漂泊の仙人と煙雲の少女(三)
マグライトが照らした天井の下で、鯱の巨漢はニヤニヤと口の端を上げていた。
(妙に腕が立ちやがるから、下手すりゃ中国軍の特殊将校の類と出くわしちまったのかと思えば…、グフフフフ…!)
瞳に映っているのは胡乱げな顔をしている狸…予想外の場所で再会する羽目になった、フリージャーナリストのカナデ。肉弾
戦の間合いで数手挟まれ、あまつさえ即時制圧をしくじるなど、シャチの経験上でも数えるほどしかない。しかもそれらのケー
スは全て、相手が真っ当なひとの範疇に入っていなかった。
下手なブーステッドマン(人為的改造個体)より反応がよく、生半可な兵士より判断が的確…。改めて、以前ラグナロクが注
意を払ったのも無理はないと感じ入る。
(殺さねェように気を付けてた…とはいえだァ。この俺様がしくじるとはなァ…。そりゃ諜報部がマークもするぜェ。まっとう
な一般人の戦闘能力じゃねェ)
殺す気はなかったが逃がす気もなかった。にも拘わらず捕らえ損なうほど、カナデは手強かった。
「腐れ縁ってヤツだなァ、グフフ」
「まったくだよ。…っていうか安心するのはまだ早いナ。ジョン、君の目的に僕の捕縛とかは含まれるのかナ?」
知り合いだと知っても手放しで安堵はしないカナデの問いに、「いいやァ」とシャチは肩を竦める。
「俺様の目的は人探しだァ。仕事上の秘密もあるから詳細は詮索すんなよォ?グフフ…!で、立ち寄った町はこの空っぽの状況
だァ。調べてる最中に人影を見たから怪しんで身を隠したんだが…、オメェだと知らなかったんで警戒したぜェ」
シャチにとってもこの状況は想定外で原因不明。話せる所は手早く正直に話す。
これを聞くと、カナデはようやくホッと息をつき、ベルトを抜いたせいでずり落ち気味のズボンを引き上げた。両手を塞ぐこ
の行動で警戒を解いたと確認したシャチは、あまり期待せず確認する。
「念のために聞くぜェ?この住民が消えてる理由、知ってたりしねェかァストレンジャー」
「判らないし予想もつかないネ。僕もさっき着いたばかりで、驚いてたところだよ…」
「そうかァ。じゃあ七キロぐれぇ東の集落が空っぽだった件も知らねェなァ?」
確認されたカナデは、解いていたベルトを締め直しながら息を飲む。
(ここだけじゃないんだよ…!?)
カナデはシャチに尋ねた。この辺りで「軍隊見なかったかナ?」と。
「おォ、見たぜェ。何やら捜索中のなァ。が、あいつらが連行したかって話だったら…、正直どうだろうなァ?グフフ」
シャチは部隊の捜索が及んでいない区域を確認中だった。状況的見地から言えば、先回りした格好になっているはずなので彼
らが何かしたとは考え難い。そして、現場的見地から言えば、大人数が動いていた痕跡がないため、作戦行動を取った後とは思
えなかった。
「で、そっちは何で居るんだストレンジャー?」
「自主的な取材だよ。地震後の景観変化についてネ」
「ひとりかァ?」
「そうだったけど、ここに来る途中で知り合った、お爺ちゃんと孫娘に同行して…」
言葉を切ったカナデは軽く顔を顰めてポリッと頬を掻いた。この巨漢とばったり出くわしたのが、あの老人と少女でなくて本
当によかった、と。
「とにかく僕は戻ってふたりと合流するよ。そっちはどうするつもりかナ?」
「当然さっさと立ち去るぜェ。ひとが居ねェんじゃひと探しどころの話じゃねェし、余計な厄介事にゃ首をつっこんでられねェ
からなァ」
「まったくだナ。宿に期待したんだけど…」
カナデはふと思いついて提案する。
「移動するなら一緒に来るのはどうかナ?野宿になるだろうから、同行者の安全確保は人手が多い方がいいよ。そっちの仕事に
差し支えない範囲のボディガード。勿論報酬は払うけど…」
状況が不明で見通しも立たないなら、見知った同行者が増えるのは心強い。ましてシャチは素性の詳細こそ不明だが軍人の類
らしい。その辺りを考慮して提案したカナデに対し…。
「グフフフフ…!俺様は高ェぜェ?」
ニヤつくシャチ。「具体的にはどれぐらいだよ?」とカナデが問うと、指を一本立てて見せる。1千か、1万か、その意味を
考えたカナデは…。
「一発ヤらせろォ」
「おぉ~い…」
思わず気の抜けた声を漏らしてしまった。
「…という訳で、バカみたいな偶然だけど知り合いとバッタリ会ったよ」
カナデは相当雑な説明で、老人と少女にシャチを紹介した。時間が許せば丁寧に説明するところだが、この無人の町に長居し
て大丈夫かどうか判らないので、シャチに関する説明はやたら短い。
「グフフフフ…!ジョン・ドウだァ。よろしく。グフフフフ…!」
この、含み笑いを漏らす不審さの塊のような男を前に…、
(何コイツ?怪しい大人…)
チーニュイは完全に警戒モード。祖父を守るように前に立って、近付けさせない構え。
ルーウーはというと、鯱の巨漢を警戒してもいないのか、穏やかな半眼のままである。
しかし、シャチは面食らっていた。
(マジかァ…)
目の前にいる、穏やかな表情を崩さない老人は…、
(この爺さん…。片牙だが、剣牙虎じゃねェかァ…)
