漂泊の仙人と煙雲の少女(五)
町から離れた平野の真ん中でひっそりと、エンジンを止めヘッドライトも消した車列があった。
バギーを中心とした大隊規模の隊列。構成する兵士の九割以上の額には金属片が見られる。人間、犬、猫、猪に熊…様々な種
で構成されているが、全員に共通するのは表情が無い事。その瞳は一様に光に乏しく、何を考えているのか全く判らない。
「中校、その…よろしかったので?」
副連隊長の山羊に、坊主頭の人間の副官が小声で問う。
平野の真っ只中、三か所に離れて止まり、そこから各隊それぞれが扇状に兵を展開し、探索前進を開始。棒素頭の副官は、中
央に配置された第二編成隊から進行を開始した僵尸兵達を、薄気味悪そうに眺める。
「こうでもしなければな」
山羊は不機嫌そうな顔で応じた。
副連隊長である山羊は装甲車両に搭乗しており、周囲を重機関銃で武装したバギーが固めている。そこは兵種を一通りそろえ
た臨時の作戦本部となっていた。
副連隊長の山羊の階級は中校。本来はおいそれと前線に出るべきではない立場であり、出たいとも思わないのだが、こうせざ
るを得なかった。
この出撃は連隊長であるジャイアントパンダの許可を得ていない。こうして無断で兵を出したのは、僵尸兵の運用ノルマをこ
なし、有効性を実証するためである。
元々賛成派ではなかったユェインの様子を見るに、僵尸兵への不信感が増しているのは確実。この流れではこの作戦における
僵尸兵の運用は控えられて、上から期待されたような充実した実働データは得られなくなる恐れがある。それは僵尸兵計画を推
し進める技術部にとっては困る事態だった。
山羊はこういった事態を憂慮した技術部の上級将校から、もしもの時は便宜を図るよう頼まれ、金を受け取っていた。
しかし、兵だけ送り出しても、自分が拠点から指示を出していては、戻って来たユェインに止められる。そのため山羊は、本
隊からの通信を遮断し、自分が現地に出て指揮を執るという行動に出た。皮肉にも、ユェインが一目置いている副連隊長の判断
力と直観力が、連隊への背任にも活用されてしまった形である。
「…第三編成隊右翼を構成する兵の一部が、複数地点で反応を示しているようです」
小隊規模で僵尸兵の指揮を執っている一般将校からの報告が上がり、山羊は「よし!」と身を乗り出した。成果が出せなくて
はただの無断出撃だが、何らかの成果を上げられれば、ユェインもあまり大声で文句を言えないだろうというのが山羊の考え。
賭けには勝ったと、期待と満足で高揚する。
「対仙装備は余さず持たせてあるな?もし発見したら…」
山羊はほくそ笑んだ。命令なく動いた事に関してユェインは複雑だろうが、結果は結果。好きではない僵尸兵を用いた作戦だ
としても、成果さえ上げれば喜ぶに決まっていると考える。
(何せ連隊長の悲願は仙人を…、そう!上手くすれば…、上手くすれば…!成果のアピールどころか、仙人を仕留めて大きく評
価され、僵尸兵の今後の配備も…)
「申し上げます。第一編成隊左翼先端部で、僵尸兵が痕跡を確認したと…」
「何だと?」
山羊は報告で思考を中断させられると、意外そうに耳を立て、少し思案する。
先に報告が上がったのは、無人となった町と山岳方向の間。街道とも違う方向である。
もう一方は、地元の住民達が「仙人指」と呼ぶ石柱林の景勝地と町の中間。
「仙人指近辺の探索でも、いくらか反応を示した僵尸兵が居たな?…そちらから町に入り、山岳地へ抜けたのか?…ええい、町
の近辺も探りたいが、ユェイン連隊長や後詰めの中隊に気付かれると厄介だ…」
戦列を伸ばして進路を特定すべきかと、山羊が考え始めたその時…。
「中校!第二編成隊先陣より、僵尸兵が反応したとの報告です!」
「…判った。…ん?」
思考から意識を戻すのにタイムラグがあった山羊は、生返事に次いで確認する。
「第二編成隊から?」
目と鼻の先で三つ目の反応。これをどう捉えるべきか、山羊は迷う。
(町に入る前に付近をうろついていた?それとも後に?とにかく、目と鼻の先の反応を優先して…)
しかし、山羊が指示を発する前に、致命的な異常が発生した。
「あれ?」
「ん?」
通信機を積んだバギーの上で、ふたりのオペレーターがほぼ同時に疑問の声を発した。
片方は、すぐ先の第二編成隊から報告を受ける担当。もう片方は、第三編成隊の担当である。
はじめはノイズかと思った。使用する周波数を本隊とは異なる設定に直したせいで、通信が不安定になっているのかと。
そうでない事は、その爆竹が爆ぜるような微かな異音に続き、紛れもない悲鳴が上がった時点で理解された。
第二編成隊の先陣、そして山岳方面へ向かう地点の一部で反応を示した僵尸兵達は…。
「仙人痕跡確認。仙人痕跡確認。追跡開始。障害排除。障害排除。障害排除。障害排除。障害排除…」
突然、手にしていたアサルトライフルを味方に向け、躊躇い無く発砲した。
異常をきたした僵尸兵は一部だったが、他の僵尸兵もその攻撃へ自動的に反撃する。
その銃火は、乾季の平原の野火の如く、瞬く間に広がり…。
静かな平原の夜を、風が、煙と血臭と火の粉を孕んで駆け抜ける。
立ち尽くすのはいくつもの影。表情のない、額の金属が光る影。
「仙人痕跡確認。仙人痕跡確認」
「仙人痕跡、追跡開始」
