わぬ風を装って繁華街方面へ向かって歩き出す。

 その遠ざかる背中をひそやかに窺う目が、空港の駐車場に停められた車の中にあった。

「ふうん…。気付きやがったのかァ?」

 煙が充満する軽自動車の後部座席。狭い空間に身を縮めて収まっているのは、鯱の巨漢である。白い部位も黒い部位も仄か

に青味が混じった体色で、瞳は黒に沈んで目線が判り難い。

 足を覆うのはアーミーブーツ。太い脚を覆うのは濃いグリーンの迷彩柄ズボン。黒い半袖ティーシャツの上にはズボンと同

色同柄のアーミーベストを羽織っている。

 筋肉でできた岩塊のような体格で、縦横比がおかしく感じられるほど筋肉質で骨太な固太り。シャツの表面には薄っすらと、

割れた胸や腹の筋肉がそのラインを浮かび上がらせていた。

 咥えていた葉巻を摘んで口から離し、狭苦しい中で身じろぎしつつ固まった灰を零さないよう丁寧に灰皿へ落とした鯱は、

車の外側を回り込んで運転席に近付いた男を目で追う。

 蒼黒く色濃い外側の被毛と、白い胸側の被毛が鮮烈なコントラストを描くシベリアンハスキーは、鯱の視線に気付いて軽く

会釈すると、運転席のドアを引き開けた。

「目標、確認しました」

 運転席に乗り込み、ドアを閉めてから口を開いた男へ、

「御苦労。だがなァ、グリスミルよォ」

 鯱の巨漢は葉巻を咥え直しながらハスキーへ告げた。

「何人、どの程度の腕の連中を連れて監視してやがるんだァ?質は大事だぜェ、質はなァ」

「は?」

 振り向くなり葉巻の煙混じりの息を浴び、染みた目を細めて軽く咳き込んだ男は…、

「やっこさん、監視に気付いたかもなァ」

「!?」

 鯱の発した言葉で顔を強張らせた。

「も、申し訳ございません!」

「ま、あくまでも「かもしれねェ」だァ。決まった訳じゃあねェ。が…、ちょいと気になる反応があったんでなァ…。下手を

すりゃあこっちで想定してる以上の相手って事もある。念のため、いま監視に当たらせてる連中は一旦全員引っ込めとけェ」

 のんびりした口調で言ってはいるが、巨漢が口にしている内容を要約すれば、「監視対象に気付かれたかもしれないから担

当者を全員入れ替えろ」という意味である。

「はっ…!ただちに…!」

 グリスミルと呼ばれたハスキーは、慌てて通信端末を取り出して部下達へ撤収命令を下す。

(あいつらめ…!シャチの前で俺に恥をかかせおって!)

 そのように苛立つ男の内心を、葉巻をくゆらせてリラックスする鯱は把握している。

 この男は野心が強い。自分に従ってはいるが忠誠心はなく、いずれは同格の立場…あわよくばより上に立つ力関係になりた

がっている事も知っている。

 このハスキーはその強い上昇志向も手伝って実力も伸びがよく、仕事も多種多様に進んでこなすのだが、しかし功を焦り過

ぎるきらいがある。何より、内心で自分以外を見下す傾向が強いので時折足元を掬われる。「使いようによっては使えるがミ

スも織り込んで使う必要がある男」というのがグリスミルに対する鯱の巨漢の評価だった。

「…そろそろ港に「楽師」が来るぜェ。出迎えの支度はできてんだろうなァ?」

「はっ!抜かりなく配置しております!」

 部下達への命令を出し終えた瞬間に鯱に言われ、グリスミルは耳をピクつかせた。

 身じろぎと衣擦れの気配を感じたかと思うや否や、鯱が後部座席のドアを開けている。

「…どちらへ?」

「やっこさんの監視はもういい。オメェも港に行ってウルの出迎えをしとけェ。俺様はちょいとブラブラして来るからよォ」

 返事を待たずに出て行った鯱の広い背中を、グリスミルは苦々しく睨む。その敵意や反感を察知されている事など露知らず。

(「黄昏の楽師」…、か…)

