漂泊の仙人と煙雲の少女(四)
「お父さんとは上手く行っているんですの?」
コントローラーを必死に操作し、レースゲームに興じるリンに、ぶっちぎりで大差をつけながらドゥーヴァは尋ねた。
「上手く?上手いかどうかなんて知らないわ。だってパパ、ああだもん」
真剣に画面を見つめながら少女は応じる。
まぁそうだろうなぁ、とドゥーヴァは納得する。
海に面した高層ビルの上階、広々としたリビングでシャチの養女とゲームをしながら、ドゥーヴァ・オクタヴィアは思案した。
シャチ・ウェイブスナッチャーは異常である。そもそも一般人から見れば自分達全員異常なのだが、その中でも取り分け普通
ではないと、彼女は感じている。
まず、その特殊な成り立ちのせいで人格面にも異常がある。感情の一部が欠損しており、喜怒哀楽の「哀」が無い。潜入工作
を行う兵士の観点から言えば欠陥品の部類に入るのだが、兵器として優秀過ぎるが故にあの立場に居る。
そして、スペックも異常である。仕様としては旧式の部類に入るのだが、基本戦闘能力が群を抜いて高い。そしてその強力か
つ汎用性が高い能力を用いた広範囲殲滅兵器としての性能は、組織の中でも最上位クラスに分類される。
いわば彼は、性能的にも精神的にもひとから非常に遠く離れた存在。となれば、引き取ったリンとの関係は構築も継続も難し
いだろうと、ドゥーヴァも思っていたのだが…。
(そう、「ああ」なんですのよ…。意外な事に、割とこう世間一般でいう「ちょっとだらしない父親」が板についていますわ…)
父親としては立派ではないので、上手く行っていないと言える。しかし、兵器としての彼からすれば驚きの順応なので、上手
く行っていると言える。要は、「シャチとしては意外と普通に父親をしている」という状況…。
(ちょっと手首でも掴んで捻ったら大怪我も免れないのに、リンちゃんとは何事もなく生活できるんですのね…)
そんな事を考えるドゥーヴァは、流石に想像もしていなかった。
シャチが捕縛し損ねた上に反撃まで貰って逃げられかけるほど手強い、そして人為的な改造を施された兵士すら退ける、彼女
の想像を超えた「一般人」が存在している事など…。
「つまり、同士討ちなんだよ?武装勢力との戦闘とかじゃなく?」
「そうだ!何が起きたのか、不甲斐ない事にさっぱりだが…、あ、痛っ!」
レッサーパンダがか細い悲鳴を漏らすと、銃弾が掠めた左腕を応急処置してやっていたカナデは、「あ、ごめんネ」と一度手
を止めた。
「い、いえ、こちらこそごめんなさい…、じゃなくて済まない。気にしないでやってくりゅれ…」
「くりゅれ?」
「やってくれ!ああもう!」
無人の家屋、比較的壁が厚い部屋を選び、途中で失敬したカーテンを使って、カナデは救出した青年将校の手当てをしていた。
そこがたまたま寝室で、ベッドがあったのは有り難い。将校を寝かせて片腕を胸よりも高く上げさせた状態で、傷を確認して縛
り、念のために他に負傷箇所が無いかも調べておく。
しかし、その表情は曇っていた。
(こんな子供まで軍人だなんてネ…。この国はいつの間に少年兵を募るようになってたんだよ。まだ15か6ぐらいだろうに…)
二十歳である。
「ところで、原因は幻覚剤か何かだよ?それとも、内紛や反逆?」
「薬などを吸った訳ではないはず…。ボク…ワタシも中尉殿も、顔見知りの皆は何でもなくて、アイツらが急に…」
問われたレッサーパンダは状況を振り返り、独り言のようにブツブツと呟いた。
「そうだ…。応戦した隊員は居たけど、アイツらは一斉におかしくなった…。何か原因があったはず…。でなきゃタイミングが
揃ってるのはおかしいし…」
「もしもし?」
考え事に没頭していたレッサーパンダの将校は、カナデが説明を求めて声をかけると我に返り、忘れていた痛みがぶり返して
「びゃっ!」と体を強張らせた。
「と、とにかく原因など後回しだ!今はここから脱出するのが一番の課題!」
可愛い顔には不似合いな居丈高な言葉が、レッサーパンダの口から飛び出した。
「ボ…ワタシには任務がある!貴様は関係ないのだ、命があるうちにグズグズしないでさっさと出て行け!」
だが、先ほどからのやり取りに見え隠れしているので、カナデにはこの青年将校の素の言葉遣いや性格が何となく判る。今の