同士討ちで大きく数を減らした後、残った僵尸兵達は、いくつかの群れに分かれて行動し始めた。普通の兵士や将校が全て居
なくなった後で、まるで再編成された部隊のように、統制が取れた動きで。
その額の金属片は、元の鈍色から、紫がかった毒々しい色に変色していた。
彼らが去った後には、壊滅した部隊の墓標…破壊の限りを尽くされ、一台残らず炎上した車列。僵尸兵以外の兵士も、将校も、
副連隊長の山羊を含めて鏖殺された。
僵尸兵は皮肉にも、開発元の期待に沿うだけの性能を遺憾なく発揮していた。少なくとも、自軍相手の対人戦闘においては。
「う…、ううん…」
空が白んで地平線に太陽が手をかけた頃、レッサーパンダは目を覚ました。
「………はぇ…」
溜息のような、疑問のような、妙な声を漏らして天井を見つめたレッサーパンダは、傍らに胡坐をかいて自分を覗き込んでい
る老虎に目を向ける。
「あ、はい大丈夫です…。え?痛み…。あ、そんなに痛くない?」
きょとんとした顔で身を起こしたレッサーパンダは、軽い違和感に囚われる。不快だったり苦痛があったり疲れを感じたりし
た訳ではない。むしろ疲労が完全に消えている。体の隅々まで活力が漲っているように調子が良かった。
「ルーウーさん、ですか。それからお孫さん…」
上半身だけ起こした格好で、剣牙虎の背後で眠っている狐の娘を確認したレッサーパンダは…。
「あ、ボクは伏紅思(フー・ホンスー)って言います!手当てして頂いた事、深く感謝致します。助かりました…」
名を問われて、慌てて居住まいを正し、丁寧に頭を下げた。年寄りに育てられたので、老人にはとにかく丁寧に接する習性が
心の底まで染みついている。
たっぷりした顎を深く引いたルーウーに、耳を倒して申し訳なさそうな顔を向けたホンスーは、気絶する前の状況を思い出し
て、たちまち身を強張らせた。
「ま、まずい!アイツらは!?ボクはどうやってここでこうなって………何コレなんでっ!?」
混乱し始めたホンスーに向けていた視線を、ルーウーは洞窟の入り口側に向け直す。すると…。
「目が覚めたんだよ?意識はっきりしてる?元気かナ?」
「グフフ…!朝までグッスリおねんねとは良い身分じゃねェかァ?」
「うるさいぃ~…。もう朝ぁ…?」
見張りに立っていたカナデとシャチが入って来て、騒がしくなったせいでチーニュイまで目を覚ます。
「あ!異邦人!」
カナデの姿を見るなり声を高くしたレッサーパンダは、傍らのルーウーを見遣り、「え?彼が助けて連れて来た…?」と目を
丸くする。そして、昨夜の記憶が少しずつはっきりして来て…。
「何とお礼申し上げれば良いか…。ご迷惑をおかけし、危険な目にまであわせてしまった事、深くお詫びします…」
畳んだ敷布の上で平伏したレッサーパンダは、態度を馬鹿丁寧な物に変えていた。
正体不明の怪し過ぎる旅行者から、通りすがりの命の恩人に格上げされたカナデは、「そんなに改まられるとお尻が痒くなる
よ…」と苦笑い。
昨夜の事をすっかり思い出したホンスーに、カナデ達一行は彼が寝ている間に口裏合わせしておいた「状況」を語った。
外国のジャーナリストであるカナデと、国内旅行者のジョン、預かっていた孫を息子夫婦の所へ送ってゆく途中の老人…ルー
ウーとチーニュイは、道中でたまたま知り合い、途中まで一緒に移動する事にした。しかしバスに乗ろうと訪れた町があの有様
だったので、毒ガスなどが発生して住民が皆避難したのかもしれないと、慌ててあの場を離れた。ところが、しばらくしたら破
裂音が聞こえた。最初は爆竹の音かと思い、ひとが居るならと戻ろうとしたが、どうにも音がおかしい。そこでカナデが様子を
見に行くことにして…。
「偶然だったよ。怖かったけど、運が良かったナ」
カナデが話し終えると、寝ていたので打ち合わせに加わっていなかったチーニュイは「それ違…」と言いかけたが、ルーウー
が後ろから大きな両手で口を押えて黙らせた。
「そうだったんですか…。災難でしたね。ボク…ワタシは軍の大規模調査に従事して…あ!済みません詳細は話せないんですけ
ど!でも…」
「うん。その辺りは軍事機密とかもあるだろうから、作戦の事とかは僕達も聞かない方が良いネ」
ジャーナリストを名乗る狸が理解を示してフォローすると、申し訳なさそうな顔だったホンスーは少しホッとした様子で表情
を緩めた。
「それで…。とある理由でこの近くを捜索していたんですけど、あの町があの状態で…。それで詳しく調べようとしていたら…」
沈んだ様子で黙り込むホンスー。それを見かねたのか、狐の娘は「ご飯にしよう!」と言い出した。
「はァ?飯だァ?」
シャチが眉根を寄せる。空気読めないアホの子か、という表情だが…。
「元気は出すだけじゃだめ。溜めないと出ない。だからご飯だ」
しかつめらしい顔で語るチーニュイの意見に、カナデは微笑む。「良い事言うネ」と。
「でしょ?お爺ちゃんから教わったんだ!」
得意げに胸を張った狐の娘は、ホンスーに笑いかけた。
「アンタいくつ?チーニュイよりちょっと年上ぐらい?十五くらい?ご飯食べないと元気溜まらないし大きくなれないぞ?ご飯
いっぱい食べれば大きくなるんだ。お爺ちゃんみたいに」
ルーウーの体はご飯を食べたから大きい訳ではないのだが、老人は黙っておく。そして、レッサーパンダは…。
「…20です…」
「ん?」
「ん?」
「ん?」
?