獣人種ではある。が、現行人類のあらゆる種とは事情が異なる。珍しいどころの騒ぎではない。竜人種や龍人種のような、絶
滅の恐れがあるほど数が減った少数種とも違う。
それは、現行の人類史が始まるよりも前に姿を消した種。歴史から消えたどころか、初めから認知されていない種。
(まさか、だぜェ…)
「彼には彼で仕事があるから、一時だけの同行だけど…」
「あァ、その件だがなァ」
シャチは同行に関するカナデの言葉を遮った。
「あからさまにおかしな事態だァ。こっちの仕事は中断しとくぜェ」
この申し出で、カナデは意外そうに瞬きする。
「いいんだよ?」
「いいんだよォ」
というのも、シャチはもうあちこち探し回る必要が無くなっていた。捜索を命じられた「痕跡」は見つかっていないが、それ
どころではないものを発見している。
「とにかく、準備ができたらまず移動するよ。状況が判らないから危険か安全かも判らないしネ。とりあえず「買い物」はさせ
て貰ったし、僕はいつでも出られるよ」
カナデは店に金を置き、商品を持ち出している。火事場泥棒しない辺りに性格が伺えて、ルーウーとチーニュイは面白がって
いるような顔を見せた。
「じゃあ、チーニュイも買い物!食べ物は要るから!」
孫娘が近くの店に向かい、老人もそれについてゆく。またふたりだけになると、シャチは声をひそめてカナデに尋ねた。
「何処で知り合ったんだァ?」
「ここに来る途中の沢で会ったよ。仙人指っていう、ひとの指みたいな岩の柱がいくつも立ってる所があってネ…」
カナデの説明を聞き、シャチは胸中で顔を顰める。
(軍が捜索してる範囲の真っ只中じゃねェかァ?コイツもそうだが、このふたりも引っかからねェで来たのかァ。グフフ…)
町から離れて一晩過ごせる場所を探す事になったが、既に日も暮れて見通しも利かない。
さてキャンプ地選定は大仕事だぞと、土地勘のないカナデは腹を括ったが…。
「え?休めそうな岩陰があるんだよ?助かります…!」
カナデは先頭に立って案内し始めた老人の背に、有り難がって手を合わせる。
迷いなく危なげなく、暗い中でも真っすぐ先導して歩いてゆく老人は、夜空に紛れる色に木々も染まった、低い山に向かって
いた。町を出て3キロほどの距離にある山の周辺に至って、カナデははじめてその辺りの地形に気が付いた。付近にはゴロゴロ
と苔むした自然岩が多数転がっており、風を避けて休むにも、身を隠すにも丁度いい。丁度それらに囲まれる形で夜風を避けら
れる窪地もある。畳を並べれば六枚程度の、身を隠すにも休むにも丁度いい場所だった。
「とりあえずだァ、見張っておくから腹ごしらえでも何でも済ませなァ」
シャチは岩に囲まれた窪みからひとり出て、見張りを買って出た。「済んだら交代するよ」と声をかけたカナデに、肩越しに
ヒラヒラと手を振った巨漢は、無人になった町の方向を見返す形で、ひとの背丈ほどもある岩に寄りかかり、腕を組む。
(さァて、状況がこんがらがって来たぜェ…。順番に整理するかァ)
一つめ。仙人の痕跡は未検出。照合用のデータは把握しているが、一致するような物は発見できていない。
二つめ。中国軍の特殊部隊の目的もおそらく同一。ただしまだ仙人も痕跡も見つかってはいない様子。
三つめ。住民が姿を消してもぬけの殻になった二つの居住地は、原因不明。推論を許さないほど手掛かりが何もない。
四つめ。カナデについては偶然居合わせただけという主張を信じる事にする。前々からデリケートな辺りに出没していた男な
ので、世界中の何処で会っても不思議ではない。特に今回は情報その物が不確かなのだから、何かを嗅ぎつけ確信をもって確認
に来たとは思えない。
五つめ。カナデの同行者だが…。
(…「ひと」じゃねェ…)
シャチの目が鋭く細まった。狐の娘には特におかしなところもない。だが老虎の方は…。
相対して把握した情報を参照する。やりとりし、反応を見て、受け答えする…、その過程には何もおかしな所はなかった。
が、だからこそおかしかった。
意思疎通できている事に生物として違和感が無いものの、それが、直接相対しながら収集したデータと一致しない。そしてそ
の事にカナデは全く気付いていない。機械的な処理結果と生体的処理の結果を突き合わせて比較しなければ、おそらく感付きも
しないだろう。
そして六つめ…。
(あのふたりは、住民が消えた原因に心当たりがあるかもしれねェ)
カナデはともかくとして、普通ならパニックになるような異常事態である。なのに彼らは落ち着いている。警戒や中尉はして
いても、平常域の精神状態…。まるで、経験済みであるかのように。
シャチがここから少し離れた位置でも同様の状態になっていた集落を見つけたと述べても、「普通の驚いた様子」止まり…。
恐慌状態にもなりはしなかった。
(おそらくこいつは「ずっと続いてきた」事だァ。今回のイレギュラーは、ストレンジャーと、この俺様って事だなァ)
無人になった町があった方角を、高性能な眼球で監視しながら、シャチは軽く口の両端を下げ、への字にする。
(イレギュラーな事態には慣れてるつもりだったがなァ…。こいつはとびっきりだぜェ、グフフ…!)