促しも、中身を素の言葉に直せば…、
「ボクは行けないからあなただけでも急いで逃げて下さい!」
…となる。
(う~ん、置いてっても大丈夫そうには見えないんだよネ、この子…)
戦火を何度も潜って来たカナデは、勘で理解していた。このレッサーパンダ、砲弾が飛び交うような場所から何事もなく生還
するシャチのような類とは違って、置いていったら普通に死んでしまうタイプだと…。
(まぁとにかく、だよ。小柄だけど、流石に銃を持ってる相手から抱えて逃げるのは難しいナ。そうなると…)
少し思案してから、カナデはため息をついた。「仕方ないナ」と。
「そうだ!仕方ないのだから気にせずさっさと行け!」
そんなレッサーパンダの言葉を受けながら腰を上げると、カナデは部屋の出入り口に向かい…。
「二十分は動かしちゃダメだよ?」
そう言い残して、暗がりに姿を消した。
(…助けてくれた事は素直に嬉しいけど…、申し訳ない気持ちでいっぱいだ…)
言われた通り、少し大人しくしておく事にして、レッサーパンダは仰向けのまま、無事な右腕を顔の上に乗せる。
(軍人のボクが、助けなきゃいけない一般人に助けられるなんて…。そして安全に逃がしてあげる事もできないなんて…)
袖に涙が染みた。無力さが悔しい。
やっと、自分の両親が消えたのと同じ、住民がまるごと消えた現場に立ったのに、調べる機会を得られたのに、こんな訳の分
からない状況で死ぬのかと思えば、無念さに胸を締め付けられた。
物音を感知し、銃を構えた兵士はある民家の入り口に目を向けた。
奥の方で、小さな物が床に転げたような音。開いている戸の奥は真っすぐな暗闇で、突き当たりまで障害物は見られない。
アサルトライフルと額の豆粒のような金属を鈍く光らせる兵士は、躊躇わずに踏み込み、奥に目を凝らす。そこにドアが開い
ている部屋が見え…た直後に背中にドンッと何かがぶつかった。
そして、太い腕が後ろから首に回り、一気に締め上げる。
大狸が天井からぶら下がっていた。梁に足をかけて上下逆さまに。
兵士が通過するのを待ち、天井に身を潜めていたカナデはその背面を取ってスリーパーホールドを仕掛けた。兵士は両足が地
面から離れ、手足をばたつかせたが、5秒も経たずに脱力する。
締め上げられている最中も、落ちた後も、無表情な顔を一切崩さなかった兵士を離すと、カナデは梁から足を外して空中で反
転し、ドシッと中腰で着地した。
「まず一人目だナ…」
カサリと音がして、兵士は立ち止まった。
音の出どころは民家と民家の隙間、大人がすれ違えないほどの幅しかない通路。その奥の暗がりに、莚が不自然な塊になって
いた。
兵士はその細い通路に足を踏み入れ…た直後、足首を何かに締め付けられた。
輪になっていた縄が兵士の足を締めて捕え、そのまま宙吊りにする。
そして、通路の右手側の民家から、仕掛けの縄を切ったナイフを片手に大狸がのっそり現れた大狸は、上下逆さまになった兵
士の激しく揺れる首筋めがけ、一発、強烈な手刀を叩き込んで気絶させる。
「二人目だよ」
後ろから音も無く忍び寄られた兵士は、体当たりされてうつ伏せに倒れ、銃を自分と地面の間に挟んで封じられた。
間髪入れず背中に跨った巨体に体重をかけられ、チョークスリーパーで締め上げられ…。
「四人目」
コツンと路地の真ん中で硬い音がし、転げた小石を見遣った兵士は、窓から伸びた腕に羽交い絞めにされた。そのまま凄まじ
い力で中に素早く引き込まれ…。
「三人目」
角を曲がった瞬間に、兵士は顎を掌底でかちあげられて宙を舞い、瞬時に昏倒し…。
「五人目」
平均して四分にひとりというペースで、訓練も受け銃器で武装している兵士を、速やかに密やかに沈黙させるカナデ。
ホラー映画か何かで登場人物を次々殺してゆく殺人鬼のような手際だが、実際の所、こういった技術をカナデに叩き込んだ人
物は「殺しの達人」。カナデは護身術と聞かされながらこれらを仕込まれたが、本来それらは暗殺のために数百年に及び工夫さ
れて磨き上げられてきた技術である。
カナデに伝授される際に、命を取らないよう加減する所まで含めて仕込まれており、上手くやれば殺さずに済ませられるよう
になってはいるが、本質的には殺す方が手間がかからない仕様。実に物騒極まりない護身術である。
(ん?)