チーニュイとカナデとシャチとルーウーが一斉に瞬きする。
「20歳…です…!」
俯いて羞恥に肩を震わせるホンスー。
「だよネ!まだ若いナとは思ってたけど、二十歳か~!」
笑って誤魔化すカナデ。成人してる事は判ってたよホントだよ、という口ぶりである。
「グフフフ!初々しィじゃねェかァ!ピッチピチの若軍人って訳だァ!」
珍しく若干ながら気を使った発言をするシャチ。
「若い軍人ってあれでしょ!期待の将校とかなんだきっと!」
乗っかって持ち上げようとするチーニュイも内心では、やべぇ、と思っている。
そのくらいだろうと思っていた。…とのルーウーに皆が頷きかける。老虎も絶対に嘘をついていると思ったが指摘できる人物
はこの場に一人も居ない。
「ところで、ワタシの荷物は…」
「ああ、寝かせるのに邪魔になったから除けさせて貰ったよ。あと…」
カナデの視線を追ったホンスーは、ギョッと目を見開く。
「あああああ!通信機が!」
布を敷いた上に広げられているポーチや小物などの中に、無残に背面が焼け爛れた無線機があった。
「失礼だとは思ったけど、煙出てたから勝手にポーチから出したよ」
「濡れたかどうかしたんだろうなァ。運が悪ィこった、グフフフ」
などと涼しい顔でカナデに追従するシャチだが、原因はこの巨漢。下手に本隊と連絡を取られてこっちの情報が伝わってしまっ
ては困るため、通信機内を水浸しにして壊しておいた。
しかし、通信を断ったこの工作もシャチにとっては次善の策である。
正直に言えば、面倒が無いよう昨夜の内にホンスーを始末する事も考えた。軍と接触するのは危険だし、まだ自分の素性を知
られてはいないとはいえ、持ち帰られてしまう情報はゼロではない。
だがカナデやルーウーの目もあるし、何よりそれでは異邦人が銃火に身を晒した意味が無くなるので、ひとまずは見合わせる
事にして今に至る。
「もしかして、それが無いと本隊に戻れないかナ?」
「いえ、電話が使えれば軍本部に連絡して、本隊に連絡を取って貰えますけど…。ううう!任務中にはぐれて連絡取れなくなる
とか…!教本の「ダメな三点の失敗」に挙がってた判り易い失態…!」
「他の二点のダメな失敗は何だァ?」
「「集合への遅参」と、「戦場以外での装備品の紛失」です」
「…何処の軍も案外似たようなモンだなァ…」
ひとまずはダメな新米士官という判断を下して、シャチは今後の方針を決定した。
ホンスーと共に移動した後、本隊に戻りたい彼とはさっくりと別れる。何なら隙を突いて離れてもいい。一緒に居る状態で本
隊と話されるのは避けたいが、去った後ならまぁ構わない。捕捉されない内に逃げ切る自信はある。
とにかく状況が状況なので、その後は軍と接触しないよう気を付けて、カナデを伴ってなるべく遠くの安全圏まで移動する。
ルーウーとチーニュイは好きなタイミングで、そのまま「目的」のための旅に戻ればいい。
(「巻き添え」はゴメンだからなァ、グフフフフ!)