 もうじき到着する男の事を考えながら、グリスミルはエンジンキーを回した。

(シャチ・ウェイブスナッチャーと、ウル・ガルム…。中枢直属のエージェントがふたりも動員される相手…。一体何者なの

だ?カナデ・コダマとは…)



 数十分後。狸の大男の姿は繁華街から少し奥に入った路地にあった。

 機上の窓から見えた灯りから少し逸れた、屋台が並ぶ界隈である。

 薄暗い電球の灯りが照らすそこは、様々な物が焼かれる雑多な匂いが混じって醸し出される混沌とした空気と、脂ぎって粗

野な活気に満ちていた。

 その中の屋台の一つで、丸椅子からはみ出る大きな尻を据え、狸は湯気を上げるラーメンどんぶりを写真に収める。

「いっただっきまーす!」

 母国語で食事の挨拶を口にし、舌なめずりした狸は表面に油がたっぷり浮いているスープの中から太い麺を箸で摘み、ゾル

ゾルゾルッと勢いよく啜り始めた。

 次第に、他の客の視線がカナデへ集まる。

 熱い麺にハフハフ息を吹きかけ、盛大な音を立てて啜りこむ狸の口に、どんぶり一杯のラーメンがズルズルと流れるように

消えてゆき…。

「これ美味いネ!ん~、でも白湯も気になるナ…。よし、二杯目は白湯麺にするよ!」

 続けてオーダーした狸は、次のどんぶりも、そのまた次のどんぶりも、立て続けに空にした。

 啜り込む騒々しい音に、感嘆すら抱くほどの食いっぷり、美味いと物語る幸せそうな表情。店主も気を良くし、二杯目から

は客全ての目が釘付けになった中で三杯目のタンタン麺を食い終えた狸はビールを一杯頼む。そして…。

「じゃあ次はワンタン麺にするよ!」

 終了かと思いきや、ビールで喉を潤してから第二ラウンドに入る。

 その、幅広い尻から垂れた太い尾が機嫌よく揺れる様子を、別の屋台から窺っている者があった。

(目立つ真似してるじゃねェか。気付いてねェのか、気付いてて一般人を装ってんのか、どっちだろうなァ…?)

 別の屋台で、大きな貝柱や太い海老が惜しげもなく放り込まれた海鮮ラーメンを掻き込みながらカナデの様子を監視してい

るのは、鯱の巨漢である。

「スープの味つけだけじゃねェ、この海老がいいなァ…。プリプリして歯応えも良いぜェ」

 屋台の女将に本心からの賛辞を送りながら、鯱は同僚に当たる灰色の馬の事を思い出す。

(この国のラーメンも中々だァ。スレイプニルにも教えとくかァ…)

 携帯端末で食いかけのラーメンを撮影し、「旨い」の一言と位置情報を添えて、本部に詰めているはずの仕事仲間へ転送すると…。

―詳しく―

 短いメッセージが即座に返って来た。

(任務の進捗には触れねェんだなァ。グフフ…)