物陰に気絶させた兵士を引っ張り込みながら、大狸は町の郊外を見遣った。
気付けば空が薄っすらと曇って月明りを弱め、地上には霧が湧き始めている。
(湿気なんて、いったい何処から…)
経験と感覚から言えば、天候が悪くなる気配も霧が出る予兆も感じていなかったので訝しんだが、これは好機と言えた。
(運が向いてきたかナ?)
「そろそろ少しは動かせるよ」
のっそりと部屋に戻った狸を見て、言われた通り大人しくしていたレッサーパンダは目を剥いた。
「なんで!?だから!さっき!ゆった!逃げろってゆった!ボクちゃんと逃げろってゆったぁああああああああああ!」
「しーっ!気付かれるよ…」
「むぐ…!」
慌てて口を閉じたレッサーパンダに、カナデは人差し指を立てて静かにするよう促しながら続けた。
「脱出経路確保できそうだよ。歩けるネ?」
カナデの言う事は半信半疑だったが、このまま座して死ぬよりはいくらかましかと、レッサーパンダは脱出の提案に従った。
加えて言えば、この異邦人には自分を置いていく気がなく、自分が動かなければ危険に晒してしまうと考えられたのも、従った
理由である。
そして、レッサーパンダは驚いた。
「何処に行ったんだ?アイツら…」
「さぁ、どうしたんだろうネ?とにかく、姿が見えない内がチャンスだよ」
脱出ルート上の兵士達を排除したカナデはそう言ってとぼけ、残りに見つからないよう、建物の陰や、視線が通りにくい折れ
た道を活用し、町の外を目指す。
「こっちだよ…」
先導するカナデについてゆくレッサーパンダは、その落ち着き具合に感心し始めた。
「本当は軍人なのか?だって…、冷静で、行動も的確…。さっきの手当ても…」
「ジャーナリストとして戦場にも出入りしてるからネ。それで多少経験してるだけだよ」
角で立ち止まり、ジェスチャーで静かにするよう告げて、安全を確認してからカナデはレッサーパンダを振り返る。
「ここからはちょっと走るよ。もう隠れる場所もないからネ…」
端の民家の陰から窺うのは、町の外…遮蔽物も無く広がる平地。最も近い岩陰まで600メートルはあるが、そこを過ぎれば
草むらに身を隠し、いよいよ濃くなってきた霧に紛れて町から離れられる。
「わ、わかった…!」
ゴクリと唾を飲んだレッサーパンダは、飛び出したカナデを追って走り出す。腕の銃創が激痛の信号を脳に送り込んでくるが、
歯を食いしばって耐えながら駆ける。しかし…。
(まずったよ!)
カナデは肩越しに視線を投げ、確認した。
巡回するように動いていたのか、兵士がひとり、町の外周に沿うように、民家を覗き込みながら移動してきていた。その視界
に、遅れ始めたレッサーパンダが入ってしまう。
伏せるよう叫ぼうと、カナデが口を開けたその瞬間…。
「グフ…」
その兵士の頭上から、まるで民家の屋根の一部が崩れ落ちるように、影の塊が落下した。
ゴズッ…。
嫌な音が鈍く響いて、固めた両拳を頭部に叩きつけられた兵士が、もんどりうって転倒する。
殴られた相手が地面に落ちてから高くバウンドして転げるという、とんでもない勢いで兵士を殴り倒した巨漢を、カナデはあ
んぐりと口を開けて眺めた。先ほどまでの迷彩服姿ではなく、変装用の人民服に着替えている。
(ジョン!?何で来てるんだよ!?)