(この国では何十年か前、兵士が三千人消えた事件っていうのもあったナ…。比較的近い頃なら村から夜狸猫事件っていうのも
あったよ…。百年ぐらい前にも、確か千人規模の集落が空っぽになった事件が…)
あまり火が大きくならないよう、そして遠くから見えないよう、シートを覆いに使って湯を沸かしながら、カナデは目にした
状況と似た事例を、知識の中から引っ張り出す。
実は、この国では未だに解決されていない集団失踪事件がいくつもある。しかも「集団」の規模が十人や二十人どころではな
く、三桁四桁の大集団の事もある。記録に残らない物やひとの口にのぼらない物もあるので、どれだけの件数なのか正確な把握
は難しい。
老人の鉄鍋に沸かした湯で、町で「購入」した野菜類を煮込み、それぞれの椀にあけてから麺を茹でる。持参したコンソメや
塩などの調味料で味付けし、茹で汁をそのままスープにし、チャーシューの塊をスライスして乗せれば、お手製ラーメンが鍋一
つで手早く出来上がり。
「はい、お待ちどう様だよ」
カナデが老人と孫娘に椀を差し出す。湯気立つ椀を受け取って、チーニュイは目をパチパチさせた。
「カナデは料理人?早くて凄いなぁ」
大狸は「雑だけどネ」と苦笑い。勧められるままに啜り始めたチーニュイは、目を大きく見開いた。
「なにこれ!凄くおいしい!」
ラーメンが好きなカナデは、自分で作ってもそこそこの味の品にできる腕。プロには及ばないものの、インスタントの乾麺で
すら経験とテクニックで美味しく仕上げる。シンプルなガラスープ風の塩ラーメンなのだが、火を通し過ぎないように野菜を先
に湯切りするるなどの工夫によって、食感にまで気を配ってある。
「口に合って何よりだよ。お爺ちゃんは…」
視線を動かしたカナデは絶句した。虎の老人は椀を両手で持ち、ゾゾゾゾッと、残ったスープを一気飲みしている。
「もう食べ終わったんだよ!?熱くなかったんだよ!?」
口の中を火傷していないかと心配するカナデだったが、ルーウーは顔を戻して、ぷふぅ…、と息をつくと、満足げに舌なめず
りした。どうやら平気らしい。
「良かったらお代わりしますか?まだ麺も野菜もあるよ」
老人はこの申し出に目を細め、椀を差し出した。チーニュイもフゥフゥ冷ましながら一生懸命食べており、好評で気を良くし
たカナデはお代わりを支度し始める。
そうして夕餉の第一陣が終わると、鯱の巨漢の分を支度したカナデは、見張りを交代しにゆく。
「ラーメンできてるよ。冷めないうちに食べるんだよ」
「おォ。そうさせて貰うぜェ、グフフ!今の所は異常なしだァ。ただ…」
「ただ?」
横に並んだカナデに、町の方向を見たままシャチは告げる。
「休息したら早めに…、明るくなる前に移動した方が良いだろうなァ」
「同感だネ」
頷いたカナデも理解している。あの空っぽになった町を軍が発見し、周辺を捜索し、それで自分達が見つかれば、他に手掛か
りが無い以上重要参考人扱いは免れない。知っている事があるなら協力するのもやぶさかではないが、何も知らない以上、痛く
もない腹を探られるような状況は御免被りたい。
「何もしてないのにコソコソしなきゃいけないとはネ…」
「理不尽だよなァ世界は。グフフフフ!」
「それでも捨てた物じゃないけどナ」
そんな事を言い交わしてカナデと交代し、焚火の傍に戻ったシャチは、木の枝を火にくべている老虎と、寄り添ってこちらを
見ている狐の娘を一瞥すると、腰を下ろしてよそってあったラーメンの器を取る。
警戒しているチーニュイの目を無視して塩ラーメンを啜りながら、巨漢はおもむろに口を開いた。
「ああいった、ひとが消えた村や町…、いくつも見て来たのかァ?」
チーニュイの目が厳しさを帯びる。しかしルーウーは特に反応せず、その目に炎の揺らめきを映しながら、枝で灰を掻き出し
ている。
「断っとくと、俺様はまァまっとうじゃねェ。が、ストレンジャーは違う。アイツは一般人だァ。そこんトコ押さえて「知られ
ねェようにしろ」。オメェらの素性はなァ」