 ラーメンにだけ食いついた相手に返信をしたためつつ、まだ進捗を訊かれても困る段階だが、と鯱の巨漢は半眼になった。



 シャチ・ウェイブスナッチャーは、ラグナロクという名の組織に所属している。

 多くの場合は「黄昏」と忌んで呼ばれる、その世界最大最悪の組織において、戦闘能力に主眼を置き、特別な手間をかけて

製造された高性能人型兵器の一体であり、最高幹部のひとりに仕える直属のエージェント…要するに組織内でもかなり高位に

ある構成員である。
その性能は先進国連合がユニバーサルステージクラス…戦略兵器級能力者とカテゴライズする域に達して

おり、純粋な戦闘能力という点であれば組織内で十本指に入る。

 そんな彼は本来別の任務でこの国に入っていたのだが、昨日唐突に、直属の主から命令が下されていた。

 カナデ・コダマ。

 黄昏が動こうとする先、動いた後、あるいはその両方で姿を見せるフリージャーナリスト…。

 黄昏はこの男が本当に「ただのフリージャーナリスト」なのか、疑惑の目を向けていた。

 最初はそれでも、世界中でマークしている何百人という人物の中のひとりでしかなかったのだが、いよいよ本格的な調査が

開始されたところである。東洋の島国に陣取る白虎などのように、脅威となり得る敵性存在か否か、見極めるために。

 武力を汲んでの「脅威」ではない。その「出現場所」が問題だった。

 狸が姿を見せる場所は、組織の作戦地域とあまりにも被り過ぎている。そのため何らかの情報を握って黄昏を嗅ぎまわって

いるのではないかという疑惑が持たれた。

 これがもし疑惑の通りであれば非常に面白くない事になる。黄昏の作戦行動を察知して動いている、…となれば、幹部級の

内通者が居るという程度の話では済まない。狸が現れた現場は指揮する幹部や部隊が毎回違っていた。進行中の作戦は組織内

でも最低限の人員間でしか情報共有されないため、もし内通者が居るとすれば相当な数という事になる。

 しかし、この「多数の内通者から情報を得ている」という線は、黄昏という組織の性質上あり得ないはずの事だった。

 黄昏の構成員の九割は、現在の世界の在り方では存在を容認されない合成生物や生物兵器やクローン、そして先進国政府連

合から追われている者達で、残る一割は「今の世界そのもの」を敵と見なし、破壊する事を望む者達である。

 素性が知られれば世界から抹殺される者達ばかりなので、組織内でしか生きられない。よって、内部での派閥闘争や駆け引

きはあっても、組織その物を裏切る事はまずあり得ない。つまり「幹部級の情報を得られる複数の内通者が存在し、狸に情報

を漏らしている」という線は、可能性としては非現実的である。

 そう考えると、狸側が何らかの手段で組織の動きを察知している可能性が濃くなるのだが、黄昏すら監視可能な「何か」の

手駒なのか、それとも狸自身が「そういった力」を持つ能力者であるのか、などとそこからまた可能性が分岐してゆく。

 その、まだ判断がついていない調査対象者が、今回またしても作戦行動中である国へ移動した。これを看過できないと判断

した黄昏は、現地に居るシャチと、比較的近い地域に移動していた別のエージェントの、二頭を動かして対応に当たらせる事

を決定した。

 戦略兵器級の上級構成員が二体も動員される…。そんな異常事態に、関連する任務に就いた多くの構成員は、当然戸惑いを

強めているが…。



(さて、シロと出るかクロと出るか…、グフフ…!)

 しばしあって、お代を払って席を立ったシャチは雑踏の中を歩き出す。

 視線の先には太った体と背負った大荷物を揺すって歩く、大柄な狸の背中があった。

「げふぅ~…!久々のラーメンが美味し過ぎて、ついつい食べ過ぎちゃったよ…!」

 丸く張った太鼓腹を両手で軽く叩き、ポンッと腹鼓を鳴らしたカナデは、宿泊予定のホテルへ向かう。出向いた現地でその

国ならではの様々な物を食べ、食えない物は殆ど無いが、故郷で慣れ親しんだ料理が結局一番口に合う。和食に限らず、日本

で食べられる大衆食全般がカナデにとっての故郷の味だった。

「お兄さん、お暇?」

 歩むカナデが足を止め、視線を巡らせる。

 声をかけてきたのは若い女。派手なルージュで真っ赤に塗った口元が、妙に白く塗られた顔の中でやけに目立った。

「安くしとくよ。どう?」

 大胆なスリットが入ったミニスカートから太腿を覗かせた女がウインクし、カナデはありきたりの文句に微苦笑する。「安

くする」は別に言葉そのままの意味ではない。「サービスするよ」と同義語である。
繁華街の裏通りは、土産や食品を提供す

るばかりではない。こういった商売をする女、あるいはそれ以外が旅行者を呼び込む店も、細い通路の先や建物の隙間の奥に

軒を連ねていた。

「お誘いは有り難いけどネ、生憎と僕はゲイなんだよ」

 軽くいなしたカナデに、女はカラカラ笑って「おや残念だね!」と応じた。

「男娼も紹介できるけど?」

「またにしとくよ。今はお腹一杯で、ベットに乗ったらバタンキューだよ」

 太鼓腹を叩いて見せたカナデから、旅慣れている、そして旅を楽しんでいる雰囲気を感じ取ったのか、女は「ああそう」と

肩を竦めて諦めた。

「酒も飲めるし宿も兼ねてる店だから、良かったら来てよ。その体だもん、結構飲めるんでしょ?」

 素早く厚紙の名刺を握らせてウインクを投げると、女はターゲットを切り替えた。

(プロだナぁ…)