「グフフフフ…。物騒だなァおい?」
ピクリとも動かなくなった兵士を見下ろすシャチは、その額に埋め込まれている金属を認め、口の端を吊り上げた。
それは、面白がって浮かべる笑みではない。この男ならではの、極めて不快であるが故に浮かぶ笑みだった。
気絶させた兵士をそのままに、周囲を素早く見回したシャチは、身を低くしながらカナデ達の後を追った。誰にも見られてい
なかった来る途中とは違い、滅茶苦茶な動きはできないので、普通に走って。
「グフフフフ!貸し一つなァ!」
とは言ったものの、シャチは呆れていた。既に射程圏外、そのまま姿をくらます事も、カナデひとりなら逃げる事も容易だっ
たはずなので、今の介入も必要だったかどうか怪しい。
(護り甲斐のねェ野郎だぜェ。簡単に貸しも作れやしねェ)
「助かったけど、お爺ちゃん達はどうしたんだよ?」
草むらに駆け込んだ所で合流したカナデに「移動させたぜェ」と応じるシャチ。
「待ち合わせの場所決めて、オメェの荷物も持たせてなァ。ところで…、何だァコイツは?」
シャチはカナデが連れているレッサーパンダに目を向ける。軍の者と一目で判る格好だが…。
(十五、六のガキじゃねェか?何だって軍服なんぞ来てやがんだァ?)
二十歳である。
息を切らせていたレッサーパンダは、しばしハァハァと息を荒らげていたが…、
「…ぷぺぅ…」
突然変な声を漏らして気を失い、草むらにガサガサッと倒れ込んだ。
「大丈夫!?どうしたんだよ!?」
慌てるカナデ。うつ伏せで顔を横向きにして倒れ込んだレッサーパンダは、半開きの口からタラタラと半透明で黄色味がかっ
た液体を垂らしている。
「あァ?毒でも盛られてんのかコイツ?…いや、違うなこりゃァ。問題ねェ、ただのビックリゲロだァ。グフフ」
覗き込んだシャチは、白目を剥いているレッサーパンダの様子を確認し、大丈夫だと判断した。強い恐怖と緊張からの解放や
ら全力疾走やらが重なり、激しいストレスと揺れを浴びた胃がビックリしての嘔吐である。
「で、何だァコイツは?」
「軍人、だそうだよ…」
カナデは沈痛な表情で、白目を剥いているレッサーパンダを見つめる。
「この国は…、こんな子供まで軍人にならなきゃいけない時代に、なってしまったんだネ…」
二十歳である。
(マジかァ。そんな情報は入ってねェが…)
シャチの主観だけでなく、機械的なサポートが入った各種感覚器まで、気絶しているレッサーパンダを十五歳前後と判定して
いるが、二十歳である。
「どうすんだァ?これ」
「それは勿論…」
シャチとカナデはボソボソ言い交わすと、レッサーパンダを運んで移動を開始した。
上が平らになった台座のような、大人の腰ほどの高さの岩の上で、狐の娘はじっと夜闇と夜霧を見つめている。
月光が雲に遮られ、風が完全に止んだ中、流れ去りもせず立ち込め続ける霧の中に、チーニュイは人影を見つける。
「お爺ちゃん、来たよ!」
振り向いた孫娘がそう声をかけると、その後ろで目を閉じて直立し、胸の前で手を合わせていた老虎は、おもむろに目を開け
て合掌を解いた。
すると、それまで静かだった草原を風が撫でてゆき、霧が流されて薄くなり始める。
元の野営地から1キロほど離れた位置で、ルーウーとチーニュイはカナデ達を待っていた。手を振る大狸の姿を確認し、ホッ
と表情を和らげた狐は…。
「あれ?怪しい男が誰かおんぶしてる?」
首を傾げて、面倒くさそうな顔をしているシャチが背負っている何者かを凝視した。
低く唸るバイクのエンジン音が、無人の町の通りに反響する。
分隊規模で駆け付けたバイク部隊は、惨憺たるその光景を目の当たりにして息を飲んだ。
死屍累々。小隊の殆どが一斉に銃撃されたようで、固まって倒れていた。道は流れ出た血で赤黒く染まり、動く者はひとりも
居ない。しかしその中で…。
「最優先事項は敵対行動に対する反撃。次いで生存者の捜索、救助だ。急げ」