「…アンタも」
チーニュイが口を開く。シャチをじっと見たまま。
少女は確信した。この男は自分達の…祖父の正体に感付いている、と。
「「仙人」を狙ってるの?軍人達といっしょで」
この問いに、シャチは答える代わりに含み笑いを漏らす。
「さァて、どうするかなァ…。俺様の任務は「痕跡の確認」だァ。「そのもの」と出くわすのは正直想定してねェ。まァ、上の
意向は勿論…」
「捕まえろ、って?」
狐の娘の刺々しい声に、「いいやァ。手荒な事はナシだァ」と、シャチは肩を竦めて応じた。
(「並べられるだけの飴玉並べて協力をお願いしろ」って方針だからなァ。流石に上も、捕縛やら何やらを命じるほど身の程知
らずじゃねェ。ま、死体でも拾えば持ち帰るが、事を構えるのは避けるべきだァ)
シャチは老人に視線を向ける。ルーウーはいつのまにかシャチを見ていた。冷める前に食べた方がいい、と。
(あァ、やっぱりなァ…)
今回もそうだったが、カナデには気付けない事に、シャチは気付いた。
老人が「言って」いる事は判る。が、個体識別の為の声紋データが取れない。
会話しているという認識はあるが、実際には、ルーウーはずっと声を発していない。その事に、感覚器にも人工的なサポート
が施されているシャチだから気付けた。
(術士共の「念話」に似てるが、根本的に違うぜェ。思考で会話するってより、意図の交換に近いかァ?おまけに、普通に会話
してるって誤認するほど違和感が出ねェようになってやがる。コイツはワールドセーバーなんかが使う「被認迷彩」って現象に
似た作用も持ってるぜェ…)
「確認だが、あの住民が消えた町…、原因に心当たりはあるかァ?軍が調べてる事と関係があると、俺様は睨んでるんだが…」
チーニュイは答えない。話が難しくなってきたので、どうしようかと祖父を見ている。
「どうこうしようってんじゃねェ。ただ…」
シャチは思う。あれが何者の仕業だったにせよ、得体が知れないなら対策ができず、カナデの安全も保障できない。原因が判
れば元を断つなりカナデを近付かせないなり、方針も決められる。だから情報が欲しかった。
そして、ルーウーは焚火をかき回す枝を火から抜き…。
―其処許は 死したる身に 魂魄を 宿せし者か―
シャチの動きが止まる。身じろぎも、呼吸も、あらゆる動きが完全に。
即座に戦闘を開始できるだけの緊張状態に移行したシャチの頭に、これまでとは違い、言語としてルーウーの「声」が届く。
―僵尸兵(きょうしへい)とも 異也 しかして 在り方は ともかく 起こりは 似通いし者―
「…判るのかァ?」
自分がエインフェリア…死体を素にして造られた存在である事を見抜いた老人に、シャチは戦闘態勢を維持したまま尋ねる。
―その在り方は いびつ也 しかし 其処許は その起こりを 受け入れおるか―
老人は木の枝で焚火を弄る。チーニュイはふたりを不思議そうに見ており、シャチはこの「声」が自分にだけ届いているのだ
と理解した。
―愉快―
パチリと、薪が小さく爆ぜる。
―其処許は カナデの 深入りを 望まず 身共に 告げぬよう 求めた カナデの身を 案じた故也―
真意を見透かされたシャチは、いよいよまずいと感じる。
手に負えないかもしれない、とは思っていた。しかし、ここまで「無理」だとは思ってもみなかった。自分の目的も素性も全
て把握されたと、シャチは確信した。
―其処許の 魂魄に 揺らぎが 見える 残忍 ではあろう 酷薄 でもあろう しかして 其処許は カナデを案ず―
ルーウーは炎を映した瞳を穏やかに細める。
―愉快 其処許は 愉快也―
「………」
シャチは全身の力を緩める。排除するつもりはないらしいと、伝わって来るルーウーの意図から確認できた。良いのか?とも
思ったが…。
―其処許は チーニュイに 危害を 加えぬ 其処許の 娘と 同じ歳の頃 そのように 親しみと 興味を 抱けども 敵意
は 皆無也―
「まァ、その通りだぜェ…」