朝日が照らす平原を、風が過ぎてゆく。濃い血臭を孕んで。
草がまばらに生え、緑と赤土と岩が迷彩柄のように模様を描く大地に佇み、ジャイアントパンダが呟く。
「失態もいいところだな…」
倒れ伏す無数の兵士。焼け焦げた無数の車両。
壊滅。自分に無断で出撃した大隊の成れの果てを、ユェインは苦々しい表情で検分してゆく。
危急を知り、全軍で処置に当たって、暴走した僵尸兵も鎮圧した。副官の猪が大隊の位置情報を押さえさせておいたおかげで、
速やかに対応できたものの…。
(数がだいぶ足りない)
逐一上がって来る確認報告を聞きながら、ユェインは直感していた。かなりの数にのぼる僵尸兵が、既に遠くまで移動してし
まっている、と。そして、その直感は正しかった。
「報告します!所在不明の僵尸兵、97名です!」
ふぅ、とユェインはため息を漏らす。大隊を丸ごと一つ失った上に、97名の僵尸兵が暴走して何処へと去った。
「私の監督不行き届きだ」
「いいえ上校。リャン中校の独断による失態です」
いつの間にか傍らに歩み寄っていた猪の副官が声をかける。
「上尉、もう到着していたのか?」
「は。陣の引き払いも完了致しました。大隊長各位も再布陣に取り掛かっております」
敬礼したチョウは、口を開いたユェインが、それでも自分の責だと発する前に、淀みなく述べる。
「脚に自信がある者を分隊編成でリスト化しました。追跡用の斥候はすぐに準備できます。如何いたしますか?」
手回しが良い副官の提案は、責任の所在について今論じるのは不毛な事だと、連隊長のジャイアントパンダに自覚させた。今
は動くべき時である、と。
いつも苦労をかける…と詫びはしなかった。求められているのはそんな事ではなく指揮官としての振る舞い。「使わせて貰う」
と頷いたユェインは、念のため指示を追加する。
「ただし、交戦を禁じて追跡するように通達を徹底。情報を寄越す事を第一目標とする。交戦するための部隊は別に編制し、連
絡に対して即座に駆け付けられるよう配置」
「は!ではただちに…」
「上尉」
一礼して外そうとした猪に、ジャイアントパンダは告げた。
「ホンスーだけ死体が無く、所在が不明だ。離脱だけはできたらしい」
「!」
最も訊きたかった事を、あえて喉の奥に押し込んで問わないようにしていたチョウは、グッと口を引き結んでから黙って一礼
し、指示を伝えるべく立ち去る。そしてジャイアントパンダは…。
(僵尸兵が仙人に反応して暴走しているとすれば、彼らが向かう先には、つまり…)
腰の剣の柄頭に手を乗せ、握り込む。
(…居る可能性が高い…)
その頃、臨時キャンプとした洞窟から歩いて三十分ほどの、山が断ち割られたような崖の下…、落石が埋めた谷を清水がチョ
ロチョロと流れる場所で…。
「湧水があって助かったね、お爺ちゃん」
丁度岩壁から湧いている清流を見つけたチーニュイは、革袋に水を汲みながら祖父を振り返った。うんうん頷くルーウーが目
を向けたのは、周囲を警戒しているレッサーパンダの後ろ姿。
危険なのであの無人の町には戻れないと、ホンスーは言った。正気を失った兵士があのまま残っているかもしれないからと。
そして、一行を不安がらせないようホンスーは黙っているが、彼らが追ってくる可能性についても考えている。
(そうなったら、ボクが守らないと…!)
ライフルは失ったので、手持ちの武装は拳銃とコンバットナイフのみ。アサルトライフルで武装した兵を相手にするには心許
ないが…。
(やるしか、ない…!ボクは軍人なんだもん…!人民を、護るのが…!護るためにボクは…!だから…、怖くたって!)
萎えそうになる気持ちを奮い立たせているホンスーの背中を、剣牙虎の老人は無言のまま、穏やかな目で見つめていた。
兵士には向いていない。そうは感じるが、弱くとも前へ向かうその心根が愛おしい。
ふと、旅の道具などを詰め込んでいる、ボロボロで色褪せた大きな袋を見遣った。簡単に破れそうに見えて、しかしとても丈
夫な袋。これをくれた友の事を思い出す。
―君も本当に「ひと」を好きになったものだな。こうも変わる物かと感心すらしている―
ずっと昔、海の彼方に去った友に言われた言葉を思い出した。
あの当時は、はてそうだろうか?と首を捻った物だったが、今は友が正しかったと自覚している。
狐の娘を見遣る。ホンスーに突拍子もない話題を振って、戸惑われて、笑っている。
命を生きる。
その尊さ、愛しさは、幽谷の奥に閉じ籠っていては判らない物だろう。
「カナデが作ったラーメンすごく美味しかったんだ!」
「へぇ…。料理も得意なんだ、あのひと…」
「頼んだら作ってくれるかも?よし、戻ったら二人で一緒に頼もうよ!」
「え?う、うん。頼んでみようか…。いや、食事の番の一回ぐらいはボクもやった方がいい…?恩返しになるかどうかはともかく…」
カナデのラーメン…。ルーウーは視線を上げて上目遣いに空を見ながら思う。
自分も一緒に頼んでみよう、と。
(不思議と疲れが無いよ)
洞窟の奥、着替え中のカナデはパンツ一枚になり、湿らせたタオルで体を拭っていた。汗もかいたので水浴びでもしたいが、
今はとりあえず応急で済ませる。
掌に収まるサイズの消毒用アルコールスプレーを香水代わりに、殺菌と消臭に活用。大柄な上に肥えた体は面積も広いので、
スプレーはあっという間に減ってしまうが、今は仕方がない。
(集中力はともかく…、体の疲れは多少出るはずだけどナ?)