隊を率いて自ら乗り込んだ連隊長のジャイアントパンダは、隻眼でその惨状を一瞥してなお表情を崩さず、部下達へ冷静に告
げながら率先して前へ出る。
率いられている隊員はアサルトライフルと小回りの利くサブマシンガンで武装し、ツーマンセルでの行動を命じられている。
しかし、指揮官であるジャイアントパンダだけは単騎編成で、銃器はレッグホルスターに拳銃を帯びているのみ。その代わり
両腰にそれぞれ長剣を装備していた。
全長1メートルはあるだろう直剣は柄が40センチほどもあり、柄頭には王冠のようなギザギザした金冠が嵌められている。
長さに比して刀身は細く、鞘に収まってなおジャイアントパンダの太腿との対比が目立つ。
兵達はひとりが警戒し、ペアとなるもうひとりが小隊の死体を調べる。ジャイアントパンダは数名の兵に指示を出し、町の中
を調べさせる。そうして調べが始まって間もなく…。
(やはり同士討ち。それも、僵尸兵が始めた物と見える)
死体の位置関係や銃創の痕から、ジャイアントパンダはそう結論を出した。解せないのは、数名発見した、気絶状態にある兵
について。
額に金属を埋め込まれ、死人のような顔色になっているその兵達は、僵尸兵(きょうしへい)と名付けられている。軍上層部
肝いりの計画の産物であり、一般兵よりも優れた持久力と戦闘力を持つ。…という触れ込みだったのだが…。
顎に打撃を受けて昏倒したらしい僵尸兵を確認し、「良い腕だ」と思わず漏らしたジャイアントパンダは、鈍く光る額の金属
を憎々しげに見つめる。
(やはり無理があったのだ。あのような人道にもとる計画は即刻中止すべき…)
豆粒のように見えるそれは、額に貼り付けてあるのではない。額から脳に打ち込まれた、釘型の機器である。それは脳を劇的
に変化させ、脳内麻薬や信号を制御する事で、兵士に力を与える。最新技術と秘匿事項情報の融合にしてその結晶…と軍の技術
開発局長は述べているが、ジャイアントパンダは僵尸兵計画に否定的である。
僵尸兵は、脳への施術効果で性能を底上げされるが、その副作用として自我を失う。感情は消え、自発的思考はできなくなり、
命令に対して機械的に服従し、疑問無く作業に従事する労働力と化す。
重罪人などを被験体にして造り出された、人格を持たない強化兵…それが僵尸兵だった。
屈み込んで調べていたジャイアントパンダは、おもむろに顔を上げた。
そこに、立っていた。額に金属を光らせ、ライフルを構えた僵尸兵が。
「………」
のっそりと、その巨躯を起こすジャイアントパンダ。その隻眼は、その僵尸兵の額の金属に据えられる。
元々の鈍色とは異なる色に変じている。毒々しい、紫がかった金属色に。
「第八連隊司令官、伏月陰(フー・ユェイン)上校である。汝、所属と階級を告げられたし」
低く、冷たく、まるで初めて会った相手に対するように、ジャイアントパンダは名乗り、誰何した。しかし…。
「仙人、反応、確認」
僵尸兵はライフルを構え、ジャイアントパンダにピタリと銃口を据えた。
ジャイアントパンダ…ユェインは厳めしい顔を僅かに細める。
(やはり私を仲間と認識していない。識別機能が働かなくなっている、か…)
「抹殺開始」
その声を発した瞬間、僵尸兵の視線の先…銃の照準から、ジャイアントパンダの巨躯が消えた。地面に深く、踏みしめた足跡
だけを残して。
刹那、僵尸兵の右耳が音を捉える。ボッ…と、強風が体を叩いた音を。次いで、手にしたライフルがトリガーのすぐ先の位置
まで、バターのように滑らかに、音も無く、左右に分割されている事に気付く。
そして横から伸びた手が視界を覆い、パンッ…と前頭部に衝撃を受け…。
それらの事が一瞬で立て続けに起こり、膝をカクンと折った僵尸兵は、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。
僵尸兵を気絶させたユェインは、まるでただ歩いて通り過ぎる途中で足を止めたかのように、その傍らに佇んでいる。その左