―其処許の 娘 その話を 身共は 所望す―
「?」
訝しげな半眼になったシャチは、
―何せ 身共は 年頃の 娘の 当世での 生活を 知らざる也 チーニュイが 普通かも 判らぬ故 時に 悩む―
この「声」を聞いて含み笑いを漏らし始めた。
「案外まァ、普通の事で悩むモンだなァ?死体も仙人もよォ。グフフフフ…!」
声を出さずに肩を少し上下させてルーウーも笑い、その両手を着物の襟にかけた。そして…。
「お爺ちゃん!?」
驚いて狐の娘が声を上げる。
老虎は着物の襟を左右に大きく広げ、胸と腹を晒していた。そこにある、太極図の紋をシャチに見せる格好で。
「お爺ちゃん、よかったの?」
それは、知る者が見れば祖父の素性を察せられる紋様であるとチーニュイも教えられていたので、シャチに見せて良いのかと、
行動を強く疑問視した。が、ルーウーが穏やかに頷いたので、それならばと、しぶしぶ首を縮める。
「…理解したぜェ」
老人の腹に浮かび上がっている紋を確認したシャチは、「「見逃してくれる」礼に、会った事は誰にも言わねェ」と約束した。
(仙人の痕跡を見つけたどころの騒ぎじゃねェ…。仙人そのもの、しかもよりによって…。グフフフフ!「桃源郷」の外に出て
来るヤツが居るとはなァ)
思いがけない大当たりだが、これは任務の成果に結びつかない。何も見つからなかった事にして撤収するのが最も面倒が無い
と、シャチは判断する。
カナデを連れて安全区域まで移動したら、さっさと撤収しよう。そのためにも無人の町…あれについて老人から知っている事
を聞き出し、安全かどうかを判断。で、分かれる前には護衛の報酬として一発…などとシャチが考え始めた、丁度その時だった。
異音を、全員が耳にしたのは。
ピンと耳を立てたチーニュイの肩に、制するように手を置いたルーウーが、スッとその場で立ち上がる。
同時にシャチは腰を上げながら移動を開始し、飛び出すように岩の外へ、カナデが見張っている方向へ動いていた。
「ジョン、聞こえたよ…!?」
身を引くくしていたカナデは、警告しようとしたのだろう、シャチが飛び出した時にはもう焚火側を振り向いていた。
「あァ。方向は町で間違いねェかァ?」
「大雑把な方向で言えばだけど、障害物もないから間違えようがないネ。…しっ」
大狸が口元で指を立てる。聴覚を研ぎ澄ましたシャチは、再び聞こえ始めた連続する音をしっかり捉えた。
連続し、短時間で止む。その繰り返しは…。
「銃撃戦だよ…!」
「結構派手にやってやがるなァ、グフフフ!こりゃ移動した方が良いぜェ」
「激しく同感だネ。お爺ちゃんとチーニュイに…」
「お、悲鳴かァ。グフフ」
キャンプを畳んで逃げるよう話をしようと言いかけたカナデは、シャチが漏らした言葉に反応し、丸い耳をピクつかせて前方
を凝視した。
カナデには聞こえる距離ではないが、シャチには声が聞こえた。遠く、細く、助けを求める声が。微かな物だったが、慈悲深
い夜風が運んできたそれをシャチは聞き逃さず、そしてその呟きは届いた。異邦人の耳に。
「すぐ戻るよ!」
負傷による絶叫と判断したカナデは、迷わず飛び出していた。
「お爺ちゃんとチーニュイよろしく!」
「はァ!?」
シャチが素っ頓狂な声を上げる。
「オメェ…はァ!?」
繰り返す声を背に浴びてなお、駆け出したカナデは止まらない。
「ちょ!オメェ!待っ…!はァ!?なんだァそいつァ!?」
流石のシャチも面食らい、適切な対処ができなかった。高速回転する頭の中が「えェ何でェ?」「デブのくせに早ェ!」で占
められている。
ぶっとい足で大地を蹴る大狸は、太鼓腹をバユンバユン弾ませながら疾走する。が、不格好に太く大柄な体躯は驚くほど速い。
体の外見はともかくその疾走姿勢は、陸上選手とは異なりだいぶ前傾が強いものの、ある種の「正しいフォーム」で力強い。
「ニンジャか何かかオメェ!?」
完全にペースを乱されたシャチを置いてけぼりに、狸は夜闇の中に駆け込んで姿を消して…。
(何が…、何が起きてるの…!?)