 押し付けられた名刺に書かれた店の名前を確認し、ポケットに入れてカナデは歩き出す。当然だが店の名前の頭にはバーと

記してあった。

 久しぶりにたらふくラーメンを食い、喧騒を目と耳で楽しみ、時折客引きを断って、満足しながら歩く狸。その周囲から次

第に店が消え、灯りが減り、人の気配が失せ、そこそこ広かった通りは心寂しい空気が淀む細い路地へ変わる。
機上から見下

ろしてはっきり判る、営みの質の差。灯りとして見えていたその外へ外へと、カナデはひとり歩んでゆく。

 やがて、静か過ぎる路地の一角で、大狸はふと足を止め、右手側を見下ろした。目に映ったのは、太腿のところでズボンを

摘む小さな手。

「…おじさん、旅行してるひと?」

 話しかけてきた人間の少女を見下ろしながら、カナデは頷く。

「あたしを買わない?安くするから」

 肌の色が悪く、衣類も汚れて少し臭う。虚ろな目をした少女は明らかにローティーンだった。

 おそらくまだ十二か十三、故郷の甥っ子達より少し年上だろうかと、カナデは考える。

 だが、歳相応のあどけなさや快活さ、生命力や潤いは、少女の目にも顔にも表情にも見られない。

 その代わりに、そこには疲弊と飢えと乾きと、老いにも似た諦めがあった。

「ねえ、買ってよ。上手くするから」

 誘うようで、しかし少女の瞳に期待の色は見られなかった。断られても仕方がないと、半分以上は最初から諦めている。

 カナデは少し身を屈め、なるべく少女と目線が近付くように顔を寄せると、「いくらかナ?」と訊ねた。

 少女はのろのろと五本の指を広げ、値段を示した。ぼったくり価格だったが、カナデは財布を取り出すと、紙幣を七枚少女

に握らせる。

 多い。

 手の中の紙幣を数え、そう言おうとして顔を上げた少女の前で、腰を折っていたカナデは身を起こし、太い人差し指を立て

て左右に振った。

「もう少し年上が好みなんだよネ。十年経ったらお願いするよ。それ、前払い金と予約金だよ」

 ぽかんとする少女の顔には、やっと、子供らしい生の感情の色が浮いている。驚きと、戸惑いと、困惑の色が。

「じゃあネ。いい女になるんだよ?」

 セリフそのものはキザったらしいが、格好つけようとしているわけではなく、おどけて三枚目らしく振舞っている。少女に

背を向けて肩越しに片手を上げ、二本揃えた指をスチャッとコミカルに立てて、カナデはさよならの挨拶にする。

 呆然と立ち尽くす少女を残て歩き去る狸は、しかし歩きながら表情を一変させ、目つきを鋭くしていた。

(ふ~ん…)