昨夜は一睡もせず見張りをしていた。経験上、闇に目を凝らして一晩過ごせば首の筋が凝ったり肩が重くなったりする物なの
だが、きっちり睡眠を取って起き出した後のように元気である。神経が昂り、脳内麻薬で疲労の量を勘違いしている訳ではない。
体力はまだまだ持つと、確信をもって言えるコンディションだった。
(ジョンからウイスキーを少し貰った程度で、特に栄養価がある物を食べた訳でもないんだけどネ)
足音を耳にし、首を巡らせたカナデは、小さな金属製マグカップを二つ手にしているシャチがのっそりと入って来るのを確認
した。
「着替え中だよ」
「グフフ!知ってるぜェ。ほれ」
差し出されたマグカップからは鼻を引き付けるコーヒーの香りが漂ってくる。
「徹夜明けにはコイツだァ。きくぜェ?」
勧められるままカップを受け取ったカナデは、「頂くよ」と、熱いコーヒーを吹いて冷ます。
シャチが持ってきたのは、粉末のインスタントコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れて濃く作り、愛飲しているスコッチウ
イスキーを数滴加えてフレーバーにした、トロリとした粘度のミルクコーヒー。二口程度の量だが、胃に滑り落ちるとたちまち
五臓に染みて熱を持つような感覚があった。
「美味しいナ…。これは好きだよ。きくネ」
「グフフ!そうだろうよォ!」
「ロシアを旅した時、たまたま一緒になった旅人もこういうコーヒーを淹れてくれたよ」
「へェ。どんなヤツだァ?」
単なる興味以上の物をもって確認するシャチに、カナデは内心に気付かないまま「髭面で長髪のガタイがいい人間の男性だっ
たよ。かなり賑やかなひとだったナ」と答えた。
(…知らねェなァ。別におかしなヤツでもねェか)
おそらく一般人だろうと考えたシャチは、早々に興味をなくして、それ以上の情報は聞き出さなかった。
「それはそうと、だァ…」
カナデが屈んで、簡易テーブル代わりになっている比較的平らな石に飲み終えたカップを置くと、シャチはギラリと目を光ら
せて背後に忍び寄った。そして…。
「ひあっ!?」
もっさりした尻尾の付け根をギュッと握られ、ビックリして声を漏らす大狸。
警戒状態でさえなければ背後も取れるなと、確認がてら背中に指を這わせる鯱。
「な、何だよ急に!」
肩越しに振り返り、驚かされて抗議したカナデに、ニタリと口元を歪めてシャチは答える。
「グフフフ!依頼の前払いってヤツだァ!」
一発やらせろ、という昨夜の話を思い出すカナデ。
「あの提案はまだ了承してないよ!?」
「堅ェ話はナシだぜェ?なんたって…」
素早くカナデの太い腰を回り込んだシャチの右手が、パンツの股間をワシッと掴み、硬い感触を確かめる。
「やっぱおっ勃ててんじゃねェかァ!?グフフフフ!」
「こ、これは…」
反論しかけたカナデはハッとした。
「今のコーヒーに何か入れたんだよ!?」
「いやァ?別に何も」
きょとんとするシャチ。「あ、それはゴメンよ」と、この状態でも疑った事を素直に詫びる律儀なカナデ。しかしその手は股
間を揉むシャチの手首をガシッと掴んでいる。
「疲れマラってヤツじゃねェのかァ?」
「そうかもナ…」
「グフフッ!理由が欲しいってんなら、一服盛った事にした方が良かったかァ!グフフフフ!」
股間を掴むシャチの手首を掴んだカナデだったが、うなじを肉厚な舌でベロリと舐め上げられ、「ひゃわは!」と甲高い声を
上げて身を強張らせる。その拍子に緩んだ手首を振り解いて、シャチの手は大狸の豊満な右胸を鷲掴みにした。
「こ、こんな所じゃダメだよ!皆が戻ってきたら…」
「しばらく戻らねェって、グフフフ!」
カナデの抗議をサラリと流し、左腕を腰に回して股間を撫で、右手で乳房を揉み、左耳を後ろから甘噛みして、巧みな手管で
抵抗を封じるシャチ。この辺りは流石と言うべきか、的確に敏感な部位を刺激して、体が応えるように誘導する。
「もう…、仕方ないナ…!」
これはタダでは引き下がらないなと感じたカナデは、シャチの前払い要求に応じる事にする。本音を言えば、酒も情事もじっ
くり楽しむのが好みで、こんな落ち着かない状況で慌ただしく事に及ぶのは性に合わないのだが、シャチがもう収まりそうにな
いので諦めた。
「それじゃあ失礼して…グフフ!」
股間と乳房から離した手でカナデのパンツを下ろさせると、シャチは右手を口に持って行き、分厚い舌で舐め回して湿らせた。
そして…。
「いきなりだよ!?はうあ!」