出血する左腕をおさえ、命からがら物陰に転がり込んだ将校は、息を殺して縮こまった。
真新しい軍服に身を包んだその将校は、十代半ばに見える童顔だった。しかし実際には二十歳である。
背は低めで、ムクムクした赤茶の被毛と、くっきりした黒と白のトリコロールカラーが鮮やかで美しい。顔立ちは軍人として
の厳しさに欠けるが、客観的に見れば愛くるしい、紅顔の美青年とも言える。
少年の幼さが顔にまだ濃く残っている青年将校は、レッサーパンダの獣人だった。
しかし、青年将校のまだ新しい軍服は転げまわって土に汚れ、左の上腕外側が裂け、染み出した血で周辺が染まっていた。
まだ実戦で使用した事が無かった新品のアサルトライフルも、必死になって身を隠す途中で落としてしまい、身を守る術は腰
の短銃と、まだ三回しか鞘から抜いていないサバイバルナイフのみ。
(中尉殿は無事…!?軍士長はどうなったんだろう!?ううう…!い、痛い…!弾は貫通してる…?うう、怖い…、傷口見たく
ない…!見たら絶対にもっと痛くなる…!)
貫通するどころか掠めて裂傷を負った格好…比較的軽傷なのだが、撃たれたという事実と痛みによって精神に恐怖が刻み込ま
れている。
タタタタタッと連続する銃撃音が通りに響く。しかし、この町にはもう、それに驚いて飛び出してくる住民も、怖がって引き
籠る住民も居ない。
(アイツら、なんで急にあんな風に…!)
苦痛と恐怖で青ざめながら、痛みで零れそうになる呻きを飲み下して、レッサーパンダは身を隠した商店の棚の隙間から通り
を窺う。アサルトライフルを構えた兵士が、向かって右手側に掃射を行なったかと思えば、背中側から連続して銃撃され、海老
反りになって地面に倒れ込む。
(なんで…、なんで同士討ちなんか…!?)
駆け込んできた別の兵士が、銃撃されて痙攣している兵士にライフルを向け、頭部に数発撃ち込んでとどめを刺す。
いずれも青年将校と一緒にここへ来た兵士達だった。彼の上官に率いられ、同じ指揮に従って行動していた仲間のはずだった。
それが、急におかしくなった。
(いや、アイツら前からちょっとおかしかった…。変わってるって言うか…、何て言えばいいのか判んないけど…。連隊長殿も、
何だか信用してないみたいな雰囲気と口ぶりだったし…。はっきり言われてた訳じゃないからボクの思い込みとか勘違いかもな
んだけどもさ…)
痛いし怖いしで、不慣れなせいで雑に縛った止血措置を直す余裕もなく、震えながら身を潜めるレッサーパンダ。
突然の同士討ちが始まってから、もう三十分ほどになる。逃げ延びて隠れたは良いが、三十名余り居た兵士達は、一桁に数を
減らしてもまだ殺し合いを続けていた。
指揮する身分である将校達はレッサーパンダを除き、初めの銃撃で不意を突かれて倒れている。青年将校は単に運良く生き延
びただけで、他の将校は全員ほぼ即死だった。
通りの兵士が標的を探すように視線を巡らせる。その動作を…、
「ひあっ!?」
棚の隙間から様子を覗いていたレッサーパンダは、自分に気付いて振り向いたと早とちりし、過剰反応してしまった。
声を漏らし、大慌てで裏口へ向かう。その折に商品棚にぶつかって品物を落としてしまい、けたたましい音を立てて…。
「動体確認」
通りの兵士が反応し、素早く店に飛び込んだ。
「反応皆無。反応皆無。障害排除。障害排除」
無機質な声を発しながら、人とは思えない速度で店の中を縫うように移動し、青年将校を追う兵士。振り向いて気付いたレッ
サーパンダは、悲鳴を上げながら裏口の戸から屋外へ勢いよくまろび出た。そのまま、目についた正面の家屋へ飛び込もうと、
裏通りの細い道を走り…。
「障害排除」
無機質な声。構えたアサルトライフルの硬質な光。兵士の表情が無い顔の一点…帽子の陰が落ちた額で、豆粒サイズの金属が
鈍く光っている。
後ろから狙われている事を本能で感じながら、レッサーパンダは思った。
機械のようだと感じた、命令に服従する、感情に乏しい兵士達…。
(本当にロボットだったんじゃ…。それが、機械が狂うみたいに、何かが原因でおかしくなって…)
これは戦死扱いになるのだろうか。そんな思考と共に、故郷で暮らす老いた祖父母の顔が思い浮かんだ。
ジャイアントパンダの老夫婦。両親に代わって育ててくれた大恩ある祖父母。住み慣れた第二の故郷を後にする日、軍人の卵
になれた自分を並んで見送ってくれたふたりの、少し寂しそうで心配そうな微笑が脳裏に蘇る。
殉職扱いなら、いくらかでも養育費のお返しになる金が入るかな、とレッサーパンダは頭の隅で、諦め混じりに感じていた。
そして、自分の要望を汲んで、集落民蒸発事件調査作戦に加えてくれた上官…連隊を率いる上校の顔を思い浮かべる。
(やっと…、やっと住民が消えた現場に来られたのに…!故郷の町と同じ…、お父さんとお母さんが消えたのと同じ、事件の現
場に来たのに!ボクは…、ボクは何も調べられないまま…!)