 その様子を鯱が窺っている。ただし地上からではない。店を畳んで七年は経つ医療品店の屋根の上、腹這いに伏せて闇に溶

け込みながら、一部始終をじっと…。

 カナデの移動先はシャチにとって好都合だった。空き屋も多い、取り壊しもされずに放置された廃ビルや店が多い界隈、身

を隠す場所や追跡に向いたルートはいくらでもある。10メートル程度の高低差など物ともしない跳躍力、登坂力を備える生

物兵器は、カナデを追跡しつつ、彼が向かう先…、徒歩で移動する先として現実的な距離内にある数軒のホテルを頭の中で並

べ、通信端末を口元に寄せた。

「…俺様だァ。今から言うホテルの部屋を空けられるように準備をしときなァ。場合によっちゃ俺様がそこに泊まるからなァ」

 「仕事」のため、この国の多くの宿泊施設には予め長期滞在で部屋を確保している。シャチはカナデの行き先になりそうな

宿泊施設に先回りできるよう部下に手配させつつ、建物の上を音も立てずに飛び移って移動しながら追いかけた。



「ふぅ…」

 チェックインを終え、客室に入って荷物を下ろしたカナデは、洗面所で顔を洗ってベッドに腰掛け、一息ついた。

 予約していたのはダブルベッドの部屋。体が大きいので場所によってはシングルベッドが窮屈なため、なるべく余裕がある

寝台を置いている部屋を選ぶようにしている。

 少し距離はあるが徒歩で空港まで移動できる範囲の、ホテルの一室。ここがこの国で仕事をする間、カナデの寝室兼オフィ

スとなる。

 ザックを開けてノートパソコンを取り出し、各種充電器と共にコードをコンセントに繋ぐ様子は手慣れている。部屋の備品

は全てチェック済み。下卑たビジネス用に盗撮機器が設置してある場合や、情勢が不安定な国では政治的な理由で盗聴器が仕

掛けられている場合もあるため、この手のチェックはカナデの習慣となっていた。

 もっとも、気付いてなお放置する場合も多い。特に国家の機関が仕掛けたケースでは、撤去する事であらぬ疑いをかけられ

たりもするので。

 ひとしきり荷物を整理した後、時刻を確認したカナデは、カメラと財布など必要最小限の物を持って部屋を出て、一階にあ

るバーに降りた。
ホテル特有のやや高値で酒を提供する店だが、冷えたビールの誘惑には抗えない。それなりに客が入ってい

るバーのカウンターにつき、バドワイザーを注文したカナデは、あちこちから聞こえる旅行客の会話に耳を傾ける。

 国外の客が多く、会話は様々な言語で交わされるが、読み書きならば15ヶ国以上、会話だけなら30ヶ国以上、カタコト

での会話や主要単語の理解だけならばだいたいの言語で可能なカナデにはリスニングも苦にならない。

 主な話題は観光についてだが、不安定な国内情勢や治安の悪化を気にしているグループもあった。特に、先ほど声をかけて

きた客引きは未成年にしか見えなかった、などという会話はカナデの印象に残る。

(未成年の売春…)

 カナデの母国でもこの国で児童売春に手を出す旅行者についてたびたび報道されている。

 目の前に置かれたグラスを取り、冷たいビールを喉に流し込み、一気に三分の二以上減ったバドワイザーを目の前で揺らし

た狸は、

「ひとりかい?」

 横で椅子を引いた声の主に顔を向けた。

 軽い驚きをもって、カナデはその男を見つめる。

 大柄なカナデよりさらに背が高い、筋肉で膨れた見事な巨体の鯱である。

「そうだよ。おたくもかナ?」

「ああ。気ままな一人旅ってヤツだァ」

 シャチがラガービールを注文すると、カナデもお代わりをオーダーしつつ残りを飲み干す。

「ニッポンジンかい?」

 カナデは再びシャチの顔をマジマジと見た。シャチがその質問を日本語で投げかけたので。

「驚いたよ」

「そう見られる事はあんまりねェってかい?」

「いや、発音が綺麗だったから驚いてるんだよ」

 イントネーションの完璧さを褒め、正解だと告げたカナデは…。

「そっちのお国はカナダかナ?」

 巨漢は顔にこそ出さなかったが、内心かなり驚かされた。

 複雑だが、ビンゴと言える。

 生地や国籍という意味では不正解である。シャチはラグナロクの施設内で製造されており、そこはカナダではなかった。ま

た、偽装国籍の一つはカナダに持っているが、正式な帰属としては何処の国でもない。

 だが、彼を製造する際に調達された「素材」は確かにカナダ由来で、最も活用している偽装国籍の一つによる「副業」もカ

ナダを拠点としている。非常に縁が深い国ではあった。

「驚いたぜェ。アジアじゃあだいたいアメリカと混同されるもんなんだがなァ。何でカナダって判ったんだァ?」

 内心は表面に出ていないと思ってはいたが、シャチはあえて驚いた素振りを見せ、正解だとカナデに答えた。

「まぁ、こっちの地域での失礼な混同については否定はできないよネ…」

 苦笑いしてプックリした頬を指先で掻き、狸は言う。発音から何となくそう思ったのだと。

(なるほどなァ。声帯ってのは長年の使用でそれに適した形に変化してくってェ話だが…母国語に慣らされた「声帯の癖」っ

てモンに気付いたのか…)