手はいつ抜いたのか、右腰から抜いた長剣をぶら下げていた。
美しい剣だった。根本から刃先近くまでが並行で、先端に向かって両側から葉の先のようなゆるい曲線を描き、鋭い切っ先を
作る直剣。柄よりもやや幅がある程度の刀身は、発光しているかのように明るい白緑。
その、翡翠を思わせる刀身を持つ宝剣も、ユェインの巨躯も、薄っすらと燐光を帯びている。月光のように淡く黄色味がかっ
た、柔らかな色の光を。
世界の多くの地域ではエナジーコート、隣の島国では操光術とも称される能力。これを、この国では気功術と呼ぶ。
「禁圧再開」
宝剣をクルリと回してチンッと鞘に納め、纏う燐光を消したユェインは、一時的に上昇させていた身体性能を平常時の物に戻
し、倒れたまま動かない僵尸兵を見下ろす。
(仙気だけは感知し、それを判定する回路も、行動を決定する回路も機能不全を起こしている…。仙気の確認がそのまま抹殺行
動への移行に繋がる不具合…。故障した原因は…)
少し顔を起こし、小さく鼻を鳴らして夜気を嗅いだユェインは、鋭く目を細めた。物理的な臭気ではないが、感じ取れる。微
かな腐臭の残り香にも似た、不快な気配を。
(間違いない。しばらく前までここに居た。僵尸兵はそれを感知したのだろうが…)
軽く頭を振り、ユェインは足早に歩き出すと、家々を覗き込み、気配と匂いを探る。集中により常人離れしたその鋭い嗅覚は、
まるで誘導する線が視認できているかのように狙いの物へと導いてくれる。
やがて、ある民家に踏み込んだジャイアントパンダは、その一室…ベッドが置かれた寝室に辿り着いた。
シーツに僅かな血痕が残っている。が…。
(血臭は薄い。深手は負っていない)
屈み込み、おそらくはここに居た者の温もりを探るように、ジャイアントパンダはベッドの上に分厚い手を乗せ、軽く撫でた。
(ホンスー…、生きているのだな?ならば何処に…)
右眼と光を失った左眼を鋭く細めて顎を引いたその直後、ユェインはハッと顔を上げた。
首を起こし、隙間風が入る建付けの悪い窓に顔を向けた瞬間、その巨躯は床を踏み割りベッドを飛び越え、窓を突き破って通
りの上へと飛び出す。
巨体から風鳴りを発するほどの速度。ジャイアントパンダは両腕を交差し、向かい側に立つ民家の玄関戸を激突して叩き割る。
激突の衝撃も落着の負荷も、瞬時に纏った燐光で遮断し、流れるように転がって起き上がり駆け出すと、迷う事無く奥から二番
目のドアを蹴り破った。
その部屋は煙で充満していた。火鉢が倒れて零れたらしい火種が床を熱してカーペットに延焼し、木製の椅子の脚がブスブス
と煙を上げている。
火が広まらないよう、目についた流し台の水桶を取って床にぶちまけたジャイアントパンダは、煙を見透かすように目を細め、
次いで大きく見開いた。
「………!」
息を飲み、凝視する、その先にあるのは揺り籠に覆い被さる、白猫の女性…。
表情を普段の厳しい物に戻したユェインは、歩み寄り、女性が覆い被さった揺り籠を覗く。
赤子が居た。ただし、息はもうしていない。
被毛の下では肌が濃い紫色に変じている。煙に巻かれて死んだのではない。死んでいたからこそ煙が出るまで火種は放置され
ていた。
(「食い残し」…いや、見過ごしたのか…。奴らの毒気を浴びた死体は貴重な資料となる。被害は無駄ではない。兵達も、この
町の住民も、無駄死にではない)
女性の遺体を揺りかごから起こして床に横たえ、赤子の躯を抱き上げたユェインは、その傍らにそっと降ろす。
寄り添わせて横たえた二つの遺体を見下ろしながら、ユケインは「…私だ。資料となる住民の死体を発見した。保管の準備を」
と、通信装置で指示を出す。
ゴンッ…。
石の床に、裸の拳が叩き付けられた。
ギリリと剥き出しになった牙を噛み締めるユェインは、母子の死体を凝視している。
―お母さん…いなくなっちゃった…―
思い出すのは、真っ赤に泣き腫らした目。
―村のみんなも…いなくて…―