上校の常々厳しい隻眼からは、強く希望する自分への期待ではなく、不安と気遣いが感じられた。
(まだ早いって、ボクじゃダメだって、連隊長殿には判ってたんだ…!)
あれは未熟だと考えているからこその眼差し。それが正しかった事が今なら判る。
(連隊長殿!ごめんなさい、ボクは…!)
頭では生存を半ば諦めながらも、本能と体はまだ認めていない。民家の戸に向かって必死に腕を伸ばす。しかし…。
「びゃっ!?」
石畳の一枚がめくれてできた段差に爪先を取られ、足がもつれて前のめりに転ぶレッサーパンダ。その背後で…。
「ふっ!」
突然響く鋭い呼気。それと共に、ライフルを構えている兵士の肩口に頑丈なブーツが迫り、大気を粉砕しつつめり込んだ。
横手の生垣から飛び出してきた影に完全に不意を突かれ、構えた銃が斜め上に向き、タタタタンッと銃火を散らす。
両足が地面から離れ、上半身が腰よりも先を行く形でよろめき、体勢を大きく崩された兵士が見たのは、飛び込んでの右ハイ
キックから流れるように身を捻り、反時計回りに回転した巨体から放たれる、斜め下から抉り込むような左の裏拳…。
ゴッ…、と重たい打撃音と共に、手袋を二重に嵌めて握り込んだ拳骨が、兵士の顎を下から打ち抜いた。
空を見上げる格好で仰け反った兵士は、そのままどうっと地面に倒れ込み、動かなくなる。
蹴り飛ばし、崩れる相手に顎へ追い打ちを一撃見舞うという、驚くほど精密かつ徹底した一連の攻撃で兵士を完全に昏倒させ
ると、飛び出した影は素早く将校に駆け寄り、助け起こした。
「た、助かりました!礼を言います、貴官は…」
安堵しつつも痛みに顔を顰め、礼を口にしたレッサーパンダは…。
「…あれ…?」
窮地に駆け付けた救い主の顔を見て、困惑した。
(アナグマ…?いや違う?熊…かな?変な模様だけど…。いや、そうじゃなくて、そうじゃなくって!このひと軍人じゃない…、
部隊の仲間じゃない!)
狸の獣人を見たことがなかった将校は、相手の格好を見て悟った。軍の同胞ではない、と。
「怪我してるネ?とにかく隠れて応急手当だよ!」
全力疾走で街に駆け付けたため息を大きく乱している汗だくの大男は、疲労しながらも青年将校を両手で抱え上げた。いわゆ
るお姫様抱っこの格好で。
「あ、あなたは…、ううん!貴様何者か!?」
怪しいと感じてもがいたレッサーパンダだったが、激痛で身を強張らせる。
「ただの異邦人(ストレンジャー)だよ!」
自己紹介の間も惜しみ、将校を抱きかかえたまま民家に飛び込んだカナデのすぐ後ろで、地面がタタタタンッと銃弾に抉られ
た。別の兵士が脇道から、青年将校と大狸を目撃している。
「揺れるよ!痛むかもだけど我慢してネ!」
民家に入ったカナデは、すぐさま部屋に飛び込み、窓を蹴り破って外へ。後方からの射線が通らないようジグザクに、遮蔽物
を駆使した姿を隠せるルートで逃走する。建物の間取りなどは知らなくとも、住民の同線を考えて廊下や部屋の位置を推測し、
逃走経路を組み立ててゆくその逃げっぷりは、まるで事前に計画を練っていたかのように鮮やかで淀みない。
手練れのゲリラも真っ青の手腕で、追跡して来る兵をグングン放してカナデが逃げ去ると…。
「仙人痕跡、強度微弱、反応確認」
もはや足音も聞こえないほど離された頃、兵士は足を止め、額の金属を鈍く光らせて呟いた。
同時刻…。
「第四小隊からの通信が途絶しました!収音機が発砲音を確認しております!」
天幕に駆け込んだ通信兵の切羽詰まった声で、夜間の番に就いていた将校たちがざわついた。
折り畳み式の机や椅子が持ち込まれた前線司令部で、報告に駆け込んだ通信兵が緊張に上ずった声で状況を告げる。
「さ、最後の音声通信は…」
緊張と恐怖から冷や汗を垂らし、声を上ずらせている通信兵は…。
「落ち着き給え」
ポンと肩に触れられ、低い声で囁かれるなり、反射的に背筋を伸ばして体の震えを止める。
「れ、連隊長殿!」
天幕内の者が一様に直立不動の姿勢を取り、サッと敬礼する。