気配を察したカナデが振り向くが早いか、制止される前にシャチは狸の肛門に中指をズブリと押し込んだ。
慣らしもなくいきなり太い指を挿入されて、さすがにキツかったカナデが「んうっ、うう…!」と呻くも、シャチは意に介さ
ず「急ぎでいくぜェ?」と、挿入した指を抜き差しし始める。そうして慣らしながら、手首を捻って指を下向きにし、深い位置
で曲げて前立腺を刺激した。同時に左手は股間に伸びて、ブラブラ揺れる肉棒と陰茎を纏めて掴むと、こねるように揉む。
「ふは…、ひ…!」
性急な指使いに喘がされるカナデは、洞窟の壁に手をついて歯を食いしばる。壁に手を突っ張り、上半身を45度に傾かせて、
腰を後ろに突き出す格好なので、乱れた呼吸に同期して大きな腹がゆさゆさと揺れた。それを支えるように、シャチは左手をカ
ナデの腹に下からあてがう。
シャチの左手の指は、カナデの陰茎を弄っている内に溢れた先走りでぬめりを帯びていた。その指が、太鼓腹の深い窪みへ捻
じ込まれる。
「あひゃっふ!?」
先走りで湿った指をヘソに突っ込まれ、カナデは半分笑い声が混じった高い声を上げた。
「ちょ、く、くすぐったひゃふっ!はひひ!そ、そこダメ!はひゅはふひひっ!」
「ケツの穴もヘソの穴もでけェなオメェ!グフフフフ!」
「大きなお世話だよ!あひゃふひゃふっ!」
「褒めてんだぜェ?グフフフ!ケツの穴が小せェヤツより良いじゃねェかァ?」
「それ比喩的な小さいだからナ!?っていうかストップストップ!ちょ、そんなにしたらキツ…!お腹の中がジンジンするよ!」
中指をヘソにグイグイ押し込まれ、堪らずにストップをかけるカナデ。一方、何処を弄っても想定以上に反応が良いのでテン
ションが上がり続けるシャチ。
「タップリ楽しみてェ所だがァ、そんなに時間がねェしなァ。こっからは少ォし乱暴にいくぜェ?」
「今までのが乱暴でなかったかのような言い方だナ!?」
「グフ?優しかったろォ?」
「いや全然?」
「そうかァ…。まァ今後前向きに善処するぜェ」
「善処する気が無いのがはっきり判るナ。んっ!」
肛門に入る指を二本に増やされ、引き延ばされた痛みに歯を食いしばるカナデ。深く入り込む二本の指もそうだが、ヘソをほ
じくる指も腹を押し込むほど力が強いので、中で繋がってしまうのではないかと心配になる。
急ぎなので前戯にあまり時間をかけないシャチの手つきは、雑で乱暴ではあるが、ツボは押さえている。ほぐされて、慣らさ
れて、次第にカナデの体は火照って汗をかき、受け入れ準備を整えてゆく。
「はぁ…、はぁ…、ふぅ…!」
壁に手を突いた姿勢のカナデの顎先から、ポタリポタリと汗が滴り出した頃、太い陰茎を真っ赤に充血させ、はち切れんばか
りに怒張させたシャチが舌なめずりした。
「じゃァそろそろ入れるぜェ?」
「お手柔らかに、だよ…!んっ!」
返事が終わるか終わらぬかの内に、カナデは尻からスポンと指を抜かれて呻いた。そしてすぐさま、肛門に熱をもった物を押
し付けられる。
すぅ、はぁ、と深く息継ぎし、意識して尻の力を抜くカナデ。タイミングを計るように待ったシャチは、カナデの深呼吸が終
わると、腰をゆっくり前に出した。
グッ、ググッ…、と圧迫感。次いで先走りでヌルヌルになったそれが、肛門を押し広げる感覚。
「そら、そっちからケツ出して飲み込んでみろォ」
ほぐす時間がやや短かったので、シャチは無理に突っ込むのではなく、カナデに受け入れさせる事にした。こういうのは大好
きである。相手に積極性を強いるプレイが。
太い逸物を受け入れるため、意識して脱力に努めるカナデは、きつく目を閉じながら、尻をシャチの腰に近付けて、自ら挿入
されてゆく。
ズッ、ズズズッ、ミリッ…、ップ…。ズププッ…。
ふぅふぅと口を尖らせて息をしながら耐えるカナデは、シャチの凶器的な肉棒をゆっくりと飲み込んでゆき、時間をかけて根
元まで挿入させた。太くて熱い、脈打つそれを飲み込んだ下っ腹は、ギュウギュウになって窮屈だった。
「は、入ったかナ…?」
「おォ、奥までズッポリだぜェ、グフフフフ!じゃあ…、いくぜェ!」
ズリュ…と一度下がったシャチの腰が、先端だけ残して逸物を抜き、間髪入れずに突き込む。
「んぉ…!」
零れかけた声を飲み込むカナデ。初っ端から最大のストロークで叩き込まれ、内臓が腹の中で踊るかと思うような衝撃が肩ま
で突き抜けた。
「グフフ!良い具合だぜェ!そォら!」
「んぐっ!」
再び大きく抜かれ、最も奥まで一気に突かれる。それが幾度も休まず繰り返される。乱暴…では確かにあるのだが…。
(う、上手いんだよナ…!)