 シャチ自身は主に英語を用いるが、それはアメリカ系の物。アジア人であれば普通はアメリカ系と思い込むはずだった。カ

ナデの耳の確かさを認識し、しかしシャチは考える。

(そんな鋭い感性を隠さねェのは、どういう事だろうなァ…)

 自分達はこういった事に気付いても喋らないし、種は明かさない。仕事がし難くなってしまうのだから。しかしカナデはま

るで…。

(手の内を見せる事に躊躇がねェ。…まるで堅気みてェだなァ?)

 グラスがほぼ同時にふたりの前に出て、カナデがまず手を伸ばす。シャチも次いでグラスを取り、「お互い、気楽な独り旅

に乾杯と行こうか。グフフ」と、グラスを少し上に掲げた。

「そうだネ。じゃあ…」

 名を確認しようとしたカナデに、シャチは名乗る。

「俺様は「ジョン・ドウ」」

 一瞬怪訝そうな顔をした狸が、その偽名の意味を理解した事を、シャチは察した。

 ジョン・ドウ。偽名の代表格。意味合いとしては「名無しの権兵衛」であり、転じて「身元不明死体」ともなる。

「僕は「ストレンジャー」ってよく呼ばれるよ」

 応じた狸の返答に、シャチはグフフと笑った。

 ストレンジャー。「異邦人」という意味だが、転じて「見知らぬ誰か」を意味する単語。

 ウィットに富んだ返しを見せて、「親はカナデと名前をつけてくれたけどネ」とグラスを掲げた狸に、ニヤリとした鯱がグ

ラスを寄せた。

「シャチだァ」

 こういう手合いは嫌いではない。

「良き旅を!」

「グフフ!よき旅を…!」

 キンッ…と、グラスが触れ合って、泡立つ液体が軽やかに揺れる。

 これが、罪深き聖人と気高き咎人の、最初の邂逅だった。



(何をしているんだシャチの奴は!?)

 シャチがターゲットと直接会話しているという現状を監視役から聞き、グリスミルは目を剥いた。

(うかつにも程がある!慎重さの欠片もないのかあの男には!?)

 歯噛みするグリスミルは、部下からさらに「一緒に酒を飲んで大笑いしている」と聞き、苛立って壁を蹴り付けた。

 ここは、カナデが歩き抜けた界隈にある、廃ビルに偽装された黄昏の仮設基地の一室。元々は飲食店が入る雑居ビルだった

ので間取りに難はあるが、それでも一応地下スペースに区切りを設けてそれなりに設えてあった。

 歯軋りするグリスミルは…、

「あの男らしい、読めない手だったな」

 涼やかに良く通る声で、ハッと我に返る。

「お見苦しいところを…!」

 背筋を伸ばして向き直ったグリスミルの目に、ソファーに腰を沈め、軽く前屈し、膝の上に両肘をついて座っている、狼の

偉丈夫が映り込んだ。

 筋肉質で背の高い、逞しい男である。ただしシャチのような度を越した筋肉ダルマではなく、均整の取れた体つきだった。

 知的でありながら、それが行き過ぎて何処か冷たい瞳。白に近いグレーの被毛は豊かで美しい。顔立ちも整っているが、む

しろそれがこの男の冷たい印象を強めている。

「構わない」

 顔色一つ変えずに応じた男の名は、ウル・ガルム。「黄昏の楽師」と渾名される、ラグナロクが有する最大戦力の一角。

 シャチも一目置く使い手である彼は、ガルムシリーズと名付けられた特別仕様の生物兵器達の一体目。より正確には、彼の

生物兵器としての高性能さ、戦士としての優秀さ故に、ガルムシリーズという兵器の製造プロジェクトが立ち上げられ、「弟

達」が製造されている。

「しかし、思えば有効な手だ」

 ウルの呟きに、グリスミルは「と、おっしゃいますと…」と眉根を寄せた。

「こう、考えた事はないか?ひとは目立たない物を探そうとする。目に付く物は安心できるから、むしろそれ以外に注意を払

おうとする、と…」

「………」

「ただでさえ目立つシャチが堂々と振舞えば、コソコソするより怪しまれないのかもしれない」

「はあ…」

 曖昧に応じるグリスミル。だからと言ってあれほど堂々と接するのは如何なものかと、内心では賛同していない。そもそも

あの粗雑な男はそこまで考えていないだろうと感じた。しかしウルは知っている。

(シャチ自身が怪しまれない…というレベルに留まらない。彼と接している間は、監視に気付いた節のあるターゲットでも、

他の監視者にまでは注意を払い難いだろう)