全員の視線は、天幕に入ってきた二人…その前に出ている一方に釘付けになっていた。ゴツい猪の将校を伴って現れ、通信兵
を落ち着かせている重厚な巨漢に。
その男は、四十代半ばと見える校官。就寝中だったはずだが身に帯びているのは濃緑色の軍装上下。帽子も被っており、休ん
でいた様子が伺えない。
伴っている十歳ほど下の猪も恰幅が良い大男の部類に入るのだが、それが一回り小さく見えるほどの巨躯。身長は2メートル
近くあり、身幅と厚さが尋常ではない極端な固太り。古い巨木のような胴回りに電柱のような手足がついた、大兵肥満のジャイ
アントパンダである。
特筆すべきは、瞳が右目にしか無い事。縦一文字の切り傷に跨がれた左目は光を失い、白く濁って瞳孔が見えない。
「ウェン中士。最後の音声通信は、何と言っていた?」
この連隊の長であるジャイアントパンダから重く低い声で促され、通信兵は我に返る。
「はっ!申し上げます!「この町も食われている」との音声に続き、発砲音と悲鳴が…」
天幕内がざわつき、軍人達が一様に強張らせる。その中で、しかし隻眼のジャイアントパンダは表情を変えない。
「他には?」
「え?」
素早く言葉尻に質問を浴びせられ、通信兵は口ごもる。
「貴官が気付いた範囲の事で構わん。発砲開始に前後して、何か聞こえた物は無かったか?」
銃撃戦が始まった後の状況よりも、その開始前後の情報を求めた隻眼のジャイアントパンダに、通信兵はハッとした様子で報
告する。
「誰かを静止するような声、それから問い質すような…、よく聞こえませんでしたが、銃声に重なって若い男の怒号が…」
隻眼のジャイアントパンダはギシリと、周囲に気付かれない程度の微かな音を立てて、奥歯を噛み締めた。
「上校…。「仙人」と遭遇した可能性は…」
副官の猪がささやき、天幕内に緊張が走る。しかしジャイアントパンダは「いや」と首を左右に振る。
「別の異常事態と考えるが、救援が必要だ。それも、早急に」
「了解しました。急ぎ、僵尸兵二個中隊を準備させま…」
「不要だ上尉」
ゴツい猪が告げる手配内容に、ジャイアントパンダは遮る形で即応した。
「僵尸兵については試験的な作戦参加を認めてはいるが、あくまでもそれは命令による物。私はまだ僵尸兵の仕様と性能を信用
していない。また、今は中隊規模に出撃準備をさせる時間が惜しい。この場では初動が肝心、神速を貴ぶ。五分以内に準備でき
る、従軍経験が豊富な者だけで、戦闘二輪による一個分隊を臨時編成、これを先遣隊とする」
確実ではないので真意は語らず、実験部隊ではなく古参兵を編成するよう告げたジャイアントパンダに、副官でもある猪が「
しかし上校!」と慌てた顔になる。
「小隊が交戦中…それも通信できない状況であれば、分隊規模で対応が追いつくかどうか…」
「いかにも、後詰の隊は必須となる。先遣隊を追わせて順次出発できるよう、手はずを整えて貰おう。上尉の進言通り、二個中
隊が過不足ない陣立てだな。念のため町の包囲を視野に入れて足を用意させるように」
見立ては正しい、と追認する言葉を交えての指示に、猪は分厚い胸にドンと腕を当て、「お任せを!」と威勢よく応じた。
「して、先遣隊の指揮は誰に執らせましょう?腕が立ち、指示に不備が無く、確実に進められる将校となりますと…」
「問題ない」
隻眼のジャイアントパンダは、表情を一切変えずに副官の肩を軽く叩いた。何かを任せると告げるように。
「私が出る」
何か言いかけた猪の副官は、思い直したように口を閉じ、止める代わりに頷いた。
(お止めできるはずがない!紅思(ホンスー)君の安否が判らないとなれば、月陰(ユェイン)様の御心痛や如何ばかりか…!)
身を翻し、のしのしと天幕を出てゆく連隊長を見送る猪は、手にしたボードが軋むほど握り締める。
(ああホンスー君!だから君は軍人になどなるべきではないと、俺はあれほど言ったのに!万が一の事があれば、ユェイン様だ
けでなく、育ての親であるユェイン様の御両親がどれほどお嘆きになるか!)