突き方が的確だった。独りよがりの自己満足ではなく、的確にポイントをミートする腰使い。時間的に余裕がないので性急で
はあるが、シャチはそれでも雑な交尾にしない。
シャチの肉棒が腸壁を擦りながら、奥の奥まで立て続けに突き上げてくる。壁についた手に力を込めるカナデの半開きになっ
た口から、吐息と声の中間の音が、あっ、あっ、と漏れる。
何度も突かれるその動きで、カナデの肉付きが良い体が前後に弾む。自重で下がってゆさゆさ揺れる豊満な胸と大きな腹に、
シャチは下から手を添えて抱える格好になると、突き上げながらも揉み、摩り、愛撫する。
休みの無い前後動作は十分以上にも及び、汗だくになったカナデの股間では、硬くそそり立った肉棒の先からタラタラと透明
な雫が滴り落ちる。
上気するカナデの息がいよいよ熱を帯び、喘ぎが漏れて来ると…。
「そろそろイくぜェ!同時にフィニッシュだァ!」
シャチの右手がカナデの股間で陰茎を握り、腰で突き上げながらしごき上げる。
「………!!!!」
歯を食いしばったカナデが、ブルルッと身震いすると…。
「そォら!」
声を上げたシャチが一層深く突き入れて、背中を筋肉で膨らませた。
ドブッ、ドブリ、ドブッ…。
繰り返し注ぎ込まれる精液が、カナデの腸を満たした。下腹部が膨れ上がるような錯覚は、正に孕まされたというに等しい。
ブルブル震える大狸の陰茎は、まるで絞り出されるようにダラダラと、丸々した鈴口から体液をしたたらせた。
「ぷっ…は…!」
身震いしながら一度止まった呼吸を再開させたカナデの眼前では、チラチラと星が舞っていた。壁に手をついて踏ん張る格好
から、このまま膝を折って休みたくなる。脳天まで突き抜ける絶頂、頭の芯が蕩けそうな快楽と興奮の余韻、満足感と脱力感、
疲労までも心地良い。
(またお腹タポタポにされたよ…)
下っ腹が張っているような感覚。まだ繋がったままのシャチは余韻を楽しみながら、カナデの右耳を甘噛みしつつ、舌で耳の
内側まで舐める。ジュボリジュボリと、騒音にも似た湿った音とこそばゆさに、大狸は鳥肌が立ってしまう。
「余韻を噛み締めて、一杯煽って横になってじっくりピロートークと行きてェとこだが…、グフフ!今は我慢だなァ…!」
ひとまず満足したらしいシャチが耳元に囁く。同感ではあったし休みたいのも確かだが、そうも言っていられないので、「ま
たの機会にでも、ネ」とカナデは肩越しに手を伸ばし、シャチの頭に乗せて軽く撫でた。
「おっと、まんざらでもねェかァ?グフフフフフ…!」
「良かったよ。こういうトコは嘘ついても意味ないしナ」
「それじゃァ…」
もう一発どうだ?と言いかけたシャチの目の間を、頭から降りて来たカナデの手がなぞって、指先で鼻先をチョンとつつく。
「ただし調子に乗る相手には、褒める機会を選ぶけどネ」
「グフフフ!まァ良い、今は満足したからなァ!具合、良かったぜェ?グフフッ!」
「あ!ちょ、ちょっと押しちゃダメだよ!漏れちゃうからナ!」
腹の感触が気に入ったのか、両手を回して下から揺すって弾ませるシャチに、カナデは慌てて抗議して…。
「もどったよー!」
ピタリと、ふたりの動きが止まった。
意表を突いた声でクルンッと首を巡らせれば、そこには水汲みを終えて戻った老人と孫の姿。
「あれ?」
チーニュイはパチパチと瞬きしていたが、目を真ん丸にしているルーウーは、孫娘の顔を後ろから挟むようにしてペタンと両
眼を塞ぐと、そのままユーターンして洞窟の曲がり角の向こうへ…。
(マジかァ。気配全然なかったぜェ?本人だけじゃなく傍に居る孫まで察知できなくなんのかよォ?おっかねェなァ仙人)
そんな事を考えて感心しているシャチだが…。
(あああああああああああああああ…。やっちゃったよぉおおおおおお…)
カナデは白目を剥いて真っ白になっていた。
「あれ?どうしたんですか?ふたりとも中に居なかったんですか?」
洞窟入り口の辺りから、ホンスーの戸惑うような声が聞こえてきた。
「ゴメンねーカナデ。着替え中だってわかんなかったから」
鍋を火にかけてインスタントラーメンを茹でているカナデは、隣に屈んだ狐の娘の言葉に、曖昧な苦笑いを返す。
「普通は着替えとか裸、あんまり見ちゃダメなんだ?気にした事なかったけど」
あれからチーニュイは、カナデとシャチが裸だったのは着替え中だったからで、あれはシャチがカナデの背中を拭いてやって
いたのだとルーウーに説明され、それを素直に信じた。引き返してきた二人を怪訝な顔で見ていたホンスーも同様である。
(心がチクチクするよ…!)