幼いレッサーパンダが、しゃっくりが止まらないまま訴える。
―おじちゃん…。みんなは、どこにいっちゃったの…?―
顔を伏せている傍らの猪に背を撫でられながら、事実を把握できないまま、永遠の喪失だけは確信して、涙を流すレッサーパ
ンダを前に、あの時は、かけられる言葉が一つも無く…。
「仙人共めが…!」
絞り出された低い声は赫怒に震えた。
「我が誓いに変わりはなく、我が決意の折れる事もなし…。一体残らず、殲滅する…!」
「急げよ!先に行った中隊に追いつくつもりで準備だ!ただし忘れ物は厳禁!」
自らも補給物資などをバギーへ積み込みながら、人間の将校が部下達へ声がけする。
先遣隊に続いて出発した第二陣となる中隊は、戦闘を重視して火器類満載の編成だったが、後詰となるこの中隊は支援が主任
務。負傷者の手当てや、町の生き残りが見つかった場合に備えて、予備弾薬は勿論、衣料品に薬品、食料なども含めて荷物を積
んでいる。
現地へ出す事になる軍医と衛生兵の安全も考えたこの手配は、連隊長のジャイアントパンダに任された副官の差配によるもの
だった。
その出撃準備が終わる間際、改めて訪れた猪の将校は…。
「ではファン中隊長、よろしくお頼み申す…!」
恰幅が良い体を窮屈そうなほど深く曲げて頭を下げた猪に、同期の将校は苦笑い。
階級は同じ上尉だが、連隊長付きの副官である猪はいわゆる秘書のような立場で、命令を受けて代行する形での各種手配は行
えるが、直接指揮を執る隊を持たない。何より留守を預かるよう命じられているので単身ですら動けない。その歯痒さは付き合
いが長い人間の将校にも理解できた。
「承知している。だが気を揉まずに報告を待つ事だ。何せ八卦将が一角「震将」、「仙人殺し」のユェイン上校が直々に出撃な
さったのだ。例え仙人が出たのだとしても恐るるに足らず!それに、あの新米もきっと無事だろうさ。臆病だが、それだけに退
き時を遅らせない敏を持つ若者だからな。…貴官が心配しているのは彼だろう?チョウ副官」
「………」
猪は反論せず、厳めしい顔を神妙に蔭らせ、同期に再び頭を下げる。個人的な感情なので職務には持ち込まないが、内心で最
も気になっているのは正にそこ。気持ちを汲んでくれた同期には感謝の言葉もない。
「では、吉報を待っ…」
人間の将校の言葉が、けたたましいエンジン音にかき消された。
バギーの音。それも一台や二台ではない、何十台という車列が急発進し、アクセルをふかして出てゆく音が、夜の陣を底から
揺すり、就寝中だった兵士達も慌ててそれぞれの天幕から飛び出した。
「通信担当官!こちら江周(ジァン・チョウ)だ!今出て行った隊は何だ!?」
すぐさま軍人の顔に戻った猪が腰の無線を取って、本部付け駐屯通信兵に問い合わせると…。
『え?副官は御存じなかったのですか?リャン副連隊長殿が出陣を…』
「中校殿が?いや、聞いていないが…」
猪…チョウは嫌な予感がして口を引き結び、通信兵も異常を察して黙り込んだ。
差配を任された猪が何も聞いていない…。これはつまり、連隊長に話を通していない可能性が高い。無断出撃だとすれば、そ
の旨を確認しなかった自分の落ち度なのではないかと、通信兵は冷や汗をかいた。が、チョウはすかさず「我々の知らない所で
指示の行き違いがあったかもしれないな」とフォローする。
「連隊長殿から極秘の報せが入った可能性もある。何にせよ貴官の責任ではない。念の為に把握しておきたいが、出撃したのは
何個中隊か判るか?」
『はっ!第一大隊であります!』
(「丸ごと」…だと?)
出撃編成を聞いた瞬間、チョウは苦虫を噛み潰したような表情になった。第一大隊は試験採用された僵尸兵によって編成され
た中隊を抱えているのだが…。
(中校は技術開発局長のシンパ…。僵尸兵の試験運用で実績が欲しい…。ユェイン様が難色を示した事を見て取り、僵尸兵の出
番が減少すると考えて先手を打ったのか!)