 万事適当で大雑把なようで、シャチは馬鹿ではない。豪快で豪放なその振る舞いとは裏腹に、計算高く用心深い。

 忠告だけ済ませ、沈黙した狼は目を閉じた。高度に兵器化されている彼はわざわざ横にならずとも十全な休息を取れる。座っ

て動かずにいるだけで機能の維持と疲労回復が可能だった。

 まどろみにも及ばない休息の中で、ウルは状況を整理しつつ行動方針を再確認する。

 エージェントがふたりも動員される…。滅多にない事ではあるが、しかし今回は何もカナデ・コダマという個人に対してそ

れだけの「戦力」が必要と判断されたわけではない。シャチにはシャチの仕事がこの国であった。そして、ウルはウルで就い

ている任務の都合上、この国で調査する必要があった。それぞれが丁度良い位置に居たので、正体不明のカナデに対して念の

ため当てられているに過ぎない。もっとも、「真に危険な存在」と判定されたその時は、戦略兵器級の生物兵器がふたりがか

りでその存在を抹消にかかるのだが。

 黙したウルの邪魔にならないよう、グリスミルは持て成しの茶菓子が乗ったテーブルとソファーセットには近付かず、静か

に部屋を出る。

(シャチが単独で動く理由はもう一つ。…おそらく、あの部下が邪魔なのだろう)

 狼は息もしていないように見えるほど静かで、彫像のように身じろぎもせず、出てゆくハスキーの気配を感覚だけで追った。

(実力と自己評価が吊り合っていないタイプだな。わたしが思うにアレは、性能は悪くないが信頼性が低い道具のような物な

のだろう)

 シャチが自ら、しかも単独で動いている理由の一つは、グリスミルの信頼性の不足にある。そう考えながら、ウルは自分に

本来与えられている任務について考えた。

(彼が監視しているなら判別は容易だ。わたしの方は本来の任務を遂行できる)

 やおら目を開き、ズボンのポケットに手を入れた狼は、取り出した端末のモニターに瞳を合わせた。

 ウルが持つ端末には虹彩と指紋の二重生体認証をはじめとする、ラグナロク最先端のセキュリティが仕込まれている。扱う

情報の機密度が他の構成員とは段違いであるため、持ち主の生命反応が感知できなくなったり、距離が一定以上離れた場合、

それが本当に機能停止したのか、それとも信号が何らかの障害により途絶しているのかの区別無く、自壊して全てのデータを

物理的に抹消する作りとなっている。
そこまでの機密が収められた端末は、しかし一見すれば何の変哲も無い、この年代では

珍しくない中折れ式携帯電話の形状をしていた。

 ロックが解除されたモニターに映し出されたのは、ウルが本来の任務でターゲットとしている人物である。

 年端も行かない幼い少女で、愛らしい顔立ちと愛嬌のある笑み、綺麗な栗色の髪が印象的だった。

 ウルは彼女を「判断」する為に派遣された訳ではない。その少女はカナデとは違う、「確定的に危険な存在」と認定済みの

ターゲット。可能であれば確保、それができなければ抹殺せよというのが、今回ウルが帯びている任務である。

 彼女の足取りを追い、一時的に「所有」していた組織をいくつか突き止め、解体したが、この国近辺でその移動先が掴めな

くなってしまった。彼女を他所へ譲渡した組織が、別の組織との抗争で壊滅し、状況を知る者が生きていなかったので。

(カテゴリーSSプラス、未知の現実侵食現象行使個体。…果たして、この国に居るのだろうか)

 まだ五歳になったばかりの栗色の髪の少女は、戦略兵器が手にしたモニターの中で、あどけなく笑っていた。