上手く誤魔化して貰えたが、年端も行かない少女に、見せるべきではない光景を見せてしまった。そんな負い目と気まずさに
胸を締め付けられるカナデ。チーニュイ本人に対してもそうだが、孫娘にいかがわしい物を見せてしまった事をルーウーに対し
ても申し訳なく思ってしまう。
なお、ホンスーもルーウーの説明を鵜呑みにしており…。
(年頃の娘さんに裸を見られるのは、やっぱり何処の国のひとも恥ずかしいんだろうな…)
と、カナデの気まずそうな態度を恥ずかしさ故の物と勝手に解釈していた。
そして、原因であるシャチは…。
「伴侶とかそんな御立派で堅苦しいもんじゃねェ」
人の背丈ほどの高さがあるテーブル状の岩に腰掛け、隣のルーウーに説明していた。
「腐れ縁のセフレだァ」
―せふれ―
言葉は勿論、その概念自体が判らないルーウーは、少し考え…、
―相判った せふれ 当世では そう呼ぶ物也―
友人以上恋人未満の関係に対する呼称と解釈した。もちろん全然判っていない。
「しかし意外だぜェ。同性愛やら何やらに厳しいこの国の近代風習…はアンタにはあんまり関係ねェにしても、仙人様が男同士
の乳繰り合いを非難しねェとはなァ。グフフフ」
そんなシャチの言葉に、老いた剣牙虎はたっぷりした顎を引いて頷く。深い理解を示す仕草だった。
―元々 この国より 古くまで 遡りし 国々には 同性間の 愛情を 禁ずる 法も 思想も 在らざる也―
老人は太い人差し指を立て、思い出したように告げた。哀帝という例もある、と。
―何より 身共にも 他より一層 親しき友が かつては在った ひとに入れ込む 友の姿に 嫉妬もした あれは 身共に
執着 在ればこそ也―
シャチが興味深そうに「へェ」と老虎の横顔を見遣る。ひとに入れ込んだという表現から、相手もおそらく仙人なのだろうと
察しが付く。
「どんなヤツだァ?元気にしてんのかァ?」
そんなシャチの問いに対し、ルーウーは判らぬというように首を横に振った。
―昔の事 過ちの 責を問われ 放逐されし 我が友は 海の彼方へ 旅立てり―
友が去った海の彼方を思うのか、それとも昔を振り返っているのか、ルーウーは遠くを見る目になっていた。シャチが「帰っ
て来ねェのかァ?ソイツ」と問うと、老いた虎は首を横に振る。
―桃源郷の 同朋達が掛けし 禁が解けねば 大陸の土を 踏む事叶わず―
「禁?何か条件があんのかァ」
―然り あれより 今日に 至るまで 骨は折ったが 未だ 成らざる也―
どうやら帰郷を禁じられているその友の為に、ルーウーも手を尽くしたらしい事をシャチは悟る。あるいはこの老人が、仙人
が住まうはずの「桃源郷」を出て下野している理由も、その辺りに絡んでいるのかもしれない、と。
「グフフフ…!狙い以上の、絶対釣り上げられるレベルじゃねェ大物と出くわしちまって、さァどうしたモンかと考えてたが…。
アンタ意外と話せるクチじゃねェかァ?グフフフフ!」
ルーウーの丸みを帯びた背中をパンパン叩くシャチ。だいぶ気安いが老人は咎めない。
悪党ではあろう。悪人ではあろう。そしてまっとうな人ではなかろう。だがそんな違いや在り方すらも、ルーウーにとっては
些細な差。シャチもまたこの老虎から見れば、今を生きる人々の中のひとりという認識である。
「さァて、そろそろ朝飯ができる頃…」
―カナデの ラーメン まこと 美味也―
腰を上げようとしたシャチは、しかし一瞬静止し、首だけを素早く巡らせてある方向を注視する。
気配もなく、いつそうしたのかも判らなかったが、ルーウーは岩の上で直立している。
ふたりの目は、地平線をじっと見ていた。
列を成し、何かが迫っている。それは獣が駆けるような速度で…。
「仙人、反応、確認」
先頭を駆ける兵士が呟く。脇に抱えたライフルを、疾走しながら構え、銃口をブレさせずに「標的」へ向ける。
覗かれていないスコープの中心には、遥か彼方の岩の上に立つ、でっぷり太った大柄な老虎が捉えられていた。
「仙人、反応、確認」
「仙人、反応、確認」
四十以上の僵尸兵達の一群が次々と声を上げる。
『抹殺。抹殺。抹殺。抹殺。抹殺。抹殺。抹殺。抹殺。抹殺。抹殺。抹殺。抹殺。抹殺。抹殺。抹殺。抹殺…』
声を揃えて繰り返す彼らの額の金属は、一様に元の鈍色から紫がかった金属色に毒々しく変色していた。
昨夜とは違う。僵尸兵達は同士討ちする事も無く、無駄な戦闘を行なう事も無く、一個の群体として行動している。
彼らに異常をきたさせたモノが、より濃く塗りこめられて、一色に揃えさせていた。
『仙人、抹殺』