無許可出撃は立派な違反だが、おそらく成果を見せれば良いと考えている。納得させられるだけの成果があれば、連隊長の判
断ミスを補ったという言い訳も立つ。その程度の考えは透けて見えた。
僵尸兵計画についてはユェインだけでなく、チョウ自身も懐疑的なので、止めたい所ではあるが…。
(俺の呼びかけには応答しないだろうな、あの中校の場合…)
ユェインの前であれば大人しくしているが、この連隊の副隊長はエリート組で、現場叩き上げの軍人を「狭い範囲を注視して
大局的に物を見る事が出来ない駒」と見下している。自分がユェインの副官に取り立てられている事も不満のようなので、呼び
掛けても無視される事は猪も予想できた。
「位置情報は追えるな?緊急合流が必要になった場合に備え、念のため、逐一データを抑えて、記録しておいてくれるか?」
上の不協和音を下に及ぼす事は無い。そう判断したチョウは、建前を駆使して可能な手だけは打っておいた。おそらく途中で
通信どころか位置情報も切られるだろうと予想はできたが、
一方、離脱したカナデ達は…。
「おあつらえ向きの隠れ場所だナ。助かったよ」
合流地点からさらに2キロほど移動した場所、聳える岩山の崖下にあいた洞窟の入り口で、岩に腰掛けている大狸が呟く。
「まったくだァ。運が良かったぜェ、グフフ!」
応じたシャチは、しかし黙っておいた。この場所は偶然見つかったのではなく、ルーウーが先の野営の位置から何らかの手段
で探し当てた物だという事は。
シャチ自身もどうやったのかは判らない。ただ、カナデを追って無人の町へ向かう際に、老虎はこの新たな野営地を提案し、
そこに至る道中で待ち合わせる事を提案した。さらに言えば…。
(あの霧…。俺様の能力と遜色ねェ操作性能で、広範囲を正確に囲いやがったァ。おっかねェなァ仙人)
懐からスキットルを取り出し、一口含んで飲み下すと、シャチはそれをカナデに放る。
疲れてはいるが寝るのはまずいので、受け取ったカナデは口の中を湿らせるだけにとどめ、強いアルコールの刺激で神経を高
ぶらせる。
「任せて大丈夫かナ、あの子…」
カナデは洞窟を肩越しに振り返った。途中で曲がっているので奥は見えないが、気を失ったレッサーパンダはルーウー達が介
抱しているはずだった。旅慣れているので手当などお手の物だとの事だが…。
「あまり関わらねェ方が良いぜェ。手当てが済んだら、置いて移動するかァ」
「それが良いんだろうけどネ、子供だからナ…」
二十歳である。
そのレッサーパンダはというと、洞窟奥で敷物の上に寝かされていた。チーニュイは端に敷布を広げて就寝中だが、ルーウー
はレッサーパンダの上着を脱がせ、左腕の傷を確認し、治療している。具体的にどう治療しているのかというと…。
目を覚ます気配が無いレッサーパンダの脇に座っているルーウーは、銃弾が掠めた裂傷に向けて、両方の掌を向けていた。3
センチほどの隙間を空け、掌の熱が伝わるかどうかという所で静止している手からは、暖かな山吹色の光が放射されていた。
そして、その光を浴びるレッサーパンダの腕の傷は、数分前と比べて明らかに小さくなっている。
流石にこれをカナデに見られたら言い訳できないので、見張り番としてシャチの監視付きで洞窟の外に出て貰った。
これがジン・ルーウーと名乗るこの老人の力。「仙人」と称される、超越者としての力。時には人々に求められ、時には人々
に恐れられる、仙術と呼ばれる多種多様な能力の一部。
生物が持つ治癒能力を何の副作用も無しに増幅、加速させて、思うままに傷を修復するという芸当を見せたルーウーは、しか
しあまりにも不自然に治ればカナデにもレッサーパンダにも怪しまれるので、完治させずに浅い切り傷として残しておく。思っ
たより傷は浅かったようだ、と納得できる程度に。
本来、これはあくまでも肉体のポテンシャルを引き出す治療法なので、本来は施術される側が体力を消耗し、疲労困憊になる。
だが、チーニュイより少し上くらいの歳かな?などと考えているルーウーは、サービスで自分の生命力をレッサーパンダに与え
る事にした。
二十歳である。
治療がひと段落すると、老虎は衣の襟に両手をかけて左右に広げ、胸と腹を大きく晒す。そしてレッサーパンダの手を取り、
腹に浮かぶ太極図の紋に掌で触れさせた。すると、黒と白の勾玉紋が、ゆっくりと時計回りに回転し始める。
その太極図を描くのは被毛の色ではない。入れ墨でも、染めて描かれた物でもない。ルーウーの腹にあるそれは、莫大なエネ
ルギーを生み出す炉心が投射している影である。
ルーウーはレッサーパンダの手を通し、修復で消耗した活力を補充すると、そっと腕を体の脇に戻し、上から布をかけて保温
してやる。そして、前屈みになってレッサーパンダの顔に鼻先を近付け、スンスンと匂いを嗅いだ。
不思議そうに首を傾げるルーウー。残り香のような「同類」の気配が、レッサーパンダから微かに感じられた。